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2015年9月29日 (火)

唐澤一友(2004).『アングロ・サクソン文学史:韻文編』を読む(東信堂)

文学史や英語史の入門書などでは、Beowulfのみの言及で終わるところを掘り下げて紹介してくれています。一般読者向けに書かれた本ですので非常に分かりやすいです(ただし、英語史の知識があった方が理解は深まります)。このようなマイナーな内容を分かりやすく紹介してくれる文献はあまりないため、非常に貴重です。

また、本書はアングロ・サクソン人にとって詩とはどのようなものであったのか、その源流に関して様々な興味深い考えを提示しています。個人的にはこのことについて非常に興味があったので、本書を読みました。この記事では、私が個人的に面白いと思った指摘を中心にまとめていきたいと思います。なお、この記事では割愛しますが、個々の作品についてかなり詳しい解説が加えられており、古英詩とはどのようなものであったのかとてもイメージしやすくなっています。

唐澤一友(2004).『アングロ・サクソン文学史:韻文編』.東信堂.

<はじめに>

ここでは本書のねらいやアングロ・サクソン研究の現状について述べられています。このセクションで私が重要と思ったのは次の点です。

・「アングロ・サクソン文学」という語には、アングロ・サクソン人によるラテン語での著作も含まれる(ただし、本書は古英詩を中心に紹介されていますので、本書に限って言えば、「アングロ・サクソン文学」=「古英詩」と言ってよいと思います)。(p. 3

 

<第1章:アングロ・サクソン人と英語>

この章では、アングロ・サクソン人がブリテン島に移住する経緯、古英語と他のゲルマン諸方言との関係が説明されています。この章で面白いと思ったのは次の点です。

・ノルマン・コンクエスト以降は、アングロ・サクソン人の間でゲルマン的メンタリティは失われていく。(p. 23

・ゲルマン語派は、東ゲルマン語、西ゲルマン語、北ゲルマン語に分かれる。ゲルマーニアの西部に住んでいた人々は西ゲルマン語を用いており、これはさらに低地ドイツ語と高地ドイツ語に分類される。低地ドイツ語は北海に面する海岸沿いの地域で話されていた言葉で、古サクソン語、古フリージア語、古オランダ語、古英語が属する。古サクソン語はドイツ北部で用いられるドイツ語の、古オランダ語はオランダ語の祖先である。高地ドイツ語は現代標準ドイツ語の祖先である。なお、東ゲルマン語はゴート語が属しているが、既に死語である。また、北ゲルマン語は、スウェーデン語、ノルウェー語、デンマーク語、アイスランド語の祖先であり、これらの古語を総称して古ノルド語と言う。(p. 24

・アイスランドには古代・中世ゲルマンの精神を反映した文献が多く残っており、キリスト教改宗以前のゲルマン人の文化を考える際の貴重な手がかりを与えてくれる。(p. 27

 

<第2章:古代ゲルマン文学の伝統1:ルーン碑文>

著者は、まずインド=ヨーロッパ語族と文字の関係について次のように説明します。

・セム語族はかなり早くからアルファベットを持っていたようであるが、インド=ヨーロッパ語族は体系化されたアルファベットを持っていなかった。インド=ヨーロッパ語族はセム語族と接触をもつようになって、そこから文字を輸入する形となった。最初にセム語族のアルファベットからフェニキア文字が作られ、ここからギリシア文字、さらにエトルリア文字が発達し、このプロセスを経てラテン・アルファベットが作られた(pp. 28-29)。

その後、ゲルマン人とルーン文字の関係について詳しく説明しています。個人的に面白いと思った指摘は以下の通りです。

・ゲルマン人は、イタリア北部、北エトルリアの文字を参考にルーン文字を開発した。最初は、イタリア辺りに建国していたゴート人の間に広まり、アングロ・サクソン人などその他のゲルマン人の間にも広まった。この文字はゲルマン人特有の文字である(p. 29)。

・ルーン文字は時代や地域によって数や形に違いがある(p. 29)。

・ルーン文字にも現在のアルファベットのように並び順があり、最初の6文字の音価を取ってフサークと呼ぶ(p. 29)。

200年~750年頃までは24文字であったが、8001350年頃のものは16文字であった。イギリスでは、24文字のものに独自の文字が加えられて、33文字となった。また、音価が変化した結果、フソークと呼ばれる(p. 30)。

・ゲルマン人はパピルス紙や巻物を知らず、ペンを使って文字を書きつけるという風習がなかった。ルーン文字は岩や木など堅いものに書きつけられる習慣があり、非常に手間がかかるため、まとまった文章が記録されることはほとんどなかった。結果として、ルーン文字が開発された後も、ゲルマン人の文学形態は口承文学が主流であった(p. 30)。

・ゲルマンにおけるルーン文字、古英語におけるルーン文字、古ノルド語によるルーン文字の対照表(p. 31

・ルーン文字は主にまじないや占いで用いられた。そもそもruneとは「神秘、秘密」の意であり、神秘的な力が宿っていると考えられていた(p. 32)。

・ルーン文字は異教の神官が開発したのではないかとも言われており、当初はごく限られた人物のみに伝えられる秘伝のようなものであったようである。結果として、発掘されたものの中には、ルーン文字をよく知らない人物によって刻み込まれたと考えられるものが見つかっており、それらの碑文の中には偽ルーン文字が散見される(p. 32)。

・ゲルマン人はキリスト教に改宗した後もルーン文字の神秘的力を信じていたため、魔術や占い等で使用されていたようである(p. 33)。

・ルーン文字は、武器、装身具、装飾品や日用品に彫り付けられることもあった(武器の名前、武器を作った人の名前、ルーン文字を掘った人の名前、など)。また、特に北欧には碑文も多く残っており、墓碑銘、ヴァイキングの活動記録、キリスト教改宗や公共事業を推進した人物の記録などが刻まれている(p. 33)。

・ルーン文字で刻まれた碑文は長さも短く、内容も大したことはない。しかし、16文字のフサークが用いられるようになった9世紀以降の北欧では、内容的にも文学と呼べるようなものが残されている(p. 34)。

・古英語による文学作品が刻み込まれたルーン碑文も残っているが、これは北欧のものに比べて大分早い時期のものである(p. 34)。

・大英博物館にあるフランクス・カスケットには、最古の形態と考えられている古英語がルーン文字で刻まれている(pp. 34-35)。

・ルーン文字は単なる表音文字というだけでなく、同時に表意文字でもあった(p. 40)。

・ルーン文字は、キリスト教の伝播とともにラテン・アルファベットと写本製造技術が伝えられると、一気に使用が廃れた。まず、神秘的な力が宿るとする異教的文字を教会が嫌ったこと、学問がラテン語で伝わったこと、などがその原因と考えられる。ただし、北欧では岩にルーン文字で碑文を刻む伝統は廃れなかったし、イギリスでも墓石や記念碑、十字架など堅いものにルーン文字を刻む伝統は完全に消え去ったわけではない(堅いものに刻みこむ際には、直線的なルーン文字の方が彫り易かったのかもしれない)(pp. 42-43)。

