« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »

2015年2月24日 (火)

家村睦夫(1978).「言語と文学」を読む(田中春美・樋口時弘・家村睦夫・五十嵐康夫・倉又浩一・中村完・下宮忠雄,『言語学のすすめ』,大修館書店)

言語学の入門書の一章です。イギリス文体論が台頭する以前の内容となっています。

家村睦夫(1978).「言語と文学」.In田中春美・樋口時弘・家村睦夫・五十嵐康夫・倉又浩一・中村完・下宮忠雄,『言語学のすすめ』(pp. 233-249).大修館書店.

概要

この章では以下の内容が議論されていました。

(A) 文学作品と日常言語の違い

(B) 言語学による文学研究の課題

(C) 文体論の紹介

(D) 言葉遊びの紹介

●文学作品と日常言語の違い

著者は、「人がある時、ある所で、何かについて話したり、書いたりしたもの」(p. 234)を「言語作品」と呼び、それが文学作品とどのような関係にあるのか考察しています。著者は、言語作品が文学作品になるための最小の条件として以下の3点を挙げています。

(1) ことばを使用すること
(2) きまった形式をもつものがあること。形式をそなえない場合でも、かならず何らかの構成をもつこと。
(3) 知性よりもむしろ感情または情緒に直接訴えかけるものであること。

そして、「これらは最小限の条件であるが、これらの条件をそなえた言語作品、すなわちなんらかの題材を任意の構成をもって、感情に訴えかける方法で扱った言語作品は、少なくとも文学性をもったものと言えるだろう」(p. 237)と述べています。このことに加えて、さらに以下の点も文学作品を日常言語から区別する特徴として挙げられています。

(4) 文学作品はそれ自体で一つの完結した世界を形成している(p. 237)
(5) ことばが意識される(文学作品は、ことば自体によって作り上げられた完結した世界を扱うので)(p. 238)

●言語学による文学研究の課題

言語学による文学研究の課題は、「文学とはどんな言語作品であるのか、また、どんな言語作品を文学と呼び得るのか」(p. 238)という問いに応えることになるそうです。

著者は、文学的表現を拾い集めていく研究や、Jakobsonの詩的機能に言及し、これらの研究アプローチの問題点を指摘しています。さらに、生成変形文法を用いた研究もあるものの、十全の方法とは言えないと述べ、テクスト言語学に期待を寄せいています。また、受容者という存在をどのように扱っていくのかという点も大きな課題であるとしています。

●文体論の紹介

著者は、文体を「文章に見られる形式特性」(p. 241)と定義し、以下の2つの文体を区別しています。

(1) 社会的に共有されている文体
(2) 個人による固有の文体

後者は前者を下地にして現れるものとなります。そして、読者は次のような形で作者個人による固有な文体を知覚することになります。

「読者は、社会的に共有される文体の共有者であるから、ある作者の文章を読んで、これが共有する文体と異質であると感じる時、固有の文体が知覚されるのである。ただ、どんな読者でも文体を知覚できるわけではない。そのためには、ことばに対する鋭い洞察力と、用いられた表現様式がもつ価値を見抜く繊細な感覚をもちあわせていなければならない。」(pp. 241-242)

読者は文章の中にある偏好に着目し、それを解釈することになります。この際、その偏好が作者によって意識的によってなされたものか無意識になされたものかはそれほど問題とはなりません。「意識的ならば当然理由があるだろうし、無意識的ならば、無意識的にせよ作家の心がとりわけその表現に志向せざるをえなかったわけがあるはずである」(p. 242)と述べられています。

以上の議論を受けて、文体論の仕事を以下のようにまとめています。

「作品における作家の表現形式の偏好をできるかぎり多く、詳細に調べ上げて、その作家の文体を明らかにすることが文体論の仕事であるが、文体論の課題はそれだけではない。文体を発現させたものは、作品制作上の技術などではなく、作家の人格である。逆に言えば、文体は作者の人格の発露であると考え、文体を通して作家の個性を見ようとするのも、文体論の課題であろう。」(p. 243)

このような文体論を著者は文学的文体論と呼び、言語学的文体論と区別しています。ここで言う言語学的文体論とは、現在のイギリス文体論ではなく、バイイが提唱したものを指しています。言語学的文体論とは、「言語の中の感情的表現特性に注目し、これを考察することを目的とするもの」(p. 243)です。言語学的文体論では、語そのものに付随する感情的価値が分析対象となります(これらの語が実際の発話で用いられる際に帯びる感情的価値ではありません)。バイイは、感情的価値が文体的効果を生みだすと考えており、以下の2つを区別しました。

