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2014年5月30日 (金)

B.Paltridge,A.Thomas,&J.Lin(2011).「Genre, Performance and Sex and the City」を読む(R.Piazza,M.Bednarek,&F.Rossi(編),『Telecinematic Discourse: Approaches to the Language of Films and Television Series』,John Benjamins)

主にジェンダーという立場からドラマ『Sex and the City』の談話分析がなされています。

Paltridge, B., Thomas, A., & Lin, J. (2011). Genre, performance and Sex and the City. In R. Piazza, M. Bednarek & F. Rossi (Eds.), Telecinematic discourse: Approaches to the language of films and television series (pp. 249-262). Amsterdam: John Benjamins.

概要

著者らは、casual conversationというジャンルにおいて、4人の登場人物たちはどのように伝統的な結婚観(または女性観)を受け入れ、時に抵抗しているのかということを分析しています。作品のイメージとは裏腹に、特に結婚に関しては、登場人物たちの中で伝統的な考えがかなり受け入れられていることが示されており、大変面白いと思いました。

また、登場人物はcasual conversation及び環境(空間)を通して自身のアイデンティティーを確立していることもJudith Butlerのperformanceという考えを援用しながら記述されていました。

更に、既に述べたようにこの作品には伝統的な結婚観を受け入れるようなシーンも見られますが、同時に新たな女性像を提示し、それを作品を通して視聴者にnormalizeしている点も指摘されていました。著者らはこの点について、"Sex and the City provides an excellent example of its lead characters doing gender (and many other identities) as they negotiate, clarify and extend their multiple gendered identities in their conversations about living in the particular place and space of the City." (p. 262)

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2014年5月29日 (木)

R.Carter(2007).「Literature and Language Teaching 1986-2006: A Review」を読む(『International Journal of Applied Linguistics』)

著者によるC. Brumfit先生の追悼論文です。著者は、Brumfit先生と共著で執筆した『Literature and Language Teaching』出版から20年が経ち、その本の中で文学と言語教育の関係に関して課題とされたことが、今日の研究ではより深められた形で引き続き議論されていると述べていました。

Carter, R. (2007). Literature and language teaching 1986-2006: A review. International Journal of Applied Linguistics, 17 (1), 3-13.

概要

著者は以下の3点について述べていました。なお、最初の2点に関しては、『Literature and Language Teaching』の章立てに準拠したものであり、それぞれここ20年の研究動向がまとめられていました。

(A) 文学と言語について

(B) 文学と教育について

(C) 文学を使った言語教育研究の今後の課題

●文学と言語について

ここでは、文学理論の状況(キャノンをめぐる議論)、言語カリキュラムにおける文学の位置づけの変遷、英語文学(ポストコロニアル文学など)の展開、の3点についてまとめられていました。

なお、言語カリキュラムにおける文学の位置づけについてはKramsch & Kramsch (2000) に詳しい議論が展開されていますが、著者はこの論文の中でその流れを簡潔にまとめています。参考までに以下に紹介しておきます。

(1) 1940年~1960年にかけて、コミュニケーション重視の言語教育の考えが打ち出され、文学は言語教育カリキュラムから姿を消した

(2) 1970年~1980年にかけて、CLTの登場により、言語教育における文学教材の役割が再評価された("with recognition of the primary authenticity of literary texts and of the fact that more imaginative and representational uses of language could be embedded alongside more referentially utilitarian output." (p. 6))。また、この時期、文学教材を使って語彙学習を行ったり、読解方略、批判的思考、推論プロセスの向上を目指すことができる(このような目的に文学教材を使用できる)、文学教材もその他の読解技能向上用の教材と同様な手順で教育の中で扱うことができる、といった考えが広く共有されるようになった。

●文学と教育について

ここでは主に文体論の貢献(教育文体論)についてまとめられていました。著者が特に強調していたのは以下の2点でした。

(1) "'textual transformations' using comparative text analysis by means of processes of rewriting from different angles and positions by 'translating' the text from one medium to another along an axis of spoken to written, verbal to visual, textual to dramatic" (p. 9)

(2) "the study of the extent to which interpretation is influenced by a perceived existence of tensions between the text and its reception in the wider context of social relations and socio-political structures" (p. 9)

著者は (1) に関して、"the emerging value of such work is its concern with guiding learners through processes of reading and engaging with what such a process reveals for understanding the meanings of texts, not in order to disclose any one single universal meaning but for what it may reveal and mean to the reader in and out of the classroom." (p. 9) と述べていました。

また、近年、第2言語教育の中で文学は第2言語習得論と関わりを持ち始めた点が指摘されていました(ここで第2言語習得論として言及されているのはLantlf他により提唱されている社会文化的アプローチです)。これにより、文学を使った指導はよりprocess-basedな方法が求められることとなり、これはまさにBrumfit先生が構想していたことでもあると述べられていました。

●文学を使った言語教育研究の今後の課題

著者は以下の3点を課題として挙げています。

(1) "to address the absence of empirical classroom-based research and to begin to ensure that very proper concerns with pedagogic process are better rooted in verifiable evidence of classroom practice; in other words, to generate enhanced paradigms for greater empirical investigation, probably by means of more successful integration of quantitative and qualitative methodologies." (p. 11)

(2) to address more directly questions to do with assessment in literature" (p. 11)

(3) 認知詩学、コーパス言語学、ナラティブ分析の知見を組み込むことで、言語の文学性に関して新たな視点から考え直すことに加えて、そのことをウェブベースの指導法(学習法)やハイパーテクストやレトリックの考えに基づいた指導と組み合わせてよりよい指導法を模索していくこと

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2014年5月28日 (水)

A.Hirvela(1989).「Five Bad Reasons Why Language Teachers Avoid Literature」を読む(『The British Journal of Language Teaching』)

重要な文献であるにもかかわらず、見落としていた論文です。理論研究では文学教材の役割が見直されてその有効性が指摘されているにもかかわらず、なぜ教育実践の中ではその動きが反映されないままでいるのか(教師はなぜ文学教材を英語教育の授業で使用しないのか)ということについて5つの理由が挙げられていました。

Hirvela, A. (1989). Five bad reasons why language teachers avoid literature. The British Journal of Language Teaching, 27 (3), 127-132.

概要

著者が挙げていた理由は以下の5点です。

(1) 「文学=キャノンの作品群」という間違った等式化が英語教師の中に定着していること

(2) そもそも教師自身が限られたテクスト(新聞やゴシップ雑誌など)しか読んでいないこと

(3) 教師は既成の教材(CLT用のカリキュラムにしっかりと組み込まれた教材)を使用することに固執していること

(4) 文学教材を使用するには多大な準備や労力が必要になること

(5) そもそも教員養成の段階で文学教材の使用について扱われておらず、これから教師になろうとする学習者に"literature has no place in language teaching" (p. 131) というメッセージが暗黙のうちに発せられていること

上記 (1) に関して、大学で受けた教育や日頃の生活からそのような考えが刷り込まれてしまっていて、日頃教師自身が読んで楽しんでいるSF作品などは文学とはみなさないという状況が生じてしまっていると著者は指摘しています。さらに、"neatly packaged, linguistically sterilized teaching materials are not only the norm, but also the preference because of the ease with which they can be taught. 'Literature', as they improperly conceive of it, cannot possibly be manageable in the classroom." (p. 128) という点からそのようにみなされた文学教材を英語の授業で使用することが避けられているようだと指摘されていました。著者は、「文学」に関するこれまでの観念を改めて、教師は自分が面白いと思った作品を積極的に授業で使用していくことが必要であると述べています。

上記 (2) に関して、教師は文学作品をそもそも読んでおらず、よって授業でも使用しようとしないという流れができていると述べられています。結果として、教師は限られた方法でのみ授業を行うしかなく、学習者は限られた範囲での言語にしか触れることができないという負のスパイラルが生じていることが指摘されていました。

