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2016年6月29日 (水)

D.ヴンダーリヒ(1969/1979).「カール・ビューラー『言語理論』の基本原理」(植田康成(訳))を読む(『千葉大学人文研究』)

ビューラーの言語理論における4つの公理と、彼が公理とは名づけなかったもののそれに近いものとして二場理論と二重フィルター・モデルが解説されています。先日まとめたビューラーの言語理論の理解を確かめるために読みました。ただし、いきなりこの論文を読んでも、ビューラーの言語論を理解することは難しいように思いました。あくまでも、ビューラーの『言語理論』を読んだ後で読むことをお勧めします。

ヴンダーリヒ,D.(1979).「カール・ビューラー『言語理論』の基本原理」(植田康成(訳)).『千葉大学人文研究』,8,51-70.(原著は1969年出版)

概要

著者はまず、ビューラーの研究アプローチ(公理を直感的に提示するという方法)と彼の伝記的情報(トゥルベツコイが彼をプラーグ学派へ引き入れる前は、心理学のヴュルツブルク学派に属してヴントと論争したこと、アメリカに渡ってからは行動主義心理学の隆盛に失望して表立った研究活動を行わなくなったこと、など)に触れます。そして、4つの公理(オルガノン・モデル、抽象の有意義性、四場図式、二集合体系)についてそれぞれ解説しています。なお記事ではこれらの公理については割愛したいと思います。関心がおありの方は以下の記事をご参照ください。http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2016/06/k19341983-d996.html

なお、オルガノン・モデルの解説の箇所では、A.ガーディナー、F.カインツによるオルガノン・モデルの修正案も取り上げられています。しかしながら、著者はこれらの試みには問題点があるとして批判しています(具体的な議論についてはこの論文を直接ご参照ください)。著者は、唯一R.ヤコブソンの6言語機能モデルがその発展形として有効であるとしています。

また、同じくオルガノン・モデルの解説の箇所で、このモデルはあくまでもパロールのモデルであるため、叙述機能と論理学的な意味での表示機能とは混同してはならないという点も述べられていました(例えば、「君は来るか、こないかである」というトートロジーは、発話においては様々な意味を持ちうることがその証拠として挙げられています)。

次に、著者は二場理論について解説します。ビューラーによると、記号が具体的な場面で意味を持つためには、指示場(状況のコンテキスト)と象徴場(言語上のコンテキスト)による助けが必要になります。その際に、当然「指示」ということが問題になるのですが、ビューラーは「指示」には、明視的指示(いわゆる直示)、想定上の対象指示(物語やフィクションなど虚構世界等を対象とした指示)、反復指示(言語上のコンテキストを対象とした指示)、の3種類があるとします。そして、いずれのタイプにおいても「指示するためには、その指示がおこなわれるあるひとつの固定点と、その指示と関係しているもうひとつ別の点が必要である」(p. 65)という考えを提示しています。これが二場理論と呼ばれるものとなります。著者は、代名詞、位置の副詞、時の副詞などを例にしながら解説しています。

最後は二重フィルター・モデルです。これはビューラーの形態心理学的態度を成すものであり、C.フォン・エーレンフェルスによる「全体は、その部分を足したものよりも大きい」という考えに対抗したものとなっています。ビューラーは、例えば複合語や隠喩などにおいては2つの構成要素が一緒に現れますが、それらは互いに修正しあったり、意味を削除したりする、と述べています。ただし、著者はこの考えは非常に重要ではありますが、問題も多いとしています(はたして本当に意味は削除されると考えてよいのか、など)。

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2016年6月28日 (火)

R.Jakobson(1960).「Closing Statement: Linguistics and Poetics」を読む(T.A.Sebeok(編),『Style in Language』,The MIT Press)

再読になります。詩学は言語学の重要な一領域であり、言語の詩的機能を排除した言語研究は成立しないことが主張された非常に有名な論文です。

Jakobson, R. (1960). Closing statement: Linguistics and poetics. In T. A. Sebeok (Ed.), Style in language (pp. 350-377). Cambridge, MA: The MIT Press.

概要

この論文では、以下の点が議論されています。

(A) 言語学における詩学の重要性

(B) 6言語機能モデルの解説

(C) 詩学が言語学の一分野であることの例証

●言語学における詩学の重要性

著者は、詩学という学問領域を次のように特徴づけています。

"Poetics deals primarily with the question, What makes a verbal message a work of art? Because the main subject of poetics is the differential specifica of verbal art in relation to other arts and in relation to other kinds of verbal behavior, poetics is entitled to the leading place in literary studies." (p. 350, emphasis in original)

"Poetics deals with problems of verbal structure, just as the analysis of painting is concerned with pictorial structure. Since linguistics is the global science of verbal structure, poetics may be regarded as an integral part of linguistics." (p. 350)

"In short, many poetic features belong not only to the science of language but to the whole theory of signs, that is, to general semiotics. This statement, however, is valid not only for verbal art but also for all varieties of language since language shares many properties with some other systems of signs or even with all of them (pansemiotic features)". (p. 351)

このように、詩学は言語学の一領域であり、かつより広く記号学の一領域である点が確認されます。さらに、言語学同様に、詩学ないしは文学研究は共時的アプローチと通時的アプローチの双方を組み合わせる形で進めていく必要があると指摘されています。

●6言語機能モデルの解説

この部分はあまりにも有名であり、多くの解説本が出ているため、いくつか重要な点のみ列挙しておきたいと思います。

  1. contextについては "either verbal or capable of being verbalized" (p. 353) とされています(のちに、Hymes(1962/1968)は両者を分けて7言語機能モデルを提案しました)
  2. "Poetry and metalanguage, however, are in diametrical opposition to each other: in metalanguage the sequence is used to build an equation, whereas in poetry the equation is used to build a sequence." (p. 358)

また、一連の言語機能について説明し終わった後に、改めて詩学は言語学の重要な一分野であることが確認されています。

"To sum up, the analysis of verse is entirely within the competence of poetics, and the latter may be defined as that part of linguistics which treats the poetic function in its relationship to the other functions of language. Poetics in the wider sense of the word deals with the poetic function not only in poetry, where this function is superimposed upon the other functions of language, but also outside of poetry, when some other function is superimposed upon the poetic function." (p. 359)

●詩学が言語学の一分野であることの例証

著者は、ここまでの理論的な主張の具体例として、様々な文化圏の文学作品を例にしながら、詩における様々な現象が言語学と大きく関係していることを示していきます。具体例を大まかに分けると次のようなものが挙げられています。

  1. 作詩法における音韻レベルの文彩(pp. 359-367):詩に見られる様々な音的等価性は、その言語の音韻的特徴と密接に関わっている。
  2. 音韻上の等価性と意味の関係(pp. 367-370):"Briefly, equivalence in sound, projected into the sequence as its constitutive principle, inevitably involves semantic equivalence, and on any linguistic level any constituent of such a sequence prompts one of the two correlative experiences which Hopkins neatly defines as "comparison for likeliness' sake" and "comparison for unlikeliness' sake."" (pp. 368-369) 詩脚、頭韻、脚韻などを例に挙げています。これらは平行性が凝縮した例と考えられています。
  3. 意味単位による等価性の形成(pp. 370-374): "In poetry where similarity is superinduced upon contiguity, any metonymy is slightly metaphorical and any metaphor has a metonymical tint" (p. 370) 著者は、このような特質から詩は曖昧になり、曖昧性の工夫は詩の根本と関わると述べています。また、詩における話者と受け手の重層性の問題とも関わるとしています。著者は次のように述べています。"The supremacy of poetic function over referential function does not obliterate the reference but makes it ambiguous. The double-sensed message finds correspondence in a split addresser, in a split addressee, and besides in a split reference ... The repetitiveness effected by imparting the equivalence principle to the sequence makes reiterable not only the constituent sequences of the poetic message but the whole message as well. This capacity for reiteration whether immediate or delayed, this reification of a poetic message and its constituents, this conversion of a message into an enduring thing, indeed all this represents an inherent and effective property of poetry." (p. 371)
  4. 詩の音声分析においては、その言語の音韻的特徴や全体的コード以外にも詩の慣習においてどのような言語的特徴が詩的弁別に利用されているかという点を考慮しなければならない(p. 374)。
  5. 統語的構造における詩的特徴、すなわち詩の文法(pp. 374-377):この特徴は実際に気づきにくく、これまで研究者によりあまり扱われてきていない。しかし、そこにも等価の原理が機能している(統語的連続の中に相似性が確認できる)。

なお、この論文には和訳があります。
ヤーコブソン, R.(1973).「言語学と詩学」(八幡屋直子(訳)).In 『一般言語学』(川本茂雄(編),pp. 183-221).みすず書房.(原著は1960年出版)

また、Hymesによる7言語機能モデルは以下の論文で示されています。
Hymes, D. H. (1968). The ethnography of speaking. In J. A. Fishman (Ed.), Readings in the sociology of language (pp. 99-138). The Hague: Mouton Publishers. (Original work published 1962)
http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2009/01/hymes-19621968.html

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2016年6月24日 (金)

K.ビューラー(1934/1983).『言語理論:言語の叙述機能上巻』(脇坂豊・植木迪子・植田康成・大浜るい子(訳))(第Ⅰ部:言語研究の諸原理)を読む(クロノス)

再読です。オルガノン・モデルが明示された研究として非常に有名ですが、反面恐ろしく難解な文献です。著者はフッサールによる言語の基本構造に関する論考に強く影響を受けているようで、様々な箇所で言及されます。

ビューラー,K.(1983).『言語理論:言語の叙述機能上巻』(脇坂豊・植木迪子・植田康成・大浜るい子(訳)).クロノス.(原著は1934年出版)

概要

著者は、本章の冒頭で、あらかじめ公理を立てて言語を研究することの妥当性を説明します。そして、具体的に4つの公理を説明していきます。

●言語のオルガノン・モデル(公理A)

著者はこのモデルについて次のように説明しています。なお、具体的な図については、本書ならびにその他の言語学の文献を参照下さい。

「中央の[点線]円は具体的な音響現象を象徴している。その現象における可変的な三つの契機には、三通りの仕方でその現象をひとつの記号の地位にまでたかめるような役目が与えられている。三角形は一方では円周が包含するものよりも狭い(抽象的有意義性の原理)。別な観点からではしかし、その円からはみ出ていて、感覚的に与えられたものが常に統覚的な補足をうけることを暗示している。直線群は(複合的)言語記号の各々の意味機能を象徴している。それは対象と事態にたいする関係づけによるときは象徴記号Symbolであり、送り手の内的なものを表出しその送り手に従属する結果、症候Symptom(指標Anzeichen、Indicium)となる。また聞き手にたいして呼びかける結果、その外的または内的な対応を制御する信号Signalとなっているがこれは他の交通信号にも見られる。」(pp. 32-33)

著者は、1918年に自身が書いた論文で「人間の言語の働きは告知、喚起、叙述の三通りである」と述べていますが、本書では「表出」「呼びかけ」「叙述」に用語を変えたとのことです。そして、これら3つの言語機能に関して、おそらくはJakobsonのdominantという考えを念頭におきながら、「言語音声の基本的な三つのかかわり方のうちのひとつが交互に前面に現れるという、たんなる優位現象が存在している」(p. 38)と述べています。なお、ここで著者は叙事詩や抒情詩に言及し、それらは3つの機能の働き方の違いによってその差異が生じているとしています。