(1) 自然的効果を与えるもの:お父さん、パパ、お父様など、知的内容では差異が認められないが、各語に備わる感情的価値の違いによって、差異が感じられるもの
(2) 喚起的効果を与えるもの:おっかさん、スケ、ヤロウなど、特定の社会階級や職業、世代を喚起させるもの

●言葉遊びの紹介

取り上げられているのは、しり取り、早口ことば、さかさことば、回文、なぞ、しゃれ、文字遊び、諺です。日本語の例が中心となっています。特に回文は、日本語の非常に面白い例がたくさん例示されていました。

| | コメント (0)

N.N.Holland(2007).「Literary Creativity: A Neuropsychoanalytic View」を読む(C.Martindale,P.Locher,&V.M.Petrov(編),『Evolutionary and Neurocognitive Approaches to Aesthetics, Creativity and the Arts』,Baywood Publishing)

この論文では、著者はneurospychoanalysis(神経精神分析)について説明をし、このアプローチに立つと創造性(creativity)はどのようなものと仮説が立てられるのか解説をしています。

Holland, N. N. (2007). Literary creativity: A neuropsychoanalytic view.  In C. Martindale, P. Locher, & V. M. Petrov (Eds.), Evolutionary and neurocognitive approaches to aesthetics, creativity and the arts (pp. 165-180). New York: Baywood Publishing.

概要

この論文では以下の内容について説明されていました。

(A) 神経精神分析とはどのような考えか

(B) 創造性に関する神経学的見解

(C) 創造性に関する精神分析学的見解

(D) 神経精神分析に基づいた創造性に関する見解のまとめ

●神経精神分析とはどのような考えか

著者は、Solms & Turnbull (2002) に基づきながら、次のように説明しています。

"we are made of one kind of stuff (cells), but we can study this stuff in two different ways, neurologically ad psychoanalytically" (p. 165)

さらに、文学的創造性との関係も視野に入れながら、次のようにも説明しています。

"neuropsychoanalysis can look experimentally at brain systems and structures for how they might correspond to traditional psychoanalytic ideas like id, ego, and superego, repression , impulsivity, compulsivity, or, what is important for creativity, regression. Applying neuropsychoanalysis to literature, then, and to my topic, literary creativity, means looking both subjectively and objectively, from inside and from outside." (p. 166)

そして、神経学的な観点と精神分析学的な観点の両面から創造性について先行研究の成果を紹介していきます。しかし、この論文で述べられていることは、あくまでも仮説として捉えておくべきと著者は述べています(p. 172, 176)。

●創造性に関する神経学的見解

Martindale (1999) は、当時の時点で、"the magic moment of creativity" をもたらす要素として、以下の3つを挙げています(p. 168)。

(1) low levels of cortical activation
(2) comparatively more right-than left-hemisphere activation
(3) low levels of frontal lobe activation

著者は、特に上記の (1) と (3) に着目し、このことを引き起こす神経学的メカニズムについてKenneth Heilman (2005) によるノルエピネフリン仮説を紹介します。

一般に、ドーパミンが増えると、人は覚醒し、外部の情報に注意を向けるようになります。ドーパミンはノルエピネフリンという神経伝達物質によって増加されます。さらに、この物質は創造性において重要とされるアルファー波を減らしてしまうことが分かっています(創造的な人とそうでない人を比較したところ、通常ではこれら2集団の間にアルファー波の発生に違いは見られませんが、innovation stageにおいては両者に大きな違いが出るそうです。ちなみに、アルファー波は a lower level of arousalをもたらすとされています。)。著者は、創造性のためには、外部に鋭敏に注意を向けるのではなく、内部に意識をぼんやりと傾けた状態にならなければならないと述べます。したがって、ノルエピネフリンの分泌を抑えることが創造性にとって重要となります。

ノルエピネフリンの分泌は青斑核(the locus coeruleus)によってコントロールされています。さらに、青斑核は、背側前頭葉(the dorsolateral frontal lobes)と背側前帯状脳回(the dorsal anterior cingulate gyrus)によってコントロールされているとのことです(特に右半球のこれらの部位)。なお、ノルエピネフリンは落ち込んでいるときなどにも分泌が減少します。Heilmanによると、落胆状態の時も創造が促されるかもしれないが、それを実際に産出するとなると高度な覚醒が必要となるとのことです(つまり、創造的なアイデアを具現化するためには、落胆状態から回復しなければならないことになります)。このことは、個人的には多くの芸術現象をうまく説明してくれるように思えます(失恋や親しい人を亡くした人が、その悲しみを乗り越えて何らかの作品(歌、詩など)を創作するという事例は私たちの生活の中で散見されます)。

