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2014年9月30日 (火)

高橋順一(2005).「音象徴と類像性-英語語頭子音gl-」を読む(『北海道文教大学論集』)

音象徴について主要な研究がレビューされ、特にglに関してその具体的な音象徴の一覧が示されています。

高橋順一(2005).「音象徴と類像性-英語語頭子音gl-」.『北海道文教大学論集』,6,13-23.

感想

Crystal (2003) による音象徴の定義から始まり、Jespersen (1922)、Bloomfield (1933)、Ullman (1962)、Lyons (1977) の音象徴に関する議論がレビューされています。さらに、Sadowski (2000) とCrystal (1995) によるgl-の意味が紹介されています。glの意味は普遍的なのかそれとも個別言語のみに見られるのか(アイスランド語、オランダ語、ノルウェー語、ドイツ語、デンマーク語などゲルマン語派では同様な意味がglに観察されるそうです。しかし、スラブ語には少なく、ペルシャ語や中国語では全く観察されないとのことでした。)という問題は非常に面白く思いました。また、英語と日本語の音象徴には対応関係が見られ、fl音は日本語では「ひらひら」、gl音は「ぎらぎら」と訳されることが多いという田守(2002)の指摘もとても興味深いです。

音象徴に関して非常に多くの情報が掲載されており、とても勉強になりました。なお、gl以外にも様々な事例が紹介されています。音象徴という言語現象をこれから勉強しようとする人にはとても有用な手引きとなるでしょう。

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2014年9月28日 (日)

D.H.Cohen(1968).「The Effect of Literature on Vocabulary and Reading Achievement」を読む(『Elementary English』)

L1での研究になります。社会的に不利益を被っている学習者は読解力が低いという問題点があるそうですが、文学作品の音読を毎日聞くことでこのことが改善されたという報告がなされています。

Cohen, D. H. (1968). The effect of literature on vocabulary and reading achievement. Elementary English, 45 (2), 209-213, 217.

概要

7つの学校の20の授業(調査協力者は延べ285名)で実施されており、かなり大規模な調査になります。調査協力者は、毎日文学作品の音読を聞くクラス(実験群)とそうでないクラス(対照群)に分けられ、およそ9ヵ月後に2つのクラスでどのような違いが現れているかが調査されました。調査結果は以下の通りです。

(1) 実験群の方が語彙が多く増えていた

(2) 実験群の方が語の知識が深まっていた

(3) 実験群の方が読解力が高まっていた

(4) 語彙を識別する能力は2つの群で違いはなかった

上記の (1) ~ (3) の結果は、最も読解力が低いとされる6つのクラスでも見られたとのことです。なお、この調査では上記の結果を導く際に様々なテストが行われています。どのようなテストを行ったのかということについてはこの論文を直接ご参照ください。以下に、この論文の結論として述べられている事柄の中で特に重要だと私が感じた点を列挙しておきます。

(1) "Continued exposure in early childhood to stories read aloud apparently affects basic, beginning stages of the transition that must take place in growth from comprehension of oral language to the final use of symbols in reading." (p. 213)

(2) "Vocabulary ... appears to be learned best by young children in a context of emotional and intellectual meaning." (p. 213)

(3) "Continued and regular listening to story books chosen for their emotional appeal and ease of conceptualization seems to aid facility in listening, recall of stretches of verbalization, and the recognition of newly learned words as they appear in other contexts." (p. 217)

(4) "The relationship believed to existed between oral language and reading has been confirmed. At the same time, it has been shown that primary grade children retarded in reading strengthen their language power when language learning is incidentally associated with experiences of intellectual and emotional meaning for the age and stage of developmen of the child."(p. 217)

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J.F.Povey(1967).「Literature in TESL Programs: The Language and the Culture」を読む(『TESOL Quarterly』)

文学教材による文化的側面の指導に関してかつてよく引用された文献です。現在の言説とはかなり異なっている面もあり、かなり時代を感じます。最終的には、文化的内容の難易度を中心にESLプログラムを作り上げることを提案しています。

Povey, J. F. (1967). Literature in TESL programs: The language and the culture. TESOL Quarterly, 1 (2), 40-46.

概要

著者は言語教育における文学教材の価値については母語教育では自明の理と考えられていますが、外国語教育ではその意義について考え直す必要があると述べます(L1での指導をそのまま外国語教育に応用して学習者を混乱させている指導が非常に多いと指摘されています)。

著者によると、母語教育では、Englishという科目は、GrammarとLiteratureに二分されていて、当初はGrammar中心でなされますが、それが一通り終わるとLiteratureをもっぱら扱う形になると述べられています。そして、それが外国語教育にそのまま適用される例が少なくないようです。結果として、学習者の言語スキルについて全く考慮しないまま古い英語で書かれた古典的作品を扱うという授業が散見されるようだとのことです。また、同時にGrammar以外で授業で扱えるものとしては文学作品以外にはないのではないかという考えも当時はあったようです(現在であれば、様々なジャンルのテクストを扱うということが考えられますが、この当たりが現在とはずいぶんと違います)。

著者は、上級レベルのESLのコースを企画することになったそうで、文学を取り入れる意義として以下の点を指摘しています。

(1) "Literature will increase all language skills because literature will extend linguistic knowledge by giving evidence of extensive and subtle vocabulary usage, and complex and exact syntax. It will often represent in a general way the style that can properly stand as a model for students." (pp. 41-42)

(2) "Literature is a link towards that culture which sustanins the expression of any language." (p. 42)

(3) "We must acknowledge the indefinable, though all-important, concept that literature gives one awareness and human insight." (p. 42)

(4) "Literature may guide a few more gifted students towards their own creativity by example derived from their reading of successful writers." (p. 42)

上記 (2) に関して、異なる文化に共通する内容を扱うか、アメリカ特有の内容を扱うかを決める必要があると指摘されていました。

また、特に外国語教育に関しては、上記 (1) (2) が重要な項目であると述べられています。上記 (3) (4) は母語での経験を活用できるとされています。

なお、著者は外国語教育はあまりにも言語に関する側面を重視しすぎていると考えており、以下のように述べます。

"we have, to date, placed far too heavy a premium upon the issue of language. Language has been so stressed that it has been elevated to the totality of expression, whereas it is rather the technique by which expression and ideas are conveyed. I wish to argue that language difficulty for the ESL student may have been exaggerated as a greater dragon than it really is." (p. 42)

そして、未習事項が含まれている文学作品をどんどんと活用していくことを主張します(著者の経験によると、未習事項が含まれていても学習上問題にはならないとのことです)。著者自身、文学と言語を切り離さずに言語教育を考えていくべきだと考えているようです(p. 40)。なお、著者は文化的側面の方が言語的側面よりもより大きな困難点を学習者に与えると考えています。そして、最終的には文化を中心としてESLプログラムをデザインすることを提案しています(後述)。

また、現在(当時の現在です)の学習者は、著者自身が学習者であった時代と違って、speech(映画やテレビなどで話される言葉)を通して外国語学習をしており、このことも考慮にいれて文学作品の指導について考えなければならないと述べられていました。

著者は、"Rip Van Winkle"というアメリカの物語を使った指導実践を報告しています(言語的には難しい物語だそうですが、学習者は耐えることができたとのことです)。内容としては、時間が経つことに気づかずに30年も寝続ける男性の話だそうで、この物語は各文化圏ではどのように受け取られるかが学習者に尋ねられます。そして、各国出身の学習者から様々な考えが提示された後、この物語の男性は典型的なアメリカ人だと思うかどうか学習者はたずねられます。そして、この質問に対して提出される様々な答えの背後には映画や雑誌で作り上げられたプロトタイプが存在していることを明らかにし、より高度な議論に発展させることが可能であると述べられていました。このようなことは外国語の試験では学習結果として現れることはありませんが、学習者自身は登場人物に共感するなど非常に楽しんでおり、学習効果は大きいと考えています。

最後に学習者は文化理解という観点から外国語教育を再構成することを提起しています。

"We know now roughly how to control difficulties so that items may be presented in an ascending hierarchy of difficulty. Can we begin to plan a similar control of the degree of cultural difficulty by leading the student more gently from the most familiar, the most readily comprehensible, ideas into those elements of our own culture which will be most foreign to him? Those beliefs most difficult for him to appreciate will be those which are in greatest contrast with his own national and racial assumptions." (p. 46)

著者自身現実的ではないかもしれないと述べていますが、文化的側面に関しても対照分析を考えてみてもいいのではないかとする主張(p. 45)はユニークだと思いました。

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2014年9月26日 (金)

久世恭子(2012).「コミュニケーション能力育成についての一考察-文学教材を用いた英語授業から-」を読む(『言語情報科学』)

何度か発表を拝聴させていただいたことのある先生が執筆された論文です。英語教育に関する非常に広範な問題を視野に入れて文学教材の利用について考察がされており、大変勉強になります。この領域に関心のある人はぜひ一読をおススメします。現在の英語教育でホットなトピック(たとえばCEFRなど)と文学教材の関わりについて多くの情報を得ることができます。

久世恭子(2012).「コミュニケーション能力育成についての一考察-文学教材を用いた英語授業から-」.『言語情報科学』,10,73-89.

概要

非常に情報量が豊富ですので、この記事ではこの論文で記載されている事柄について列挙するにとどめたいと思います。ご関心のおありの方はぜひこの論文を直接ご参照ください。

(1) コミュニケーション重視の英語教育政策により文学教材が排斥されるに至った経緯(経団連による「新制大学卒業者の英語学力に対する産業界の希望」、学習指導要領の変遷、「『英語が使える日本人』の育成のための行動計画」、大学英語担当者の専門の分布など)

(2) コミュニケーションと文学を対立するものとして考えている具体的な言説の紹介

(3) 英米のCLTにおける文学教材の再評価

(4) コミュニケーションがしっかりと定義されている状況(CEFRや米国のStandards for Foreign Language Learning in the 21st Century)では、文学も視野に入れた上で「コミュニケーション」という語が定義されていること(つまり、文学とコミュニケーションは対立概念ではないこと)

(5) Widdowson (1978) の考えに基づけば、コミュニケーション能力とは解釈ができるようになる能力を指すため、、文学教材をコミュニケーション能力育成のために有効活用できる可能性が大いにあると考えることができること

著者は、文学教材を利用した3つの授業の記述を行っています。各クラスの英語レベルは上級から初級までを含んでいますが、学習者に実施された授業後アンケートからは、多くの学習者が文学作品に肯定的な印象を持つようになり、さらに文学教材の利用はコミュニケーション能力向上に効果的であると感じていることが示されました。

著者の最後の指摘は非常に重要だと思います。

「コミュニケーション能力を、想定される日常生活場面での会話をする力や音声面での能力と狭義にとらえるのではなく、それぞれのコンテクストの中でテクストや対話相手の発信する内容を解釈し創造的に反応していく能力であると考えると、文学教材を用いて行う活動は、内容を伴う意味のあるやり取りを行える力の育成に役立つことがわかる。コミュニケーション能力と文学教材を対立関係にあると見なすのではなく、むしろ多くを共有していると認識することで、英語教育への新たな貢献が可能となるのではないだろうか。」(p. 86)

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2014年9月25日 (木)

村田夏子(1994).「まんが記号の読みとりに熟達度が与える影響」を読む(『読書科学』)

まんがに関する心理学的研究は当時はもちろんのこと現在でも非常に少なく、その点で非常に貴重な研究です。

村田夏子(1994).「まんが記号の読みとりに熟達度が与える影響」.『読書科学』,38 (2),48-57.

概要

この論文では以下の事柄が議論されていました。

(A) まんがの心理学的研究に関する背景と本研究の調査方法

(B) 調査結果

●まんがの心理学的研究に関する背景と本研究の調査方法

川浦(1984)や磯貝(1980)によると、まんがの心理学的研究は、作品内容を分析するアプローチとまんがの表現方法の形式的側面に着目するスタイル分析のアプローチに大別できるそうです。著者は、まんがは独自の表現形式を持っているため、特に後者のアプローチは有益であると考えており、この論文でも基本的にこちらのアプローチが採用されています。

また、著者はまんがの表現形式の特徴として以下の2点を挙げています。

(1) 言語と絵を統合させたものである点

(2) 言語記号、図絵記号、複合記号から成る点

この論文では、図絵記号の下位に位置する「効果記号」(登場人物の周りに描かれる線や模様などの背景)に着目し、その記号の処理がまんが読解の熟達度の度合い(著者はまんがは活字読書とは別の能力が必要であると考えています)によって変化するかどうかが調査されます。なお、著者はこの論文で以下のような予想を立てています。

「まんがの読解においてはテキストベースと状況モデルを柔軟に相互作用させ、画面に含まれる情報を統合した豊かな状況モデルを読み始めの早い段階で作らなければ、効果背景のように文脈によってさまざまな意味を持ちうる記号の解釈が曖昧になり、一貫した理解に到達できない。したがって、まんが読解の熟達者も文章読解の場合と同様にテキストベースと状況モデルを活発に往復し、それによって早い段階で豊かな状況モデルを作ると考えられる。すなわち、状況や登場人物が設定される作品の冒頭部を読んだ時点で熟達者と非熟達者に差がみられ、熟達者では効果背景記号を含めた画面上の情報を統合して一貫した解釈をし、内的により生き生きとした状況及び登場人物像を描くと思われる。」(p. 49)

この調査では、調査参加者にまんが作品の冒頭部を読ませ、その時点でどのような登場人物像を作ったかが調べられます。次に、この人物の背景に効果記号をあしらったコマを見せて、背景情報をどのように統合させるかを調べます。この際、オリジナルの効果記号以外に、状況モデルと一貫しそうにないその他の効果記号に背景を差し替えたコマも用意し、そのコマがどのように解釈されるのかが調べられます。なお、調査参加者は、まず156名の女子大学生に一週間に読むまんがの量とよく読むまんが雑誌の種類をたずねる質問紙を実施し、上位25%をまんが熟達者、下位25%を非熟達者として抽出しました。その他詳しい調査方法は本論文を直接ご参照ください。

●調査結果

この調査の結果は以下の通りです。

(1) 作品の続きを読みたいかどうかたずねたところ2群間で差が見られなかった。しかしながら、非熟達者群は「冒頭しかなかったから続きが読みたい」「まんがは興味がないので読みたくない」などまんがを類型化して考えているのに対して、熟達者群は作品の内容や作風に言及した上で続きが読みたいかどうかを判断していた。つまり、熟達者は冒頭部分を読んだ時点でより正確なテキストベースを作り上げていると考えられる。

(2) 熟達者と非熟達者の間で絵柄の好ましさの程度の判断に差は見られなかったが、前者は印象の記述をより詳しく行った。

(3) 熟達度にかかわらず、絵柄が好ましく感じるかどうかといことがその作品の続きを読みたいと感じるかどうかということに影響を与える

(4) 登場人物についての想像は熟達者の方が詳しくなされる。特に登場人物の外見に注目がなされ、熟達者はこのような情報を有効利用し、状況モデルと相互作用することで自身の想像を補い、生き生きとした登場人物像を作り上げている。

(5) 背景の種類は熟達度に関わりなく区別することができる。また、熟達者は「背景がふさわしいときには浅く、違和感があるときにはその矛盾に気づくだけでなく再解釈して状況モデルを再統合することができる」(p. 55)。一方、非熟達者は違和感があるということに気づくことはできるが、それを新たに状況モデルに反映させて再解釈することはできないようである。

(6) 「非熟達者は熟達者よりも意味解釈度が浅く、背景がメタファーや強調などの役割を持っていると推測することはできても、その役割を十分に発揮させることができない」(p. 55)

以上の結果を総合して、著者は以下のように本論文を締めくくっていました。

「以上より、熟達度はまんがの読解に影響を与え、熟達者はテキストからの情報と関連する領域知識とを活発に相互作用させて冒頭の設定段階で豊かな状況モデルを作ることができることが示された。このとき、熟達者はテキストに含まれる情報をより多くより統合的に取り入れることができるうえ、それに対応して領域知識から多様な情報を補うこともできると思われる。したがって、まんがが絵として視覚的情報を与えることは、想像力の束縛につながるわけではないことが示唆される。特に登場人物像の「外見」で熟達者による差が見られたことにより、熟達者は視覚的に提供されたイメージをうのみにするわけではなく、それらを手がかりにしてより生き生きと自分なりの想像を羽ばたかせていると考えられる。だからこそ熟達者にとってまんがは一層おもしろいものとなるのではないだろうか。」(p. 55)

ひょっとしたら、文学作品の情景描写の解釈も文学読解の熟達度によって違いが見られるかもしれませんね。

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2014年9月19日 (金)

E.Andringa&S.Davis(1994).「Literary Narrative and Mental Representation or How Readers Deal With "A Rose for Emily"」を読む(H.V.Oostendorp&R.A.Zwaan(編),『Naturalistic Text Comprehension』,Ablex)

著者らは、物語構造がどのように読者の心的表象に反映されるのか、両者の関係に関心を持っています。この論文では、William Faulknerによる "A Rose for Emily" に含まれる複雑で多層的な構造がどのように読者の心的表象に反映されるのかを調査しています。文学の経験的研究の枠組みでの研究となります。

Andringa, E., & Davis, S. (1994). Literary narrative and mental representation or how readers deal with "A Rose for Emily". In H. V. Oostendorp & R. A. Zwaan (Eds.), Naturalistic text comprehension (pp. 247-268). Norwood, NJ: Ablex.

概要

著者らはこれまで複雑な文学的物語の理解プロセスについてはほとんど研究がなされていない(大半の研究は人工的な物語文を対象にしていると述べられています)と指摘し、この研究を進めます。Johnson-Lairdのmental modelやvan Dijk & Kintschのsituation modelについて解説がなされていますが、基本的な内容なので、この記事では省略します。著者によると、"A Rose for Emily" には5つの語りの層があり、きわめて複雑な構造をしていますが(この記事では省略しますが、詳しくは本論文p. 257をご参照ください)、読者はこの作品を読む際には "readers will try to smooth out the story's complexity by normalizing its struture" (p. 257, emphasis in original) という予想を立てています。

この調査にはオランダまたはアメリカ出身の22名の学生(高校生から大学1年生まで)が参加しました。作品は区分けしながら提示され、読解中にthink-aloudによってデータが収集されました。また、読解終了直後にretellingをするように調査参加者に指示し、さらにその後でな内容理解や物語の評価に関する質問がなされました。

今回の調査の主な結果は以下のようにまとめられています(p. 266)。

(1) "A tendency to reorder the episodes into a more chronological sequence became clearly visible in the retellings. The chronology, as well as the attempts to create a traditional setting and the tendency to save the story's outcome for the end, provide evidence that a traditional story schema seved as a framework for a basic representation. A setting, a series of events, and an outcome offered a guideline for rearrangement for several - if not all - of the retellings. It reduced the original story's complexity and also provided a basis for a more coherent model of what actually happened."

(2) "The reconstruction of chronology was linked up with causal and motivational connections. Supplying these connections supports the temporal rearrangement and contributes to the story's coherence."

(3) The level of "Emily's story," although it is not directly accessible in the original text, was most salient in the readers' mind.They reduced the levels by focusing upon the string of events related to Emily."

