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2014年12月20日 (土)

A.Chesnokova&V.Yakuba(2011).「Using Stylistics to Teach Literature to Non-Native Speakers」を読む(L.Jeffries&D.McIntyre(編),『Teaching Stylistics』,Palgrave Mcmillan)

ウクライナにおけるEFL学習者対象の文体論教育の現状報告です。ロシア・フォルマリズムを生み出した旧ソ連の一部だけあって、文体論の重要性の社会的認知度およびその指導体制の充実ぶりが、日本やイギリスとは比べ物にならないほど高いことにとても驚きました。

Chesnokova, A., & Yakuba, V. (2011). Using stylistics to teach literature to non-native speakers. In L. Jeffries & D. McIntyre (Eds.), Teaching stylistics (pp. 95-108). Basingstoke: Palgrave Mcmillan.

概要

ウクライナでは、文体論は人文系大学教育の中でその重要性がしっかりと認識されているほか、理論的背景の講義に少人数制のセミナーを組み合わせた指導体制、さらにAnalytical ReadingやLiterary Awarenessといったコースとの連携も確立しているそうです。さらに、外国語教育への文体論の有用性も認識されているほか、学習者が課外で文体論に関連した様々なプロジェクトに従事しているなど、本当に驚くばかりです。特にプロジェクトに関しては、実証的な調査を通じて文体論を指導することの可能性が模索されているとのことです。この論文内では、Emily Dickinsonの809番の詩を学習者に読ませ、語彙の繰り返しや反復構造が読者の詩の知覚に影響を与えていることを示したプロジェクトの結果が紹介されていました。さらに、高校までで学習者は主な英語文学について読んでいるという状況にも大変驚きました。日本ではなかなか実現は難しいでしょうが、文体論を究極まで教育の中で推し進めた一つの形として非常に興味深い事例だと思いました。

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2014年12月17日 (水)

D.Y.Manin(2012).「The Right Word in the Left Place: Measuring Lexical Foregrounding in Poetry and Prose」を読む(『Scientific Study of Literature』)

著者は、実際の詩や散文を元にオンライン上のゲームを作成し、下線を適語で埋めるなどといった問題をユーザーに解かせ、その膨大な量のデータから、文学のunpredictabilityとconstrainednessという2つの側面について考察を行っています。Shannonらに端を発する文学への情報処理理論的アプローチを背景とした論文です。

Manin, D. Y. (2012). The right word in the left place: Measuring lexical foregrounding in poetry and prose. Scientific Study of Literature, 2 (2), 273-300.

概要

文学作品は一般に語彙に関してunpredictabilityという特性を持っていると考えられています。しかし、文学への情報処理理論的アプローチの観点からすると、特に詩については次のようなパラドックスが存在すると指摘されています。

"the need to satisfy formal constraints seems to restrict the poet's choice of words. The righ synonymy of the language allows us to express the desired meaning, while rhyming at the same time, but we have less words to choose from. That should make the text more predictable, less unexpected, and hence, less foregrounded and information-rich. But poetry is universally considered to carry more and denser meanings than texts of other kinds." (p. 278)

調査手順や分析結果についてはこの記事では省略しますが、今回の調査では次のような結果が得られたそうです。

"Unpredictability of words in typical metrical poetry is about the same or somewhat less compared to that in prose. Avant-garde style poetry is considerably more unpredictable than prose, while especially banal poetry is considerably more predictable." (p. 294)

そしてこの結果から、"metricality helps to guess words in poetry, while poetic license (the greater freedom of word choice and combination) makes them harder to guess. This can be viewed more generally as an interaction between two kinds of foregrounding, parallelism and deviation respectively." (p. 294) と述べられています。

また特に典型的な詩に関しては、語い上のunpredictabilityはそれほど強くないという点が指摘されていました。さらに、constrainednessという観点からは、"the language of poetry relies less on standard syntax and semantics than the language of prose, and employs formal devices in particular, phonic structure, to partially replace them." (p. 294) という点も強調されていました。

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2014年12月15日 (月)

川畑彰(2008).「文学テクストによる言語教育の意義と可能性」を読む(村田久美子・原田哲男(編),『コミュニケーション能力育成再考 ヘンリー・ウィドウソンと日本の応用言語学・言語教育』,ひつじ書房)

ウィドウソンの外国語教育における文学教材使用に関する議論をコンパクトにまとめた論文です。ウィドウソンの考え全体を理解したいという人におすすめです。要点が簡潔にまとめられています。

川畑彰(2008).「文学テクストによる言語教育の意義と可能性」.In 村田久美子・原田哲男(編),『コミュニケーション能力育成再考 ヘンリー・ウィドウソンと日本の応用言語学・言語教育』(pp. 53-77).ひつじ書房.