以上の議論を受けて著者は以下のようにまとめています。

"In short, when we are motivated to act or plan we may be effective vis-á-vis the outer world, but we are not in the relaxed, perhaps even slightly depressed, state that allows for inner illumination, inspiration, and innovation. Conversely, when we are relaxed and open to inspiration, we are not marketing the novel. And which state we are in depends on how much norepinephrine is coursing through our brains. That in turn depends (via the locus coeruleus) on whether or not the frontal lobes are focused on some action or plan for action and are therefore inhibiting the possibily creative or possibly confusing minglings of disparate ideas." (pp. 171-172)

●創造性に関する精神分析学的見解

著者によると、人は創造的になる時には、そのインスピレーションが自身の外側から来るにせよ内側から浮かび上がってくるものにせよ、とにかくそのことに対して受け身的になる必要があると述べます(伝統的には、作家は詩神ミューズなどに対して受け身的な態度を示してきました)。このことについて、以下のようにさらに議論が発展されています。

"From a psychoanalytic point of view, this state, passively waiting for something which may be outside oneself or inside - it's not clear which - duplicates an earlier phase of the human lifespan. These words apply not just to the creative person but also to a baby waiting for its mother to bring nurturance." (p. 174)

"In other words, the artist in a state of relaxation awaiting inspiration from a muse recapitulates the situation of a bany waiting for nurturance from a mother, not clearly defined as within self or not-self. But, of course, this magic moment phase is only part of the artist's state of mind." (pp. 174-175)

●神経精神分析に基づいた創造性に関する見解のまとめ

以上の議論を受けて、著者は以下のようにまとめています。

"Our brains seesaw. That is, our brains have limited capacity, and if one function is up, another is likely to be down. Greater attention to stimuli coming from without means less attention to stimuli coming from within. I am suggesting that perhaps that particular seesaw moves more easily and quickly in the creative brain of a writer than in, say, an ordinary reader's brain." (p. 175)

"Artists and writers can with ease swing back and forth from a strongly reality-oriented thinking-and-planning mode to a relaxation into fantasy. Possibly, then, the gift of creativity includes an ability to switch the reality orientation of the depaminergic, reward-seeking system more easily than the rest of us." (p. 175, emphasis in original)

このように2つの状態を簡単に行き来することで、創造的な人々は、創造的な着想を得るだけでなく、それを認知的スキル等を用いて具現化していくことが可能になると考えられています。

| | コメント (0)

P.ロシター・斎藤兆史(2001).「詩との出会い:執筆・読解・創造」を読む(藤井貞和・エリス俊子(編),『創造的言語態』,東京大学出版会)

第一著者が作った詩「Sashimi and Roses」という作品を中心に議論が展開します。まず、第一著者が、どのようなプロセスを経てこの詩を完成させたのか(16年間もかかったそうです)その創作過程の詳細を説明します(着想、書き換え、修正など)。次に第二著者が、文体論に基づいてこの作品を分析し、文体論以外の事柄も援用しながら解釈を提示します。そして、第一著者がその分析と解釈についてコメントをするという形式を取っています。きわめて実験的な試みであり、とても面白い論文です。

P.ロシター・斎藤兆史(2001).「詩との出会い:執筆・読解・創造」(斎藤兆史(訳)).In藤井貞和・エリス俊子(編),『創造的言語態』(pp. 133-170).東京大学出版会.

感想

第一著者はこの論文の目的について次のように述べています。

「第1に、詩を書く際の作者の意図がどの程度まで詩の解釈を限定すると言えるのか、そして第2に、作者が予期しなかった解釈がどの程度まで妥当なものと認めうるかを調べることにあった。その根底にある問いは、読みの正当性についてのものである。誰の読みが正当か。作者の読みか、それとも読者の読みか。そもそも正当な読みなるものが存在しうるのかどうか。我々はまた文体論の役割も考察したいと考えた。はたして文体分析は、作者がテクストを書く際の伝達意図を検出できるものなのか、それとも、読者の反応が言語的に正当であることを検証する手段に過ぎないのか。」(pp.134)