上記 (3) に関して、著者は "The materials remove all threats, all possibilities for surprise, and are thus a kind of pedagogical saviour for language teachers who lack imagination or initiative. Hence, they are almost a lifeline to many teachers; without them, teaching would be out of the question." (p. 129) と述べており、"The use of literary texts requires creative, inspired, analystical teaching." (p. 130) であるため、このような状況には文学教材の入る余地はないと述べられていました。

上記 (4) に関して、著者は多くの教師は結局 "the determining factor in the decision made is not the question of which approach best serves the students, but rather which is easier to follow." (p. 130) となっていると問題視しています。著者は文学教材の授業準備をすることで、教師は様々な発見に出会えるし、指導を刷新できるとしています。既成の方法に基づいて指導をし続けていれば、教師は自身の仕事に興味・関心を失ってしまうのではないかと危惧されていました。

上記 (5) に関して、教員養成用のテキストにも文学教材の使用について扱われているものは稀であり、そのようなものがあったとしても(著者によると、この論文が出版された当時そのようなテキストがいくつかあらわれているそうです)あまり注目を浴びていないと述べられていました。また、第二次世界大戦後の言語学も文体論を除いては文学に好意的な態度を示していないと指摘されています。Henrichsen (1983) は教員養成の中での文学の位置づけを調査したそうですが、その重要度は非常に低く評価されています。

著者はこれまでの議論を以下のようにまとめています。

"The key in this struggle is a fundamental shift in the prevailing view of literature itself. Long-standing notions concerning the sanctity of the literary canon must be abandoned, so that teachers can embrace the far wider supply of useful literary texts readily available to anyone who seeks them out. Narrow minded linguistic notions about the presumed inappropriateness of literary expression must also be cast off. Instead, teachers must come to see, or be trained in teacher preparation programmes to understand, that, as Moody (1971:22) has noted, "The study of literature is fundamentally a study of language in operation". Looked at in those practical terms, literature can fit into virtually any language teaching methodology. If literature can be seen in this proletarian context, rather than in the elitist light of the literary canon and the selective scope of linguistic imperarialism, teachers may be able to overcome the unreasonable resistance discussed earlier." (pp. 131-132)

そして、以下のような展望を述べていました。

"Literature is not, and no doubt never will be, everyone's cup of tea. But, if defined and presented fairly in the various forums in which language teaching is examined, it may prove to be more teachers' cup of tea than is presently the case. Hopefully, the day is not far off when those empowered to shape and inculcate language teaching methodology will permit literature a more favourable place in the pedagogical line-up than they have up to now." (p. 132)

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2014年5月27日 (火)

J.サイクス(2012).「デジタルゲームと第二言語語用論的能力」(広谷真紀(訳))を読む(畑佐一味・畑佐由紀子・百濟正和・清水崇文(編),『第二言語習得研究と言語教育』,くろしお出版)

この論文では、第2言語語用論的能力の習得を目的としたデジタルゲームの効用や意義について議論がなされています。また、外国語としてスペイン語を学ぶ学習者にスペイン語の語用論的能力を習得させるために開発されたデジタルゲームの紹介がなされていました。

サイクス,J.(2012).「デジタルゲームと第二言語語用論的能力」(広谷真紀(訳)).In畑佐一味・畑佐由紀子・百濟正和・清水崇文(編),『第二言語習得研究と言語教育』(pp. 275-289).くろしお出版.

概要

著者は、「二人以上のプレーヤーがゲームをリアルタイムで共有し、かつ、言語学習を目的とした(つまり商業用のゲームではない)ものに限定」(p. 277)で語用論的能力の発達に役立つと考えています。

そして、そのようなゲームは以下の3点の特徴を共通して持っていると述べられていました(p. 277)。

(1) それぞれの個々の学習者にとってユニークな学習体験ができるという点

(2) 学習者に言語をいろいろ試してもらえるという点

(3) タスクがうまくいかなかった時に、その学習者にあった、足場作りとなるような(scaffolding)、フィードバックが与えられるという点

さらに著者は、こういったゲームは、ゲームのキャラクターになることを通して様々な体験ができたり、そのキャラクターに合った言語使用をしないと先に進めない、自分の思った通りの結果が得られないような状況を作れるといったプログラミングがされており、こういったプログラミングは語用論的能力発達に有益であると指摘されていました。そして、従来の教室での授業では難しかったようなインタラクションの体験が可能になるとされています。

最後に著者は、Croquelandia(総合的没入型環境)とMentira(携帯端末を使った地域密着型の拡張現実ゲーム)を例として紹介していました。前者に関しては、まだ十分にその効果は検証されていないようですが、この論文が執筆された時点ではメタ語用論力の発達に効果があったことが確認されているようです。後者の効果に関しては、検証中とのことでした。後者のゲームは、殺人事件の真犯人を探すというタスクをこなす中で様々な人とインタラクションを行い、その中で語用論的知識を発達させるというデザインになっているそうで、大変興味深く思いました。

今回この論文を読んだのは、言語学習用のロール・プレイング・ゲームがあればみんな夢中で英語学習をするのではないかということを学部生時代に考えたことがあったためです。そのうち語用論的知識もeラーニングで対応できる時代が来るのかもしれません。

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K.L.Pike(1988).「Bridging Language Learning, Language Analysis, and Poetry, via Experimental Syntax」を読む(D.Tannen(編),『Linguistics in Context:Connecting Observation and Understanding (Lectures from the 1985 LSA/TESOL and NEH Institutes』,Ablex)

久々にタグミーミックス関連の文献を読みました。しかし、この論文ではあまりタグミーミックスのことは前面に出さず(とは言え、もちろんこの論文での論考の下地にはタグミーミックスがあります)、短い文章を使ってそれが指す内容(referential structure)を変えずに統語(grammatical structure)をいろいろと操作するという方法(著者はexperimental syntaxと呼んでいます)によって、言語学習、ひいては詩の理解・作成を高めようという試みがなされています。また、文法や詩の規則はすべてが自然に身につくわけではないため、教師による指導が必要であると指摘されていました(もちろん、この論文で提案されている方法を使って指導することを著者は提案しています)。

Pike, K. L. (1988). Bridging language learning, language analysis, and poetry, via experimental syntax. In D. Tannen (Ed.), Linguistics in context: Connecting observation and understanding (lectures from the 1985 LSA/TESOL and NEH Institutes) (pp. 221-245). Norwood, NJ: Ablex.

概要

著者は、以下のような考えに基づいて言語教育及び詩の読解・作成について提案を行っています。

"the more isomorphic the grammar and the referential structures, the fewer the grammatical signals needed to retain the meanings without serious loss or distortion. It follows, then, that in a text where the telling sequence closely parallels the happening sequence, fewer grammatical signals are needed, but where there is inversion of sentences or of whole texts, more signals are present." (p. 229)

そして、従来の学習方法に加えてこの論文で提案した方法(短い文章を使用して、その文章が指す内容を変えないままその文法に様々な操作を加えるという活動)を追加して用いることによって、学習者は効果的に外国語を学習することができるのではないかと主張されています。

さらに、詩の理解・作成に関しては、以下のように述べています。

"The use of the poetic kaleidoscopic experimental change of focus, on the other hand, could serve as a stimulus for the more advanced training of people who need stimulus to change their observer stance for the writing of interesting compositions, or aesthetic experession. This could occur without demanding of them a change of belief or data, but rather by a shift of attention, with corresponding focus on who they are and on their views of their perspectives on life's small or large problems." (p. 242)

詩の指導については、著者による自作の詩が豊富に引用されており、それらをもとに議論が展開されています。一部、タグミーミックスの知識が必要になる部分もありますが、その知識がなくとも論文全体の趣旨を理解することは可能だと思います。

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2014年5月26日 (月)

V.E.Alexandrov(2007).「Literature, Literariness, and the Brain」を読む(『Comparative Literature』)

著者は、脳科学的なアプローチは文学研究の進展に貢献するという考えに基づいて、文学研究に関連する事象を扱った脳科学研究をレビューしています。特に、Jakobsonの考えが重要視されており、その理論的考察をサポートするような証拠が重点的に紹介されているように思いました。

Alexandrov, V. E. (2007). Literature, literariness, and the brain. Comparative Literature, 59 (2), 97-118.

