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2015年10月30日 (金)

P.Brody,C.DeMilo,&A.C.Purves(1989).『The Current State of Assessment in Literature』を読む(Center for the Learning and Teaching of Literature)

アメリカのすべての州を対象に行われた大規模な調査の結果報告です。私営のテスト会社及び教材出版社によるテスト(これらは各州で学習者の学習到達度を見るために使用されます)を調査対象として、文学に関する到達度がどのように測定されているか調査がされています。L1の研究となります。

Brody, P., DeMilo, C., & Purves, A. C. (1989). The current state of assessment in literature. Albany, NY: Center for the Learning & Teaching of Literature, State University of New York.

概要

この研究では、文学とは、"poetry, drama, prose fiction, and prose non-fiction that has a belles-lettristic cast to it (e.g., literary biography, the personal and critical essay)" (p. 1) と規定されています。

著者らによると、アメリカと違ってニュージーランドでは学習者は文学に関して高い批判的読解力を身に付けているそうです。その背後にはテストでこのことを扱う設問が多く設けられているからではないかと考えられています。また、アメリカでは教育改革が1980年代に行われ、その中で文学に関する知識の重要性もうたわれているとのことですが、そのことがテストに反映されているかどうかはまだ調査されていないとのことです。このような背景から今回の調査が実施されることとなりました。

調査方法等は本論文を直接ご参照ください。ここでは、この調査で明らかになった大まかな結果のみを列挙しておきます。

  1. 文学作品は読解テストの一部として含まれていることが大半で、文字通りの内容を問うなどあまり認知負荷の高くない形の設問が多い(言語、構造、声、といった文学的側面はほとんど扱われていない)
  2. 文学作品扱いされているものの、実際には説明文として扱った方が適切な文章が含まれていた
  3. 文学に関する設問が少ないため、テストを通して受験者の文学に関する能力を知ることは難しい
  4. ライティングのテストにおいて、文学に関するより高次な能力が問われていたが、他のテストのオプション問題となっていることが多かった
  5. 文学作品のもつ創造性や想像性などはテストで問われていない

上記1に関しては、"They do so without a clear differentiation between reading a literary text and reading a non-literary one." (p. 29) とも指摘しています。

上記5に関しては、"Under these conditions, it would seem difficult for students to see literature as anything but dead and lifeless; this view of literature is perpetuated by the most potent force in the curriculum, the test." (p. 30) と述べられていました。

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2015年10月28日 (水)

M.F.ベアー・B.W.コノーズ・M.A.パラディーソ(2006/2007).『神経科学-脳の探求-』(第20章:「言語」)を読む(加藤宏司・後藤薫・藤井聡・山崎良彦(監訳),西村書店)

言語に関する章を読みました。概論書ですので、基本事項のみ記載されています。

ベアー,M.F.,コノーズ,B.W.,&パラディーソ,M.A.(2007).『神経科学-脳の探求-』(加藤宏司・後藤薫・藤井聡・山崎良彦(監訳)).西村書店.(原著は2006年出版)