また、追加で以下の点も述べられています。

(4) 学習者は読解方略を選択する際に非常に苦慮しているようであった。たとえ特定の方略を選択したとしても、他にも可能な方略があるということを自覚しているようであった。今回調査で用いた作品を心的表象レベルにおいて直列的で単純なストーリーに変えてしまった者はあまり多くはなかった。

(5) 多くの学習者は、もともとのテクストが備えている複雑な構造と自身の(ある程度単純化した)表象のギャップを感じていた。また、視点の問題を意識した者や、この作品の物語構造はエミリーの人生の複雑性を表彰しているのではないかという考えをもたらした者もみられた。

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2014年9月18日 (木)

W.Labov(1972).『Language in the Inner City: Studies in the Black English Vernacular』(第8章)を読む(「Rules for Ritual Insults」,University of Pennsylvania Press)

社会言語学の名著の一章を読みました。著者は、この章で儀式的罵り合い(sounding)を対象として、土着の言葉を話す黒人は統語的、意味論的、修辞的にきわめて高度な言語スキルを持っていることを示していきます。そして、儀式的罵りに関しては、黒人は白人よりも表現上広いバリエーションを持っていると指摘されています。

Labov, W. (1972). Language in the inner city: Studies in the black English vernacular. Philadelphia, PA: University of Pennsylvania Press.

概要

この章では、以下の事柄が議論されています。

(A) 談話分析という研究方法の説明

(B) Soundingの説明

●談話分析という研究方法の説明

当時はまだこの方法は新しかったため、説明がなされています。話者間のshared knowledgeが重要であるといったことなどが述べられていますが、今日ではほぼ常識的となっていると思われますので、この記事では省略します。また、著者は儀式的罵りをthe ethnography of speaking研究の一環として分析するとのことです。

●Soundingの説明

類似した表現がたくさんあるとのことですが、ここではsoundingという語を用いるとのことです。この記事では省略したいと思います。

なお、soundingは男性によってなされますが(通常は2名によってなされる)、これに興じる男性の年齢が低年齢化しており、青年または青年になる少し前の年齢の話者によって実施されています。また、これに興じる者は、多くの表現を記憶しておかなければならないとのことです。

統語論の観点から見ると、soundingで使用される表現はいくつかの典型的パターンがあるそうです。

(1) Your mother is (like) ~

(2) Your mother got ~

(3) Your mother so ~ she ~

(4) Your mother eat ~

(5) Your mother raised you on ~

(6) I went to your house...

(7) その他の逸話風の形式

(8) 描写(対象を否定的なイメージで語る)

(9) その他の不合理な内容を伝える形式

(10) 洒落や比喩による応答

また、以下のようないくつかの特徴があると指摘されています。

(1) 母親がよく引き合いにだされ、"A mother (grandmother, etc.) may be cited for her age, weight (fat or skinny), uggliness, blackness, smell, the food she eats, the clothes she wears, her poverty, and of course her sexual activity" (p. 322)

(2) "the opponent himself might be included as second most important to his mother, but proverbially sounds are thought of as primarily against relatives" (p. 323)

(3) "The presence of commercial trade names in the sounds is very striking" (p. 323)

(4) "Obscenity does not play as large a part as one would expect" (p. 324)

(5) "most sounds are evaluated overtly and immediately by the audience" (p. 325)

(6) soundの評価(肯定的評価)は、第3者による笑い、反応の音声面("the vowel of each word is quite long, with a high sustained intial pitch, and a slow-falling pitch contour")、soundの最も効果的部分の復唱、に反映される。

(7) soundingにはritual soundingとapplied soundingがある。前者はsounding自体を目的としてなされるsoundingであり、後者は何か他の目的のためになされるsoundingである。なお、ここで説明しているのはritual soundingである。applied soundingについてはこの記事の最後の部分を参照のこと。

(8) すぐれたsounderのsoundは極めて複雑な言語構造をしている

(9) soundは決して否定されない

(10) soundingの表現の根底には、T(B) is so X that P という構造がある

(11) soundingは、個人的侮辱と取られないように、相手の家族に対する知識がなくても明らかに偽と分かるものでなければならない

(12) "If A has sounded on B, B sounds on A by asserting a new proposition P' which includes reference to a target related to A, T(A), and such that it is an AB-event that P' is untrue. P' may be embedded in a sentence as a quantification of a pejorative attribute X' of T(A)" (p. 342)(AB-eventとは、soundを興じている2名のshared knowledgeを指します)

(13) "Excellence in sounding, and the winning of the contest, will depend upon the relation of P' to P" (p. 343)

(14) "A sound opens a field, which is meant to be sustained. A sound is presented with the expectation that another sound will be offered in response, and that this second sound may be built formally upon it. The player who presents an initial sound is thus offering others the opportunity to display their ingenuity at his expense." (pp. 343-344, emphasis in original)

(15) "Besides the initial two players, a third-person role is necessary" (p. 344)

(16) "Any third person can become a player, especially if there is a failure by one of the two players then engaged." (p. 344)

(17) "Considerable symbolic distance is maintained and serves to insulate the event from other kinds of verbal interaction" (p. 344)

(18) "one way tp achieve excellence in sounding is to develop comparisons with a high degree of left-hand embedding which suspends the final proposition. Another is to learn to close-off sequences with short sounds which abruptly change the prevailing form. The third, and perhaps the subtlest method [is] bringing about striking semantic shifts with minimal changes of form: a "minimax" solution." (p. 349)

上記 (9) に関して、個人的な侮辱になれば聞き手は否定を行いますが、soundingであれば相手に他のsoundを返す形になります。逆に考えると、否定された場合、それは相手にとってその発話がsoundと捉えられていないということを意味します。

上記 (10) に関して以下のように説明がなされています。

"T is the target of the sound, X is the attribute of T which is focused on, and P is a proposition that is coupled with the attribute by the quantifier so ... that to express the degree to which T has X. The target T(B) is normally B's mother or other relative. ... The attribute X is drawn from the range of features or topics outlined above: age, weight, clothes, etc. It is limited to a specifically pejorative value: age is specifically old, weight is skinny or fat, clothes is ragged or dirty, appearance is ugly or dirty, sexual behavior is loose or immoral, smell is stink, wealth is poor, food is poor or disgusting. The proposition P may have a wide variety of forms, althought there are lower-level sequencing rules and standards of excellence that govern its form. Thus we have a typical sound, Your mother [T(B)] so old [X], she fart dust [P]." (p. 336, emphasis in original)

ただし、推論で復元可能な範囲で特定の要素が省略されることがあります。また、数は多くはないですが、"I fucked your mother so much that" というパターンのものも見られるとのことです。また、Pの部分が省略されると個人的な侮辱と取られる確率が高くなりますが(上記 (11) 参照)、Xの部分とともに省略される形であれば、soundとして機能するそうです。

上記 (11) に関して、"Generally speaking, extended ritual sounding is an in-group process, and when sounding occurs across group lines, it is often intended to provoke fight" (p. 341) と述べられ、現に深刻な事件も発生しているとのことです。soundが否定されるということは、その発話は一般常識に照らし合わせて必ずしも偽とは言えない内容であるということを示唆します。

上記 (12) に関して以下のように説明がなされています。

"There is an interesting condition here on P' which is that If X' ≠ X, then P' ≠ P. In other words, if A says, Your mother so old she fart dust, B cannot say Your mother so skinny she fart dust, or Your mother so black she fart dust. But if X' = X, then it is possible for P' = P, if the target T is shifted, although this is weakest kind of response." (p. 343, emphasis in original)

なお、著者は上記 (12) をRule 1、(14) をRule 2と呼んでいます。また、Goffmanの研究を参考にして、より抽象的に規則化したのが上記 (14) ~ (17) となります。

最後に、applied soundingについては以下のように説明されていました。

"Members with great verbal "presence of mind" are able to use sounds at critical moments to channel the direction of personal interaction in a direction that favors them. We may call such a use of ritual insults "applied sounding." It will be immediately apparent that applied sounds do not follow the rules set forth for ritual sounding - they are embedded in other rule sequences and other higher level structures of verbal interaction. But rule 1 for interpreting utterances as sounds will apply. Of the four more general properties of the ritual sounding situation ... only the fourth property is preserved - that symbolic distance is obligatory." (p. 350)

著者は、状況を脱個人化するなどして衝突を避けるようなapplied soundingの具体例を示していました。

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2014年9月17日 (水)

K.Koževniková(1972).「The Language of Literature and Foreign Language Teaching」を読む(V.Fried(編),『The Prague School of Linguistics and Language Teaching』,Oxford University Press)

プラーグ学派の理論の言語教育への応用について議論している書籍の一章です。確かに言語の機能面を重視した論文ではあるのですが、プラーグ学派の考え自体はそれほど色濃く反映されていたとは思えませんでした。しかし、文学作品は日常言語と似ているという点から文学教材の利用を主張するという議論に対して、その問題点を鋭く突いており、一読の価値は大いにある論文です。なお、著者はこの論文で “how to create by the whole conception of foreign language teaching conditions under which the learner can actively master the basic functional forms of the language, so that in higher stages of his study he may be able to distinguish the basic aesthetic qualities of literary texts and thus enrich his knowledge of the cultural values created therein by the foreign language environment” (p. 196) について議論するとしています。このように、著者は文学教材の使用を、より広く文体の学習という問題の一形態と考えています。

Koževniková, K. (1972). The language of literature and foreign language teaching. In V. Fried (Ed.), The Prague School of Linguistics and language teaching (pp. 196-210). London: Oxford University Press.

概要

この論文では以下の事柄が述べられていました。

A プラーグ学派の詩的言語観

B 一般的な文学教材の扱われ方

C 一般的な文学教材の扱われ方1について

D 一般的な文学教材の扱われ方2について

E 一般的な文学教材の扱われ方3について

F この論文の結論

●プラーグ学派の詩的言語観
著者は、ムカルジョフスキーの研究をレビューしています(基本的な内容であったので、この記事では省略します)。そして、プラーグ学派の詩的言語の研究には以下のような問題点があったと述べています。

“in its original conception the Prague School overrated the task of the aesthetic function in artistic expression, or rather it did not show due appreciation of the communicative function of every artistic expression. This conception may also be criticized for regarding the foregrounding and particularizing acts of speech as the dominant, ever present trait of artistic creation which is thus restricted to only certain types of literary works.” (p. 198)

しかしながら、プラーグ学派の最近の研究は上記のような限界点を乗り越えていると指摘されています。

“Contemporary Czechoslovak scholars developing further the tradition of the Prague School refer to the aesthetic communicative function of the artistic style and do not denote as its main trait a certain act of speech itself but rather a potential internal stylistic variability which is realized in different works by its more or less profound foregrounding relationship to the devices of language.” (p. 198, emphasis in original)

●一般的な文学教材の扱われ方

著者はオーディオリンガル・メソッドを念頭に置きながら、以下のように述べます。

“If we first turn to the traditional method of teaching, we can see that the problem of artistic style was not being solved as an integral part of mastering various functional forms of language but that artistic style was treated mostly as a question of including artistic texts in the teaching process and of exploiting them.” (p. 199)

そして、文学教材は以下の3つの形で用いられてきたと指摘します(p.199, emphasis in original)。

“1. First of all as substitute models of colloquial expression which the pupil is to master actively here we are faced with dialogues in fiction and drama.
2. As representatives of models cultivated expression which the pupil is encouraged to imitate and as language material on the basis of which various linguistic phenomena are acquired.
3. As initial texts for translation, as a rule into the mother tongue.”

なお、著者は上記1は誤りであり、3は推奨できないとしています。また、唯一2については、教材選択や学習者のレディネスなどの問題はあるものの、適切な利用の仕方と考えています。

●一般的な文学教材の扱われ方1について
上記 (1) の主張に関して、作品の会話部分は一般に最も日常会話と似ていて、かつ前景化の度合いが低く、結果として教育に向いていると考えられがちであるが、“an artistic dialogue is always stylized whatever outward features of naturalness it might have and that this kind of stylization is extremely unsuitable for the aims of language teaching.” (p. 199) と指摘しています。そして、日常会話とは以下のような談話上の違いがあると指摘しています。

“a literary dialogue does not spring up spontaneously but is created by only one speaker (author) in a complex formulating process; the reception of individual replications in the dialogue is thus only seeming, in fact they are all directed at the reader (spectator, listener) to whom they always communicate partial elements of the authors’ artistic message.” (pp. 199-200)

この結果として文学作品内の会話には言語レベルに次のような特徴が現われるとされます。

(1) “The content of the replications in a dialogue always includes only what the author thinks suitable for a seemingly objective illustration: elements which are important from the viewpoint of the development of the plot, the characteristics of the atmosphere, the psychology of the dramatis personae and their general characteristics; they are, however, also elements which the author considers important from a compositional and sometimes even purely stylistic point of view. Therefore artificial replications originated in this way are usually much more definite and compact in content and therefore also more refined in syntax and lexis and more explicit in expression than the replications in natural dialogues. In their construction, they thus approach written utterance.” (p. 200, emphasis in original)

(2) “Since direct utterances of the character nearly always reveal their personal characteristics or that of the atmosphere and should moreover enthral the reader and attract his interest, the replications in artistic dialogues are usually characterized by an increased concentration of style, i.e. an increased density of stylistically marked devices and of all other means which are striking in some way or other and go beyond the average level; they are emotionally not very engaged utterances especially in their expressiveness.” (p. 200, emphasis in original)

(3) This feature of artistic dialogue strikes one especially in works whose intention is to demonstrate the way of speaking in a certain social environment. Here the hypertrophic occurrence of stylistically marked devices usually by far outdoes the reality. The impression of ‘real life’, ‘usual and ordinary manner’ and ‘naturalness’, which are the epithets usually employed in literary reviews, is aroused because the reader (recipient) primarily responds to the language and thought of the character and confuses extreme, only potentially possible features of some current spoken utterances with average features.” (pp. 200-201)

以上の結果から、オーディオリンガル・メソッドを用いた外国語教育においては、伝統的な文学教材の扱われ方1は誤りであると述べています。著者は、以下のように議論をまとめています。

“The internal structural similarity to a written utterance on the one hand and the high concentration of stylistically marked means on the other hand are thus in contradiction to the ideal of a modern teaching dialogue.” (p. 201)

また、オーディオリンガル・メソッドでは、“the point is not to master highly expressive means and an extensive ‘thematic’ lexis but rather to mechanize some habits in a certain simplified form of a spoken dialogue with ‘mediocre expression’” (p. 201) という目的がありますが、いわゆる「並」の表現は文学作品の中で分散されてしまっているし(含まれていない場合もある)、それらの表現が状況とどのように関わるのかも曖昧であるため、文学作品の会話部分をこの目的で用いることには大きな問題があると著者は指摘しています。そして、以上の議論から、伝統的な文学教材の扱われ方1に関して、以下の結論を導きます。

“Thus we arrive at the conclusion that as long as we want to work with a text in some form or other when practicing an independent spoken utterance in dialogue form, it is only proper to replace artistic dialogues by artificial ones, which should, however, be constructed in such a way as to have the greatest possible teaching effect in all respects. That means that such texts will represent for the learner some kinds of general models that are independent of the individual and unique situational coherence and simultaneously possess such a degree of artificial concretization that creates an impression of immediacy and relative naturalness that is attractive in content and provides at the same time methodological possibilities of becoming a starting point for various forms of audio-oral practice.” (pp. 201-202, emphasis in original)

●一般的な文学教材の扱われ方2について
著者は、語りの手順を例として引き合いに出しながら、美的でかつ外国語学習者でも理解可能なものをもった文学作品はほとんどないと指摘します。そして、“Those texts and works will therefore prove more suitable for the purposes of language teaching which do not appeal in too tricky a manner to the language awareness of the recipient; and, especially in the initial phase of mastering a language, it would be only proper to include artificial ‘artistic’ texts employing basic linguistic devices already mastered and using artistic procedures based on matter-of-fact object associations rather than on those of expression (e.g. simple comparison, metaphors rather than quibbles).” (p. 203) と述べています。

さらに、もし「一般的な文学教材の扱われ方2」を推進するのであれば、“we must first of all guide him to establish for himself as soon as possible a solid basis for evaluating at least the ordinary situational and contextual linguistic devices” (p. 204, emphasis in original) が必要となります。著者はこのような評価の基盤を作り上げるためには以下のような指導法が必要と考えています。

(1) 特定の文法構造を学習する際、その構造と典型的に共起する意味内容を込めて学習させる。もし、多様な内容と共起する文法構造であれば、特定の内容に偏らないように注意しながらその構造を学習させる。
(2) 文体的に類似した英文を集中的に与えるようにし(同時間に同じ文法構造を用いた文体的に異なる英文を与えないようにし)、表現の仕方は状況に依存するということを理解させる
(3) オーディオリンガル・メソッドでは文体意識を養うのは困難である。文体意識を養成するには、特定のモデルに基づいて空所を補充させるようなエクササイズの方が有益である。

また、作品全体を理解して初めて理解できるような用例や文体上うまくバランスの取れていない用例は外国語教育には向いていないとも指摘していました。さらに、目標言語項目が前景化の一部として使用されているような英文も、その文法項目が普通でない使われ方をしているため、外国語学習には向いていないと指摘されています。

実際に本物の文学作品を使用した高度な外国語学習に移行していく段階においては、以下の指導を推奨しています。

(1) “first, exercises should be aimed at mastering those phenomena necessary for the comprehension of the artistic impression of the text.” (p. 208)

(2) Before reading the text the learner should be taught some common lexical units and their collocations” (p. 208)

●一般的な文学教材の扱われ方3について
著者はこの方法は推奨していません。同じような文体になるように2言語間で翻訳をすることは極めて高度である上に、むしろ翻訳をするよりも既存の優れた翻訳を分析する方が有益であると考えています。また、どうしても翻訳をさせたいのであれば、プラーグ学派の翻訳理論(著者はこの理論を極めて優れたものと考えています)を参考にすることを勧めています。その翻訳理論は以下のように説明されていました。

“Contrary to other schools which deal either with the linguistic problems of translation or, with the problems of scientific literary interpretation, this theory of translation endeavours to embrace synthetically all three basic relationships between the original and the translation: (a) the relationship between the language of the original and that of the translation, (b) the relationship between form and content in the original (evaluating the aesthetic function of the foreign form) as well as in the translation (looking for equivalent forms in the mother tongue), and (c) the relationship between the resultant values of the original and the translation.” (p. 209)

●この論文の結論
著者は以下のような結論を示しています。

“Modern conceptions of the teaching of foreign languages stress as their aim the active ability of performing correct spoken dialogue utterances exploiting the mediocre spoken stylistic level, as well as the ability of performing independent written monologue utterances in a cultivated stylistically higher form corresponding to a more difficult content. This aim presupposes a certain ‘receptive preparedness’ especially in the ability to understand more difficult spoken as well as written utterances and determine correctly their basic stylistic levels. As a type of cultivated expression, the literary expression cannot therefore escape the teacher’s attention, especially since by practicing it broader cultural teaching aims are achieved. However, for the very reason that we are only concerned with one type of cultivated expression which has its specific feature (the duality of its aim – communication as well as aesthetic effect), the place of the artistic expression in the teaching process is rather complex.” (pp. 209-210)

“A literary text belongs thus above all to that phase of the teaching process where a more refined expression is the object of the learner’s practice. However, the variability of artistic style stipulates the criteria of the selection of literary works as well as of single texts in a rather complicated way: the main point is that the representative selections of artistic expression should lead the learners to an awareness of a certain medial position of artistic expression and its average level, in the good sense of the word, of aesthetic impression. To create this awareness is not, however, possible unless the learner has established and fixed for himself certain basic comparative stylistic criteria on the basis of other components and phases of language learning. Thus we arrive at the conclusion that the relationship between modern teaching method and the artistic style is part of a much broader problem, how to make the basic stylistic characteristics of the single devices of expression an integral component in their acquisition and how to help the learner master the main functional styles of the foreign language concretely.” (p. 210)

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2014年9月12日 (金)

S.N.ブイコフスキー(1947).『唯物論言語学:ソヴェート言語学』を読む(高木弘(編訳),象徴社)

ヤフェティード言語学の概説書になります。ヤフェティード言語学者によって執筆されているので、西欧の言語学に対してはかなり批判的な態度が取られています。もともとは1936年に出版される予定だったそうですが、第二次世界大戦の影響で10年ほど出版が遅れてしまったとのことです。

ブイコフスキー,SN.(1947).『唯物論言語学:ソヴェート言語学』(高木弘(編訳)).象徴社.