概要

この論文では、以下の内容が取り上げられていました。

(A) 文学に関連する事象を扱った脳科学研究結果のレビュー

(B) 上記のレビューに基づいた考察

●文学に関連する事象を扱った脳科学研究結果のレビュー

著者は以下の事柄を紹介していました。

(1) 右脳が障害を受けると修辞的な意味が求められる場面であっても字義的意味を好む傾向が表れる(ただし、メタファーの理解に際しては左脳が活性化する、メタファーの理解で右脳が活性化するがそれはメタファー自体ではなくその他の要因がそれを引き起こしている可能性がある、という研究結果も付記されています)(p. 105)

(2) "The right hemisphere quickly activates a loose or "coarse" range of meanings associated with a word that is presented to it, while the left focuses on the most probable meaning of a word in the given context and is characterized by relationships that are hierarchical and logical." (p. 105)

(3) During reading, the right hemisphere recognizes relationships among words that share letters of the alphabet whereas the left does not. This implies that on the visual level of orthographic reprsentation more processing occurs in the right hemisphere, whereas in the left hemisphere processing moves quickly from orthography to semantics and phonology. This conclusion would seem to be applicable to reading the kinds of texts that rely on sound repetitions (even though orthography and phonetics are not identical), such as poetry or certain kinds of artistic prose." (p. 106)

(4) 右脳は左脳よりも語をゆっくりと処理する(p. 107)

(5) "the brain is more actively engaged when trying to make sense of an utterance that consists of familiar words taken out of their habitual contexts and placed in unfamiliar juxtapositions than when it makes sense of everyday words in everyday utterances." (p. 108, emphasis in original)

(6) "The right hemisphere appears to have a special role with regard to constructing the overall meaning of utterances. Whereas the left hemisphere deals with such features of language as phonemes, grammar, and syntax, the right is concerned with processes such as connecting sentences into paragraphs, appreciating irony, and, it would seem, recognizing metaphors. Damage to the right hemisphere impairs an individual's ability to understand humor (he or she cannot connect the punch line to the preceding part of the joke), to make inferences, to understand the relevance of contexts, and to understand emotion in spoken language... Evidence from patients with right hemisphere damage also indicates that "global coherence" ― the connection of individual sentences to an overarching "text macrostructure" or to information earlier in a text ― is typically achived by the right hemisphere." (p. 109)

(7) "the left hemisphere functions in "predictive" fashion by activating words that are likely to appear next, whereas the right hemisphere engages in "integrative" processing, comparing new words to those encountered previously. As a result, the left hemisphere may be more efficient than the right in everyday language processing, comparing new words to those encountered previously. As a result, the left hemisphere may be more efficient than the right in everyday language processing when it encounters expected words, but less efficient when its intial expectations have to be revised... The right hemisphere's ability to maintain multiple meanings would clearly be an advantage when ambiguous meanings arising from unexpected juxtapositions of words need to be interpreted and when intial interpretations need to be revised." (p. 110)

(8) 創造性は右脳に一側化しているということは間違いであるが、右脳での連想的な意味の処理が関わってはいるようである(p. 111)

(9) 創造性や文学性に関わる言語処理は精神分裂症などの精神疾患とつながりがあるが、それでも何らかのselective evolutionary advantageをヒトにもたらすものと考えられる(p. 112)

(10) Corballis他の研究:人間の左脳は逐次的処理を優勢に行っていたために言語も左脳へと一側化がなされた。その際、視空間処理を担っていた組織が言語処理用に再利用された。一方で、右脳は視空間処理の能力を保持し続けた。"This asymetry increased over the course of human evolution and was thus caused not by the development of a new capacity in the right hemisphere, but by the loss of one in the left. The authors also suggest that the benefit of human cerebral asymmetry is the ability to carry out different linguistic and cognitive processes, which can be shared via commissures between the hemispheres." (p. 112)

著者は、(1) ~ (3) の結果から、Jakobsonのmetaphoric pole of languageについては右脳がより重要な働きをしていると仮説を立てることができるとしています。

(4) に関しては、著者はこの現象の説明として2つの考え方を紹介しています。詳細は割愛しますが、それらは右脳はsubordinate meaningを活性化するという説、ある語に関して複数の意味が一定期間右脳で活性状況が継続するという説、の2つです。詳しくはこの論文を直接ご参照ください。

(7) に関して、著者は左脳はsyntagmatic axisに、右脳はparadigmatic axisに大きく関与しているようだと述べています。

●上記のレビューに基づいた考察

著者は、これまでの先行研究をもとに、左脳と右脳の言語処理について以下のような一般化が可能ではないかとしています。

(1) 左脳について:"The left hemisphere appears to be the locus of linear, sequential, syntactically and grammatically organized linguistic meaning; its lexicon is characterized by semantic fields based on proximal, hierarchical, metonymic, or logical relations; when making sense of language, it suppresses ancillary or secondary meanings of words. Language processing in the left hemisphere is thus organized temporally and syntagmatically, and it is concerned with local, sentence based coherence that is a function of the characteristics I have listed." (p. 113)

(2) 右脳について:"The right hemisphere's semantic fields are restricted in number and are characterized by a looser or coarser semantic focus. Via metaphoric linkage, the right hemisphere can construct meanings from distal words that may otherwise seem unrelated to each other in the given language (and, one should add, at a given cultural moment). Because ancillary and secondary meanings of words linger in the right hemisphere and are not actively suppressed, these secondary meanings are made available to the left hemisphere when the individual is attempting to read an ambiguous text. In contrast to the left hemisphere, the right is concerned with the "global" coherence of the entire text and is more sensitive to orthographic repetitions; thus, the right hemisphere is organized paradigmatically and "spatially."" (p. 113)

著者は、近年Jakobsonの枠組みは人気がなくなってきているが、もう一度彼らの研究した「文学性」というものについて再考すべきではないかと主張していました(この記事では省略しましたが、近年の文学研究は「文学性」について問うことはほとんどなくなり、社会文化的側面からの考察が中心となってきていると著者は述べています)。そして、そうすることによって文学研究が新たな方向へと進むことがきるのではないかと述べられていました

なお、この論文で紹介されている調査研究結果は、あくまでも文学読解にとっては間接的なものとなります。著者によると、  "Thus far, I have not found any studies in which investigators tried to understand what was happening in subjects' brains while they read entire works of poetry or artistic prose in comparison to simple discursive texts. (This kind of investigation would also need to be carried out in different cultural contexts in order to assess the influence of cultural expectations on reading.)" (p. 114) とのことです。

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森永弘司・竹村理世・北島美咲・後藤せいこ(2013).「小説Dead Poets Societyを用いた読解力及びクリティカル・シンキング力養成の授業の試み―映画Dead Poets Societyとのコラボレーションによる」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

小説『Dead Poets Society』をその映画版と組み合わせて、読解力、批判的思考力、プレゼンテーション能力の養成と英詩の入門が試みられています。

森永弘司・竹村理世・北島美咲・後藤せいこ(2013).「小説Dead Poets Societyを用いた読解力及びクリティカル・シンキング力養成の授業の試み―映画Dead Poets Societyとのコラボレーションによる」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 93-101).英宝社.

