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2015年6月30日 (火)

J.メイ(2001/2005).『批判的社会語用論入門:社会と文化の言語』(第9章:「文学語用論」)を読む(小山亘(訳),三元社)

文学読解とは作者と読者の創造的共同作業であること、文学作品を読解するためには言語的知識だけでなくその虚構世界のコンテクストに依拠する必要があること、が説明されています。

メイ,J.(2005).『批判的社会語用論入門:社会と文化の言語』(小山亘(訳)).三元社.(原著は2001年出版)

概要

著者はまず一般的な商品の購入と文学作品の購入を比較し、次のように述べています。

「文学の生産と消費の世界では、状況は非常に異なっている。人は単に本を買うのではない。作者を買って家に連れて帰るのである。テクストを生産するときに作者がした仕事は、読者によって補完され、完成されなければならない。読書は、作者と読者の間で起こる共同作業(協働)である。読書は、積極的な再創造[re-creation]という生産的な過程であり、「娯楽施設、娯楽感受能力[recreational facility」のような類のもの、受動的な、先決された、型に嵌まった使用ではない。」(p. 357)

さらに作者と読者の関係については次のようにも述べています。

「読者は、テクストが提示する限界によって制約されているが、その一方で、テクストは、読者が作者と協働して適切なテクスト的世界を構成するのに-読者が生活する世界や時代を印付ける、より広範なコンテクスト的諸条件に見合ったテクスト的世界を構成するのに-必要な程度の自由も提供する。」(p. 358)

著者は「物語の中の物語」を例として作者と語り手の関係について説明し(作者は語り手を通してのみ読者と関わることができる)、言及指示の理解や時制の使用、そしてそれらを一部として含む談話言説、視点(著者は「声」と呼んでいます)、が言語的原因だけでなくテクスト世界(虚構世界)に依存していることが示されます。

著者は以上の議論を受けて読書という行為を次のようなものとして記述しています。

「読むという語用実践行為は、テクストが開いたままにしておく穴を読者が進んで埋め、物語の再創造の過程に作者と協同して関わるように読者を誘うことを意味する。十分な背景がある時、「言われたこと」、つまり話者の明示的な言語行為が、多くの場合には不必要であるのとまさに同じように、読み手による理解という行為は、実際のテクスト(あるいはコ・テクスト)で、あれほど多くの言葉を使って表現されたものには依存せず、これらの言葉がそこに見出されるコンテクストの全体、そして作者と読者の間の能動的な語用実践的な協同を通して意味を成すことが理解されるコンテクストの全体に、依存している。私たちを能力のある「多才な」読者・・・たらしめる特徴となるものは、この自発的でほとんど無意識の、テクストの溝を埋めるという行為なのである。一方、このテクストの語用論的特徴は、作者に対して、我々読者に、読むことが可能な、「穴埋め可能」なテクストを提供する義務を与えもする。」(pp. 385-386)

ただし、「他の語用実践行為と同じように、読書においても、すべての(文学的あるいは非文学的)理解は、諸々の一般的なコンテクスト的条件と前提によって初めて可能になる」(p. 386)と述べられており、文学と非文学の語用論的違いについては不明のままとなっています。本書は語用論の本ですので、文学というこれまで特殊と考えられてきた言語においても、日常言語と同じような語用論的特徴があるということを示すことに主眼があるようです。

なお、著者が実例として頻繁に引用していた、Nélida Pinon 作『A República dos Sonhos』とWillam Faulkner作『As I Lay Dying』では非常に面白い特徴を備えた語りがなされているようです。

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S.Tötösy de Zepetnek(1997).「Reading Pornographic Literature: The Author and Gender Appropriation」を読む(S.Tötösy de Zepetnek&I.Sywenky(編),『The Systemic and Empirical Approach to Literature and Culture as Theory and Application』,LUMIS)

作家は自身の性別を偽り、もう一方の性別の文体を作品中で具現しようとすることが多々あります。この論文では、読者がポルノ小説の抜粋を読んだ際に、作者の性別を見抜くことができるかどうか、作者は他の性別の文体を具現することができているのか、が調査されています。著者は最終的には、読者は読書中にどのようにテクスト内のジェンダー的要素を心的表象の中に作り上げるのか明らかにしたいとしています(著者は、この問題は読者の意味構築において重要な側面と考えています)。この論文は、その研究の第一歩です。なお、フェミニズム批評によって女性のテクストに注目がされるようになってきましたが、ポルノ小説に関する研究はまだ非常に少ないとのことでした。なお、ポルノ小説に関してもっとも適切な評価をしている文化圏としてフランスが紹介されています。英語圏やドイツは、性的描写を極端に避ける傾向があるということが紹介されています(なお、6世紀に書かれたラテン文学が英訳される際、そのテクストに含まれていた性的シーンはラテン語のままに残されて、英訳されなかったというエピソードも紹介されています)。

Tötösy de Zepetnek, S. (1997). Reading pornographic literature: The author and gender appropriation. In S. Tötösy de Zepetnek & I. Sywenky (Eds.), The systemic and empirical approach to literature and culture as theory and application (pp. 515-525). Siegen: LUMIS Publication.

概要

著者はポルノ小説では、作家の性別を問わず、一般に女性を物として描写する傾向があるそうで、今回の調査材料としては非常に向いている(作家の性別による違いが出にくいという点で)としています。

著者は3作品の抜粋を読むように指示し、その作家の性別はどちらか、どのようなところからそのように判断したのか、といったことを詳しく自由記述するように指示しています。調査参加者は34名で、ほとんどが人文学に関して何らかの学位を持っています。また、非母語話者もかなり含まれており、著者が紹介している2つの自由記述は非母語話者によるものです(ただし、博士課程在学者ないしは博士号取得者であり、かなり高い熟達度を持っていると予想されます)。

今回の主な調査結果は以下の通りです。

  1. 調査参加者は、かなりの確率(たいていは50%以上の確率)で作家の性別を見抜くことができた
  2. 女性の調査参加者の方が男性の調査参加者よりも作家の性別を見抜くことに長けていた(ただし、その原因の究明は今後の課題)

