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2014年7月26日 (土)

D.Belcher&A.Hirvela(2000).「Literature and L2 Composition: Revisiting the Debate」を読む(『Journal of Second Language Writing』)

ライティングへの文学作品の利用について(著者らは “lit/comp” issueと呼んでいます)なので、私の研究の関心とは少しずれるのですが、非常によく引用される論文なので、読んでみました。

Belcher, D., & Hirvela, A. (2000). Literature and L2 composition: Revisiting the debate. Journal of Second Language Writing, 9 (1), 21-39.

概要

この論文で扱われていたのは以下の点です。

A 文学の定義

B 文学をL1ライティング指導に使用するという試みが成立した背景

C L2教育に文学を使用するという試みの歴史的変遷

D 文学をL2ライティング指導に使用するという試みが成立した背景

E 文学をL2ライティング指導に使用するという試みの現状

●文学の定義

著者らは、Carter (1995)Crowley (1998)Harshaw (1984)Morgan (1993) の定義を引用しながら、その定義や指導内容に関して見解が一致していないことが論争のかなり大きな原因となっていると指摘しています。

●文学をL1ライティング指導に使用するという試みが成立した背景

著者らは、L2でのライティング指導研究はL1でのライティング指導研究にかなり大きな影響を受けていると述べており、まずL1において “lit/comp” issueが現われた背景を整理しています。文学をライティングに使用するという試みは以下のような流れの中で成立したそうです。
(1) 19世紀後半(まだEnglish departmentsが小さかった頃)のイギリスとアメリカの大学で、英文学の教員にライティングを指導させ、学習者にもその授業を履修させた。教員は英文学を教えたいと考えており、いやいや指導を行っていた。

(2) English departmentsが大きくなるにつれて、教員は英文学だけを教えるようになり、ライティングの授業をするスタッフとしてEnglish departmentsの卒業生が雇用された。

(3) 近年、実学が重視されるようになりEnglish departmentsの人気が衰退すると、英文学の教員が再びライティングを指導することが求められるようになった。

上記のような流れの中で、文学をライティングに使用するという試みは以下の引用のように、やや複雑で矛盾に満ちた形で成立したそうです。

“On the one hand, the fact that so much composition teaching has been performed either by professors or graduate students of literature has created opportunities for literary texts to be used in the composition classroom, if for no other reason than such texts are the materials these teachers know best. These openings for literature have resulted in important insights into how literature can enrich writing instruction. On the other hand, the enforced teaching of composition by literature specialists and/or those training to become professors of literature has often led to resentment toward composition; furthermore, many of these specialists have questioned the application of literary texts in writing instruction, seeing them instead as suited only for the study of literature for literature’s sake. This often uncomfortable, yet perhaps just as often fruitful pairing of literature and composition, has led to a long-standing debate over the role of literature in writing pedagogy.” (p. 23)

文学作品をライティングに使用する試みに反対する研究者としてLindemann (1993, 1995)が挙げられています。具体的な批判点は以下の通りです。

(1) 産出ではなく理解重視になってしまう

(2) 学習者が理解したテクストは結局は作家のテクストであり、学習者自身のテクストではない

(3) カリキュラムの中で学習者が最もよく遭遇するテクストは文学作品ではない

(4) 教員は作品に関する知識、読み方、形式や文体などを指導しており、これらの事柄に対する学習者の感受性を高めることに熱心になってしまっている(ライティングの指導になっていない)

また、賛成する研究者としてはTate (1993) が挙げられていました。Tateに関して、“Tate viewed himself as preparing students not for the narrow confines of the academy but for life” (p. 24)”For Tate, literature offers a means of truly educating students – as citizens and human beings” (p. 24) とまとめられています。

このようなlit/comp controversyに関して、多くの反応があったそうで、当初は多くの人がTateに賛同したそうです。しかしながら、文学をライティングに使用するという試みは結局は英文科の教員のエリート主義や自己保存(self-preservation)にすぎないという意見もあります。また、ライティングの教員は英文学の教員に比べて冷遇されているという現状もあり、ライティングの教員はこの論争に反対の立場を取る者が多かったようです。しかし、興味深いことに、この論争に最も強く賛成の立場を取っている研究者も、ライティングの教員です。彼らはうまく書くためにはうまく読めなければならないと考えており、学力が低い学習者に対して文学教材を使用することを推奨しています。その根拠としては、“guided engagement with literary texts could be especially empowering in that the texts could lead students to “dynamic involvement in generating and questioning knowledge,” and hence, to “the real stuff of belonging to an academic community” (Hull and Rose, 1990,  cited in 25) と述べられています。

1990年には、多文化的なテクストを扱うという名目で、大学1年生のライティングの授業を文学教材が占領する形になりました。そして、様々な人種の作家による作品を収めた教科書も多く出版されたそうです。しかしながら、このような教科書は確かに様々な背景の作家を扱ってはいるものの、学習者が本来吟味すべきEuro-American rhetorical conventionを無批判に支持する形で作成されているという問題があるという批判的な意見もあるとのことです。

L2教育に文学を使用するという試みの歴史的変遷

著者らは、以下のような変遷をたどってきたと述べています。

(1) 1930年代と1940年代はTESOLは言語学に基づいており、言語学は口頭言語に関心があった。仮に書き言葉に関心があったとしても、文学は自然な言語とかけ離れたものと考えられていたため、関心の対象外であった。教師も、文学の言語は統語的にも語彙的にも難しく、学習者の言語学習を助けることはないと考えていた。

(2) さらにオーディオリンガル・メソッドにより文学への批判的な立場はますます強まり、「文学無視の時代」(Rutter, 1985)となった。

(3) 1980年代には、学習者に本物のコミュニケーションを引き起こすような教材の模索がなされ、その中で文学教材に注目が集まった。

著者らはさらに、皮肉にもかつては文学教材を排斥する理由の一つともなった有標的な言語表現が文学教材への注目を高めたと述べています。Carter & Burton (1982) は、“Literary texts can set interesting language problems to solve” (p. 7, cited in p.26) と述べています。著者らは、“By solving those problems, students understand better the deeper layers of syntactic and semantic properties at work in the target language” (p. 26) と述べています。言語学者の中にも、文学教材の有効性を指示する研究者がおり、例としてnon-native English literatureを重視したKachruSridhar、言語自体の理解を深めるとしたWiddowson、言語の熟達度を高めるとしたKrashen(ただし、彼が重視したのはlight literary works)が挙げられていました。

●文学をL2ライティング指導に使用するという試みが成立した背景

L2ライティングは比較的新しい領域であり1980年代になってやっと本格的に登場しました。したがって、現状ではまだL1でのlit/compの議論にかなり依存しているそうです。その一方で、L2ライティングはESP/EAPと強い関係性を築き上げることとなり、文学教材は不要と考える立場が強くなったそうです。著者らは文学使用反対派としてHorowitz (1990) John (1999) を挙げます。この立場は、文学の言語は学習者がdiscourse communityの中で使用することになる言語とは異なっている点を強調します。対する文学使用賛成派の研究に関しては、著者らは様々な研究を挙げています。この立場は、文学を使用することで物事の見方が養われること、学習者はそもそもどのdiscourse communityに将来入っていきたいのかはっきりした考えを持っていないこと(したがって、彼らはより一般的な読み書き能力を身につける必要があり、文学教材がその役割を効果的に果たすことができること)、文学を使用することでdiscourse communityで求められるライティング能力を養うことができること(discourse communityで必要になる読み書き能力は特定の形式に固定化されているわけではなく、information-basedなもの以外にもナラティブ形式のもの(質的研究など)、reflectionresponseといったものが求められ、文学がそれらの学習に役立つこと)、実際に文学作品を読むことで学習者がdiscourse communityへ入っていくことを助けた事例があること、をその根拠としています。

●文学をL2ライティング指導に使用するという試みの現状

L2でのlit/compの議論は、文学教材の使用に賛成か反対かということが議論の中心となっています。具体的な応用方法についての研究もなされているのですが、これらの研究がlit/compの議論に影響を与えることはそれほど多くないそうです。著者らは、具体的な応用方法についての研究として、読者反応理論に基づいた研究、学習者自身の文化圏の文学作品を利用することを提唱する研究(ただし、学習者の背景と関連のない文化圏の文学作品でも有効に機能することが報告されています)、文体論的アプローチによって文法構造やサマリーライティング及びエッセーライティングの指導を提唱する研究、を紹介しています。

しかし、L2ライティング指導における文学教材の位置は依然として弱いものであるようです。著者らは以下の事柄がこのような状況を引き起こしていると考えています。

(1) discourse communityという観点からの議論が解決していないこと

(2) L2ライティングと文学の関係性が正式な場で議論されることが少ないこと(実践の場で議論されることは頻繁にあっても学会などで議論されることはまだ少ない)

(3) TESOLプログラムの中で文学教材の使用法について扱われないこと

(4) TESOLプログラムで使用されている教師教育用の教材の中には文学教材の使用に関する議論を扱っているものもあるが、それらは少数派であり、しかも教材内にその議論が含まれていたとしてもプログラムの中で取り上げられるわけではないこと

著者らは、上記 (3) に関して、このことは、教師候補の学習者がlit/compの議論に加わる機会を奪っているし、文学を将来使いたいと思ってもその使い方が分からないという状況を引き起こしている、と指摘しています。にもかかわらず、以下の2点は非常に興味深いとも述べています(p. 33)。

(1) literature has regained some popularity in language teaching in general, and in the field of composition it is, as already shown, continuing to receive some attention

(2) literature has a rich history in language teaching, as demonstrated in particular in Louise Kelly’s (1969) authoritative 25 Centuries of Language Teaching. In fact, it is interesting to note that the most dominant language teaching methodology in the long history of language teaching, the grammar-translation approach, has generally involved the translation of literary texts (Crystal, 1987).

しかし、lit-compの議論で最も問題なのは、結局は「文学経験」という概念自体のとらえどころのなさだと述べています。結果として、人によってこの概念の意味が異なっています。さらに、ある人にとっては文学教材使用のメリットと思えることが、別の人にとってはデメリットであるということも珍しくないと述べられていました。

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2014年7月22日 (火)

K.L.Pike(1978).「A Poem on Disconnecting Form and Meaning」を読む(M.A.Jazayery,E.C.Polumé,&W.Winter(編),『Linguistics and Literary Studies in Honor of Archibald A. Hill: I: General and Theoretical Linguistics』,Mouton)

Pike, K. L. (1978). A poem on disconnecting form and meaning. In M. A. Jazayery, E. C. Polumé, & W. Winter (Eds.), Linguistics and literary studies in honor of Archibald A. Hill: I: General and theoretical linguistics (pp. 233-234). The Hague, Mouton.

