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2014年6月26日 (木)

D.I.Hanauer(2003).「Literature and Applied Linguistics: New Perspectives」を読む(『Canadian Modern Language Review』)

この論文はCanadian Modern Language Reviewの60 (1) で行われた「文学への応用言語学的アプローチ」特集の編者としての巻頭の言ですが、応用言語学と文学研究の関係について非常に明快に書かれており、議論の整理に役立ちます。

Hanauer, D. I. (2003). Literature and applied linguistics: New perspectives. Canadian Modern Language Review, 60 (1), 1-6.

概要

著者は、これら2つの領域の関係は、立場によって以下の2つの形で考えられていると指摘しています。なお、著者は1つ目の立場が一般的であり、著者はこの立場を問題視しています。そして、2つ目の立場を目指すべきだと考えているようです。

"Depending on one's perspective, literature and applied linguistics can be considered two different fields, or different sections of the same field." (p. 1)

著者は、1つ目の立場が優勢な現在では、応用言語学と文学研究でそれぞれ以下のような考え方がなされていると述べます。

"Within applied linguistics, the former position posits that literary texts, and more importantly literary questions and research methods, are beyond the range of the field. In particular, the push for empirical paradigms of research and questions of generalizability have marginalized the presence of literature within applied linguistics." (p. 1)

"Within the field of literary studies, the denigration of and disbelief in empirical modes of research, and the high value placed on innovative, individualized understandings of specific texts, has marginalized most of the research conducted within the field of applied linguistics." (p. 1)

しかし、両分野には共通点が多いことを著者は指摘します(p. 2)。

(1) both essentially involve language

(2) both are interested in questions of meaning construction

(3) both address issues of social relations and multiculturalism

(4) both involve acts of literacy

(5) both promote and propagate theories of language and being

また、著者によれば、すでに両分野にまたがるような優れた研究がなされていると指摘しています。具体的には以下の研究に言及がなされていました(p. 2)。

(1) stylistics takes linguistic methods of analysis and applies them to questions of literary interpretation

(2) the empirical study of literature takes psycholinguistic and sociolinguistic methods of research and generalizable research questions and explores literary texts as a manifestation of expert reading

(3) studies of migration and identity utilize literary narratives to explore meaning

(4) a series of methods of language instruction have been proposed based on literary reading

既に述べましたように、この論文は巻頭の言ですので、この特集号に含まれている論文の要約がなされています。この記事ではその部分は省略しますが、著者はこの特集号全体を通して以下のことを意図していると述べています。

"This collection of papers is a call for the hman, individual, and unrepresentative voice of literature to re-enter discussion in the field of applied linguistics" (p. 6)

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2014年6月24日 (火)

齋藤安以子(2013).「登場人物の視点で物語を立体化しよう―シェイクスピアを/で遊ぶ」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

齋藤安以子(2013).「登場人物の視点で物語を立体化しよう―シェイクスピアを/で遊ぶ」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 152-161).英宝社.

感想

主に一般英語を想定した実践です。シェイクスピアを題材に、非常に多様なアクティビティが準備され、極めてクリエイティブな実践となっています。著者は「思うようにならない現実に苦悩する若者」が登場するシェイクスピアの8作品に対して(著者はその他の作品も活用可能であると述べています)、合計で6つの活動を提案しています。提案されている活動は、いずれも他者の視点に立って物語の特定の場面をとらえ直すという活動であり、具体的には別の登場人物や役者・演出家の立場に立って場面を再構成するという形となっています。

なお、著者が言及している作品は以下の8作品です。

(1) The Merchant of Venice

(2) Twelfth Night

(3) A Midsummer Night's Dream

(4) Hamlet

(5) Romeo and Juliet

(6) The Tempest

(7) Macbeth

(8) King Lear

また、著者が提案していた活動は以下の通りです。詳細はこの論文をご参照ください。

(1) 「登場人物なりきり日記」「なりきり手紙作成」

(2) 「心の声による対話」

(3) 「進行表」

(4) 「登場人物なりきり・去り際のセリフ創作」

(5) 「学生の出身地方言での翻訳」

(6) 「オリジナルキャストの上演企画ポスター作成」

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田中敦子(2013).「翻案創作に至る朗読演習―シェイクスピアの原文味読を踏まえた場合」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

田中敦子(2013).「翻案創作に至る朗読演習―シェイクスピアの原文味読を踏まえた場合」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 143-151).英宝社.

感想

英文学史の授業の中で、シェイクスピア(Julius CaesarRomeo and Julietが使用されています)を取り上げる際の実践が報告されています。この実践では、著者が学習者に時代や文化について説明した後、原文と翻訳を比較させ、さらに映像教材も使用しながら、その場面や登場人物の心情の理解を深めていきます。学習者には朗読を徹底的に練習させ、最終的に朗読発表会で自らの朗読を発表させるという実践(この際翻案を行ってもよいと指示)です。学習者参加型の英文学史の授業は非常に珍しいと思いました。また、学習者の翻案の中ですぐれたものがいくつか紹介してありましたが、いずれも非常に面白いものであると思いました。

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B.Louw(1993).「Irony in the Text or Insincerity in the Writer?: The Diagnostic Potential of Semantic Prosodies」を読む(M.Baker,G.Francis,&E.Tognini-Bonelli(編),『Text and Technology: In Honor of John Sinclair』,John Benhamins)

著者は、コーパスを使ってsemantic prosodiesを見ることによって皮肉の検出が可能であることを示しています(これまで、その検出は声の質(Griceなど)などにそのヒントを求めてきたそうです)。そして、semantic prosodyという概念を使用すれば、文体論(文学批評)で皮肉の効果を評価したり、広告産業でのキャッチフレーズを評価することが可能になると述べています。著者はsemantic prosodyに基づいた談話分析のことをradical stylisticsと呼び、それが秘める大きな可能性をこの論文で例示しています。

Louw, B. (1993). Irony in the text or insincerity in the writer?: The diagnostic potential of semantic prosodies. In M. Baker, G. Francis, & E. Tognini-Bonelli (Eds.), Text and technology: In honor of John Sinclair (pp. 157-176). Amsterdam: John Benjamins.

以前同一著者による文献を読んだのですが、その中でもsemantic prosodyという概念はキーワードとなっていました。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2008/11/louw-2007.html

概要

著者は、まずsemantic prosodiesを以下のように定義しています。

"A consistent aura of meaning with which a form is imbued by its collocates" (p. 157)

そして、これまでに特定の語が作り上げてきたsemantic prosodyに違反するような使い方でその語を使用すれば皮肉が生起すると述べられています(p. 169)。著者は、ただの言葉遣い上の間違いとの違いも示しながら、この点について以下のようにまとめています。

"Where ecorders intend their remarks to be interpreted ironically, they 'write the device' in the form of an exception to an established semantic prosody. Conversely, where an utterance runs contrary to an established semantic prosody and it is clear from its context that it is not intended by the encoder to be interpreted ironically, we find that 'the device write the encoder'." (p. 171)

その他、semantic prosody及びその違反による皮肉の生起ついて以下の点を述べていました。

(1) 良い意味を含意するsemantic prosodyよりも悪い意味を含意するsemantic prosodyの方が多い

(2) 皮肉はsemantic prosodyへの違反に加えて、我々が日常で経験する皮肉的出来事へ言及することによって作り上げられている(言語上の皮肉はlinguisticだけでなくsituationalな要因によっても作り上げられる)