以上の結果から、著者は次のように論文を締めくくっています。

"It appears that  male authors did not successfully "appropriate" the female voice and thus their fiction and perhaps fiction then as a whole, may be gender specific. That is, at least in the case of a specific text-type, that of erotic and pornographic literature." (p. 524)

"men write men and women write women" (p. 524)

私は、3人中2人の作家の性別を当てることができました。興味のおありの方は、ぜひご挑戦ください。

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2015年6月29日 (月)

O.Yetkin,Z.Yetkin,V.M.Haughton,&R.W.Cox(1996).「Use of Functional MR to Map Language in Multilingual Volunteers」を読む(『AJNR Am J Neuroradiol』)

より大きな研究の予備調査です。5人の調査参加者に、母語、流暢な外国語、流暢でない外国語、でword generation task(文字を1つ提示し、その文字で始まる語を制限時間が来るまで言葉を発することなく考えるという課題)を行わせ、その最中の脳の活動がMRIにより調査されています。

Yetkin, O., Yetkin, Z., Haughton, V. M., & Cox, R. W. (1996). Use of functional MR to map language in multilingual volunteers. AJNR Am J Neuroradiol, 17 (3), 473-477.

概要

この調査の結果は以下の通りです。

  1. 3つの言語の課題において、左前頭葉が強く賦活した
  2. 流暢でない外国語では、母語及び流暢な外国語よりもその部位の賦活が強くなった

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2015年6月26日 (金)

D.Perani,S.Dehaene,F.Grassi,L.Cohen,S.F.Cappa,E.Dupoux,F.Fazio,&J.Mehler(1996).「Brain Processing of Native and Foreign Languages」を読む(『NeuroReport』)

母語(イタリア語)、7歳以降に習得した比較的熟達した第2言語(英語)、全く知識のない第3言語(日本語)で物語を聞く際の脳の賦活がPETにより調査されています。

Perani, D., Dehaene, S., Grassi, F., Cohen, L., Cappa, S. F., Dupoux, E., Fazio, F., & Mehler, J. (1996). Brain processing of native and foreign languages. NeuroReport, 7 (15-17), 2349-2444.

概要

調査方法は割愛し、この論文の主な結果のみをまとめます。

  1. 母語での理解では、いわゆるシルヴィウス溝周辺の言語野が賦活した(角回、上側頭回、中側頭回、下前頭回、側頭極)。また、右脳の上側頭回、中側頭回、側頭極、後帯状回も賦活した。また、右脳全体も活発に賦活した。
  2. 第2言語での理解では、上側頭回(両側)と中側頭回(両側)のみが強く賦活した。
  3. 母語での理解と第2言語での理解を比較すると、前者の方が後者のよりも左下頭頂-後頭野、左右側頭極、左下前頭回が強く賦活していた。
  4. 第2言語と第3言語の理解を比較したところ、調査参加者は前者の方は比較的しっかりとした熟達度を持っていたにもかかわらず、賦活に違いが見られた箇所はなかった。

また、著者らは上記の結果から、早い時期に母語への接触により形作られ、かつ第2言語等の処理には必ずしも賦活しない箇所(左下前頭回、左下頭頂-後頭野、両側側頭葉)があるようだと述べています。

また、この記事では割愛しますが、著者らはさらに日本語のテープを逆再生させた音声の処理についても調査しています。詳しくは、p. 2444をご参照ください。

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2015年6月23日 (火)

R.de Beaugrande(1987).「The Naive Reader: Anarchy or Self-Reliance?」を読む(『Empirical Studies of the Arts』)

実際の一般的な読者の文学読解(L1での読みです)を研究する必要性が豊富な事例と共に議論されています。

de Beaugrande, R. (1987). The naive reader: Anarchy or self-reliance? Empirical Studies of the Arts, 5 (2), 145-170.

概要

かつては作者を中心に文学研究が進んできましたが、近年ではその研究対象として読者に注目が注がれています。しかしながら、著者は、研究対象となっている読者はあくまでも理想化された読者であり、実際の一般的な読者(文学の専門的知識を持っていない読者)の研究はその意義が十分に理解されていないと指摘します。

著者は本当に重要なのはキャノンに埋め込まれた詩の解釈としてこれまでに提案されてきている読みを習得することではなく、どんな詩的なテクスト(found poetryも含む)に対しても自信を持って読みに取り組める一連の方略を習得することだと考えています。

著者はこれまでに専門的または歴史的側面を強調することなく一般的な読者をよりアクティブな読者へと成長させるための指導を追及してきました。その中で詩が最も短く、意味も凝縮しており、有益な教材であると感じてきたそうです。

著者は42名の大学生(1年生から4年生)に対して指導を行い(指導自体については詳しくは記述されていませんが、どのような活動を行ったのかということはp. 147の最終段落に記載があります)、最後のレポートで3つの詩を解釈させました。その結果、批評家が提示しているような解釈は必ずしも生まれませんが、彼らが提示する解釈はそれなりに体系的でまとまっていることが示されています。また、学年が上の読者の方がよい解釈を作り出すわけではなく、"Apparently, the exposure to literature instruction can lead some students to develop routines that actually impede spontaneous response by tying everything to a handful of standard themes." (p. 148) と述べられていました。また、L1での文学読解の調査ではありますが、辞書は自由に使ってよいという指示が与えられています。著者は、"poetry is a good occasion to reflect upon what words mean, even, or especially, familiar ones" (p. 149) と述べています。また、作者や作品の背景に関する情報は学習者には提示されていません。

著者は、以下の3つの作品の解釈を学習者に課しました。

  1. "The Cool Life" by Gwendolyn Brooks
  2. "White and Black" by James C. Kilgore
  3. "Many Ways to Go" by Emily Dickinson

最初の2作品は現代の作品であり、読者と文化的背景が共有されていますが、3作品目は100年ほど前に執筆された作品であるため、その作品が前提としている文化的背景を読者は持っていません(ですが、その文化的背景を補うような補足は一切与えられていません)。