感想

タグミーミックスの基本姿勢が説明されています。この論文では主に以下の2点が主張されていました。

(1) Linguistic communicative reality, I would rather affirm, is discoverable only by keeping a form-meaning composite in view at every stage (p. 233)

(2) the attempt to recognize a unit, and to understand its relation to structure, is ultimately dependent upon one's ability to see its relation to the larger structural context of communication - including its relation to the structure of specific discourses (p. 234)

現在においては目新しい主張ではありませんが、これらが『マルコによる福音書』(特に精神と肉体の関係など)に関連付けながら述べられている点がとても面白いと思い、メモ書きとしてこのブログに記録しておきたいと思います。

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P.A.Abety(1991).「The Notional Syllabus in Literature」を読む(C.Brumfit(編),『Assessment in Literature Teaching』,Palgrave Macmillan)

あくまでも文学教育のモデルなので、そのまま外国語教育に利用することは難しいかもしれませんが、外国語教育の中で文学教材のどのような側面を指導するのかを考える上では非常に有益な情報になると思います。

Abety, P. A. (1991). The notional syllabus in literature. In C. Brumfit (Ed.), Assessment in literature teaching (pp. 93-105). Basingstoke, England: Palgrave Macmillan.

感想

著者は、文学テストの評定尺度には文学に関する要素の記述が非常に乏しい(例えば "to thikn critically" や "some awareness of the social, cultural and historical context of the works studied" といった記述しかない)ことを問題視しており、カメルーンの中学校や高校での文学教育で扱うべき項目の細目表を作成し、それぞれどの学年で指導すべきか一覧表にしてあります。合計で210の概念が提示されており、それぞれをどの学年で提示するかは、様々な教員と議論する中で作成されました。著者は、このリストに従って、教材を選択し、指導を行い、更に試験を実施することを提案しています。文学の概念シラバスは、理系科目と比べて作成が困難ではありますが、ここで提示されているモデルは非常に包括的であり、脱帽するばかりです。

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K.Afzali&M.H.Tahririan(2007).「Strategic Needs of ESL Students in Developing Their Literary Competence」を読む(『The Asian ESP Journal』)

Afzali, K., & Tahririan, M. H. (2007). Strategic needs of ESL students in developing their literary competence. The Asian ESP Journal, 3 (1), 57-67.

感想

イランのESL学習者は文学作品を十分に読みこなすことができていないという状況があるそうで、著者らは学習者が読解方略上何らかの欠陥を持っているからではないかと考えています。そこで、著者らはMiall & Kuikenの文学反応を調査するための質問紙を自由記述の形に改変して、55名の大学生英語学習者に実施し、具体的にどのような欠陥があるのかを調査しています。なお、この調査では、Miall & Kuikenの開発した質問紙に含まれる要因のうち、insight、empathy、imagery vividness、concern with the authorのみが取り上げられています。

調査結果の詳細は省略しますが、総じて "Cleary, the majority of the answers illuminated the fact that although the subjects may be able to express the significance of each of the elements theoretically, they acknowledge their inadequacy in applying their tacit knowledge in encountering literary texts." (p. 63) という結果でした。そして、このような状況が生じている原因として、文学を使った英語の授業において学習者が受動的であり自分の反応や解釈を議論・披露する機会がないからではないかと推察されていました。

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2014年7月21日 (月)

小林夏子(1990).「読みの心理学的研究における方法の検討」を読む(『人間文化研究年報』)

読みの心理学的研究の中で文学的なテクストの読みを扱っていくにはどのような研究方法が必要なのかということについての論考です。なお、この記事では省略しますが、なぜ心理学が現在のような実証的な研究方法を採用するようになったのか、実証的な研究方法にのみ固執することにはどのような問題点があるのか、といったことも議論されています。

小林夏子(1990).「読みの心理学的研究における方法の検討」.『人間文化研究年報』,14,221-229.

概要

著者によると、読みの心理学的研究は以下のように進んできました。

「読みの心理学的研究は、読むということを新知識を得るという側面から捉えており、文章の意味をどう理解しどう記憶するかという観点からなされてきた。そして、読んで理解するということを、文章から得た情報を読み手の知識構造の中へ統合化してゆく過程であると考え、この過程にさまざまな条件の与える影響を検討することによって、情報処理の過程を明らかにしてきたのである。もとより、読むということの機能は新知識を得るということばかりではない。それにもかかわらずこの側面のみに焦点が当てられたのは、研究の目的が知識構造や認知過程の解明であったからであり、その手段として「文章の読み」を素材としてはいるが、テキストそのものに関心の中心があったわけではないからなのである。」(p. 223)

そして、「この方法にのっとった場合、文学作品を対象に研究を行っても、テキストをまず無理に「あらすじ」に還元してしまうことになる。私の興味は、あらすじに還元してしまうことのできない部分が読者に与える影響を知ることにあり、実際に研究を行ったところ、方法を再検討する必要があると思われた。」(p. 221)と述べています。

一般に心理学は実証的な研究方法を採りますが、著者は文学作品の読みを対象にするには、この研究方法に加えて、客観的な記述のできることばの開発が必要であると述べています。そして、共感性を客観性の指標として用いて、言葉による豊かな記述の実践を行っていくことが必要ではないかと提案されていました。

また、注意事項として以下の指摘は非常に重要だと思いました。

「深いレベルの読みを研究していく場合、読み手に伝わるものを「命題的意味+α」としてとらえて従来の研究結果に単純に何かを上乗せしてしまうのではなく、全体的に検討し直す姿勢も必要であると思われる」(p. 228)

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D.M.Topping(1968).「Linguistics or Literature: An Approach to Language」を読む(『TESOL Quarterly』)

かつてはよく引用されていた、文学を使った英語教育への反対論文です。この度再読しました。論文全体として、アメリカ構造主義言語学の影響が色濃く出ています(ただし、生成文法への言及も部分的になされています)。

Topping, D. M. (1968). Linguistics or literature: An approach to language. TESOL Quarterly, 2 (2), 95-100.

概要

この論文では、以下の内容が述べられています。

(A) 言語教育は文学研究ではなく言語学の範疇の問題であるという主張

(B) 言語学に基づいた英語教育の課題

(C) 文学教材は言語知識発達によいとする主張の問題点

(D) 文学教材は文化知識発達によいとする主張の問題点

(E) 教師が学習者の文学経験の理解をサポートしなければならないとする主張の問題点

(F) 初級レベル以降の外国語教育で文学教材を使用することについての著者の評価(これまでの主張に基づいた著者の見解(結論))

●言語教育は文学研究ではなく言語学の範疇の問題であるという主張

著者は以下のように自身の考えを述べています。

"language teaching does belong in the purview of linguistics rather than in that of literary scholars, and in fact, ... literature has no legitimate place in a second-language program whose purpose is to teach language skills to a cross section of students who are preparing for studies or work in a variety of disciplines." (p. 95)

また、新教授法(オーディオリンガル・メソッドを指します)は以下のような言語学の考えに基づいて構成されていると述べます(p. 96)。

(1) language is noise

(2) the noises are articulated by human beings

(3) these noises recur in highly restricted and systematic patterns within a given speech community

(4) every human being learns one of these systems (sometimes two) at a very early age

(5) the system becomes habitual as the child matures

(6) learning a new language involves learning a new set of habits

(7) old habits will interfere with the new habits one is trying to acquire when learning a new language

(8) language is a viable phenommenon, subject to natural evolutionary changes just as every other living thing in nature

そして、上記のような考えは以下のように言語教育と関連していると述べます(p. 96)。

(1) Since language is noise, it should be taught as such: hence, the aural-oral approach

(2) Since the noises occur in highly restricted patterns, they are presented as such: pattern practice

(3) Since language becomes a kind of habit, it is presented in such a way as to instil habits: mimicry and memorization

(4) Since old habits interfere with new habits which the learner is trying to acquire, the predictable areas of interference are chosen by scientific method for special concentration: contrastive analysis

(5) Since language is a viable phenomenon, the language of the present speech community which gave it birth - today's language - is that which is taught

●言語学に基づいた英語教育の課題

著者は以下のような課題があると述べます。

"But the level of proficiency that is possible to achieve through these methods is far below that which we know to be adequate for any significant communication" (p. 96)

つまり、言語学ベースの教授法では極めて初級レベルの英語教育しか扱うことができないという問題があるとのことです。加えて、言語学者自身も、そのレベルの英語教育からは手を引いていると指摘されていました。そこで、より発展的な内容の英語教育を扱う方法として以下のようなものが提案されてきました。

(1) イマージョン教育

(2) 初級レベルのリーダーを使用

(3) 文学教材の使用

著者は、上記のいずれも成功はしていないと述べています。(1) は運が良ければ言語が習得できるかもしれないが、習得できない可能性も高く、その危険が高すぎると指摘しています。(2) に関しては、学習者の興味関心とテクストの内容が合致しない(内容が幼稚すぎる)という問題があります。著者は、(3) は最も真剣に検討する必要があるものであり、この論文で深く議論したいとしています。

●文学教材は言語知識発達によいとする主張の問題点

著者は典型的な主張としてPovey (1967) の以下の記述を挙げます。

"Literature will increase all language skills because literature will extend linguistic knowledge by giving evidence of extensive and subtle vocabulary usage, and complex and exact syntax. It will often represented in a general way the style that can properly stand as a model for the students." (cited in p. 97)

著者はこの主張は基本的に間違った前提に立った議論であると強く批判しています。具体的には以下のような問題点があるとしています。

(1) 確かにリーディングに関しては効果はあるだろうが、その他の技能(リスニング、スピーキング、ライティング)への効果は全くないと考えられる

(2) 文学教材の文体が学習者のモデルになるとは考えられない(転覆することなく波に乗ろうとする初級のサーファーが、世界チャンピオンのサーファーのパフォーマンスを見ても、よいモデルとはならない)

(3) 言語教育の目的は標準的な表現を操れるように指導することであるのに対して、文学作品には非標準的な表現が多い(作家は、たとえそれが逸脱的なものであったとしても、言語を自由に使用する権限が認められている)

著者は、上記 (3) に関して、この問題は文学教材を使用したいと考える研究者にも認識されており、制限語数内で作品を書き換えたり、語注やイディオムの書き換えを行う形で文学教材を使用しようとする試みがなされていると述べます。著者は、こういった試みを、"a compromise between those who would teach the literature as it was written and those who recognize that the language of what we define as good literature is too complex and unusual for all but the best of our second-language students, who are already beyond need for further careful training in language" (p. 98) と解釈しています。また、文法的パターンの配列に基づいて秩序だった形で文学教材を採択していく方法を提案している研究(Scott, 1964) もあるそうですが(このこと自体は称賛に値する試みであると著者は述べています)、この研究によって出来上がった配列は、様々な理由から結局否定されることになるだろうと悲観的な展望を持っています。

●文学教材は文化知識発達によいとする主張の問題点

言語知識発達に貢献しなかったとしても、文学教材は文化知識発達に貢献するので有益であると主張されるかもしれないと著者は述べます。文化知識発達への貢献を主張する典型的な研究として再びPovey (1967) が引用されています。

"American literature will open up the culture of this country to the foreign student in a manner analoguous to the extension of the native speaker's own awareness of his culture" (cited in p. 98)