概要

以下の点はとても面白く感じました。

  • ギリシアやローマ帝国の時代から16世紀までは、発話障害は舌の異常によって生じると一般的に考えられており、治療は特別なうがいや舌のマッサージ、舌の切断や脱血、ヒルの利用が行われていた。16世紀には舌の麻痺がないにもかかわらず発話障害がある人の存在が知られていたが、このような治療が行われていた(pp. 482-483)
  • 1770年にJohann Gesnerが初めて失語症は脳の損傷に起因するという説を唱えた。その後、Franz Joseph Gallなどの骨相学者が頭蓋骨と脳機能との間に間違った関係を築いてしまった一方で、Jean-Baptiste Bouillandは発話は前頭葉で特別に制御されているとする説を提案するなどされた。また、Bouillandの義理の息子であるAlexandre Ernest Aubertinは脳の圧迫が前頭葉皮質領域の正常な機能を妨げるとする説を提案した(p. 482)
  • 和田テストの詳しい解説(p. 484)
  • 右利きの人の96%と左利きの人の70%が左半球が言語優位である(全体の93%が左半球言語優位)。両利きの人には右半球優位の人がいるのに対して、言語が両側優位の人は左利きの人にのみ見られる。
  • ブローカ野とウェルニッケ野という語が現在でも使われているが、境界はあいまいで、領域の個人差も大きい。また、それぞれ1つ以上の言語機能に関与していると考えられている(p. 484)
  • 失語症の種類と特徴の一覧表(p. 485)
  • 錯誤性の誤り(turnpikeをpurntikeと発話してしまうことなど)(p. 485)
  • ブローカ失語症患者は、ひねった質問をされると理解力にも障害があることが明らかになる。また、たいてい名称失語も伴っている(p. 486)
  • ウェルニッケ失語症患者は、別な言葉を使う間違い(肘を膝と間違えるなど、正しい言葉と同じ分類に属す語の間での誤り)や音声の順序の間違い(音韻性錯語)が多く見られる(pp. 486-487)
  • おそらくウェルニッケ失語症患者は、読んだり聞いたりしたことを理解できない(p. 487)
  • 「ウェルニッケ野は、入ってくる音声をその音声の持つ意味と関連づけるのに重要な役割を果たしている可能性がある。言い換えれば、この領野は言葉を作る音声についての記憶をしまっておくために専門化された領野であるといえる。ウェルニッケ野は、音声認識において高次の領野であると提唱されている。それは、下側頭皮質が視覚認識において高次の領野であるのと同様な意味である。」(p. 487)
  • 読んだ言葉は必ずしも疑似聴覚反応に変換されなくてもよい。視覚情報は角回を経由しなくても、視覚野からブローカ野に到達することができる(p. 488)
  • ブローカ失語症とウェルニッケ失語症の重症度は、損傷がどれほどこれら2つの皮質の境界を越えているかということに影響を受けるようである。また、失語症は、視床や尾状核といった皮質下の損傷も関係している(しかも皮質下が関わる方が深刻な失語症になる)。つまり、ウェルニッケ=ゲシュヴィントのモデルは、あまりにも特定の機能に対してある皮質領域の重要性を強調しすぎてしまった(p. 488)
  • 子どもは失語症からは大変よく回復する。大人は左利きの人の方が回復がよい(p. 488)
  • ウェルニッケ=ゲシュヴィントモデルの予想とは異なり、多くの失語症では理解と発話の両方の障害が現れる(p. 488)
  • ウェルニッケ=ゲシュヴィントモデルは問題点はあるものの、その単純さとおおよその妥当性により臨床では現在でも使用されている(p. 488)
  • 伝導性失語症患者は自分自身を難なく表現できる。その一方で、言葉を繰り返すことが困難である。復唱する際には、言葉を代用したり、省略したりする。特に機能語や多音節語、無意味語の復唱は難しい。また、文章を声に出して読む場合は錯語が含まれるが、理解はできている(p. 489)
  • バイリンガルにおいては、流暢な言語や学習した時期が早い言語はその能力が維持される傾向がある。第2言語は、一部重複して使っているニューロンがあるものの、原則として第1言語とは異なったニューロンを使用している可能性がある(p. 489)
  • 分離脳において、脳幹または小さな交連が保持されていれば半球間の連絡は保持されるが、大脳間の連絡はほとんど失われる。また、分離脳患者は、一方の手でズボンを下ろそうとし、もう一方の手でそれを上げようとするなど独立した2つの脳があるかのようにふるまうことがある(pp. 490-491)
  • 分離脳手術をした人は、注視点よりも左側にあるものについては特徴を述べることができなくなる(p. 491)
  • 分離脳手術を受けた人が左の視野にある単語を見た場合、何も見ていないと言う。しかし、右半球によって支配されている左手は、触れるという方法によって単語に一致する物体を選ぶことができる。つまり、言語の理解能力は右半球にも存在している。ただし、複雑な単語や文に関してはこのようなことはできない(p. 492)
  • 右半球は話すことはできないが書くことはできるということを示す報告がある(p. 492)
  • 右半球は複雑な絵を理解できる。左視野に一連の絵を見せ、その途中で裸の写真が挿入された際に、分離脳患者は急に笑い出したが、何がおかしいのかはわからないと答えた。また、右半球は三次元的な遠近法の図を書いたり、複雑なパズルを解いたり、音の微妙な差異を聞き分けることにも優れている(p. 492)
  • 左右半球で解剖学的な非対称性は、側頭平面に見られる。65%の確率で、左脳の方が右脳よりも側頭平面が大きい。この違いは胎児ですでに確認され、さらにサルでも同様な傾向が確認されている(p. 492)。
  • 多くの霊長類で左利きと右利きの個体がある。しかし、その割合はほぼ1対1である(p. 493)。
  • Wilder Penfieldらによる脳の電気刺激研究によると、発話にはブローカ野(刺激すると口ごもるか発話が完全に停止)、後頭頂葉(刺激すると言葉の混乱と発話の停止が生じた)、側頭葉が強く関わっているようである。これらの部位を刺激すると失語症と類似した発話停止が生じる(pp. 493-494)
  • 最近の研究で、言語はブローカ野とウェルニッケ野よりも広範囲の部位が関係していることが分かってきた(他の皮質領域、視床、線条体など)(p. 494)
  • 「脳画像と脳刺激の研究結果は、失語症の研究から推測される言語野の部位におおむね一致している」(p. 498)