これらの問いについて、経験的なアプローチで迫っています。

なお、この論文で非常に興味深いと感じた指摘は以下の通りです。

(1) 詩人にとっては、詩は作成するものではなく、発見するものという感覚の方が適切である。その点で作者も読者の一人にすぎない。
(2) 「人間は意味の真空状態を嫌うものであり、そのような状態に出くわすと、なんとか満足のいく意味に到達しようと努力するものなのだ」(p. 162)。その際、テクストの上に読者は自分の想像と世界についての知識を持ち込んで、このことを達成しようとする。
(3)テクストにおける 「意味と一貫性は、テクストの「中」にあるのではなく、その受信者がテクストを処理する過程で生じるものであ」(p. 163)る
(4) 文体論の考えに基づいて詩の言語情報をきちんと追っていったとしても作者の意図と経験にたどり着けるとは限らないし、逆に文体分析を用いない読者がその他の観点から作者の意図と経験により近く接近することもできる
(5) 詩の機能は、「ときに作者すらも予期できないような創造的な読みを引き出すことにある」(p. 168)。したがって、仮に作者と異なる解釈を読み手が提示したとしても、それが十分に合理的な根拠に基づいているのであれば、間違いとして排除する理由はどこにもない。今回の実験では、文体論分析によって、作者が全く考えていなかったような合理的かつ優れた読みが提示されており、作者以上に読者の方が詩を理解しているという場合もある。
(6) 詩の理解において、「「作者」を創作するのも読者」(p. 168)と考えた方が適切である

| | コメント (0)

2015年2月21日 (土)

R.Ohmann(1971).「Speech Acts and the Definition of Literature」を読む(『Philosophy and Rhetoric』)

かつては非常によく引用された文献です。著者は、文学の定義として、指示(reference)、主張の伝達(真理)、暗示的意味、情意、メッセージへの集中(Jakobson的な意味です)、発話行為、に言及するものを1つずつ取り上げ、その問題点を指摘していきます。特に6点目に関しては、Austinが提示したfelicity conditionに照らし合わせて、発話行為を文学の定義とすることの問題点を明示的に説明し、このことから著者なりの文学の定義を提示するという手順を踏んでいます。

Ohmann, R. (1971). Speech acts and the definition of literature. Philosophy and Rhetoric, 4, 1-19.

概要

著者は文学を擬似発話行為として以下のように定義づけます。

"A literary work is a discourse whose sentences lack the illocutionary forces that would normally attach to them. Its illocutionary force is mimetic. By "mimetic," I mean purportedly imitative. Specifically, a literary work purportedly imitates (or reports) a series of speach acts, which in fact have no other existence. By doing so, it leads the reader to imagine a speaker, a situation, a set of ancillary events, and so on." (p. 14, emphasis in original)

さらに、以下のように述べます。

"In short, a literary work calls on all a reader's competence as decipherer of speach-acts, but the only speach-act he is directly participating in is the one I have called "mimesis."" (p. 15)

なお、著者が提示した定義に基づけば、著者がすでに問題があるとして退けたような文学の定義が過去になぜ提示されたのか説明できるとしています。

"Given the present definition of literature, it is easy to see why theorists have sought, variously, to characterize literature as (1) relying more heavily than nonliterary discourse on secondary meanings, or (2) affecting the reader in an especially emotive way, or (3) inviting attention to the "message" (the form of the text) itself, or (4) having greater regularity of linguistic form than nonliterary discourse. If the work of literature is memetic of speach acts, then it is in a sense exhibiting both quasi-speach-acts and the sentences that purportedly help bring about those acts. To exhibit them is to direct attention to them, and, among other things, to their intricacy of meaning and their formal regularity. Similarly, since the quasi-speach-acts of literature are not carrying on the world's business - describing, urging, contacting, etc. - the reader may well attend to them in a non-pragmatic way, and thus allow them to realize their emotive potential. In other words, the suspension of normal illocutionary forces tends to shift a reader's attention to the locutionary acts themselves and to their perlocutionary effects." (p. 17, emphasis in original)

最後に、この論文で提示した定義との関係で、今後議論する必要のある命題(以下参照)が列挙されています。これらの命題を議論することで、本論文で提示した定義がより明確なものになると著者は考えています。

(1) Literature is mimetic.
(2) A literary work creates a "world."
(3) Literature is rhetoric.
(4) All literature is dramatic.
(5) Literature is play.
(6) Literature, like art in general, is presentational symbolism.
(7) Literature is autonomous.

| | コメント (0)

2015年2月20日 (金)

Zyngier,S.(1994).『Occasional Papers 6 Literature in the EFL Classroom: Making a Comeback?』を読む(PALA)

文学を使った英語教育に関してまとめられた論文です。

Zyngier, S. (1994). Occasional Papers 6: Literature in the EFL classroom: Making a comeback? PALA.