また、本書のタイトルにあるように、著者は叙述機能を特別視しており、表出機能と呼びかけ機能に対して優位性を認めています。

●言語の記号的性格(公理B)

著者は言語現象とは記号的であるという立場に立っています。著者は、音素は標識、音形象の判別記号(「音韻的な人相書」(p. 40))、対象記号(ひとつの事物あるいは事物の集合を代表するという働き)、場の価(発話されることで発話状況の中で一定の「位置」を獲得すること)、といった4つの特徴を持つことに言及しながら、言語現象とは多面的で多層的な記号形成体とみなす必要があると述べています。

さらに、言語の記号的特徴を説明する中で、「何かの代わりになる」という特質や記号を物理的事象(音声学的現象)と同一視してはいけない(音韻論的現象とみなさなければならない)といった点も説明されています。後者については、記号とは物理現象を何らかの形で抽象化しているものであるとしています。このことは、「抽象的有意義性の原理」と呼ばれていますが、植田(1984)は、この概念を「具体的な音声素材のすべてが、記号作用にとって有意味であるというわけではない。そしてまた、ありうる音声素材のすべてが有意味なものとして言語記号の構成のために利用されているのではなく、言語によって何を有意味なものとしているかは異なるということ、これが抽象の有意義性の原理の意味しているところである。」(p. 239)と解説しています。

●発話行動と言語所産;発話行為と言語形成体(公理C)

著者は言語には4つの側面があり、それぞれを研究しなければならないと述べます。著者は、縦にI、II、横に1、2という数字を配列したクロス表を作成し、これら4つの言語の側面を配置しています。

なお、「I」は主体と関わりをもつ現象、「II」は主体から離れた間主体的現象、「1」は形式化の低い現象、「2」は形式化の高い現象、を指します。

I-1には発話行動(発話という具体的な行動)、I-2には発話行為(意味する行為、意図する行為、抽象化する行為など、言語や発話行動を可能にする行為)、II-1には言語所産(発話行動で産出された言語表現)、II-2には(個々の言語表現の背後に存在すると仮定されるラングなどの抽象的な言語体系)、が位置づけられています。

著者は、発話行動や発話行為(もちろん現在の語用論の意味とは異なります。むしろ、それは発話行動と関わると考えられます。)といったものを言語研究で扱うべきと述べており、非常に先進的であると思います。

また、言語による叙述は必ず意味の不確定性を含んでおり、それは実際の談話において完結される、という指摘も非常に重要だと思いました(pp. 77-78)。

●語と文、言語の象徴場体系(公理D)

著者は、言語には語(象徴)と文(場の体系)という相互に関連する2つの層があり、これが他の記号体系と人間の言語を隔てる大きな特徴となっていると述べます。そして、これら2つの層があるがゆえに、言語は叙述という機能を果たすことができると述べています。著者は、これら2つの層について次のように述べています。

「言語のようなタイプの体系ではそれぞれの完成された(状況から解放できる)叙述は抽象的に区別すべき二段階を踏んで組みたてられている。不明瞭であり誤解をうけやすいが、手短に表現してみると、それは語の選択と文の構造である。一方では言語形成体の第一の集合およびそれに付属する規則がある。それはあたかも世界を破片に切り刻み、あるいは物やできごとなどの集合に分類し、あるいは抽象的な契機に分解してそのそれぞれにひとつの記号を与えるかのように働く。それに対して第二の集合は、その同じ世界(表現すべきもの)を一貫して構成するために、相関性に従って記号的手段を供給しようと心がけている。」(pp. 86-87)

著者は、人間の言語はこのような仕組みになっているために、限られた言語的資源を用いて限りなく多様なものを十分に区別して厳密に表現することができるとしています(pp. 89-90)

なお、本書の下巻には、原著の第2版にあるF.Kainzによる解説も訳出されています。その中で、オルガノン・モデルに第4の機能として質問機能を与えようとする動きがあったことが紹介されています(下巻、pp. 212-213)。文学理論では、第4の機能と言えばJ.Mukařovskýによる美的機能なのですが、このような動きがあったということは初めて知りました(私の不勉強です)。なお、ビューラー自身は、質問は呼びかけ機能の中に位置づけているとのことです。

ビューラーのオルガノン・モデル自身は、比較的多くの文献で説明がされていますが、もう少し広く彼の言語論を扱っている日本語か英語の文献は私の知る限りあまり多くありません。もちろん本書を直接読めばよいのですが、最初にも述べたように相当に難解な本です。書籍として出版されているものは、私の知る限り以下のものしか知りません。関心のある方はどうぞ手に取ってみてください。

ヴンダーリヒ,D.(1979).「カール・ビューラー『言語理論』の基本原理」(植田康成(訳)).『千葉大学人文研究』,8,51-70.(原著は1969年出版)
輿水実(1966).『言語哲学』(新版).明治図書.
Innis, R. E. (1982). Karl Bühler: Semiotic fundations of language theory. New York: Plenum Press.

また、本書の訳者のおひとりでもあられる植田康成先生(先生ご自身は覚えておられないかもしれませんが、文学の経験的研究関連で、直接何度かご指導いただきました)はビューラー研究の第一人者であられ、多くの論文を執筆されています。

なお、この本の英語版としては以下のものがあります。
Bühler, K. (1990). Theory of language: The representational function of language (D. F. Goodwin (Trans.). Amsterdam: John Benjamins. (Original work published 1934)

また、ビューラーの『言語理論』成立までの道のりと関連文献をまとめた研究として以下のものがあります。上記の「抽象的有意義性の原理」の解説もこの論文からの引用になります。
植田康成(1984).「カール・ビューラー『言語理論』成立の道のり―言語の機能モデルの発展を軸として―」.『広島大学文学部紀要』,44,226-253.
→この論文では、ビューラーが社会的接触ということを中心として言語(及び言語の起源)を考察しようとしていたこと、文理解においては聞き手は自ら情報を補わなければならないと考えていたこと、など言語学史においても非常に興味深い点が指摘されています。

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2016年6月23日 (木)

J.ムカジョフスキー(1938/1982).「詩的な意味表現と言語の美的機能」(平井正・千野栄一(訳))を読む(『チェコ構造美学論集 美的機能の芸術社会学』,せりか書房)

再読になります。K.Bühlerのオルガノン・モデルの不足点として、美的機能が加えられています。

ムカジョフスキー,J.(1982).「詩的な意味表現と言語の美的機能」(平井正・千野栄一(訳)).In 『チェコ構造美学論集 美的機能の芸術社会学』(pp. 57-72).せりか書房.(原著は1938年出版)

概要

この論文では次の点が議論されています。

(1)詩的意味表現と伝達言語の違い

(2)美的機能について

(3)作品と現実との関係

●詩的意味表現と伝達言語の違い

著者は、「詩的な意味表現はまず第一に、措定された現実への関係によって規定されるのではなく、それがコンテキストの中にはめこまれる、そのはめ込まれ方によって規定される」(p. 61)と述べ、さらに(おそらくJakobsonのdominantという概念を意識しながら)次のように述べています。

「言語記号の内的構成は、詩的言語と伝達の表現とでは、著しく異なっている。ということは、伝達の表現においては、注意は特に意味表現と現実との間の関係に集中するが、詩的言語においては、意味表現とそれを取り囲むコンテキストとの結びつきが、前面に出てくる。このことはしかしながら、伝達の意味表現がコンテキストの影響を全く免れるとか、逆に詩的な意味表現が、その現実への関係から全く解き放たれているとかいうことを意味してはいない。ここで問題なのは、いわば、重点の移動だといったらよかろう。現実への直接的関係の現象によって意味表現から詩的な表現の仕方がつくられる。それゆえ詩的表現は(詩的表現そのものとして把握される限り)、伝達の表現の真正性に当てはまる基準によって判断することはできない。すなわち、詩的虚構は、意識的あるいは無意識的に間違いを犯す「妄想」とは、認識論的に全く異っている。詩的な意味表現の価値は、作品の全体的意味構成において果たしている役割によってのみ、与えられるものである。」(pp. 62-63)

●美的機能について

著者は詩的表現を分析する際には、K.Bühlerのオルガノン・モデルでは触れられていない第4の機能とでも言える美的機能が問題となってくるとして、次のように述べています。

「この機能は言語記号の構成そのものを関心の中心に置くのに対し、最初に挙げた三つの機能は、言語外の段階、および、言語記号を超える諸目標に向かう傾向を持っている。最初の三つの機能の媒介によって、言語の使用は実際的な意義を獲得する。第四の機能はこれに反し、言語を実際の活動との直接の関連から切り離す。この機能は美的機能と呼ぶことができる。この機能と比べて他のすべての機能は、一括して実際的諸機能と呼ぶことができよう。美的機能の記号そのものへの集中は、美的諸現象に固有である自律性の直接的な帰結として現われる。…詩においては現実に対する意味表現の関係は、それを取り囲んでいるコンテキストとの関係の比較において背景へと退くが、この移行は、記号そのものを関心の中心にしようとする、他ならぬ美的な意図の影響によって起る。」(p. 64)

著者は、詩的言語においては、実際的諸機能は機能しており(「すべての文学作品はそれゆえ、少なくとも潜在的には、記述でもあり、表現でもあり、訴えかけでもある」(p. 65))、同時に実際的な活動における言語においても美的機能は必ず関係していると述べています。

さらに、詩的言語と情緒的言語は、知的言語と対立するという点では類似しているものの、両者は別物であるという点も確認しています。著者は、次のように述べています。

「情緒的言語においては意味表現は、話す主体の心の状態の表現である。聞き手は意味表現によって表現された諸感情の真率さ、その中に含まれている意志の働きの諸要素の射程などを推測する。詩的言語においてはこれに反し、注意は記号そのものに集中する。ここでは話す主体の精神生活に対する記号の関係を推測することは、背景に退く。あるいは全然力を発揮しない。その実際の効力を失うことによって、感情の表現は、純粋に芸術的な事象になる。詩的な意味表現は、知的な意味表現に比べれば主観的であるが、情緒的な意味表現に比べれば客観的なものとしてあらわれ、詩的な意味表現はそれゆえ、両者のいずれとも重なり合わない。そこでわれわれは、詩的な意味表現とは、それがどのような側面から見られようとも、常に自律的記号として現われるという結果に、改めて到達する。」(p. 67)

●作品と現実との関係

著者は、詩作品は伝達の言語とは異なった方式で現実と関わると考えています。著者によると、作品内の個々の意味表現ではなく、作品全体によって表現される高次の意味表現が現実と強固な関係を持っているとしています。こういった高次の意味表現は、「特定の現実を指し示すだけではなく、個人と集団の意識の中に反映しているあらゆる種類の現実をも指し示すので、現実に対する詩の関係は特に著しいものがある」(p. 70)と述べられています。

著者によると、「高次な意味表現の現実との関係」と「個々の意味表現の現実との関係」は相互対極的であり、一方が支配権を取ると、他方が後方に退くという関係になっているとのことです。詩においては、前者の関係が支配的になっており、伝達的な言語では後者が支配的になっていると考えられています。ただし、詩においても当然後者の関係も関連していますし、伝達の言語においても前者の関係が全くないというわけではないことには注意が必要です。