・イギリスでは、当初は基本的にはラテン文字でものが書かれていたが、古英語でものを書く習慣が定着し始めた900年ごろに、thornwynの文字が再び使われるようになった。これはth音とw音をthuuとつづるのではなく、1文字で表せるようにとの考えからのことであった(p. 43)。

th音に関しては、thornと平行して、ethð)も用いられるようになった。ただし、これはルーン文字に由来するのではなく、dの上に摩擦音であるという印の横棒を入れたものである。現在と違い、この文字は有声摩擦音と無声摩擦音の両方を表すことができた(p. 233)。

・表意文字としてのルーン文字の特性を利用して、写字生が省略記号としてルーン文字を使用することもあった(p. 43)。

 

<第3章:古代ゲルマン文学の伝統2:詩の発生と発達>

この章では、著者はゲルマンの神話などを頼りに、仮説を交えて詩の起源について考察しています。

・古代のインド・ヨーロッパ民族の間では、詩人は神からのインスピレーションを受けることのできる特別な存在であり、常人では知りえない知識を神から授けられる人物として、社会の中で極めて高い地位を占めていた形跡がある(p. 44

・ゲルマン民族にもシャーマン的存在がいたと考えられ、このような人物が、神に与えられた作詩法の知識とインスピレーションにより最初に詩を作り始めた詩人であると考えられる(p. 45)。

・シャーマン的トランス状態を言い表すインド・ヨーロッパ語族の語根uta-またはuot-に基づいて考えると、預言者とは精神的に過度に高揚しあるいは狂ったような状態(神がかり的トランス状態)で予言をする者であり、詩はそうした状態で歌われるものであるということになる。また、ゲルマン語では、詩と歌と狂気と激怒がその同じ語根から発生しており、詩・歌が精神的に過度に高揚した状態で作られるものであると捉えられていることがわかる(p. 47)。

・北欧神話では、その主神オーディンがこの世に詩をもたらした者であると考えられており、その話の中に出てくる「詩の密酒」の話(詳しくは本書pp. 50-53参照)に由来する。この神話では、詩の密酒を飲んだ者は誰でも即座に偉大な詩人になれると伝えられている(p. 51)。

・インドでも北欧でも、神話では、詩のインスピレーションは興奮作用の強い酒を飲むことによって得られると考えられていた(p. 54)。

・原初の詩人は、ある種のトランス状態に陥ることにより神や超自然的な存在と交信し、インスピレーションを得ることで詩を作ったシャーマン的存在であったと考えられる。そして、原初の詩はシャーマンの行う予言、魔法、呪術、歴史叙述などとして現われたものと考えられる(p. 54)。

・ゲルマン人の間では、病気等は超自然的な存在によって外部から攻撃を加えられたり取り憑かれたりした結果として生じると考えられており、これを治療するために薬草等を用いるのと同時に呪文詩が歌われた(p. 55)。

・魔術等を行う際にはルーン文字をはじめ薬草やその他の道具を使うと同時に、呪文が唱えられたわけであるが、その呪文が原初の詩人であるシャーマンによる最初の詩の一形態であり、その一部が今日まで医療に関する呪文詩として伝えられている(p. 59)。

・北欧神話の主神オーディンは、ルーン文字を用いた魔術等を行う際に歌われる呪文の知識を最初に得た者であり、呪文という形で原初の詩をこの世にもたらした者とされる(p. 60)。

・呪文詩には、薬草に対して呼びかけて、その由来等を述べることで、効き目が確かであるということを薬草自体に言い聞かせるかのようなものがある一方で、疾患の原因である超自然的なものに対して呼びかけて体内から出ていくように警告するものもある。後者に対しては、突然の痛み、腫物、発作や熱や悪夢、水痘、に対処するための詩が残っている(pp. 61-65)。

・上記のような詩は基本的にはゲルマンの異教時代の伝統を引き継ぐものであるが、中にはキリストの名が呼ばれるなど、キリスト教色が付け加えられたものも発見されている(p. 65)。

・地力を回復するための呪文詩、盗まれたものを取り戻すための呪文詩、出産に関する呪文詩、蜂の群れが飛び去るのを防ぐ呪文詩、航海の安全を祈願する呪文詩も残っている。

・現存する古英語の呪文詩は12編のみである(p. 69)。

・呪文の伝統はキリスト教化以降も根深くアングロ・サクソン人の間に根付いており、呪文や魔術の力は長らく信じられていた。その証拠に、900年代に発布された法律の条文には魔術や魔女に関する法律が含まれている。しかしながら、多くの呪文詩では、神の名前がキリスト教の神や聖人に置き換えらえたりするなど、表面上はキリスト教化していた(pp. 71-72)。

・シャーマン的存在にとっては、予言も歴史も神々によって与えられたこの世の出来事に関する知識という点では変わりなく、予言詩と歴史詩も多く残されている。これらは呪文詩と並んで原初の詩の一形態であったと思われる(p. 73)。

・古代ゲルマン人にとって、血筋・家柄ということが非常に重要であり(自分の家系が神に遡ることを示すなど)、家系の起源や祖先の偉大さを歌った詩も残されている。そして、そのような詩において自らの栄光と名声を後世に残すことが至上の名誉とされた。このような称揚詩は、ゲルマン人の間で戦いの行われる寸前に歌われていたという記録が残っている。この伝統はアングロ・サクソン人にも受け継がれた(pp. 76-77)。

・ゲルマン人の間では、親子で頭韻を踏むように名前を付ける命名法が一般的であった(pp. 80-81)。

・格言詩も残っているが、これは、シャーマン的存在が様々な状況に合わせた意見、忠告、助言等を与える際に作ったものに端を発するのであろう(p. 83)。

 

<第4章:英雄詩・叙事詩>

この章では、英雄詩・叙事詩の起源について推測した後、古英詩の基本的構造を解説し、Beowulfをはじめとした作品の解説がなされています。

・歴史詩や称揚詩から儀礼的な側面が薄れ、より客観性や娯楽性が増したものが叙事詩や英雄詩であると言える。特に英雄詩では、一人の英雄に焦点が当てられ、その人物の英雄行為の詳細が迫力を持った文体で描かれる(p. 90)。

・宮廷詩人は戦上にも同行していたようで、そこで見たことを詩にして後で酒宴の際にそれを披露した。戦いの中で英雄的な行いをすると、酒宴で披露される宮廷詩人の詩の中でその働きが褒め称えられ、場合によっては長い間語り継がれることになる。このようにして自分の死後にも残る詩の中に名声を残すことがこの上ない名誉と感じられたようで、王の家臣たちは競って勇敢に戦ったようである。宮廷詩人は王の家系の優秀性・正当性を宣伝するのみならず、家臣たちの戦場での働きを活性化させる力も持っていた。このため、宮廷詩人は王にとっては家臣団の中でもことさら重要な人物であった(p. 91)。

・宮廷詩人の詩は、自分が仕える君主のいる共同体のための儀礼的・儀式的な性格を多分に含むものであったのに対し、吟遊詩人が歌う詩はより一般的に受け入れられる娯楽性の高いものであったと推測される。娯楽性の高い英雄詩を発展させ広めたのは、吟遊詩人の役割によるところが大きいと考えられる(p. 92)。