概要

ウィドウソンの議論の前提には「いったん現実社会のコンテクストから独立して創造される文学テクストには、実用を第一義とするテクストには見られない可能性があり、学習者の創造性、想像力を喚起する潜在力がある」(p. 55)という考えがあります。しかし、われわれは文学テクストの特徴に関して十分に理解しておらず、思考停止に陥っていると指摘されていました。ウィドウソンは文学テクストの特徴として以下の点を指摘しています。

(1) 「メッセージの送受信の装置としてのテクストの読みの体験において、読者は内世界の人物のいずれでもないが、同時にそのいずれでもあるという複合的な人称としての送話者と受話者の「語り」を受容する」(p. 60)
(2) 文学テクストは日常的ディスコース同様にともに言語使用者による新しい真義が関わる
(3) ただし、その真義は文学テクストの独特のパターンの中に埋め込まれており、語に高度に凝縮された比喩性と意味の幅が与えられいる。結果として、読者によってテクストから読み取る表象が異なることになり、文学テクスト読解は読者ひとりひとりで異なる言語使用となる。

また、ウィドウソンは特に1992年の著書で様々な言語活動を提案していますが、それらは次のようなことを意図したものであると述べられています。

(1) 広義の意味での言語遊戯とも言え、「1つに学習者の原詩の表象について理解を深めることにあり、2つに原詩や文学テクストに留まらない言語そのものについての意識(awareness)を高めることにある」(p. 70)
(2) 「学習者や読者は、むしろ自らテクストと戯れるべきであり、テクストの解釈にあたっては、学習者が読みの体験として文学テクストの言語と相互的にかかわり、表象をみずから(再)創造し、実現するところに意義がある。読者はテクストに対して得る直感を直感のまま印象的に語るのではなく、テクストの具体的な言語表現を証拠として、テクストの意味を自ら再創造すべきである。かくして言語に潜在する可能性は発掘され、読者の創造性や想像力が覚醒する。ここでは、解釈上のつまずきや挫折も、言語学習、テクスト解釈のエネルギーに転化することが重要である。教師の重要な役割は学習者がそのような解釈の過程を体験するのを手助けすることにある。」(pp. 70-71)

ウィドウソンは、文学教材の使用の意義として以下の点を指摘しています。

(1) 「われわれが言語の意味の多様性を理解し、多様な言語使用についての意識を高め、さらに言語が実現する「もうひとつの現実」を知ること」(p. 72)
(2) 「文学には文学以外には理解できない文学性(literariness)があり、他の社会的な主義・主張では捉えることが不可能な、人間についての表現がある」(p. 72)
(3) 文学テクストは、「社会的な身分や地位にある人物たちを、例えて言えば王の地位にあったリア王をただの人間としても見つめる視点の重要性」(p. 73)を問いかける。『リア王』で言えば、人間存在についての本質とは何であり、それがどのように言語表現として具体化されるのか理解をし、ひいては読者としてそれをいかに解釈・創造するか、ということに他ならない。

最後に著者は異文化理解ということについて非常に重要な指摘を行っています。

「異文化とは海の向こうの文化のみを指すわけではない。友だちのAやB、すべてが異文化を生きている。文学テクストが具体化する、もうひとつの現実を生きる人間の存在を考えることは、隣の席に座るCさんやD君、その他、社会的な生を生きるすべての人間を新しい目で見ることにつながるのではないか。それをおいて教育における「有用性」はない。多くの人々がことばを喪失し、あるいは忌避する傾向がある現代社会で最も重要なのは、この種の有用性ではないだろうか。」(p. 74)