この論文では、42名の読者がこれら3作品に対してどのような反応をしたのかが、詳しく記述されています。「個々の記述を見るとやや体系性に欠ける面も否定できませんが、調査参加者の反応全体を眺めてみると、一般的な読者であっても、十分に妥当な解釈を作り上げることができる」と著者は主張しています。

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2015年6月19日 (金)

大堀壽夫(2004).「物語の構造と発達」を読む(大堀壽夫(編),『認知コミュニケーション論』,大修館書店)

認知言語学の観点から、物語について整理がされています。ただし、ここで言う「物語」とは、文学作品の物語ではなく、世間話も含めた日常的な物語(ナラティブ)を指しています。文学理論や心理学、社会言語学などにおける物語に関する知見が、認知という観点から有機的に統合されています。

大堀壽夫(2004).「物語の構造と発達」.In大堀壽夫(編),『認知コミュニケーション論』(pp. 243-278).大修館書店.

概要

著者は、広く物語というものを成立させる要因を整理し、以下の5点に集約しています(p. 274)。

  1. いま-ここからの分離、すなわち別世界の構築
  2. 時間性と因果性、およびそれを実現する言語的手段(=ミクロ構造)の利用
  3. 他者の心理状態への洞察や視点の共有
  4. 社会的な相互作用から見た物語の枠組みの形成、特に評価の表明
  5. 出来事の全体的な進行についてのスキーマにしたがった構成(=マクロ構造)

上記1に関して、3歳児であっても、物語る際には過去時制を用いることが多く、別世界を話題にしていることを理解しているというデータが紹介されていました。

上記2に関しては、Rinehart (1984) の研究、物語の前景と背景という考え方、が紹介されています。さらに、前景と背景という考えを補足する過程で他動性という概念が紹介されています。日英対訳のテクストを分析する中で次の興味深い点が指摘されていました。

「第一に、日本語と英語の間で表現の差があるときには、日本語の方が低い他動性の表現をとる傾向がある。第二に、言語化のパタンの違いは、中間的な他動性をもった節において生じやすいことがわかる。後者の点は、談話の構成という点から理解される。はっきりした前景と背景をもつことは物語に必要だが、中間的な場合には、「裁量」の余地が大きくなり、言語ごとの自由度が高くなるのである。」(pp. 257-258)

さらに、池上(1987)を引用しながら、日本語に関して、「他動性の低いケースでは、過去形(完了の性質をもつ)にかわって現在形(未完了の性質をもつ)が用いられる」(p. 259)という点も指摘されていました。

上記3に関しては、心の理論について議論がされ、5歳を過ぎた頃に現れるとするデータが紹介されています。

上記4に関しては、Labov (1972) やLabov & Waletzky (1967) を整理し、自分が物語る内容に関して評価を与えることの重要性が説明されています。若者がどうでもいいことを語る際に「チョームカツク」と言うのも、物語る内容に評価を与える現象と解釈できると述べられていました。

上記5に関しては、Propp (1928) の魔法昔話研究とBartlett (1932) のスキーマ研究、Thorndyke (1977) の物語文法、がかなり詳しくレビューされています。

また、文学作品としての小説については次のように説明されています。

「文学作品としての小説は物語の基本特性の上にさらに技巧をほどこしたものである。そこではまた、時間性・因果性がそのまま直線的に表されず、さまざまな操作を受ける。」(p. 275)と説明されています。

また、幼児がいかにして物語る能力を発達させていくのかという点も整理されていました。3歳ごろでまでは筋の展開はなく、同じ構造を繰り返して、同じ話がぐるぐるとまわっている形を取りますが、3~4歳ごろに接続詞を使って文の時間的な関係がある物語を作るようになり(もちろんまだ節の構造という点では未熟ですし、接続詞の使い方も大人とは違います)、さらに5歳頃になるとマクロ構造(筋における因果性)を把握した上でミクロ構造を組織化して物語ることができるようになるそうです。

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C.Hsu,M.Conrad,&A.M.Jacobs(2014).「Fiction Feelings in Harry Potter: Haemodynamic Response in the Mid-Cingulate Cortex Correlates With Immersive Reading Experience」を読む(『NeuroReport』)

読書に夢中になって時が経つのを忘れるような状態の時の脳の賦活を調査しようとした研究です。Harry Potterシリーズがその刺激として使用されています。fMRIによる調査です。

Hsu, C., Conrad, M., & Jacobs, A. M. (2014). Fiction feelings in Harry Potter: Haemodynamic response in the mid-cigulate cortex correlates with immersive reading experience. NeuroReport, 25 (17), 1356-1361.

概要

Harry Potterシリーズの中から恐怖を誘う箇所とそのような強い感情を与えない中立的な箇所を抜粋し、各部分の読解中の脳機能について調査がされています。これまでの研究で、否定的内容、興奮させるような内容、あやふやな内容をもつ虚構は読者を時が経つのを忘れるほど読書に没頭させやすく、主人公に共感させると考えられてきました。今回は否定的な内容ということで、恐怖を誘う場面が調査に選ばれています。

ドイツ人大学生に原作とドイツ語訳でHarry Potterシリーズの抜粋を読ませていますが、この論文では言語の違いは分析されていません。他の論文で言語による違いが報告されているそうですので、またそのうちその論文についてはこのブログで紹介したいと思います。

調査方法は割愛しますが、この論文では次のような結果が報告されています。

  1. 抜粋の種類に拘わらず、文章読解中にはこれまでの先行研究同様に、両側中上前頭回(BA6)、両側外側前頭皮質と両側外側側頭皮質が賦活していた
  2. 絶対というわけではないが、否定的な内容の文章は読者を読書に没頭させる傾向がある
  3. 恐怖を誘う箇所を読んでいる際に、共感の中枢をなすと考えられている前帯状皮質中間部が強く賦活した

著者らは、特に上記3の結果から、次のような考えを提示しています。

"the immersive experience was particularly facilitated by the motor component of affective empathy for our stimuli from the Harry Potter series featuring particularly vivid descriptions of the behavioural aspects of emotion" (p. 1356)

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2015年6月17日 (水)

R.Viehoff(1988).「Preliminary Remarks to "Coherence" in Understanding Poems」を読む(J.P.Petöfi&T.Olivi(編),『From Verbal Constitution to Symbolic Meaning』,Helmut Buske Verlag)

L1で詩を読む際に、読者はどのようにしてその意味の一貫性を作り上げる準備をするのか(どのようにして美的慣習に基づく言語処理を選択するのか)ということが調査されています。また、冒頭ではfound poetryに関する面白い事例も報告されています。文学の経験的研究の比較的初期の論文となります。

Viehoff, R. (1988). Preliminary remarks to "coherence" in understanding poems. In J. S. Petöfi & T. Olivi (Eds.), From verbal construction to symbolic meaning (pp. 397-414). Hamburg: Helmut Buske.