著者はこの主張には以下のような問題点があると述べています。

"What our literature reflects - even that of ten years ago - is tradition, a past stage in the evolution of American culture. The student who needs to learn about contemporary American culture does not need to dig up the fossils of past eras. That sort of study is for the specialist. And we can hardly expect the student of a second language to do the work of a specialist, particularly when his primary concern is to acquire a tool that will help him to specialize in something of his own choosing." (p. 99)

●教師が学習者の文学経験の理解をサポートしなければならないとする主張の問題点

文学教材に関しては更にこのような主張がなされますが、この主張にも様々な問題点があると著者は指摘します。

(1) 文学経験が何を指すのかはっきりしない

(2) 母語話者が卒業のために致し方なく必修科目としてやっている事柄を、自身の言語と伝統ではない外国語教育の中で学習者に求めることは非現実的である

(3) 教師がthe literature guildであるからこのようなことを求めてしまうに過ぎない

●初級レベル以降の外国語教育で文学教材を使用することについての著者の評価(これまでの主張に基づいた著者の見解(結論))

著者はここまでの議論から以下のように述べます。

"It is clear that the mere inclusion of literature in any second language program is not going to fill the gap alluded to earlier in this paper, a gap that is recognized by all. Students must learn to read selections beyond the sentence and paragraph level, and they should be learning something about the culture in which they are now, or anticipate, trying to function. If the first of these is our primary goal, then we need to concentrate on language. If the second, then we should explore the available materials produced by scholars of our contemporary society - namely, psychologisgs, sociologists, and anthropologists. If it is the tradition we wish to impart, in addition to language, then let us utilize the available clearly written history texts." (p. 99)

"It is my contention that our primary obligation to the student is to teach language skills above and beyond those reached through the familiar aural-oral methods. These skills must include the ability to read and write long, complex constructions which the graduate student, or even professional, is likely to encounter. In addition, we must give our studnets cultural orientation to the society in which they are attempting to function, either vicariously, as in an overseas learning situation, or actually, as in most of our university environments. The medium of literature, in the traditional sense of the term, cannot fulfill either of these demands." (pp. 99-100)

著者は、文化知識発達という問題に関して、海外に留学中の学習者にとっては、目にするもの、耳にするものはすべて文化知識に貢献すると述べます。そして、そういった学習者の文化知識発達をリーディングで補うとすれば、新聞や雑誌を用いるべきだと述べています。

著者は教師の責任として以下のように述べます。

"Since familiarity with all of the complex surface constructions of a language is not a reasonable goal, it is our responsibility as language teachers to teach something of the processes involved in encoding and decoding the surface recombinations of the relatively small number of deeper level syntactic structures." (p. 100)

そして残念ながらこのことが行えるような教材はきわめて限られており、しかも洗練されていないと述べます。従って、理論言語学者(ここでは生成文法学者を指しています)に指導実践を通して最新の研究を教師に分かるように示してもらう必要があると述べます。そして、このことが実現されるまでは我々は以下のような指導を行うしかないと述べています。釈然としない結論ではありますが。

"Until this happens, we either continue to pattern practice ourselves ad nauseum, or we plunge hopelessly into the endless morass of literature, unable to see our way out of the entanglements of embedments, deletions, and transformations of adult language, literary or not." (p. 100)

しかし、この論文の論調から、著者は前者の方法しかないと考えていることは明らかです。

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2014年7月17日 (木)

W.Edmondson(2003).「In Praise of Misunderstanding. Or: On Obeying the House-Rules」を読む(『Zeitschrift für Interkulturellen Fremdsprachenunterricht』)

残念ながらWiddowson (2000) への反論ではありませんが、EdmondsonはWiddowson (2000) に言及し、この論文を韻文形式で執筆しています。著者はこの論文の中でHouse (1999) が取り上げたmisunderstandingという問題を取り上げています(したがいまして、文学を使った英語教育とは内容的には直接の関係性はありません)。この論文は、J. Houseの60歳を祝う記念特別号に寄稿されたもので、EdmondsonもHouseも共にmisunderstandingという現象に興味を持っているため、このトピックが取り上げられています。

Edmondson, W. (2003). In praise of misunderstanding. Or: On obeying the house-rules. Zeitschrift für Interkulturellen Fremdsprachenunterricht, 8 (2-3), 1-5.

なお、Widdowson (2000) のレビューは以下のリンク先にあります。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2014/07/hwiddowson2000e.html

概要

著者はこの論文の中でunderstandingとmisunderstandingは明確な区別はないと述べています。そして、understandingとは個人の中で達成されるものではなく、他者と相互作用をする中で達成されるものであると述べます。そもそも話者自身が、自分の言っていることを理解できていない場合もありますし、情報の受け手の方が話し手の述べた事柄をより深く理解していることがあります(そして、後者の場合は、時として話者は理解度のギャップからか情報の受け手に「それは誤解である」と述べてしまうことも多々あるとされます)。

著者はunderstandingには視点という問題(話し相手は誰かという問題)と、理解の対象となるレベルが影響をすると述べます。後者に関しては3つのレベルが挙げられており、それらは (1) 語(語の意味)、(2) メッセージ、(3) 人、とされています。つまり、これら3つのレベルのうちどれが当座の理解の対象とされているかということもunderstandingについて考える上では重要であるとされています。

以上の議論から、著者はunderstandingに関して以下のような結論を示しています。

"I ventured the conclusion: it depends on who you ask
And whether in seeking to understand what you hear or see
You go for the words, the message, or the person, the he or the she." (p. 5)

つまり、視点や理解の対象となるレベルが原因でunderstandingが生じたり、misunderstandingが生じたりすることになります。したがって、misunderstandingもコミュニケーションの1部分であり、賛美されるべきものであると述べられていました。

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2014年7月16日 (水)

H.Widdowson(2000).「Essay on Literature and Language Teaching: An Epistle to Dr Edmondson」を読む(C.Riemer(編),『Kognitive Aspekte des Lehrens und Lernens von Fremdsprachen: Festschrift für Willis J. Edmondson zum 60. Geburtstag』,Gunter Narr Verlag)

大学院生時代以来の再読になります。WiddowsonによるEdmondson (1997) への反論論文です。論文なのですが、弱強5歩格で2行ずつ脚韻を踏むという形式で執筆されています。こういったことをやってのけるあたりが、いかにもWiddowsonらしいと思います。なお、Edmondson (1997) のレビューはこのブログでも行っています。以下をご参照ください。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/wedmondson1997t.html

Widdowson, H. (2000). Essay on literature and language teaching: An epistle to Dr Edmondson. In C. Riemer (Ed.), Kognitive Aspekte des Lehrens und Lernens von Fremdsprachen: Festschrift für Willis J. Edmondson zum 60. Geburtstag (pp. 387-394). Tübingen, Germany: Gunter Narr Verlag. (本書には英語タイトルもあり、Cognitive Aspects of Foreign Language Learning and Teaching となっています)

なお、著者は以下のような立場でこの論文を執筆しています。

"Against the view that only the obtuse
Put poetry to pedagogic use,
I hold it shows how language signifies
In ways that would be hidden otherwise.
By the same token, I would take the view,
Verse can be put to other uses too,
To make us see things in a different way,
Give point or poignancy to what we say." (p. 388)

概要

この論文(韻文?)で述べられている内容は以下の通りです。

(A) 韻文形式で執筆する理由

(B) Edmondsonの主張のまとめとWiddowsonによる反論

(C) Widdowsonの言語観

(D) 英語教育における文学の重要性

●韻文形式で執筆する理由

著者は、以下の2点を挙げています。

(1) 半ば真剣に、そして半ば遊びとして、Edmondsonの心の中に混沌として存在する物事について主張を行い、立ち止まって考える機会を提供するため

(2) EdmondsonとWiddowsonが意見が食い違っている「英語教育における文学教材の使用」ということについて述べるため(英語教育における文学教材について文学的な形式を用いて議論をする)

なお、Edmondsonへ反論する機会は他にもあったそうなのですが、Widdowson自身がある出版物の原稿締切までに論文を提出することができなかったため、本書の1章として執筆することにしたそうです。また、本書はEdmondsonの60歳を祝う記念論文集であり、Edmondsonのガードが低くなっているところへこのような反論の論文を書くことは不意打ちのように思われるかもしれないが、きっとEdomondsonはこの反論を受け入れてくれると確信していると著者は述べています。また、この論文の最後で、Edomondsonにこの論文への返事(または反論)を書くように促しています。

●Edmondsonの主張のまとめとWiddowsonによる反論

著者はEdmondsonの主張のポイントとして以下の点を挙げています。

(1) 文学を使った英語教育研究はその効果を支持する実証的な証拠を提出する必要がある

(2) 言語学習において文学教材は特別な役割を担っておらず(the non-essentialist)、この種の教材を使用しようとする者は、文学教材が英語学習において特別で必須な役割を果たすということを示さなければならない

(3) "That what's essential must be cut and dried, / And all that counts as true is what's been tried."

(4) 外国語教育では自然な言語を教えるべきである

上記 (1) に関しては、著者は実証的証拠というのは特定の要素の重要性を示すような証拠とはなりえないし、そのような研究方法は外国語教育研究が進むべき道ではないと反論しています。著者は、実践の妥当性は場所によって変化するのであって、われわれができることは "(to) argue for our different points of view" (p. 389) と述べています。

上記 (2) に関しては、なぜ文学を使った英語教育研究がEdmondsonの提示する条件下で議論をする必要があるのか理解ができないとしています。Widdowsonは、以下のように述べています。

"Why do I have to prove that it[=literature]'s essential,
Rather than demonstrate it has potential,
To stimulate the minds of those we teach,
Get at the parts that other texts can't reach
At least not in the same effective way?" (pp. 389-390)

さらに、以下のようにも述べています。

"I would not argue that it[=literature]'s indispensable.
Such argument is not, I think, defensible" (p. 390)

また、文学教材以外の手段で学習が促進される可能性を否定するようなこともしないと同時に述べています。

上記 (3) については、このような基準で物事を考えることは疑問に思うし、文学教材の役割を示すには他に妥当な基準があるとしています。Widdowsonは、(もちろんEdmondsonはただ楽しみのために正しい考えを反論しているわけではないだろうと信じつつ、)誰もが陥ってしまうちょっとした誤りをおかしていると述べ、"Your intellect is having an off day" (p. 390) と述べています。著者は、『リア王』を引き合いに出しながら、Edmondsonの立場は人間性というものを矮小化することに他ならないと述べています。

上記 (4) に関しては、Widdowsonは同意しています。ただし、言語を "bits of superficial use, / Or a convenient device, whose operation / Provides for necessary communication" (p. 391) に還元して考えてはならないと述べています。

●Widdowsonの言語観

上記 (4) に関するコメントから発展して、Widdowsonの言語観が展開されています。以下にポイントを列挙します。

(1) 言語とは単なる技能や用法の集積ではない。また、言語行動によって輪郭を描くこともできない。

(2) 言語とは、明確に表示されていることを超えて暗示される、意味の可能性である。

(3) 言うことができたが言わなかったことの影を形作る。言語を知っているとは、使用した言葉の中に滲み込んでいる言えなかった意味、使用されなかった意味を意識することであり、結果として言語は漠然とした形でしか輪郭を示すことができない。