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2015年10月20日 (火)

J.K.Yoshioka,S.N.Frota,&J.M.Bergsleithner(2013).「Noticing and Dick Schmidt's Personal and Academic History: An Introduction」を読む(J.M.Bergsleithner,S.N.Frota,&J.K.Yoshioka(編),『Noticing and Second Language Acquisition』,NFLRC)

the noticing hypothesisを提案したRichard Schmidtの学術的背景を詳述し、どのような文脈でこの仮説が提出されたのかが説明されています。Richard Schmidt本人へのインタビューがベースとなっています。

Yoshioka, J. K., Frota, S. N., & Bergsleithner, J. M. (2013). Noticing and Dick Schmidt's personal and academic history: An introduction. In J. M. Bergsleithner, S. N. Frota, & J. K. Yoshioka (Eds.), Noticing and second language acquisition: Studies in honor of Richard Schmidt (pp. 1-9). Honolulu, HI: University of Hawai'i, National Foreign Language Resource Center.

概要

Richard Schmidtの研究歴(学部ではsocial relationを専攻)と職歴が詳しく述べられています。Schmidtは、エジプトのアメリカ大使館など海外赴任をする中で外国語を学ぶ必要があり、その中で徐々に第2言語習得という問題に関心が出てきたとのことです。このあたりの詳細に関しては論文を直接ご参照ください。

次にSchmidtがthe noticing hypothesisを提案する前段階の論文として、Schmidt (1983) (Wesの言語習得過程を調べた論文)とSchmidt & Frota (1986) (Schmidtが自身のポルトガル語学習過程を日記に書き、それを分析した論文)の概要が紹介されています。特に、Schmidt & Frota (1986) では次のようなことが明らかにされました。

"The results then indicated that classroom instruction was very useful, but presence and frequency in communicative input were more important. Based on comparisons among the notes on Dick's journal and the tape-recordings of his developing L2 production and interaction abilities, the study also found that some forms that were frequent in input were still not acquired until they were consciously noticed in the input." (p. 6)

"In addition, a slightly different hypothesis called noticing the gap was suggested in the same study. It was found that although Dick was frequently corrected for his grammatical errors in conversation with native speakers, in many cases this had no effect because he was unaware that he was being corrected. This suggested the idea that in order to overcome errors, learners must make conscious comparisons between their own output and target input." (pp. 6-7)

これらの調査研究をもとに1990年にthe noticing hypothesisが提案されました。以下がその概要です。

"although subconscious processes are important for and common in language comprehension and production, subliminal language learning is impossible and noticing is the necessary and sufficient condition for input to become intake. He believes that mere exposure to input and subconscious processing are not enough to trigger language development." (p. 7)

その後、Schmidtの関心は、noticingから、attentionやawareness(第2言語習得におけるこれらの役割)に移ります。そして、次のような考えを提案します。

"all learning requires attention and a lower level of awareness (which he calls noticing) but not necessarily an intention to learn. He also argues that awareness at the level of understanding is needed for explicit learning but not for implicit learning." (p. 7, emphasis in original)

なお、Schmidtは、個人差や動機づけという側面にも関心を持ち、研究をしています。しかし、これらの研究の根底にはattentionがあります。個人差(そして言語適性)に関しては、その学習者がどの程度noticingが得意であるかということと関係して研究がされています。また、動機づけの高い学習者はより多くattentionを向けることができるとされています。

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2015年10月19日 (月)

A.W.フラハティ(2003/2006).『書きたがる脳:言語と創造性の科学』(第2章:「文学的創造力と衝動」)を読む(吉田利子(訳),ランダムハウス講談社)