なお、著者はウィドウソンの文学を使った英語教育研究は3つの時期に分けられるとしています(pp. 75-76)。

(1) 文体論の位置づけを行いながら、文学テクストと教育の関連性に重点が置かれた時期(1975年)
(2) 言語学の理論に基づいて文学テクストの特徴が議論された時期(1984年)
(3) 教育的応用に重点が置かれた時期(1992年)

これからウィドウソンの文献を読もうとしている人にはよいガイドになると思います。

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2014年12月10日 (水)

M.Marshall(1979).「Love and Death in Eden: Teaching English Literature to ESL Students」を読む(『TESOL Quarterly』)

プエルトリコのESL学習者が英語文学を学ぶ際の留意点について述べられています。仮に学習者に文学作品の下地になっているような直接経験がなかったとしても、学習者は自身の経験でそれを代用して作品の理解を進めることができるという点が指摘されていました。非常にユニークな視点の論文です。

Marshall, M. (1979). Love and death in Eden: Teaching English literature to ESL students. TESOL Quarterly, 13 (3), 331-338.

概要

英語文学は季節の移り変わりをベースとして書かれており、季節の移り変わりを直接経験できないプエルトリコのESL学習者に多くの問題を引き起こしているとする説があるそうです。しかしながら、著者によると、学習者は死、病、精神疾患、家族への帰属、出産、宗教に関する日常経験でこの不足した経験を補っていると指摘しています。もちろん、文学作品の中にはこのような経験を持つ学習者にとってうまく機能する象徴とそうでない象徴があることは確かです(例えば孤立といったことは、プエルトリコではあまりあることではなく、学習者が母語話者と同じようなニュアンスをこの語から感じ取ることは難しいそうです)。しかし、特にルネッサンス期や18世紀の作品に関して言えば、母語話者でも事態は同様で、彼らにとってすでにうまく機能しない象徴が含まれています。さらに、作品によってはシェイクスピアによるものなど地中海近辺を舞台とした作品もあり、そういった作品に関してはむしろ学習者の方が母語話者よりも作者と近い文化背景を持っている場合もあります。このような事態を踏まえるに、ESL学習者による英語文学の理解に関しては、近年の批評理論や学術的な議論の観点では扱われていない部分があるということを十分に認識しておくことが必要であると指摘されていました。

なお、プエルトリコのESL学習者の特徴がいくつか挙げられていました。面白い指摘だったので、ここにも紹介しておきます。

(1) 古英語由来の語(例えばlove)よりもロマンス系の語(例えばaffection)を好み(文法についても同様)、使用頻度もロマンス系の語の方が高い
(2) コメディーは学術的なものではないという先入観があり、コメディーを読む際にもその修辞的側面に注目してしまう傾向がある
(3) 音節を数えたり韻律について考えたりすることを好む

随分と日本の英語学習者と状況が違うことが分かります。また、大家族で住んでいることもあり、登場人物の系図的関係の理解に優れているという点も指摘されていました。

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2014年12月 7日 (日)

R.Ohmann(1966).「Literature as Sentences」を読む(『College English』)

この論文の目的に関して、著者は "I am not asking what is special about the sentences of literature, but what is special about sentences that they should interest the student of literature." (p. 261, emphasis in original) と述べており、文のどのような特性が文学批評と強く関わるのか議論しています。なお、生成文法(標準理論、すなわち変形生成文法と呼ばれていた時代の理論)が理論的な枠組みとして使用されています。

Ohmann, R. (1966). Literature as sentences. College English, 27 (4), 261-267.

概要

著者は文学批評と関わる文の言語学特性として以下の点を挙げています。

(1) 文は理解プロセスの主要単位である

(2) 文は、その表層構造の背後で多くの統語プロセスと意味プロセスに依拠して成立している

(3) 文という単位の中で形式と意味が密接に結びつき、文体が形成される(例として、有生物語を求める箇所に無生物語を使用するなど、語彙の選択制限の問題が挙げられていました)

(4) 深層構造に作者の精神や物の見方が反映される。複雑な深層構造は作品の内容面に影響を与え(作品内容を形作り)、統語構造の検討は作者のレトリックを明らかにし、作者の精神や物の見方、ひいては作品の理解を助ける(例として、逸脱的表現の理解が挙げられていました。作者は特定の意味的動機からこのような表現を用います。そして、読者は言語知識を駆使してその動機を特定しようとするわけですが、当然このような表現には複数の解釈が可能であり、個人間で異なる結論に達するのが常です)。