(4) どんなに努力したとしても、私たちは意味し尽くすことはできない。

(5) 私たちは言語を安定しており、意味も固定していると考えたくなるが、言語とは不正確であり、意味的に不確かで、不安定なものであると認識しなければならない。

なお、このような認識を持たないと、"what people say / Presearves its sense intact without a doubt, / And all we have to do is dig it out" (p. 392) という幻想に取りつかれると警戒を呼び掛けています。

●英語教育における文学の重要性

著者は、文学は、言語のこのような本来の曖昧な特性を利用していると述べています。もちろん、言語を利用しているという特性上、文学以外のすべてのテクストに意味の曖昧性は付きまといます。しかしながら、文学教材の方が他のテクストよりもより効果的に言語のこのような特質に学習者の眼を向け、言語感覚を養うことができるとしています。なぜなら、文学テクストは特定のコンテクストと結び付かないためです(他のテクストであれば、特定のコンテクストと結びつくことによって、言われていない事柄を再現することができます)。そして、学習者はテクストに集中し、その言語パターンに着目し、そのパターンがどのような意味作用や意味構成を支えているのか考えることになります。また、学習者はあらゆるコンテクストにテクストを結び付け、言われていない意味について自由に考えをめぐらせ、それをそのテクストに関する自身の意味とすると述べています。

さらに、この過程の中で、学習者は言語形式がどのように構成され、複雑な意味のコンテクストがどのように修正され、さらに余計なものがいかにして具現化されないままとされているかを知ることになります。そして、使用されず特定のコンテクストも持たない意味の集積が言語コードの中にたくさんあること、創造的かつ偶発的に組み合わせることができる要素がたくさんあること、を学習者に気づかせると述べています。

以上の議論をもとに、以下のようにこの論文を締めくくっています。

"It's this potential potency unused,
Sensed as a something deeply interfused,
That constitutes the language that we know,
(As I have argued earlier). If that's so,
Then it would follow that it also ought
To be what leaners learn, I would have thought.
And to the extent that literary texts
Depend upon this sense for their effects,
Then this would surely justify their place
In language teaching too. I rest my case." (p. 394)

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2014年7月14日 (月)

B.Tomlinson(1998).「And Now for Something Not Completely Different: An Approach to Language Through Literature」を読む(『Reading in a Foreign Language』)

この論文では、主に詩をその教材として想定しながら、以下のような主張がなされています。

"What I am arguing is that in many classrooms (and public examinations) learners are being asked to respond to literature in ways which are completely different from those intended by the writer and in ways completely different from those which are the norm when they read literature in the L1. In the L2 classroom we ask learners to aim for complete comprehension, to read the text studially, to use the text to learn something about language or literature and to achieve an efferent response. In the L1 we aim at sufficient comprehension, we read the text experientially and we achieve an aesthetic response (or we give up reading the text). The core meaning and the stimulus is provided by the writer who then relies on ther readers to achieve personal responses from interaction between their prior experience and the data in the text. We fill in the gaps left by the writer, we create our own divergent and aesthetic responses." (p. 183)

Tomlinson, B. (1998). And now for something not completely different: An approach to language through literature. Reading in a Foreign Language, 11 (2), 177-189.

概要

この論文では、上記のような基本的なスタンスに基づいて、以下の点が議論されています。

(A) 著者自身が詩の読解で行う事柄

(B) L2学習者が文学作品に美的に反応できるようにならなければならない理由

(C) L2学習者を文学作品に美的に反応させるための方策の提案

●著者自身が詩の読解で行う事柄

著者は、McGough (1991) の "Missed"、McGough (1993) の "Stinging in the Rain"、Milligan (1987) の "Have a Nice Day!" という作品に最初に触れた時に、以下の事柄を行ったと自身の文学読解を省察しています(pp. 180-182)。

(1) verbalization

(2) visualization

(3) connecting the words to other sections of the text

(4) making inferences

(5) making predictions

(6) tolerating ambiguity

(7) responding emotionally

(8) activating many areas of both the left and right hemispheres of my brain

(9) processing the poems dynamically

(10) responding aesthetically

●L2学習者が文学作品に美的に反応できるようにならなければならない理由

著者は以下の理由を挙げています(pp. 183-184)。

(1) To encourage experiential reading of literature which can help to create many of the conditions found to facilitate language acquisition

(2) To discourage studial reading of literature

(3) To encourage extensive reading

なお、上記 (1) に関しては、具体的には以下の点が挙げられています(p. 183)。

(a) a rich and comprehensible exposure to language in use

(b) input which is meaningful to the individual learner

(c) a focus on meaning rather than on form

(d) relaxed and motivated experience of the language in use

(e) a willing investment of energy and attention

(f) a full engagement of the mind and especially of the affective areas of the mind (a factor which research in neuroscience is demonstrating to be crucial to effective and durable leaning)

●L2学習者を文学作品に美的に反応させるための方策の提案

具体的には下記のような方策が提案されていました。

(1) 学習者が敷居レベルに到達するまで文学読解をお預けにする

(2) 授業の最初に文学テクストの音読を行い、学習者が望めば課外で読むテクストを与える

(3) 学習者自身に教室文庫を作らせ、多読を促す

(4) 文学作品読解を通して生起した個人的な意味(intake response)とそれに基づいた言語産出(development response)を大切にする

(5) 詩のリスニングに基づいてクリエイティブ・ライティングを行う活動(Process Approach)

上記 (1) に関しては、学習者に文学読解をさせる前段階として、オーラル・インタープリテーション(視覚教具も使用)やTPRなどを通して文学経験を与えておくことが必要と述べています。

上記 (2) に関しては、テクストを与えるときに設問やタスクを与えるべきではないとしています。ただし、学習者の側からディスカッションをしたいという申し出があれば、積極的に授業の中で取り入れるべきだと述べられていました。

上記 (3) に関しては、上記 (2) 同様に多読時に設問やタスクを与えるべきではないと述べられています。ただし、最初のページだけを読ませてどの本を読むか決めさせる、同じ本を読んだ学習者同士で一緒に座らせる(ディスカッションへと発展することが期待される)、といった活動は有効とされています。

上記 (5) に関しては、Roald DahlによるRevolting Rhymesの "Little Red Riding Hood and the Wolf" がその活動手順例として提示されていました。

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2014年7月 9日 (水)

C.Kramsch(1996).「Stylistic Choice and Cultural Awareness」を読む(L.Bredella&W.Delanoy(編),『Challenges of Literary Texts in the Foreign Language Classroom』,Gunter Narr Verlag)

様々な背景を持つ母語話者と外国語学習者に、ドイツ語の文学作品の要約をドイツ語で書かせ、その要約の書き方に見られる特徴や違いを利用して外国語学習者に異文化理解をさせるということを最終目標として執筆された論文です。さらに、著者はこのようなアプローチによって、学習者が当然のこととして無意識のうちに従っている自身の文化的な考え方を明るみに出し、意識させることも可能だと考えています。ですが、この論文では、実際に学習者に要約を比較させるところまでは至っておらず、著者自身が比較を行い、外国語教育の方法としてこのアプローチは有益なのではないかということが提案される段階で終わっています。

Kramsch, C. (1996). Stylistic choice and cultural awareness. In L. Bredella & W. Delanoy (Eds.), Challenges of literary texts in the foreign language classroom (pp. 162-184). Tübingen, Germany: Gunter Narr Verlag.

概要

著者によると、近年、外国語学習者自身が書いたテクストを利用して "the concept of reader and author position" (p. 162) を意識させ、その中で "the cultural aspects of language learner positions as they read and write about texts in a foreign language" (p. 162) に着目する研究が増えてきているそうです。これらの研究の狙いは、以下のようにまとめられています。

"These studies explore what happens when a foreign language learner attempts to express in someone else's language a world that is not his own, when the user of one language tries to write in terms of another." (p. 162, emphasis in original)

そして、この論文では、"Can students' linguistic choices offer a window on the students' cultural translations from one discourse wourld to another?" (p. 162) ということを調べるために調査が行われています。

調査では、Yüksel Pazarkayaによる "Deutsche Kastanien" が用いられました。この作品は、ドイツで生まれたトルコ人の少年Enderとそのドイツ人の遊び仲間Stefanの物語であり、外国人への人種差別をテーマとして扱っています。調査参加者は、アメリカ人大学生ドイツ語学習者62名と、ドイツ語母語話者62名です。さらに、ドイツでは東西及び学校の種類によって教育の形態が異なるため、その内訳は、西側のギムナジウムから24名、西側の実業学校から24名、東側のギムナジウムから14名の学生となっています。また、フランス人大学生ドイツ語学習者21名もこの調査に参加しています。したがって、この調査では大まかに言えば3集団、細かく言えば5集団の調査参加者がいることになります。すべての調査参加者は、この文学作品をドイツ語で4~5文に要約するように指示されました。

今回の主な調査結果は以下の通りです。

(1) アメリカ人、ドイツ人、フランス人は、ともに要約を課されていたにもかかわらず、「要約」の方法が英語、ドイツ語、フランス語で異なっているため、提出された要約も随分と形態が異なっていた。

(2) アメリカでは、要約は "to remain factual and not to add anything" (p. 164) と指導されているにもかかわらず、アメリカ人ドイツ語学習者の要約にはいくつかの文学的文体が使用されていた。

(3) アメリカ人ドイツ語学習者の要約には、re-evaluation of events(intradiegetic evaluationに立つものと、extradiegetic evaluationに立つものが見られた)、re-structuring the information(point or viewとオリジナルのテクストに占める個々の情報のtext spaceの改変が観察された)、parallelism(特定のパタンの繰り返しが観察された)、が見られた。

(4) 10人のアメリカ人ドイツ語学習者に、1週間後に要約と作品の理解を振り返ってもらうためにインタビュー調査をしたところ、彼らは自身が述べたこと及び述べなかったことについてはっきりと理解していた。さらに、インタビューで調査者と話をする中で、自身がなぜ特定の言語的特徴を要約で使用したのか、説明をすることができるようになった(その理由を明示的に意識することができるようになった)。

(5) 5集団で要約の書き出しを比較したところ、集団間で違いが見られた。ほとんどのアメリカ人は、"Ender as a child"、"the contrast between Ender and his parents"、"the fact that Ender was a Turk in Germany"、"Ender's identity crisis"、"Ender and Stefan"といったthe individual human storyを扱っていた。西側のギムナジウムのドイツ語母語話者は、"the general situatin and the larger issues" といった社会的・政治的側面に注目して執筆していた。それ以外のドイツ語母語話者の大半はアメリカ人ドイツ語学習者と同じ点に着目して要約を執筆していた。フランス人ドイツ語学習者は全員が the individual human storyを扱っていたが、アメリカ人ほどEnderの観点に立つことはせずに、"Ender and Stefan" といった両者の衝突に着目して執筆していた(さらに、Stefanの問題行動を中心に執筆されていた)。