感想

著者は、小説を使った30年近くの指導実践から、小説が人気が高い、「学生たちと同年代の若者が主人公で、彼ら或いは彼女たちが人生上の諸問題に逢着し、それに真摯に取り組んでいく姿を描いた小説」(p. 93)が特に人気が高い、という点を指摘し、『Dead Poets Society』は2点目の特徴をかなり備えた作品であると述べています。事実、学習者もこの作品に関しては非常に興味を引きつけたことがアンケート調査で明らかにされています。さらに、学習者は文学作品は教養を高めると考えていること、学習者は文学作品は大学で教える意義があること、もアンケート調査で明らかにされていました。同時に、実践を通して語彙力、文法力、総合的英語力が向上したことも熟達度テストの実施によって明らかにされています(ただし、文法に関しては、その向上の値が小さく、実践の前後でのスコアの間に統計的有意差は見込めないかもしれません)。

著者は、この作品を扱う際に、英詩の入門レベルの指導を1回は行うこと、Robert Herrickの "To the Virgins, Make Much of Time" を扱うこと、をその留意点として挙げています。そうすることで、この作品の理解がより高まると考えられています。また、この作品の映画版を見ていない人にどうしても見たくなるようなプレゼンを英語で行うという活動も行われており、大変面白いと思いました。それ以前に課題として出されているレポート課題(批判的思考力を養成するような課題が与えられています)の内容を適宜組み合わせる形での活動であり、授業自体に連続性を持たせるように配慮がなされています。また、プレゼンの評価は学生と教師が両方行い、学生の評価も授業の最終成績に組み込むという考え方は非常に興味深く思いました。

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須田久美子(2013).「『マイ・フェア・レディ』のイライザと共に学ぶ―読解力と英語学習意欲の向上を目指して」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

英語が専門ではない文系混合クラスでミュージカル『マイ・フェア・レディ』の台本を使用した授業実践の報告です。

須田久美子(2013).「『マイ・フェア・レディ』のイライザと共に学ぶ―読解力と学習意欲の向上を目指して」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 83-92).英宝社.

感想

著者は授業のねらいとして「英語の原典を読むことで読解力を向上させることに加えて、英語教育に対するヒギンズ教授の情熱とイライザの必死に努力する姿を通して、学生たちにいま一度英語を学ぶことに対する新鮮な喜びや興味を持ってほしいということ」(p. 83)と述べています。英語力の向上と作品の理解という目的が有機的に合致しており、この作品の特徴が最大限に生かされていると感じました。

本実践では、まず初回の授業でこの作品の下地になっているバーナード・ショーの『ピグマリオン』が更に下地にしているオウィディウスの『変身物語』を英語で読ませ、感想を聞きます。そして、毎回の授業で、『マイ・フェア・レディ』の指定範囲を音読、解説、エクササイズ、映画鑑賞、あらすじと感想のまとめ、という手順で指導が行われたそうです。授業では、第1幕のみを扱い、第2幕は映画で視聴する形をとったとのことです。また、最終回の授業では『ピグマリオン』の結末とショーによる後書きを読み、『マイ・フェア・レディ』と比較して意見を書かせるという活動が行われています。著者は、内容理解だけでなく、イライザのコックニー訛りの英語及びそれを表現するための独特のスペリングなどにも学習者を注目させていました。

著者は学習者による反応を分析する中で、この作品は学習者の興味、関心、英語への学習意欲を高めたということを示していました。

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2014年5月22日 (木)

H.G.Widdowson(1985).「The Teaching, Learning and Study of Literature」を読む(R.Quirk&H.G.Widdowson(編),『English in the World: Teaching and Learning the Language and Literature』,Cambridge University Press)

この著者による文学を使った英語教育関係の論文はほとんど読んでいるのですが、この論文はずっと読まないままとなっていましたので、この度読みました。著者は、外国語としての英語教育に言及しながら、海外の英語文学教育の目指すべき方向性について提案を行っています。なお、著者は、海外の英語文学教育はもっぱら文学を研究することを追い求めてきており、学習者が文学を読めるように促すという視点は欠けていたと考えています。また、海外の英語文学教育には以下のような暗黙の前提がこれまで見られたと指摘しています。

"Generally speaking, the prevailing assumption has been that the approach to English literature teachinjg in a mother tongue context will be transferable, with some minor adjustments, to foreign parts, and will have no particular relationship with how the language is taught." (p. 180)

この論文内で展開されている議論が現在の日本の英語文学教育研究にどれほど当てはまるのかは分かりませんが、いくつも興味深い指摘がなされています。

Widdowson, H. G. (1985). The teaching, learning and study of literature. In R. Quirk & H. G. Widdowson (Eds.), English in the world: Teaching and learning the language and literature (pp. 180-194). Cambridge: Cambridge University Press.

概要

この論文では以下の点が議論されていました。

(A) 文学教材が英語教育で排除されている理由

(B) 海外の英語文学教育の問題点

(C) 文学読解指導法の提案

●文学教材が英語教育で排除されている理由

著者は、英語教育における度重なる革新の中で、文学教材は、訳読や文法と合わせて、"it makes no contribution to the purpose or the process of learening the language for practical use" (p. 180) という理由で排除されてきたと指摘します。さらに、以下の点もその排除を大きく推し進めてきています。

(1) "people do not usually learn English these days for cultural enrichment, as a means of access to the aesthetics of verbal art; that such a purpose belongs to a more elite and leisured age, one which could afford to be less concerned with the exigencies of practical need" (p. 180)

(2) "its obscurity introduces undesirable difficulty, which disrupts the gradual cumulative process of language learning and undermines motivation by the imposition of pointless complexity" (p. 180)

(3) "this obscurity is frequently associated with eccentric uses of language which learners are required to accept in their receptive understanding but to reject as models for their own productive performance. Thus they are obliged to be creative in their reception of language but comformist in their production." (p. 180)

著者は、表面上は文学教材を英語教育に用いることを正当化することは難しいとし、さらに、"And one has to acknowledge, I think, that language teaching has done reasonably well without it[=literature]." (p. 181) と述べていました。

●海外の英語文学教育の問題点

著者は文学教育について以下のように述べています。

"There is no comparable dynamism, no interest in innovation, no quest for underlying principles. Things go on much as they always have done. The only approach that appears to be practised is one imported long since from a first language context and imposed by force of habit without regard to appropriacy. And this approach is heavily protected against the influence of language study and language teaching. ... [W]hat we very commonly get is the expression of a fixed conviction that the integrity of literature as an aesthetic object can only be experienced directly, cannot be explained and is bound to be irreparably damaged by any attempt to treat it as a use of language." (p. 181)

さらに、以下のような考えが海外の文学教育には蔓延しているとも指摘されています。

"Now it may be that the case that literay works are an expression of intuitive awareness controlled by some deep sense of connection inaccessible to intellect which conscious analysis on the part of the artist can only distort." (p. 183)

このような考えから、文学教育は言語学的アプローチを遠ざけ、文学批評をよしとしてきました。しかしながら、文学について語るためにはそういったdeep senseを何らかの形で変形せざるをえず、その点では文学批評も言語学的アプローチも大差はないということを文学教育は見落としていると指摘しています。

さらに、文学教育は学習者の文学学習を促すという視点が全く欠けていたことも大きな問題であると述べています。現に、文学教育は以下のような前提で行われてきたとされます。

"literature teaching is concerned exclusively with study so that students are expected to make critical observations about literary works, on the supposition that they have already learned how to read them." (p. 185, emphais in original)