著者は最後に、"In sofar as critical theory concerns itself with meaning, it cannot afford to bypass the complex and elegant structures that lie at the inception of all verbal meaning" (p. 267) と述べ、文の構造(統語構造と意味構造両方を含む)の理解は作品の構造の理解を豊かにするであろうと主張しています。

生成文法の枠組みに基づいた文体論研究としてはかなり有名な論文なのですが、"the elusive intuition we have of form and content may turn out to be anchored in a distinction between the surface structures and the deep structures of sentences." (p. 267, emphasis in original) といった生成文法の理解としてはやや危うい表現も含まれています。

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2014年12月 6日 (土)

D.L.Gugin(2008).「The Uses of Literature: Towards a Bidirectional Stylistics」を読む(『Language and Literature』)

文体論は言語学の知見を文学分析に応用するという方向性だけでなく、文学分析の知見を言語学に活用するという方向性についても考えていくべきであると著者は述べ、言語学と文学の双方向性(bidirectional stylistics)を提唱します。この論文では、Flannery O'Connorの分裂文の使用を例として議論がされています。

Gugin, D. L. (2008). The use of literature: Towards a bidirectional stylistics. Language and Literature, 17 (2), 123-136.

感想

著者によると、これまでの言語学における文法研究は文学テクストからの例を用いずに研究をしている点で大きな問題があると指摘しています。そして、Flannery O'Connorの分裂文の用法を元に、従来の文法研究の限界点を指摘します。先行研究によると、分裂文においては、whatを含む部分がその文の主たる動詞の前に来ようと後ろに来ようと、決まって主語の部分は旧情報、補部の部分は新情報からなると考えてきました(ただし、Declerck (1994) は、新情報主語+旧情報補部、新情報主語+新情報補部、というパターンも指摘しているそうです)。それに対して、著者はO'Connorの分裂文の用法を見ると、旧情報主語+旧情報補部というパターンも確認できるとして、文学言語の言語学への重要性及び有用性を指摘しています。また、このような分裂文の形式は、O'Connorの作品内容のイコンともなっている点が指摘されており、大変興味深かったです。

著者がこの論文で示した、旧情報主語+旧情報補部という分裂文のパターンを文学独特の逸脱的言語とみなす立場も十分に予想されます。しかし、文学言語と日常言語の連続性が近年指摘されている以上、文学言語で見られる特性は言語学において考慮に入れられるべきであると著者は主張しています(pp. 133-134)。

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2014年12月 2日 (火)

W.Nash(2010).「An Anglo-Saxon Mystery」を読む(『Language and Literature』)

古英語詩Wulf and Eadwacerを事例として、文学作品と翻訳の関係が議論されています。

Nash, W. (2010). An Anglo-Saxon mystery. Language and Literature, 19 (1), 99-114.

感想

Wulf and Eadwacerという作品は、非常に曖昧であり、多くの解釈が提示されてきました。学習者がこの作品の理解を深めようとする場合、古英語に習熟するという学習法と、この作品の翻訳に習熟する、という方法があります。著者は、後者の学習も十分に尊重されるべきであると考えています。

また、著者によると(特にこのように曖昧性の高い作品の場合)、翻訳とは必然的に解釈に等しい行為となります。この作品の翻訳(現代英語訳)は多数公表されていますが、それぞれが異なっており、かついずれも十分に満足のいくものとはなっていません。しかし、著者によればそれは仕方がないことだと考えています。なぜなら、

"Poems change for us; and we are changed by them; and through the inflections of experience and circumstance, through encounters and travels in literature ad the market and politics and friendships, we are altered and periodically compelled to see things otherwise." (p. 111)

という特性があるためです。詩とはこのようなものである以上、他人の解釈に触れる翻訳は学習者にとって大いに活用されるべきものとなるわけです。

この記事では省略しますが、文学作品の翻訳方法に関する議論は長い歴史を持っています。更に様々な立場も表明されてきました。この論文では、Dryden、Johnson、Tolkin、Raffelらの考えが紹介されていました(pp. 104-105、109-110)

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