(3) 皮肉は、複数のsemantic prosodyの違反が一度に生じ、その効果が統合されることによって生起している

(4) しばしば、semantic prosodyの違反はメタファーの生起に先導されることがある(メタファーが導入として使用され、その後でsemantic prosodyの違反が生じる)

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2014年6月19日 (木)

G.Rohdenburg(2006).「The Role of Functional Constraints in the Evolution of the English Complementation System」を読む(C.Dalton-Puffer,D.Kastovsky,N.Riff,&H.Schendl(編),『Syntax, Style and Grammatical Norms: English from 1500-2000』,Peter Lang)

英語史研究の重要なトピックの1つであるthe Great Complement Shiftに関する重要文献ということで、この度自身の研鑽のために読ませていただきました。特定の統語的制限がある中では、The Great Complement Shiftの進行が遅くなっていることが示されています。

Rohdenburg, G. (2006). The role of functional constraints in the evolution of the English complementation system. In C. Dalton-Puffer, D. Kastovsky, N. Riff, & H. Schendl (Eds.), Syntax, style and grammatical norms: English from 1500-2000 (pp. 143-166). Bern, Switzerland: Peter Lang.

概要

この論文では以下の点が議論されていました。

(A) The Great Complement Shiftの事例の紹介

(B) The Great Complement Shiftの進行を遅らせている統語的制限

●The Great Complement Shiftの事例の紹介

著者は以下の4例を挙げていました。

(a) She dreaded to go there. が She dreaded going there. に移行するように、動名詞が不定詞に取って代わりつつあるという変化

(b) She delighted to do it. が She delighted in doing it. に移行するように、前置詞+動名詞の形が増加しつつあるという変化

(c) He helped (to) establish this system. という文のように、helpのような特定の動詞に対して原形不定詞の使用が増えつつあるという変化

(d) He hesitated (about) whether he should do it. が He hesitated (about) whether to do it. に移行するように、定の従属疑問節が疑問詞+to不定詞の形に取って代わりつつある変化

(e) manipulative verbの補部に見られる変化。She advised to do it in advance. のようなunspecified object controlの動詞が減少し、He promised his friends to return immediately. のようにspecified object controlを伴う形が優勢になってきたという変化。また、unspecified object controlの生き残りでありadviseやrecommendにおいては、She advised to do it in advance. が She advised doing it in advance. に移行するように、動名詞が不定詞に取って代わりつつある変化が観察される。また、specified object controlの形を取る動詞においては、He promised his friends to return immediately. が He promised his friends (that) he would return immediately. に移行するように、定の節が不定詞に取って代わりつつある変化が観察される。

●The Great Complement Shiftの進行を遅らせている統語的制限

著者はthe complexity principle、horror aequi principle(同じまたは似た構造を繰り返すことを避けよという原理)という原理と、extracting postverbal elements out of complement clausesという操作(This is the problem which we don't know how to solve. のような文では、元の位置からwhichが取り出されている)を取り上げ、これらの影響を受ける際にはThe Great Complement Shiftで進行中の変化は英文に反映されにくくなることをコーパスに基づいて示しています。以下の (1) ~ (3) はthe complexity principleに、(4) はextracting postverbal elements out of complement clausesという操作に、(5) はhorror aequi principleに影響を受けている事例となります。

(1) He hesitated for a very long time about whether he should do it/whether to do it. の下線部のような挿入的要素は、上記 (d) の変化に抵抗的である

(2) 補部に否定辞が入る場合は、unspecified object controlの動詞に関して、上記 (e) の変化に抵抗的である(この場合に最も好まれるのは、that節が続く形である)

(3) 上記 (a) (d) と関連して、定のある構造の方が不定の構造よりも複雑であり、疑問節の前に前置詞が生起する傾向が強い

(4) 取り出し操作が行われる文は、上記 (a) (b) (c) の変化に抵抗的である

(5) 例えばto deadの後にはto不定詞は続きにくく、dreadingの後には動名詞は続きにくい。このことは、上記 (a) (b) の変化に影響を与えている。

著者は、以上の結果から、この論文を以下のようにまとめていました。

"Generalizing across all of the phenomena dealt with, we can say that novel constructions tend to become established first in favourable contexts while they are delayed in dispreferred environments. It is the other way round with recessive constructions, which tend to survive a bit longer in favourable contexts." (p. 160)

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2014年6月18日 (水)

W.Edmondson(1997).「The Role of Literature in Foreign Language Learning and Teaching: Some Valid Assumptions and Invalid Arguments」を読む(『AILA Review』)

文学を使った外国語教育研究への批判論文として最も有名なものです。今回、再読しました。主にドイツにおける英語教育を念頭に置きながら議論が展開されます。

Edmondson, W. (1997). The role of literature in foreign language learning and teaching: Some valid assumptions and invalid arguments. AILA Review, 12, 42-55.

著者はこの論文で以下の2点について批判を行っています。

(1) "a teaching strategy whereby the systematic and extensive handling of literary texts is pursued in courses which are in fact designed to teach foreign/second language skills and proficiency" (p. 42)

(2) "the claim that literary texts have, in some sense, a special role to play in the foreign-language classroom - not in their own right (though this might well be seen as an additional bonus), but as a means of developing language competence" (p. 42)

ただし、著者は文学教材の外国語教育における普遍的非有効性を示そうとしているわけではありません。そうではなく、外国語教育における文学教材の役割に関する概念整理を行うことで、個々の文脈で適切な外国語教育を構想するための足掛かりを作りたいとしています(著者は、外国語教育における文学教材の役割に関する言説が外国語教育の発展を大きく妨げていると考えています)。

概要

この論文では以下の点が議論されていました。

(A) 実際の外国語教育現場での文学教材の捉えられ方

(B) 著者自身の立場

(C) この論文で著者が前提にしている事柄

(D) 文学を使った外国語教育研究の個々の主張の問題点

(E) Widdowsonの主張の問題点

(F) 外国語教育において文学教材の使用が固執される理由(著者の考え)

●実際の外国語教育現場での文学教材の捉えられ方

著者は、以下の4点を指摘していました。

(1) 自身の外国語学習に文学教材が影響を与えたと考える学習者はほとんどおらず、しかもその影響が効果的であったと答える学生はほぼ皆無に等しい(Edmondsonの調査の結果から)

(2) 学校外国語教育の主要な目的として文学を挙げる教師は多いが、"there is no mention of the development of language skills or competence, but references to cultural awareness, knowledge of the classics of literature, stimulation of the creative imagination, and the educational experience of English literature" (p. 43)

(3) 文学を使った外国語の授業の場合、学習者はたいていは正答のある問いを期待し、教師から「正しい」解釈を得られることを期待する(そしてそういった解釈が得られるとそれを自身の解釈とする)。また、ほとんどの学習者は授業で受身的になってしまう。さらに、学習者は理解可能な文学教材と理解が困難な文学教材を区別しており、前者は非常に楽しむが、後者は授業で扱う意義を見い出さない。ただし、前者に関しては、あまりに簡単なテクストであるため、授業で使用したとしても議論すべきことが何もないという状況に陥る。

(4) 外国語(第2言語)であるにも関わらず、文学教材の指導はL1での指導と同様な形で展開される。せいぜい新出語句等の解説のあるなしぐらいしか両者には違いがない。