なお、本書は、編者による論考、ヤフェティード言語学の論文の翻訳(3つの論文が収められています)、ヤフェティード言語学の文献表、から構成されています。本書の著者となっているブイコフスキーは、翻訳された論文のうちの1つを執筆した研究者です。他の2つの文献はアバエフという別の学者によって執筆された論文の翻訳となります。

この文献はかなり古いので、現代仮名遣いに適宜直して引用を行っています。より正確な文言が必要な場合は、本書を直接ご参照ください。

概要

<第1章:高木弘「言語学の現状とソヴェート言語学」>

高木弘(1947).「言語学の現状とソヴェート言語学」.In SN.ブイコフスキー『唯物論言語学:ソヴェート言語学』(高木弘(編訳),pp. 3-15).象徴社.

 著者はこれまでの西ヨーロッパの言語研究は、言語の社会的側面を充分に考慮に入れた理論を作り上げることができていないと批判しています。例えば、19世紀の言語学は自然主義的アプローチが取られており、社会的な側面の検討が入る余地はほとんどありませんでした。20世紀になってからは哲学的研究と実証的研究が言語の社会的側面を問題にした研究を行いましたが(この点では前進と言えますが)、言語を個人から切り離しており、現実の社会の対立的発展ないしは言語の階級的社会性を充分に把握することができていないと批判しています。

著者は、マールは言語学における唯物論的方法(ここでの「唯物論」とは、もちろんマルクス主義的な意味合いです)を確立することでこのような問題を解決したとして高く評価しています。マールはコーカサス地方の言語研究からスタートし、弁証法的唯物論の方法によって彼独自のヤフェティード言語学の体系を整えるに至りました(つまり、特殊的古代言語研究から徐々に一般言語理論へと発展していくことになりました)。マールの理論に関して、著者は以下の点を高く評価しています。

(1) 言語の上部構造的性質を確認し、言語の歴史を物質文化の歴史と関連させて理解したこと

(2) 古代言語の研究から、言語の起源と発展について唯物論的な解釈を行ったこと

(3) 比較言語学の言語発展研究を批判し、言語は分化していくのではなく、収束していくものであることを明らかにしたこと

著者はもう1人スピリドヴィチの研究についても高く評価しています。ザメンホフが国際補助語(これは、民族語の自由な発展を前提として歴史的に発生した言語と理解されています)について研究をしていたのですが、ヤフェティード言語学を真に発展させ、国際語としてもより適切な研究を行ったのはスピリドヴィチであると述べられています。スピリドヴィチの研究の特徴としては以下の点が指摘されています。

(1) 世界語の建設を目指すことが言語学の任務であると考えていること

(2) 原始共産時代、階級時代、過渡時代、集団主義時代という社会発展状況に応じて、言語は段階を踏んで発展すると考えていること

(3) 上記の (2) の枠組みの中で国際補助語と民族語の地位を明らかにしたこと

著者は、マールは言語の過去の研究、スピリドヴィチは言語の将来の研究を行い、両者が結び合わさったことによってソビエトに新しい言語学が確立したと考えています。マールらによって総合的な言語科学が生み出されることを著者は期待しています。

 

<第2章:ブイコフスキー「ヤフェティード言語学」>

ブイコフスキー,SN.(1947).「ヤフェティード言語学」(高木弘(訳)).In SN.ブイコフスキー『唯物論言語学:ソヴェート言語学』(高木弘(編訳),pp. 16-180).象徴社.(原著は1933年出版)

この章はマールの研究活動45周年(1933年)を祝って出版されたヤフェティード理論の解説書(『マールとその理論』)の全訳となります。以下の事柄が議論されています。

A)マールとブルジョワ言語学

B)言語の起源・発展とマルクス・レーニン主義の著作の関係

C)マールの学説の出発点について

D)言語の起源と発展についてのマールの説

E)民族語の形成についてのマールの説

F)音声言語の諸カテゴリーについてのマールの説

G)言語の意義的側面についてのマールの説

H)マールの学説の実践的意義

I)言語学部門の隣接諸科学にとってのマールの理論の意義

J)マールの経歴

なお、著者はマールの評価を以下のように総括しています。

「マールの理論的統合と結論とは、言語学の種々の分野においてマールが研究した広い具体的な言語学的材料に依っている。すでに解決されたと思われる同じ問題に一度ならず繰りかえし繰りかえし綿密に、しつこく、立ち戻ってき、引き出した結論を何度も何度も見直しながら、マールは言語学のすべての部門に触れ、問題解決の新しい道に忍びこみ、言語学の各部門を根本的に立て直し、それとともにブルジョワ言語学者にとっては容認しがたい、科学としての言語学の統一を主張した。」(p. 81

●マールとブルジョワ言語学
著者は、まず西欧の言語学(ブルジョワ言語学)の問題点として以下の点を指摘します。

(1) ことさらに音声学に支配的な位置を与えていること

(2) 言語を社会から切り離し、もっぱら心理的生理的現象として捉えていること

(3) 言語の変化を社会的発展の結果としてではなく、(~語族という分類に基づいた上で)ある民族の別の民族への影響の結果(借用など)と考えていること(しかも、現在の文化的関係でより力が強く発展していると考えられている民族が借用または影響の手本及び根源と見なされている)

(4) 現在の文化的関係に基づいて人為的に古代の原初言語、原初民族が再構成されており、しかもこれらは現在の言語や民族よりも音韻的及び形態的に発展したものと考えられていること(しかも、原初民族については、パン・フィン主義、パン・トルコ主義、パン・スラヴ主義など実際に存在したことのない巨大な民族が考案され、さらに民族同士の対立をことさらに強調していること)

(5) 言語の起源という問題について全く語っていないこと

(6) 言語の歴史について語る際、書かれた文章にのみ基づいて人為的に言語を再構成していること

(7) 現在の言語は再構成された言語の分岐によって生じたという前提に立っているが、この前提自体が科学的に基礎付けられていないこと

(8) 単語の形態と文の形態の変化について語る際、古い形態の消滅は習慣的な連想の崩壊だとみなされるが、何によって連想の崩壊が引き起こされるのかということを明らかにしていないこと

(9) 言語の変化は認めているが、発展を認めていないこと

(10) 言語の構造上の相違、文法構造での相違は(歴史的発展の産物ではなく)民族グループの性質であると考えられていること

(11) 言語の発展と社会の発展とのつながりを無視し、もっぱら形式的に言語を研究することによって、言語を超階級的なカテゴリーに押し込めていること(言語に対する彼らのこの態度の中に、ブルジョワ社会のカテゴリーの永久化へのブルジョワ的傾向が示されている)

●言語の起源・発展とマルクス・レーニン主義の著作の関係
次に、ヤフェティード言語学の基礎となるマルクス・レーニン主義で言語がどのように考えられているかが整理されています。著者は、その特徴として以下の点を挙げています。ただし、(3) に関してはエンゲルスの研究に基づいています。

(1) 言語は人種カテゴリーとしてではなく、社会の発展によってその発展を条件づけられる上部構造的イデオロギー的現象として捉えられており、言語の社会的意義との関連、言語と社会的意識との弁証法的相互作用が設定されている

(2) 言語は人間の間の交通の手段であり、物質的生産の発展と密接に結び付いた特殊的社会的現象である

(3) 生産的労働は人間を統一し、社会を創造した。生産的労働の発展の過程の中で人間言語が発生した。

(4) 文法的構造における相違は人種的環境の表示物ではなく、言語の発展における種々な歴史的段階を表示する

(5) 新しい観念が言語内に含まれる時、一定の規則で変化が起こると考えている。具体的には古い用語が新しい現象を指す形に変化していく。

●マールの学説の出発点について
また、マールの研究の軌跡についてもまとめられています。彼は最初はマルクス・レーニン主義のことを知らず、その考えを知ったのは随分後だそうです。当初は、グルジア語とセミード語の親縁性の研究(ブルジョワ言語学では全く考えられていなかった事柄だそうです)をブルジョワ言語学の方法に基づいて研究していたそうです。彼自身、自分の研究はインド=ヨーロッパ的ブルジョワ言語学の独自的な変種と考えていたそうです。しかし、パミール山地での新言語の発見や文字のない言語の研究をする中で新学説(ヤフェティード理論)をまとめあげました。著者は、弁証法的唯物論を知っていたらもっと容易に新学説に至ることができただろうと述べています。ブルジョワ言語学の考え(原初言語からの分岐によって言語変化が進んできたという考え)に対し、マールは言語は交配を通して成長し、共通的単一的言語の創造へと向かっているという説を述べました。そして、言語発展の基礎的条件に社会の発展、物質的生産の発展があるということを主張しました。具体的には、生活水準の圧迫と上部構造世界の蓄積によって語彙における意義の増加と正確化が必要となり、意義と単語形成の技術が変化すると考えられたそうです。

●言語の起源と発展についてのマールの説
マールはマルクス・レーニン主義について知らない状態で言語を、生産と生産関係に基づいた上部構造的社会的価値とみなすにいたりました。マールは言語は歴史的社会の道具であるだけでなく、歴史以前的・歴史的・社会の創造物であるとも考えており、文法カテゴリーの形式の中に遠い言語創造時代の社会の層を反映していると考えました。そして、音声言語は物質的生産の発展と関連し、社会的構造の変化と関連して、原始人類の原始的共産的生産に基づいて発生したと考えました。しかし、マルクス・レーニン主義を知らなかったために、マールは2つ過ち(マールの発見に比べれば些細な誤りだと著者は考えています)を犯しているとも述べます。それらは、原始的呪術の役割の過度の評価(これらが原始の音声言語に重要な役割を果たしているとマールは考えていました)と音声言語を階級的なものとみなしたこと(社会における階級的分化の芽生えと共に音声言語が登場したとマールは考えていました)です。さて、マールは音声言語以前に動的言語(手の言語)が存在したと考えています。事実、原始人間における手の役割の跡は言語の中に反映されました。マールによれば、かつては生産または戦闘の手段として用いられるものはすべて「手」と呼ばれていたと述べています。また、現在でも手の言語は様々な地域で用いられています。さらに、現在のヨーロッパ人が用いる身振りや手真似は過去の動的言語の遺物であるとマールは考えています。しかし、物質的生産のある一定段階に達すると、動的言語は支障をきたすようになります。それは暗闇では使えないということです。そこで、暗闇はもちろんより大きな隔たりでも使えるような言語が必要となり、音声言語が生まれたとマールは考えました。しかし、原初の音声言語は内容的にも形式的にも非常に貧弱なものであったと推定されています。単語は非常に簡単で短いものであり、品詞語尾変化や数の概念はなく、品詞の区別もされていなかったと考えられています。さらに、発音も曖昧であり、前後を子音にはさまれて中心に母音を持つという音複合(もちろん、発音が不安定であったが故に、子音が欠落する場合もあったと推定されています)によって発音されていたと考えられています。マールは当時4つの音複合があったと考えています(この記事では省略しますが、詳しくは本書pp. 66-67をご参照ください)。ただし、著者によるとなぜ音複合の数が4つなのかということについてマールは十分に説明することができなかったそうです。マールはヤフェティード諸種族の種族名(これら4つの音複合がヤフェティード諸種族の種族名を表す可能性をさぐったそうです)、労働過程や呪術行為の中にその数の理由(なぜ4つなのか)を見出そうとしたそうですが、うまくいかなかったそうです。このように課題は残ったものの、マールは全体としては物質的生産の発展が条件となって音声言語が発生したという考えを作り上げるにいたりました。

 

●民族語の形成についてのマールの説

マールは言語が構造的に差異をなすのは種族が違うからではなく、それらが言語の歴史的発展における異なる段階に位置しているからであると考えました。マールの主な主張は以下の通りです。

(1) ヤフェティード諸語は言語の発展における古い段階の一つの具体的な種類をなす体系(種族語)であり、インドヨーロッパなどの民族語(語族)は言語発展の中で生まれたより新しい言語体系である

(2) 種々異なった民族語は言語の発展における種々な歴史的段階の異なった変形を表す

(3) 民族語は初めからあったのではなく、社会発展の一定段階に生じた

(4) 民族語はそれ以前に歴史的に先行していた多くの種族的言語が複数交配して出来上がった

(5) かつては民族または民族語なるものが存在しない時代が存在した(マールの考えでは社会の形成と言語の形成が表裏一体であることに注意)

(6) 古代に遡れば遡るほど言語の細分性は大きくなるが、個々の言語の相違は鈍くなる(言語の相違は歴史的発展に対応していると考えられていることに注意)

(7) 古代には小さな生産集団体の言語が多く存在していたが(ただし、言語間の違いは現在の言語間よりも小さい)、血統的階級的社会ができるなかで種族語が形成され、さらに歴史的発展をする中で民族語が形成された(なお、「民族」とは人種的でも種族的でもなく、「生産的活動をする中で異なる人種が混じり合った強固に形成された人間社会」を指しています)

(8) 人類は共通的言語、単一共通世界語の方向へ進みつつある。それはいずれ世界において社会主義が勝利する単一的国際文化が形成されることと軌を一にしている。なお、このような共通的言語は、将来の無階級的社会と将来の無階級的文化のように、これまでに存在したことがない全く新しい体系の言語となるであろう。

(9) 言語は個々の階級に分化しており、また思考も異なっている。例えば、文語は支配階級の固定化された言語であり、それは支配階級の固定化された思考と結びついている。このような文語は大衆が用いる語と差異を形成している。

●音声言語の諸カテゴリーについてのマールの説
具体的には以下の事柄が述べられていました。

(1) 言語にはスー音、シュー音、喉音が支配的なものがあり、それぞれの言語にo音化、a音化、e音化といった母音化がそれぞれ優勢的に見られる(ただし、あくまでも優勢的なのであって、o音化は他のタイプの音声言語にも見られるし、逆にスー音言語にもo音化やa音化が見られる。)。また、子音には弱子音から強子音への変化及びその逆の変化(それぞれ上昇と下降と呼ばれる)が見られる。

(2) 音韻複合の形式的方面の変化は意義の複合と関連している。また、音韻の変化は社会的発展と関連した歴史的性質を持っており、ブルジョワ言語学が言うような純粋に生理学的な現象ではない(ただし、著者はマールはこのことを十分に説明し尽くすことはできなかったということを認めています)。

(3) 音韻の変化はすでに (2) で述べられたように、意義の変化と密接に関連して生じた。しかし、そののちに音韻は意義とは別の上部構造へ特殊化したようになり、特定の音が意義とは独立して独自に消失、弱化、変化するようになった。

(4) ある言語とある言語が交配する時、特定の意義を表す語が各言語からそれぞれ投入される。そして、それら2つの語が次第に交配されて1つの語となる。したがって、交配は新しい形態の形成の根源である。

(5) 古い時代の言語には品詞変化も人称も、文法構成もなかった。

(6) 形態的変化は統辞の発展と関連して平行的に行われた。これらの発展は社会そのものの発展によって条件づけられていた。

(7) かつては文全体の意味は文の中の単語の配列で規定されていた。しかし、徐々に社会的発展の中で単語から文法的な接辞が形成され、これらによって文の意味が規定される形に変化してきた。

(8) 接尾辞(p. 90)、前置詞・後置詞・副詞(pp. 90-91)、数(p. 91)、人称(pp. 91-92)、文法的性(pp. 92-94)、生格・対象格(pp. 94-96)、比較(pp. 96-98)、数詞(pp. 98-99)、動詞・形容詞・代名詞をはじめとした品詞(pp. 99-101)、態など文法的構造(pp. 101-102)(かつては生産自身または神が常に動作主と考えられていたとされています)は、それぞれ社会的発展と呼応する形で徐々に発展してきた(この記事では省略しますが、各項目がどのように発展してきたかということに関するマールの見解はかなり詳しく紹介されています。詳しくは本書の該当ページをご参照ください。)

(9) どの体系の言語も純粋な形で自分の体系の諸特質を表しているのではない。現代の言語には先行段階構造の残存をとどめると同時に、将来の新しい体系の芽生えも含んでいる。ただし、ブルジョワ言語学は過去の残存と未来の芽生えを共に例外と見なして真っ向から取り上げることをしなかった。言語の基本的特質、とくにその文法構造は、社会の発展と関連しており、それら自身、社会構造の変化に条件づけられている言語の発展における一定の段階を示している。

●言語の意義的側面についてのマールの説
以下の点が述べられていました。

(1) 原初単語は現代のわれわれの目から見れば非常に多義的であった「狩猟の対象」「生産の対象」というように経済的機能によって(われわれ現代人の目から見れば)様々なものが統一されていた。

(2) 生産そのものが分化することで単語により正確な意義が求められるようになり、最初にシンプルな単語の中に気づかれない間に正確な意義が形成された。このような正確な意義は身振りと手まねの動的言語がその助けとなった。これらは多くの意義の中から必要な物を規定する手助けをし、音声言語の訂正を補助した。また文における単語の配列なども音声言語の正確化を助けた。そして、しばらくして、社会の分化に応じて、以前の単語の中から、単語の意義分化に役立つ新しい音声複合が形成された。

(3) 意義がこのように変化する中で、一部の音複合は接辞等に変化し、抽象的な意義を得るに至った。

(4) 社会や経済の発展とともに古い用語が新しい対象に使用されるようになり、意義的系列が形成されることになった。

(5) 当初対立的であった概念が同一単語によって現わされるような弁証法的性質が意義面には散見される。

(6) 社会の分化によって、1つの単語の意義の中に対立的な意義が形成されることがある。ひとたびこのようなことが起きると、それらはしばらく同一単語の中で共に保存され、その内別々の語へと分化する。

(7) また、過去の残存物または痕跡として、1つの単語の中に技術的にわずかに相違する対立が保存されていたり、1つの単語が近い言語間でお互いに少し違う意味で使用されている場合なども語の分化を促した

(8) 社会的発展をすると同時に単語内の特定の意義の内容も変化した。人はこのような変化を意識しないまま、古い単語を新しい質的に全く異なった現象を指すために用いた。

(9) 民族名もたまたま過去と現在で名称が同じであったとしても、その指す内容は異なっていると考えるべきである。

(10) ヤフェティード語には、交配しない単語が最も多く、その単語の形成にはABCDの基本的4言語要素(前述した4つの音複合のことです)のうちの1つの変形が用いられている。

(11) 単語が交配するとき、その各部分要素及びその単語全体に共通した意義が含まれることになる。

(12) 音声言語と思考とは、上部構造的カテゴリーとして、その発展において社会内部のあらゆる変化を反映している。したがって、言語を通して最古代の世界観や思考を明らかにすることができる。同時に、後の社会の特質も発見することができる。

(13) 音声言語の最近の単語創造の具体的特質についてはマールは詳しく議論していない。また、屈折的言語の時期における単語創造は接尾辞と屈折によって発生したとマールは考えているが、この過程の詳しい具体的な法則性は明らかにされていない。

●マールの学説の実践的意義
著者はマールの研究は、ソヴィエトの言語政策、技術用語の整理、教育に役立っているとされます。言語政策における意義については以下のように述べられています。

(1) 言語は思考と不可分に結びついており「階級闘争のかけがえのない道具である」(p. 123

(2) 「将来の統一への言語の発展のことをば全く忘れずに、民族的建設の分野、自国語での教育の民族的地方への導入、民族的文語の導入などの分野、におけるソヴェート権力の政策に自分の側から基礎を与えた」(p. 125