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J.Mukařovský(1932/1964).「Standard Language and Poetic Language」を読む(P.L.Garvin(編訳),『A Prague School Reader on Esthetics, Literary Structure, and Style』,Georgetown University Press)

この度再読しました。文学性に関する議論においては、非常に有名な論文です。詩的言語における前景化といった問題が考察されています。

Mukařovský, J. (1964). Standard language and poetic language. In P. L. Garvin (Ed. & Trans.), A Prague School reader on esthetics, literary structure, and style (pp. 17-30). Washington DC: Georgetown University Press. (Original work published 1932)

概要

著者によると、詩的言語と標準言語の関係を考えようとする際には、前者に主な関心のある研究者は両言語の違いを示そうとし、後者に主な関心のある研究者は両言語の連続性を示そうとするそうです。著者は、この論文では両言語の違いを示すという立場から両言語の関係について考察するとのことです。

この論文では以下の点が述べられています。

(1)詩的言語の特性

(2)標準言語における美の問題

(3)詩的言語と標準言語の関係

●詩的言語の特性

著者は、まず詩的言語は標準言語の規範からの体系的に違反をしたものであるという見解を示しています。つまり、逆に言えば、詩的言語は標準言語の規範にかなり依存したものであるとされます。

"The violation of the norm of the standard, its systematic violation, is what makes possible the poetic utilization of language; without this possibility there would be no poetry. the more the norm of the standard is stabilized in a given language, the more varied can be its violation, and therefore the more possibilities for poetry in that language. And on the other hand, the weaker the awareness of this norm, the fewer possibilities of violation, and hence the fewer possibilities for poetry." (p. 18)

次に、詩的言語は標準言語とは異なり、前景化という機能を果たしているとして次のように述べます。

"The function of poetic language consists in the maximum of foregrounding of the utterance. Foregrounding is the opposite of automatization, that is, the deautomatization of an act; the more an act is automatized, the less it is consciously executed; the more it is foregrounded, the more completely conscious does it become. Objectively speaking: automatization schematizes an event; foregrounding means the violation of the scheme. The standard language in its purist form, as the language of science with formulation as its objective, avoids foregrounding [aktualisace]: thus, a new expression, foregrounded because of its newness, is immediately automatized in a scientifc treatise by an exact definition of its meaning. Foregrounding is, of course, common in the standard language, for instance, in journalistic style, even more in essays. But here it is always subordinate to communication: its purpose is to attract the reader's (listener's) attention more closely to the subject matter expressed by the foregrounded means of expression. ... In poetic language foregrounding achieves maximum intensity to the extent of pushing communication into the background as the objective of expression and of being used for its own sake; it is not used in the services of communication, but in order to place in the foreground the act of expression, the act of speech itself." (p. 19)

著者は次に、どのような時に詩的言語は前景化という機能を最大に発揮するのか考えます。著者によると、前景化する要素の多さといった量の問題ではなく、それが首尾一貫的かつ体系的になされる時に最大になると考えています。著者によると、作品内で特定の要素が支配的になり、それに応じて他の要素がその要素に従属します。また、それぞれの要素はイントネーション的、意味的、統語的、語順的、単語間的に複雑な相互関係を作り出しています。このような言語上の相互関係がかき乱された時、一部では緊張が生じ、一部は安定したままとなりますが、どの要素がどのような状態になるか、そしてそれぞれの関係がどのように変容するかはすべて作品内の支配的な要素次第ということになるとのことです。

また、前景化という機能は、これまで見てきたような標準言語の規範だけでなく、詩的キャノンとの関係にも依存しています。

"The background which we perceive behind the work of poetry as consisting of the unforegrounded components resisting foregrounding is thus dual: the norm of the standard language and the traditional esthetic canon. Both backgounds are always potentially present, though one of them will predominate in the concrete case. In periods of powerful foregrounding of linguistic elements, the background of the norm of the standard predominates, while in periods of moderate foregrounding, that of the traditional canon. If the latter has strongly distorted the norm of the standard, then its moderate distortion may, in turn, constitute a renewal of the norm of the standard, and this precisely because of its moderation. The mutual relationships of the components of the work of poetry, both foregrounded and unforegrounded, constitute its structure, a dynamic structure including both convergence and divergence and one that constitutes an undissociable artistic whole, since each of its components has its value precisely in terms of its relaton to the totality." (p. 22, emphasis in original)

また、詩の言語における意義についてもコメントしています。

"The very existence of poetry in a certain language has fundamental importance for this language. By the very fact of foregrounding, poetry increases and refines the ability to handle language in general; it gives the language the ability to adjust more flexibly to new requirements and it gives it a richer differentiation of its means of expression. Foregrounding brings to the surface and before the eyes of the observer even such linguistic phenomena as remain quite covert in communicative speech, although they are important factors in language." (p. 29)

なお、著者は詩とは単に現実世界を背景として内容(主題)が前景化されているだけであるとする立場には断固反対しています。詩においては、言語と内容は一体化しており(新聞などの標準言語では両者は分離しているとされます)、その内容の真実性は不問にされます。もちろん、主題が支配的な要素となっている作品もありますが、それもあくまでもその作品内の構造(要素間の関係)の結果としてそのようになっているだけだと述べます。作品の芸術的価値は現実との関係ではなく、その内的構造に基づいて決まるとしています。

著者は、この論文の最後で前景化について具体的に以下のように述べていました。

"From the standpoint of communicative speech, the meaning of a sentence appears as the total of the gradually accumulated meanings of the individual words, that is, without having independent existence. The real nature of the phenomenon is covered up by the automatization of the semantic design of the sentence. Words and sentences appear to follow each other with obvious nacessity, as determined only by the nature of the message. Then there appears a work of poetry in which the relationship between the meanings of the individual words and the subject matter of the sentence has been foregrounded. The words here do not succeed each other naturally and inconspicuously, but within the sentence there occur semantic jumps, breaks, which are not conditioned by the requirements of communication, but given in the language itself. The device for achieving these sudden breaks is the constant intersenction of the plane of basic meaning with the plane of figurative and metaphorical meaning: some words are for a ceatain part of the context to be understood in their figurative meaning, in other parts in their basic meaning, and such words, carrying a dual meaning, are precisely the points at which there are semantic breaks. There is also foregrouding of the relationship between the subject matter of the sentence and the words as well as of the semantic interrelationships of the words in the sentence. The subject matter of the sentence then appears as the center of attraction given from the beginning of the sentence, the effect of the subject matter on the words and of the words on the subject matter is revealed, and the determinging force can be felt with which every word affects every other. The sentence comes alive before the eyes of the speech community: the structure is revealed as a concert of forces." (pp. 29-30)

●標準言語における美の問題

著者は論文の本旨をやや脱線して、標準言語における美という問題に触れます。著者は、美という問題は詩的言語に限らず、標準言語でも問題になるとします。著者によると、美的判断は、標準言語の規範が形成される上で重要な役割を担っているとのことです。美的判断は、人間の行動全般に関わっており(恋愛、ファッションetc.)、それゆえに、当然標準言語の規範にも関わっているとされます(ただし、詩的言語での美的判断は作品内の構造に依存するのに対して、標準言語では規範に従っているかどうかで判断がされるという違いがあるとも指摘されています)。

著者によると、標準言語における美は、文学史における詩作品の構造の変化とも関係していますし、同時に洗練といった実用的な問題とも関係しています。

なお、標準言語における美の問題は以下の論文で議論が掘り下げられています。

Mukařovský, J. (1964). The esthetics of language. In P. L. Garvin (Ed. & Trans.), A Prague School reader on esthetics, literary structure, and style (pp. 31-69). Washington, DC: Georgetown University Press. (Original work published 1940)

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/mukarovsky-1940.html

●詩的言語と標準言語の関係

著者は、両者は表裏一体の関係にあると考えています。

"the condition of the norm of the standard language is not without its significance to poetry, since the norm of the standard is precisely the background against which the structure of the work of poetry is projected, and in regard to which it is preceived as a distortion; the structure of a work of poetry can change completely from its origin if it is, after a certain time, projected against the background of a norm of the standard which has since changed." (p. 27)

さらに、詩的目的で作られた表現が、作者の知らないところで、標準言語に組み込まれることもあります(ただし、標準言語の新語のように、もともと情報伝達を目的に作られているわけではありませんが)。これは借用であり、標準言語が様々な領域から表現を自らに組み込んでいっている結果であると考えられています。

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2016年6月21日 (火)

プラーグ言語学サークル(1929/1999).「テーゼ」(山口巌(訳))を読む(山口巌,『パロールの復権 ロシア・フォルマリズムからプラーグ構造美学へ』,ゆまに書房)

これは、第1回スラヴィスト言語学会において、V. Mathesius、R. Jakobson、B. Havránek、J.Mukařovskýによって提出されたプラーグ言語学派の討議資料となります。この度、読み直しました。

プラーグ言語学サークル(1999).「テーゼ」(山口巌(訳)).In 山口巌,『パロールの復権 ロシア・フォルマリズムからプラーグ構造美学へ』(pp. 351-381).ゆまに書房.(原著は1929年出版)

概要

10項目から構成されています。

1.言語を体系であるとする考えから導かれる方法の諸問題と、スラヴ諸語に対するこの考え方の重要性(共時的方法、及びその通時的方法との関係、構造的比較と発生的比較、言語の発達の諸事実の偶然的性格あるいは規則的な関係

  • 言語とは機能的体系であるとみなさなければならない。
  • 共時的方法と通時的方法を双方に組み合わせて研究を行わなければならない。
  • スラヴ諸語を理解するためには、異系統の言語も含めて広く比較研究が行われなければならない。
  • 言語発達は、受容する主体の性向によって規制されているということを念頭においた上で言語発達の諸事実(言語事実の伝播、原始共通語の分裂)について研究しなければならない。

2.言語体系、特にスラヴ語の体系の研究を遂行する上で当面する諸問題

  • 聴覚印象としての音声を基盤に研究しなければならない。
  • 当該言語における音韻体系(音韻的相関関係)を明らかにしなければらない。
  • 当該言語においてどのような音韻結合が可能であり、それがどのような機能を果たしているか研究しなければならない。
  • 音韻的差異が形態論においてどのように利用されているか明らかにしなければならない。
  • 機能という観点からすると、語は、命名という言語的活動の結果であり、すべての言語は固有の命名体系を持っていると考えなければならない。
  • 機能という観点から、語と語の結合や文の創造に関する理論(形式の相互関係に基づいた理論)を構築しなければならない。
  • 語及び語の結合の諸形式の体系理論としての形態論は、従来的な語構成論、形態論、統語論の区別を乗り越えた学として成立しなければならない。
  • 形態論においては、同じ意義を持つ異なる機能の形式、異なる意義を担うが同じ機能をもつ形式、それぞれを体系の中で保持しようとするという事実を説明しなければならない。