(5) 文学を中心に据えて、その言語を「外」の眼で捉えたりその言語の文化的価値について意識を高めるという教育プログラムがあるが、結局こういった目的を達成するのはその言語での討論や指導であり、文学それ自体によるのではない。

●著者自身の立場

著者はこれまでに文学教材が非文学教材よりも言語習得に効果的に機能したということを示そうとした研究は知らないとしながらも、この論文の中ではこのような比較研究を行うつもりはないとします(このような比較研究の問題点が言語教育研究の中で指摘されているためです)。その代わり、論理的または理論的な議論によって冒頭で挙げた2点に関して批判していくとしています。

また、著者自身の立場は以下のように表明されていました。

"My position in this paper is that the question as to the specific advantages of using literary texts is the wrong question, simply because a matching between textual features and learning effects is highly improbable, and certainly not subject to empirical investigation at this point in time. My central thesis is then, that the question: literary texts in foreign/second language classes - yes or no? is essentially irrelevant to the quality of the learning that takes place in such settings. In other words - and I'm trying to be a little controversial in my formulation here - literary texts have no special states as regards their relevance to and utility for the business of achieving proficiency or general competence in an L2. I will call this thesis the non-essentialist position. The name is intended to suggest that other things being equal, it is certainly not essential to handle literature in the interests of developing adaquate L2 proficiency, and suggests further that as regards their potential use in teaching programs, literary texts have no 'essence' that distinguishes them from other types of text." (p. 45)

●この論文で著者が前提にしている事柄

著者は、この記事の冒頭で挙げた2点に関して本格的な批判を行う前に、前提として著者が寄って立っている事柄について説明を行っています。具体的には以下の4点となります。

(1) 「文学」という用語の中には漫画やポップソングの歌詞など様々なものを含むことができるが、この論文では、この用語を "written texts which have a certain aesthetic value and some perceived status in the culture of which they are artefacts" (p. 45) に限って議論を行う(この用語が指す対象をあまりに広げると、「文学」という名のもとにあらゆるテクストタイプについて議論していることになってしまうため)

(2) この論文では、特定の教育的文脈ではなく、言語習得一般における文学教材の役割を議論する。また、文学教材が言語学習の目的に興味深い形で使用しうる可能性を秘めているというだけでは、それが外国語教育にとって特別な役割を持っているという証拠とはみなさない。

(3) 外国語教育というコンテクストの言語はどうしても自然な言語と比べると不自然な部分があるが、このことは文学教材の不使用が原因で生じているとは判断しない

(4) 重要なのはテクストの種類ではなく、その扱い方である

著者は、(4) に関して更に以下のように述べています。

"If then we accept that it is the treatment which couts, and not only the text, then the claim that literary texts have a special role to play must rely on one or two grounds: either there are effects which follow specific types of treatment of literary texts that do not accrue when the same or similar treatments are used with other texts, or certain kinds of pedagogic activity are only possible with literary texts. If neither of these positions can be established, then - in the case that benefits can be shown to accrue from particular ways of handling literature - we have no way of knowing whether these benefits are simply a function of the pedagogic treatment." (p. 47)

●文学を使った外国語教育研究の個々の主張の問題点

著者はここで行う批判的論考の意図を以下のように説明しています。

"My purpose here is not necessarily to show that these arguments are wrong, but to point out that they do not disprove the non-essentialist position" (p. 47)

ですが、同時に以下のようにも述べており、かなり強い否定的姿勢を取っていることが伺えます。

"On the whole one has to say that a considareble amount of rather imprecise posturing has been indulged, in support of the use of literature in the foreign-language learning process" (p. 47)

著者が具体的に批判を加えるのは以下の主張となります。「→」にその主張に対する著者の批判的見解を示しておきます。

(1) the cultural access argument: the argument "that literature gives insight into the cultural ethos of the target language and its peoples, and that such insight can be gained best via literary texts" (p. 47)

→ "it is highly implausible to suggest that certain kinds of cultural insight are a precondition for successful language mastery, and equally nosensical to suggest that literature - maybe treated in a certain way - necessarily gives access to such insight" (p. 47)

→ "when one tries to pin down the argument, and discover what type of cultural access is meant, and how it affects language acquisition processes positively, no answer is forthcoming. The content of the cultural access argument is rather nebulous." (p. 47)

(2) the language is literature argument: the argument "that indirect literary reference so pervades both everyday and professional talk that it is difficult to participate in target language discourse with native speakers if one does not share at least some of this hidden literary curriculum, which has, over the years, been incorporated into the everyday use of the language" (pp. 47-48)

→日常言語で間接的に言及されるのは文学だけではない。広告のスローガンなども同様である。もちろん、聖書やコーランなど文学的価値を持った特定のテクストが外国語教育において重要になることもある。しかしながら、これはあくまでも特定のテクストが外国語教育に役割を持っているということを示しているだけであって、このことをもって文学教材全体が外国語教育に特別な役割を持っていると主張することはできない。

(3) the motivational argument: 文学教材は学習者の外国語学習の動機づけを高めるとする主張

→文学教材は学習者の外国語学習動機を下げることもある

→重要なのはテクストの種類ではなくその扱い方であるとしたなら、文学教材を選択したこと自体が外国語学習動機にどのように作用するのかは知りえない

→学習者が好きだからといって、文学教材が学習にとって何らかの効果的な結果をもたらすという保証はない

→文学教材が外国語学習動機を高めるという実証的証拠はない

(4) the 'Look at this!" argument: 効果的な教材の提示やうまくいった実践をもって文学教材の意義の根拠づけとする主張

→ "a good lesson does not constitute a good argument, unless the principles which make it a good lesson can be made explicit, and generalised. The 'Look at this!' argument is not really an argument at all." (p. 49)

(5) the compensatory argument: the argument "that 'conventional', or purely 'functional', or 'trivially communicative' or strictly 'pragmatic', or 'skill-oriented' foreign-language teaching is impoverished: it reduces language and learner, and ignores the richness of linguistic experience and indeed of life itself. Literary texts are a necessary antidote." (p. 49)

→この議論はたいていは次のような形で進むため、不誠実である。"choose for purposes of illustration a rather poor, sterile non-literary text (a search through published teaching courses will inevitably turn up a few examples). Contrast this with a carefully selected literary text, for which a stimulating classroom use is suggested. Conclude from this comparison that we need literary texts, else we shall be condemned to texts like the first sample." (p. 49)

(6) the psycholinguistic argument: "[t]he argument that we need literature in order to get the culture or in order to get the language, the motivational, demonstrational, and compensatory arguments" (p. 49)

この (6) の立場は、"handling selected literary texts is likely to entail the activation of cognitive processes that are relevant to the development of language acquisition" (p. 49) というものであり、著者自身の立場(non-essentialist position)と相反することもなく異議もないとしています。さらに、著者の主張(文学教材は外国語教育にとって何ら特別な役割はないという主張)を論破するには (6) の立場をもってなされなければならないと指摘しています。ただし、以下のような問題点もあると指摘しています。

→文学だけでなく、あらゆるテクストが認知プロセスを活性化させる

→認知学習に関する理論ではなく文学理論の用語が使用されているため、議論が場当たり的になり、説得力に欠ける

→外国語学習における文学教材の価値についての議論は、外国語学習における文法規則の明示的提示の効果の議論と同じ理論や概念を用いなければならないが、そうなってはおらず、議論が曖昧なままに済まされる傾向がある