概要

この論文では次の内容が扱われています。

(A) found poetryの事例の紹介

(B) Kommunicate Constructionプロセスの説明

(C) 調査結果報告

●found poetryの事例の紹介

著者は以下の3つの事例を紹介していました。

  • 批評家や学者が(それとは知らずに)新聞記事を文学作品だと思って読んだ際に、様々な解釈を生みだした事例
  • アメリカの交通に関する表現を、人が実際に通行する際に目に入ってくる順に配列したところ、詩のようなテクストが出来上がったというGross (1967) の事例
  • コンピュータのマニュアル本の抜粋(ベーシックのマニュアル)であったとしても詩だと思えば様々な解釈が生み出されたというShortの事例

●Kommunicate Constructionプロセスの説明

著者は上記のようなfound poetryの事例から、研究の対象について次のように述べます。

"Backed by findings like the ones mentioned above I assume that one object of the empirical study of literature and of the special research topic of understanding texts coherently is not "the text itself" nor any imaginative text-reader "interaction" (as in "Rezeptionsästhetik" or traditional text linguistics). Instead, the object of research must be the cognitive process of understanding and the contextual (sociopsychological and sociological) cues that influence this process." (pp. 399-400).

また、Kommunicate Constructionプロセスについては次のように説明しています。

"Psychologically, this entity, which we have called the process of KOMMUNICATE CONSTRUCTION (KC) (Viehoff & Schmidt 1985), entails several knowledge structures, inference rules, text representations, and functional processes as specific regulations of these components." (p. 400, emphasis in original)

そして、KCを考える上で、以下の点はその前提として考慮すべきと著者は述べています(pp. 400-402)。

  1. KC integrates prior knowledge structures of a subject into his/her processual steps in reading and understanding a text.
  2. KC is internal, i.e. inaccessible for the subject and without any possibility of direct observation for scientific observers.
  3. KC is a subjective holistic process. It is built up by rational, emotional, motivational, strategical and metacognitive components, which are entirely interwoven with the subject's social environment.
  4. KC is a hierarchically structured process including conscious and unconsciuous components.
  5. KC is sequential.
  6. KC is only one possibility to achieve sense constancy or mental cohenrence.
  7. KC contains forward and backword processes.
  8. According to Miller, Galanter & Pribram KC works as "test-operation-test-exit" process (TOTE).
  9. KC is goal-directed.

●調査結果報告

著者は16名のドイツ語母語話者大学生にドイツ語の詩を読ませ、think-aloudによってその読解プロセスを調査しています。調査の詳細は省略しますが、この研究では次の結果が得られました。

  1. 読者は、テクストによって引き起こされる認知的混乱を克服できなかったり、分からないという状態が長く続いたりすると、テクスト内容の一貫性を心的に構築することができない
  2. 読解の中で、ひとたびテクストを美的に読もうと試みれば、心的混乱を表すような発話は減少する

更に次のような考察もなされています。

  1. 読者が特に事実的慣習に固定されていない場合、読解において困難が積み重なっていけば、彼(女)らは文学用読解方略を用いようとする
  2. 文学用読解方略の適用にシフトするためには、読者は自由に過去の文学経験に言及できたり、テクスト中の文字を詩的サインとみなすことが自由にできる状態でなければならない

著者はこれらの結果を受けて、次のようにまとめています。

"In summary, these results are strong indicators for the concept of language understanding as a special case of application of convention, and they confirm the concept of understanding literary texts as a subject dependent process goverened by cognitive strategies which themselves are established by social consensus. In general they stress the notion of KC as a holistic mental processes, as shown by Clark & Gerrig (1983)." (p. 409)

更に、議論の中で、以下のような考えも示されています。

  • "the starting point of literary understanding is always the subject's calculation on a situation appropriate to achieve a kind of successful understanding of a text." (p. 410)
  • "The regulation of the action therefore runs down from the top to generate all the lower level units to that point the process is finished satisfactorily. ... So one cognitive generative construction is finished when the highest regulatory unit is acquainted with satisfactorial feedback about just the whole revised cognitive steps." (p. 410)
  • "My general assumption here is that "deviations" and "disturbances" can motivate subjects to actively change strategical operations while reading a text of recognized literary character." (p. 411)
  • "If the reader is only interested in literature as a way of superficial amusement he/she will resign as soon as he/she is confronted with a problem of literature understanding. He/she is not motivated to take any pain for achieving upper-ranked levels of cognitive operations, i.e. to achieve a kind of coherence of his/her understanding personally. He/she therefore will close the book and murmur something like "nonsense"." (p. 412)

この記事では省略しますが、最後に著者は、読者がダダの作品に直面した場合、テクスト内容の一貫性を心的に構築できる読者とできない読者でどのような点がどのように異なるのか例示しています。この例を読めば、この論文の議論を非常に容易に理解することができます。

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2015年6月16日 (火)

伊勢井敏子(1990).「原初より現代に至る数の認識の一断面:神秘数‘3’についての一考察」を読む(ビビュロス研究会(編),『英米文学と言語:新しい研究の地平を求めて』,ホメロス社)

この論文では、言語人類学的観点から、「3」が神秘的象徴として様々な作品や宗教で用いられてきたことが明らかにされています。

伊勢井敏子(1990).「原初より現代に至る数の認識の一断面:神秘数‘3’についての一考察」.Inビビュロス研究会(編),『英米文学と言語:新しい研究の地平を求めて』(pp. 505-514).ホメロス社.