(3) 「人間言語の発生と発展の見通しの現存する一般文化的関心を明かにしつつこの理論は、古い文字、新しい文字、あるいは文字の無いのには関係なく、現代文化に完全な程度でまたは最も力弱く、加わってるかどうかにはかまわず、同じように各民族の言語の特質を示すことに関心を持ち、支配的言語、支配民族、とくに支配階級、の言語、思考とは異なった独自の言語的思考を持っている少数民族後進民族の民族的自覚の強化および、科学をも口をつぶっているこれらの民族的に外国的な民族、のなかから、新しい言語理論、いわゆるやフェティード理論の積極的共働者を引きよせること、にとくに関心を持った。」(p. 125

(4) 「将来の単一的言語の思想を宣誓しながら、その前提が、社会主義建設の条件のもとにおける、民族語をもふくめた民族的文化の完全な開花、形式は民族的で内容は社会主義的な文化の完全な開花であることを理解していた」(pp. 125-126

一方、ブルジョワ言語学は大国家的排外主義とそれに不可分と結びつく閉鎖的な民族主義をもたらすものであると強く批判しています。

また、技術用語の整理と教育に関しては、お互いが分かりやすい語を使用する必要性を強く主張していたそうです。

●言語学部門の隣接諸科学にとってのマールの理論の意義

マールの学説は歴史学、考古学、民族学、人類学の分野にも多大な貢献をしたそうです(ただ、マールは言語を社会や歴史との関係で研究することを強調していましたし、言語自体を歴史的資料と見なしていましたので、このことは必然と言えます。また、現にマールは考古学者として発掘も行っているそうです。)。これらの学問領域ではブルジョワ的考え(つまり人種的考え)が蔓延しており、ブルジョワ的帝国主義国家が自身の覇権を伸ばすための口実作りに大いに利用されていたそうです。マールは事物の外形ではなく、それらに示されている歴史的発展段階の標識を比較検討することで研究をすることを強調しました。また、人種ではなく、原始共産制を古代に据えて事物を眺めることの重要性も強調したと述べられていました。

●マールの経歴
マールの生い立ちからその当時の現在に至るまでの経歴が、ヤフェティード理論の確立と関連付けながら説明されてあいます。著者はマールをべた褒めしています(人間性、学者としての態度、両方)。なお、著者はやはりマールがマルクス・レーニン主義を知っていたらもっと楽に理論を作り上げることができただろうということを繰り返しています。しかし、マールが偉かったのは、マルクス・レーニン主義を知ったあとに、自身がそれまでに築き上げてきたヤフェティード理論とヤフェティード学的方法をそれに照らし合わせて検討し直したことだと述べられています。

この章ではマールの経歴がかなり詳しく書かれていますが、私は特に次の2点に興味を持ちました。まず1点目は、歴史学者や文献学者としてはかなり早くから認められていたそうですが、言語学者としてはなかなか認められなかったという点です。もう1点は、マールの理論が有名になった後、ヤフェティード言語学へのブルジョワ言語学の最後のあがきとして(あくまでも本書では「最後のあがき」とされていますが、客観的に見てこのことが正しいのかどうかは私には分かりません)、ベテランの研究者が若い学者(つまり彼らの生徒)を「言語戦線」として送り出し、対決させたという話です。

この章の記述がどれほど正しいかということは私には判断できませんが、仮に正しい記述だとすれば、私が思っていたよりもマールはかなり苦労しており、そして言語学者として非常に孤独であった(なかなか自分の理論が認められず、しかも自分の理論を精錬していく中で、かつての指導学生が次々と自分の理論から離れていくのをマールは目にしたそうです)のだという印象を持ちました。

 

<第3章:アバエフ「イデオロギーと技術としての言語」>

アバエフ,VI.(1947).「イデオロギーと技術としての言語」(高木弘(訳)).In SN.ブイコフスキー『唯物論言語学:ソヴェート言語学』(高木弘(編訳),pp. 181-223).象徴社.(原著は1934年出版)

この章(原著は1931年出版)では以下の事柄が議論されていました。

A 意義がイデオロギーになるとき

B 技術化の不断の過程

C 技術化の過程がもたらす2つの法則:社会化の法則と継承の法則

D 言語発展の要因としての技術化

E 『インドヨーロッパ学』の欠陥

F 言語発展の平和な速度が革命的な速度に交代するとき

G 将来の言語

●意義がイデオロギーになるとき
著者は、ヤフェティード言語学の特徴として、その研究が意義論に傾いている点が挙げられることが多いとしながらも、それは正しくないと述べます。そうではなく、むしろ、意義に関する以下の2つの考えがその特徴であると述べます。

(1) 「意義論」という概念自身は、言語創造の無限に遠い諸時代を考察する研究によって変化した

(2) この方向に沿って作りあげられている新しい意義研究は全言語理論の土台石となりつつある

著者は、厳密に考えると以下の2つの意義論が存在すると考えます。

(1) 技術的意義論(孤立した技術的な意義の研究):特定の語によって何が表現されているかということに関する研究

(2) イデオロギー的意義論(意義の起源と相互関係の研究):特定の語によって、いかにして、いかなる方法である意義が表現されているかということに関する研究(例えば、オセット語のwäzdanという語は、「高い身分の人」と「丁寧な」という2つの意義を持っており、後者の意義が指す特性は前者の意義が指す人々の特質であるとする一定のイデオロギーが表象されていることが見て取れる)

著者は意義論を更に説明します。具体的には以下の点が指摘されていました。

(1) 意義変化は、知覚された対象が集団によって意識化され、それが言語化されることによって生じる

(2) 知覚というレベルでは客観的に同じように見なされるものであったとしても、それが集団の意識の中に入ると区別されたり、または反対に知覚のレベルでは全く異なる現象が意識のレベルで同一視されたりすることが生じる

(3) その際、古い言語材料が一定の方法で組み合わされ、変化され、応用されて用いられることになる

(4) どのような方法が取られるかは、一定の物質的土台の上に生長した世界観、その環境のイデオロギーに依存する

(5) 意識化と言語化の過程のうちに、ある対象は、われわれによって作り上げられた意義的複合の中に入れられ、われわれのすべての意識化されイデオロギー化された実践の体系のうちに自身の地位を得ることになる

(6) したがって、われわれによる事物、現象、関係の意識化と言語化は、われわれの社会的に定められた思考、世界観、イデオロギーを明らかにすることになる

(7) 技術的意義論は社会的実践の範囲を、イデオロギー的意義論はこの実践のイデオロギー的意識化について我々に知らせてくれる

(8) 技術的意義は、時代から時代へ、一つの社会環境から他の社会環境へ移ることのできる堅い核を形作っている。その核は、様々な時代と権威を持った人々の知覚の対象物的等価に基づく経験を要約している。この、客観的とも言える技術的意義の核は、それぞれの時代や社会環境の中で、人々の意識と経験の構造によって全く条件づけられた主観的、イデオロギー的な多くの表象、気分、連想に包まれる。このイデオロギー的意義は、他のイデオロギー形式同様、はかなく脆いものである。このような随伴的な意義的観念の全複合は、言語要素に一定のイデオロギー的香気を付け加える膜を作っている。(太陽で言えば、「光体としての太陽」が核であり、「神としての太陽」が膜となる。後者は前者を屈折させる媒体となる。)

●技術化の不断の過程
上記のように意義はイデオロギーの中で古い形式が再利用される形で形成されることになるのですが、ひとたび形成してしまうと、それは様々な背景の人間間の交信(今で言うところのコミュニケーション)で使用される中で、技術的意義ないしは核が中心的な役割を果たすようになります。著者は以下のように述べます。

(1) その語が形成された社会環境の中であったとしても、意義の技術化は避けられない。また、異なった社会環境の間でその語が使用される場合は、技術化の過程は何倍にも早められる。(p. 193

(2) 上記 (1) の後者の場合に関して:言語形成が、それが一定の経験体系、思考と世界観、に基づいて創造された緊密な環境の限界を出るやいなや、その意義は、すべての人に明瞭で義務的である客観的・現実的な、技術的な知覚要素にまで狭まる傾向を持つ。転換の環境が広く多種であれば、それだけ多く意義は技術化される、と言うことができる。(p. 192

(3) 言語体系のイデオロギー的機能の収縮はその技術的機能の拡大と平行して行われる。(p. 192

(4) 技術化は純粋に意義的過程であると言える。それは、意義的収縮、意義的減少、意義的特殊化、の過程であり、これによって、与えられた言語形成の発生と結びついていたイデオロギー的「膜」的な観念・連想のすべてが日常の言語的実践において意識されるのをやめるのである。表現の外的物質的な形態もしくは構成がそれを生んだイデオロギー的観念の明瞭な痕跡を保持し続けるときにも、意識されるのをやめる。このように、イデオロギー的意義から技術的意義への重心の移動の過程を「意義分離化」(=「技術化」)と呼ぶことにする。(p. 193

(5) 例外なくすべての言語要素がこの意義分離化を経験する。発生した瞬間にはイデオロギー的内容は談話者に意識されるが、そのうちにそのイデオロギー的位置が忘れられる。しかし、その形成、物質的形式そのものはしばらくのあいだ、意義分離化ないし技術化した形で存在し続ける。(p. 194

(6) 意義的減少、特殊化、技術化の過程は絶えず言語の中で起こっており、言語発展の最重要なモメントである。この過程は、まず種々異なった言語要素の間に存在するイデオロギー的関係の意識の曖昧化に合わせて生じる。第二に、言語の個々の鎖環の意義的生気と緊張の弱化に合わせて生じる。(pp. 195-196

(7) 単語=概念は交信的実践において、とくにある一つの機能で用いられはじめ、それが意義的に狭まり、その特殊的機能に技術化し、かくして、名詞や動詞や代名詞や前置詞などが生じ、次第に、これと関連した論理的形式的特質を得たのである。こうして、文法が生まれた。(p. 197

●技術化の過程がもたらす2つの法則:社会化の法則と継承の法則
社会化の法則については以下のように説明されています。

「社会的政治的な経済的な関係で、単一全体的なものを表す人間集団が、ある地域に形づくられるときには、社会と経済の要求は、全集団に単一な交信体系の創造を命令的に生ぜしめる。集団のなかに、異なった言語を持ついくつかの集群があるときには、この要求は、いかにして充たされるか?それは、その社会・経済的統一体に入り込んだ言語の混合と新しい混合された言語のこの基礎のうえでの形成とによるか、一つの言語の膨張とそれによる他の諸言語の追いだしによるか、である。交配の道による「社会化」は社会発展のより多様な時期にとって特長的である。競争する諸言語(もしくは方言)のうちの一つの更新と膨張による(社会化)は、さらにのちの時代にとって、階級的社会にとって、普通に行われる。ある歴史的条件によって他の言語にたいして優越ならしめられたある言語は、その属していた集群の限界を超えはじめ、次第に共通民族的となる。以前の言語多様状態の痕跡は方言の形で、単一の民族語の内部に長いあいだなお保続される。その際、「社会化しつつある」、もしくは、「民族化しつつある」、言語は、その膨張の過程では同じものではないのである。それは自分が「呑みこんだ」言語の要素を吸い込み、新しい社会的機能の実践のうちに建て直されているのである。」(pp. 199-200

また、社会化の法則と技術化の接点については、「われわれが種族と呼び、のちには民族と呼ぶ統一体のなかに入った種の異なった層に役立つためには、言語要素のイデオロギー的機能が曖昧になり狭くなることが必要であり、技術化が行われることが必要なのである。」(p. 200)と説明されています。

次に継承の法則ですが、「イデオロギーのすべての形態はある惰力を得、その惰力は諸形態を生んだ社会的実践に、多少長い期間のあいだ生き残るのを許す」(pp. 200-201)と説明されています。また、言語の継承について、以下のように更に説明がなされています。

(1) 「新しいイデオロギーは言語要素そのもののなかに表現されず、言語の結合、文章、推理のうちに表現される。言語自身のうちに表現された(イデオロギー体系として)イデオロギーに、言語によって表現された(交信体系として)イデオロギーが代る。創造されたときに、言語自身はイデオロギーでないとしても、時がたつにつれて、それは技術となり、他のイデオロギー表現のための技術、社会的交信に役立つための技術となる。」(p. 202

(2) 「言語は変化することが許されているが、それは、新しい各世代が前の世代と話しあえる範囲内で許されているのである。この枠のうちで言語は、変化し、二~三百年のうちに区別がつかなくなりうるのである。」(p. 202

また、これら2つの法則の関係については、「社会化の法則は言語単位がどこでも正確に経済的政治的単位に一致するように務め、あらゆる条件のもとにあって言語再建のテンポを引きとめる継承の法則はこの「理想的」方面を実現させないのである。」(p. 203)と説明されています。

また、最近の研究として、以下のような研究は大きな問題点があると述べられています。

(1) 言語は上部構造だというだた一つの公式でのみ武装して、地球上の言語の現在の分布を説明しようとする研究

(2) 過去、2,0003,000年の範囲でしか物事を考えない言語研究

上記 (1) に関して、著者は「そういう課題は、言語が発生したばかりで、それの基礎との上部構造的関係が技術化の過程によってまだ曖昧にされていない、われわれから非常に遠い時代にあっては適当なものであった。その時からは多くの時間が流れさり、現代の地球の言語圏は、言語がイデオロギーとしてではなく、技術として現われる社会化と継承の法則の数千年にわたる結びあった作用の結果なのである。」(p. 204)と指摘されています。

上記 (2) に関しては、音声言語創造への決定的な歩みは、これらの年代以前に生じたということが指摘されていました。

著者は、「言語の歴史においても正確に、イデオロギー的創造的過程の行われた創造的時期のあとに、技術的調整的過程の行われる時期がつづく」(p. 205)、「もし技術として言語が毎日作りあげられ新しくされているとすれば、イデオロギーとしては、その基礎的輪郭は過去に、ただいくらかの要素だけが現代に、入り込んでいるのである。」(p. 205)とまとめていました。

 

●言語発展の要因としての技術化

これまでに言語変化に関して、様々な考えが提出されていますが、著者は「言語の外部的変形は内部的意義的変形の結果である」(p. 207)ということを指摘します。著者は、これまで提出された考えの例として、「便利の原則」、「使い古しの原則」、類推、の3つを取り上げますが、これらは結局言語の技術化に伴う内部的意義変形の結果として生じている二次的な現象に過ぎないと指摘しています。

著者は、言語変化に関して、次のような考えを述べています。

(1) 「ちょうど、木が根で自分の小枝一本一本、葉一枚一枚に自分の固有な構造と形式とを充実させているように、社会的イデオロギーの生活のうちに根を持っている言語は、自分の構造全体に、すべての部分部分に、自分の形式を充たしている。そして、切り倒された木が技術的変化をうけて、人間に必要な物の形を持つように、成長したイデオロギー的地盤から離された言語はいろんな形の力と影響の活動する場所となる。その力と影響のうちで、第一のものは社会的交信の技術的必要である。」(pp. 207-208

(2) 「技術化の過程は、…、生きた意義的意識が反抗する強力な統一的傾向を持っている。この意識が充分強くなると、意義の弱まりを生じる個々の単語、形式など1つひとつのバラバラな変化が言語のうちで可能となる。意義分離化が言語材料の著しい部分に行きわたるとともに、統一的傾向は自分の道にあるすべての邪魔なものを打ちこわし、個々の音韻中断は「音韻法則」の段階まで成長し、類比による形成はあたりまえの現象になり、言語はますます体系となることに努める。」(p. 212)(ただし、このことは音韻に限った話ではなく、言語のあらゆる側面に当てはまるとされています)

(3) 「言語は体系をなして生れたのではない。言語は技術化の過程に体系に似てくるのである。言語の体系性はその技術化に比例している。」(pp. 214-215

(4) 「言語の意義分離、イデオロギー的体系としての言語体系の使用の拒否、はその衰弱を意味しないばかりでなく、反対に、その技術的進歩を助けるものである。…すべての言語にはある数の「意地の悪い」要素があり、それが一般化の傾向に反抗し、自分の個人的な顔かたちを護りつづけている。それは、「例外」または「不正」な形という名で、われわれの文法のなかにある。」(p. 215

(5) 「創めて造られた言語は一つ一つの例外から成っていたと思わなければならない。」(p. 215

(6) 「言語が体系に似ていると言うときには、それは徹底した一貫した論理的な体系のことだと思ってはならない。」(p. 215

(7) 「どの言語も自分の文法的語辞的構成のなかに、技術化の過程によって非常にゆがめられ、マスクされ、もつれあった、過去の世界観の端くれを意義分離化された形態で持っている。これらの過ぎさった世界観の隠れ場所に、われわれはただ一つの先史学的分析を導きこむのである。」(pp. 217-218

(8) これまでの研究は、文法の中になぜ例外があるのかを説明することができなかった。このことを解決する唯一の道は、「言語の源まで行く真の歴史主義、単一言語創造過程の歴史主義である。」(p. 218)(つまり、言語の起源を見据えた上で、将来の言語統一を睨んだヤフェティード言語学のみが解決できるということ)

●『インドヨーロッパ学』の欠陥
著者は、ブルジョワ言語学は、「「例外」や「不合理な」現象をば、あらゆる不愉快の根源となり得る危険な要素だとしている。起源的な問題を語るときには、まさにこの「危険な」要素が非常に貴重な働きをするのであることを、われわれは知っている。」(p. 219)と述べています。また、「言語創造のごく小さな切断にすぎない、言語族のうちに立てられた法則とテーゼとを人間言語の永久不動の法則に引き上げる傾きがあった」(p. 220)こともブルジョワ言語学の問題点と述べています。

●言語発展の平和な速度が革命的な速度に交代するとき

「言語変化の根元が意義の隠れ場所のうちに発見され」(p. 220)たのち、「言語材料の大群的な意義分離化の過程が生じ、それにもとづいて、音韻と形態の分野における変形と統一の広い自由が得られる。音韻と形態とは、それとして、全言語構成の根本的作り直しを結果として伴う(屈折の擦り落ち、形式の特殊な格の一般化などの結果)。(改行)古い材料の壊れるのと平行して、言語創造の部分的な波が生じ、このことは、さらに古いものと新しいもののあいだの親縁を一層深くする。」(p. 221)と述べられています。

●将来の言語
このことに関して、「人類の将来の言語は、最大の技術化の言語としてよりほかには、考えられない。上から下まで一貫した体系、表現手段の最大限の深さと多様と同時に最大限の率直さ、残存している「多義性」の清算、音韻的意義的・分化性と正確性―これが無階級社会における交信の最も完全な技術という重要な機能を充たすべき言語の特徴である。」(p. 222)と述べています。さらに、「歴史的に不可避的なこの運動を組織し、それを正しいレールに沿わせることはあらゆる合理的言語政策の課題である」(p. 222)と述べていました。

最後に、著者はこの論文で述べたこと(特に技術化の問題)は、マールの論考自体に既に含まれていたと述べます。この研究のオリジナリティーは、技術化の問題を突き詰めて議論したところにあると述べられていました。

 

<第4章:アバエフ「音韻変化の法則」>

アバエフ,VI.(1947).「音韻変化の法則」(高木弘(訳)).In SN.ブイコフスキー『唯物論言語学:ソヴェート言語学』(高木弘(編訳),pp. 224-249).象徴社.(原著は1933年出版)

この章(原著は1933年出版)では以下の事柄が議論されていました。

A インドヨーロッパ言語学の問題点

B ヤフェティード言語学の進むべき音韻変化の研究

C ヤフェティード言語学における音韻法則と例外の捉え方

●インドヨーロッパ言語学の問題点
著者は、ボップがかつて音韻法則は言語の意義的弱化に基づいて生じるということを指摘したにもかかわらず、ボップ自身そして他のインドヨーロッパ言語学者はこの点を否定するにいたった(音韻は音韻独自で変化するという考えを持つにいたった)とその問題点を指摘しています。また、まだ伝統的な言語学者は言語を歴史的に捉えようとする傾向が少しは見られたものの、青年文法学派や社会学派(ソシュールやメイエ)は言語の歴史性を全く無視しており、その点では言語研究は後退したと指摘しています。そして、以下のように主張しています。