→主張が修辞的であり、文学教材の役割についてどのように評価すればよいか判断できない場合がある。例えば、次のような手順で文学教材の外国語教育における役割が議論がされる。"First we had the cultural access argument, which surely has to imply some degree of representativeness in the literary texts studies. Second, however, we have the 'particular voice' of the individual writer. Third we have the universal address, the timelessness of the textual appeal, and fourth we have the fact that literary meanings are eminently negotiable, that is, the indivudual reader derives his or her own meaning from an interpretation of the piece of literature." (p. 50) (なお、文学教材に肯定的な立場を示す論考は、たいていの場合、ここに挙げた4点のうちの1つないしは複数にまたがって主張がなされている。特に複数にまたがる場合は、specificityとuniversality両方に言及がされている場合があり、外国語教育の役割を考える上でどのように考えればよいのか分からない。)

●Widdowsonの主張の問題点

著者はWiddowsonは上記の (6) の立場の研究としながら、独立させて議論をしています。著者はWiddowsonの主張を以下のようにまとめています。

"it is essentially that literary texts 'represent' rather than 'refer' - in other words, a work of literature creates its own context, may set up its own frame or reference, may indeed exploit, flout, or contradict our schematic expectations. This, the argument continues, forces the reader to be more actively engaged in making sense of the text, the reader needs to pay close attention to the language used in order to be able to derive meaning from it. On one formulations, the literary text presents itself as a problem that has to be solved. 'Meaning is a function of focus on form' (Widdowson, 1987:57). The point is reinforced by arguments of the kind sketched above - namely, the suggestion that the 'problem' is one that may engage the learner's interest, and that further the solution is a personal matter of interpretation, and not one of norm-governed apprehension, whereby the learner is by definition prone to error, delegated in advance to the second (L2), as opposed to the first (L1) division." (p. 51)

このような主張に対して、著者は以下のような問題点を指摘しています。

(1) Widdowsonは母語学習に関する研究と外国語学習に関する論文で全く同じ主張をしている。L1=L2という立場で主張をすること自体は問題はないが、両者の違いについては全く言及されていない。

(2) 学習者はL2-specific schematic knowledgeを習得する必要がある。この点から考えると次のような問題がある。"Now presumably, on Widdowson's argument, the development of L2-specific schematic knowledge is scarcely goingo to be furthered by the reading of literary texts, because the schemata employed therein have no contextual reference outside of the text itself, and the literary text may moreover flout, contradict, or simply ignore these interpretive and situational schemata that operate in normative social discourse. In other words, the use of texts which presuppose and creatively exploit frame-related knowledge would seem a priori not to be particularly suitable for learners who do not have, as yet, the relevant, presupposed schemata knowledge." (pp. 51-52)

(3) Widdowsonは精読を重視している(事実、彼はfocus on formという語を使っており、トップダウンよりもボトムアップの解釈方略を重視していると推測できる)が、このような精読が必要になるのは文学テクストだけではない。また、学習者が文学テクスト読解において精読を用いるのは、単に "simply befacuse they are wary of using their L1-based schematic knoledge, or because they have recognised that such knowledge does not apply, or inddeed for other, less cogent reason" (p. 52) にすぎない(Widdowsonが考えているような文学的な目的に基づいてのことではない)。さらに、精読は必ずしも言語習得を促進する上で常に効果的とは言えない。事実、どのような読解が有効かはテクストの種類や読みの目的によって大きく変化する。以上の点から、"the assumption that the practice of close, text-based, problem-solving reading is particularly valuable for purposes of acquisition is unwarranted... The pedagogic point is that learners need to be encouraged to use a variety of interpretive strategies in L2 reading. It remains to be proved that literary texts are particularly appropriate in this undertaking. Widdowson's argument does not establish this. Rather it seeks to argue that one particular kind of interpretive strategy may be particularly necessary for handling one particular kind of text." (p. 52) と言える。

以上の点から、Widdowsonの主張に対して、著者は総合的には以下のように考えています。

"The psycholinguistic argumentation developed by Widdowson is then totally compatible with the non-essentialist position adopted in this paper. Indeed, I do not think Widdowson would want to refute that position. Widdowson essentially argues for an active didactic exploitation of foreign-language texts, such that cognitive procedures relevant to language acquisition be activated, and claims that this can be achieved through various pedagogic procedures using selected literary texts. I am happy to accept this stance. There are however no grounds, as far as I can see, for the claim that literary texts per se have any special or particular role to play in connection with a textual teaching strategy of this kind." (p. 52)

著者は以上の批判的考察を通して、外国語教育に文学教材を使用するための言説全体に関して、以下のように述べています。

"There are no psycholinguistic arguments which make valid claims re(for?) the special status of literature. I conclude that there are no valid arguments whatever for the special status of literature. The aruguments I have looked at in this paper are either false, dishonest, invalid, or they merely establish that literary texts can be used as can other types of text. A special and specific function for literary texts in the business of language teaching and more importantly language learning seems therefore not to obtain." (pp. 52-53)

●外国語教育において文学教材の使用が固執される理由(著者の考え)

著者は、ドイツの例を挙げながら、以下のように考えています。

"For some reason the language-teaching profession seems always to need some external justification for teaching people to acquire and use some other language or languages." (p. 53)

"a focus on handling literary texts in modern language-teaching was originally part of a movement which sought to justify the teaching of foreign languages in schools and universities. The inclusion of the study of literary texts was intended to show that foreign languages were educationally respectable, as it were, and comparable in status to Latin and Greek." (p. 53)

ドイツにおいては、20世紀の初頭にハンブルク協定を介して英語が中等教育の必修科目として入ることになりました。それ以前は実科学校でのみ英語は教えられていたのですが(というのは、この学校に通う学生にとっては英語は将来仕事で用いることになるため)、ジムナギウムにおいては実用的な目的だけでは英語導入の説得力に欠けたため、"more 'educational' goals were introduced, specifically the focus on literature" (p. 53) ということになったと著者は考えています。そして、文学教材を教育に含めることによって "'It's not just language we're teaching you know!'" (p. 53, emphasis in original) ということを主張し、ナチス政権下も含めて、外国語教育は継続されてきたと述べられています。

しかしながら、現在は過去にないほどに外国語教育の価値が高く認識されています。そのような状況下にあってなぜ "external, socio-educational justification for teaching foreign language" (p. 53) が必要なのだろうかと著者は疑問を呈しています。著者に言わせれば、文学は外国語教育の正当化として歴史的に最も頻繁に使用されてきたものであるし、現在もそうであるということになります。そのように述べたうえで、以下のように主張しこの論文を終えています。

"It would help us focus more efficiently on the job in hand if such extraneous goals, aspirations, and traditions were carefully examined, and possibly abandoned in consequence. This paper is intended as a small step in this direction." (p. 53)

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2014年6月17日 (火)

H.G.Widdowson(1982).「The Use of Literature」を読む(M.Hines&W.Rutherford(編),『On TESOL '81: Selected Papers from the Fifteenth Annual Conference of Teachers of English to Speakers of Other Languages, Detroit, Michigan, March 3-8, 1981』,TESOL)

再読になります。この著者が執筆した論文の中では個人的に最も啓発を受けた論文です。有名な英語詩からの引用を何の断りもなく文中で使用するスタイル(例えば、文学を使った英語教育について議論する中で、Wordsworthの作品やThomas Grayの作品の一節が他の普通の文の中に何の断りもなく織り交ぜられています)を取っているので、やや読みにくい感があるかもしれませんが、この記事でまとめていますように、この論文は非常に示唆に富んでいます。なお、この論文のタイトルですが、「文学を使用すること」という意味と「文学の言語使用(usageとの対立概念としてのuse)」という2つの意味が掛けられていると思われます。

Widdowson, H. G. (1982). The use of literature. In M. Hines & W. Rutherford (Eds.), On TESOL '81: Selected papers from the Fifteenth Annual Conference of Teachers of English to Speakers of Other Languages, Detroit, Michigan, March 3-8, 1981 (pp. 203-214). Washington, DC: TESOL.