3.さまざまな機能を持つ言語の研究の諸問題

  • 内的言語活動(思考における言語の使用)と外的言語活動(他者と話す場合の言語の使用)を区別しなければならない。
  • 特定の言語表出において、その論理性と情緒性のバランスを考慮して研究しなければならない。
  • 知的言語活動と情動的言語活動はともに他人との関係において社会的な目的を持つが、後者については他者に関係なく行われることも多い(感情の放出)。
  • 言語活動と言語外的現実の間の諸関係の違いに着目すると、所記(言語外的現実)に向けられた伝達機能と記号それ自身に向けられた詩的機能を区別することができる。
  • 伝達機能をめざす言語活動においては、状況的な場合(補足的に言語外的な諸要素を考慮する場合)の実践的言語活動と、できるだけ完全かつ精密に語・辞項と文・判断を用いようとする場合の理論的言語活動(定式化の言語活動)を区別することができる。
  • 1つの機能だけが支配的な言語活動もあれば、複数の機能が交差する言語活動もあり、個々の場合における機能の様々なヒエラルキーを研究しなければならない。
  • 上記で指摘した個々の機能的言語活動は、それ自身が約束の体系(=ラング)を形成している。
  • 口頭と書写、両者の組み合わせ(途中で一方から他方に変更になる場合)、連続した独白など、どの言語的表出方法がどの機能とどの程度結びついているか明らかにしなければならない。その際、特に口頭の言語表出においては、これを補う身振りも体系的に研究する必要がある。
  • 言語活動は、話し手たちの間に存在する関係(社会的、職業的、地縁的、家族的な結合度、彼らが複数の言語集団へ帰属することから生じる言語体系の混交)に基づいて下位分類されなければならない(方言間や言語間での共通語、専門語、都市の言語的階層の分布がその研究対象)。このことは、通時言語学を行う場合も同様である。
  • 文章語の存在についても、機能的な側面(社会における役割という観点)から説明しなければならない。文章語は、民衆語と異なり、自己の語彙を拡大・修飾する(知的にする)ことがその社会的役割であり、情動的な諸要素を制限する(婉曲法を発達させる)。文章語というラングは、多義語を避け、表現手段をより精密にする。そして、社会的な言語的規範をより豊かにする。また、文章語は、特定の目的を志向した意識的な言語活動の場となり、言語改革や言語政策の影響の中に現れる。
  • 口頭による文章語の言語活動においては、文章語と民衆語の形式の混合が生じることがある。
  • 文章語は、拡張の傾向、共通語の役割を果たそうとする一方で、支配階級の独占物としてこの階級の特徴的なしるしになろうという相反する2つの傾向を持ち、それに応じて音的側面では一方で変化しようとし、一方で保守しようとする。
  • 詩の言語の共時的記述の諸原理を創り出さなければならない。
  • 詩的言語活動は、パロールの形式であり、一方では実際の詩の伝統(詩的言語)に基づき、他方では現代の伝達の言語に基づいている。詩的言語活動と、これら2つの言語体系との相互関係は非常に複雑であり、通時的観点と共時的観点双方から考察しなければならない。
  • 詩的言語活動は、競合と変形の要素を強調するが、その性格、傾向、規模は、特定の詩的言語活動が上記2つのラング(詩の伝統と現代の伝達言語の体系)とどのような関係であるのかによって、様々な形を取り、その目立ち度も異なる。
  • 詩の言語は様々な言語レベルを横断した複合であるため、同時に様々な言語レベルから研究しなければならない
  • 「詩の言語活動が記号の自律性を卓立する傾向を持つ、という理論から導かれる結論は、伝達の言語活動においては補助的な役割しか持たない、言語体系のすべての平面が、詩的言語活動のばあいには、多少とも著しい自律的な価値を持つ、ということである。これらの平面において集められた言語手段、及び諸平面の間に存在し、伝達の言語活動の場合には自動化しようとする相互関係は、詩的言語活動のばあいには、逆に活性化…する傾向を持つ。」(p. 364)
  • 詩的言語は全体(上記の2つのラング)との関係で研究しなければならない。同じ形式であっても、体系との関係で異なる機能を具現したり、異なる形式が同じ機能を具現する場合もある。
  • 音韻や文字において、日頃は利用されないような、聴覚的、運動的、画像的要素は詩の場合には活性化されうる。
  • 韻律をはじめとした詩の音的構造の諸原理は、確かに伝達の言語とは異なるものであるが、それらを解明する糸口を与えるのは音韻論だけであり、音韻論に基づいた詩的音韻論が構築される必要がある。
  • 詩の韻律や脚韻によって実現された平行性は、さまざまな言語レベルを活性化させるための最も効果的な手段であり、統語論的、形態論的、意味論的構造の一致点と相違点を際だたせることができる。それと同時に定型からの逸脱も、韻律的構造や統語的構造を強調する。
  • 「韻律的・統語的な文彩は特徴的な音調を持ち、その反復が、言語活動の慣習的な音調を変形するところの、旋律の躍動を作り出す。逆に韻文の旋律的、及び統語的な構造の自立的な価値が明らかになるのは、まさにこのことによってである。」(p. 365)
  • 詩文の語は、通常用いられないような語(新語、不純正語法、古語など)から構成されるが、これらは伝達言語の語と違って音的構成や形態的構成(特に新語の場合)を活性化し、詩の語彙の意味的ないし文体的な変化を豊かにしている。ただし、詩作における語の選択は、あくまでもそのラングとの関係が問題になり、その関係が個々の語に作用し、効果を生むことになる。
  • 詩的な活性化は統語論によって提供されるが、特にその言語の文法体系の中であまり利用されていないものが重要な役割を果たす場合がある。
  • 研究者は、過去や他民族の詩の諸事実を研究する際には、それが生起した体系の枠を回復した上で研究しなければならない。
  • 比喩や修辞的表現によってどのような機能が果たされるのか研究がされていないので、この方向での研究(詩的意味論)が進められる必要がある。
  • 文学史家が詩の言語を研究する際に、その所記を研究対象にしていたのでは、物事を大きく見誤ることになる。「他の記号体系から区別されるところの芸術の組織化の指標は、所記にではなく、記号そのものに意図を向けることである。詩文学の組織化の指標は、言葉による表現に向けられた意図である。」(p. 367)
  • これまで文学史は、詩を思想、歴史、社会、心理的な代用品とみなして研究してきたが、われわれは詩の言語そのものを研究しなければならない。
  • スラヴ諸語の詩的な使用は、比較研究にとって重要な資料を提供すると考えられるため、スラヴ諸語の比較韻律学と美音学、スラヴの脚韻の比較特徴学の確立が急務である。

4.教会スラヴ語(10~12世紀ごろまでスラヴ語の典礼に用いられた)の当面する諸問題

  • 教会スラヴ語は、文章語の歴史を司る諸原理に従って解釈されなければならない。
  • 教会スラヴ語は、すでに10~12世紀の段階で多くの地域的な異体から構成されていたことを認めなければならない。
  • 教会スラヴ語の基礎として採用した方言がどれであったのかを比較研究によって明らかにしなければならない。
  • 教会スラヴ語という名称を改め、中世教会スラヴ語とした方がよい。
  • 教会スラヴ語の現代に至る歴史は科学的に明らかにされなければならない。
  • 教会スラヴ語の諸要素がその他の体系と持っていた相互関係を明らかにし、教会スラヴ語の諸要素の歴史についても明らかにしなければならない。

5.スラヴ諸語における、音声及び音韻表記の諸問題

  • スラヴ諸語を研究するための共通の標記の諸原理を定める必要がある。

6.言語地理学の諸原理、その応用と、そのスラヴ圏における民族地理学との関係

  • 等語線を比較することで、言語的革新の中心や周縁を決定しなければならない。
  • 仮に同じ等語線内にあったとしても、複数の言語が話されている地域をその線が横断しているのであれば、その要素の機能は異なるという点を忘れてはならない。
  • 等語線で確認された事象を、その他の地理的な等象線と比較することは有益である。ただし、両者に因果関係を設定することは慎むべきである。また、比較を行う際には、地理学的な特殊な条件を常に考慮しながら比較することを忘れてはならない。
  • 言語地理学的研究の結果は、比較言語学が明らかにしてきたような言語分岐の結果と必ずしも一致しない場合が見られることも認識しておかなければならない。

7.言語地図、特に語彙の地図に関するスラヴの諸問題

  • 正確な等語語彙線に基づいた新しいスラヴ言語地図の作成に取り組む必要がある。
  • 学会の中で特別委員会を組織することで、このことは可能である(具体的な方策についてはこの記事では割愛します)。

8.スラヴ辞書学の諸問題

  • アルファベットといった外的な秩序に基づくのではなく、語彙が従っている体系をその編纂秩序とした辞書の作成を目指さなければならない。

9.スラヴ諸語の文化と批評に対する機能言語学の重要性

  • 言語文化とは、文章語が発展した形と捉えることができる(発音、正書法、命名(語彙)、統語論についてその具体例が提示されていますが、この記事では割愛します)。
  • 論理的、歴史的、民俗学的な理由からの純化主義であっても、それが誇張されたものであり、文章語の役割を損ねるようなものは言語文化の確立を損ねるため、慎むべきである。
  • 機能言語学は、数多く存在する変異体の中から文章語に最も適した要素を選び出し、文章語を構築する上で有用に機能する。

10.中等学校における、言語学の新しい傾向の使用(機能主義言語学の母語及び外国語教育への応用について)

  • 機能言語学は、現代語や文章語を研究対象にしており、母語の教授に信頼できる基盤を提供できる。
  • 中等学校での母語の学習目的は、目的と状況に従って言語手段を経済的で理性的に用いる能力、即ち特定の場合に、言語の所与の機能に最もよく適合する能力を得ることであるため、機能言語学は大きく貢献できる。
  • 言語が機能的体系であるという理解は、学校における言語現象の分類と説明に確実な基礎を与えることができる。
  • 機能言語学は、実践的な言語獲得を目指す学校教育において、母語の理論的知識がどの程度必要か、決定することができる。
  • 機能言語学の知見により、手持ちの言語手段について考え、使い方や目的への到達プロセスを知ることができる。また、知らなかった言語手段についても同様の知識を得て、複雑な言語伝達ができるようになる。
  • 文章語の能力育成に機能言語学は大きく寄与するが、それは生徒が文章語の内容理解ができるようになってから実施するべきである。
  • 様々な文体があるが、その効果はあくまでも言語活動の目的との相関で決まるものであり、文体間に価値上の優劣が本質的に備わっているという考えを生徒に持たせないようにしなければならない。
  • 民衆語と文章語の相違点について強調する必要がある。しかし、両者の共通点については、生徒に母国語についての自分の知識に対する不信を生じさせてしまう危険があるので、教える必要はない。
  • 言語体系という認識を与えることにより、生徒による意識的で目的にかなった表現と創造を助けることができる。
  • 学問的な言語研究は、言語の実践的な知識を基礎づけ、支えることができる。
  • 言語教育はあいさつ等の共通した言語(機能)から始めて、特定の専門学校でその領域で必要となる特殊な言語(機能)の習得をさせる。
  • 教科書は自分の母語と現在学習しているスラヴ語の差異を示したものとすべきである。
  • 音韻体系や文法体系の指導は、生徒の教養や校種といった要因を考慮しながら、段階的に通常の伝達と文脈においてなされなければならない。また、語彙に関しては、学んでいる言語を生徒に推測させるような形で指導を進める必要がある。
  • 自分の言語と学習している言語が「よく一致している」という意識を学習の最初の段階で植えつけないようにしなければならない。というのは、それぞれの機能はその言語体系の中で決定するのであり、見た目が同じであったとしても、その役割は言語によって異なるためである。
  • 上記のような指針に従った教科書、文典、参考書を作成しなければならない。