概要

この論文では以下の事柄が整理されていました。

(A) 文学作品を使った英語教育の流れ

(B) 文学作品の有用性

(C) 文学作品指導モデルの紹介

(D) 文学作品使用反対論に対する反論

●文学作品を使った英語教育の流れ

著者は主にブラジルの状況を中心としながら、以下の3つの段階を経てきたと述べています。なお、ブラジルはまだ以下の (2) の段階にあるとのことです。

(1) "The main objective of learning a foreign language in those days was to enable the student to read literary texts produced in the target language in order to acquire the foreign culture from the collection of texts canonized by tradition. This objective was based on the belief that by learning English literature the student would become a 'morally better person' (the Arnoldian perspective). The methodology was 19th century grammar-translation: that is, studying grammar and applying this knowledge to the translation and interpretation of texts with the use of a dictionary." (p. 3)
(2) 交通や通信の発達、経済の言語教育への影響(よい職に就くため、社会的ないし経済的昇進のための英語学習という考え方)、コミュニケーション重視の考え方の浸透によって、文学作品が英語教育の場から姿を消す時期
(3) Jakobson以降の文体論の発達により、言語と文学のインターフェイスが研究されたり、文学言語は日常言語と連続しているという考えが一般的になったり、"In literary studies attention started to be given to the making of the text, to how language was being made to mean rather than on what ideas texts conveyed" (p. 5) という動きが現れるなどして(1980年以降)、"the representational nature of literary texts came to be regarded as a rich potential learning area where social patterns of interaction could be experienced in contextualised situations. In addition, people started to realize that literary texts could help develop a kind of buffer area, that is, an area of tolerance to frustration, where readers could wait patiently until meaning was teased out. They realized the potential of the literary texts in exercising this capacity of tolerating indecision. As a consequence, language teachers with little or no experience in literature were encouraged to work with literary texts." (p. 6)

著者は上記の流れを鑑みて、"Indeed, literature is back but it is not wearing new clothes; it is we who are wearing new spectacles." (p. 6) とコメントしています。

●文学作品の有用性

著者は以下のように述べています。

"Literary texts are intellectually stimulating. They allow readers to create worlds with which they may not be familiar and the way they do it is by relying on language. In building meaning, the reader reconstructs or re-creates what he or she thinks the writer is trying communicate. In this sense, the reader becomes a performer, an actor in a communicative event. Among other things, the reader must trace the voice of the 'speaker'." (p. 6)

●文学作品指導モデルの紹介

Carter & Long (1991) を参考に、the cultural model、the language model、the personal gworth modelを紹介しています(もちろん、現実にはこれらは純粋な形で存在しているわけではなく、お互いに混合しています)。すでに述べたように、ブラジルでは、文学作品の英語教育での使用が敬遠されている状況だそうですが、一部の特殊な機関で使用される際には、the cultural modelが中心となるそうです。

また、一部の高等教育機関では、文学に関する背景知識や批評理論の指導が重視される場合もあるとのことです。ただし、これは文学教育を主目的とする場合であり、英語教育という文脈においては、"to use literary texts for sensitizing students to the creative and pleasurable experience of reading and as a springboard to language manipulation, to an experience of alternative worlds and unexpected uses of English" (p. 10) という考えが主流となっています。

●文学作品使用反対論に対する反論

著者は、以下のような反対論を取り上げ、それぞれについて分かりやすく回答しています。著者による回答はこの記事では省略します。

(1) シラバスがタイトであり、詩を楽しむような時間はない
(2) 学習者は母語ですら詩を読まないのに、外国語の詩を読ませるなんて・・・
(3) 卒業後に文学を勉強したい学習者に対してならともかく、他の学習者にとっては詩の使用はあまりにも特化しすぎた活動ではないだろうか
(4) 詩を使ってはみたが、多くの学習者にとってはそれはとても難しく、しかも「正しい」解釈を求めてくる
(5) 教師である自分でも詩の意味を本当に理解しているかどうか怪しいので、詩を学習者に説明するというのは荷が重い
(6) 詩には逸脱的な言語が含まれており、正しい用法を学びたいと考えている学習者にいったいどのように資するのか

著者は最後に以下のようにまとめていました。

"Many of the objections raised by language teachers lose their strength when literature is understood as an important manifestation of imagination and creativity, where there is no right or wrong, where human logic is challenged and pushed to limits, where cultures and ideologies are checked and compared, where a language system is not taken for granted. This is why I claim that literary texts are essential to language learning. What is open to discussion is which texts to use and how to handle them. Ultimately what happens in the space and time of a classroom depends on the teacher/student interaction. Therefore, it is up to each individual teacher to help promote the integration between language and literature." (p. 14)

| | コメント (0)

2015年2月17日 (火)