概要

この論文では以下の点が議論されています。

(A) 英語教育における文学教材の処遇の変遷

(B) 文学教材が敬遠される理由

(C) 教育用に開発されたフィクション教材の問題点

(D) 指導用の言語(usage)と文学言語の違い

(E) 英語教育における文学教材の意義

●英語教育における文学教材の処遇の変遷

著者はこの点について以下のように語っています。

"There was a time when literature was accorded high prestige in language study, when it was assumed that part of the purpose of language learning, perhaps even the most essential part, was to provide access to literary works. There was a time when it was assumed, furthermore, that the actual process of learning would be enlivened and indeed facilitated by the presentation of poems, plays, and prose fiction" (p. 203)

しかし、現状(当時の現状)は以下のようだと著者は述べています。

"And now literature hardly figures at all in language programs. It ls linguistics rather than literary studies that prevails as the informing influence." (p. 203)

●文学教材が敬遠される理由

著者は以下の点を挙げています。

(1) 文学教材は言語教育の実用的な目的に何ら貢献しない

(2) "literature is a potentially disruptive influence in the well-ordered world of the carefully controlled language course" (p. 204)

(3) "Literature introduces complexity where it is not wanted" (p. 205)

著者は、(2) に関して、教師は綿密に計画された言語カリキュラムの中にぴったりと合うようなレベル(語彙レベル、文法レベル)の文学作品を見つけようとするが、うまくいくことはほとんどないのではないかと述べています。

著者は、(3) に関して、文学教材には逸脱的な表現が使用されることを指しながら、"Literature, and poetry in particular, has a way of exlpoiting resources in a language which have not been codified as correct usage. It is, therefore, misleading as a model. So not only is literature likely to be disruptive by its quantitative lack of control; it is also likely to be subversive by its qualitative lack of correctness. It has no place in an approach to teaching that insists on the gradual accumulation of correct linguistic forms." (p. 205) と述べています。

以上の議論をまとめる形で、著者は次のように述べています。

"So it is that literature is judged not only to be irrelevant to purpose, the ends of language learning, but also detrimental to process, the means of achieving them." (p. 205)

ここで言うpurposeは上記 (1) と、processについては上記の (2) (3) と関連しています。

●教育用に開発されたフィクション教材の問題点

上記の (2) や (3) の問題点を避ける目的で、教材開発者がフィクション教材をカリキュラムに沿った形で開発することも可能です。そして、そういった教材に現れる登場人物や状況は虚構であり、その点では文学教材と変わりません。また、"They resemble literature in that they represent a nonverifiable reality existing in a different plane of being from everyday life." (p. 207) とも述べています。しかし、そういったフィクション教材には次のような問題点があると指摘されていました。

(1) "the dialogue operates only as a device for displaying language structure. Although learners are meant to read and indeed to enact this charade in all seriousness, it is not supposed to be funny, or even remotely entertaining. Students solemnly participate without being humanly engaged." (p. 206)

(2) "the pedagogic presentation of language, of the sort I have illustrated, does not exploit the possibilities of creativity that are opened up by a dissociation from context. Literature, on the other hand, does."

(3) "The kind of pedagogic display I have been referring to is fundamentally deficient because it represents language as entirely a matter of routing and in some degree, therefore, it is bound to diminish the human stature of the language user. There are no problems to solve by negotion because meanings are made explicit within the text and carefully prepared for easy assimilation. The learner is therefore not engaged at all at the discourse level. There is nothing to engage with. Everything is ready made and there is no scope for making sense. Using material like this to develop language ability is rather like trying to produce artists with kits of painting by numbers." (p. 212)

著者は、(2) に関して、このcreativityは生成文法が述べるような狭い意味ではなく、次のような内容を意味するものであるとしています。

"I mean the human capacity for making sense, for negotiating meaning, for finding expression for new experience in metaphor, for refashioning reality in the image of new ideas and new ideals. There is very little provision made in language teaching for creativity of this sort, and so very little recognition of the human capacities of the learner. Indeed, the insistence on strict control and correctness means that the learner is cramped into conformity, 'cabin'd, cribb'd, confin'd, bound in'. When he does break out from the confinement he has been sentenced to by producing creative expressions, these are condemned as errors and the learner is forced back into corrective custody. Deprived, one might almost say, of his human rights." (p. 212)

また、このことと関連して、そもそも言語学習とはcreative processであるとも指摘されています(だからこそ、文学教材の使用は必須であるということを著者は主張します)。

"For the use of language and the acquisition of language are essentially creative processes. Apart from certain relatively fixed and predictable routines that only require habitual conformity, all uses of language involve the imaginative construction of meaning ex tempore, referring to routine not as a script but as a prompt. They involve the subtle deployment of problem-solving procedures in the process of making sense. Making sense: the very expression indicates the creative character of ordinary language activity." (p. 212, emphasis in original)

ただし、言語におけるcreativityは現状では母語話者のみの特権とされているようだと著者は指摘し、このことを問題視しています。

"The learner does not have native speaker privileges in this respect. If the native speaker comes out with an expression not sanctioned by convention, his innovation is applauded as evidence of mastery. If the learner does the same, his innovation is deplored as a deficiency, an error, a sort of involuntary spasm of interlanguage. But creativity is not the sole prerogative of the native speaker." (p. 212)

●指導用の言語(usage)と文学言語の違い

著者は、両者の違いに関して以下のように述べています。

"The tendency of pedagogic presentation, then, is to idealize language by reducing it to routine. Literary idealization, on the other hand, involves a particular emphasis on procedures. This is a necessary consequence of dissociating discourse from an immediate social context. Dissociation of language for display purposes leads to text which represents language as essentially a matter of routine. Dissociation of language for literary purposes leads to discourse which represents language as essentially a matter of creating meaning by procedures for making sense." (p. 212)

なお、著者にとって文学教材とは次のようなものとも述べられています。

"I am suggesting, then, that any presentation of language which is meant to have the implication of discourse is cast in a literary mode if it detaches language from its social setting and so represents meaning as a function of language itself without dependence on external context." (p. 208)

したがって、逆に言うと、普通のパタン・プラクティスで用いるようなusageの英文であったとしても、language useとして取り扱われる文脈に置かれるのであれば、文学的特質(literary quality)を帯びることになるとされています(p. 208)。

●英語教育における文学教材の意義

著者はこのことについて以下のように述べています。

"This[=discourse which represents language as essentially a matter of creating meaning by procedures for making sense] is central relevance to language teaching: it calls for an intensive use and a heightened awareness of just those procedures which have to be engaged whenever people are involved in the learning and using of natural language." (p. 212)