なお、以下の英訳があります。

Prague Linguistic Circle (1983). Theses presented to The First Congress of Slavist held in Prague in 1929. In J. Vachek & L. Dušková (Eds. & Trans.), Praguiana: Some basic and less known aspects of The Prague Linguistic School (pp. 77-120). Amsterdam: John Benjamins. (Original work puhlished 1929)
The Prague Linguistic Circle (1982). Theses presented to The First Congress of Slavic Philologists in Prague, 1929 (J. Burbank (Trans.)). In P. Steiner (Ed.), The Prague School: Selected writings, 1929-1946 (pp. 3-31). Austin, TX: University of Texas Press. (Original work published 1929)

また、詩的言語に関わる部分のみ(第3項まで)を抜粋した和訳としては以下のものもあります。

プラーグ言語学サークル(1982).「第一回スラヴィスト会議提出のテーゼ」(北岡誠司・大内和子(訳)).In 水野忠夫(編),『ロシア・フォルマリズム文学論集2』(pp. 351-378).せりか書房.(原著は1929年出版)

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2016年6月17日 (金)

V.シクロフスキイ(1930/1988).「科学的誤謬の記念碑」(桑野隆(訳))を読む(桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』,国書刊行会)

一般には、シクロフスキイがロシア・フォルマリズムの研究法を否定したものとして有名な論文です。ただし、本当に否定したのかどうかは意見が分かれており、否定しているふりをしているだけとする見解(佐藤, 1996)もあります。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2012/02/1996-09bb.html

シクロフスキイ,V.(1988).「科学的誤謬の記念碑」(桑野隆(訳)).In 桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』(pp. 302-307).国書刊行会.(原著は1930年出版)

概要

著者は、文学も階級闘争といった社会的コンテクストと関連づけて研究されなければならないと冒頭で主張します。しかし、その一方で、「形式的方法を、革命に対する反動とみなすべきではない」(p. 302)とし、研究の初期段階にあっては文学系列を他の社会系列から切り離して考えたことは有効な作業仮説であったと述べます。しかしながら、この作業仮説を固定化してしまったことは間違いであったとしています。著者は、文学体系は経済系列(これは文化形成力とみなされています)と相関して考えるべきであり、「各作品は他の作品を背景としてのみ存在するのであり、それは文学体系内においてのみ理解しうる」(p. 303)と主張します。そして、このことを考慮せずに閉じた体系として作品を扱ってしまったことは「誤りであった」(p. 303)と述べています。

また、「文学形式の発生とは、大規模な社会的過程であ」(p. 303)り、「作品とは手法の総計に等しい」(p. 304)という当初の考え方は極めて幼稚であったとも述べています。著者は、「個々の手法はすべて、たがいに相関関係にあり、文学体系全体とも相関関係にあ」(p. 304)り、同一の形式の表現であったとしてもその価値(または機能)は異なるものになるとしています。著者は、このような立場に立った上で自身が着手している研究を簡単に紹介しています。

また、文学の進化の研究については、「社会的コンテキストを考慮に入れて行われるべきである。種々の階級的な層に不均等に浸透し、そこでさまざまに再創造されている種々の文学潮流も、検討に付す必要がある」(p. 305)と述べています。著者は、文学の進化の中で、古い形式の保存と新しい形式の発生について考察しています。

古い形式については、当初の目的を失った上で、その適用範囲を変えたり、新たなジャンルに転化するといった形で(つまり、機能を変化させる形で)残っていくと考えられています。著者は「古典的作品と呼ばれているのは、それが当初めざしていた目的を失い、すっかり惰性的な形式と化してしまったものにほかならない」(p. 306)、「高次の文学のなかでこうした生命を終えた、魔法昔話や騎士冒険小説のジャンルは、児童文学や民衆文学のなかに移ってゆく」(p. 307)と述べています。

それに対して、新しい形式は「隣接する社会的系列から浸透してくる要素が惰性的な形式のなかで(そのいわば不相応な場所で)量的に蓄積される過程があったのちに、新しい形式は生まれてくる」(p. 306)と述べ、惰性的な形式(古い形式)の適用範囲を(滅ぼすのではなく)変えさせた上で、古い形式と共存していくと考えています。

そして、「文学の進化は、連続した流れや、一定の財産の継承としてではなく、相互に闘い合う形式どうしの交替、これらの交替の再解釈、飛躍、断絶等を伴なった過程として、意識されねばならない」(p. 307)とまとめています。

著者は、「文学は、社会的に影響を及ぼす諸方法からなる可変的な体系の連続性を研究するべきである」(p. 307)と述べ、フォルマリズムについて次のようにコメントしています。

「わたしにとってはフォルマリズムとは、通り過ぎてきた道であり、いくつかの段階をもはや通り抜け、あとに残してきた道でしかない。もっとも重要な段階は、文学的形式の機能の考慮への移行であった。」(p. 307)

そして、文学の進化について研究するためには、マルクス主義的方法に移行する必要があると締めくくられていました。

なお、著者は論文中で、エイヘンバウム(「形式的」という表現の曖昧さを緩和した)とトゥイニャノフ(文学的機能ないしは文学的価値といった概念を文学研究に導入した)の研究を高く評価しています。

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桑野隆(1988).「フォルマリズム論争再読-きたるべき詩学のために-」を読む(池田浩士・桑野隆(編),『講座20世紀の芸術5 言語の冒険』,岩波書店)

ロシア・フォルマリズムをめぐる論争が、フォルマリズム結成から終焉まで整理されています。

桑野隆(1988).「フォルマリズム論争再読-きたるべき詩学のために-」.In 池田浩士・桑野隆(編),『講座20世紀の芸術5 言語の冒険』(pp. 201-240).岩波書店.

概要

外部からの反論のみでなく、フォルマリスト自身の理論の変化(言語の外の体系を自身の理論に取り入れるための検討)にも触れられています。このことにより、一部のマルクス主義文学理論によるフォルマリズム批判は当を得ていないことなども指摘されていました。また、バフチンによるフォルマリスト批判について詳しく取り上げられており、ロシア・フォルマリズムの長所と限界点について分かりやすく整理されています。

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2016年6月15日 (水)

R.ヤーコブソン(1921/1988).「最新ロシア詩」(松原明(訳))を読む(桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』,国書刊行会)

再読になります。詩的言語を情動言語と区別したり、文学性を文学研究の対象に据えるといったことを行ったという点で、非常に重要な論文となります。

ヤーコブソン,R.(1988).「最新ロシア詩」(松原明(訳)).In 桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』(pp. 42-49).国書刊行会.(原著は1921年出版)

概要

著者は、現代の詩的言語について研究するためには、以下の3点を考慮しなければならないとしています。

  1. 現存する詩的伝統
  2. 現在の実用言語
  3. その事実を生じさせる詩的課題(=「文学性とは何か」という問題と言い換えられると思います)

そして、仮に過去の詩人を扱う場合には、当時の状況について上記3点を復元した上で研究を行わなければならないと言います。しかし、努力を重ねてもきわめて限られた範囲でしかうまくいかないと著者は述べています。

このような中にあって、著者はプーシキンという過去の作家をあえて取り上げ、限られた範囲ではありますが上記の3点を復元して、形式を知覚するのに困難を感じること、素材(言語)の抵抗力を感知すること、を詩的言語の重要な特徴として抽出します。著者によると、この論文が執筆された当時においては、プーシキンの言語はごくありふれたものとなってしまい、このような特徴を読み手は感じることはできなくなっていたそうです。しかし、この作家が生きていた時代にあっては、少なくとも作家自体にはこのような2つの特徴が感じられていたとのことでした。

著者は、作品に対する価値判断に捕われて研究するのではなく、詩とはどのようなものであるのかその本質(社会の中で詩的言語はどのように実用言語等と異なっているのか)を見極めることが重要なのだと考えているようです。プーシキンの例で言えば、この論文が執筆された当時の価値判断に基づいていては、彼の詩作品に垣間見られる詩の本質をとらえそこなうことになります。

そして、そのためには文学研究は過去の作家の研究に捕われるのではなく、存命中の作家を積極的に取り上げていかなければならないとしています。著者は、言語学が現代の言語に目を向けたことで成功を収めていることに言及します。著者によると、言語学は古い言語の研究だけでは言語の生きた諸作用や芽生えつつある傾向を明らかにすることができないということに気づき、様々な現代の方言研究からこのことを探ろうとしたことで進展したといいます。そして、このことになぞらえて、詩についても、現代の作家を取り上げて、詩の方言学を構築する(詩のバリエーションを明らかにする)必要があると考えています。著者は、詩的方言として以下の4つのケースがあるのではないかと考えています。

  1. 過渡的方言:ある優勢的流派からすでに一連の規範を摂取してしまったもの
  2. 前途的方言:ある優勢的流派から一定の詩的傾向を摂取しつつあるもの
  3. 混成方言:個々ばらばらの異質な事実、手法を摂取しつつあるもの
  4. 懐古的方言:過去の優勢的流派であり、現在においては保守的傾向をもつもの

また、著者は、今まさに起こりつつある文学現象として、未来派の活動に着目する重要性も訴えています。ですが、著者自身は、この運動について本格的な考察は行わず、ただ当時行われていた文学批評家による未来派の誤解について指摘し、そこから「詩とは何か」、「文学研究とはどうあるべきか」という見解を引き出しています。

著者は、マリネッティの論考を例に、批評家は未来派の本質は、「物理的世界や心理的世界の新しい事実を伝達しようとする志向」(p. 46)にあり、詩的言語とはそれらを表現する際に作品内に具現化された情動性であるといった誤解をしている(つまり、「詩的言語=情動言語」という定式化を行っている)と批判しています。しかし、著者によれば、未来派は、「規範化された剥き出しの素材としての「自主的にしてそれ自体で価値のあることば」による詩の開祖として立ち現れている」(p. 47)という点が重要なのであって、詩的課題を考察する上で極めて重要であると考えています。

著者によると、確かに情動言語と詩的言語は次の点では類似していると言います。

「言語表象(音声表象および意味的表象)はそれ自身に、より大きな関心を惹きつけ、音的側面と意味の関係はより緊密で直接的なものとなり、ことばはそのためより革命的なものとなる。というのは、習慣的な接近連合が後方に退くからである。」(p. 48)

しかしながら、両者はやはり別物であると考えています。著者によると、情動言語においては情緒が自らの法則を言語素材に押しつけ、実用言語同様に情報伝達の機能(または発話)となりますが、詩の方ではそのような機能が最低限に抑えられ、表現そのものを志向する発話となります。もちろん詩が類似言語としての情動言語の方法を利用することもありますが、それは目的あってのことにすぎないとしています(p. 48)。なお、実用言語については、著者は、客観的に与えられた感覚と知識の結果との間の差を意識しないものという定義づけを行っています(pp. 47-48)。

著者は詩とは、他の芸術(造形における視覚的表象、音楽における音、舞踏における身振り)同様に、自立的な価値を持った「自生的」なことばによる形成であると特徴づけています(p. 48)。さらに、「詩とは美的機能を生かした言語である」(p. 48)とも述べています。