糟谷美千子(2011).「クリティカル・ディスコース・アナリシス(CDA)の言語・コミュニケーション教育における実践-環境コミュニケーションの授業活動を例として-」を読む(『社会言語科学』)

「CDAを導入したコミュニケーション教育では、、授業で取り上げたテキストを分析し、その内容を理解することだけが目的ではなく、ディスコースにより構築される考え方を分析することにより、自分たちの社会や自分自身が当たり前とし、意識することさえない価値観・考え方を再検討する力を身につけることができる」(p. 118)という理由から、環境コミュニケーションの授業でCDAの教育的利用がなされています。企業による環境広告と政府広報を用いた実践となります。

糟谷美千子(2011).「クリティカル・ディスコース・アナリシス(CDA)の言語・コミュニケーション教育における実践-環境コミュニケーションの授業活動を例として-」.『社会言語科学』,13 (2),116-127.

感想

実践の詳細はこの記事では割愛します。重要だと思ったのは、「不十分と思われる点や疑問点を指摘するだけでは、批判的分析としては十分ではない。そのことを自分自身がどう考え、どうしたいのかまで考えることが、批判的視点の重要な点である。」(p. 124)という指摘です(Kress & van Leeuwen (1996) に基づいた指摘です)。著者は今回の実践では、学生は「(1) ディスコースの言語形式の厳密な解釈により、潜在的な意味を読み取ること、(2) 特定の価値観を正当化する思考形態を問題視すること、(3) その問題を解決していこうとする姿勢をもつこと」(p. 125)という3つの批判的視点を身につけることができたと報告しています。

なお、今回の実践では非言語的要素の検討は除外したそうで(学生は言語的要素の検討で手一杯になると考えられたことがその理由です)、今後はこの側面も実践に取り入れていくことが必要であると述べられていました。

また、CDAを授業に取り入れる際には、教師自身の考えも1つの考えにすぎないということをいかに学生に理解させるか(教師の意見はどうしても学生の考えに作用してしまうので)が難しいと述べられていました。最後に、「教師自身が、内省的な姿勢を保ち、自らの知っていることには限界があることを常に意識し、学生とともに学び、発見していく態度を示すことが重要であろう」(p. 127)と述べられていました。

| | コメント (0)

小林英夫(1973).「文体論の成立について」を読む(『早稲田大学語学教育研究所紀要』)

日本で最初に文体論で学位を取られた方としてとても有名な先生が、文体論について分かりやすく解説されています。イギリス系統の文体論とは少し異なる伝統に基づいた論文であり、勉強になります。

小林英夫(1973).「文体論の成立について」.『早稲田大学語学教育研究所紀要』,11,72-96.

概要

著者は、文体論はその他の言語学と違って、研究対象が言語活動の知的な理解の部分ではなく、情意の部分であるという点を確認します。

次に文体論はなぜ他の言語学と比べて発生が遅れたのかを説明しています。著者は主に以下の3点をその理由として挙げています。

(1) 文体論は言語活動全体を観察しなければならない(その他の領域は言語活動の部分が研究対象となるのに対して)(そもそも物事を全体的に捉えようという考え方(たとえばゲシュタルト心理学など)は、1880年代に登場はしたものの、しっかりとした理論体系を形成できたのは1910年代以降となるそうです)
(2) 文体論は共時態を対象とするが、このような言語の見方が承認を得るのには時間がかかった
(3) 文体論の対象は、言ってみれば匂いのようなものであり捉えにくい。研究者には、このような研究対象を鋭敏に捉えることのできる文学的センス、芸術的センスと、それを今度は緻密で客観的に分析するための科学的頭脳が必要であり、そのような人材は非常に少ない

また、著者は文体論には、以下のように二つの流れがあることを指摘します。

(1) クローチェの弟子であるフォスラーが開いた学派
(2) ソシュールの弟子であるバイイが開いた学派

上記(1)は、偉大な作家の作品を追体験する美学的なアプローチとなります。それに対して(2)は、庶民の言語における情意的側面を客観的に追求するアプローチとなります。

さらに、文体論の学問的位置づけについても解説し、ラングの学とパロールの学の中間に位置するという点が確認されています。そして、文体の定義として、「文体は文章における様式である」(p. 91)と指摘し、2つ以上の言い方が許されるときに様式は成立するという点が指摘されていました。

最後に、作者の人格(先天的な性格、理想像、修練が絡み合って形成されたもの)に起因して作り上げられた文章構造を持つ作品が読者に深い感動を与えたときに、その文章は文体論の研究対象となりうるという点が確認されていました。

| | コメント (0)

2015年2月14日 (土)

E.Zyzik&C.Polio(2008).「Incidental Focus on Form in University Spanish Literature Courses」を読む(『The Modern Language Journal』)

スペイン語を外国語とする学習者対象に行われる文学の授業の中で、incidental focus on formの働きやその効果の認識について、授業観察や教師へのインタビューを元に検討されています。

Zyzik, E., & Polio, C. (2008). Incidental focus on form in university Spanish literature courses. The Modern Language Journal, 92 (1), 53-70.