"The useless language of the textbook can have some pedagogic value as a device for demonstration and it can provide repetitive practice for the subconscious assimilation of linguistic forms. These advantages should not be denied. But the problems it poses are internal linguistic problems and not problems outside language which language is needed to solve. So this typical textbook language cannot of its nature develop the procedural activity so essential to language use and learning. Literature, of this nature, can. It can contribute significantly to both the process and the purpose of learning because it is a significant use of language." (p. 214)

ただし、だからといって教科書教材の代わりにどのような文学教材(学習者にとって意味が不明瞭であったりするものなど)でも使用してよいというわけではなく、"We still have the responsibility to provide guidance by the careful selection and presentation of literary texts so that their potential as discourse for developing learning can be realized" (p. 214) とも述べていました。

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2014年6月11日 (水)

C.Bubel(2011).「Relationship Impression Formation: How Viewers Know People on the Screen Are Friends」を読む(R.Piazza,M.Bednarek,&F.Rossi(編),『Telecinematic Discourse: Approaches to the Language of Films and Television Series』,John Benjamins)

ドラマ『Sex and the City』に登場する4人の女性に関して、"how exactly does the audience in front of the screen know that these four women are friends?" (p. 226) という問いを立て、その言語的仕組みを明らかにするために談話分析が施されています。

Bubel, C. (2011). Relationship impression formation: How viewers know people on the screen are friends. In R. Piazza, M. Bednarek & F. Rossi (Eds.), Telecinematic discourse: Approaches to the language of films and television series (pp. 225-247). Amsterdam: John Benjamins.

概要

著者は、alignment("the orientation of the self towards others and the situation" (p. 230))という概念を用いて、ミクロレベルで4人の女性は各自のトラブルについて語り、それにお互いに共感を示したり批判したりすることにより、マクロレベルにおいて友人関係という印象を作り上げていると指摘していました。なお、ミクロレベルで誰が誰にalignmentをしているかということは相互作用の中で刻々と変化しています(alighment shift)。今回の談話分析では、以下の事柄が結果として示されていました。

(1) "implicit alignment processes at the micro-level allow for the balancing of association and dissociation and construct the relationship between the four women at the macro-level" (p. 243)

(2) "Shifting alignment patterns also indicate that Miranda and Carrie form the core of the friendship group while Charlotte and Samantha are somewhat more marginal" (p. 243)

(3) "In the community of practice under analysis, continual shifts between the one and the other function to achive an appropriate balance between openness/closedness, connection/autonomy, and predictability/novelty. These practices of talk-in-interaction also permit criticism and disagreement and establish unique ties between the individual women within the friendship network." (p. 247)

なお、この記事では省略しますが、alignmentという概念について、著者はconversational alignmentとcultural alignmentという概念に細分化して分析をしています。また、前者にはstructural planeとinterpersonal planeがあるとしています。この論文を読むだけでは私は十分に理解することができませんでした。関連した文献が引用されているので、関心のある方はこの論文をつてにそれらの論文をご参照ください。

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K.Akass&J.McCabe(2004).「Ms Parker and the Vicious Circle: Female Narrative and Humour in Sex and the City」を読む(K.Akass&J.McCabe(編),『Reading Sex and the City』,I. B. Tauris)

ドラマ『Sex and the City』における主要登場人物4名の語りがフーコーの性に関する理論に基づいて分析されています。

Akass, K., & McCabe, J. (2004). Ms Parker and the vicious circle: Female narrative and humour in Sex and the City. In K. Akass & J. McCabe (Eds.), Reading Sex and the City (pp. 177-198). New York: I. B. Tauris.

概要

この論文では、このドラマでの主要登場人物たちが、家父長的な観点により構築された女性像(女性は自分を幸せにしてくれる白馬の王子様に探してもらうことを待っている、女性は純粋な存在でなければならない、といった考えなど)をいかにして乗り越えようとしているのか、ということが考察されています。

なお、この論文では、女性のおしゃべりにおける語りに関して、Modleski (1999) を引用しながら、"it takes a second woman to help confer meaning on the first woman's experience" (Modelski, 1999, p. 22)(女性は(自身がどう考えてよいのか分からない)ある事柄について語り、それを他の女性が意味づけする)という構図を持っていると指摘します。そして、その中で、このドラマでの登場人物たちは、以下のような方法を使って家父長的な女性像を乗り越えようとしていると著者らは指摘していました。

(1) タブーとされてきた事柄(性生活や女性の身体に関する事柄など)についての暴露

(2) 笑い

(3) 二重の意味(ただし、その一方は下品な意味を持つもの)を利用したジョーク

(4) 新語の創出

しかしながら、結局はこの作品は社会の中にしっかりと根を下ろしている家父長的な女性像に取り込まれてしまっていると著者らは指摘します。このことに関して、著者らは以下の点を指摘していました。

(1) この作品では劇中の展開をまとめるために他の映画作品へ言及がされるが、結局それらの映画作品には家父長的な女性像が深く入り込んでおり、結果として登場人物はこのドラマでの出来事をそのような考えに基づいて解釈している

(2) この作品の制作会社および視聴者も最終的には家父長的な女性像の中に物語が収まることを無意識のうちの望んでいる(社会の中で無意識のうちにそのように仕向けられている)

(3) Carrie Bradshaw役を演じたSarah Jessica Parker自身が、ドラマの外では家父長的な女性像に基づいて行動していた(Carrie Bradshawの考えを否定はしないが、自身がそのようにふるまうことには否定的だった)

著者らは文化の中で作られる以上、究極的にはその文化の考えを反映せざるをえないと指摘しています。したがって、このドラマは家父長的な女性像を突き崩す刺激とはなったものの、女性をそのような考えから解放するにはまだ時間がかかると指摘されていました。

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2014年6月10日 (火)

筒井康隆(1989/1995).『残像に口紅を』を読む(中央公論新社)

いわゆるリポグラムが実践されているメタフィクション小説です。

筒井康隆(1995).『残像に口紅を』.中央公論新社.(原著は1989年出版)

感想

この作品は、セクションごとに使える文字(または音)を1つずつ消していき、消えた文字(または音)を含んだものは(物語)世界から消えるという規則のもと書かれた実験的メタフィクションです。基本的には主人公による1人称小説ですが、時として3人称的な語りが入ったり、主人公以外に物語世界をコントロールできる者がいたりと、非常に複雑な構造をしています。また、主人公は作家なのですが、文字(または音)が消えていく中で、これまでその作家が書いたことがない官能小説と自伝小説を1人称の語りを通して実践しています。文学作品なので結末についてはこの記事では書きませんが、別に文学的技巧ということを意識しなくても楽しんで読める作品だと思いました。なお、私は文庫版を読んだのですが、その本の最後にはこの作品で実践されているリポグラムの分析が掲載されています。言語の可能性についていろいろと考えることができるので、文体論を研究している人には特におすすめです。

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吉村俊子(2013).「ミステリー教材を使ってみる―モチベーションを高める英語教育」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

Donald D. SobolによるStill More Two-Minute Mysteriesから24話を抜粋(改作はなし)して作成された『ミステリーを読んで英語のスキルアップ』という教材を、必修の一般英語の授業の中で英語力がそれほど高くない学生に対して使用した実践が報告されています。

吉村俊子(2013).「ミステリー教材を使ってみる―モチベーションを高める英語教育」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 131-140).英宝社.