「私は、こう言いたいのである。音韻法則の無誤謬性の奴隷的信仰に基づいた研究は、半ばその価値を低めるものであり、この法則を無視した研究は一般に価値のないものであると。研究者の最も困難にしてデリケートな課題は、法則の回避の場合場合に、その(その回避の)歴史的基礎づけを明らかにすることである。だが、それには、正当な、総括的な、正しく歴史的な音韻発展理論によって武装されていなければならない。そういう理論はインドヨーロッパ言語学には存在しない。」(p. 237

著者は、インドヨーロッパ言語学の音韻変化理論の中で唯一「言語基層の理論」だけは検討の価値があると述べます。これは以下のような考えだそうです。

「われわれが言語の歴史において、ある音から他の音への法則的推移に気づくときには、それは、与えられた言語の該当者がその発音を変えたということではなく、言語が一つの民族的環境から他へ移ることなのであり、別の発音習慣を持っているこの他の環境は、自分の言葉にしたがって、他から来た言語の音を分節するようになり、その結果、われわれが過去をふり返って見るとき、法則的な歴史的音韻変化の影響が創られる。」(p. 240

著者はこの考えは基本的に正当なものであるとしながらも、その民族学的解釈だけは適切ではないと指摘しています。

「われわれにとっては、二つの言語環境のあいだの相互作用は「民族」のあいだのものではなく、階級社会における二つの階級的社会層のあいだの相互作用なのである。われわれにとっての音韻的規範は社会体制の規範であり、音韻的規範の相互作用は、われわれの視点からは、二つの「民族」の衝突の偶然的外部的事実ではなく、各言語環境の内部的発展の要因によって生じるのである。」(p. 241

なお、大半のインドヨーロッパ言語学は、言語基層の理論がもたらした音韻的不規則さの原因を考察することはしなかったそうです。著者は、「本質的には、この学派自身が、談話する個人と社会の反歴史的な取扱いによって、この現象を解明する道を閉じたのである。インドヨーロッパ学派は、談話する個人を自然には存在しない標準的な不変の心理・生理的タイプに変え、社会をば、余計な、ある具体的な歴史的な抽象標識としたのである。」(p. 241)と指摘しています。

●ヤフェティード言語学の進むべき音韻変化の研究

著者は以下のように述べます。

「古い言語学は、普通、音韻変化をある完成された与件としたとすれば、われわれは、音韻変化のうちに、多少は緩慢な、時とともに移る過程を見るのである。古い言語学がこの過程の結果に重点を置いているとすれば、われわれは、その過程の内的な推進力に突き入ろうと努めるのである。そして、もし古い言語学が、...主として、音韻現象のいろいろの形態を、できるだけ正確、厳密に分類することに自分の力を向けたとすれば、われわれは、われわれの見地から出発して、現象の分類(水平的断面における)と同じように、過程の研究(垂直的断面における)、過程としての、すべての音韻変化―それが音韻的「法則」か、「類似」か、「同化」か「分化」か、「転換」か「中断」かにかかわらず―を特長づけるいろいろな段階またはモメントをあばくこと、に努めなければならない。」(pp. 242-243

なお、著者は音韻的過程においては以下の4つのモメントが設定できるとしています。

(1) 音韻変化の発生

(2) 音韻変化の普及

(3) 音韻変化の速度

(4) 音韻変化の傾向


そして、各モメントの研究において鍵となる事がらについて、以下のようにまとめています。なお、音韻変化の傾向に関しては少し分かりにくいですが、要は各言語で音をどのように分節化するかということが歴史的に確立しているため、特定の言語の中でどのように分節化の傾向が発展してきたのかということを考慮することが重要だということになります。

「これらのモメントのそれぞれに、その研究に解決的な一つの要因を置くとすれば、発生には意義論、普及には社会・政治的・文化的環境、速度には社会生活の速度、傾向には与えられた言語の内部的な分節的音声的発展である。これらのモメントのおのおのに、他の要因が働きかけることは判りきったことであるが、われわれの課題は現在、大小すべての働いている原因を調べつくすことではなく、うえに挙げた四モメントのおのおのにたいして、捕えなければならない基本的なものを取りだすこと、確固たる正しく社会的な基礎のうえに音韻過程の研究を打ちたてることにある。」(pp. 248-249

●ヤフェティード言語学における音韻法則と例外の考え方

著者は以下のようにまとめています。

「音韻的法則とは、言語の技術化にもとづいて発展しつつある音韻規範統一過程であり、この統一化を行うものは、つねに一定の社会的グループである。「法則」の耐久性、普遍性、拡大は、この社会的グループの堅固さ、安定さ、その経済的、社会的、政治的、文化的、比重、言語統一体の限度内への影響によって規定される。」(p. 249

また、音韻的例外については以下のように述べています。

「「例外」とは、基本的支配的な社会的グループを除いた他の社会的グループの言語への侵入―または「例外」が見られる言語要素の意義的生活の特殊的条件の指示である。」(p. 249

 

<第5章:ソヴェート言語学文献>

本書が出版された当時に新たに出版されたもののうち、主要な文献がリストアップされています。個々の文献に対して、どのような事柄を述べているか著者が注記を示してくれています。海外の文献と日本の文献の両方が含まれています。

なお、マールの学説に関心のある方は、言語学史の本などにその基本的考えが要約されています。また、英語では例えば以下の文献があります。手元にあるのですが、まだ読んでません。。。

Murra, J. V., Hankin, R. M., & Holling, F. (Eds. & Trans.). (1951). The Soviet linguistic controversy. New York: King’s Crown Press.

Thomas, L. L. (1957). The linguistic theories of N. Ja. Marr. Berkeley, CA: University of California Press.

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2014年9月11日 (木)

塩田勉(2004).「シュピッツァーの方法論-「文体論事始め」(一九四八年)解題-」を読む(『比較文学年誌』)

シュピッツァーの考えの要点がまとめられています。非常に分かりやすく書かれており、シュピッツァーの本を直接読んでいなくても議論についていくことができます。

塩田勉(2004).「シュピッツァーの方法論-「文体論事始め」(一九四八年)解題-」.『比較文学年誌』,40,66-81.

概要

著者によると、シュピッツァーは、「仮説演繹法」を以下の要約しているそうです。

「先ず、芸術作品の表層から研究を始め、〔内なる生命の確信〕に迫ること、つまり、第一に、現象の表面をつくる細部を観察し、(この場合、詩人が述べている「思想」も、芸術作品の表面的特徴にすぎないことがある)次に、これらの細部を分類、統合して、芸術家の精神の裡に存在していたと思われる創造原理に還元し、最後に、観察しうる他の細部へ立ち戻って、今、仮説として立てた内なる形式が全体をよく解き明かすことができるかどうかを点検する、という方法〔いわゆる仮説演繹法〕である。このような、精神へ「遡る旅」を三、四回試みるうちに、研究者は、自分が、作品に生命の源泉、太陽系の光源である太陽を発見したのかどうか確言できるようになる。」(p. 68)

また、作品の細部として注目されるであろう「文体における「逸脱」を、さらに大きな歴史的文脈の中に置いて、それが、歴史的変動の前触れ」(pp. 68-69)と考えたそうです(著者は、マルクス主義に立つバフチンと似た考えを敬虔なカトリック教徒であるシュピッツァーが提示したことは興味深いと述べています)。

著者は、仮説演繹法を実際にやってみるとなかなか難しいと指摘します。どうしても名人芸的な側面があり、この方法がうまくいくかどうかは、「作業仮説発見の直感の精度や質の高さ」(p. 72)次第のようです。さらに、シュピッツァーは文体的偏差として着目した細部と作者の創造原理という全体像との一致の確信が得られるまで、「書の傍らにとどまって読み返」(p. 77)すことも必要とべています。そして、その過程で読者自身の人生経験が大きく影響を与えると述べられています。

最後に著者はシュピッツァーの考える文体論を以下のようにまとめています。

「つまり、文体論とは、人間がまちまちの穴からまちまちの風景を見る、という前提に立って、それらに優劣をつけず、言葉の断片の背後に伏在しているそれぞれの経験を浮かび上がらせながら、発信者の精神全体へ思いを馳せようとする営みだ、と言い換えてもよい。」(p. 80)

そして、このようなアプローチは「他者に対する共感、尊重、共有、了解を原則とし、上からの既成の規範や規則から出発しない点で、きわめて民主的であ」(p. 81)ると述べられています。

また、この記事では取り上げませんでしたが、著者はシュピッツァーの考えには比較言語学が影響を与えていることを指摘していますし、現象学との関連性の指摘も面白いと思いました。

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2014年9月10日 (水)

青柳宏(2002).「ルイーズ・ローゼンブラットの文学教育論-「美的経験」から「カリキュラム」へ-」を読む(『宇都宮大学教育学部紀要第1部』)

この論文では、ローゼンブラットの基本的な考えが解説され、彼女の考える文学教育ひいては教育全般(カリキュラム観)について考察されています。

青柳宏(2002).「ルイーズ・ローゼンブラットの文学教育論-「美的経験」から「カリキュラム」へ-」.『宇都宮大学教育学部紀要第1部』,52 (1),1-15.

概要

この論文では以下の点が説明されていました。

(A) ローゼンブラットの基本概念の説明:交流と美的経験

(B) ローゼンブラットの考える文学教育

(C) ローゼンブラットのカリキュラム観

●ローゼンブラットの基本概念の説明:交流と美的経験

著者は、ローゼンブラットの「交流」という概念について、「読者が作品の言葉を自らのそれまでの経験をたよりに意味づける過程は、一方で作品の言葉が読者の思考と感情を組織化し、想像的な経験を読者にもたらす過程でもある。彼女は、読者と作品のこのような相互的過程を「交流」と呼んでいる」(p. 2)と説明しています。

また、交流がもたらす美的経験については、「私たちは、文学を読むことを通して、実は自らの過去の経験を、作品の力を借りて味わい直している。また私たちは、文学を読むことを通して自らの過去・現在の経験や欲望がはらんでいる可能性を想像する。」(p. 1)と述べ、この経験のことを美的経験と説明していました。別の箇所では、「読者が自らのそれまでの経験を味わい直し、自らの経験の意味をあらたに再構成する経験」(p. 3)とも説明されています。さらにローゼンブラットは、特に詩に着目し、「美的経験」の概念を「出来事としての詩」という概念に呼び変えてもいます。ローゼンブラットにとって「詩」とは、「テクストの読み(読み聴かせ)を介して、自らの経験、情報を新しい経験へと結晶させるプロセス全体をさして」(pp. 7-8)います。

なお、ローゼンブラットは、読者と文学作品の交流は「読者の文化環境と作品の文化環境との出会い」(p. 4)と考えており、美的経験とは、「自らの生活を自らの文化環境からだけでなく他の文化環境から見つめなおすということを含んでいる」(p. 4)とのことです。

●ローゼンブラットの考える文学教育

彼女の文学教育の基本的な考えの要点として以下の点が指摘されていました。

(1) 文学教育においては、生徒が美的経験を経験するような交流を教室内に引き起こさなければならない。

(2) 「社会的」vs「美的」、「社会的なもの」vs.「個人的なもの」という思考の枠組みを解体する

(3) 「文学は他のやり方では反社会的な行動を生み出してしまうものに社会的な水路を与える」(p. 3)

(4) 「文学作品は生徒に「学びへの欲望」を喚起する。...それは、文学が生徒によって学ばれるものである前に「生きられるもの」であり、また文学が「感情と知性が結ばれている多様な水準で生徒が応答できるもの」...である。」(p. 5)

(5) 作品と生徒との交流における生徒の見落とし(読み落とし)は、「生徒自身の感情的、知的視覚を明か」(p. 8)し、さらに意味ある交流をもたらす。

(6) 個人の反応(交流)を重視し、さらに教師はインフォーマルな話し合いの雰囲気を作る必要がある。

(7) ローゼンブラットの研究は、新批評と同時代であるが、「作家の生活や、作家の生きていた時代の知的、哲学的、社会的、経済的条件を調べ、理解することを積極的にすすめている」(p. 10)

(8) 「まずは他者の他社性よりも自己と他者に共通なものを探ることを励まし」(p. 11)、個人的な洞察や感情にも他者と共通の基盤があることを感じ取らせる力を獲得させる。

●ローゼンブラットのカリキュラム観

著者は、ローゼンブラットは「自らの経験(欲望)の意味を味わう「美的経験」を起点として、さらに自らの経験(欲望)を検証し、再構築するために文学に止まらず多様な学問(教科)を学んでいくような学びの道筋を示唆している」(p. 1)と指摘しています。ローゼンブラットは、「美的経験を起点に多様な学問を統合あるいは横断していく」(p. 12)ことの重要性を認識しており、一つのカリキュラム観を示していると指摘されていました。

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2014年9月 9日 (火)

B.Tomlinson(1986).「Using Poetry with Mixed Ability Language Classes」を読む(『ELT Journal』)

非常に有名な論文です。この度再読しました。

Tomlinson, B. (1986). Using poetry with mixed ability language classes. ELT Journal,40 (1), 33-41.

概要

この論文では、以下の点が議論されています。

(A) 詩の使用に対する批判的な見解とそれに対する著者の反論

(B) 詩の使用の価値

(C) 本論文の前提

(D) 適切な詩を選択するための基準

(E) 指導に関する具体的な提案

●詩の使用に対する批判的な見解とそれに対する著者の反論

著者は、詩の使用に対する批判的な見解として以下のような主張を紹介しています。

(1) The learners find poetry difficult and boring in their own language, never mind in a foreign one.

(2) We are trying to help our learners to communicate in contemporary colloquial English, not in stilted poetical terms.

(3) We are aiming to increase the communicative competence of our learners, not to produce poets.

(4) Most authentic poems are very difficult to understand, even for native speakers, as their meaning is rarely overt and their use of language is idiosyncratic.

(5) We only have a few hours a week to teach our learners the basics of English, and so poetry is a luxury we cannot afford.

上記 (1) に関しては、"I have found that many such learners enjoy poetry in a foreign language if they are encouraged and helped to respond to it globally and imaginatively." (p. 33) と述べています。

上記 (2) に関しては、"The poem is a stimulus, not a model for emulation." (p. 33) と述べています。

上記 (3) に関しては、"The main objective of using poetry in language lessons is not to teach the learners to write, or even appreciate poetry, but to find a means of involving the learners in using their language skills in an active and creative way, and thus to contribute to the development of their communicative competence." (p. 33) と述べています。

上記 (4) に関しては、"Reading poetry can thus help to develop the important language skills of identifying and interpreting assumptions and implications." (p. 33) と述べています。

上記 (5) については、"I have found that sometimes using poetry (and other forms of literature) as the basis for intelligent communication activities has contributed far more to the acquisition of language and the development of language skills than a total concentration on the presentation and practice of language items." (p. 34) と述べています。

●詩の使用の価値

著者は以下のような価値が詩の利用にはあると考えています。

(1) educational value

(2) affective value

(3) achievement value

(4) individual value

(5) stimulus value

(6) skills development

上記 (1) に関しては、"As language teachers, we are fundamentally educationalists and not just instructors, and it is our duty to contribute to the emotional, imaginative, and intellectual development of our learners. ... It has been my experience that poetry (if chosen carefully and used intelligently) can open and enrich the content of language lessons, can provide useful opportunities for gaining experience of the world, and can contribute to the development of the 'whole person' as well as the "learner of a language'." (p. 34) と述べています。

上記 (2) に関しては、"It has been my experience that 'average' language learners are most motivated, most open to language intake, and most eager to use language when their emotions, feelings, and attitudes are engaged. One way of achieving this is to 'stage' the learners' encounter with a poem in such a way as to maximize its impact and thus to involve the learners actively in responses to the poem and the language activities built around it." (p. 34) と述べています。

上記 (3) に関しては、"I have found that if poems are met as parts of larger communication activities, and if the teacher helps to make them accessible through pre-reading activities focused on content rather than language, then many learners are able to give valid responses to poems and thus gain a considerable sense of achivement." (p. 34) と述べています。

上記 (4) に関しては、"Poems have the great potential value of appealing to each individual reader in different ways and of being accessible on many different levels of meaning. Thus, a carefully chosen poem can help all members of a mixed ability group to achieve something. The weakest can achieve at least a superficial but satisfying global response to the poem (even if it is only a vaguely felt emotion or attitude), whereas the 'middle' learners can get further into the poem, and the brightest can gain the great satisfaction of imaginative and individual insights into the potential meanings of a poem." (p. 34) と述べています。

上記 (5) に関しては、"Poems which achieve affective responses from learners can stimulate them to unusually intelligent and creative use of language in follow-up activities. This achievement can bring great satisfaction and pride, and I have found it can even lead to more accurate and appropriate use of language in follow-up activities which challenge and engage the new-found pride." (p. 34) と述べられています。

上記 (6) に関しては、"Poems more than any other type of text can give valuable opportunity for learners to use and develop such important skills as deduction of meaning from linguistic and situational context; prediction; relating text to knowledge and experience of the world; reading creatively; and the recognition and interpretation of assumptions and inferences. Many EFL/ESL courses do not require learners to use such intelligent skills until the advanced stages of the course, and concentrate on skills required to respond to the explicit statement of meaning. It is my experience that the earlier L2 learners engage their intellect and imagination as well as their knowledge, memory, and mechanical skills, the more likely it is that they will become truly literate in the foreing language. Poems (as well as songs, short stories, and plays) can, provided they are not too linguistically demanding, provide even elementary learners with opportunities to start developing the so-called 'advanced' skills of comprehension." (p. 35) と述べています。

●本論文の前提

著者は前提として、以下の点を挙げています。

(1) "I am not advocating the exclusive use of poetry (or any other form of literature), but suggesting that it can play a valuable role in a balanced programme which could also include the overt teaching of specific structures, functions, and lexical items, and the overt teaching of communication skills." (p. 35)

(2) "I am not claiming that poems always work, or that every member of a group gains during a session in which a poem does work. What I am claiming is that if an appropriate poem is used intelligently by a teacher who believes in the potential value of poetry, then that poem is capable of achieving what few EFL texts can achive, i.e. different but equally valid motivations and responses and the rare engagement of the 'whole person' regardless of the language knowledge, experience, and ability of each learners." (p. 35)

(3) In order for poetry to achieve some of the values listed above, it is important that the focus is not on difficult bits of language but on responses to what has been understood. I have found that pre-teaching difficlut items and setting questions on vocabulary and structures can kill a poem as an affective experience and can reinforce the students' negative view of poetry as difficult and alien. I have also found that interesting pre-reading activities which focus on the topic(s) and 'feelings' of the poem can help the learners to take 'knowledge' and experience to the poem and to gain access to it, without worrying about the words and structures they do not fully understand." (p. 35)

●適切な詩を選択するための基準

著者は以下の点を上げています。

(1) universal appeal

(2) surface simplicity

(3) potential depth

(4) affective potential

(5) contemporary language

(6) brevity

(7) potential for illustration

●指導に関する具体的な提案

まず、プレ・リーディング活動に関しては以下の提案がなされています。

(1) "These activities should focus on content, not language, and should ideally involve the learners in interactions which engage them emotionally and intellectually." (p. 36, emphasis in original)

(2) Activities which cannot achieve the desired emotional or intellectual readiness include pre-teaching difficult vocabulary items, practising structures or functions featured in the poem, and other learning activities which focus the learners' minds on language items and run the risk of suggesting that the poem is a model of language use, rather than an expression of ideas and emotions to react to." (p. 36, emphasis in original)

また、学習者が詩を読むことを助ける方法として、以下の点が提案されています。

(1) 学習者が自分で詩を読む前または最中に、音読を聞かせる

(2) 学習者が詩を読んでいる最中に参照するための絵、イメージ、音楽を活用する

(3) "Presenting the poem line by line on an overhead transparency projector while eliciting predictions" (p. 37)

(4) "presenting the poem in jumbled order for groups to sequence before reading it" (p. 37)

ポスト・リーディング活動への提案としては以下の事柄が挙げられていました。

(1) "The first overt response required of the learners to the poem should be an affective and global one. They should feel free to express their reactions in any way they wish. Obviously at this stage teacher judgement or, even worse, correction could kill the learners' responses and inhibit any subsequent creative follow-up." (p. 37)

(2) "The next response to the poem should involve the learners in extended interaction in which they use their interpretation of the poem to inform and stimulate communication activities which will involve them in intelligent use of English. ... Ideally the learners should be able to choose from a number of optional activities. One way I have managed this with a mixed ability class is to set up and label six follow-up activities in different parts of the classroom and let learners go to the one which attracts them and is at an appropriate level." (p. 37)

そして、以下、John Ardenの "PHINEUS" を使用するelementary / upper elememtary / lower intermediateレベル用の授業指導案と、Wilfred Owenの "Delce et Decorum est" を使用するintermediate / upper intermediate / advancedレベル用の授業指導案が例示されています。この記事では割愛しますが、非常に実用的で、使いやすい内容になっていると思います。

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2014年9月 3日 (水)

M.Gilroy(1995).「An Investigation into Teachers' Attitudes to Using Literature in the Language Classroom」を読む(『Edinburgh Working Papers in Applied Linguistics』)

ちょくちょく引用される論文です。著者は、外国語としての英語教育に文学教材がカムバックし、多くのテキストに含まれるようになったのはいいのですが、教師が文学教材に関して不安な気持ちを抱いている可能性が否定できないとしています(文学教材を含んだ教科書がその冒頭等でこのような教師の不安感に言及しているそうです)。しかしながら、文学教材に対する教師の態度はほとんど研究されていないので、著者が20名の教師に対してインタビューという形で研究調査を行いました。調査材料等はすべて付録として論文の最後に掲載されています。

Gilroy, M. (1995). An investigation into teachers' attitudes to using literature in the language classroom. Edinburgh Working Papers in Applied Linguistics, 6, 1-17.