概要

この論文では主に以下の点について議論されていました。

(A) focus on formの研究の流れの概説
(B) incidental focus on formの意義の解説
(C) 結果の報告

●focus on formの研究の流れの概説

著者らは次のようにまとめています。

(1) Long (1991) がfocus on formという概念を提案(incidentalなものとして提案)
(2) Doughty & Williams (1998) がfocus on formの概念を拡張し、"planned, language-focused activities" (p. 55) もこの概念に含めることを提案
(3) Ellis (2001) が、form-focused instructionという概念を検討し(Spada (1997) がこの概念を提案)、focus on forms、planned focus on form、incidental focus on formに分類
(4) Ellis (2001) は、incidental focus on formをさらに、recasts、negotiation、explicit negative feedback、preemptive focus on formの4つに分類

●incidental focus on formの意義の解説

著者は先行研究を検討する中で、incidental focus on formは言語学習に効果的であることを確認します。これまでのところ、内容教科の中でincidental focus on formがどのように機能するのかということについてはあまり研究されていないとのことですが、その有用性は十分に期待できるという見通しを立ています。この論文では、内容教科としてスペイン文学の授業が取り上げられ、この授業の中でincidental focus on form(Ellis (2001) の分類に基づく)がどのように機能するのかが検討されます。具体的な検討項目は以下の2点です。

"1. How can incidental focus on form be characterized in advanced literature-based Spanish classes with regard to its frequency and type?
2. What are the instructors' perspectives regarding the use of incidental focus on form in such classes?" (p. 58)

●結果の報告

この研究の主な結果は以下の通りです。

(1) negotiation、explicit correctionはほとんど生じない
(2) preemptive focus on formはよく使用されているが、語彙に関する事柄に限られる
(3) 学習者が主体となってfocus on formが生起することもあるが、語彙に関する事柄に限られる。その際、母語である英語が用いられる。
(4) 学習者が誤りを犯すと、教師はrecastを用いる(ただし、教師はrecastという専門用語は知っていない)
(5) 教師は専門用語としては知らないものの、recastを自覚して使用しており(incidental focs on formの4つのカテゴリーの中で最も使用が多い)、さらに語彙を指導するための母語の使用とpreemptibve focus on formも認識している
(5) 教師は、学習者ををまごつかせ、結果として彼らのアウトプットを制限しかねないとして、explicit correctionは好ましくないと感じている

また、この論文のところどころで言及されているのですが、言語教育と文学教育が分離していることを著者らはとても大きな問題と考えています。今回の調査を通して、"students in upper level foreign language courses are still language learners" (p. 64)、"learning about literature and developing linguistic proficiency are not mutually exclusive goals" (p. 64) と主張していました。

| | コメント (0)

山本博樹(1994).「物語の理解過程-どのように読み手は時間因果的な一貫性を構成するのか-」を読む(『読書科学』)

絵画配列課題を用いて、読者は物語の時間因果的一貫性をどのように構成するのかを調べた研究のレビュー論文です。英語教育では、よく物語を読ませた後に、物語中の場面を描いた絵を物語の順番どおりに並べ替えさせる課題がありますが、この領域の研究成果を利用してより面白い課題が作れるかもしれません。

山本博樹(1994).「物語の理解過程-どのように読み手は時間因果的な一貫性を構成するのか-」.『読書科学』,38 (2),67-82.

| | コメント (0)

2015年2月 7日 (土)

D.I.Hanauer&S.Waksman(2001).「The Role of Explicit Moral Points in Fable Reading」を読む(『Discourse Processes』)

これまで、文章におけるexplicit summarizing statementsの役割として、"activation of prior knowledge, enhanced integration of textual content, and refocusing of attention" (p. 107) という働きがあることが示されてきました。それに対し、この論文では、寓話における明示的な教訓の提示はどのように機能するのか、ということが実証的に調査されています。

Hanauer, D. I., & Waksman, S. (2001). The role of explicit moral points in fable reading. Discourse Processes, 30 (2), 107-132.