概要

最初に数を神秘化したのはピタゴラスとその一派だそうです。そして、その思想が、プラトンやアリストテレスに引き継がれ、3世紀前半に新プラトン派のプロティヌスが発達させ、数を神秘化する考えが作家や教会に浸透していったと著者は推察しています。さらに、宗教を通してヨーロッパに神秘数という考えは更に広まっていったと著者は考えています。

なお、有史以前からすでに「3」を神秘化する傾向は見られたようで、シュメール、バビロン、旧約聖書、古代エジプト、古代ローマ、古代ギリシャ、ゾロアスター教、北欧神話、ケルト人の宗教、での具体例が列挙されています。また、シェイクスピアのMacbeth、シンデレラ物語を初めとした民話でも「3」が象徴的に用いられていることが明らかにされています。ただし、民話に関しては、「3」は肯定的に扱われる場合と否定的に扱われる場合があることが指摘されていました。

最後に、なぜ「3」が神秘化されたのかということについて著者は、有史以前の人々が「太陽と月と大地を概念上神秘的な3つのものとして関連づけた」(p. 512)ためではないかと推察しています。ちなみに、「2」に関しては、身体の部位から始まったのではないかとするFunk (1978) の説が紹介されています。

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江口誠(2013).「英語教育における文学教材の活用」を読む(『愛知教育大学研究報告人文・社会科学編』)

文学を使った英語教育に関する諸問題がコンパクトにまとめられています。

江口誠(2013).「英語教育における文学教材の活用」.『愛知教育大学研究報告人文・社会科学編』,62,77-84.

概要

この論文では以下の事柄が扱われています。いずれも文献を丁寧に引用しながら議論が整理されているため、この領域をこれから勉強する人にはとても有益です。

  • 文学の定義(Eagletonの議論)
  • 文学教材の意義(Hallの議論及びCarter & Longのthe cultural model、the language model、the personal growth model)
  • 文学教材の選択の問題(Carter & Nashによる程度問題としてのliterarinessの定義)
  • 文学教材を使う際の発問(Nuttallの6つの発問モデル)

最後に、『New English Unicorn English Course I』(旧教育課程「英語Ⅰ」の教科書です)内の "The Star" を例として、原作との書き換えが分析されています。著者は、以下の基準でその書き換えを分類しています。

  1. 文法的な配慮による書き換え
  2. テキストの削除(内容の省略)
  3. 表現方法に配慮した書き換え

しかし、その書き換えによって、原作の魅力がかなり損なわれてしまっている点が指摘されています。また、このような形での書き換えをせざるを得ない根拠として学習指導要領(平成15年施行のもの)の具体的な記述に言及がされています。

さらに、"The Star" 本文直後の設問がNuttallの枠組みに基づいて分類されています。その結果、ほとんどが表面的な理解を確認するものとなっている点が明らかにされていました。また、推論に関わる問いもあるにはあるのですが、それらは空所補充の選択問題となっており、学習者の推論がかなり制限される形になっているとも指摘されています。

また、物語の解釈や修辞的特徴への設問が少ない理由についても学習指導要領の記述に言及がされています。その中で、現行の学習指導要領においても、物語と説明文で活動目的が分けて記述されていない点が指摘されていました。そして、文学教材を取り上げても、その利点を十分に生かすことが難しいのではないかという懸念が示されています。

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2015年6月15日 (月)

田辺洋二(1991).「ラムネとレモネード:外来語の借用に関する一考察」を読む(「中西秀男先生卒寿記念論文集」刊行会(編),『文学とことば:中西秀男先生卒寿記念論文集』,荒竹出版)

ラムネとレモネードは共にlemonadeという語からの借用語で、現在の日本語では全く別のものを指しています。国語辞典等によると、ラムネはレモネードが訛ったものであるとしていますが、著者はこれは大きな間違いであることを証明していきます。

田辺洋二(1991).「ラムネとレモネード:外来語の借用に関する一考察」.In「中西秀男先生卒寿記念論文集」刊行会(編),『文学とことば:中西秀男先生卒寿記念論文集』(pp. 82-93).荒竹出版.

概要

著者は、まずラムネは明治時代の借用語であり、レモネードは大正時代の借用語であることを確認します(この時点で、ラムネをレモネードが訛ったものと考えることには無理があることになります)。そして、各時代の借用語には次のような特徴があると指摘します。

  • 明治時代は、聞こえてきた音のままに借用する音声借用が多い(他にも、ミシン(machine)などがあります)
  • 大正時代は、スペリングをそのまま読んだ文字借用が多い

ただし、昭和時代に入っても音声借用はかなり多かったという点も著者は指摘しています。

この記事で詳細は省略しますが、著者は音声学の知見に基づき、実は「ラムネ」という語は、当時の日本人が「原音を聞いて、できるだけ近い形に仮名書きしたものと解する方が妥当と思われる」(p. 91)と結論づけています。

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P.C.Fletcher,F.Happé,U.Frith,S.C.Baker,R.J.Dolan,R.S.J.Frackowiak,&C.D.Frith(1995).「Other Minds in the Brain: A Functional Imaging Study of "Theory of Mind" in Story Comprehension」を読む(『Cognition』)

健常者に、(a) 登場人物の心情を読み込む必要がある文章、(b) 論理関係を読めばよい文章、(c) 無関係な文を集めたもの、の3つのテクストを読ませ、その際の脳の活動の違いを分析しています。

Fletcher, P. C., Happé, F., Frith, U., Baker, S. C., Dolan, R. J., Frackowiak, R. S. J., & Frith, C. D. (1995). Other minds in the brain: A functional imaging study of "theory of mind" in story comprehension. Cognition, 57 (2), 109-128.