・キリスト教改宗後は、王権の正当性は宮廷詩人ではなく教皇や司教によって確かなものとされるようになり、称揚詩が力を失ってしまった。その結果として、宮廷詩人の中には地位や影響力が下がり、より娯楽性の高い英雄詩の歌い手に成り下がった者が多かったと推測される(p. 93)。

・キリスト教化した後は、大陸との交渉が盛んになり、ローマの無言劇やマイムが新しい娯楽として入ってきた。その結果、酒宴で宮廷詩人が披露する詩も娯楽性を増していった可能性がある(pp. 93-94)。

・古英詩の各詩行は、二つの強音節と複数の弱音節から成る半行二つから成る。したがって、一行は四つの強音節と複数の弱音節からなっている。そして、詩行を書き記す場合には、各行の前の半行と後の半行の間に行中休止を表す空白を入れることになっている。各半行の従う韻律は伝統的に次の五つに分類されている。A:強-弱-強-弱、B:弱-強-弱-強、C:弱-強-強-弱、D:強-強-弱-弱、E:強-弱-弱-強。ゲルマン諸語では、単語のアクセントは基本的に第一音節にあり、このため語末ではなく語頭の音をそろえる頭韻を用いて詩を作るのが一般的である。頭韻音は必ず両半行にまたがって置かれなくてはならず、特に後半行の最初の強勢部分には常にその行の頭韻音が置かれる。なお、これに対する一種の破格として、一行に含まれる強音節を四つ以上持った音節過剰詩行が用いられることもある(pp. 96-98)。

・ケニングは規定詞(「鯨の道」の「鯨の」の部分)と基礎語(「道」の部分)から構成される。基礎語はケニング全体で表される物事を婉曲的・比喩的に言い換えたものであり、規定詞は基礎語の意味領域を狭めてより限定的にすることにより、その比喩をより分かりやすいものにする働きがある。婉曲的・比喩的とは言えない表現はケニングとは見なされない(p. 99)。

・古英詩にはケニング以外にヘイティ(heiti)という特有の表現が見られる。これは一つの単語が慣用的に婉曲的・比喩的意味で用いられる表現であり、「鉄」で「剣」を表す場合などがこれに当たる(p. 100)。

・古英詩では、ヴァリエーションという表現技法もよく用いられた。これは、一つの事物に対して様々な表現を使って何度も繰り返し言及する表現技法である(p. 100)。

・古英詩は、大陸から伝わった脚韻詩の伝統に押されて一気に衰退した。中期英語の時代にも、Sir Gawain and the Green KnightPiers Plowmanのような頭韻を用いた詩作品が作られているが、これらの作品に辛うじて留められた古英詩の伝統もすぐに完全に消滅した。19世紀後半でも、G. M. Hopkinsの用いたsprung rhythmなど、頭韻を多用した詩を作った人もいたが、これはあくまでも装飾的なものであり、古英詩のような体系的なものではなかった(p. 101)。

Beowulfが現存する写本に書き付けられたのはおよそ1000年前後であるとされているが、この作品自体が成立したのはこれよりもずっと以前の事であると考えられている(p. 104)。

・異教時代のゲルマン人の間では運命信仰が盛んに行われていたと言われているが、Beowulfにもそのような信仰の名残が観察される(p. 111)。

・詩人はBeowulfをキリスト教徒として作っていると言えるが、その一方で、物語それ自体は異教時代を舞台にしたもので、運命観や英雄精神や臣下の者の心得などをはじめとして、キリスト教改宗以前から伝わるゲルマン的・異教的要素を多く含んでいる(p. 117)。

・古英語の英雄詩と叙事詩では、戦場を描く際に伝統的に「戦場の獣」に言及がされる。これらは、鷲、烏、狼のことであり、少なくとも1つ言及されることが多い。これらの動物はこれから戦いが行われようとしている場所に戦いの前触れを告げるように登場することがよくある。これらの動物は、しばしば戦いが起こる以前から、戦いで死者が出ることを察知して、餌を求めて戦場近くに集まってくるものとして描かれている。ただし、元来はこれらの動物に何か神話的意味合いが含まれていたとも推測される。というのは、これらは神オーディンが飼っている動物であり、オーディンは詩の神だけでなく、戦いと死の神でもあったためである(pp. 132-134)。結果として、これらの動物は超自然的な存在により近いものと考えられ、戦いが起こることを事前に察知して知らせる者たち、来るべき戦いの行方を予知できる者たちと捉えられていたと考えられる(pp. 138-139)。

・古英詩では猪にもよく言及される。猪は戦士の兜に飾りとして付けられていたようで、戦士の命を守る力があると考えられていたようである(p. 139)。

・古英詩に登場する戦場の獣や猪の飾りなどは、古代ゲルマン人の動物観が色濃く反映されていると考えられる(p. 141)。

 

<第5章:エレジー>

・古英詩にはエレジーが9つ残っており、Exeter Bookという10世紀末に作られた写本に含まれている(p. 142

・古英詩のエレジーでは、社会的な繁栄とその喪失が対比されており、多くの場合、これが過去と現在の状態の対比となっている。つまり、過去の繁栄・栄光が失われた現在の視点に立ち、過去の繁栄・栄光を回顧しているものが多い。また、古英詩では、この対比の後に現在の慰めが続くことが多く、この慰めは宗教的(キリスト教的)なところに求められることが多い(pp. 142-143)。そして、キリスト教的説教のような部分が含まれている作品もある(p. 146)。

・古英詩のエレジーでは、運命が原因となって過去の繁栄・栄光が喪失すると考えられることが多い。これは、アングロ・サクソン人の間に古代ゲルマンの時代から伝わる運命信仰が受け継がれたものと解釈できる(p. 143)。

・古英詩のエレジーは、独白の形式を取ることが多い(p. 143

・アイルランドでは、6~8世紀にラテン語の詩において脚韻を用いる技法が発達した(しばしば頭韻と共にも用いられていたと言われている)。そして、これがアングロ・サクソン人にも伝わったのではないかと考えられている。イギリスでは7世紀からラテン語の詩に脚韻が用いられるようになったが、これが古英詩(及び散文)で模倣され、部分的・装飾的に用いられるようになったものと考えられる。なお、大陸において脚韻が発達したのはこれより後の時代になってからである(p. 161)。

・古英詩においては、男女間の恋愛感情はほとんど歌われることはなかった。その中にあって、Wulf and Eadwacerは珍しい作品である。

・古代ゲルマンの運命信仰では、栄光の喪失といった闇は決して救済されることがないが、来世での魂の救済を唱えるキリスト教はそのことを可能にするため、エレジーでは最終的にキリスト教に慰めを求める作品が多くなったと考えられる(p. 176)。

 

<第6章:キリスト教詩1-ケドモンとその一派>

・ローマからイギリスにキリスト教が伝わったのは教皇グレゴリー1世の時代の597年だが、北部ではアイオナの修道院を中心とするケルト系のキリスト教が既に伝わっていた。したがって、597年の時点でイギリスではキリスト教が既に知られていたことになるが、キリスト教詩が最初に現れたのは随分後になってからである(p. 177)。