そして、著者は文学教育とは "to instruct students in a sort of simplified version of literary criticism so that they may be given access to significant aspects of the work they are studying without having to go through the bother of learning to read it for themselves." (p. 185) という形で進めていくのが望ましいと述べています。著者曰く、これは英語教育における教育プロセスと同じ原理であると述べています(英語教育でも、その学習者が英語のコミュニケーションで必要となるであろう言語のサンプルを学習者に与えながら進んでいくことになります)。

●文学読解指導法の提案

著者は文学読解指導とは具体的にどのようなことを行えばよいのか議論していきます。まず、著者はcreative readingの能力を促すことであると考えており、文学教育は "to evaluate the critical judgements of others against their own experience of literatue and so make criticism an extension of their own interpretation rather than a replacement for it" (p. 186) させることであり、"to develop a capacity for the understanding and appreciation of literature as a mode of meaning, rather than the accumumation of information and ideas about particular literary works." (p. 186) であると述べています。

このことを行うためには、著者は文学の読解はその他の読解とは異なるということを理解させることが必要であると考えています。そして、次のようにその違いを説明しています。

"Now literature does not refer to conventionalized reality, but represents a reality which cannot be accommodated within the schematic structures of what is factually true or actually real. It represents a kind of alternative reformulation in a different epistemological dimension (see Widdowson, 1984). In consequence, we cannot, when we read it, just use the language to plug us in, as it were, to what we already know. The language must itself create the contextual conditions for understanding, it must build its own schematic framework. Now, obviously, this framework must bear some resemblance to that which operates on the ordinary conventional plane, or otherwise it could provide no basis whatever for understanding, but it is distinct from it, dissociated, self-enclosed." (p. 187)

"The language of literature is required then not to confirm an existing order of reality which can be recognized as conventional but to create an alternative order of reality within its own self-generated context." (p. 187)

著者は文学作品の "context-creating use of language" を理解させるための方法として、以下の2点を提案しています。

(1) 作品の第1段落を少しずつ提示し、どのような情報が前提とされており、どのような意味があるのかということを学習者にその都度推測させる

(2) 作品の冒頭と別バージョンの冒頭を比較させ、その読解や意味にどのような違いが現れるか考えさせる

また、詩の読み方を教えるための方法として、"providing students with alternative linguistic expressions within the context of the poem, and requiring them to choose the ones they prefer and to give reasons for their choice" (p. 192) といったものを例とともに提案していました。

著者は上記のように述べて、この論文を以下のような言葉で締めくくっています。

"I have argued in this paper that the task for literature teaching is to develop in students the ability to perform literature as readers, to interpret it as a use of language, as a precondition of studying it. Let me stress again that this does not mean that literary study, as I have defined it, does not have a crucial role to play in educatin here and overseas, but only that students need to be prepared properly to engage in it as a genuine critical enquiry leading to personal appreciation, and not just as a trafficking in fine phrase and packaged judgements. Literature learning, if you like, preludes not precludes literature study. I believe this to be true whether the literature is in the mother tongue or not, whether we are talking about literature in English for speakers of English or speakers of other languages. With speakers of other languages, however, the learning of literature in the way I have suggested has the additional advantage that, with due regard to the need for careful selection and presentation, it can be closely related to language learning since it calls for the particular intensive use of the procedures for realizing meaning in context which are required as a resource for ordinary discourse processing when meanings cannot be easily inferred by reference to existing schematic knowledge. In other words, literature reading provides the means for the purposeful practice of procedures of interpretation which need to be engaged for reading in general. (改行) As far as English literature teaching oversaes is concerned, therefore, it can, in my view, only have meaning and purpose if it is integrated with the teaching of English language."

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2014年5月21日 (水)

K.Paesani(2005).「Literary Texts and Grammar Instruction: Revisiting the Inductive Presentation」を読む(『Foreign Language Annals』)

初等教育における外国語としてのフランス語教育において、詩の読解を通してフランス語の文法(関係代名詞)指導を行うという状況を想定して、その指導手順が提案されています。著者は、この研究の目的を以下のようにまとめていました。

"The goal of the proposed technique is to provide learners with meaning-bearing input to assist their acquisition of grammatical forms, to raise students' consciousness about the language they are learning, to encourage meaningful communication among learners, to develop strategies and skills in the reading of literary texts, and to allow students to see the essential link between literature and language." (p. 16)

Paesani, K. (2005). Literary texts and grammar instruction: Revisiting the inductive presentation. Foreign Language Annals, 38 (1), 15-24.

概要

この論文では以下の事柄が述べられていました。

(A) この論文で提示する指導法の背後にある考え方の説明

(B) 指導手順の提案

●この論文で提示する指導法の背後にある考え方の説明

著者は以下の考え方に基づいて指導法を提案します。

(1) 文法指導は帰納的な方法を採用する

(2) リーディングについては相互作用モデルを採用する

(3) 文学教材は初等教育といった入門期であっても外国語教育の教材として有益に機能しうる

(4) 指導の中で何度も違う目的で同じテクストを使用する

(5) 使う教材は、accessible to learners、of interest to learners、have a substantive plot、have clear sequential development、of an appropriate length with a minimal amount of description、grammatical structures are repeated、high frequency or transparent vocabularyといった特質を具えたものが望ましい(p. 20)

(6) "whenever possible, literary texts should be integrated into the themes treated in the lesson or chapter" (p. 20)

上記 (4) に関しては、著者は "At the beginning of the lesson, for example, the text serves as comprehensible input during the inductive presentation, and is a resource for the identification of specific forms. The text is then reintroduced later in the lesson plan and serves as the basis for meaningful. creative language use." (p. 18) と述べています。

上記 (5) と関連して、この論文では関係代名詞が異なる文で何度も繰り返されている作品が選択されています。

なお、文学作品を文法指導のための帰納的なインプットとして使用する方法はこの論文以前にも提案されており、Kelly (2001)、Barnett (1989)、Shook (1994)をはじめ、ホール・ランゲージやstory-based language teaching(PACE model)でも実践されているそうです。

●指導手順の提案

16段階からなる指導手順が紹介されています。著者もところどころで触れてはいますが、focus on formの指導となります。具体的な手順の紹介はここでは割愛したいと思います。

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J.Kane(2004).「Poetry as Right-Hemispheric Language」を読む(『Journal of Consciousness Studies』)

詩で散見される言語表現の処理が主に右脳を中心に行われているという調査結果を示した研究をまとめたレビュー論文です。現段階では、やや情報が古くなってしまってはいますが、非常に勉強になる論文であることには間違いありません。

Kane, J. (2004). Poetry as right-hemispheric language. Journal of Consciousness Studies, 11 (5-6), 21-59.

概要

この論文では以下の2点について述べられていました。

(A) 詩で散見される言語表現の脳内処理について

(B) 詩で散見される言語表現が右脳で統轄されている理由

●詩で散見される言語表現の脳内処理について

この論文では以下の結果等が紹介されていました。各項目に関する具体的な先行研究の情報はこの論文を直接参照ください。

(1) imageについて:単純で動詞由来でない名詞の処理では右脳が左脳よりも活発である(抽象的な名詞の処理は左脳の方が活発)という結果があるが、イメージの強い名詞と形容詞の処理に関しては、両半球が同等に活性化するという結果もある(ただし、イメージ性の強い物語を読むと右脳の方が左脳よりも活性が高まるという結果もある)。

(2) simileとmetaphorについて:これらの表現の理解は、右脳が障害を受けると低下するという結果が多く報告されている。Sinatra and Stahl-Gemake (1983) は "the right hemisphere's ability to comprehend similes and metaphors might be related to its ability to process visual analogies on the basis of matching a common trait" (p. 24) という仮説を立てている。