概要

この研究の主な結果は以下の通りです。

  1. (a) と (b) のテクストを読むときは、(c) のテクストを読む場合と比べて、側頭極(両側)、上側頭回(左)、前帯状皮質後部(左)が強く賦活した
  2. (a) のテクストを読むときは、 (b) のテクストを読む場合と比べて、中前頭回(左)が強く賦活した。

上記1点目に関して、まず側頭極は、これまでの研究によると、ナラティブを作るために命題を連結させる働き、個々の語の分析(語彙的ないしは意味的分析)を超える言語処理、と関係しているのではないかとされてきました。上側頭回については、文章中の結束性といった高次な言語処理に関わっているのではないかとされてきました。このような理由から、これら2領域の賦活が今回確認されたことについては、十分に理解が可能と考えられています。また、前帯状皮質後部については、これまで、記憶、エピソード記憶のコード化、ナラティブ内の結束性の維持、視覚情報処理、などに関わっていると考えられてきましたが、今回の調査でなぜ賦活したのかその理由を突き詰めることは断念されています(事後的な説明になってしまうというのがその理由です)。

上記2点目に関して、著者はこの領域はこれまでに連想学習時に賦活することが報告されているとしています。今回の研究でこの領域に賦活が確認されたことについて、他の刺激の観点からある刺激を統合する必要があることに起因しているかもしれないと述べられていました(ただし、著者はこの説明は少し苦しいかもしれないとも考えています)(p. 121)。

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2015年6月10日 (水)

R.Barthes(1971).「Style and Its Image」を読む(S.Chatman(編),『Literary Style: A Symposium』,Oxford University Press)

大学院生時代に読んだのですが、この度再読しました。文体とはどのようなものであるのか、著者が自身のイメージを説明しています。

Barthes, R. (1971). Style and its image. In S. Chatman (Ed.), Literary style: A symposium (pp. 3-10). London: Oxford University Press.

概要

著者は、これまで文体という概念は、「内容 vs. 形式」、「規範 vs. 逸脱」という二項対立に基づいて議論されてきた点を最初に確認します。

次に、「内容 vs. 形式」という対立を現代版の概念、すなわち、シニフィアンとシニフィエに置き換えて、果たしてこの対立に基づいて文体という概念を捉えることが適切なのかどうか考察していきます。著者自身が『サラジーヌ』を分析した時の経験に基づくと、そもそもシニフィエは内容ではなく、イェルムスレウが言うように形式であり、さらにそういった形式としてのシニフィエの中にはただ異なるコードの混合があるだけであると著者は指摘します。そして、次のように指摘しています。

"Therefore we can no longer see a text as a binary structure of Content and Form; the text in its entirety is only a multiplicity of forms without a content." (p. 6)

また、「規範 vs. 逸脱」という二項対立についても大きな問題があると述べます。まず、規範としては、たいていは話し言葉が措定されますが、話し言葉自体が様々なコードから構成されたものですし、そもそも話し言葉を規範とすることの根拠もありません。また、話し言葉の中にも逸脱的表現は多く含まれているのが現実です。そこで、著者は「文」という概念を基盤として文体を捉え直すことを提案しています。そして、文体とは定型表現・比喩・個人語などの変形と捉えるべきだと提言します。

"considering the stylistic features as transformations derived either from collective formulae (of unrecoverable origin, either literary or pre-literary), or, by a play of metaphor, from idiolectal forms. In both cases what would have to control the stylistic work is the search for models, of patterns: sentence structures, syntagmatic clichés, divisions and clausulae of sentences; and what would inspire such work is the conviction that style is essentially a citational process, a body of formulae, a memory (almost in the cybernetic sense of the word), a cultural and not an expressive inheritance. This permits one to identify the transformation to which one refers (and consequently the stylistic feature which one envisages)" (pp. 9-10, emphasis in original)

ここで変形という語が使われています。著者は文体の変形と文法の変形は密接な関係があるものの、大きな違いもあることを踏まえることが必要だと述べます。

"The stylistic "models" cannot be assimilated into "deep structures," universal forms issuing from a psychological logic. These models are only the depositaries of culture (even if they seem very old). They are repetitions, not essential elements; citations, not expressions; stereotypes, not archetypes." (p. 10)

以上のような議論から、著者は文体を玉ねぎのようなイメージで捉えるべきと主張しています。

"in my opinion it must consist today of seeing style as one of a number of textual elements: a number of semantic levels (codes), the interweaving of which forms the text, and a number of citations which reside in that code which we call "style" and which I should prefer to call - at least as a first object of study - literary language. The problems of style can only be treated by reference to what I shall refer to as the "layeredness" (feuilleté)  of the discourse. And to continue the alimentary metaphor, I will summarize these few remarks by saing that if up until now we have looked at the text as a species of fruit with a kernel (an apricot, for example), the flesh being the form and the pit being the content, it would be better to see it as an onion, a construction of layers (of levels, or systems) whose body contains, finally, no heart, no kernel, no secret, no irreducible principle, nothing except the infinity of its own envelopes - which envelop nothing other than the unity of its own surfaces."

なお、pp. 11-15には、この論文の元となった発表時に、著者が実際にフロアと行ったやり取りがまとめられています。この記事では割愛しますが、様々な物議をかもした主張だったようです。

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2015年6月 9日 (火)

定藤規弘・島田浩二(2014).「外国語の産出と理解プロセスの熟達化に関わる脳内メカニズム-fMRIによる検討-」を読む(横川博一・定藤規弘・吉田晴世(編),『外国語運用能力はいかに熟達化するか:言語情報処理の自動化プロセスを探る』,松柏社)

外国語言語知識の運用の流暢さに関与する脳内基盤がfMRIによって調査されています。

定藤規弘・島田浩二(2014).「外国語の産出と理解プロセスの熟達化に関わる脳内メカニズム-fMRIによる検討-」.In 横川博一・定藤規弘・吉田晴世(編),『外国語運用能力はいかに熟達化するか:言語情報処理の自動化プロセスを探る』(pp. 253-267),松柏社.