概要

この論文では以下の内容が議論されていました。

(A) 文学教材の意義についての先行研究のまとめ

(B) 研究方法の説明

(C) 調査結果の要点

●文学教材の意義についての先行研究のまとめ

著者は、先行研究が挙げる文学教材の意義をまとめています(p. 1)。

(1) Collie & Slater (1987): valuable authentic material、cultural enrichment、language enrichment、personal involvement

(2) Carter & Long (1991): the cultural model、the language model、the personal growth model

(3) Lazar (1993): interpretive abilities

(4) Duff & Maley (1990): genuine samples of a very wide range of styles, registers and text-types dealing with non-trivial matters to which learners can bring a personal response from their own experience; multiple-interpretations (this provides 'a ready-made opinion gap between one individual's interpretation and author's' whch 'can be bridged by genuine interaction''

また、著者自身は文学教材に関して、以下のような考えを持っています。

"I personally am enthusiastic about literature, which I believe provides a valuable resource in EFL. Not only can it be used to expand students' awareness of language by exposing them to many varieties of English, it can provide a stimulus for language acquisition in terms of vocabulary development and the internalising of grammar patterns. In the form of creative and imaginative stimulus, it encourages students to give their own response which they can discuss with others." (p. 2)

●研究方法の説明

著者は、様々な学位を持つ20名の新米ではないネイティブ教員(最初の学位が文学であったり、文学の扱いに高い自信を持っているような教員は除外されています)に対して、インタビューを行いました。そのインタビューでは、academic and literary background、use of literature in the language classroom、the literary quiz(文学に関わる専門用語の知識や文章のジャンルを判定させる課題)が尋ねられたとのことです。詳しい説明は、この論文(pp. 2-3)を直接ご参照くだ.さい。

●調査結果の要点

今回の調査結果の要点として以下の点が挙げられていました。

(1) "despite voicing concerns informally about using literature in the language classroom, when questioned more formally, many of the EFL teachers in this study said that they regarded literature as a resource no different from any other EFL resource. Most of the respondents said that they felt confident about using literature when applying EFL-style tasks and activities. ... Yet at the same time they acknowledge the usefulness of such factors as background information or knowledge of stylistics to give them confidence in case they are asked nonlinguistic questions. This would suggest that, in spite of their outward confidence, they do have some misgivings." (p. 8)

(2) "all of the teachers interviewed tended to use literary extracts as one-off, filler-type activities which, although designed to tie in with the current topic or course, seemed to be considereed more of "an added extra". None of the teachers interviewed seemd to use literature on a regular basis, as an integral part of the syllabus. Although many said they would like to, syllabus restrictions made this difficult. Most of the texts described were short - poems or extracts - often studied out of context, and none of the teachers mentioned using longer texts such as plays or novels with a class. This rather limited use of literature might explain why teachers feel relatively confident, since there would be less likelihood of being aksed awkward questions by students." (p. 8)

(3) "more teachers did not mention, as one teacher did, that literary texts often require more careful reading and more preparation than non-literary ones, and this may be one of the reasons why the techers interviewed did not exploit the resource more often. It is disappointing that so few seem to include literary texts regularly in their teaching. As one teacher pointed out, if more literature were used, it would 'lose its mystique'. Time table and syllabus restrictions, however, often made this impossible. Despite these findings, there seemed to be a general feeling that, given the opportunity, the greater use of literature in language teaching was desirable." (p. 8)

(4) "Although the level of enthusiasm for extended teacher development courses on literature in language teaching is surprisingly low among the teachers in this study, it would also seem that most of them would accept that there is a body of knowledge, namely literary history, theory and stylistics as well as biographical and background information about writers, which would inform their use of literature in the language classroom. The explanation for this apparent discrepancy is not totally clear from this data but one may speculate that, because of the limited role literature plays in their present teaching, their repertoire of teaching techniques is at present sufficient." (p. 8)

なお、この研究結果は、IALSの「Teaching Literature in EFL」というコースの内容に反映されているそうです。私もこのコースに在籍したことがあり、修了証書も持っているのですが、非常に充実したコースでした。

また、この論文で、文学を使った自身の現在の指導に満足していると答えた教師によるある日本人英語学習者に関するちょっとしたエピソードが紹介されています。この教師は、クラスのたいていの学習者が文学教材を使った指導が好きなので、自身の現在の指導に満足していると答えているのですが、彼女が担当している日本人学習者だけは文学教材を前にしてパニックになっているというものです。いろいろと考えさせられるエピソードだと思いました。

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斎藤兆史(2005).「文体論と認知言語学の接点」を読む(『英語青年』)

いつもお世話になっている先生が2005年段階で、当時の文体論の動向をまとめられていましたので、勉強させていただきました。当時は認知文体論が新たな研究として盛んにおこなわれて始めた時代だと思うのですが、著者は文体論と認知言語学の接点はどのようなものであるのがもっとも効果的であるのか議論されています。

斎藤兆史(2005).「文体論と認知言語学の接点」.『英語青年』,151 (9),23-26.

概要

この論文では、主に以下の点が取り上げられています。

(A) 文体論のこれまでの流れ

(B) 認知文体論への危惧

(C) 文体論と認知言語学の最も望ましい接点

●文体論のこれまでの流れ

以下のような流れが説明されています。

(1) 1960年代半ばに、「文体」の定義に行き詰る

(2) 言語学の理論を文学テクストに応用し始める

(3) 言語学の理論に基づいた文体論が、自身の分析に基づいて作家の精神について語り始めた(この試みには論理の飛躍があったと述べられています)

(4) 上記のような論理の飛躍が契機となって、Fishによって文体論が破綻寸前まで追いつめられた

(5) 文体論学者はFishに恐れをなして、新たに文学・言語教育研究に手を伸ばした(practical stylistics、pedagogical stylistics)

(6) 文学・言語教育研究が文体論という理念の枠に収まらなくなってきた(もはや文体論という名前を残さなくてもよいと考えた者も多かったそうです)

(7) 90年初頭にToolanが文体論の理論をもってFishを挑発したものの、Fishは応答しなかった

(8) Toolanに続いて、多くの研究者が文体論を再開し、多くの若い研究者を育てている

●認知文体論に対する危惧

著者は認知文体論の問題点に関して、以下のように述べています。

「多少なりとも心理に関係する言語・文体分析は何でもかんでも認知文体論になってしまうではないか。(改行)その通り。この雑居性、この混乱こそが認知文体論と称する最新理論の最大の問題点なのである。先述の認知文体論・詩学の論文集を見るかぎり、作家や詩人の創作過程も、読者の読みの過程も、登場人物の世界観も、これすべて「認知」の名の下に一緒くたにされてしまっている。」(p. 24)

さらに、文体論は認知言語学をその分析の道具として使用する上で、以下の点に留意する必要があると述べられています。

「認知言語学の理論を文体分析の道具として使う場合には、文学テクストを人間の世界認識の表われとして扱わなくてはいけない。そこから作家や登場人物や、さらには読者の心理を読み取るには、(精神分析批評、心理文体論、読者反応批評など)また別の道具が要る。ここを押さえておかないと、認知文体論の枠組みそのものが崩れてしまう。」(p. 25)

また、著者は文体論は1970年代と同じ誤りを犯してしまう危険性も指摘しています。

「文体論は、その成立の経緯を見ても明らかなとおり、間分野的・学際的色彩の強い学問である。そのため、自己規定に関わる問いに対して過剰反応を示し、あわよくば言語科学の生み出した道具に頼ることで自らの位置を確保しようとする傾向がある。1970年代に一度痛い目に遭っているにもかかわらず、どうやらまだその心理は強く働いているようだ。」(pp. 25-26)

●文体論と認知言語学の最も望ましい接点

著者は、文体論が認知言語学から学ぶべきものは実は分析用の技術ではなく、理念であるという点を指摘します。

「認知言語学の理論がある種の文体分析の際に有用な道具となることは間違いない。だが、認知言語学という学問全体を見回してみると、文体論がそこから学ぶべきは、技術よりもむしろ理念であることがわかってくる。」(p. 26)

そして、この理念を文体論が最大限に生かすことができるのは、文体研究(言語学的文体論)そのものよりも、むしろFishによって追いつめられた後に文体論自身が確立した教育的文体論であるという点が指摘されています。著者は、「教育文体論と認知言語学がうまく結びつけば、語学教育から英語・英米文学教育を経てその専門的研究に至る一貫した教育・研究の制度を作り上げることができる。」(p. 26)と述べ、その接点に大きな期待を示しています。

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2014年9月 2日 (火)

池上嘉彦(1973).「言語学と文学と詩学」を読む(『英語青年』)

著者は1973年当時にあって、言語学の文学研究への貢献の可能性はどの程度のものであるか、ということを議論しています。この論文は、『英語青年』の以下の4つの号に分けて掲載されました。

池上嘉彦(1973).「言語学と文学と詩学(1)」.『英語青年』,119 (5),7-9.

池上嘉彦(1973).「言語学と文学と詩学(2)」.『英語青年』,119 (6),14-16.

池上嘉彦(1973).「言語学と文学と詩学(3)」.『英語青年』,119 (7),22-24.

池上嘉彦(1973).「言語学と文学と詩学(4)」.『英語青年』,119 (8),27-28.

なお、この論文の一連の引用文献は119 (9) 号に掲載する予定とされていましたが、調べてみたところ、そのようなページは見つかりませんでした。

概要

著者は、以下の事柄を議論しています。

(A)言語学が文学の問題と関係しうる理由

(B) 文学を構造体とみなした上での2つの研究アプローチ

(C) 文学を高次の構造体とみなした上での詩と物語の研究の可能性

(D) 文学研究への言語学的アプローチの展望と限界

●言語学が文学の問題と関係しうる理由

著者は以下の2点から言語学は文学と接点を持つとしています。

(1) 文学の言語性:文学は言語から構成されていること

(2) 文学の構造性:文学作品は言語同様に構造体であること

上記の (1) に関しては、著者は文学作品を通常言語のレベルで記述することになり、文学的価値とは直接関係のないレベルの研究に終始することになるだろうと考えています。

著者は、上記 (2) の方がより重要な接点であると考えています。著者はこのことに関して以下のように述べています。

「Hjelmslev (1943) の術語を使って言うと、'process' の背後にある 'system' を規定しようとする、或いは、もっと一般的に記号論の術語を使って言えば、'message' からそれを作り出す 'code' を規定するという操作を行うのと全く平行して、文学作品、つまり、'poetic message' からその背後にあると推定される価値体系、つまり 'poetic code' を規定するという操作が考えられるわけである。」((1), p. 8))

ただし、言語と文学は同じ次元に属する構造体とは言えません。著者は「文学作品は言語を素材として成立する。言語自体がすでに一つの構造体である以上、文学作品は構造体であるところのものを素材として成り立つ構造体、つまり、より高度の構造体であるということになる」((1), p. 8)と説明しています。つまり、文学という構造体は、Hjelmslevが言うところの、内包的記号体系(その表現面がすでに記号体系であるような記号体系)となります。

著者は (2) のアプローチは「発見的(heuristic)手段としては時として有効であろうと思われる」((4), p. 28) と述べながらも、「それはもはや厳密な意味での「言語学の方法」ではなく、異なる構造体の間の「相同性」(homology)を想定する一般の「構造主義的方法」と呼ぶべきものであって、その成果と限界については言語学は直接責任を問われるようなものではない」((4), p. 28)と述べています。

●文学を構造体とみなした上での2つの研究アプローチ

著者は、このような前提に立った場合、更に以下の2つの研究アプローチが考えられるとします。

(1) 文学作品を非文学的なものと同じレベルに置き、一般の言語データの一部として記述する方法

(2) 文学作品を非文学的なものよりも高次の構造体とみなして研究する方法

上記の (1) においては、文学作品に見られる非文学的テクストからの「ずれ」を記述することになります。しかし、「そのようにして記述された「ずれ」はすべてが文学的な価値を担っているわけでもないし、また、文学的に価値ある表現は必ずしも「ずれ」たものである必要はない」((1), p. 9)という問題があります。この点について、Riffatérreは、「文学作品を純粋に言語学的な立場から分析してみても、出てくるのは言語学的要素だけ」「たまたま文体的価値を持っている表現も中立的な表現と同列に記述されていまう」と述べているそうです。

上記の (2) に関しては、著者は以下の3つの作業が必要になると述べます((2), p. 14)。

(i) そのレベルにおける「意味を担う単位」(signifiant)の規定

(ii) それらの単位によって担われるところの「意味」(signifié)の規定

(iii) 意味を担う単位の結合上の可能性の規定

●文学を高次の構造体とみなした上での詩と物語の研究の可能性

このようなアプローチに立った上で、言語学として比較的取り上げやすい研究対象として、詩(抒情詩)と物語の研究の可能性が探られます。

しかし、著者は詩に関しては上記 (i) の作業が非常に困難である上に、(ii) の作業において決定的につまずくことになると考えており、かなり悲観的な見解を示しています(詳しくは「言語学と文学と詩学 (2) 」を直接ご参照ください)。当時は生成文法の考えが出てきていましたが、著者はこの考えをもってしても、この困難は取り除けるものではないと考えています。

それに対して、物語については言語学ははるかに貢献できると考えられています(ただし、もちろん問題点もあります)。著者は、「現在の段階で言語学がすでにかなりの成果を挙げている「文」の構造と、「物語」というものの構造との間にはかなりの類似した構成原理が働いているようであり、その意味で、言語学的な概念を平行移動的に物語のレベルに移してみてその対応物を探るという試みは興味ある発見に連る可能性を含んでいると思われる。」((4), p. 27)と述べています。また、「詩も物語も言語より高次なレベルの構造体であるという点では同じであるが、物語の場合は、より高次なレベルにおける 'signifiés"の規定ということが詩の場合ほど必然性をもって迫ってくる問題ではなく、'signifiants" の規定のみで一応のことがすむ」((4), p. 476)とも述べています。著者は、研究の実例として、Propp、Brémond、Greimasの研究を紹介しています。

著者は、以下のような3層構造を物語に設定できるのではないかとしています。

(1) 深層構造:「登場人物の類型+行為型」を構成する単位から成る

(2) より浅い層の構造:特定の物語における「登場人物+行為」という単位から成る

(3) 具体的な言語表現

なお、上記の (2) から (3) への移行部分は従来文体論と呼ばれていた学問領域が関わることになるだろうと述べられていました。

●文学研究への言語学的アプローチの展望と限界

著者は以下のように述べていました。

「厳密な異意味での言語学の方法が将来、文学作品の構造分析に対して現在よりも進んだ貢献をなしうるようになるかどうかは、言語学の部門としての「意味論」(semantics)と「テキスト構造論」(text grammar)における進展にかかっているとは言えるであろう。しかし、「自律性」を特徴とする文学作品の内在的な特徴のみを分析の対象とすれば十分の意味既定のための条件が揃わず、一方、外在的な条件までを考慮すれば「言語」以外の要素の介入を避け得ないというディレンマは、いずれにせよ克服不可能なものと思われる。」((4), p. 22)

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G.ムーナン(1970/1973).『記号学入門』を読む(福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎(訳),大修館書店)

記号学とはどのような学問であるべきかということについて極めて常識的に書かれています。私は「記号学・記号論」と聞くと、すぐにバルト、ラカン、レヴィ=ストロースといったビッグネームの研究を思い浮かべてしまうのですが、著者に言わせればこのような研究は、言語学の方法をその研究対象に応用することの妥当性がまだ証明されていない上での研究となります。自身の記号学に関する考えを反省するよい機会となりました。

もともとは、第10章に関心があり読み始めたのですが、それ以外の章で多くのことを学ぶことができました。なお、入門となっていますが、実際はかなり専門的です。構造言語学の基本的概念を前提として書かれています。

ムーナン,G.(1973).『記号学入門』(福井芳男・伊藤晃・丸山圭三郎(訳)).大修館書店.(原著は1970年出版)

 

<序>

この章では、本書が考える記号学とはいかなるものであるのかという点を明らかにし、その上で本書の特徴が列挙されています。

(1) 記号学は一時的な学問的流行ではなく「信号、記号、あるいは象徴によるあらゆるコミュニケーションの体系の全体的な科学であるから、ほとんどあらゆる人文科学に永続的な寄与をなすもの」(p. 3)である。現在、記号学は普及開始の段階にある。本書では、「コミュニケーションの記号学がいかなるものであるか、その最初の目録を提出するだけで、それ以上のことはしない。」(p. 4

(2) 本書では、専門用語で錯雑している、議論が時により変化している、現段階でコミュニケーションの記号学にとって決定的なものとなるかどうか分からない、という理由からパースの研究については触れない(pp. 4-5)。

(3) 本書では、コミュニケーションの名のもとに異質な現象を混同しているという理由から、シービオックの研究にはごくわずかしか触れない(p. 5

(4) 本書では、まだこれから長期にわたる専門的な研究が必要であるという理由から、動物のコミュニケーションについてはごくわずかしか扱わない(p. 6)。

(5) 本書では、著者が専門家ではない、他にしっかりとした研究を行っている研究者がいる、という理由から映画・絵画・音楽についてはごくわずかしか触れない(p. 6)。