(6) 西ドイツの母語話者は差別など政治的な観点から要約を執筆していた。西ドイツの母語話者は差別は教育システムが引き起こしているということを強調していた。フランス人ドイツ語学習者は、同じ学校内での生徒間の溝を強調していた。アメリカ人ドイツ語学習者は、移民が感じる心理的トラウマやアイデンティティー・クライシス、民族性という問題と関連付けて要約を行っていた。つまり、個々の集団はそれぞれの文化圏が抱える社会的な文脈に影響を受けた上で異なる要約を産出した。

文化とそのスタイルの間の関係を一般化することは危険だということも認識しつつ、以上の結果から著者は以下のようにこの論文をまとめていました。

"This study shows the potential benefits of having foreign language learners become aware of the aesthetic and cultural significance of their stylistic choices, by comparing theirs with others, including a variety of native and non-native writers. It can enable learners to gain a broader understanding of the discourse choices available to them, but also of the world views that these choices reflect. Ultimately they can transfer these insights to their readings of foreign texts. Having consciously experienced themselves as authors gives them a base to assess the social and cultural assumptions behind the texts they read and the assumptions that they themselves bring to the reading of these texts." (p. 173)

文学作品を使うからこそ、要約といったテクストの中にも様々な文体的特徴が現れ、それによって異文化間比較ができるということがこの論文の主な主張と考えられます。外国語教育における文化教育に関する示唆に富む論文であると思います。

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2014年7月 7日 (月)

藤澤良行・北川千穂(2013).「「英語落語」を授業に取り入れる」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

著者らは、落語のスクリプトを「人間が描かれている一つのまとまりのある「テクスト」として、広い意味で「文学作品」」(p. 191)と捉えて、その実践を報告しています。

藤澤良行・北川千穂(2013).「「英語落語」を授業に取り入れる」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 191-200).英宝社.

感想

細かい指導手順は省略しますが、この実践の大きな特徴としては、以下のような点があるように思います。

(1) 英語落語の導入として小咄を利用する

(2) 最終的には高座に上がってパフォーマンスを行う

(3) 視線など非言語的側面への習熟も重視する

英語落語の英語教育における意義としては以下の点が挙げられています。

(1) 英語落語の練習過程で何度も発音練習が必要になり、しかもストーリーを踏まえた上での発音練習なので、機械的にならない。

(2) 演じることによって、発話が自分にとってリアリティを持つものとなり、実際に似たような状況に出くわした場合にも自身をもって特定の表現が使用できる

(3) 一人で完結できる(練習相手が必要ない)

(4) コミュニケーションについてメタ認知できる

上記の (2) や、「言葉の習得は究極のところ暗記である」(p. 197) という主張は、第二言語習得論等の観点から見ると少し断言的過ぎるように私には感じましたが、この実践を通して学習者が得るものは非常に大きいということは疑う余地がないと思いました。やや指導に専門知識が必要なようですが(この実践にも英語落語の経験の長いプロの落語家2名が加わっています)、非常に面白い試みであると思います。ただし、著者ら自身は、ポイントさえおさえておけば普通の英語教員でも十分に効果的な実践を行うことができると述べています(p. 200)。

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安田優(2013).「短編を活用した英語発信力向上の試み―プロジェクト授業の一環として」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

S.Cisnerosによる "My Name" という短編を使用した実践が報告されています。一般英語授業の中で行われていますが、3~4年生を対象としているところから、やや発展的な英語科目の中での実践のようです(ですが、この章で提案されている指導は他のコンテクストでも実施可能とのことです)。

安田優(2013).「短編を活用した英語発信力向上の試み―プロジェクト授業の一環として」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 181-190).英宝社.

感想

著者は、「日本の英語教育が「英語を話せない」人材を輩出してきたことは、文学教材の落ち度ではなく、授業運営や活用法の問題に過ぎません」(p. 181)と指摘し、文学教材が英語発信力向上のために有益と考えられる理由を列挙しています。

(1) 話すだけの価値あるコンテンツを提供する

(2) 人間教育的視点をもたらす

(3) 文学教材は、文化、社会、歴史といった事柄に基づいているため、それを読むことで学習者は日本に居ながらして異文化体験ができる

(4) 知的関心が刺激され、文学教材を読むことで得られた独自の考えを発信したい気持ちが高まる

この記事では詳しい指導手順は省略しますが、大きな特徴としては以下の2点が挙げられると思います。

(1) 内容理解をさせるにあたって、視点や語り手といった概念を導入する点

(2) この作品はアイデンティティー、家父長制、男性優位主義、ジェンダー、人種、民族など現代的トピックを含んでおり、内容理解を行ったあとにこれらの観点から作品について議論させ、さらにこれらのトピックについてリサーチをさせ、翌週プレゼンテーションをさせる点

著者によると、当初は学生はテクストの表層以上の意味を読み取ることに慣れていなかったそうですが、この指導を通して徐々に慣れていき、その活動を通して満足感を得、ひいては英語学習の動機づけが高まったととのことです。

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2014年7月 4日 (金)

W.van Peer(1986).『Stylistics and Psychology: Investigations of Foregrounding』を読む(Croom Helm)

文体論と心理学の考えを駆使して、文学における前景化という現象に実証的に迫った非常に有名な研究です。大学院生時代に一度読んだのですが、この度必要があり再読しました。理論からどのように実証的調査へと議論を移していくのかということを学ぶ上でも非常に参考になります。また、調査資料やデータも余すところなく付録として収められていますので、この領域での調査を考えている人にはとても参考になるでしょう。

van Peer, W. (1986). Stylistics and psychology: Investigations of foregrounding. London: Croom Helm.

<第1章:The theory of foregrounding: The state of the art

この章では、前景化に関する議論がまとめられています。まず、ロシア・フォルマリズムとプラーグ学派でそれぞれdeviationparallelismという概念が提案されたことを確認し、それがイギリス文体論で統合され、かつthe cohesion of foregroundingという考え方が加えられたことが紹介されます。さらに、近年の言語学の中でChomskyによるwell-formednessの議論、Levinによる外的逸脱(determinate deviationstatistical deviationの両方を含む)と内的逸脱の議論及び、語用論の進展が前景化の研究に影響を与えていることも指摘しています。さらに、前景化という概念に基づいて文学作品を分析した研究を紹介し、この論文における前景化の意味について記述されています。著者は、“Foregrounding then, is to be understood as a pragmatic concept, referring to the dynamic interaction between author, (literary) text and reader. On the one hand, the material presence of certain foregrounding devices will guide the reader in his interpretation and evaluation of the text; on the other hand the reader will look for such devices in order to satisfy his aesthetic needs in reading a literary text.” (p. 20) と前景化を捉えています。以下、この章の記述で個人的に面白いと思った点を挙げていきます。

(1) ロシア・フォルマリズムの異化作用の議論には、テクストに存在する文学的技巧そのものとそれが読者に及ぼす効果の両方が含まれている。このことから、“This can be understood in the light of their aim to develop a functional theory of literature, where text and reader both have their place” (p. 3) と言える。

(2) プラーグ学派は、平行性(parallelism)に着目しながら、“poetic language is not defined in terms of its properties, but in terms of its function, which lies in its aesthetic effect” (p. 6, emphasis in original) と考えた。また、ムカルジョフスキーは、日常言語に見られるような前景化はコミュニケーション・イベントの主題に注意を向けさせるために使用されるが、詩における前景化はそのspeech eventそれ自体に着目させるために用いられる(“in all these cases foregrounding devices are employed to attract attention to the subject-matter of the communicative situation, while in poetry they are geared towards themselves, i.e. in order to draw attention to the speech event itself.” (p. 8)。さらに、ムカルジョフスキーは詩における前景化をstructured aesthetic、日常言語における前景化をunstructured aestheticと呼んで区別している。

(3) Jakobsonは、“in reading poems people tend to be geared towards the parallelism, and to find aesthetic reward in them, while they might not adopt such a set when reading prose” (p. 13) という考えを持っている。

(4) Miller (1960) は、詩人はそのテクストを詩であると宣言しており、語の音や意味に注意を払うように誘い、読者がそのゲームに参加したいと思うのであればその誘いに乗ればよい、と述べている。

(5) Leech (1960) は、deveationparallelismparadigmatic foregroundingsyntagmatic foregroundingという形で統合的に捉え直した(p. 14)。さらに、Leech (1970) は、the cohesion of foregroundingという概念を、Short (1973) a nexus of foregroundingという概念を提案し、前景化された表現が存在するということ自体では読者の文学的経験を保証できないというJakobsonが陥った問題の解決を図った。また、Halliday (1971) は、単発の文学的技巧の存在をprominenceと呼び、前景化と区別した。

(6) 前景化という概念はfiguregroundという心理学の用語を用いて捉え直すことも可能である。

(7) 前景化は言語の様々なレベルで生起し得る。Internal deviationdeterminate deviationstatistical deviationparallelismがそれぞれ音韻レベル、文法レベル、意味レベルで生起すると考えると、単純に考えて12通りの前景化が存在する計算になる。

 

<第2章:Design of validation procedures

著者はこの研究で取り扱う要因について説明を行っています。著者がこの論文で取り扱うのは、以下の項目です。著者は、(1) (4) が、(5) (11) の要因にどのように影響を受けるのか(あるいは受けないのか)ということを調査することになります。

(1) memorability

(2) strikingness(特に定義することなく調査参加者に提示)

(3) importance(特に定義することなく調査参加者に提示)

(4) discussion value

(5) individuality

(6) cohesion of foregrounding(解釈や作品のテーマ構造に貢献すると予想)

(7) repeated exposure

(8) the variety in the sample(テクストと調査参加者両方)

(9) familiarity with the concept “foregrounding”

(10) prior literary training

(11) attitudes to poetry

次に、調査で用いるテストの説明がなされます。今回の調査では、以下のものが開発されました(本書p. 40で、上記の要因とテストの関係が一覧にしてあります)。

(1) the memory testcloze testn番目の語を抜くというのではなく、foregroundbackgroundそれぞれを同数カッコ抜きにしたもの)とfree recallが開発されたが、予備調査の結果、本番の調査では前者のみを使用する形に変更)

(2) underlining teststrikingnessdiscussion valueのデータ抽出に使用。“those passages they found ‘clearest for what the poet was trying to do’” (p. 52) に下線を引くテスト。)

(3) the ranking testimportancecohesion of foregroundingのデータ抽出に使用。詩中のフレーズをランク付けさせるというタスクと、3つの語から最も重要と考えられるものを選ばせるというタスクを開発したが、予備調査の結果、本番の調査では前者のみを使用する形に変更)

(4) the Likert scaleattitudes to poetryのデータ抽出に使用)