概要

著者らは、99名のヘブライ語母語話者(全員女性)に、"The ass, the fox, and the lion" "The fox with the swollen stomach" という2つの寓話をヘブライ語で読ませています。まず、物語の部分のみを読ませ、そこでその物語の教訓について推論させます(書き出させます)。その後で教訓部分を読ませ、再度物語の教訓について考えさせる(書き出させる)、という方法でデータが収集されています。

データはグランデッド・セオリーに基づいてカテゴリー化され、そのカテゴリーに基づいて今回の調査者に見られた7つの解釈手順(カテゴリーの連鎖)が抽出されています(L2における文学読解とnoticingの関連性を調査した、Hanauer (2001) と同じ研究手法です)。これらのうち、5つに教訓による情報統合機能(enhanced integration of textual content)が確認されました(残り2つに関しては、教訓の働きを反映したものではありませんでした)。また、さらにそのうちの2つには、教訓が新たなテクスト情報に読者の注意を向けさせる機能(refocusing of attention)が確認されました。

これらは先行研究で調査されていたexplicit summarizing statementsの働きと共通したものです。このことに加えて、さらに本研究では、明示的な教訓独自のものとして "[the function to] persuade their readers to accept socially authorized interpretations of events" (p. 129) も確認されました。

ただし、著者らはこの機能は寓話独特のものとは考えていないようで、"similar situations that involve an explicit authorized interpretation following the telling of a narrative are found in diverse contexts such as psychoanalytic therapy, newspaper reporting, teaching, literary cricitism, and legal interpretation" (p. 131) と考えており、今後更なる研究が必要だと述べていました。

| | コメント (0)

2015年2月 2日 (月)

村田夏子(1997).「読書習慣が登場人物像に与える影響」を読む(『文京女子短期大学英語英文学科紀要』)

この論文では、小説を母語で読む際に、作品の登場人物像を読者はどのように構成するかが調査がされています。小説を頻繁に読む集団(高接触群)とそうではない集団(低接触群)の対照実験です。村上春樹の「ファミリー・フェア」という短編小説の冒頭を読ませ、その範囲で直接登場する人物の像と、登場人物同士の会話(または語り手による語り)で言及されるのみの登場人物の像の構成について調査されています。調査では、参加者は読解終了後にこれら2種類(2名)の登場人物について想像し、記述するように指示されています。文学作品読解を対象とした数少ない状況モデル研究の1つです(このことは著者自身も論文中で主張しています)。

村田夏子(1997).「読書習慣が登場人物像に与える影響」.『文京女子短期大学英語英文学科紀要』,30,175-183.

概要

この論文で報告されていた結果は以下の通りです(実験計画等は省略します)。

(1) 高接触群の方が低接触群よりも登場人物の記述量が多く、登場人物像を詳しく想像するようである
(2) 高接触群の方が低接触群よりも登場人物同士を対比的に捉えている
(3) 登場人物の好ましさについて尋ねたところ、登場人物の好感度は読者の小説への接触量に影響を受ける
(4) 低接触群は、作品中に直接登場しない人物の好感度については判定を留保する傾向が強い(低接触群は、作品中に直接登場しない人物については、好き嫌いを決められるほど詳しい状況モデルを作ることができていない)
(5) 小説への接触量にかかわらず、読者は作品中の客観的な記述を利用して登場人物像を作り上げようとしているが、同時に主観的記述(特定の登場人物による主観的な記述)も同様に利用していた(主観的記述を無批判に利用しているという点で、この調査での高接触群の状況モデルも正確性に欠けていたと考えられる)
(6) 低接触群には誤読が見られた
(7) 作品の続きを読みたいかどうかということと小説への接触量の間には関連性は見られなかった
(8) 作品の続きを読みたいかどうかということは、語り手への好感度の高低に影響を受ける
(9) 高接触群は、読んで想像するということが楽しみになっているようで、今回の調査を面白かったと感じていた(低接触群は、今回の調査(特に作品中に直接登場しない人物について想像すること)を苦痛に感じている者も見られた)

著者はこれらの結果を総合して以下のように述べています。

「低接触群の場合、...テキストベースと状況モデルをあまり相互作用させておらず、正確なテキストベースが作られていないと推察される。最初に作った状況モデルをあまり修正せず、その状況モデルと矛盾する情報は見落として不正確なテキストベースを作ってしまうと考えられる。」(p. 181)

ただし、上記 (5) のように、今回の調査の高接触群の心的表象についても大きな問題が確認されました。

著者は、パスティーシュ(模倣作品)などは豊かな状況モデルの所産であり、このような文学作品を分析することで、状況モデルの研究が一層進むことを期待しています。

| | コメント (0)

« 2015年1月 | トップページ | 2015年3月 »