概要

著者らは先行研究から以下の点を確認します。

  • 産出プロセスは背側経路(上側頭回→下頭頂小葉→中心後回→中心前回→下前頭回)が関与し、理解プロセスは腹側経路(上側頭回→下前頭回)が関与する
  • 産出と理解プロセスをそれぞれに構成する言語処理が共通の脳領域を基盤としている
  • バイリンガルでは、母語と外国語の言語処理プロセスに関与する脳内基盤が共有されている
  • 外国語能力の熟達度が上がるに応じて、産出プロセスの言語処理に関連する脳領域の活動が小さくなる
  • 外国語能力の熟達度が上がるに応じて、理解プロセスの言語処理に関連する脳領域の活動が大きくなる

著者らはCEFRに基づき、3群(上、中、下群)の異なる外国語能力の学習者を調査参加者として調査を行い、以下の結果を得ました。

  1. 高い流暢さをもつ外国語学習者は、より低い流暢者の学習者に比べて、左下前頭領域背側部の活動が小さくなった
  2. より高い流暢さをもつ外国語学習者が文章を読む際、より低い流暢さの学習者に比べて、左上側頭領域後部の活動が大きくなった

上記1点目については、流暢さが高くなり、脳内処統語理が効率化された結果ではないかと考えられています。

上記2点目については、産出と理解で共通する脳内基盤が効率化された結果、意味内容理解が促進されたのではないかと考えられています

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2015年6月 8日 (月)

R.A.Zwaan(1994).「Effect of Genre Expectations on Text Comprehension」を読む(『Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition』)

完全に読み落としていた論文ですが、この論文での調査報告はZwaan (1993) の中にすでに組み込まれています。同一のテクストを、新聞で取り上げられたストーリーとして読むか、文学作品の一節として読むかによって、読解プロセス及びその心的表象の形成がどのように異なるのか調査されています。L1の研究です。

Zwaan, R. A. (1994). Effect of genre expectations on text comprehension. Journal of Experimental Psychology: Learning, Memory, and Cognition, 20 (4), 920-933.

概要

これまでにジャンルに応じて読解が異なるという考えはEinstein他が提唱しているthe material-appropriate frameworkにもありました。しかしながら、これらの研究はテクスト内の特性が処理の違いを引き起こすかどうかを検討していました。それに対して、この論文は読みの文脈(読みの状況)が処理の違いを引き起こすかどうか調査しています。

なお、著者は、新聞内のストーリーと文学作品は似たテクストであると考えています。両者はいずれも記述を伴なうナラティブであり、感情的表現、奇抜な比喩、評価的コメントを含んでいるとしています。

また、この記事では割愛しますが、著者は「解釈=状況モデル」と捉えており、文学作品ではなぜ状況モデルが形成されにくいか、そのことを示してきた先行研究を整理しています(pp. 921-922)。

調査方法の詳細は割愛します。また、新聞で取り上げられたストーリーとして読む際の指示と、文学作品の一節として読む場合の指示はp. 924に記載があります。

この論文で得られた結果は以下の通りです。

  1. 文学作品として読む場合の方が新聞内のストーリーとして読む場合よりもスピードが遅くなる
  2. 文学作品として読む場合は表層記憶と命題テキストベースが強く形成されるのに対して、新聞内のストーリーとして読む場合には状況モデルが強く形成される

以上の結果から、文学作品読解の方が新聞の読解よりも処理が「深い」のではなく、両者はまったく別の読解処理であるとみなすべきだと主張されています(p. 925)

また、上記2点目は、文学読解では読者は解釈をしないということを意味しているのではなく、あくまでも解釈が遅れるということを意味している点に注意が必要です(文学読解時の読者の命題テキストベースには、新聞内のストーリーの場合と違ってあまり重要ではない情報がたくさん含まれており、そのことが特定の状況モデル(解釈)を早々に形成することを遅くしているとしています。命題テキストベースにあまり重要ではない情報が多く含まれているのは、文学読解の場合そのようなちょっとした情報が後々重要になることが多いためだと考えられます。)。著者は新聞の読解処理と文学の読解処理を次のようにまとめています。

"This model [=reading model for news comprehension] should dominate incoming information to the extent that information that is consistent with the model and highly related to the model should receive high activation, whereas information inconsistent with the model should be deactivated. The less dramatic integrtation process in literary comprehension would result in a partly incoherent, loosely organized textbase and a relatively weak causal-situation model." (p. 930)

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2015年6月 2日 (火)

J.R.Searle(1975).「The Logical Status of Fictional Discourse」を読む(『New Literary History』)

発語行為論の立場からフィクションの言説について考察した論文です。いわゆるデリダ=サール論争とも関わる論文となります。大学院生時代に一度読みましたが、この度再読しました。

Searle, J. R. (1975). The logical status of fictional discourse. New Literary History, 6 (2), 319-332.

概要

この論文では以下の事柄が議論されています。

(A) フィクションと文学の区別

(B) フィクションと比喩の区別

(C) 発語行為論から見たフィクションの言説の特徴の記述

●フィクションと文学の区別

著者は、あくまでもフィクションについて考察を行うとしています。そして、この論文で行おうとしているアプローチは、文学というジャンルに適応することはできないと考えています。その理由として以下の3点が挙げられています(p. 320)。

  1. First, there is no trait or set of traits which all works of literature have in common and which could constitute the necessary and sufficient conditions for being a work of literature. Literature, to use Wittgenstein's terminology, is a family-resemblance notion.
  2. Secondly, I believe (though will not attempt to demonstrate here) that "literature" is the name of a set of attitudes we take toward a stretch of discourse, not a name of an internal property of the stretch of discourse, though why we take the attitudes we do will of course be at least in part a function of the properties of the discourse and not entirely arbitrary. Roughly speaking, whether or not a work is literature is for the readers to decide, whether or not it is fiction is for the author to decide.
  3. Third, the literary is continuous with the nonliterary. Not only is there no sharp boundary, but thre is not much of a boundary at all. Thus Thucydides and Gibbon wrote works of history which we may or may not treat as works of literature. The Sherlock Holmes stories of Codan Doyle are clearly works of fiction, but it is a matter of judgment whether they should be regarded as a part of English literature.