また本実験に向けての予備調査についても報告されています。著者は、大学23年生9名(異なる調査参加者に2回に分けて実施)を調査参加者とし、以下の3集団に対して(各集団3名ずつ)、上記のテストを実施しています(2回の予備調査は全く同じではないにせよほぼ同じ形で実施されたとのことです)。CummingsRoethkeの詩が調査材料として使用されました。また、この予備調査では、上記の11の要因とそれぞれ関連した11の仮説が検討されています(詳しくは本書p. 51をご参照ください)。著者は、(1) の集団を最もエキスパートの集団であり、(3) を最も初歩的な集団、(2) を両者の中間の集団と考えています。また、著者はそれぞれの作業で必要となる時間も計測しています。また、使用されたテクストに関して、その作品を読んだことがあるか、その作品の作家は誰か分かるか、という2点も合わせてたずねたそうです。結果、ほとんどの調査参加者はその作品を読んだことはなく、また作家を同定できた者もほとんどいなかったとのことでした。

(1) 文体論の授業を終えた集団(familiarity with the concept “foregrounding”を持つ集団)

(2) 英文科の集団(prior literary trainingを持つ集団)

(3) 文学の訓練を受けていない集団

この予備調査の結果、以下のような結果が得られ、それぞれ次のような対応がなされたそうです。

(1) the ranking testで、3つの語から最も重要と思われる語を選ぶように指示した課題があったが、語が作品の文脈から切り離されており、調査参加者は解答に大きな困難を感じた。そこで、詩中のフレーズをランク付けさせるという課題のみを使用することを決定した。

(2) underlining testの指示に誤解が生じたので、指示に改善が施された

(3) the memory testfree recallは結果がばらばらとなり分析が困難と判断されたため、cloze testでのみ測定する形とした

 

<第3章:Analyses of the poems and predictions made

この章では、調査で用いる詩の文体論分析を行い、調査参加者の前景化への反応に関する予測が行われています。ここでの分析を元に、次章での調査参加者の実際の反応の解釈がなされることになります。なお、ここでの文体論分析の客観性については以下のようにコメントされています。

“Under the present procedure which is as objective as possible, and which allows for a maximum of intersubjective control, rather than any objectivity in an ‘absolute’ sense. The analyses presented here should be viewed in this light.” (p. 58)

次に、調査材料の選定に関する根拠が述べられています。

(1) 調査には文学としての質が高く(the requirements of literary relevance)、かつ短いものでなければならない(reductionist approach)という理由から詩を選択

(2) 文学としての質が高くなければならないので、有名な作家による作品を選択

(3) 本研究は前景化が読者に与える影響を調査するため、前景化が集中的に観察される詩を選択(長編作品での前景化はやや希薄的である)

(4) 歴史的、文化的、文学的、言語的知識の有無による影響を受けないようにするために、19世紀以降の作品を選択(今回の調査では前景化の読者への影響を調べたいので、これらの要因を極力排除)

(5) 知っているかどうかという情報は調査結果に影響を与える可能性があるため、調査参加者が知らないと予想される作品を選択

(6) 今回の調査では6作品を用いるが、作品に極力バリエーションを持たせた:19世紀の作品を3作品かつ20世紀の作品を3作品、アメリカ詩を2作品かつイギリス詩を4作品、モダニズム以前の伝統的な作品2作品(WordsworthRossetti)かつモダニズムへの移行期の作品を2作品(DickinsonRoethke)かつモダニズムの作品を2作品(ThomasCummings)、文章の長さにバリエーション、作品のテーマにバリエーション

前景化の分析方法については以下のような説明がなされています。

(1) parallelisminternal deviationdeterminate deviationstatistical deviationを本研究での前景化の指標とみなす

(2) 音韻レベル、文法レベル、意味レベルの3層において上記4つの前景化の指標を抽出する

(3) (前景化は上記 (2) で挙げた3層にまたがって生じることが多いが)基本的に意味レベルがもっとも前景化の効果に貢献すると考える

(4) 音韻レベルの分析は、Gimson (1962) Fry’s count of average frequency in British Englishを参考に行う

(5) 文法レベルの分析は、構造言語学と生成文法の両方の知見を用いる

(6) 文法レベルの前景化であっても、意味と関係していると判断されれば、意味レベルの前景化と見なす

(7) 語彙的前景化は基本的に意味レベルの前景化とみなすが、状況によっては文法レベルの前景化とみなすこともある

(8) 言語レベルによって特定の前景化のタイプの数に違いが出る:意味レベルではstatistical deviationinternal deviationが少ない

(9) 意味レベルの分析は、他の2層のレベルの分析に比べて客観性が落ちるが、極力妥当で信頼性の高いものになるように分析に努める

(10) 4種類の前景化のタイプに関しては効果に差はないと考えるが、言語レベルに関しては意味レベルが他のレベルよりも効果が強いという前提に立つ

(11) 詩行を基本単位とし、各詩行内の分析によって、各詩行の前景化の度合いをBGMGFG3段階に分ける(ただし、Wordsworthの作品ではMGを設定できなかった)

また、著者が今回選定した作品は以下の通りです。本書では各作品の特徴及び詳しい前景化の分析が提示されていますが、この記事では省略します。

(1) E. E. Cummings’ “yes is a pleasant country”

(2) Emily Dickenson’s “The brain is wider than the sky”

(3) Theodore Roethke’s “Dolour”

(4) Christina Rossetti’s “Mirage”

(5) Dylan Thomas’ “Was there a time”

(6) William Wordsworth’s “On the banks of a rocky stream”

 

<第4章:The validity of foregrounding

この章では、第3章での分析を元にしながら、第2章で挙げた11の要因に関する仮説が検証されていきます。なお、この章での調査に用いられた作品は、第3章で分析が提示されたもののうち、CummingsDickinsonRoethkeThomas4作品となります(下記 (8) の結果を導いた分析においてのみ、これら4作品にWordsworthの作品が加えられています)。示されていた結果は以下の通りです。

(1) 前景化された詩行の方がそうでない詩行よりも記憶されているという仮説は、3作品でのみしか観察されなかった(Thomasの作品では前景化されていない詩行の方が記憶されていた)ため、仮説を支持できなかった

(2) strikingであるとして下線を引かれた表現の数は、前景化された詩行の方がそうでない詩行よりも多かった。また、その詩行が前景化されているかどうかということは下線が引かれるかどうかということと大きく連関していた。

(3) 前景化された詩行の方がそうでない詩行(BGMG)よりもより重要であると判断された

(4) 前景化された詩行の方がそうでない詩行よりもdiscussion valueが高いと判断された

(5) 前景化された詩行及び前景化されていない詩行への反応の仕方は、調査参加者間で一貫していた(目立った個人差は見られなかった)

(6) 基本的には前景化された詩行の方がそうでない詩行よりも作品の解釈にとって重要であると判断された。しかしながら、前景化は作品のテーマ構造と関連しているようで(両者はたいていは一致しており、特に大きな問題は生じないが)、両者が連動しない場合(不一致を引き起こす場合)には前景化された詩行よりもテーマ構造に強く関連していると判断される詩行の方が解釈にとって重要と判断された。

(7) 前景化された詩行の評価は、1回目の読解よりも、2回目の読解の方が調査参加者間でブレが小さくなった

(8) 伝統的な作品とモダニズム性の高い作品の間で前景化された詩行(及び前景化されていない詩行)の評価のされ方に統計的な違いは見られなかった(ただ、記述統計的には、伝統的な作品よりもモダニズム性の高い作品の方が前景化に関する反応の予測により適合したものとなっていた)

(9) 前景化の理論に関する知識を持っているかどうか、文学教育を受けているかどうか、ということに関係なく、調査参加者は一様に前景化された詩行(及び前景化されていない詩行)に反応していた。また、文学教育を受けた学習者の中には作品を知っていたり、作者に気づいた者もいたが、そういったことがあったとしても、前景化への反応には影響を与えなかった。ただし、背景知識を持っている調査参加者の方が反応する前景化の数は多い傾向があった(p. 170)。

(10) 詩の好き嫌いに関係なく、調査参加者は前景化された詩行(及び前景化されていない詩行)に一様に反応した

なお、上記の一連の結果から、例外的な結果を生み出したmemorability(上記 (1) )に関しては、今後は本書では検討されません。また、上記 (6) に関して、前景化された詩行とテーマ構造に関わる行が不一致を引き起こす場合、前者はstrikingであると判断されるものの、解釈における重要な詩行としては選択されないようです(後者の詩行が選択されるようです)。また、上記 (9) の結果から、本書で報告されている後の研究では厳密なサブグループの設定は行われません。

 

<第5章:Further refinements: Design of inductive procedures

これまでのところ、以下のような結果が得られていると著者は述べています。

“We can say that stretches of foregrounding in a text are generally perceived by readers as more striking, more important, and more worthy of discussion, than corresponding background passages of the same text.” (p. 127)

そして、著者はこの結果を更に帰納的な調査結果で補足したいと考えています。また前景化の構造とその機能ないし効果(strikingnessimportancediscussion value)の関係についても踏み込んで調査を行いたいとしています。

著者が具体的に考えている分析は以下の通りです。

(1) striking用のunderlining testに基づいた従属変数、11種類の前景化の種類(音韻レベルのdeterminate deviationは稀であったので、この分析では除外)を独立変数とした(重)回帰分析の実施

(2) 5つの尺度からなるThe semantic differential(意味差判別法)を実施

(3) 13の尺度からなるThe semantic differentialを実施

(4) 詩の空所補充テストの実施

上記 (1) は、特にどのようなタイプの前景化が読者への読みに強い影響を与えるのかを調べることために実施されたものです。ただし、その従属変数のデータに関して以下のような但し書きがあります。

(a) 反復に関しては、基本的にshort term memory内の処理に収まるもののみを分析対象とする

(b) 行の初め、脚韻部分、詩のトピックと密接に結びついている語や音節の反復については、上記 (a) の制限の限りではない

(c) 音節の反復に関しては、アクセントを受けるもののみを分析対象とする

(d) 母音と二重母音の反復に関しては、同一音である場合のみ分析対象とする

(e) 子音の反復に関しては、語の最初と最後のもののみを分析対象とする

(f) 子音結合の反復に関しては、必ず分析対象とする

(g) 音韻レベルの反復に関して、各行での連結の数を数え、それをその行の音韻レベルの反復の数とした

(h) 文法レベルの反復に関しては、SVOADVPPAPPOSCONJVOCRELQUANTという品詞のみを分析対象とした

(i) 文法レベルの反復に関して、名詞の複数形はN-sとしてカウントし分析対象とした

(j) Cummingsの作品については、AUXCOMPARLOCという品詞も導入してその数を数えた

(k) 文法レベルの反復に関して、音韻レベルの (g) と同じカウント方法を採用した

(l) 意味レベルに関して、同じ語が生起した場合、意味的に似ている語が生起した場合、同じ意味の場または連想関係に属す語が生起した場合、意味的対立がなされている場合、はすべて反復とみなして分析対象とした

(m) 各音素の使用数を詩行別にカウントし、一般的に考えて生起数が著しく多いまたは少ない音素が見られた場合は音韻レベルのstatistical deviationの例としてカウントした

(n) アクセントを受ける位置または語頭に生起するstatistical deviationはそれ以外の位置に生起するものよりも重みづけを行ってデータに算入した

(o) 文法レベルと意味レベルのstatistical deviationは体系的な方法でカウントすることが出来なかったため、個々の事例に応じて柔軟に対応しデータに算入した