感想

著者は、読解だけでなく、ライティングやリスニングなど様々な技能を授業の中で扱い、総合的な英語力を養成することを目指しています。学習者は「オリジナルの英文を読み進むことと、謎解きが分かった事による二重の達成感を毎回のように味わえた」(p. 136)そうで、授業は大成功に終わったと報告されていました。なお、この作品は、英語母語話者の子供用に書かれているので、それほど難しい英語ではないとのことですが、一方で他の教材では見かけないようなイディオムなどがしばしば出てくるそうです。私はこの教材は使用したことがないのですが、機会があれば使ってみたいと思います。

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松岡信哉(2013).「イギリス文学の人気教材を使った学生による模擬授業の試み」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

必ずしも英語教員志望ではない英文科の学生に英米文学演習(英文科の専門科目)の中でAlice's Adventures in Wonderlandを使ってマイクロティーチングをさせた実践が紹介されていました。教員志望ではない学生に対してマイクロティーチングをさせるという点が非常に斬新に思いました。

松岡信哉(2013).「イギリス文学の人気教材を使った学生による模擬授業の試み」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 121-130).英宝社.

感想

著者のこの実践の目的は以下の通りです(p. 121)。

(1) 授業への参加意識を高め、学習への動機づけを強化する

(2) 英語の読解スキル向上のため、生きた文脈の中でできるだけたくさんの書き言葉のインプットを与える

学習者は、所定のフォーマットにしたがって、担当範囲の模擬授業の準備を行います。模擬授業では、難しい文法・表現の解説、内容理解のTF問題とWH問題、テキスト鑑賞に関わるディスカッション・トピック、の3項目が含まれるとのことでした。

著者は、(1) の目的をさらに高めるために、模擬授業の学生評価を成績の一部に加える、模擬授業で学生によって扱われたディスカッション・トピックを期末レポートの論題に取り入れる、といったことも行っています。

また、著者は授業の中でどのようなディスカッション・トピックが盛り上がったのか報告しています。

(1) オープンエンドではあるが何らかの最も妥当と思われるような答えがありそうだと学習者に感じさせる質問が最も討議が盛り上がった

(2) この物語の展開を予想しなさい、この場面での登場人物の心情を推察しなさい、といった質問はあまり討議が盛り上がらなかった

今後の実践の参考にさせていただきたいと思います。

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2014年6月 4日 (水)

S.Zyngier(1994).「Introducing Literary Awareness」を読む(『Language Awareness』)

Literary Awarenessという概念について最初に提起された論文です。この概念はその後様々な文献で議論されています。この論文を通して、文学教材の指導においてLanguage Awarenessに加えてLiterary Awarenessも扱うことが提唱され、このことによって学習者に文学作品の読解法を指導し、自身で解釈を作り上げるようなsensitised readerへと教育することができるのではないかと考えられています。著者は基本的にEFL環境を念頭において議論しています。また、著者は英米文学だけでなく、英語文学(様々な背景の人によって執筆されたキャノン以外の作品)を授業で積極的に取り入れるべきという主張も行っています(p. 100)。

Zyngier, S. (1994). Introducing literary awareness. Language Awareness, 3 (2), 95-108.

概要

著者は、文学という概念は確かにイデオロギーや帝国主義の産物という側面はあるものの、だからといって教育カリキュラムの中から文学作品を排除するというのは大きな間違いであるとして("My point is that they may run the danger of associating the canon with the discipline and that in doing away with one, they are doing away with the other." (p. 96))、文学教材の指導について考察をおこなっています。著者は文学には必ず人(読者・作者)が関わり、そのような存在を無視して社会・歴史・文化的な観点からの議論のみに基づいて教育を考えるのは大きな問題があると考えています。著者のこの論文での目的は、"to show how Literary Awareness and Stylistics can work together towards sensitising an EFL (English as a Foreign Language) student to the literary experience" (p. 96) とされています。なお、著者は途中からEFLという用語は使わずにEFLit(English as a Foreign Literature)という語を用いています。

この論文で述べられていた事柄は以下の通りです。

(A) 文学を教育に用いる意義

(B) 文学の言語および文体論の文学教材指導における重要性

(C) Language AwarenessとLiterary Awarenessの違い

(D) 文学教材指導法を考えるための理論的枠組み

●文学を教育に用いる意義

著者は以下の4点を挙げていました。

(1) 物事に関して深い洞察を得ることができる

(2) 考えたことがないことについて経験できる(特にSFなどを通して)

(3) 特定の文化共同体(過去のものも含む)に属す人々がどのように世界を考えていたのかということを理解できる

(4) 単純に面白さや喜びを経験できる

●文学の言語および文体論の文学教材指導における重要性

著者は "if readers are aware of how certain language pattern function to create certain effects, they will also be in a position to produce sustainable interpretations" (p. 101) という考えを持っており、文学の言語に着目した読解が重要であるとしています。というのは、解釈というのは "the way the reader perceives the word mesh on the page, that is, how words have been chosen, patterned, and woven together, building a meaningful linguistic texture" (p. 101) から生起すると著者は考えているためです。著者はこのような言語パターンのことをstylistic patternと呼んでいます(作者が何か特別なメッセージを発信したいときにはこのようなパターンが用いられるとLouw (1993) は述べているそうです)。ただし、特定のstylistic patternがどのように評価されるのかはその読者の文化的背景や背景知識に大きく依存すると指摘されていました(p. 101)。

一方で、著者は、多くの外国文学教育において以下のような暗黙の前提が見られるとしています。

"One of the most pervasive assumptions in the teaching of any literature - canonical or non-canonical - is the idea that the student is already a proficient and sensitive reader even in his or her mother tongue." (p. 98)

著者は文学を読む能力、文学の言語への反応の仕方は教育を通して涵養されなければならない(自然に身につくものではない)と考えています。そして、文体論の知見を応用すれば有益な指導法を構築できるのではないかと考えています。

●Language AwarenessとLiterary Awarenessの違い

著者は以下のように説明していました。

"A language aware person perceives structure and patterns whereas a literary aware reader tries to see how these patterns can create effects which contribute with new knowledge, or which produce pleasure, or how a certain text builds on established conventions. Language Awareness sees what ideas are expressed through patterns of language. Literary Awareness adds a further dimension. It concentrates on the art of language manipulation itself, on poesis, and evaluates these expressive linguistic patternes in relation to literary conventions." (p. 99, emphasis in original)

ただし、私個人の感想としては、文学を使った英語教育研究では、この論文で言うところのLiterary Awarenessは、しばしばLanguage Awarenessの一部として議論されることが多いのではないかなと思っています。

●文学教材指導法を考えるための理論的枠組み

著者は、Culler (1975) の文学能力モデルは共同体内の人々が共通して持つ能力の記述を目指したものである一方で、Spiro (1991) のモデルは人によって能力が異なるということを前提として提案されたモデルであると指摘します。著者は、Spiroのモデルの方が有益であると考えていますが、以下の2つの点でこのモデルには問題があると述べています。

(1) the literary critic、the literary scholar、the poet、the appreciative reader、the humanist、the competent language userの6タイプの人々用に個別に文学能力モデルを提案しているが、実際の文学読解では学習者はthe literary critic用の能力とされているものやthe literary scholar用の能力とされているものなど様々な能力が必要となるため、彼女による区分けはあまりにも人工的と言わざるをえない