(6) 本書では、現段階では百科全書的な書を書く必要はない(そのような時代はとうに過ぎている)という理由から、ムカジョフスキー、ヂュフレンヌ、フランカステルについては取り上げない(p. 6)。

(7) 本書では、著者は先行研究に対して異議を申し立てるべき点を示している。

<第1章:コミュニケーションの記号学と意味作用の記号学>
著者は、基本的にプリエートが提案しているコミュニケーションの記号学を支持し、バルトが提案している意味作用の記号学には批判的です。意味作用の記号学はコミュニケーションの記号学の概念を使ってファッションなどの現象を明らかにしようとしていますが、著者に言わせれば現段階ではファッションなどは自然言語や標識と同じようなタイプのコミュニケーションか照明もされていないし、コミュニケーションの記号学の概念がファッションなどに適用可能なのかどうかも明らかにされていません。以下、私個人が興味をもった点を列挙しておきます。

(1) ビュイサンスによる記号学の定義:「記号学とは、コミュニケーションの諸方式の研究、すなわち他者に何らかの影響を及ぼすために用いられ、影響を及ぼしたいと欲している相手からもその意図が認められるいくつかの手段の研究であると定義することができる」(本書のp. 12に掲載)

(2) コミュニケーションの記号学では信号をその研究対象とする。信号とは、「発信者によって意図的に、その意図を受信者に表示するために生み出された」(p. 13)特殊な徴候である。信号は「ある意識状態と結ばれた一つの知覚可能な事象を知っている個人が、他者にその行動の目的を理解して貰い、自分の意識内に生じたことを他者の意識内に再構成させることを目的として、その事象を顕現させる行為」(ビュイサンス)である(p. 13)。信号は解読されるものであり、「コミュニケーションのコードを保有している受信者なら誰にとっても一つの意味しかもたない」(p. 13)。「信号とは、人工的徴候、つまり一つの指示を与える〔知覚可能な〕事象、そのために意図をもって生み出された事象と定義することができる」(プリエート)(p. 13)。

(3) プリエートによる徴候の定義:「直接〔知覚〕できない他〔の事象〕について何事かを教えてくれる、直接知覚できる事象」(本書のp. 12に掲載)。「徴候とは、解釈されるものであり、その解釈は受信者にとって、彼らの直観、能力等々次第では異なったものになるだろう」(p. 13)。

(4) ファッション等は明らかに徴候である。バルトは、このような現象に対して人工的な徴候である信号の考え方を当てはめているが、このことによってファッションといった現象の最も魅力的で実りある部分を見落としてしまっている可能性がある。「これらの徴候は、まず間違いなく、意味作用を有し、その上、これらの意味作用は表示されない潜在的なものであって、その一般的使用である顕在的もしくは明白な意味作用とも違ったものであるようだ。これらのものに対してコミュニケーションによる説明のモデルを適用することは―求められもしないのにそれらに記号とか記号学的体系という名を与えているから言うのだが―これらのもののもつおそらくははるかに複雑な心理学的及び真の社会学的働きのメカニズムの本質に立ち入らずに見過ごさせてしまう危険が十分にあるのである。」(pp. 13-14

(5) 現在のところ、コミュニケーションの記号学が扱うことができるのはコードが明らかになっている分野に限られる。ファッションや文学などで問題となる表示されない意味作用を分析するための特別な道具は現在のところまだないということを認識しておく必要がある(p. 15)そして、本書ではこのような理由から、コミュニケーションの記号学のみを扱う。

<第2章:言語によらないコミュニケーションの諸体系と二十世紀の生活におけるその位置>

著者は、言語によらないコミュニケーション体系の研究が十分に行われていないことを問題視しています。著者は、この形態のコミュニケーションは私たちの生活の中でますます重要になりつつあり、記号学はこのコミュニケーション形態の研究を進めていく必要があると述べています。ただし、このことに伴って音声言語を用いるコミュニケーション形態の研究(言語学の研究)に大きな方向転換を求めることはないし、記号学を言語学と対置する必要もないとも述べていました。著者は、現在のところ、言語によらないコミュニケーション形態には以下の4つのタイプがあるようだと述べています(ただし、ここでの考察は今後の研究結果次第で十分変更がありうると考えられています)。

(1) 看板、空港や鉄道時刻表、旅行案内の記号など、世界中の言語で特定の内容を表す語と等価関係を持つ普遍的な記号によるコミュニケーション形態(例えば、バスのマークは、世界中の「バス」を表す語と等価関係を持つ。ただし、このコミュニケーションの習得は話し言葉を介して行われることに注意。)。また、この記号は意味単位による第一次分節しかない記号である(音素や記号素といった第二次分節はもたない)。複数や比較級、最上級、未来といったものと酷似した概念が表現されることはあるが、他の記号との間に統語を持たない。体系的(構造主義的な意味合いでの)なコミュニケーション方式と無体系的なコミュニケーション方式の両方にまたがっている。

(2) 数字や道路標識を代表とする非言語的で体系的な方式の記号によるコミュニケーション形態。(1) 同様に第一次分節しか持たないが、他の記号との間に統語を持っている。(1) 同様に、その記号によるコミュニケーションの習得は話し言葉を介して行われる。

(3) 地図記号に代表される体系的なコミュニケーション形態。上記の (1) (2) は、時間の中で読まれる記号であるが、この記号は空間ないしは位置関係の中で読み取られる。

(4) 広告における挿画など、安定した諸記号に分解できない記号による無体系的なコミュニケーション形態。(3) 同様に空間(印刷空間)の中で読み取られる。

<第3章:人間の、言語によるコミュニケーションと動物の、言語によらないコミュニケーション>
著者は、ミツバチとカラスに関する研究を引き合いに出しながら、これら2つのコミュニケーション形態は、構成単位の離散的性格の有無と二重分節の有無という点で異なっていると述べています。人間の言語によるコミュニケーションはこれら2つの特徴を有していますが、動物の言語によらないコミュニケーションはこれらの特性を備えていない(少なくとも当時の研究ではそのような証拠は見出されていない)と述べていました。そして、これらの特性は言語学と記号学の研究対象を分ける特性でもあると考えられています。

<第4章:チャールズ・モリスの記号学>

著者は、モリスの記号学がヨーロッパに知られるまでにずいぶん時間がかかったが、読む必要性はないと述べています。著者はこの章を通して、モリスの研究に対して極めて厳しい批判を行っています。著者が指摘している問題点は以下の通りです。

(1) 無駄に新しい術語を作り上げ、分析の新しさを表していると錯覚している(著者はモリスの研究を「人を驚かすような用語と新造語、言いかえているが故に何か新しい発見でもしているかの如く思いこむ幻想、「用語の作り直し」と「用語の言いかえ」に他ならない」(p. 81)と強く批判しています)

(2) 自然言語が他の全ての言語体系とどのように異なっているのかを示すことができていない

(3) モリスは行動主義の上に記号一般の科学を打ち立てようとしているが(著者はこのことについても疑問視しています)、結局のところこのことが行われていない

(4) 人間のことばによるコミュニケーションと動物のコミュニケーションの関係を樹立しようとしているが、まだ科学的に証明されていない事柄を正しいと決めてかかって議論している

(5) 記号学的分析と論理的分析を区別することができなくなっている

<第5章:言語学と記号学>
著者は言語学がもたらした、言語学と記号学を分ける上で有益な特性について列挙していきます。
(1) コミュニケーションの意図を持った記号であるかどうか(コミュニケーションの意図を持っていないものはしばしば「指標」や「徴候」と呼ばれるが、これらをコミュニケーションの意図を持った「記号」と同一視する研究が多いそうです。同じと見なしていいのかどうかまだ研究で分かっていないため、両者を同一視して研究することは避けた方がよいと著者は述べています。)
(2) 記号が恣意性を持っているかどうか(記号学は恣意的な記号の助けによって機能しているコミュニケーション体系と恣意的でない単位によって機能するコミュニケーション形態を混同しないように努力してきているそうです)
(3) 体系的なコミュニケーションかどうか(無体系的なコミュニケーションとしては、造形美術、広告のポスター、看板、礼儀、身振りなどが挙げられています)
(4) メッセージが時間における線的性質を持つか空間において展開するか(後者として工業図面が挙げられています)
(5) 記号が離散的性格を持っているか
(6) 二重分節という特質を持っているか

<第6章:言語学におけるコードの概念>

言語学において近年(1970年当時)「コード」という概念が頻繁に使われるようになりました。著者はこれには情報理論と自動翻訳の研究が関連していると考えています。基本的に「コード」という概念は、「体系」や「ラング」と同義語として使用されているそうです。確かに両者は、「諸単位を用いて、規則に従い、言表を構成」(p. 104)しますし、「経済性の法則と冗長性の法則に基づいて機能するという共通点」(p. 104)があります。しかしながら、情報理論の「コード」とは異なる点があることに注意することが必要だと著者は指摘します。著者は、「コードにおいては、常にすでに出来上ったメッセージから出発し、それとは異なったシンボルによって表わされる他のメッセージへと至るのであるが、言語においては、メッセージの存在は、最後の到達点ではじめて認められるのであって、メッセージの出発点について、ほとんど何も知られていない」(p. 104)と述べています。また、別の箇所では、Oettingerの研究を引用して、言語においては「一つのメッセージから別のメッセージへの移動ではなく、全体的体験をメッセージへと変形させること」(p. 101)となると説明しています。

著者はさらにPrietoの研究を紹介します。Prietoによると、コードはそれが関係し得る記号の特性によって3つのカテゴリーに分類されると述べています。それらは、「記号が互いに論理的に排除しあうような関係にあるコード(各シニフィアンが一つのシニフィエしか有さない)、また記号が互いに論理的に包摂しあうような関係をもつコード、そして記号が論理的な交叉によってシニフィエをもつコード」(p. 106)であり、言語だけが2番目と3番目の性格を兼ね備えたコードだと述べています。このことは、言語は状況に応じていくつかの言い回しが可能な唯一のコードであるということを示しています。

この章の結論として、著者は「言語がいわゆるコードとしての特徴をいくつかもちながらも、必ずしも厳密な意味でのコードと同じように機能しないという事実の説明がつく」(p. 106)と述べています。

<第7章:演劇によるコミュニケーション>

著者は演劇一般について言語学の用語を用いて語ることに警鐘をならしています。というのは、著者曰く、演劇を言語のように語ることが適切であるということがまだ証明されていないためです。確かに劇場では、私たちがコミュニケーションと名付けるものと類似したものが生起することは間違いないのですが、それは本当の意味でのコミュニケーションとは異なると著者は主張しています。そこで、著者は劇場でどのようなことが起こっているのかを言語学の用語を用いずに検討していきます。その結果、以下のような点を指摘しています。

(1) 演劇に関わる様々な要素間の関係を鑑みるに、確かに言語という道具を用いているが、それは言語のコミュニケーションではなく、別の型のコミュニケーションである(その関係は言語的なものではない)

(2) ハプニングや客席内の演劇、街路上の演劇は、観客を彼らが発信者になり得るような回路へ巻きこもうとするが、観客の介入が俳優に対するコミュニケーションの型による返事になっているとは言い難い

そして、著者は演劇をコミュニケーションとして捉えるのではなく、複雑な刺激作用であると考えることを提案しています。そして、このように考えることによってのみ私たちは演劇の効果を理解することができると述べられていました。

 

<第8章:イェルムスレウの記号学>

著者は、『言語理論への序説』を元にイェルムスレウの考えを以下のようにまとめています。

「記号学に関してのイェルムスレウの基本的要請は、すべての記号体系またはコミュニケーション体系には、同形性(isomorphisme)が存在するということである。だから、彼は、自然言語の形式モデルを基礎に構成された言語理論は、すべての「一般の諸記号体系」にも応用可能であると結論した(140ページ)。その結果は…記号学と言語学とが同義語であるとした。そしてまた彼によると、一言語は、一つの記号論的なものであり、すべての記号論的なものは一つの言語(または言語活動)である。また<記号的>という形容詞と<言語的>という形容詞は、実際的には交換可能である。」(p. 122

このように考えているにもかかわらず、一方でイェルムスレウは「言語体系は、知られる限りの他のコミュニケーションの体系に還元できない、と人が古くから感じていたものに他ならない」(p. 124)とも述べており、しかもこのような自身の理論の矛盾に彼自身何も述べていないと著者は批判しています。そして、イェルムスレウの研究は見かけよりも大雑把(ソシュールよりも大雑把)で貧弱な理論であり、単に古い概念を新しい用語で言い換えているだけにすぎないと著者は指摘しています。

また、イェルムスレウの「含意記号」という概念はバルトに大きな影響を与えたことも取り上げられていました。イェルムスレウは、シニフィアンとシニフィエが結合した総体がさらに新しいコミュニケーション体系の記号表現になることがあることを指摘します。イェルムスレウは特に「文体」を「含意記号」と見なし、文体の種類、文体のレベル、文体のジャンル、声調、特有語、国語、地域後、表情語といったものが新たなシニフィアンとなり、シニフィエとして美的感情と結合すると考えました。

著者は、記号学が成立するための基礎的基準としてそこにコミュニケーションがあるかどうかという点を採用するならば、イェルムスレウの「含意記号」は伝達しようとした意図から発したものではないという点で記号学的研究ではないと指摘します。著者はそれらはあくまでも「文体論」とするべきだと考えています。しかし、こういったイェルムスレウの考えがバルトを間違った方向へ大いに導き、記号学的なものとは言えないような対象を「記号学」と称して分析させるに至ってしまったと述べられていました。

<第9章:紋章>

著者は、われわれはある対象を分析するときに、言語学の概念をその対象に対して応用することが適切だとはまだわかっていないにもかかわらず、応用してしまうということが多くあります。そこで著者は紋章を分析対象例として、「記号学上の探求が可能であると考えられる現象はある特殊ケースであるという蓋然性が多いという考えを常に出発点として、言語学の前提なしにその現象自身を研究する」(p. 131)という試みを実践します。そして、その結果、紋章に関して以下のような考察を示しています。

(1) 「紋章」とひとくくりにされているものであっても、それらがすべて同じ機能を担っているわけではない(別の共時態体系に属すものが「紋章」と呼ばれるものの中に混在している)

(2) 紋章の単位は非連続的であっても線状ではなく空間の中で機能する

(3) 恣意的な要素として働き、意味は持っているが、あくまでも指標として機能し、各紋章がそれぞれ何を意味するのかはその都度確認しなければならない

(4) 紋章に含まれる色、形態、像は何を象徴しているのか前もって知ることはできず、語源や心理的価値(「獅子」のマークが「勇敢さ」を指すなどいわゆるコノテーション)に影響を受けており、結局安定した一義的な方向にのみ読み取れる体系を形作っていない

(5) 紋章内のシンタックス(琺瑯系の色の上に琺瑯系の色を重ねてはならないといった規則のように構成要素間の配列の規則)についても記号学的な価値を持った規則に従った体系を持っているわけではなく、純粋に当時の技術が影響している(当時は琺瑯系の色の上に琺瑯系の色を重ねる技術がなかった、など)

(6) 紋章は純粋に記号学的な規則とそうでない規則が混在している

以上の試みから、著者はまずは紋章のように比較的単純な物を対象として記号学的分析の手段に精通し、その上で文学といった複雑な体系の分析をするのがよいと述べています。当時の文学作品の記号学的分析への警鐘だと理解しました(当時は記号学の研究方法を熟知しないでいきなり複雑な文学作品を記号学的に分析する人が多かったのでしょう)。

<第10章:宇宙空間とのコミュニケーション>

私が個人的に面白いと感じた著者の指摘を列挙します。

(1) サイエンスフィクションに見られる宇宙と人間の対話では、言語学や記号学に言及することま稀であり、コミュニケーションに関わる問題をぞんざいに扱っている。また、「人間のコミュニケーションのコードのように声によるものではなく、また不連続な単位に基いているのでもないような、コミュニケーションのコードをもつ存在を想像している作家はまれである」(pp. 147-148)。

(2) 宇宙空間とのコミュニケーションの科学的な企てにおいて、今日あらゆる仮説を支配している科学技術的原理:(a) 10キロワットほどで発信機の騒音などからはっきり区別できる信号を百光年の距離まで送信できるという理由から、ヘルツ波を利用する、(b) 多くの天体は天然のヘルツ波を発している、(c) 地球人と同じ文明レベルに達している宇宙人はヘルツ波を研究対象としているはずである、(d) つまり、宇宙人も地球人同様にヘルツ波を信号として利用して何らかの意図を伝達しようと試みている可能性がある(pp. 154-155)。現在のところ、ヘルツ波を利用した2つの実験が知られているが、成果は上がっていない(詳細はp. 155参照)

(d) 宇宙空間と対話するためには何が信号であるのかをまず突きとめなければならない(天然の情報と人口の情報を区別しなければならない)。そして、その信号のコードを解読しなければならない。しかし、現在のところこれらのことについてはまだ何も明らかにされていない(pp. 155-156)。電波天文学者は、宇宙空間との対話という問題における記号学的特性をよく理解しており(もちろん記号学という学問を知っているわけではありませんが)、「観測されるすべての電波源が、拡がりをもち、継続性があり、変調されるものだから、彼らは時間のきっちりした、もしできれば間歇的な源をもつような、恒常的な周波数と強度の発信、あるいは少なくとも、その変調が時間、周波数、出力において一定の反復性をもち、偶然的な変調と混同できないような発信を探し求める。」(p. 156

(e) コミュニケーションを研究するにあたっての根本的な問題は、「書かれた語を音と結びつけることでもなければ、二次的に語や音を別の語や音と結びつけることでもない。また、一般的に、あるコードの諸特徴を第二のコードの諸特徴と結びつけること…でもない。まず第一にそしてとりわけ、発信者と受信者がその状況の少なくともいくつかの要素を共有しており、しかもそのことが両者に認められているような状況の認知、あるいは創出が問題なのである。」(p. 157

(f) サイエンスフィクションで言語学者が登場しなかったり、言語学に言及されることがないのは、言語学が人間が自然に身に付けけた言語のみを研究対象とする学問とみなされていることに原因があるようである。しかし、言語学と記号学は宇宙空間とのコミュニケーションという問題にとって中心的な位置を占めるものであると認識しなければならなない。「コミュニケーションの意図およびそれを示す基準、相互に理解可能な発話を生みだしうるようなコミュニケーションの状況の構成といったことについての、本質的な理論的諸問題を提示し、かつその解決に力を貸すことができるのは言語学と記号学なのである。」(p. 159

<第11章:小石と言葉>
著者はブレジョンの『打製石器の名称』という書物における道具の記述、分類、類型学は記号学を進める上で非常に有益な方法を取っていることを指摘しています。ブレジョンは、機能主義を基盤におきながら道具そのものに着目し、その分類を試みています。記号学は分析対象の特性を考慮せずに一方的に言語学の考えを適用する傾向があるため、ブレジョンのこの研究は、言語学からただ1点しか借用をしていないにもかかわらず(だからこそ?)、有益であると著者は考えています。

<第12章:記号学における分節の観念についての若干の考察>

著者は二重分節を人間の自然言語独特のものと考えています。しかし、私たちの回りには一見二重分節を持っていそうな記号体系も存在します。そこで著者はそのような記号体系の例としてスクリプト字体と数学記号を取り上げ、それらは自然言語と同じような二重分節を持っているかどうかを検討しています。著者はこれらの記号体系は確かに自然言語と類似した特性を持っている側面もありますが、少なくとも二重分節に関しては自然言語と比べ得るようなものはもっていないと結論づけています(この記事では省略しますが、スクリプト字体の体系の特性はpp. 176-177、数学記号の特性はpp. 181-183にまとめられています。関心がおありの方は直接本書をご参照ください。)。