(p) 意味レベルのdeterminate deviationに関して、例えば2語の組み合わせに関する逸脱であれば2と、新語の創出であれば1とカウントする(その前景化に関連する語数をデータとして算入した)

(q) 後で気付く可能性もあるという理由から詩の1行目に関してもinternal deviationの生起を認めた

(r) 特定の音素の生起が周囲よりも例えば極端に多い場合、音韻レベルのinternal deviationとした

(s) 詩のテーマと関わるような語にinternal deviationが生じた場合であっても、特に重みづけは行わない

(t) 文法レベルのinternal deviation (o) と同じ形でカウントした

(s) 意味レベルのinternal deviation (p) と同じ形でカウントした

(2) は、前景化された表現を調査参加者はどのように評価しているのかをみるために実施されたものであり、前景化された詩行とそうでない詩行で尺度の評価が異なるのかどうかが調べられています。この調査の実施上のポイントは以下の通りです。

(a) 同一の調査参加者に対して、CummingsRoethkeRossettiの作品を最低2回読ませ、各作品から選ばれた詩行を5つの尺度で評定するように指示

(b) 5つの尺度は、evaluative associationに関するもの2つ(valuable/worthlessexciting/dull)、meaningfulnessimportanceに関するもの1つ(significant/insignificant)、noveltyに関するもの1つ(surprising/expected)、poeticalityに関するもの1つ(poetic/prosaic)から成る

(c) 学習者は3作品から抽出された6つの詩行を評価する

(d) 3つは前景化された詩行であり、残り3つは前景化されていない詩行である

(e) 詩行の提示順はランダム化されている

(3) は、前景化の特性をより詳しく知るために実施されたものです。この調査の実施上のポイントは以下の通りです。

(a) DickinsonRoethkeRossettiThomasの詩を利用

(b) ただし、半分の調査参加者には詩行の前景化部分を書き換えたもの(前景化されていない詩行へ書き換えたもの)を提示

(c) 書き換えにおいては、前景化された箇所以外は原作と極力同じとなるように努めた

(d) 尺度は、poeticalityに関するもの1つ(poetic/prosaic)、evaluative associationに関するもの3つ(valuable/worthlessexciting/dullinteresting/boring)、activityに関するもの3つ(exciting/dullactive/passivecomplex/simple)、noveltyに関するもの3つ(surprising/unexpectednew/oldusual/unusual)、the Potency scale(調査参加者から調査の意図を隠し、かつ他の尺度と関連性が見られるもの)を3つ(strong/weakdeep/shallowlarge/small)の13項目からなる(poeticality以外の側面に関して3つの尺度を用意しているのは後でデータを主成分分析にかけるため)

(d) 1つの詩につき4行ずつを抽出し、各詩行に関して13の尺度で評価させた

(4) も同様に前景化の特性をより詳しく知るために行われました。この調査の実施上のポイントは以下の通りです。

(a) 詩から5語(原則として内容語(ただし、Cummings “yes” は例外)とし、前景化された語とそうでない語を両方含む)を削除し、各空所に5つの選択肢を用意

(b) その空所に入るべきものとして調査参加者が最も好むものを5つの選択肢の中から選ばせる

(c) 選択肢の作成は次の通り。5語ごとに空所を設けたクローズテストを作成(1語目が最初の空所のもの、2語目が最初の空所のもの、3語目が最初の空所のもの、4語目が最初の空所のもの、5語目が最初の空所のものの5バージョンを作成)して調査協力大学に送付。そこで得られた回答から選択肢を抽出。選択肢は前景化の程度が異なる5つのもの(オリジナルの語を含む)から構成され、その前景化の程度はMick Shortと共に判定して選択した。

(d) 半分の調査参加者には “which would they insert at that particular place if they were themselves the poet drafting a final manuscript” というシチュエーションでの選択を回答させ、残りの参加者には “which would they insert at that particular place if they were a scholar faced with five different manuscripts and had to intuitively guess the word originally employed by the poet” というシチュエーションで回答をさせた

(e) ランカスター大学内の学内便で多くの学生にこの質問紙を送付する形と(ただし、返送時の不手際により、大半の参加者が詩人と学者のどちらの立場での回答をしたのかが不明になってしまったため、立場がはっきりしているデータと区別して分析が行われることになった)、実験という条件下で少人数の調査参加者に対して同じ質問紙に回答してもらうという形の2つの方法でデータを収集した

 

<第6章:Foregrounding in text and reader response

この章では、第5章でデザインした調査の結果報告がなされています。

(1) 5章で設定した (4) に関しては、必ずしもオリジナルの語(最も前景化の度合いが高い語)を選ぶわけではないけれども、一般には前景化された表現の方がそうでない表現よりも好んで選択がなされたことが示された(前景化という構造とその美的効果は絶対的に結びついているのではなく、その結びつきは傾向的なもののようだ)

(2) 5章で設定した (2) に関しては、基本的に前景化された詩行の方がそうでない詩行よりも肯定的に評価された。さらに、前景化はstrikingnessといった要素だけでなく、他の様々な要素と相互作用的に結びついた包括的な概念であるようだ。また、前景化されていない行であっても、音のパタン(類音などを持つ場合など)があれば肯定的に評価され、前景化された詩行よりもその評価が高いケースも見られた(類音は今回は前景化の構造とみなしていない)。

(3) 5章で設定した (3) に関しては、詩行の書き換えは学習者の反応に影響を与えることが示された。統計的有意差が示された事例はわずかであったものの、一般にオリジナルの詩行の方が書き換えられた詩行よりも好まれていた。この傾向は反復を書き換えた作品よりも逸脱を書き換えたモダニズムの詩でより顕著であり、このことから現在の読者は反復よりも逸脱をより高く評価する傾向があるようだ。オリジナルの詩行と書き換えた詩行への反応を別個に主成分分析にかけたところ、共に第一因子としてevaluative-potency factorが検出された。第2因子としては、オリジナルの詩行の反応ではnovelty factorが検出され、書き換えた詩行の反応ではnoveltyactivitypotencyが融合したものが検出された。このことから調査参加者は基本的に前景化に対してevaluativeな態度で反応すること、詩行の書き換えは第2因子を不明瞭にしてしまったこと、が示された。

(4) 5章で設定した (1) に関しては、音韻レベルと意味レベルの前景化が調査参加者の反応に大きな影響を与えており、しかも意味レベルの方が音韻レベルよりもその影響は大きかった。著者は音韻、文法、意味の順に重要度が上がると予想していたが、文法は大きな影響を与えていないという結果となった(ただし、今回文法として取り上げた前景化は表層的な文法違反のみであり、意味と関わるような文法レベルの前景化は原則意味レベルの前景化と判定したため、このような結果となった可能性もある)。また、背景知識をもっていない調査参加者集団の反応には反復が大きな影響を与えており、背景知識を持っている集団の反応には逸脱が強い影響を与えていた。つまり、“This correlates with the fact that DEV may introduce tension in the text, while PAR heightens redundancy. Hence trained readers may display higher tolerance thresholds for tension (DEV) than untrained readers” (pp. 172-173) と言える。また、第2章で設定した集団間で重回帰式が異なっていた(11種類の前景化のうち、どのようなものがその反応に影響を与えているかは異なっていた)。このような違いが観察される一方で、本研究の他の箇所では集団間で前景化の反応に関する共通性が見られるのは次の理由によるものと考えられる。“the existence of such a multi-layered structure of FG, operating simultaneously on different linguistic levels, allows readers to select different FG devices in their response to the text, and yet largely agree as to what must be considered as striking in the text.” (p. 173)

 

<第7章:General conclusion and outlook

著者は前景化に関する理論は本研究を通して支持されましたが、これを文学読解の普遍的な特性と見なすのは時期尚早であると考えています。というのは以下のような限界点があるためです。

(1) 調査に用いたテクストや調査参加者の人数が少ないことと、この論文で考慮に入れた個人特性が知識の有無と詩への態度のみであること

(2) 読者の就学前の社会化プロセスの中で前景化に反応するように仕向ける何らかの慣習が刷り込まれている可能性があること(つまり、読者が同様な形で前景化に反応したのは、前景化という言語構造が原因なのではなく、社会化プロセスの結果に起因する可能性があること。ただし、このことについてはまだほとんど調査が進んでおらず、何とも言えないとも著者は述べています。)

なお、調査参加者が調査者が望むような形で反応した可能性、学校教育での文学教育が前景化への反応を仕向けた可能性についても検討されていますが、著者はこれらの可能性を否定しています。また、上記の (2) に関して、幼少期から前景化にこれほど触れることが多く、かつ子どももそのような表現を好むということは、前景化は人間にとって何らかの重要な機能を担っている可能性が高いと述べられています。

著者は、文学は言語に依存していることは疑う余地がないとしながらも、それがどのように依存しているのかということについては今後さらに検討していく必要があると考えています。著者は今のところ以下のような考えを持っています。

“foregrounding devices are not merely instances of linguistic ornamentation, but are embedded in the totality of the linguistic and social activity author and reader engage in. Foregrounding devices, in this view, are linguistic means which author and reader have at their disposal for realizing particular aims. These aims, however personal they may be, are necessarily embedded in the social structure and cultural conventions in which author and reader find themselves. This entails that an author may only realize his artistic aims successfully if readers are at least in part able to recognize and appreciate these aims, and if they are willing to participate in a communicative interaction with the author by means of the text (pp. 182-183, emphasis in original).