ハイパーグラフィアと文学的想像力の関係について議論されています。

フラハティ,A.W.(2006).『書きたがる脳:言語と創造性の科学』(吉田利子(訳)).ランダムハウス講談社.(原著は2003年出版)

概要

著者は、意欲に重点を置いた創造性の理論をレビューし、その後、以下の3つの心理学的モデルを紹介しています。

  • 精神分析的モデル:フロイトは、創造性は無意識に宿ると考えたが、クリスがこのモデルを拡張し、第1のプロセスと第2のプロセスのバランスによるとした。第1のプロセスは、具体的・感情的・視覚的・連想的なものであり、第2のプロセスは、抽象的・理性的・言語的・論理的なものとされる。
  • 認知心理学的モデル:分散型思考と集中型思考という2段階の思考によって創造性を捉えようとする理論。
  • 精神病理的モデル:芸術面の創造性の根本には精神病があるとする考え。

この章では、3つ目のモデルを中心に議論がされていきます。このモデルでは、作家(芸術家)は次のように捉えられます。

「最も創造的な人々―少なくとも多くの作品を残した人々―は、精神病者ではなくその近親者だ。研究者は、ほとんどの精神病は複数の遺伝子が素因になっており、近親者はその遺伝子のすべてではなくても一部をもっていると考えている。このような遺伝子がなぜ淘汰されずに世代を通して生き残ってきたかという説明の一つは、こうした遺伝子は数が多ければ精神病を引き起こすが、少なければその遺伝子をもった人々に何らかの利点―たぶん創造性―を与えるのではないか、ということだ。」(p. 90)

そして、ハイパーグラフィアの近親者と考えられる作家が挙げられています。

また、太古の時代はもちろん、これまで作家たちは様々な薬物を用いて創作活動を行おうとしてきました。しかし、薬物でインスピレーションが得られるということについて著者は否定的です。

神経心理学は、創造性は左脳と右脳の相互作用から生じるという考えを示しています。そして、最も重要な働きをしている葉は前頭葉であり、この部分は判断力に関わると考えられています。また、側頭葉も重要な働きをしており、創造的な意欲に関わるとされます。ちなみに、ハイパーグラフィアは側頭葉の変化によって生じるとされています。ハイパーグラフィアと幻聴は特にウェルニッケ野と関係があるようで、作家の著作活動の源泉となる「内なる声」との関わりも示唆されています。

なお、本論文では、分離脳患者についても触れられています。この種の患者は、右脳だけで言葉を見ると意味を理解できず、左脳だけで見ると読むことはできるが、その言葉が表すものを上手に絵に描くことはできないそうです(p. 97)。

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2015年10月16日 (金)

J.D.ボルター(1991/1994).『ライティングスペース:電子テキスト時代のエクリチュール』(第9章:「批評理論と新しいライティング・スペース」)を読む(黒崎政男・下野正俊・伊古田理(訳),産業図書)

電子テキストとこれまでなされてきた急進的な文学理論(受容理論やディコンストラクションなど)の関係について議論されています。

J.D.ボルター(1994).『ライティングスペース:電子テキスト時代のエクリチュール』(黒崎政男・下野正俊・伊古田理(訳)).産業図書.(原著は1991年出版)

概要

著者は、正典や正統主義的読み方というものは印刷というテクノロジーによって確立したと指摘します。したがって、印刷した書物で挑戦的な読み方を行うのは難しかったと述べます。その一方で、電子テキストにおいては、読み方は必然的に能動的で挑戦的になるとされます。そして、読者は著者を以前よりも崇拝しなくなると指摘されていました。電子時代においては、著者は「限られた素材と限られた目標を持って仕事をする職人」(p. 269)になり、「相互に関係づけられたエピソードのつくりあげるネットワークとしての電子的テキストを構成するにあたって、著者は芸術において形式を超越するインスピレーションなどよりもむしろ形式的な性質を強調するようになってきている」(p. 269)と述べられています。