・ビードの『英国民教会史』によると、最初のキリスト教詩の作者はノーサンブリアのケドモンという人物である。元々は修道院に仕えて家畜の世話をする身分の低い人物であり、酒宴で詩を披露する番が自分に回ってくると、そそくさと席を立っていた。しかし、夢の中でお告げがあった後に実際に詩を歌わせてみると、天地創造を題材にした見事な詩を作ったという記録が残っている。これ以降、ケドモンに習って宗教詩を作る者が多く出たという(pp. 177-178)。

・ケドモンと同時代に司教アルドヘルムもキリスト教思想を含む古英詩を作ったという記録がある(p. 181)。しかし、彼の作品は純粋なキリスト教詩と呼ぶにはやや世俗的であり娯楽性に富んだものであったため、ビードは彼をキリスト教詩の作者としては認識していない。また、彼のラテン語の韻文については模倣者が現われたとされるが、彼の古英語のキリスト教詩に関して模倣者が出たという記録は残っていない(p. 184)。

・ケドモンが生きた時代(600年代後半以降)には、詩作の習慣はそれほど身分の高くない人たちの間にまでも浸透していた(pp. 185-186)。

・ケドモン以前の古英詩は、異教的、呪術的、あるいは儀式的な性格を多分に持つものであったり、それを模倣した極めて世俗的内容のものであったりと、およそキリスト教とは結びつかない代物であったと考えられる。その結果、キリスト教が伝わって70年もの間、古英語でキリスト教詩が作られなかったと考えられる。ケドモンは、キリスト教詩の伝統を築き上げることで、このような古英詩の低い地位を高め、その結果、古英詩が写本に書き写され後の時代に伝えられるようになるその最初のきっかけを与えたと言うことができるだろう(p. 186)。

・ケドモンは、それまで異教的あるいは世俗的な物事に対して用いられていた古英詩の用語や定型句を、キリスト教的な事柄へ応用するための方法を発明した(元来は異教の神々のための語句をキリスト教の神に対して用いるなど)(p. 186)。また、内容的にはラテン語版の聖書のパラフレーズであったとしても、形式としては、古英詩特有の表現技法を十分に導入している(p. 190)。

 

<第7章:キリスト教詩1-キュネウルフとその一派>

・アングロ・サクソン時代の詩では、詩人が詩とともに自らの名前を残す習慣はなく、基本的に詠み人知らずであった。しかし、ルーン文字を使って暗号のような形で自分の名前を自らの詩に残していたのが、キュネウルフという人物である。キュネウルフは、詩の中にルーン文字を組み込んでいき、それらをつなげるとキュネウルフという名前が現われるという仕組みを取った。このことは1840年に明らかにされた(p. 202)。

・ケドモン一派の詩は、聖書等の物語を伝統的な古英詩の形に置き換えることに重きが置かれたのに対し、キュネウルフの詩はラテン語の原典に基づき、教訓や説教的な要素に重きが置かれている(p. 204)。

・キュネウルフの後には、キュネウルフの作風を真似た模倣団(キュネウルフ一派)が現われたと考えられている。彼らは、新たな表現を考案して使ったり、既に存在していたもののそれほど頻繁には用いられなかった表現を使ったりして詩作を行った(p. 204)。

・ケドモンとその一派は、ややもするとゲルマン的で無骨な印象のある言葉遣いや話の内容が含まれていることが多かったのに対し、キュネウルフとその一派はより洗練され、明らかにキリスト教的で教訓的・説教的要素を多く含む詩を作ったと言える(pp. 204-205)。

・キュネウルフの詩は、口承文学としてではなく、読み物として作られているという特徴がある。キュネウルフが自身の名前を詩の中に埋め込んだ方法なども読み物としての詩を前提としている(p. 205)。

Christ Aと呼ばれる作品(キュネウルフの署名は含まない作品。キュネウルフの署名があるものはChrist Bと呼ばれている)は、イギリス最初の戯曲と呼ばれることもあるほど、古英詩には見られない特徴を持っている(p. 210)。

・キュネウルフ一派と呼ばれる人々に作品群には、動物寓話詩がある。動物寓話詩は、2世紀か3世紀にギリシア語で書かれたのが最初と言われているが、それ以降ギリシア語、ラテン語、ロマンス語、ゲルマン諸語で様々な作品が残されている。古英詩における動物寓話詩もこのような流れに則ったものであり、ラテン語のものを元にしていると言われている(p. 219)。

 

<第8章:その他の詩作品>

・アングロ・サクソン時代の文献の多くは羊皮紙や子牛皮紙等に羽ペンで文字を書き付けた写本によって伝わっている。そして、これまで紹介してきた古英語の代表的な作品の多くは、Junius MSVercelli BookExeter BookBeowulf MSという四大写本のいずれかに含まれている(p. 220)。

・古英詩の謎詩はExeter Bookによってのみ現在に伝わっている。謎詩というのは、そこに歌われているものが何であるかを当てる謎々の詩で、それぞれの謎詩には答えがあるかが、現在となっては答えが定かでないものも少なくない(p. 222)。

・謎詩はラテン語で盛んに作られており、古英詩の謎詩はそれらから影響を受けて作られたものと考えられている。謎詩の題材は極めて卑近で世俗的なものから宗教的なものまで様々である(p. 222)。

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2015年9月25日 (金)

D.S.Miall(2005).「Beyond Interpretation: The Cognitive Significance of Reading」を読む(H.Veivo,B.Pettersson,&M.Polvinen(編),『Cognition and Literary Interpretation in Practice』,Helsinki University Press)

文学研究の進むべき方向性について議論されています。この中で、文学研究の新たな方向性としてPeter Stockwellが提唱している認知詩学が、結局従来の文学研究の中に留まっているとして厳しく批判されています。

Miall, D. S. (2005). Beyond interpretation: The cognitive significance of reading. In H. Veivo, B. Pettersson, & M. Polvinen (Eds.), Cognition and literary interpretation in practice (pp. 129-156). Helsinki: Helsinki Univesity Press.

概要

この論文では次の事柄が議論されていました。

(A) 解釈するのではなくて経験するという観点から文学読解にアプローチし、それを実証的に研究することの重要性

(B) 進化という観点から文学の意義を考察のする重要性

(C) 感情面を考慮に入れた研究の必要性

●解釈するのではなくて経験するという観点から文学読解にアプローチし、それを実証的に研究することの重要性

著者は、文学研究は解釈というものに固執するあまり、一般的な読者を遠ざけてきたと指摘します。そして、今日の文学研究の危機は、文学者が自ら招いたものであると述べます。文学研究の危機を打開するためには、一般的読者の読みに関する実証的研究が必要であると主張されています。ただし、そもそも文学を読む人の数が減っているという現実もあるようです。

そこで、何か新しいことをする必要があります。その一環として、Stockwellは認知詩学を提唱しています。しかしながら、著者に言わせれば、認知詩学も結局は解釈に固執しており、かつ本当の読者を扱っていない、さらに感情という側面を一切考慮に入れていない、という点で大きな問題があるとします。著者は、認知詩学は教室での実践に応用するには時期尚早であることを指摘した上で、なぜ実証研究へと踏み出さないのか疑問を呈しています。なお、文学読解に関して実証的に研究する際には、トップダウン処理とボトムアップ処理両方の観点から進められるべきと述べられています。著者は文学の読みを実証的に調査した重要な研究として、文学の経験的研究に属す先行研究を紹介しています。