また、議論の中でliterary communicationという語も用いています(p. 183

また、文学というのは他の様々なジャンルの言語使用を無限に取り込むことができ、かつ作品内で複雑なネットワークを作り上げます。しかしながら、作者と読者がliterary communicationを行うためには両者の間に何らかの共通基盤が必要です。このことに関して、“I propose to consider this common ground as general cultural knowledge in the form of being familiar with specialized speech action patterns” (p. 184) と述べていました。

また、literary communicationにおける前景化の役割に関しては以下の考えが提示されています。

(1) “foregrounding devices are first and foremost linguistic means allowing readers to identify (and subsequently active knowledge and motivation concerning) the kind of communicative activities associated with the reading of literature. Hence parallelism and deviance may play a crucial role in allowing participants to identify the speech action pattern as a literary one.” (p. 185)

(2) “Foregrounding then, is not a category indicating ‘essentials’ of literariness in an absolute or material sense: it is not so much the text in itself that ‘contains’ elements of literariness, but rather that specific devices, i.e. those that (perhaps among others) have been described by the theory of foregrounding act as cues to the reader in the process of literary communication.” (p. 185)

(3) “The conclusion which emerges is that literary texts tendentially possess a certain degree of markedness, in terms of foregrounding devices, in order to allow readers to reconstruct (and join in) a literary pattern of communication.” (pp. 185-186)

しかし、前景化は文学だけに生起するわけではありません。歌やジョークなどpre-literaryなものはもちろん、コマーシャルや選挙スローガンなどにも使われます。前者については、文学と非常に近い関係にあるものであるため、前景化が観察されることは不思議なことではないと著者は考えています。後者に関しては、前景化がもたらす副次的な効果(記憶に残りやすい、人目を引く、など)を狙ったものであると述べられています。これら一連のことについては、著者は以下のように述べています。

“If it is framed in terms of a continuum, a much more realistic description may be arrived at. At the same time, it should not be forgotten that FG does not equally occur in all types of texts, and that even where it does show up in obviously non-literary texts, it often lacks the cohesion and density it usually reveals in literary texts.” (p. 186, emphasis in original)

最後に前景化の形式が時代と共に変化することについてもコメントがなされています。

“The net effect of this evolution may have been that generally authors must gradually have recourse to more (and more powerful) devices of foregrounding. By doing so, readers may have gradually become accustomed to such powerful devices. In this way, devices employed by authors of a previous era may be experienced by present-day readers as more mild cases, the removal of which has less severe consequences for readers’ preferences. In other words, older literature may, in the course of time, become dependent on devices of foregrounding that have themselves become automatized because of readers’ frequent exposure to them. Consequently, the literary communication process may itself be constantly prone to strong internal erosive powers: while the use of foregrounding devices should be the marking of the speech action pattern as a literary one, historical evolution may directly work against the employment of specific types of such marking: by ‘signalling’ literature by means of foregrounding devices, consumers of literature develop adaptive expectations towards these markings, thereby prohibiting any standardization process of the marking, or at least eroding its potential for activating pattern-knowledge required for the identification of literary forms of communication. Such an evolutionary account of foregrounding would also be supported by Martindale (1975).” (pp. 187-188)

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2014年7月 3日 (木)

M.Gilroy&B.Parkinson(1997).「Teaching Literature in a Foreign Language」を読む(『Language Teaching』)

文学を使った英語教育研究のレビュー論文です。『Language Teaching』誌はおよそ10年毎に文学を使った英語教育研究のレビュー論文を掲載しています。Lott (1988)とParan(2008)の記事は以下のURLをご参照ください。ただし、やはり随分前の論文ですので、研究論文に関する情報としてはそれほど目新しいものはないかもしれません。ですが、指導書や教科書に関しては相当に豊富な情報が掲載されていました。なお、Parkinson先生には、エディンバラ大学でお世話になりました。

Gilroy, M., & Parkinson, B. (1997). Teaching literature in a foreign language. Language Teaching, 29 (4), 213-225.

Lott (1988) は以下を参照

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2014/06/blott1988langua.html

Paran (2008) は以下を参照

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2013/07/paran-2008.html

概要

この論文では以下の事柄が扱われていました。

(A) 文学教材が近年再び外国語教育に戻ってきたことについて

(B) 「文学」というものの捉え方の変化

(C) CLTと文学との接点

(D) 読者反応批評理論の紹介

(E) 文学を使った外国語教育研究の近年の動向

(F) 指導書と教科書の動向

●文学教材が近年再び外国語教育に戻ってきたことについて

著者らは、文学教材は常に外国語教育の中で重要な位置を占めてきたし、文法訳読式教授法が行われる場合はその重要性は現在もなお高いと述べながらも、教育研究者の間では興味が失われてしまってきていたと指摘します(このブログでも紹介したMalay (1989) の考えに基づいています)。しかしながら、近年新たな様相を呈して再び彼らの関心を集め出したと著者らは述べています。具体的には著者らは以下のように述べていました。

"The reason for its return seems to us to be the convergence of ideas from two main sources: first, literary criticism, including the debate on the nature of literary language and reader response theory; second, communicative language teaching." (p. 213)

そして、著者らは先行研究をレビューしながらこれらの2つの領域がどのように関連し合ってきているのかを示していきます。

●「文学」というものの捉え方の変化

著者らは文学が再び教育研究者の興味関心を引くに至った背景の一つとして、「文学」というものの捉え方の変化があると考えています。この論文で指摘されていたのは以下の事柄です。

(1) 標準的言語と文学言語は同一連続体の2極と捉えるべきであり、明確な区別はできないという考え方が一般的になった

(2) そもそも文学に本質的特性はなく、創造的な言語が含まれていなかったとしても文学として機能するし、その逆も成り立つ(テクストへの態度の取り方で変化する)

(3) 文学を使った外国語教育研究の研究者が文学という概念を神秘化することなく冷静に議論をする例が増えてきた

(4) 英文学から英語文学という考え方に変化してきた

●CLTと文学との接点

著者らは以下の点を挙げています。

(1) 文学テクストはあらゆるスタイルやレジスターのオーセンティックな言語サンプルを提供する

(2) 文学テクストは様々な解釈を可能とするため、学習者間に自然な形で意見のギャップを作り出す

(3) 文学テクストを読むことで、学習者は様々な困難に出くわし、その困難を乗り越える際に様々な方略を発達させ、ひいてはコミュニケーション能力の向上を促す

著者らは以下のようにまとめています。

"literary texts are not only useful in the development of reading skills, they can be used for oral or written work and encourage learners to become more creative and adventurous as they begin to appreciate the richness and variety of the language they are trying to master." (p. 215)

●読者反応批評理論の紹介

ここでは読者反応批評理論の中にも様々なアプローチがあるということが示されています。文学理論の基本的な内容なので、詳細は省きますが、主に言語ないしテクスト中心のアプローチ、読者中心のアプローチ、作者と読者の相互作用とするアプローチ、が紹介されています。

●文学を使った外国語教育研究の近年の動向

著者らは以下の3点が大きな動きとして指摘されています。

(1) personal responseの重視

(2) 学習者のcreativityの重視

(3) 上級レベルに到達していない学習者への指導法の模索

●指導書と教科書の動向

既に述べましたが、情報量が豊富です。指導書については、文学の指導というよりも言語学習の指導という観点に重点をおいたものの出版が増えつつあることが指摘されていました。また、教科書に関しては以下のような傾向が指摘されていました。

(1) 作品の抜粋や短編小説の後に内容理解や文法練習の問題が続く形を取るものが依然としてかなり多い

(2) 試験対策本も多く出版されている

(3) あるテーマを元に作品を集めた形の教科書が増えつつある

(4) 文体論を活用したものも増えつつある

(5) 様々な国出身の作家による作品を所収するものが増えつつある

(6) 文学の様々なジャンルを意識させるものも増えつつある

(7) creative writingを含んだものも少しずつ増えつつある

著者らは、さらに外国語教育を考える上で有益と考えられる関連分野の教科書(文学理論と言語学)も紹介しています。

なお、上記の (3) に関しては、むしろ学習者にテーマを探させるべきではないのかという意見もあるそうです。このことに対して、テーマを元にした教科書作成者は、同一のテーマを持つ作品を活用して比較検討をさせることを重視しているようです。

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2014年7月 2日 (水)

坂本輝世(2013).「俳句から英詩へ―比較文学的アプローチによる自己表現のためのライティング」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

坂本輝世(2013).「俳句から英詩へ―比較文学的アプローチによる自己表現のためのライティング」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 171-180).英宝社.

感想

著者は引用文献に基づきながら、英語の授業における詩の意義として以下の点を指摘しています。

(1) 少し変わった存在であるがめに学生の興味を引きやすい

(2) 少し変わった表現が学習後も学生の記憶に残りやすい

(3) 学生に言葉の面白さを気づかせることができる

(4) 言語形式と意味の両方に注意を向けることができる

(5) 易しい語で書かれていても、多様な解釈が可能であり内容が幼稚にならない

また、英語詩を利用した実践として以下のものが紹介されています。

(1) 発音やイントネーション向上への利用

(2) リーディングからさらにクリエイティブ・ライティングへとつなげていく上での利用

この記事では省略しますが、特に (2) については多様な実践が紹介されています。また、本論文自体も (2) の流れを汲むものとなっています。

さて、ここで報告されている実践は一般的な英語の授業の中で行われたものです。詳しい指導手順はこの論文に記載されていますが、大きな特徴としては以下の点が挙げられます。

(1) メタファーと繰り返しの働きを理解させる

(2) 実際に英語詩(John Tagliabueの "The Bare Arms of Trees")を読む中で繰り返しによって生起するメタファーを発見させる

(3) 日本語の俳句(加藤楸邨の俳句)を読ませ、繰り返しではなく語のコノテーションによってメタファーが生起していることを理解させる

(4) Tagliabueの作品の冒頭と書き出しを同じにするという条件のもとで加藤楸邨の作品を繰り返しを用いながら英訳させる

なお、この実践で用いられた2つの作品は共に「葉を落とした冬の木」を扱っているにも関わらず、それに賦与させるイメージが大きく異なっています。ですので、(4) の活動では、本来のTagliabueの作品とは全く別のイメージを作品の中に盛り込んでいくことが学習者には求められます。

著者は今回の実践において、以下の事柄を行うことができたとしています。

(1) 言語形式と意味の両方への着目

(2) 学生にとって本当に意味のあるコミュニケーションの生起

さらに、俳句を用いた実践の利点として以下の点が指摘されています。

(1) (日本語を逐語的に置き換えたライティングではなく)日本語が伝えたい事柄を英語で表現するライティングの練習になる

(2) 文化的背景を知っているため、学習者が取り組みやすい

(3) テクストが短いため、その作品とのつながりを見出しやすく、自己表現もしやすい

(4) 英語詩と比べた際の俳句の特徴を理解し、その独特の価値を非日本語母語話者に伝えたいという動機が高まる

著者は最後に以下のように述べてこの論文を終えています。

「詩や俳句などの文学テキストは、書きたいという意欲を持たせる教材の一つであり、同時に、英語と日本語の言語や文化に関心を持たせ、「自分の」表現手段を広げさせる方法の一つです。」(p. 176)

英語学習、文化学習(異文化理解)、自己表現といった事柄が有機的に結びついた非常に優れた実践だと思いました。

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S.パヴロスカ(2013).「ヘミングウェイの短編を用いたラジオプレイの試み」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

パヴロスカ,S.(2013).「ヘミングウェイの短編を用いたラジオプレイの試み」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 162-170).英宝社.

感想

まず、著者はなぜ文学なのかという問いに対して、「文学は初級レベルを超えた学生にとって、最上のインプットとなる」(p. 163)と述べ、学習者の想像力をとらえ、他国の文化への好奇心を呼び覚ますとしています。

また、ヘミングウェイの作品は短いがゆえに使いやすく、言語的にもやさしく、かつ行間を読ませることができるという点で英語教育の教材に向いていると述べています。さらに、学生もこの作家の名前は知っていますし(『老人と海」など他の作品を読んだことがある学習者もいますし)、彼の作品で描かれる「男性と女性の間のミスコミュニケーション、大人への成長、死への恐怖」(p. 163)などのテーマは、現在の学生にとっても重要なテーマであることも、この作家の作品の英語教育における有意義性を後押ししていると指摘されていました。

著者は、この論文では、ヘミングウェイの "The Killers" をラジオドラマ用の台本に書き換えさせ、上演させるという実践を報告しています。一般的な英語の授業で行われています。

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