● フィクションと比喩の区別

著者は、これらを混同してはならないとして、"The aim of this paper is to explore the difference between fictional and serious utterances; it is not to explore the difference between figurative and literal utterances, which is another distinction quite independent of the first." (p. 321) と述べています。

●発語行為論から見たフィクションの言説の特徴の記述

著者は、New York Timesの記事とIris MurdochによるThe Red and the Greenの一節を比較し、共に断言を行っていることから、その適切性規則を記述します(p. 322)。そして、新聞記事では、断言は適切性規則に従う必要がありますが、フィクションではそれらの規則に従っていなくても何ら問題がないということを確認します。

これまでに、この違いを説明するために、フィクションでは通常の発語行為(言明、断言、記述、説明、etc)と違って、別個のクラスの発語内行為(物語、小説、詩、劇、etc)が行われていると考える研究者もいたそうですが、著者はこの考えを否定しています。

そして、フィクションの言説の発語行為の特徴として次の点を指摘しています。

  1. the author of a work of fiction pretends to perform a series of illocutionary acts, normally of the representative type (p. 325) (ただし、著者は読者をだまそうとする意図はないことに注意)
  2. There is no textual property, syntactical or semantic. that will identify a text as a work of fiction. What makes it a work of fiction is, so to speak, the illocutionary stance that the author takes toward it, and that stance is a matter of the complex illocutionary intentions that the author has when he writes or otherwise composes it. (p. 325)
  3. the pretended illocutions which constitute a work of fiction are made possible by the existence of a set of conventions which suspend the normal operation of the rules relating illocutionary acts and the world. In this sense, to use Wittgenstein's jargon, telling stories really is a separate language game; to be played it requires a separate set of conventions, though these conventions are not meaning rules; and the language game is not on all fours with illocutionary language games, but is parasitic on them. (p. 326)
  4. the pretended performances of illocutionary acts which constitute the writing of a work of fiction consist in actually performing utterance acts with the intention of invoking the horizontal conventions that suspend the normal illocutionary commitments of the utterances. (p. 327)

上記3点目に関しては、著者はフィクションと嘘を比較し、"What distinguishes fiction from lies is the existence of a separate set of conventions which enables the author to go through the motions of making statements which he knows to be not true even though he has no intention to deceive." (p. 326) と述べています。

上記4点目に関して、著者は通常の発語行為が従う規則をvertical rulesと呼び、それを無効化する慣習をhorizontal conventionsと呼んでいます。

その他、フィクションの言説に関して、以下の点も重要な点として議論されています。

  1. 同じフィクションの言説であっても、小説と戯曲では若干状況が異なる
  2. 真剣な言説、フィクションの言説、フィクションについての真剣な言説を区別することにより、フィクションにおける真理値を欠く人物や出来事について我々が語ることができるという事実を説明できる
  3. フィクションの中には、作者による指示のふりだけでなく、地名をはじめとして本物の指示も含まれている
  4. フィクション作品とフィクションの言説を区別することが必要である

上記1点目に関して、小説では、特に一人称の語りによるものでは、"the author often pretends to be someone else making assertions" (p. 328) と考えられているのに対して、戯曲では次のように 作者は"giving directions as to how to enact a pretense which the actors then follow" (p. 328) と述べています。

"it seems to me the illocutionary force of the text of a play is like the illocutionary force of a recipe for baking a cake. It is a set of instructions for how to do something, namely, how to perform the play. The element of pretense enters at the level of the performance: the actors pretend to be the members of the Barthwick family doing such-and-such things and having such-and-such feelings." (p. 329)

上記2点目に関して、作者は次のように述べています。

"by pretending to refer to a person she creates a fictional person. Now once that fictional character has been created, we who are standing outside the fictional story can really refer to a fictional person." (p. 330)

上記3点目に関しては、ある意味で、フィクションの諸ジャンルは作品中に含まれる本物の指示によって部分的に定義されると述べています。そして、作品中のフィクションの部分は、ノンフィクションの部分と一貫した形で構成されていないと読者に違和感を与えてしまうことになります(例えば、自然小説に突拍子もない現象がたくさん現れたりするとその作品は一貫性を欠いていると判断されます)。著者は次のようにまとめています。

"By pretending to refer to people and to recount events about them, the author creates fictional characters and events. On the case of realistic or naturalistic fiction, the author will refer to real places and events intermingling these references with the fictional references, thus making it possible to treat the fictional story as an extension of our existing knowledge. The author will establish with the reader a set of understandings about how far the horizontal conventions of fiction break the vertical connections of serious speech. To the extent that the author is consitent with the conventions he has invoked or (in the case of revolutionary forms of literature) the conventions he has established he will remain within the conventions. As far as the possibility of the ontology is concerned, anything goes: the author can create any character or event he likes. As far as the acceptability of the ontology is concerned, coherence is a crucial consideration. However, there is no universal criterion for coherence: what counts as coherence in a work of science fiction will not count as coherence in a work of naturalism. What counts as coherence will be in part a function of the contract between author and reader about the horizontal conventions." (p. 331, emphasis in original)

上記4点目に関しては、フィクション作品はすべてフィクションの言説から成り立っているわけではないという事実に起因した指摘です。

著者は、最後になぜ人間はフィクションの言説を重要とみなすのかということについて考えます。このことに関しては、次のように述べています。

"I do not think there is any simple or even single answer to that question. Part of the answer would have to do with the crucial role, usually underestimated, that imagination plays in human life, and the equally crucial role that shared products of the imagination play in human social life. And one aspect of the role that such products play derives from the fact that serious (i.e., nonfictional) speech acts can be conveyed by fictional texts, even though the conveyed speech act is not represented in the text. Almost any important works of fiction conveys a "message" or "messages" which are conveyed by the text but are not in the text." (p. 332, emphasis in original)

ただし、「ふり」であるフィクション作品がいかにして真剣な言語行為を伝えるか、そのメカニズムを説明する一般理論は現在のところ存在しないと述べています。

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