●進化という観点から文学の意義を考察する重要性

次に、文学を進化の産物として考察し、人間はなぜ文学を手にしたのか検討することの重要性が議論されています。著者は、"human behaviour, in other words, is managed and directed by a richly developed set of emotion algorithms. It is in this context that we should seek to place literature and understand its workings." (p. 143) と述べています。そして、検討すべき問いは、"how far it represents a functional solution to the adaptive predicaments that faced our ancestors in the Pleistocene" (p. 144) であると主張されています。著者は、前景化(音韻レベル、統語レベル、意味レベル、語りレベルの前景化)の進化上の意義として次のように述べます。

"The process common to each of these constituents is that of dehabituation, which could be explained in evolutionary terms as the agent we deploy through literary texts to 'tune' or modify our cognitive frames; in more familiar terms, it enables us to overcome our customary, economical habits of feeling or perception. The truth-value of perception is obviously of central importance to survival: it perhaps constitutes 'those first-born affinities that fit / Our new existence to existing things' in Wordsworth's terms (The Prelude (1805), I, 583-584; Wordsworth 1979)." (pp. 145-146)

"literary response, I would suggest, has evolved in particular as a way of unsettling the stereotypical. In particular, by defamiliarising, literature enables us to 'recalibrate' our emotional responses. As Dissanayake has shown (1992: 50), every culture appears to promote what might call a 'defamiliarising' mode of mind, a 'making special', which prepared the individual for recognising and participating in an unusual experience: developed at first, perhaps, for encountering the sacred and the rituals that developed around it, literary experience may subsequently have incorporated linguistic and narrative cues to alert the hearer to adopt a special mode of attention. Dissanayake notes that many cultures make use of specific devices to signal poetic utterance, such as a special tone of voice (113-116). Internalised in the texture of language as foregrounding it is these cues, in part, that we now recognise as giving literature its distinctiveness as a medium." (p. 146)

"As I suggested earlier, literature functions by exhibiting to us the limitations and inadequacy of our representations. It is thus not primarily a representational medium, but one for modifying or transforming representations, in particular by alerting the feelings we typically experience. The aesthetic qualities of literature, then, are its principal vehicle for achieving such effects." (p. 146)

●感情面を考慮に入れた研究の必要性

第3に、文学の感情的側面について研究することの重要性が議論されています。著者は、認知詩学もたびたび感情的側面に言及してきたものの、体系的ではなかったと述べます。そして、Miall and Kuiken (2002) のモデルが最も体系的であると述べています。また、認知詩学は、感情を認知処理に随伴する副次的なもとしか考えられてこなかったとも述べます。著者は文学読解における感情の役割として次のように述べています。

"In brief, we suggest that feeling facilitates bordercrossing, that is, feelings enable us to relate concepts in unrelated fields. Second, feeling prompts us to take a certain stance towards events, preparing us to interpret incoming evidence in a specific way; anticipation of this kind seems to be one of the fundamental properties of feeling. Third, a more common claim, feeling is generally self-implicating; it occurs when some issue of our self-concept is in question." (p. 149)

以上の議論を踏まえた上で、著者は次のように認知詩学を強く批判しています。

"while cognitive poetics fails to take feelings seriously under consideration, to conduct empirical studies of the experience of reading, and to place the literary experience in an evolutionary framework, it may also be missing what makes literary reading distinctive. ... The choice facing cognitive poetics now is whether to continue with a limited and perhaps limiting focus on interpretation, or seek to situate literary study within an explanatory scientific framework in which the phenomena of interpretation form only one corner of a much larger field." (p. 151)

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遊佐典昭(2012).「ブローカ野における階層構造と回帰的計算」を読む(藤田耕司・岡ノ谷一夫(編),『進化言語学の構築:新しい人間科学を目指して』,ひつじ書房)

生成文法の枠組みにおける併合(または階層構造)の重要性を確認した後、ブローカ野のどの部分が併合に関してどのように関与するのか先行研究から考察されています。

遊佐典昭(2012).「ブローカ野における階層構造と回帰的計算」.In 藤田耕司・岡ノ谷一夫(編),『進化言語学の構築:新しい人間科学を目指して』(pp. 77-94).ひつじ書房.

概要

著者は、内在言語としての言語をモデル化する上で、これまで有限状態文法(有限個の状態を状態推移確率で結びつけるマルコフ過程に基づくもので、コネクショニスト・モデルに該当)、文脈自由形句構造文法が提案されてきたものの、いずれも限界があるということを指摘します。そして、併合という考え方こそが統語の回帰性(統語論でよく取り上げられる埋め込みはその一部に過ぎません)(つまり階層構造)を説明することができると述べます。

次に、著者は左脳のBA 45(三角部)-BA 44(弁蓋部)-BA 6(背側運動前野)というコネクションに着目します。細胞構築的には、BA 6が最も古く、BA 45が最も新しく、BA 44はその中間とのことです。

著者は、次の2点の考えを提示しています。

  1. BA 45は言語に特化した階層構造を処理し、人間言語とそうでない言語のすみわけを行っている(p. 86)
  2. BA 44は言語に特化しない汎用的併合(汎用的階層構造)の処理を担うのではないか(ただし、高度な階層化を必要とする行動計画は、BA 45が関わるようです(p. 90))。

また、進化言語学という観点から次のような見解も示しています。

「このBA 44における領域横断的併合が生み出す階層構造が、BA 45で内心構造を伴う統語構造に特化し、その統語処理が行われるようになったのであろう」(p. 90)

なお、著者は論文中で様々な先行研究の調査結果を紹介していますが、私は特に以下の情報に関心を持ちました。

  1. ブローカ野とウェルニッケ野をつなぐ弓状束は、人間では密であるが、チンパンジーでは薄く、マカクザルでは欠如している(p. 84)
  2. ブローカ野とウェルニッケ野は、弓状束以外に、背側経路と腹側経路でつながっている(p. 84)
  3. 言語のサヴァンであっても、構造依存性に違反した人工言語(階層性に基づかない人工言語)は獲得できない(p. 85)
  4. 視覚言語であっても構造依存性を示す(p. 85)
  5. 第二言語の臨界期・感受性期を過ぎた学習者が、教授以上の統語知識を獲得する際にはBA 45が優位に賦活する(p. 86)
  6. ミラーニューロンは、細胞構築学的観点から、あるいは運動機能の観点から、BA 44との相同性が議論されている(p. 89)
  7. 動作動詞文と非動作動詞文では、前者の場合にBA 44 を含む領域が優位に賦活することが確認されている(p. 89)

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2015年9月18日 (金)

M.Burke(2015).「The Neuroaesthetics of Prose Fiction: Pitfalls, Parameters and Prospects」を読む(『Frontiers in Human Neuroscience』)

著者は文学、とりわけフィクションの脳科学的研究がほとんど行われていないことを問題視しています。そして、既に行われている萌芽的研究をレビューし、特にリズム構造などに着目しながら研究を進めていく方向性を提案しています。

Burke, M. (2015). The neuroaesthetics of prose fiction: Pitfalls, parameters and prospects. Frontiers in Human Neuroscience, 9, 1-12. doi: 10.3389/201500442