(3) synaesthesiaについて:ある情報の処理に関して、通常の人よりも広範な領域が活性化することで生じたり、anomalous hemisperic dominanceによって引き起こされると考えられており、現に女性(男性よりも一側化の度合いが低いとされる)や左利き・両利きの人に生じやすい。また、共感覚を経験している最中は、左半球の血流が18%ほど減少するという報告がある。

(4) allusion(ここでは、social interaction formulae (e.g., greetings)、expletives、overlearned lists and serials (e.g., days of the week)、song lyrics、proverbs、idiomsなど、"'familiar expressions' for 'overlearned, holistic expressions'" (p. 25) を指しています)について:右脳が障害を受けると、これらの表現を口に出したり、説明したり、理解したりすることが著しく困難になるという結果が報告されている。

(5) personificationについて:まだ具体的な研究はされていない。しかし、幼児や文字を持たない人々(彼らはいずれも言語機能の左脳への一側化が起こっていない)のanimismの習慣を考えると、右脳の関与が推測される。

(6) synechdocheとmetonymyについて:右脳は部分的な情報から全体を理解する能力に長けているという調査結果が多く報告されている。

(7) paradox、oxymoron、irony、understatement、litotes、hyperboleについて:右脳が障害を受けると、文字通りではない情報の理解に著しい困難をきたすようになることが報告されている。

(8) emotionについて:右脳が障害を受けると、発話から話者の感情を読み取ったり、自分で感情を表現するということに関して著しい困難をきたすようになることが報告されている。

(9) connotationについて:右脳が障害を受けると、connotationの理解に著しい困難をきたすようになることが報告されている。

(10) symbolについて:直接的な研究はまだないが、connotationが右脳で処理されていることを示す証拠が提出されていることを鑑みるに、おそらくsymbolも右脳で処理されているのではないかと推測される。

(11) assonanceについて:右脳は左脳とほぼ互角に母音を処理できることが報告されている。

(12) alliterationについて:子音は基本的に左脳が処理するが、人工的にその音が引き延ばされたり、その音に特別な意味が賦与されたりする場合には、右脳がその音を処理することができることが報告されている。

(13) onomatopoeiaについて:まだ直接の研究はないが、右脳は環境音の処理を担っていることを考えると、右脳の関与が推測される。

(14) rhymeについて:右脳が関与していそうだという結果も報告されてはいるが、あまり強力な証拠とは言えない。assonanceと違って、rhymeは言語普遍性が低いため、左脳がその処理を担っていたとしても別に驚くことではない。

(15) prosody(stress、intonation、rhhtym、meter)について:感情など非言語的なprosodyの理解は、右脳が障害を受けると著しく低下することが報告されている。

(16) line length、end-stopping、caesuraについて:一般に詩の1行は7から17音節から構成され、発音に2.5~3.5秒かかり、その後でポーズが来る。18以上の音節を持つ行にはたいてい行間休止が伴う。Turner & Poppel (1989) は、このような行の区分について、"a way of introducing right-brain processes into the left-brain activity of understanding language" (p. 38) という仮説を立て、さらに3秒という時間はhuman present momentであり、"for a speaker to gather what he or she will say next and for a listener to comprehend and integrate what has just been said" (p. 38) ではないかという仮説も立てている。ただし、まだこれらのことを支持する実証的証拠は得られていない。

(17) parataxisとparallelismについて:同格的思考は右脳に一側化されているという証拠が示されている。

(18) storyについて:右脳が障害を受けると、物語が理解できなくなったり、文を並べて物語を作ったりすること、物語の教訓や登場人物の意図の理解に著しい困難をきたすようになることが報告されている。

なお、著者は (9) に関して、Carter (1998) の仮説を紹介しています。それは、"the presence of more 'white matter', or myelinated 'bundles' of axions, in the right brain than in the left, connecting neurons that are more distant from each other than in the left hemisphere, might be the reason why the right hemisphere 'is inclined to come up with broad, many-faceted, but rather vague concepts'" (p. 32) という考えになります。

また、著者は (15) に関して、Barbara Lex の次のような考えを紹介しています。それは、"on the subject of cultural rituals that employ rhythmic dances, poetic chants, and other 'affective' participatory media to the effect that 'the driving techniques employed in rituals are designed to sensitize and "tune" the nervous system and thereby lessen inhibition of the right hemishpere and permit temporary right-hemispheric dominance, as well as ... to achive synchronization of cortical rhythmes in both hemispheres. ...  [B]oth nerrative and lyric poetry have their origins in collective, participatory, rhythm-driven cultural rituals" (p. 37) というものです。

●詩で散見される言語表現が右脳で統轄されている理由

言語処理に関して、左脳への一側化が起こると、一般に左脳からinhibitory signalが送られるため、右脳はその機能が抑圧されていると考えられます。その一方で、幼児や文字を持たない人々など、言語機能の左脳への一側化が生じていない人々は、詩で特有となるような表現を頻繁に用いています。著者は左脳への言語機能の一側化は自然なものではなく、文字文化の副産物ではないかと考えています。

では、なぜ大人の詩人は幼児や文字を持たない人々と類似した表現を用いて詩作を行うのでしょうか。一般に、躁の状態になると通常の一側化が逆転するそうで、言語機能は右脳で統轄されることになるそうです。そして、詩人は精神疾患を伴っている人が多いということも踏まえて、以下のように述べています。

"Based upon all of the foregoing evidence, it seems possible that many, if not most, poets may experience temporary elevations of mood (hypomania) accompanied by a reversal of normal laterality for language. Hemispheric dominance for language shifts temporarily from left to right, as reflected by a density of right-hemispheric linguistic features marking their linguistic output: similes, metaphors, symbols, assonance, connotation, parataxis, and so forth. Indeed, the compulsive 'need to write' that is familiar to every poet, whether amateur or anthologized, may be a self-prescribed remedy for the discomfort of an overactive right hemisphere: restoring normal laterality by channelling linguistic fuction back from right to literate left hemisphere, and to the writing (or primary typing) hand controlled by it." (p. 51)

著者は、最後にこの論文を下記のようにまとめていました。

"At least in the case of poets, however, whose generation of language rich in right-hemispheric linguistic devices bears such striking similarities to the language of young children and nonliterate adults ― populations whose right-brain language function is greater and whose interhemispheric transfer efficiency lesser than that of normal literate adults ― and given also the relationship between REM (dreaming) sleep and reduced callosal activity (Berlucchi, 1965; see note 8), it seems likely that a sudden and transient loss of or decrease in normal interhemispheric communication, removing inhibitions placed upon the right hemisphere and allowing it to function at a greater-than-normal linguistic activity level, would provide a more likely explanation of the phenomenon of creativity in poets." (p. 52, emphasis in original)

また、この論文とは直接的な関係は薄いですが、第2言語の読解処理は右脳で一度理解された後に左脳に転送されるということを示す調査結果が報告されていました(p. 42)。

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2014年5月15日 (木)

石本哲子(2013).「いまファンタジーにできること―『オズの魔法使い』で英語を学ぶ」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

著者は大学2年生対象の「英文学演習」という科目の中で、『オズの魔法使い』を使用した実践を行っています。英文学の授業のようですが、学習者の英語力(読解力)を伸ばすことに主な重点が置かれています。

石本哲子(2013).「いまファンタジーにできること―『オズの魔法使い』を英語で学ぶ」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 73-82).英宝社.