なお、前章では、電子的フィクションは実験的なフィクションによって予告され、先行形態が既に示されていたことを確認していますが、文学理論(最も急進的な理論家による考え)も電子テキストにぴったりの考えを示してきたと著者は指摘します。これらの文学理論は印刷されたテキストの固定性等について強く批判をしてきました。それに対して、電子テキストは「既に不安定で流動的な言葉の集合としてばらばらなかたちで我々のもとにやって来」(p. 290)ます。著者は、「(電子テキストは)テキストそれ自体が自らを批判している」(p. 290)ため、ディコンストラクションなど急進的と考えられてきた形の批評は必要ないと述べます。また、20世紀の文学作品同様に、文学理論も印刷メディアに背こうとしてきたため、結果として難解なものになってしまいましたが、電子メディアでは、これらが苦労して述べてきた事柄をいとも簡単に表示してしまうとも指摘しています。著者は、電子的ライティングに対しては、全く新しい文学理論が必要であると述べていました。

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2015年10月14日 (水)

J.D.ボルター(1991/1994).『ライティングスペース:電子テキスト時代のエクリチュール』(第8章:「インタラクティヴなフィクション」)を読む(黒崎政男・下野正俊・伊古田理(訳),産業図書)

インターネット上で展開するフィクションの特性、及び印刷しかなかった時代の前衛的なフィクションとの関連性が議論されています。

J.D.ボルター(1994).『ライティングスペース:電子テキスト時代のエクリチュール』(黒崎政男・下野正俊・伊古田理(訳)).産業図書.(原著は1991年出版)

概要

この章では次の点が議論されています。

(A) インタラクティブなフィクションの特徴

(B) インタラクティブなフィクションの文学史上の位置づけ

(C) インタラクティブなフィクションの未来像

●インタラクティブなフィクションの特徴

著者はまずマイケル・ジョイス(1987)による「アフタヌーン」という作品を、電子媒体上のインターラクティブなフィクションの例として紹介します。テレビでロール・プレイング・ゲームをした経験のある人であれば、このタイプのフィクションの特性は非常に分かりやすいと思います。読者が、提示された文章に対して応答を行い、その応答に応じて次に現れる文章が変化するという形を取ります。著者は次のように述べています。

「「アフタヌーン」は読者の物語となっている。読者のテキスト体験は彼らが読み進めるに従って行われる。物語を呼びさまそうとする行為、物語を生ぜしめた上でその意味を理解しようとする欲求は不可避的に物語そのもののなかに反映される」(p. 218)

なお、読者に選択させるのは話の筋だけでなく、意識の流れの手法、登場人物の視点、語りの形態(散文か、戯曲か、叙事詩か、抒情詩か、など)なども可能です。

また、このタイプのフィクションにおける作者と読者の関係については次のように述べられています。

「電子的フィクションの場合には最も単純な形態においてさえ、著者=プログラマーは読者=プレイヤーと同等の重要な存在である。さらに、著者と読者との関係は様々なかたちをとる。つまり、この関係は協同的であったり、或いは逆に拮抗するものだったりするのである。だがどれほど拮抗した関係であったとしても、電子メディアにおいて読むという体験は、果てしなく継続するという点でつねに戦いというよりはゲームにとどまるだろう。」(pp. 225-226)

●インタラクティブなフィクションの文学史上の位置づけ

著者は、インタラクティブなフィクションは、モダニズム、未来派、ダダ、シュールレアリズム、レッテリズム、ヌーヴォー・ロマン、具象詩、その他20世紀の多くの実験的な文学伝統に連なるものであると考えています。これらの文学運動は、印刷された文学の伝統を断ち切ろうとしましたが、(当時はインターネットなどがないので仕方のないことですが)依然としてそれ自体は印刷された書物のままであり、「現代の作家の書き方にはあまり合わない印刷メディアを用いていた」(p. 228)と指摘しています。

著者は、スターンの『トリストラム・シャンディ』、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』『フィネガンズ・ウェイク』、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの「バベルの図書館」「八岐の庭」、ハーバート・クエインの『エイプリル・マーチ』、フリオ・コルタサルの『ラユエラ』、マルク・サポルタの『コンポジション第一番』を例として、いかにして印刷のフィクションを乗り越えようとしてき「たのかが解説されています。特にサポルタの作品は、トランプのようになっており、自分でカードをシャッフルして読むなど、とても面白い試みです。

●インタラクティブなフィクションの未来像

電子メディアのフィクションでは、読者は選択を行うことになり、これはテキストそのものを書くということに他なりません。もちろん、作者は作品の構造を電子的に組み立ててはおきますが、この構造を現実のものにするのは読者となります。将来は、読者が作品中のエピソードやリンクを変更・追加したりテクストそのもの(活字といった初歩的な変更も含む)を変えるような形態になるのではないかと考えられています。読者は第二の著者となり、変更されたテキストはさらに別の読者によって変更されることになります。