概要

著者は、古代ギリシアや古代ローマの時代には文学は他の芸術様式と比較して決してマイナーではなかったことを確認します。その上で、なぜ今日において他の芸術様式の脳科学的研究が進んでいるにもかかわらず、文学に関する脳科学的研究がほとんど着手されていないのか原因を検討しています。著者が指摘している原因は次の通りです。

  1. 文学は、絵画などとは違って純粋な視覚芸術とは言えず、複雑な芸術形態であるため(p. 3)
  2. 文学研究は、他の芸術様式の研究と違って、テクストの美に関する読者の評価という側面を扱ってこなかったため(p. 4)

次に、著者はこのブログでも過去にレビューしたGreen (2004) のtransportationという概念を発展させて、disportationという概念を、文学読解のキー概念として提示します。著者は、両者の概念の違いについて、次のように説明しています。

"Transportation entirely takes place in the flow of narrative events: in what can be seen as the implicit, non-consciouss, swift narrative processing of backgrounded, mainly "story advancing", textual elements. The lead up to disportation starts in th same non-conscious domain as transportation, but the event of disportation itself can only take place once the explicit, slow narrative processing of foregrounded, chiefly, "story enriching" rhetorical textual elements have been reached. This is neither fully non-conscious nor fully conscious, but somewhere in between, and probably functioning on a continuum flowing in and out of conscious appraisal." (p. 5)

Greenの概念との違いは、著者の文体論の背景に由来しており、更にこの概念について次のように説明しています。

"The hedonic moments of reading experienced during disportation are largely unpredictable and can appear at any time in a literary text, as they rely in part on non-conscious memory, which is often autobiographical. However, highly crafted, strategically placed networks of linguistic rhetorical style, (placed consciously or otherwise and often concentrated at the end of a story) such as repetition, parallelism and deviations of rhetorical figures such as schemes and tropes, combined with themes, can help prompt and stimulate such hedonic, disportive episodes. Such occurrences, although rare, are always accompanied by brief yet intense emotion. There is also often a sense of felt movement or motion, a rising up followed by a descent. Motor and proprioceptive and vestibular brain regions are engaged during such episodes. The cerebellum plays a central role here. A distinction is generally made in humans between conscious and unconscious proprioception. Conscious proprioception is communicated by the posterior column-medial lemniscus pathway to the cerebrum (Fix, 2002), while unconscious proprioception is communicated primarily via the dorsal spinocerebellar tract and ventral spinocerebellar tract to the cerebellum (Siegel and Sapru, 2010: 263). Disportation would appear to make use of both systems. Style and memory play a critical role in such disportive, and indeed all, aesthetic experiences (see Skov, 2009: 10). Following Ishizu and Zeki (2011), and given the aesthetic nature of disportive events, it can be plausibly argued that at some stage the medial orbitofrontal cortex might be involved in acts of disportation—exactly when this takes place in the process remains as yet unclear." (p. 5)

次に、著者は文学の脳科学的研究についてレビューしています。この記事では割愛しますが、Jacobs及び彼のグループによる研究、著者自身が2011年に出版した著書の内容が簡潔に整理されています。また、Miallらの心理言語学的な研究にも言及があります。

また、フィクションの脳科学的研究をもっと盛んに行っていこうとするにあたって、文学の経験的研究、文体論、認知詩学の蓄積を活用することが提案されています。しかしながら、文学読解を脳科学的に研究することは現状では非常に困難であるということも事実であり、その難しさについて次のように述べています。

" In short, the current challenge to neuroscience — pertaining to the elusive nature of meaning in the brain and the perplexity of literary reading induced mental imagery and its non-conscious and locative challenges — means that, for now, neuroaesthetics would be wise to explore more accessible ways into the brain. One such way would be to take as a starting point a rich vein of current neuroaesthetic study, namely, music." (p. 8)

著者は、"It is these discrete musical, rhythmical literary structures like meter and style figure schemes (appropriately termed "devices" by Skov, 2009: 13) that will help neuroaesthetics enter and record the cortical world of literary discourse processing." (p. 10) と述べ、自身がchiasmasを例として行った研究(Burke, 2013: このブログで過去にレビューしているため割愛)についてレビューしています。

また、文学読解における情意面の重要性、文学的技巧の処理はどちらの半球で行うのか調査結果が分かれていること(Zemanは左脳という結果を得たのに対して、Jacobsは右脳という結果を得ています)にも触れられていました。

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2015年9月 8日 (火)

E.Ibsch(1997).「Systems Theory and the Concept of "Communication" in Literary Studies」を読む(『Canadian Review of Comparative Literature』)

Ibsch, E. (1997). Systems theory and the concept of "communication" in literary studies. Canadian Review of Comparative Literature, 24 (1), 115-118.

著者は、文学の経験的研究におけるSiegfried J. SchmidtとNorbert Groebenの貢献に言及した後、特に前者に焦点を絞り、そのシステム論的考えをルーマン(Niklas Luhmann)のそれと比較する中で特徴を挙げています(ルーマンは同質的なコミュニケーションシステムを念頭に置いていたのに対して、シュミットはシステム内に異質的なサブシステム等を認め、さらにsocial actorsという存在を認めたことが指摘されています)。

著者は、ルーマンの理論は文学研究者には非常に魅力的なものであり、ルーマンの考えに比較的忠実な立場で文学システムを考えているHenk de BergとMatthias Prangelについても紹介しています。de BergとPrangelの論文もこの特集号には含まれていますので、詳しくはその論文を直接参照する必要があります。一言に文学システムと言っても、様々な立場があることが分かります。

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2015年9月 4日 (金)

N.Phillips(2014).「The Art of Attention: Navigating Distraction and Rhythms of Focus in Eighteenth-Century Poetry」を読む(K.Parker&C.W.Smith(編),『Eighteenth-Century Poetry and the Rise of the Novel Reconsidered』,Bucknell University Press)

18世紀の詩人が抱いていた読者の注意に関する懸念と今日の注意に関する脳科学的研究の接点が見出されています。

Phillips, N. (2014). The art of attention: Navigating distraction and rhythms of focus in eighteenth-century poetry. In K. Parker & C. W. Smith (Eds.), Eighteenth-century poetry and the rise of the novel reconsidered (pp. 187-206). Lewisburg, WV: Bucknell University Press.