(2) このモデルはあらゆる人を対象として作られているが、教育が行われる場(地域、教育レベルなど)やコンテクストに応じて状況が異なるため、具体的な状況には適用できない

そこで、著者はSpiro (1991) のindividualismという考え方を踏襲しつつ、aesthetic appreciationという能力を養成するための(the sensitised readerを養成するための)モデルを提案し、Language Awarenessに加えてstylistic patternsを意識させるLiterary Awarenessを扱うことを提唱しています。著者はLiterary Awarenessの指導は文学の指導にはならないのではないかという疑問をしばしば受けるそうですが、文学研究を行う学習者に対して基礎的な能力を身に付けさせることができると考えています。

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2014年6月 2日 (月)

B.Lott(1988).「Language and Literature」を読む(『Language Teaching』)

文学で用いられる言語に関するレビュー論文です。文学を使った外国語教育研究に関する情報もいくつか掲載されています。とはいえ、この論文はどちらかというと20世紀前半から中頃にかけての文学理論の紹介が主となっているため、現在の読者にはあまり新しい情報はないかもしれません。

Lott, B. (1988). Language and literature. Language Teaching, 21 (1), 1-13.

概要

この論文では以下の点がまとめられていました。

(A) 「文学とは何か」という問いを深めるような近年(その当時の近年)の動向

(B) 言語という観点から考えた場合、文学とは何を意味するか

(C) 文学の言語に関する近年の考え方

(D) 文学指導教材の動向

(E) 今後の研究の進展の鍵となると予想される事柄

● 「文学とは何か」という問いを深めるような近年(その当時の近年)の動向

著者は以下の3点を挙げていました。

(1) 文学におけるモダニズム運動

(2) 生成文法や機能文法など言語学における革命

(3) 新批評や実践批評など文学の言語を客観的に考察しようとする動き

●言語という観点から考えた場合、文学とは何を意味するか

著者はまずOEDの定義等から、"there is no need to be apologetic if we use the term 'literature' in reference to a generous range of texts" (p. 3) という点を確認しつつも、"literature is created for the reader to enjoy, to delight in." (p. 3)、"Literature is also expected to please by reason of its good order: a good story is well-ordered by being well-structured; by rhyme, rhythm and regular line-length, a good poem displays a surface order; a drama is pleasing when it is plotted well." (p. 3) という点を忘れてはならないと述べています。

●文学の言語に関する近年の考え方

当時は、「文学の言語」のようなものは存在しないという考え方が主流となっていたそうですが、著者は"there have been some 'languages of literature' which can be identified undeniably as such. Such languages of literature maintain the use of lexical and/or syntactic features, even phonological features (Diller, 1971), which can never have had any currency in the normal language of everyday life." (p. 4) と述べています。そして、そのような例として、deviance(deviation、prominence、foregrounding)とtext cohesionが紹介されていました。前者に関しては、ロシア・フォルマリズムとプラーグ学派に言及がなされており、後者に関しては新批評と構造主義に言及がなされています。

●文学指導教材の動向

著者はL1と外国語両方の教材の動向についてまとめています。そして、以下のように述べていました。

(1) "students, whether native speakers or not, are likely to need more help in interpreting what is deviant than they do in interpreting what is regular or normal. As for the structure of the text, no widely accepted method seems to have evolved yet for presenting this to the ordinary, non-specialist, student reader." (p. 8)

(2) 外国語教育においては様々な試みがなされているものの、テクストの扱い自体は非常にぞんざいになっている点が否めない(p. 9)

上記 (1) に関して、当時はHallidayやSaussureの枠組みに基づいた試みが登場しつつあったそうです。

上記 (2) に関して、文学教材を使って何かをするということに中心があり、文学教材を読めるようにするという点はあまり重要視されていないことが問題とされていました。

●今後の研究の進展の鍵となると予想される事柄

著者は以下の事柄に期待しているようです。

(1) 文学の言語を最もうまく分析できる文法理論はどれかを模索すること

(2) 新コモンウェルス文学など英米圏以外の英語文学

(3) 文体論や言語学が文学理論にもっと注目を向けること

(4) 文学教材を指導する上でマイクロコンピューターを活用すること

(5) 語用論

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幸重美津子(2013).「リーディング指導における誘因の活用と動機づけ―Virginia WoolfのA Room of One's Ownを使用して」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

必ずしも文学を愛好しているとは限らない学習者に対して、Virginia WoolfのA Room of One's Own(これはエッセイです)を使用した一般英語授業の実践が報告されています。学習者の外発的動機づけをどのように高めるかということを中心として考察がなされた上での実践となります。

幸重美津子(2013).「リーディング指導における誘因の活用と動機づけ―Virginia WoolfのA Room of One's Ownを使用して」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 112-120).英宝社.

感想

著者は、「「理解できるという期待」を学習者に与え、読書中に読みの「誘因」となり理解の助けとなる適切な「作業」を提供することによって、学習者の積極的な取り組みや、読み続けるための興味や推進力を維持できる」(p. 113)という心理学の考えに基づいて、文学教材を使った実践の中でどのような「誘因と手段」を学習者に提供したのかが報告されています。

著者が用いた誘因・手段例は以下の通りです。なお、この論文では、以下の (3) と (4) についての説明が主となっています。

(1) 発表担当者の学習者グループに作成させたハンドアウト(担当ページの単語リスト、要約、全訳、参考文献をまとめたもの)を授業前に学習者に配布することで、学習者全員に「理解できるという期待」を与えた

(2) 発表担当者の学習者グループに作成させたレヴューテストを実施し、教師は学習者にそのレビューテストから期末テストを出題すると予告した

(3) 教師は設問形式で内容理解を確認するためのチェックリストを学習者に与え、学習者はそれを念頭に置きながら発表グループの発表を聴いたり、テクストの読解を行わせた(このチェックリストは、理解の道しるべとして機能することが意図されています)。さらに、期末テストはチェックリストを中心に作成することを予告した。

(4) 各学習者にサマリーシート(その章の要約、発表グループへのコメント)の提出を求め、このシートのパフォーマンスは成績の20%を占めることを予告した

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江藤あさじ(2013).「ミルトンの『失楽園』学でキリスト教文化―単語に込められた意味を知る」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

著者は「この授業は、適切な判断材料に基づいて作品の背景を知ることによって、一つのテキストの解釈が大きく変化することのほんの一例を学生に紹介するもの」(p. 105)としています。

江藤あさじ(2013).「ミルトンの『失楽園』で学ぶキリスト教文化―単語に込められた意味を知る」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 102-111).英宝社.

感想

著者は『失楽園』の抜粋を中心として、その他関連した様々な文献(創世記、コリント人への第1の手紙、ジョン・ダンの説教からの抜粋、聖アウグスティンヌスの『神の国』からの抜粋)と同時に読ませる中で、「17世紀英国」、「キリスト教」、「男女の性差」についての理解を学習者に深めさせる実践を展開しています。1年生対象の(おそらく)一般語学の授業の中での1コマの紹介と思われますが、短い時間の中でこれほど多様なテクストを読ませたというのには非常に驚きました。また、学生の解釈が徐々に変化していった様子も報告されており、社会的背景を踏まえた上での文学作品読解指導の重要性及び有益性を示していると思います。まさに、文学の専門家が自身の専門性をフル活用して展開することができる形態の授業だと思いました。

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