このことから、さらに著者は、「文学に関する学問が対象とするのは文学ではなく、文学性、すなわち、ある作品をして文学作品たらしめるものなのだ」(p. 48)とも主張しています。しかしながら、当時の文学史家はありとあらゆるものを取り込み、学問を寄せ鍋のようにしてしまっていると述べています(著者は、当時の文学史家のことを、犯人を逮捕するためにありとあらゆる情報を活用する警官になぞらえています)。著者は、文学研究のあるべき姿として次のようにまとめています。

「文学に関する学問が真の学問たらんと欲するならば、<手法>を自分の唯一の<主人公>と認めねばならない。しかる後に主要な問題となるのは、手法の適用、正当化の問題である。(改行)情動や心的体験の世界は、詩的言語を適用するための、というよりこの場合、正当化するためのもっとも馴染み深い道具のひとつであるが、これこそ、実際には正当化も適用されえぬもの、つまり合理化されえぬものがことごとくほうり込まれる貯蔵庫なのである。」(pp. 48-49)

この論文には他にも次の和訳があります。

R.ヤコブソン(1971).「最新ロシア詩」.In 新谷敬三郎・磯谷孝(編訳),『ロシア・フォルマリズム論集 詩的言語の分析』(pp. 65-77).現代思想社.(原著は1921年出版)

なお、この論文は、原著論文の一部(第2節の途中まで)となっています。本当はもっと長く、この論文の後には、詩の言語が表現そのものを志向している事例が、その手法の解説と共に多く列挙されています。この論文全体については、以下の文献で確認することができます。

R.ヤコブソン(1982).「最も新しいロシアの詩-素描1」(北岡誠司(訳)).In 水野忠夫(編),『ロシア・フォルマリズム文学論集1』(pp. 8-193).せりか書房.(原著は1921年出版)

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2016年6月14日 (火)

L.ヤクビンスキー(1917/1988).「実用言語と詩的言語における同一流音の重なり」(服部文昭(訳))を読む(桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』,国書刊行会)

再読になります。著者は、言葉における流音(lとr)の連続に着目し、詩的言語ではそれが保存され、実用言語ではそれが消失ないしは置き換えられるということを示しています。そして、このことから詩的言語と実用言語は異なる言語であることを示そうとしています。なお、著者は流音の消去や置き換えを「音の異化」と呼んでいますが、シクロフスキーの言う「異化」とは全く意味が異なるため、混同しないように注意が必要です。

ヤクビンスキー,L.(1988).「実用言語と詩的言語における同一流音の重なり」(服部文昭(訳)).In 桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』(pp. 36-42).国書刊行会.(原著は1917年出版)

概要

著者は、実用言語で流音の重なりが禁止される理由として、次の3点を挙げています(p.37)。

  1. 実用言語で不要に話者の注意を音へ引きつけてしまう
  2. 発音をまどろっこくし、普通の話し方のテンポを乱す
  3. 実用言語にとってきわめて本質的な特徴である自動現象を破る。発音が難しく、話の始めから終わりまでずっと強く意識しつづけることを求める。

それに対して、詩的言語では、流音の重なりは全く問題とならず、むしろ「ポジティブな意味を持ち、いろいろな感情の源となる」(p. 39)としています。現に、総じて表現力に富んだ言葉には、流音の重なりが頻繁に見られるとしています。著者は、言葉の実用面の価値が後に退き、音の姿自身が重要となるため、このようなことが生じると考えています。以上のことから、「 実用言語と詩的言語とにおける流音の重なりが辿った運命によって、この二つの言語の体系がどれほど隔たったものであるかが示されている」(p. 40)と主張しています。

なお、流音の重なりは次のような場面でも見られるとしています。

  1. 擬声語
  2. その他表現力に富んだ言葉
  3. 幼児言語:意識的な努力が大きな役割を果たし、自動現象はまだ確立されていない。また、流音の重なりによるテンポの緩みは彼らの会話の歩みを妨げない。ただし、r音の重なりは、発音上の困難さが原因でほとんど存在しないようだ。
  4. 精神病患者の言語(r音が多い)
  5. ある宗派の人々の間での慣用語法:彼らは日常風俗の言葉と宗教的法悦の中で唱える文句との間に厳しい境界を引いていて、実用言語には無縁な流音の重なりはこの差を強調している。

なお、トルストイの脚韻に対する考え方に基づいて、著者がこの論文と同じ点(詩的言語では音に注意が集中され、実用言語ではそのような集中は生じないという点)を述べたものとして次のものもあります。

L.ヤクビンスキイ(1971).「詩語の音について」.In 新谷敬三郎・磯谷孝(編訳),『ロシア・フォルマリズム論集 詩的言語の分析』(pp. 59-64).現代思想社.(原著は1919年出版)

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V.Shklovsky(1917/1965).「Art as Technique」を読む(L.T.Lemon & M.J.Reis(編訳),『Russian Formalist Criticism: Four Essays』,University of Nebraska Press)

再読となります。イーグルトンは、この論文から文学理論が始まったと述べるなど、非常に有名な論文です。1914年の論文と異なり、ポテブニャー流の「文学=イメージ」という広く流布した文学観に対して、高校生レベルであると批判を行っています。

Shklovsky,V. (1965). Art as technique. In L. T. Lemon & M. J. Reis (Eds. & Trans.), Russian Formalist criticism: Four essays (pp. 3-24). Lincoln, NE: University of Nebraska Press. (Original work published 1917)

概要

著者は、詩とは次のようなものであると主張します。

"The works of poets are classified or grouped according to the new techniques that poets discover and share, and according to their arrangement and development of the resources of language; poets are much more concerned with arranging images than with creating them." (p. 7)

"a work may be (1) intended as prosaic and accepted as popetic, or (2) intended as poetic and accepted as prosaic. This suggests that the artistry attributed to a given work results from the way we perceive it. By "work of art," in the narrow sense, we mean works created by special techniques designed to make the works as obviously artistic as possible." (p. 8)

このように定義したあと、ポテブニャーの "poetry equals imagery" という考えとスペンサーの"the law of the economy of creative effort" (最小限の労力で最大限の効果をもたらすのが芸術であるという考え)の問題点を指摘していきます。前者については、ポテブニャーは思考のための手段という実用的イメージと印象を強めるための詩的イメージの2種類を区別しなかったと批判しています(ただし、ポテブニャーの理論は記号的性格を持つ(つまり自動化してしまっている)寓話の研究に対しては有効であると述べています(p. 13))。しかも、著者にとっては、詩的イメージは詩的言語における1つの手段(他の手段としては、反復法など)にすぎないとしています。また、後者の考えについては、実用言語では当てはまるものの、詩的言語では当てはまらないとしています。著者は、詩的言語について考えるには、詩的言語に固有の法則に基づいて検討しなければならないと述べています。

著者は、まず、日常生活においては私たちの知覚は自動化していると述べ、あたかも代数であるかのように、その対象が意識にのぼることがないとしています。それに対して、芸術は次のような意義(対象そのものを再び「見せる」という意義)があるとしています。

"art exists that one may recover the sensation of life; it exists to make one feel things, to make the stone stony. The purpose of art is to impart the sensation of things as they are perceived and not as they are known. The technique of art is to make objects "unfamiliar," to make forms difficult, to increase the difficulty and length of perception because the process of perception is an aesthetic end in itself and must be prolonged. Art is a way of experiencing the artfulness of an object; the object (itself) is not important." (p. 12, emphasis in original, bracket is added by the writer of this blog article)

"After we see an object several times, we begin to recognize it. The object is in front of us and we know about it, but we do not see it - hence we cannot say anything significant about it. Art removes objects from the automatism or perception in several ways." (p. 13)

そして、トルストイの作品を例に、異化の方法が挙げられています。トルストイは、特定の表現をそれが指す語で呼ばないで、初めて見たものや初めて起こったことのように書いたり、一般に認められた名称を使わずに別の名称で表現するといった技法を使用しています。馬から見た人間など非常に面白い例が挙げられていました(なお、著者は、トルストイはこの技法を否定的な事物に対してのみならず、肯定的なものに対しても用いていることを付記しています)。このような例をもとに、再度ポテブニャーの考えについて次のように批判しています。

"An image is not a permanent referent for those mutable complexities of life which are revealed through it; its purpose is not to make us perceive meaning, but to create a special perception of the object - it creates a "vision" of the object instead of serving as a means for knowing it." (p. 18, emphasis in original)

著者にとっては、やはりイメージは知覚を復活させるための1つの手段に過ぎないのであって、ましてイメージそのものを芸術と同一視するようなポテブニャーの考えには賛同できないとのことです。

なお、著者が主張するような異化の方法は官能的な芸術、さらには性器に対するモチーフなどで頻繁に使用されていることも例示と共に示されています。そして、対句法に言及し、イメージ同様に通常の知覚を新しい知覚へと変容させることがその目的であると述べています。

著者は、以下のようにこの論文をまとめています。

"In studying poetic speech in its phonetic and lexical structure as well as in its characteristic distribution of words and in the characteristic thought structures compounded from the words, we find everywhere the artistic trademark - that is, we find material obviously created to remove the automatism of perception; the author's purpose is to create the vision which results from that deautomatized perception. A work is created "artistically" so that its perception is impeded and the greatest possible effect is produced through the slowness of the perception. As a result of this lingering, the object is perceived not in its extension in space, but, so to speak, in its continuity. Thus "poetic language" gives satisfaction. According to Aristotle, poetic language must appear strange and wonderful; and in fact, it is often actually foreign: ... The language of poetry is, then, a difficult, roughened, impeded language. In a few special instances the language of poetry approximates the language of prose, but this does not violate the principle of "roughened" form." (pp. 21-22)

"In the light of these developments we can define poetry as attenuated, tortuous speech. Poetic speech is formed speech. Prose is ordinary speech - economical, easy, proper, the goddess of prose [dea prosae] is a goddess of the accurate, facile type, of the "direct" expression of a child. I shall discuss roughened form and retardation as the general law of art at greater length in an article on plot construction." (p. 23, emphasis in original)

最後に、リズムを例に、芸術における型の存在についてコメントしています。著者は、確かに「型」なるものは存在していますが、どれ一つとしてその「型」と同型のものは見られないことから、芸術においては型の破壊が本質であると考えています。

"the rhythm of prose is an important automatizing element; the rhythm of poetry is not. There is "order" in art, yet not a single column of a Greek temple stands exactly in its proper order; poetic rhythm is similarly disordered rhythm. Attempts to systematize the irregularities have been made, and such attempts are part of the current problem in the theory of rhythm.