<第13章:化学と記号>
著者はダゴニェの『化学の図表と言語』という書物を取り上げます。ただし、ダゴニェは言語学の言葉で化学記号について語ろうとしており、その試みは不適当であったと指摘されています。著者は化学記号と言語はかなり異なった体系であると指摘しています。

<第14章:交通法規の記号学的研究>

交通法規は一見シンプルな記号体系に見えますが、実際はかなり複雑な体系であるということが示されています。また、それらは言語とも異なっています。著者は、交通法規の記号に関して、以下の点を指摘しています。

(1) 色彩と図形に関して言えば、記号内容との関係が恣意的な記号もあれば象徴的な記号も含まれる。また多義的でもある。

(2) 非連続的な記号もあれば連続的な記号もある。

(3) 線条的なものも一部含まれてはいるが、たいていは空間の中に配置された非線条的記号である。

(4) 統語に関して言えば、すべての要素が自由に結びつくというのではなく、特定の述辞(「危険」「遵守」「指示」)が特定の要素とのみ結びつく。

(5) 現在は使用されていない変異体が将来新たに用いられる可能性がある(例えば、三角形の図形の頂点の位置の違いによって別の記号内容を指すことは可能であるが、現在は頂点が上に来るか下に来るかということしか使用されていない(右や左に頂点が来た場合は使用されていない))。

(6) 同義語を持っていない。

(7) 冗長性が高い。ただし、これは侵される可能性がある危険の重大さを伝えるために交通標識として必要なものである。言語で言うところの、文体論の冗長性(強調、反復、際立たせ、誇張)と同じタイプの事柄と考えることができる。

(8) 標識に言語を用いる場合がある(ただし、これは道路標識が万国共通化されていくにしたがって姿を消すだろうと著者は考えています)。

(9) 手信号などは一見信号機の記号と同義語であると思いがちであるが、前者の方が後者よりも優先権がある。

<第15章:現代のマイム>
著者は、コミュニケーションの記号学は現在のところマイムを分析する準備が整っていないとしながらも、あえてその素描を試みています。著者は、マイムの生みの親となったパントマイムと対比させながら分析を行っています。なお、著者によると、マイムどころか、身振りの記号学自体が未発達であるそうです(pp. 212-214で、グレマスとメッツの研究がレビューされ、その不十分な点が指摘されています)。さて、著者はマイムの記号学的な特徴として以下の点を挙げていました(ただし、これらの特徴で完全にパントマイムとマイムを区分することはできず、以下に挙げる特徴がパントマイムになかったわけではない(ただし、それらは周辺的であった)ということも著者は認めています)。
(1) 「パントマイムは完全に社会的で完全に透明な身振りを特権に与え、これを追求した。ある身振りの価値の中で、同一の社会文化的共同体の成員の全体に共通するもの、みんなに共通の「身振りの紋切型」― 一口でいえば、身振りの明示、言語学者がこの術語に与えている意味での明示なのである。逆に現代のマイムにおいては、みんなに共通の身振りのうちの、その身振りが「明白に、あるいは漠然と、喚起し、暗示し、呼びおこし、予想させる」ことのできる、そして厳密に個人的な、おそらく表現できないほどに個人的なすべてのものの優先的な追求が感じられるように思われる  一口でいえば、その身振りの共示、言語学者がこの術語に与えている意味での共示である。」(pp. 221-222)「今日のマイムで考えられているような上演物を創造するためには、マイムは最も個人的でありながら、しかもやはりそれとして認知できるような身振り、マイムが選んで行なうことになるそういった身振りのもつ、最も逃れやすいあらゆる共示を必要としているのである。」(p. 222
(2) マイムでは仮面が使用され、中立的なもの、表出的なもの、逆仮面、の3種類が確認できる。しかし、どのタイプの仮面をつけるにしても、「仮面の着用からまず出てくる結果としてつねにマイム演技者が自身の顔によって表出を行なうことが妨げられるということ、マイム演技者は身振りのみを用いてすべてをいわなければならなくなること、マイム演技者は自分の技術に対してごまかしがきかなくなるということである。何故なら、仮面の下で顔は体による表現の不十分さを補うことができず、体はそれだけですべてをいわなければならないからである。」(p. 223
(3) パントマイムと比べて、マイムは観客に個人的なメッセージをとらえさせようとし、彼らにより内的な働きかけをしようとする。
(4) 「社会生活における身振りの使用と現在のマイムにおける身振りの使用の間には、一方では冷蔵庫を描写するための言語の使用、他方では詩を書くための言語の詩用の間にあるのと同じ差異がある。いずれの場合においても出発点はまさに一つのコード―言語によるか、身振りによるかの―である。すなわち一つの社会的な道具で、その道具がそれをなすべく作られてはいない事柄を芸術家がこれに無理にやらせるのである。芸術家は、まだ社会化されていない経験、個人的な体験のほとんど言葉に表せないメッセージを、コードをねじまげながら、しかもコードを、破壊せずに伝達するのである。その体験の伝達可能なかぎりにおいて非常に重要な部分を護るために。」(p. 225

<第16章:ジャック・ラカンの文体の若干の特徴>

著者はラカンは癖のある文体の持ち主であり、この章ではそのいくつかの特徴として以下の点を上げています。著者や、(1) (2) は比較的外面的な特徴であり、それ以外は内面的な特徴と述べています。

(1) 語、前置詞、副詞的代名詞などで特異な用法を多用する

(2) アカデミックな文体と雑言的な文体が共存している

(3) 議論が論理的=数学的な彩に満ちている

(4) 弁証法という語を用いるなど、議論がヘーゲル的またはマルクス主義的である

(5) 議論が言語学的な彩に満ちている

なお、この章で著者が一番注目しているのは (5) です。著者によると、ラカンはソシュールに言及しているもののその考えを正しく理解しておらず、誤解に基づいたまま議論を行っていると批判しています(「シニフィアン」「共時態」「通時態」「ランガージュ」といった語の誤用が例示されています)。ラカンは無意識はランガージュのような構造を持つと仮定しましたが、著者によればそのような仮定が適切かどうか確かめられていないし、言語学の考えを拡大適用しているにすぎないと批判しています。ただし、著者が問題視しているのはあくまでも文体であり、ラカンの精神分析研究自体ではないことに注意が必要です。

<第17章:ロラン・バルトの記号学>
著者は、『神話作用』と「記号学の原理」を元に、バルトの記号学の問題点として以下の点を指摘しています。
(1) 言語コミュニケーションとその他のコミュニケーションを混同している
(2) コミュニケーションの体系という問題とコミュニケーションを手段として用いるという問題を混同している
(3) 人間のコミュニケーションをその研究対象(プロレスなど)の体系を同一視していいのかどうか考慮せずに研究を進めている
(4) 記号、象徴、指標、徴候を混同して使用したり、それぞれ定義をしたとしてもその定義を守らずに使用している
(5) 記号学なるものの概念について根本的に混乱している(そして、ソシュールやイェルムスレウなどの研究を十分に理解しないまま言語学概念を用いている)

著者は、バルトは「発信者が伝達しようなどとは絶対に臨んでいない内容」を暴き出そうとしており(言語コミュニケーションのように人に伝達しようと望んでいる内容ではなく)、それ自体は研究としては全く正当なものであると指摘します。しかし、バルトの研究は「記号学」と呼ぶよりも、「社会心理学、社会精神病理学と名のる方がずっとよかろうし、社会学的精神分析とさえいってよかろうと思われる」(p. 247)と述べられています。著者は、バルトは自身の研究を「記号学と名づけ、自分がみつけ出した諸指標を記号と名づけ、自分がスケッチした諸指標の総体を言語と名づけて、バルトはそれらの事象を分析するのに言語学の概念、原理、方法を借用することが許されるとした。彼は自分は近道をとっていると思いこんでいたのだが、じつはある種の修辞学の砂漠に道を迷っていたのである。」(p. 247)、バルトは「りっぱな社会学的精神分析をやりそこなったのであり、非常に才気にみちた先駆者として社会学的精神分析に人の注意をひきつけるだけにおわっている」(p. 249)と評していました。

<第18章:レヴィ=ストロースと言語学>
著者は、民族学者、人類学者としてのレヴィ=ストロースを非常に高く評価する一方で、言語学の利用方法については大きな問題点を抱えていると述べます。著者は『構造人類学』をベースにしながら、以下のような言語学への誤解を指摘していました。レヴィ=ストロースはこのように言語学を曲解した上で人類学の研究を行ったとされます。
(1) 「体系の概念」「一般的法則の探求」といった事柄が音韻論に特有のものであると考えていたこと
(2) かつてトゥルベツコイが音韻論が「意識」に対応し、音声学が「無意識」に対応すると述べ、それをその後修正したのだが、レヴィ=ストロースはそのままこの対応を利用し続けた
(3) 構造の概念と機能の概念を正しく結びつけていない
(4) 「示差的」という概念と「関与的」という概念を同義語として扱ってしまっている
(5) 多数のラングに共通する普遍的な音韻論の確立というヤコブソンの考えを取り入れ(著者はこのようなヤコブソンの考えには批判的です)、人類学で実践しようとしてしまっている
(6) 音素に意味要素を付与するというナンセンスな考えを展開している
(7) 通時態と共時態は単に方法論上の規則にすぎないにもかかわらず、彼はそれを本質的な二者分割とか階層関係というふうに捉えていた
(8) 共時態/通時態の対立と同系列要素的/統合要素的の対立を混同している
(9 ) 共時態=ラング、通時態=パロールという誤った等式化を行っている
(10) 親族関係をコミュニケーションと見なして研究しているが、そもそも両者を同一的に扱ってよいのかということは考えていない
(11) 様々な(本来であれば意味が異なる)概念を文章中で同義的に扱い、議論を進めている
(12) 親族関係の体系、社会組織の体系、言語の体系の間に相関関係が存在するというマール的な仮説を提示している(レヴィ=ストロースはあまりにも人を魅了するので、マールの学説を嘲笑していた人でさえも、同じ考えを提示しているレヴィ=ストロースには何の批判も行わなかった(そもそもマールと同じ考えが提示されているということに気づけなかった))

ただし、レヴィ=ストロース自身、はたして言語学の考えを人類学に適用することは適切なのかどうかということを様々な箇所で自問していたそうです。そして、言語学を人類学にとって一時的に役立つ単なる足場として考えているという言葉を残しています。しかし、「その適用の妥当性についてはこれから証明すべきものにすぎないことが多いのに、読者はそのことを考えにいれず、それを人類学に適用することの妥当性がすでに証明された形式的な体系」(p. 268)として取り上げてしまったと指摘されていました。しかし、やはり多くの箇所で「人類学的な諸現象を言語学的な本来の意味でのコミュニケーションの諸現象と比喩的に同じように扱」(p. 270)っており、レヴィ=ストロースの言語学の利用方法には問題があったと著者は考えています。著者は、「神話を言語とみなそうという彼の意志を別にすれば、彼が神話についてのべているあらゆることは無駄ではない」(p. 271)(つまり、有益なものであった)と評していました。結局、「構造言語学の成功は彼にとって、構造的方法を民族学に利用しようという企図に土台を与えるための、誘い、刺激、根拠の役割、さらには権威づけの役割をはたしただけだ」(p. 269)と指摘されていました。

<付章>
この章では、以下の研究に関する書評が掲載されています。
(1) アンドレ・ルロワ=グーラン(1964).『先史時代の諸宗教』
(2) アンドレ・ルロワ=グーラン(1964-5).『身振りとことば』
(3) ルネ・パスロン(1962).『絵画作品と外観の諸機能』
(4) ジャック・ベルタン(1967).『図の記号学』
(5) ルイ・プリエート(1966).『メッセージと記号』
(6) エリック・ビュイサンス(1943).『言語と陳述』

なお、著者はプリエートとビュイサンスの研究を高く評価しており、本書を通して頻繁に引用されています。

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2014年9月 1日 (月)

A.Dundes,J.W.Leach,&B.Özkök(1972/1986).「The Strategy of Turkish Boys' Verbal Dueling Rhymes」を読む(J.J.Gumperz&D.Hymes(編),『Directions in Sociolinguistics: The Ethnography of Communication』,Basil Blackwell)

これは、トルコの少年が繰り広げる伝統的な口喧嘩(verbal duel)の構造、実態、社会における役割、について分析したものです。the ethnography of speaking folklore研究の一環としてこの言語現象について取り上げられています。

Dundes, A., Leach, J. W., & , Özkök B. (1986). The strategy of Turkish boys' verbal dueling rhymes. In J. J. Gumperz & D. Hymes (Eds.), Directions in sociolinguistics: The ethnography of communication (pp. 130-160). Oxford: Basil Blackwell. (Original book was published from Holt, Rinehart, and Winston in 1972)

概要

この論文では以下の事柄が述べられていました。

(1) トルコの少年による伝統的な口喧嘩の概要

(2) 口喧嘩の基本構造

(3) 実際の口喧嘩に見られる特徴

(4) この伝統的口喧嘩の文化的意味に関する考察

●トルコの少年による伝統的な口喧嘩の概要

著者は以下のように述べます。

"Among Turkish boys from about the ages of eight to around fourteen, there is a traditional form of ritual insult exchange which depends upon an individual's skill in remembering and selecting appropriate retorts to provocative insults. While it is possible that some of the initial insults or curses might be known by girls and women, it is quite unlikely that the retorts are similarly known. Moreover, in the absence of evidence to the contrary, it seems doubtful that the elaborate mechanics and tactics of engaging in these linked retort contests are familiar to many Turkish females." (p. 135)

なお、西洋で教育を受けたトルコ人の少年であればこの伝統を知らないもい可能性も否定できないそうですが、この伝統は現在(この論文が執筆された当時)でもトイレの落書きやトルコ民話のナスレッディン・ホジャの物語の中に観察できるそうで、トルコの文化の中に深く根付いているとのことです(pp. 153-155)。

●口喧嘩の基本構造

基本的には以下の2つの特徴があるとされます(p. 135)。

(1) to force one's opponent into a female, passive role.

(2) the retort must end rhyme with the initial insult.

(1) は、性的な表現を用いて実行されます。不快に思われる方もおられると思いますが、この論文の議論と大きく関わる内容ですので、著者の説明を引用しておきます(不快に思われる方は、どうぞ飛ばしてください)。以下の内容は、もちろんすべて言葉のやり取り上でなされることであることにご注意ください。

"This may be done by defining the opponent or his mother or sister as a wanton sexual receptacle. If the male opponent is thus defined, it is usually by means of casting him as a submissive anus, an anus which must accept the brunt of the verbal duelists' attacking phallus. A more indirect technique is to disparage or threaten the opponent's mother or sister, which is a serious attack upon his male honor. Thus the victim either has to submit to phallic aggression himself or else watch helplessly as phallic aggression is carried out upon his female extensions: his mother or sister. Of course, the victim normally does not simply remain passive. Rather he tries in turn to place his attacker in a passive, female role. Much of the skill in the dueling process consists of parrying phallic thrusts such that the would-be attacking penis is frustrated and the would-be attacker is accused of receiving a penis instead. According to this code, a young boy defends and assets his virile standing in his peer group by seeing to it that his phallus threatens the anus of any rival who may challenge him. It is important to play the active role in a homosexual relationship; it is shameful and demeaning to be forced to take the passive role." (p. 135, emphasis in original)

基本的には、最初に相手にけしかけた話者の罵りに対して、聞き手は自身の持つ返答へのレパートリーの中から話者の罵りと脚韻を踏むものを選択して言い返す、ということがなされます。言い返せなかったら、聞き手の負け、言い返せたら、この罵り合いはどちらかが行き詰るまで続けられることになります。この伝統的な口喧嘩の要点として、著者は以下のようにまとめています。

"In summary then, an important part of the strategy would seem to entail selecting a retort from the repertoire, the selection to be based in part upon one or more "weak" elements of one's opponent's text as well as upon the exigencies of the rhyme requirement. At the same time, the retort should be sufficiently clever so as not to provide that same opponent with potential ammunition for a good thrust in return. In addition, the pace is fast and the retorts are supposed to be quickly and flawlessly delivered." (p. 136)

●実際の口喧嘩に見られる特徴

著者は具体例を引用しながら、さらに以下のような特徴がみられることを指摘します。

(1) "the retort tradition is so well entrenched that sometimes routine innocuous statements are converted into excuses for an exchange" (p. 139)

(2) "in a few instances the second speaker simply buries the first speaker with a list of rhymes. In these cases, the first speaker is not given an opportunity to reply at all." (p. 140) (つまり、脚韻だけを合わせ、罵りになっていない文を返答すること)

(3) "In this example of an extended verbal duel, there are not only cryptic suggestive metaphorical descriptions which the uninitiated will probably not easily comprehend but there are allusions to other specific verbal dueling routiones as well. In other words, one of the duel participants may test his opponent's knowledge of the entire tradition by referring to one of more of the shorter discrete retort sequences". (p. 149)

(4) 相手が単純にどの程度この伝統的な口喧嘩の知識を持っているか、その技能はどの程度のものか、を試すという側面もある(p. 152)

なお、著者らはトルコ民話のナスレッディン・ホジャの物語について言及しながら、なぜ上記 (2) のような形が認められているのかということについて以下の見解を示しています。

"there may be a symbolic parallel between the rhyme requirement and the entire penis-in-anus image. One has to place his penis in his opponent's anus, but he has to make this threat in rhyme form. Theh rhyme form, like the opponent's anus, are the limiting boundaries into which the phallic thrust must go. Just as the penis must be bounded by the anus, so the verbal insult must be couched in rhyme form." (p. 155)

●この伝統的口喧嘩の文化的意味に関する考察

著者らは、トルコには男性優位と年功序列という伝統があるとしています。そして、少年たちが一度男性社会に入ると同年代の他の少年たちに対して自身の優位性を示す必要があるとされます。このことに関して、著者らは以下のように述べています。

"Thus to gain status among one's male peer group, one would need to prove that one's phallus was in perfect working order and in fact was sufficiently powerful to place one's opponents in the passive, feminine position. In addition, if some old men as practicing pederasts demand that young boys assume the female position, then as these young boys become older and seek to attain a man's status, they must insist, in turn, upon the active, male role. In other words, the shift from the boy's female passive role to the man's male active role is an intrinsic part of the process of becoming an adult male." (p. 158, emphasis in original)

"The problem is that to belong to the world of men in Turkish culture, a boy needs to prove that he is a man, not a woman, and one of the ways of proving this is to demonstrate through act or symbolic words that one has a powerful, aggressive phallus. Yet the difficulty is that such existence in the world of men necessarily involves the danger of being put in the female position by a more powerful male. Just as women in a male-dominated society can do little more than serve as passive victims of male aggression, so boys and weak men may be forced by the same society into similar passive roles. Young boys, under the threat of having been castrated, a threat caused by a culturally induced misreading of circumcision, must do their best to avoid being like women in serving as helpless victims of male phallic aggression." (pp. 158-159)

著者らは、この伝統的口喧嘩は、トルコの少年たちの一種の通過儀礼として機能しているのではないかと結論づけていました。

なお、口喧嘩に関するこのような伝統は様々な文化圏で観察されるそうです。著者は関連文献(この論文が出版された時点で、正式に出版物として流通していたもののみを挙げておきます)として以下のものを挙げています(私はまだ読んでいませんが。。。)。

Abrahams, R. D. (1962). Playing the dozens, Journal of American Folklore, 75, 209-220.(アメリカの黒人の口喧嘩の研究)

Kochman, T. (Ed.). (1972). Rappin' and stylin' out: Communication in urban black America. Urbana, IL: University of Illinois Press. (同じくアメリカの黒人の口喧嘩の研究)

Mayer, P. (1951). The joking of "pals" in Gusii age-sets. African Studies, 10, 27-41. (アフリカの口喧嘩への言及あり)

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