また、ウィリアム・ディッキーの「ヘレシー:ハイパーポエム」を例に挙げ、将来はこの作品の中で言葉が合体したり分裂したりするスピードや方向、その様式などにも読者が参加できる形が確立されるだろうと述べられています。著者は最後にこの章を次のようにまとめています。

「二十世紀の印刷した文学はこのような洞察を凝ったやりかたで示し、暴力的に意義を唱えてきたのだが、しかし電子メディアではこれはごく簡単で不可避の事実になってしまう。多様な読み方は不可避的に多様な書き方へと至るのである。」(p. 256)

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2015年10月 5日 (月)

A.M.Jacobs(2015).「Neurocognitive Poetics: Methods and Models for Investigating the Neuronal and Cognitive-Affective Bases of Literature REception」を読む(『Frontiers in Human Neuroscience』)

著者が提唱するneurocognitive poeticsが、文学読解を研究する上でどのような方法論やモデルが必要となるのか、膨大な先行研究をレビューしながら議論されています。

Jacobs, A. M. (2015). Neorocognitive poetics: Methods and models for investigating the neuronal and cognitive-affective bases of literature reception. Frontiers in Human Neuroscience, 9, 1-15. doi: 10.3389/201500186

概要

著者は、まずneurocognitive poeticsは認知面と情意面の双方およびその関係性を研究する必要があることを指摘します。そして、そのための仮説として、Panksepp-Jakobson仮説が提唱されます。このモデルは次のように説明されています。

"since evolution had no time to invent a proper neuronal system for art reception, even less so for literary reading, the affective and esthetic processes we experience when reading (cf. Jakobson's "poetic function") must be linked to the ancient emotion circuits we share with all mammals, as perhaps best described by Panksepp (1998)." (p. 3)

また、文学読解には、テクスト、読者、コンテクスト、という要因が関係します。著者は特にテクストに関して、次のような要因を考慮に入れて調査を行うことの必要性を指摘しています。

  1. 4 × 4 Matrix: これは、sub-lexical-lexical-inter-lexical-supra-lexicalという4つのレベルにそれぞれmetric-phonological-syntactic-semanticな素性を配列したもので、これらを使ってテクストを包括的に分析した上で調査することが提案されています。
  2. 省略またはほのめかされた情報
  3. 前景化された情報と背景の情報

著者は、特に3点目に関して、背景の情報は先行研究ではそれほど重視されてきませんでしたが、読者が物語世界へ入り込んでいく上で重要な働きをしていることを指摘しています。また、前景化については、美的処理との関係性を指摘しています。そして、前景化された情報や背景情報と文学読解の関係を調査しようとしてきた先行研究がレビューされています。

次に、読者とコンテクストという要因を考慮に入れて研究を進める重要性が議論されています。そして、関連する先行研究がレビューされています(p. 13)。

また、著者は、文学読解について明らかにしていくためには、認知的側面、情意的側面、美的側面をすべて考慮に入れる必要があると考えており、有益な考えをもたらしてくれる分野として、cognitive theory、emotion theory、aesthetic theoryの先行研究に言及しています。

最後に、著者が提唱するNCPM(neurocognitive poetic model)が解説されています。このモデルについては、過去にレビューした、Jacobs, A. M. (2015). Towards a neurocognitive poetics model of literary reading. In R. M. Willems (Ed.), Cognitive neuroscience of natural language use (pp. 135-159). Cambridge: Cambridge University Press. の方が詳しいため、この記事では省略します。また、このモデルは最終的には、読者がどのように読解中に新たな学びを引き起こし、それが前景化と背景情報の読解への効果(神経学的レベル、情意-認知的レベル、行動レベルでのそれぞれの効果)にどのような変化を引き起こすのか、考慮に入れたものにすべきであると述べています。

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2015年10月 1日 (木)

岡ノ谷一夫・石森愛彦(2010).『言葉はなぜ生まれたのか』を読む(文藝春秋)

動物のコミュニケーションの取り方に着目して、人間の言語の起源について考察がされています。相互分節化仮説をとてもわかりやすく噛み砕いた本となっています。石森愛彦さんによるイラストも面白く、一気に読み通すことができます。

岡ノ谷一夫・石森愛彦(2010).『言葉はなぜ生まれたのか』.文藝春秋.