なお、この論文には和訳もあります。

V.シクロフスキー(1971).「手法としての芸術」.In T.トドロフ(編),『文学の理論-ロシア・フォルマリスト論集-』(pp. 69-89,野村英夫(訳)).理想社.(原著論文は1917年出版、論集の原著は1965年出版)
V.シクロフスキイ(1971).「手法としての芸術」.In 新谷敬三郎・磯谷孝(編訳),『ロシア・フォルマリズム論集 詩的言語の分析』(pp. 108-137).現代思想社.(原著は1917年出版)
V.シクロフスキイ(1988).「手法としての芸術」(松原明(訳)).In 桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』(pp. 20-35).国書刊行会.(原著は1917年出版)

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2016年6月13日 (月)

V.Shklovsky(1914/1973).「The Resurrection of the Word」(R.Sherwood(訳))を読む(S.Bann & J.E.Bowlt(編),『Russian Formalism』,Scottish Academic Press)

シクロフスキーは1917年以前は、かなりポテブニャー寄りの言語観に立っていたことが分かる論文です。イメージを詩的言語の特性としてかなり意識していたようです。

Shklovsky, V. (1973). The resurrection of the word (R. Sherwood (Trans.)). In S. Bann & J. E. Bowlt (Eds.), Russian Formalism (pp. 41-47). Edinburgh: Scottish Academic Press. (Original work published 1914)

概要

著者は、詩的ないし芸術的知覚を次のように定義しています。

"If we should wish to make a definition of 'poetic' and 'artistic' perception in general, then doubtless we would hit upon the definition: 'artistic' perception is perception in which form is sensed (perhaps not only form, but form as an essential part)." (p. 42)

そして、ポテブニャーの論文を引用しながら、形式を喪失すれば、言葉は必然的に詩から散文へと変化するとしています(p. 42)。なお、言葉がイメージを失い、散文になる過程で、イメージを補う目的で形容辞が登場したとします(ただし、言葉を復活させるのではなく、あくまでも喪失したイメージを補足するのみです)。一時期は、形容辞によって言葉のイメージが蘇りましたが、結局形容辞自体も硬化してしまったとしています。

現代において、言葉を復活させるためには新たな芸術形式の創造が必然となっていると著者は考えています。著者は、"we then crumple up and break up words to make them strike the ear, so that they should be seen and not recognized" (p. 46) と述べています。 そして、更に未来主義者に言及しながら次のようにも述べています。

"And now, today, when the artist wishes to deal with living form and with the living, not the dead, word, and wishes to give the word features, he has broken it down and mangled it up. The 'arbitrary' and 'derived' words of the Futurists have been born." (p. 46)

著者は、D. N. Ovsyanniko-Kulikovskyの研究を引用しながら、詩的言語とは半ば理解不能な言語であるとして、次のように述べています。

"New, living words are created. The ancient diamonds of words recover their former brilliance. This new language is incomprehensible, difficult, and cannot be read like the Stock Exchange Bulletin. It is not even like Russian, but we have become too used to setting up comprehensibility as a necessary requirement of poetic language. The history of art shows us that (at least very often) the language of poetry is not a comprehensible language, but a semi-comprehensible one. Thus, savages often sing in an archaic or alien tongue, sometimes so incomprehensible that the singer (or, more correctly, the lead singer) must translate and explain to the choir and audience the meaning of the song he has just composed." (p. 46)

著者は、最後に象徴主義を高く評価しつつ、未来主義者をなお一層高く重要視しています。

"The realisation of new creative devices, which were also met with in poets of the past - for example in the Symbolists - but just by accident - is by itself a great undertaking. And it has been accomplished by the Futurists." (p. 47)

なお、この論文には和訳もあります。

V.シクロフスキイ(1988).「言葉の復活」(坂倉千鶴(訳)).In 桑野隆・大石雅彦(編),『ロシア・アヴァンギャルド6 フォルマリズム 詩的言語論』(pp. 13-19).国書刊行会.(原著は1914年出版)

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2016年6月 9日 (木)

柿沼伸明(2000).「ポテブニャーとロシア象徴主義」を読む(『ロシア語ロシア文学研究』)

ロシア・フォルマリズムがよく批判の対象として挙げていたポテブニャーの言語論が非常に分かりやすく解説されています。さらに、ポテブニャーの言語論がどのようにロシア象徴主義の立場の人たちに援用されたのかもまとめられています。

柿沼伸明(2000).「ポテブニャーとロシア象徴主義」.『ロシア語ロシア文学研究』,32,72-86.

概要

ポテブニャーは「言葉とは古代人の現実認識を示す生き生きとした表象を残存させた詩的な創造物」(p. 72)と主張しており、詩の創作活動及び言語芸術行為を正当化しようとしていたロシア象徴主義の人々には大変に重宝されたそうです。

著者はまず、ポテブニャーの『思考と言語』から、言語の成立過程に関する理論を解説します。ポテブニャーによると、言語は三つの段階を経て今日の形になったと考えています。

  1. ある原始人がある場面で間投詞を用い、それがその発声した個人の中で指示物と恒常的に結び付けられるようになる。そして、それが次第に社会集団の成員に共有され、もともとその間投詞を用いた場面とは全く異なるような別の場面でも使用されるようになる。この際、間投詞には感情表出の機能があり、最初はその間投詞を別の場面で使用するとオリジナルな場面で言語使用者に飛び込んできたであろう視覚的記憶を伴なう。例えば「Ax!」という音(外的形式)は、当初は「火が燃えている様」(内的形式)をイメージして、実際に「火」という内容(意味)を指す、という形で、語として機能するようになる。
  2. 間投詞から発生した語は語根となり、お互いに結合することでいまだに命名されていない物事に適用され(メタファー)、語が増殖する。この際、未知の事象が持つ無数の属性の中から1つを取り出し、それと同じ属性をもつ既知の事象に結び付ける。命名が完了すると、どのような属性が取りだされたのかが、新語の内的形式として記憶される(この段階での内的形式は第1段階での内的形式と異なり、語源的意味を指す)。
  3. 次第に内的形式(視覚的記憶、語源的意味)が薄れていき、外的形式(音)がその内容(語の内容)と直接結びつくようになる。この段階で、語はその使用者にとって音と意味が機械的・恣意的に結合した記号に変化する。かつて両者を仲介していた内的形式(表象ないしイメージ)は忘却された状態で、語が使用されるようになる。また、命名された事象自体については、様々な属性が記されるようになり、「概念」というものが成立するに至る。

なお、ポテブニャーは、古代人は未知事象を既知事象で置き換えるというメタファー思考によって世界を認識していた(ポテブニャーはそれが古代人にとって唯一可能な思考方法と述べています)とし、「暗喩の眼鏡を通して森羅万象を理解する古代人は、現代の我々からすると、詩的な世界感覚のうちに生きていた」(p. 74)と考えています。しかしながら、言語が内的形式を消失して、その代わりに概念を手にすると、人間は概念そのものの操作(概念的思考)により科学的な世界認識が可能になったとしています。

ポテブニャーは、外的形式(音)、内的形式(表象)、内容(意味)という区分を芸術作品にも適用し、外的形式(素材)、内的形式(形象)、内容(思想)、としました。文学作品の場合には、外的形式は言葉、内的形式はその作品で描かれている事柄(現代の言い方で言えば状況モデルや作品世界と言ってもいいかもしれません)、内容は構想(その作品で象徴化された思想)、となります。さらに、「芸術作品の内容は作者の意図にかかわらず受容者の意識の内部で独立に創造される。つまり、作品解釈は受容者の創造的行為」(p. 75)と考えていたそうで、非常に現代的です。また、言語の分節方式(テクスト<段落<文<語<音素)を使って構造分析をするなど、文化記号論や後の構造主義文学理論を先取っていました。

また、著者はポテブニャーの理論の援用として、以下のロシア象徴主義者を挙げています。

  1. ブリューソフ
  2. ベールイ
  3. イヴァーノフ

「民衆・民族による言語の創造と詩人による言語芸術の創作との同一視、そして、詩人は記号化した言語から喪われた表象を復活させる」(p. 83)という共通点はあったものの、かなり別様にポテブニャーの理論を使用したようです(ベールイなどは、自分の理論に都合がよいようにポテブニャーの理論を若干曲げて利用したとのことです。ですが、それと同時にベールイは、ポテブニャーの言語理論を実際に文学作品化する試みもおこなっています。)。詳細は論文を直接ご参照ください。

ポテブニャーは、「内的形式を保った言語」と「概念化した言語」という対立図式を立て、前者を「生きた言語」、後者を「死んだ言語」とみなしていたようで、象徴主義者による「日常言語に対する詩的言語の優位」(p. 83)に貢献したとのことです。

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2016年6月 8日 (水)

桑野隆(2001).「ロシア・フォルマリズムの<文学性>の外部」を読む(山中桂一・石田英敬(編),『シリーズ言語態① 言語態の問い』,東京大学出版会)

ロシア・フォルマリズムの問題点が、主にバフチンやヴィゴツキーの理論から検討されています。

桑野隆(2001).「ロシア・フォルマリズムの<文学性>の外部」.In 山中桂一・石田英敬(編),『シリーズ言語態① 言語態の問い』(pp. 47-67).東京大学出版会.

概要

著者によると、ロシア・フォルマリズムは自身の理論を確立するために、研究対象を言語の外部形式(例えば音)に限定し、内部形式(例えばイメージ)や言語の対話性(社会性)を排除してしまったと指摘します。当時のロシアの学術界では、内部形式に着目した研究が流行しており(ただし、人によって「内部形式」によって何を指すかは一致していません)、バフチンやヴィゴツキーもそういった流れの中に位置づけられています。ただし、ヤクビンスキイなどはロシア・フォルマリズムの中にあって対話の問題に取り組みました。しかしながら、ヤクビンスキーはその後マールのヤフェティード言語学へ急接近してしまったため、この方向性での研究は立ち消えてしましました(興味深いことに、バフチンやヴィゴツキーは、ヤクビンスキーの研究の重要性を認識しており、たびたび彼の論文を引用しているとのことです)。

なお、ロシア・フォルマリズムへの批判は、主にその外的形式への過剰な傾倒に集中していたそうですが、バフチンとヴィゴツキーは内的形式の無視という観点から批判を行った点で稀有であるとしています。著者は、当時ロシア・フォルマリズムとバフチンが論争し合えていたら、どれほど有意義であったろうと残念に思っています。ロシア・フォルマリズムは政治的に解散させられた一方、バフチンは逮捕・流刑され(しかもその研究は1970年代まで日の目を見ることがありませんでした)たため、このことは実現しませんでした。

ロシア・フォルマリズムを引き継いだプラーグ学派もバフチンの言う内的対話性については取り上げていませんし、他方バフチンはラングおよびラングによって課せられる言語的制約性について全く取り上げられていません。このように長年、両者の考えには交流がありませんでしたが、この論文が執筆されていた当時、両者の言語論を融合しようとする動きが出始めたとのことです。

また、論文の前半では、シクロフスキイが「手法としての芸術」を執筆した当時とそれ以前でどのように立場が変化したのかが詳しく記述されています。彼が未来派と接近することで、それ以前と違って「イメージ」(つまり内的形式)を排除するに至った点が指摘されていました(1917年以前は詩におけるイメージの重要性を指摘したポテブニャーに共感するような記述もありましたが、1917年の段階ではそのような姿勢は一切消え、ポテブニャーを強く批判しています)。なお、1917年以前というのは、"The resurrection of the word" (1914) を指しています。この論文の英訳は、S. Bann & J. E. Bowlt (Eds.). (1973). Russian Roamalism: A collection of articles and texts in translation. Edinburgh: Scottish Academic Press. に所収されています。

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中井悟(2015).「統語論(1)-伝統文法とアメリカ構造主義言語学-」を読む(龍城正明(編),『英語学パースペクティヴ 英語をよりよく理解するための15章』,南雲堂)

最近の英語学の概論書ではしばしば省略される伝統文法とアメリカ構造主義言語学についてかなり詳しく解説されています。生成文法や認知文法をはじめとした現代の統語論を学ぶ前にぜひ一度は確認しておくべき内容がコンパクトにまとめられていました。

中井悟(2015).「統語論(1)-伝統文法とアメリカ構造主義言語学-」.In 龍城正明(編),『英語学パースペクティヴ 英語をよりよく理解するための15章』(pp. 166-196).南雲堂.