概要

著者によると、18世紀には作品の流通量が増え、当時の作家は、読者は注意散漫に作品を読んでしまうのではないかということを心配していたそうです。そこで、作家はリズムや反復、語の結合や統語のアレンジなど様々な工夫をこらし、読者の注意を引きつけようとしてきました(そして、技巧と注意の関係についての問題は近年の研究で再度注目されています)。しかし、中にはわざと読者の注意をかき乱すような書き方をして、作品中で読者に「この作品に集中しなさい」と述べるようなユニークな作品も見られたそうです(John Gay(1716)のTrivia)。

また、18世紀には、読者の注意とは単一的で1つのものにのみ向けられるものなのか("a single, unifocal line of sight" (p. 196))、それとも複数的で同時に様々なものに対して向けることができるものなのか(a multi-focual paradigm of attention(p. 196))、論争があったそうです(後者の方が新しい立場です)。そして、この論争は現在の脳科学的研究で言うところの、spotlight theory of focusとdynamic attending theoryの論争にそのまま当てはまるとしています。一般に、脳科学的研究では、せいぜい20世紀初頭ぐらいの議論までしか遡って考えることをしませんが、実は18世紀にその起源があり、この当時の考えが今日の論争に重要な影響を与えていることを認識する必要があると著者は指摘しています。

著者はこの論文を次のようにまとめていました。

"Singular attention may have been what dominated eighteenth-century talk about poetry, but the poems themselves model (and demand) complex, multilayered matching of rhythm and thought. Eighteenth-century verse invites a dynamic mode of engagement that is far more complex than merely protecting the readers' mind from distractions, or focusing in on a single line of verse. This very dissonance between poetic theory and practice in the Enlightenment also marks it as a crucial period in the history of attention, laying out critical terms of debate - as well as ongoing tensions - that have continued to shape modern cognitive studies of attention and rhythm. They have emerged, refigured, in the modern rivalry between a more linear "spotlight model" (unifocal) and the more temporal paradigm provided by "dynamic attention theory" (multifocal) in experimental neuroscience. My point is not to suggest that eighteenth-century poets simply "intuited" a modern cognitive truth regarding rhythm's influence on focus. More importantly, it is to illuminate how crucial a historical role the Enlightenment - particularly Enlightenment verse - played in the development of contemporary ideas about concentration. Recognizing this connection means not only bringing cognitive science to literature, but literature, and its history, to cognitive science. Bringing poetry into central focus as we trace this history, moreover, enhances ths story we would otherwise tell about attention in the eighteenth-century based on the novel alone. Rather than merely retelling a familiar story of absorption, in which readers are inevitably "lost in a good book," we can begin to outline a far more complicated picture of attention itself - one divided into intricate styles and degrees of concentration, as well as the distinctive rhythms of focus each genre and work creates." (p. 202, emphasis in original)

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2015年9月 3日 (木)

今井邦彦(2015).『言語理論としての語用論:入門から総論まで』を読む(開拓社)

著者は、語用論的現象をモジュール的にとらえることが必要であると考えており、現在のところ関連性理論が唯一このような立場を取って語用論的現象に取り組んでいると述べます。そして、その他の語用論理論及び認知言語学は、このような考えを取っておらず、その結果として大きな問題点を抱えていると指摘しています。

今井邦彦(2015).『言語理論としての語用論:入門から総論まで』.開拓社.

<序論:語用論とはなんだろう>

このセクションでは語用論に関してかなり基本的なことが議論されています。なお、フレーゲやラッセルなど、人工言語について研究した人々を総じて「理想言語学派(Ideal Language School)」と呼ぶそうです(p. 7)。

<第1章:関連性理論>

関連性理論が分かり易く解説されています。具体的に述べられていたのは以下の事柄です。

1. 関連性理論は、意味確定度不十分性のテーゼを立ており、聞き手は語用論的過程によって発話の言語形式に意味的な肉付けを行って言葉を理解している(p. 22

2. 語用論的過程には、あいまい性除去(p. 25)、飽和(p. 25)、アドホック概念構築(p. 28)、自由補強(p. 30)、があり、これらは総称して「発展」と呼ばれる。これらは後述する明意の獲得に関わる。さらに、語用論的過程にはこれら4種に加えて、暗意の獲得と高次明意の獲得も含まれる。

3. 発展によって得られる命題は表出命題と呼ばれ(p. 34)、意図的かつ明示的に伝達されるものを「明意」と呼び(p. 36)、意図的かつ非明示的なもの(発話の言語形式とコンテクストに基づく推論から得られるもの)は暗意と呼ぶ(p. 37)。

4. 発展と暗意はともに推論であるが、「発展は発話の言語形式を何らかの手掛かりにして行う推論であるのに対し、暗意は推論のみによって得られる想定である」(p. 40

5. 発話には、明意と暗意に加えて、高次明意(p. 41)がある。高次明意では、概念や命題の転化的使用がなされる(p. 47)。

6. 「ある人が頭に浮かべることのできる想定の総和をその人の「認知環境」と呼ぶならば、人間とは自分の認知環境が改善されることをいつも(ほとんどの場合無意識に)望んでいる存在」(p. 54)であり、「関連性がある」とは、認知環境を改善する作用(=認知効果)を持つことと同義である(p. 54

7. 人間は、関連性により意味理解を自動的に開始してしまう存在に進化した(p. 57)。人間の認知活動は、関連性原理Ⅰ(p. 57)が根底としてあり、さらに人間の認知は意図明示的伝達行為(情報的意図と伝達的意図に基づいて行われる伝達)に出会うと、自動的に推論を始めてしまう(このことは、関連性原理Ⅱとして定式化されている)

8. 解釈の手順は、認知効果を計算する上の努力が最小になるような形で進むため、必ずしも言語形式→表出命題→基礎明意→高次明意→暗意の獲得、といった順に進むわけではない。明意と暗意が同時に獲得される場合もあるし、高次明意の方が基礎明意よりも先に獲得されることもある。(p. 63

9. 発話解釈は、自動的/無意識的/非思慮行使的/迅速(=亜人格的)で、認知効果を得る上での努力が最小になるプロセス及び心の理論に従って行われる(p. 66, 67)。つまり、関連性理論は語用論的過程をモジュールとみなしている。(p. 67

上記2点目に関して、英語の単語がアドホック概念を表していることを表示する際には、単語を全て大文字で書き、右肩にアスタリスクを付ける習慣があるそうです(p. 29)。また、関連性理論では、皮肉は暗意ではなく、高次明意として分析されるそうですので、文体論で関連性理論を応用する際には要注意です(ついつい暗意と判断してしまいそうになります)。

上記7点目に関して、著者は、関連性理論は、発話解釈を亜人格的(=「人―というよりある一つの体系―が、何らかの入力を「原因」として、自律的・機械的・無意識的に、非思慮行使的に、そしてきわめて迅速に反応した結果起こったこととして説明される」(p. 65)に捉えているのに対して、その他の語用論は人格的(=「この行動は人が何らかの「理由」に基づいて、意識的・自発的に行った行為であると説明される」(p. 65))に捉えていると指摘します。その点で、関連性理論以外の語用論理論は科学理論足り得ず、大きな欠陥を抱えていると著者は考えています(p. 66)。

上記9点目に関して、著者はフォーダーの挙げたモジュールの性質(9つの性質のうち、本書では領域特定性、義務的操作性、操作過程の迅速性、が説明されています)について触れた後、現在の関連性理論は語用論的過程に関して100%モジュール説を採用していることを紹介しています(1986年の時点では、語用論的過程は(モジュールと言う比較的下位の情報処理を担うとされる箇所ではなく)、総合的判断などを行う中心的体系によって扱われていると考えていたそうです(p. 72))。

なお、本章の最初の部分で真理条件的意味論について簡単に説明がされています。現在の語用論・意味論のなかで真理条件的意味論を信奉しているのは、モンタギュー文法のみだそうです(p. 19)。

<第2章:言語行為理論・グライス理論・新グライス派>

著者は、AustenSearleVandervekenらの言語行為論をまとめた上で、予知を導けないものを原理・原則として立てており、科学として間違っていると指摘しています(p. 83)。著者は、発話解釈をモジュールとみなさず、モジュールの解明を研究目標として設定しなかったことがその原因と考えています(p. 83)。