概要

著者は、言葉の条件として次の4点を挙げています。人間の言語だけが、これら4条件をすべて兼ね備えていると指摘されています。

  1. 発声学習ができる(すぐに真似ができる)
  2. 音と意味が対応している
  3. 文法がある
  4. 社会関係の中で使い分けられる(p. 15)

しかし、個々の条件に関する能力を持っている動物は存在します。上記1点目に関しては、オウムなど鳥類(鳥類の約半数にあたる5千種類がこの能力を持っているそうです)、イルカやシャチなどほとんどの鯨類がこの能力を持つそうです。なお、霊長類の中ではヒトだけがこの能力を持つとのことでした。実は、この能力を持つ動物は共通して息を止める(呼吸をコントロールする)力を持っています。鳥類や鯨類が呼吸コントロール力を持つことは容易に理解できますが、なぜヒトもこの能力を持つようになったのかは後ほど仮説が提示されます。

上記2点目に関しては、デグーというネズミの一種がこの条件を満たしています。デグーは17種類の鳴き声が出せるそうです。この鳴き声を使って仲間に情報を伝えているそうで、ヒトの単語に相当します。ただし、ヒトのように新たな鳴き声(単語)を学習することはできません(上記1点目の条件を満たさない)。また、ヒトと違って、目の前の状況以外の意味を伝えることはできません(ヒトはオオカミ少年のようにウソをつくことができます)。

上記3点目に関しては、ジュウシマツがこの条件を満たしています。ジュウシマツの歌には、まずエレメントがあり、それが組み合わさってチャンクとなり、それがつながって歌になるという構造を持っています。ジュウシマツのヒナは、自分の親を含めた複数のオスの歌を聴き、それを切り貼りして自分の歌を作っていることが分かっています(つまり、条件1も満たしています。また、ヒト同様に歌の中に一定の規則を見つけ、その切れ目を認識する能力も持っていることを意味します)。しかし、歌には求愛の意味しかありません(条件2を満たしていません)。

なお、オスが求愛のために危険で無駄な行為(ジュウシマツの複雑な歌、クジャクの羽を広げるディスプレイなど)をするのは、そのような危険で無駄な行為をできるほど余力があるというメッセージをメスに送っており(体力や頭脳の充実ぶりを示す)、メスはそのような余力のあるオスに惹かれるのではないかと説明されています。

上記4点目に関しては、ハダカデバネズミがこの条件を満たしています。このネズミは階級社会を持っていて、自分と他者の階級関係に応じて、あいさつの鳴き方が異なります。そして、下っ端のネズミの方がより多くあいさつすることが分かっているそうです。ただし、新たな鳴き声を学習することはできません(条件1は満たさない)。

次に、霊長類の中でことばの4条件を持つものがいるかどうか検討します。そして、「歌うサル」とも呼ばれるミュラーテナガザルに着目します。このサルは、状況に応じて複雑な歌を使い分けています。ただし、息を止める力を持っていないためか、発生学習ができません(条件1は満たしていない)。

p. 99には、言葉の4条件と本書で取り上げられた動物のコミュニケーションの対応表が示されています。

著者は次のような仮説を立てます。これが、相互分節化仮説です。

「発生学習ができた人間の祖先は、ミュラーテナガザルのように歌をうたっていたのではないか?2匹のサルがいろいろな状況でうたっているうち、歌の重なり合う部分が切り分けられた。重なり合った歌の部分が切り出され、意味をもち、単語が生まれたのではないか?」(p. 96)

そして、人はなぜ発生学習ができた、つまり呼吸をコントロールする力を手にしたのか、ということについては次のような仮説が示されています。

「人類は社会集団をつくるようになり、外的に襲われる危険性が少なくなったため、赤ん坊が大きな声で泣いても大丈夫になった。赤ん坊は、親をコントロールするために、大きな声、いろいろな泣き声を出すようになった。より大きく複雑な泣き声を出すためには、呼吸をコントロールする機能が有利になった。呼吸をコントロールする機能をもったため、人間は「発生学習」が可能になった。そのため、「ことば」の習得が可能になった。」(p. 109)

なお、泣き叫ぶ赤ん坊を放置しておくと、泣き声に変化が出てきていた生後二か月の赤ん坊であっても、生後一日目の単調な泣き声に戻ってしまうそうです(複雑に泣いても労力の無駄になってしまうため)。

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