概要

著者は、まず文は階層構造を成していることを確認し、伝統文法について解説します。伝統文法を学校文法と科学的伝統文法に分類し、前者についてはReed & Kellog Diagramを、後者についてはH.Sweetの文法観とO. Jespersenによる3階級説及びjunctionとnexusを説明しています。Jespersenの理論についてはかなり詳しい説明があります。その後で、アメリカ構造主義言語学の統語論を取り上げています。直接構成素分析及びC.C.Friesの形式類が扱われていました。直接構成素分析についてはかなり詳しい説明がなされています。

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2016年6月 7日 (火)

浅田壽男(1997).『英語学講義』(新版)を読む(大学教育出版)

英語学のテキストとして作成された本です。後述するように、一般的な英語学の入門書と異なり、かなり特徴的な事項が扱われていて、とても勉強になります。本書の前半は主に英文法に関わる事柄が、後半は言語理論に関わる事柄が扱われています。

浅田壽男(1997).『英語学講義』(新版).大学教育出版.

概要

本書で扱われている事項の中で、私が非常に特徴的だと感じたのは以下の内容です。個々の詳細やその他の内容については本書を参考いただければと思います。

  • comeとgoの違い
  • 場所や時間を表す語句を配列する際に機能していると考えられる粗密の原理
  • 命令文を可能にするための規則
  • hereやthereなどの場所副詞が前置修飾する際(「this/these/that/those+here/there+名詞」という構造)に機能している文法規則
  • 存在文や所在文で機能している様々な文法規則
  • ののしり言葉のメカニズム
  • A and BにおけるAとBの順序を決めている様々な言語規則(重要度の原理、パニーニの法則、母音の法則、頭字子音の法則、頭字子音の数の法則、語尾子音の法則、清濁規則、マイオーピア(近視の原理))
  • 伝統文法の長所と短所が分かりやすく列挙されている点
  • 直接構成素分析の問題点が分かりやすく列挙されている点
  • 関係文法の紹介

非常にコンパクトな本ですが、様々な発見がありました。

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A.Richardson(2006).「Cognitive Literary Criticism」を読む(P.Waugh(編),『Literary Theory and Criticism: An Oxford Guide』,Oxford University Press)

認知的な立場に立つ諸々の文学理論の概要と代表的な研究について整理されています。

Richardson, A. (2006). Cognitive literary criticism. In P. Waugh (Ed.), Literary theory and criticism: An Oxford guide (pp. 544-556). Oxford: Oxford University Press.

概要

著者は、一連の研究を以下のように分類し、その内容について紹介しています。

  1. cognitive rhetoric:Lakoff & Johnsonをはじめとした概念メタファー論とTurnerによるその文学研究への応用、Fauconnier & Turnerによる融合理論
  2. cognitive poetics:伝統的な文学理論の概念の実証的な検証を目指すTsur、Miall、Kuikenらによる研究、Hoganによるliterary universals
  3. cognitive narratology:Hermanによる研究、Bortolussi & Dixonによるpsychonarratology
  4. cognitive aesthetics of reception:EsrockやScarryの研究(現在は、脳イメージング技術を使った研究によりこの領域については飛躍的に進展していますが、2006年段階ではまだそれほど進展していなかったようです)
  5. cognitive materialism:文化的変化を脳がどのように制限しているのかを明らかにしようとするSpolskyやCraneによる研究
  6. evolutionary literary theory

著者は、6番目の立場とそれ以外の立場では次のような見解の違いがあると述べています。

"evolutionary literary critics like to claim that evolutionary psychology has arrived at a nearly complete account of basic human nature and behaviour. Most cognitive critics, by contrast, emphasize the provisional, even embryonic character of research in the mind and brain sciences - as do most cognitive and neuroscientists." (pp. 553-554)

著者は認知的な立場の文学研究は、科学と人文学の溝を埋め、お互いに学び合って双方が研究を発展させていく場となり得ると述べています。

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2016年6月 6日 (月)

桑野隆(1993).「ロシア・フォルマリズム」を読む(新田義弘他(編),『岩波講座現代思想4 言語論的転回』,岩波書店)

ロシア・フォルマリズム内の理論の共通性と多様性、問題点とその後の展開について解説がされています。ある程度、言語学史の知識がないと読むのが困難かもしれません。ロシア・フォルマリズムの特徴が非常にコンパクトにまとめられています。

桑野隆(1993).「ロシア・フォルマリズム」.In 新田義弘・丸山圭三郎・子安宣邦・三島憲一・丸山高司・佐々木力・村田純一・野家啓一(編),『岩波講座現代思想4 言語論的転回』(pp. 211-237).岩波書店.

概要

ロシア・フォルマリズムにおけるオポヤズとモスクワ言語学サークルの違い、さらにオポヤズの中でのシクロフスキーの理論の特殊性が解説されています。また、バフチンによるロシア・フォルマリズムの批判、プラーグ学派とロシア・フォルマリズムとのつながり、ロシア・フォルマリズムにおける形式と機能(読者による受容)の混同、といったことについても分かりやすく解説されていました。

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K.M.Newton(2006).「Performing Literary Interpretation」を読む(P.Waugh(編),『Literary Theory and Criticism: An Oxford Guide』,Oxford University Press)

M.H.Abrams(伝統的な "construing"アプローチ)とJ.Hillis Miller(デリダ流のアプローチ)の間で1970年代に交わされた、文学における解釈の在り方をめぐる論争から、今後解釈をどのように考えていけばよいのか議論されています。

Newton, K. M. (2006). Performing literary interpretation. In P. Waugh (Ed.), Literary theory and criticism: An Oxford guide (pp. 475-485). Oxford: Oxford University Press.

概要

Abramsなど伝統的なアプローチを取る批評家は、Millerは様々な文書を何でも自由に文学作品と関連づけすぎるとして批判してきました。しかし、著者によれば、Abramsらは、たまたま偶然に現存している一定のテクストに限定して解釈を組み立てようとしているという自分たちが犯している問題点にあまりにも無自覚であると批判しています。事実、文学研究は、新しい関連文書などが見つかった場合に、それまでの作品解釈が大きな影響を受けるという現象を何度も経験してきました。また、批評とは決して真理を突き止めようとするものでもなく、一種のパフォーマンスとみなすべきであると主張しています(そもそも文学作品自体がフィクションであるので)。

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2016年6月 2日 (木)

D.Kuiken(2008).「A Theory of Expressive Reading」を読む(S.Zyngier,M.Bortolussi,A.Chesnokova,&J.Auracher(編),『Directions in Empirical Literary Studies: In Honor of Wille van Peer』,John Benjamins)

著者は、文学読解における感情の重要性を指摘し、言葉ですぐにはうまく表せないものの文学読解中に「何か」を感じ、それが読解を進める中で徐々に本人にとって明確になるプロセス(disclosure)を捉えるための理論が必要であると述べています。

Kuiken, D. (2008). A theory of expressive reading. In S. Zyngier, M. Bortolussi, A. Chesnokova, & J. Auracher (Eds.), Directions in empirical literary studies: In honor of Willie van Peer (pp. 49-68). Amsterdam: John Benjamins.

概要

著者は上記のプロセスについて次のように述べています。

"Disinterested openness to the dynamics of expressive disclosure is a restrained waiting for a saying that comes from the felt sense." (p. 54)

もちろん、読者が感じた「何か」はすべてが明示化されるわけではありません。しかしながら、明示化できない部分があるということを説明するためには、矛盾するようですが、その「何か」を明示化するプロセスを捉えるための理論が必要になると著者は考えています。著者は、aesthetic feeling(pp. 54-57)、theme variation(pp. 57-63)、metaphors of personal identification(pp. 57-63)といったものが、このような理論になりうるのではないかと期待しています。これらの概念については、論文を直接ご参照ください。

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影山太郎(2009).「語彙意味論」を読む(中島平三(編),『言語学の領域(Ⅰ)』,朝倉書店)

語彙意味論についてとても分かりやすい解説がなされています。著者自身が提唱する枠組みも提示され、様々な文法現象を意味論的に簡潔に説明できることが示されています。

影山太郎(2009).「語彙意味論」.In 中島平三(編),『言語学の領域(Ⅰ)』(pp. 216-243).朝倉書店.

概要

著者は、語彙意味論には、(a) 語彙の内的な体系(類義関係、反義関係、包摂関係、全体・部分の関係など単語相互の意味関係)を明らかにするという目的と、(b) 各単語がどのように他の単語と結びついてより大きなまとまりを作っていくのかという単語の外的な性質を解明する目的があると述べています。伝統的には、(a) が中心的な研究課題でしたが、今日では徐々に (b) の研究が盛んになり、「個別言語の語彙の特異性を認めながらも、語彙の意味構造と統語構造の対応関係の基本的な部分が人間言語に共通の法則によって定められていることを明らかにし、そこから、人間がどのように外界を認識・把握し、その外界認識がどのようにして言語という意味と形の体系に組み立てられているのかを突き止め」(pp. 216-217)ようとしているとのことです。

次に著者は、Pustejovsky (1995) によるクオリア構造(各語を、形式役割、構成役割、目的役割、主体役割に分けて記述する枠組み)を紹介します。まだクオリア構造の実在性を裏付ける証拠は乏しいとしながらも、この枠組みに基づけば既存の単語をもとにして新しい意味や用法が生み出される時の様子をうまく捉えることができるとしています。

次に、動詞が表す出来事(事象)に関する代表的な意味分析の考え方として、次のものが列挙されます。

  1. Vendler (1967) の語彙的アスペクトの分類
  2. 生成意味論の意味表示、およびその意味表示をモンタギュー文法で論理化したDowty (1979) の意味構造
  3. Jackendoff (1990) に代表される概念意味論による語彙概念構造(LCS)
  4. Tenny (1994) に代表されるアスペクト構造
  5. Van Valin and LaPolla (1997) に代表されるRole and Reference Grammarの論理構造
  6. 認知言語学の行為連鎖
  7. Pustejovsky (1995) のクオリア構造と事象構造

著者は、これらの考え方の中で中心となる概念として、「語彙分解」「主題関係」「語彙的アスペクト」「行為連鎖」という4点を解説していきます。特に主題関係については、JackendoffのLCSを、語彙的アスペクトについてはVendlerの分類、Smith (1991) による単一相、金田一(1950)による日本語動詞の分類を、行為連鎖に関しては、Croft (1991) やLangacker (1991) を例に解説を行っていました。

以上の議論を踏まえて、著者は、「語彙分解」「主題関係」「語彙的アスペクト」「行為連鎖」を統合したLCSを提示します。そして、そのLCSをさらにクオリア構造と一体化させた考え方を提示しています。詳しい説明については本論文を直接ご参照ください。著者はこの考え方の有用性の証拠として、語形成や構文交替といった現象を、統語論からではなく意味論のレベルで説明して見せていました。

最近の学会では、語彙意味論について研究発表やシンポジウムが盛んになされています。個人的には、特にクオリア構造という考え方は(もちろんLCSも)、文体論に応用して、作家の特殊な言葉遣いの効果というものを説明するのに役立てられるのではないかと感じました。

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