感想

著者は、文学作品を英語教育に使用する理由として、「文化のモデル」、「言語の規範例」、「個人の成長のモデル」という3点を挙げ(『[英語教育のための文学]案内事典』に基づいています)、『オズの魔法使い』はこのいずれにも該当する教材であるということを示しています。また、こういった理由以前に、そもそも面白い話であるということもその理由として、この教材を授業に用いることとしたそうです。

著者は、リーディング主体の授業であるものの、そこに様々な活動を取り入れています。詳細は割愛しますが、ディスカッション、リスニング(映画を使用)、ライティング(要約とレポートの作成)など、リーディング以外の技能の養成、及びこれらの技能の統合を狙った指導となっています。

この実践で特に私が面白いと思ったのは、小テストの問題を学習者にペアで作成させて次週の小テストに実際に採用する、授業で翻訳を使う場合に原書に戻るという作業を必ず行う、という点です。参考にさせてもらいたいと思います。

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船本弘史(2013).「サマセット・モーム「蟻とキリギリス」から学ぶ視点と価値づけ」を読む(吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』,英宝社)

サマセット・モームの「蟻とキリギリス」を用いた実践です。一般語学のリーディング(初級レベル)の授業の中で、大学2年生を対象に行われています。

船本弘史(2013).「サマセット・モーム「蟻とキリギリス」から学ぶ視点と価値づけ」.In吉村俊子・安田優・石本哲子・齋藤安以子・坂本輝世・寺西雅之・幸重美津子(編),『文学教材実践ハンドブック―英語教育を活性化する―』(pp. 62-70).英宝社.

感想

著者は、英語教育における文学教材の使用に関して「文学作品は社会的・文化的活動を実体化するひとつのジャンルとしていま一度重視されるべきであり、時代の要請に応える英語教育の有望な教材であると言えます」(p. 62)、「単に読解力を伸ばすだけでなく、これをもとに学生自身が深くものを考え、自分なりの意見を引きだす材料として扱うことに留意すべき」(p. 70) と述べています。

著者はさらに文学作品に関して、「言語によって語られる世界は、次々と展開される出来事のみならず、出来事に対する価値づけが登場人物の視点から投影されています。文学作品は、この2面性がひとつの作品に同時的に織り込まれた言語芸術(verbal art)なのです。」(p. 62)と述べています。

著者は、文学作品に関する上記のような理解から、読解スキルとして視点と価値づけといった概念を導入しています。そして、視点は本文中に見られる話法の例と関係づけながら、価値づけは法助動詞、心的動詞、形容詞などと関連づけながら指導が行われています。

この実践では、、学習者がこれまでに学習してきた文法事項(話法、法助動詞、心的動詞、形容詞)を通して、文学読解にとって必要不可欠な要素(視点と価値づけ)を指導するという形が取られています。さらに、ディスカッションやレポート(英文)で自身の考えを発表させる機会が設けられていました。英語教育と文学作品読解が非常に有機的に結び付けられています。

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2014年5月14日 (水)

D.Horowitz(1990).「Fiction and Nonfiction in the ESL/EFL Classroom: Does the Difference Make a Difference?」を読む(『English for Specific Purposes』)

文学を使った英語教育研究への批判論文として非常に有名な論文です。修士課程の1年目に一度読んだのですが、この度再読しました。この論文は、文学を使った英語教育の問題をESPの観点から考察している点が大きな特徴で、その他の類似した論文(EdmondosonやToppingなどによる論文)と大きく異なっています。著者は、文学を使った英語教育研究によって頻繁になされる主張のうち、3つを取り上げ、各議論が破たんしていることを示していきます。

なお、この論文は外国語教育にとって文学が必要か不要かを議論しているのではなく、あくまでも文学が有益であるとする主張の問題点を指摘している、という点にご留意ください。

Horowitz, D. (1990). Fiction and nonfiction in the ESL/EFL classroom: Does the difference make a difference? English for Specific Purposes, 9 (2), 161-168.

概要

著者はこの論文で以下のことについて議論していました。

(A) 文学を使った英語教育について取り上げることにした理由

(B) The "Training Versus Education" Claimの問題点

(C) The "Interpretive Richness" Claimの問題点

(D) Claims Related to the Connection Between Reading and Writing About Literatureの問題点

(E) 著者が考えるところの問題の本質

●文学を使った英語教育について取り上げることにした理由

著者は以下のような理由からこの問題を取り上げることにしたそうです。

(1) 文学の使用が少なくなってきたという主張がなされる一方で、かつてないほど文学教材への関心が高まっているという主張やこのことを裏付けるような事例が見られ、はっきりしないため

(2) 文学教材の使用に懐疑的な立場を示す論文であるTopping (1968) はすでに時代遅れとなってしまい、新たな研究が必要と考えられるため

(3) 外国語教育における文学の使用をめぐる議論はESPにおけるdiscourse communitiesに関する議論の中で議論すればよいのではないかと考えられるため

著者は、以下3つの主張を批判的に検討し、その問題点を指摘していきます。そして、上記の (3) にあるように、"the literature debate is really a microcosm of the discourse communities debate" (p. 161, emphasis in original) ということを示そうとします。

●The "Training Versus Education" Claimの問題点

この主張は以下のようなものとなります。

"teachers have the responsibility to educate rather than simply train their students, and that literature, with its "humanizing influence" (Widdowson, 1984b, p. 161), is ideally suited for this aim" (p. 161, emphasis in original)

著者は、この主張に関して以下のような問題点が含まれているとします。

(1) educateとtrainのどちらが大切かと聞かれて、後者を選ぶような教師はおらず、そもそもこれら2つを対比させて考えること自体が間違っている(つまり、両方とも重要であるということを言いたいのではないかと思われます)

(2) educateの方を選んだとして、それを文学を通して行わなければならない理由はない(他に、哲学、芸術、現在の政治問題を通してeducateすることも可能である)

(3) educateの方を選んだとして、それをESLの中で行わなければならない理由はない(他の教科や活動の中で行うことも可能である)

(4) educateとは学習者をempowerすることであり、例えば学習者にacademic empowermentを施すとすると、教師は"teacher as initiator into the academic culture" (p. 162) という役割を負うことになる。その際、教師は学習者が向かおうとしている学術領域に関する知識を求められることになる。教師は自分よりも学習者の方が知識を持っているという状況になれる必要がある(ただし、文学を使った英語教育の主導者が"Training Versus Education" Claimを行う際に、ここまでの覚悟はしていないし、こういった状況を受け入れる気もないであろうと著者は考えているようです)

(5) 文学教材について読んだり書いたりすることは学習者自身の専門領域でのリテラシーの発達に貢献すると主張しているが、領域によって情報の提示の仕方は大きく異なっており、各学術領域別に学習されなければならない

なお、上記の (4) に関しては、"educate" の意味がempowermentと理解され、さらにacademic empowermentということを具体例として考えた上での問題点の指摘であり、文学を使った英語教育研究の人たちの立場にしてみればやや的を外した批判と言えるかもしれません(ただし、著者はあくまでもESPの立場に立って議論をしているため、このような批判が出てくるのだと思いました)。

●The "Interpretive Richness" Claimの問題点

この主張は以下のようなものとなります。

"fiction provides richer opportunities for interpretation of discourse than does expository prose, basing their claim on an analysis of differences between the two, whereas expository writing has indexical meaning (Widdowson, 1984a) ― it refers to a reality outside of itself: Fiction "refashion[s] reality in the image of new ideas and new ideals" (Widdowson, 1984b, p. 169), creating a world with "internally [italics added] coherent meaning" (Gajdusek, 1988, p. 230)" (p. 163, emphais in original)

この主張の問題点として以下の点が指摘されていました。

(1) 文学教材は具体的な社会的文脈から切り離されている(だからこそ自由に文脈を創り出すことができる)と主張しているが、それは同時に論説文を読む際に必要となるような解釈プロセスから学習者自身を切り離すことにもなってしまう

(2) 文学教材の読解で培った解釈プロセスは論説文の読解に転移するとしているが、解釈プロセスはジャンルによって様々でありる(同じ学術領域の論説文でもジャンル(実験レポートと論文)によって例えば実験の記述法などは異なる)ということを見落としている