次にGriceの理論を解説しています。そして、以下の問題点が指摘されています。

1. 実際に発話を分析してみると、格率違反に基づいては説明できないアイロニーがある(p. 95

2. 含意が機能する場合であっても、文字通りの意味も決して消え去らずに残っており、このことが考慮されていない(p. 96

3. レトリック的発話における含意と日常会話における含意を統一的に扱い損ねている(p. 96

4. 「言われたこと」を決定する際にも格率(語用論的操作)が必要であるにもかかわらず、このことを認識していない(pp. 96-97

5. 結局Griceは、他にも多くの説明すべき語用論的側面があるにもかかわらず、「含意されたこと」の中の会話の含意しか考慮していない(p. 97

6. グライスは、関連性理論が言うところの明意を扱うことができず、もっぱら彼の言う会話の含意のみを対象としている(p. 97

7. 個々の格率にも問題がある(p. 97

次に新グライス派の考えと問題点が指摘されています。まず、Hornはグライスの格率をQ(uantity)原理とR(elation)原理に整理し直し、さらにQ尺度によって尺度含意が生じるという考えを提示しました(pp. 104-106)。しかし、結局この分析によって明らかにされることは語用論的側面のほんの一部であり、関連性理論の語用論的過程による考えの方がはるかに優れていると著者は考えています(p. 107)。Hornと関連性理論の間にはかなり論争があるようです(pp. 108-116

次にLevinsonの考えが整理されています。Levinsonは、Q(uantity)原理、I(nformative)原理、M(anner)原理という3つの原理を立てています(まだ文体論ではそれほど知られていなませんが、M原理は文学作品の言語と大きく関わる考え方だと思います)。ただし、やはりLevinsonの考えも理論的には語用論的現象のすべてを扱うことはできず、関連性理論の方が優れていると著者は考えています(p. 125)。また、Horn同様に(ただし、Hornの理論を扱った箇所では触れられていませんでしたが)、含意の中に独立した2段階(一般的会話の含意と特殊化された会話の含意)を設けており(これはGriceから引き継いだものとされています)、両者は明確に区別することが難しいことから、このことも理論上問題があると著者は指摘しています(p. 126)。

ついでに、著者はポライトネス理論にも触れ、この理論にも大きな問題点があると述べています(pp. 127-130

<第3章:認知言語学>

著者は、認知言語学の前身として生成意味論に触れた後(p. 132159)、言語自律論の否定という立場について解説をしていきます。その中で、クリストファーの事例、ウィリアムズ症候群、カクテルパーティー症候群に触れて(pp. 142-146)、認知言語学の問題点が指摘されます(メンタル・スペース理論などが抱える問題点などはかなり厳しく指摘されています(p. 152))。また、認知言語学の成果として、メタファー、プロトタイプ(生成意味論では単語の意味を「構造を持つ意味素ないしは意味素性」としたのに対し、認知意味論ではプロトタイプ説を提唱)、把握、について触れますが、それぞれに問題があり、関連性理論の方が優れていることが指摘されています。著者が考える、認知言語学の最も重大な問題は、認知言語学が言うところの認知の構造と機能を説明する(これらについて新たな発見をする)ための「窓」を持っていないことだそうです。著者は、認知言語学は結局は、言語と意味の共通性に関して「理論めいたことを呟いているだけである」(p. 180)と強く批判しています。

著者は最後に関連性理論について次のようにまとめています。

「関連性理論は発話解釈の具体的過程を明らかにすることにより、その根底に関連性理論があることを発見した。解釈の手段と心の理論の亜人格性を明らかにした。これも発見である。そしてこの章で幾分詳しく論じたように、解釈の可動性と文脈移動性は100%モジュール説により説明され、モジュールには生得的なものと、生得的なモジュールから派生するモジュールのあるらしいことが分かった。」(p. 180

また、「モジュール性と言う組織は、環境に順応し、あるいは反応することによって生じた進化の産物であると考えられる」(p. 176)とも述べています。

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2015年9月 2日 (水)

S.J.Schmidt(1997).「A Systems-Oriented Approach to Literary Studies」を読む(『Canadian Review of Comparative Literature』)

特にsystemとobserverという語を中心として、社会システムとして文学をとらえるとはどういうことかが解説されています。著者はルーマンの立場と比較しながら(特に、p. 122、126、127)、自身の立場を解説しています。

Schmidt, S. J. (1997). A systems-oriented approach to literary studies. Canadian Review of Comparative Literature, 24 (1), 119-136.

概要

この論文で提示されている著者の考えは次の通りです。

  1. 文学システムはいくつかの相互関連的なサブシステムから構成される(p. 122)
  2. 文学システム内の行為者は社会的関係によってその行為が方向づけられている(p. 123)
  3. 文学システム内のサブシステムは、自律的なものとそうでないものがある(p. 123)
  4. 文学システムには、actors and their cognitive domains、communication、social structures and institutions、media offerings、the symbolic orders of cultural knowledgeという5つの相互関連的側面があり、これらの相互作用が文学システムを自己組織している(p. 124)
  5. 上記5つの側面は、文学システム以外の他のシステムと関わることもある(文学システム内に完全に収まっている必要はない)(p. 124)
  6. 文学システムとサブシステムの相互作用は、出来事、プロセス、構造の3つのレベルで具現される(p. 124)
  7. 現代社会では、行為者は産出、媒介、受容、ポスト・プロセスの4つの次元で活動する(p. 124) 
  8. "All activities in the literary system are oriented towards, and interpreted in the light of, collective (i.e., mutually expected) cultural knowledge (including values, norms, and emotions) acquired by each actor in the process of literary socialization" (p. 124)
  9. "Actors may generally be divided into two sets: professional and non-professional actors, who may both be members of elites" (p. 124)
  10. "it is more plausible, in my view, to model literary phenomena as (a) fuzzy set(s) with changing components and variable hierarchies resulting from complicated processes of canonization (including de-, peri- and re-canonization)" (p. 125)
  11. 文学性は文学コミュニケーションという自律的プロセスの中で定義される(p. 125)
  12. 対象物や現実は、観察者によって、さらに対象者の背後にあるcollective cultural knowledgeによって構築される(p. 129)
  13. "meanings are, of course, not attributed to texts in an arbitrary way although each cognitive system has to perform this attribution, since the degrees of freedom in this operation are socioculturally determined by the materials, rules, and orders of communication" (p. 130)
  14. "the regulation of meaning production happens in the closed circle ... of operations and orientations between the poles of cognition, media, communication and culture, including structural as well as genetic aspects" (p. 130)

著者は文学についてこのようなシステム論的立場を取ることは非常に有益であると述べてこの論文を締めくくっていました。

"the constant reflection of the many aspects of the key concepts "system" and "observer" is necessary (or at least helpful) to construe our subject domain with all due complexity (going from texts to literary sytems). This reflection reminds us of the oconstructivity of all our cognitive and communicative enterprises. That is to say, the main focus of our interest shifts from objects to processes, from identity to difference, from truth to contingency, from knowledge-what to knowledge-how." (p. 133)

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