(3) その一方で、文学を使った英語教育の研究者は文学というジャンル独特のもの(視点、シンボル、making senseという活動、negotiating meaningという活動、比喩、など)があると主張している。しかし、こういったものは文学以外のジャンルでも観察されるという皮肉な矛盾を抱えている。

●Claims Related to the Connection Between Reading and Writing About Literatureの問題点

著者は以下の問題点を挙げていました。

(1) 文学を読みその分析について書かせることはリーディングとライティングを結び付けさせる上で最良の指導法であるとしながら、滅多に実践されていない

(2) リーディングとライティングを合わせて指導することの有益性は疑う余地がないが、文学を題材としてこれら2技能を結び付けさせることが最良の方法とは言えない

(3) 文学を題材にして読解と英作をさせることで培った能力は、学習者の専門領域でのリーディング能力やライティング能力に転移すると主張されているが、これまでの議論から明らかなように、このことは疑わしい。リーディングだけを取り上げてみても、その読解プロセスや言語表現(sign postingなど)は文学作品のそれとは大きく異なっている。

(4) (文学作品の読解から専門の読解へとその能力の転移を生じさせるために)仮に論説文で用いられているような細かな指導手順を踏んだ指導を文学作品に行えば、文学を使った英語教育を推進する人々は、そのような方法では文学の喜びが失われると批判するであろう

(5) 学習者に文学について書かせる際に、generalistとして英作させるか、specialistとして英作させるか選択の余地があるが、前者の立場で書かせる場合、結局どのdiscourse communityにも属さないような英作をさせてしまうことになる。後者の立場で書かせる場合、文学を専門としない学習者にとっては将来何の役にも立たない能力を養成してしまうことになり、そもそも教師は学習者に自らの指導を正当化することはできない。

●著者が考えるところの問題の本質

著者は、われわれは「人間的価値」や「文学」という語が議論の中に含まれていると、ついつい無批判に主張を受け入れてしまいがちであると述べています。しかし、私たちは批判的に物事を考えなければならないと主張されています。

また、文学を使うべきかどうかということ以前に、教師は目の前の学習者が何を求めているのかということから物事を考えなければならないとしています。そして、このようなことを考えていれば、外国語教育の理論に関するパラダイムシフトが生じたとしても、右往左往することなく、また不毛な議論に時間を費やすこともなく、外国語教育について考えていくことができるのではないかと述べていました(このようなことを考えていなかったからこそ、コミュニケーション重視の英語教育理論が主流になった際に、文学を使った英語教育研究は自らを正当化できなかったのではないかと著者は考えているようです)。

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H.W.Lin&M.H.Hsu(2012).「Exploring the Mystery of Literary Reading: A Psychophysiological Perspective」を読む(『International Journal of Social Science and Humanity』)

11名のexpert readers(英語教師)と11名のnovice readers(英語と薬学を選考する大学生)に、非文学的テクストを2つ(科学レポートと大学案内の記事)と文学テクストを1つ(ShakespeareのRomeo and Julietからの抜粋)読ませて(いずれのテクストとも300語程度からなる)、読解中の事象関連電位を調べることを通して、"what (if anything) is unique to literary processing" (p. 459)、"whether there is a difference in the neural activation taking place between expert and novice readers" (p. 459) という2点を調査しています。また神経科学的な手法が文学研究に大いに貢献するということもこの論文を通して示したいとしています。

Lin, H. W., & Hsu, M. H. (2012). Exploring the mystery of literary reading: A psychophysiological perspective. International Journal of Social Science and Humanity, 2 (6), 459-461.

概要

(A) 調査結果の報告

(B) 結果の考察

●調査結果の報告

調査結果は以下の通りです。

(1) α波、β波、θ波の中で、β波が両半球で最も強く出ていた

(2) 文学テクストを読むときにもっとも神経活動が活性化した

(3) 文学テクストを読むと前頭葉が強く活性した

(4) expert readersはnovice readersよりもすべてのテクスト読解において右半球のθ波が強かった

(5) novice readersはexpert readersよりも左半球のθ波とα波が弱かった

(6) expert readersはnovice readersよりも左半球のβ波とSensory Motor Rhythm(SMR) が強かった

(7) expert readersはnovice readersよりgalvanomic skin response(GSR)が弱かった

(8) expert readersとnovice readersで前頭葉の活性化の程度については違いが見られなかった

(9) 文学テクストを読解する際には、expert readersの左半球のSMRがnovice readersよりも高かった(非文学テクストを読解する際にはこの違いは見られなかった)

(10) 文学テクストを読解する際には、expert readersの左半球のα波とβ波がnovice readersよりも高かった

ただし、上記の (1) に関しては、統計的有意差は見られず、あくまでも記述統計に基づいた結果である点にご注意ください。

●結果の考察

著者らは以上の結果に基づいて以下のように述べています。

"It is evident from the present experiment that ceratin brain waves capture empirically what is distinctive to literary processing, given that a specific literary text may call for a mode of response unique to that text. It might be therized that once a literary work has been recognized, the neurons in the readers' brain activate a distinctive form of processing. As proposed similarly by Zwaan (1993: 31), there is a "literary control system" governing and regulating the processes. Seen in this light, it might be hypothesized that the higher beta and theta amplitudes found in expert readers may be representative of such a subtle activation of schemata. Theta waves, in particular, are associated with creativity and spontaneity (Demos, 2005). Thus, we proposed that when expert readers began to read Text2, they might be initiating an inferencing process in response to the occurrence of textual complexity and foregrounding features." (p. 461)(なお、Text2とは文学テクストのことです)

著者らは、さらに、この論文で報告したような基礎データは教育の改善に役立てることができるだろうと述べています。そして、以下のような主張を行っていました。

"Our hope is that, in due course, research on the scholarship of teaching, literary discourse, and neuroscience will merge into one unified science of reading. Only then may we be able to argue forcefully about the ways literature instruction triggers catharsis and create change in humanity through ethos, pathos, and logos." (p. 461)

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2014年5月13日 (火)

K. A. Nance(1994).「Developing Students' Sense of Literature in the Introductory Foreign Language Literature Course」を読む(『ADFL Bulletin』)

外国語教育というよりも外国文学教育の導入に主眼がある論文です。ただし、外国語学習者の場合は、文学を通してその外国語の様々な技能や知識を発達させることができるということは主張されていました(逆に、外国語学習を通して文学で必要となる様々な技能や知識を発達させることは難しいと著者は考えています)。本論文を通して、外国文学教育の導入をスムーズにするための具体的な提案(著者自身は、英語を母語とする学習者にスペイン語文学を導入するための提案を考えています)がなされています。

Nance, K. A. (1994). Developing students' sense of literature in the introductory foreign language literature course. ADFL Bulletin, 25 (2), 23-29.

概要

この論文では以下の事柄が議論されていました。

(A) 外国文学教育導入時に教師が気を付けるべきこと

(B) 標準的な学習者も外国語文学の学習に積極的に取り組ませるための提案

●外国文学教育導入時に教師が気を付けるべきこと

著者は以下の点を指摘していました。

(1) 文学のセンスを教授しようとしてはだめであり、教師は学習者自身がそれを学び取るように仕向けるべき

(2) あくまでも標準的な学生をいかに文学に取り組ませるかという視点に立って指導を考えるべき(一部の優秀な学生だけに注目して、他の学生を置き去りにしないように気を付けるべき)

(3) 自分が学生の時に受講したかった授業を実践することもよいが、教師はかつては優秀な学習者であったことを自覚し、それを踏まえた上で指導を考えるべき

(4)  詩は学習者が小説をある程度読めるようになってから導入するべき

(5) 文学の専門用語は、その専門用語が表わす内容を学習者が理解してから導入するべき

(1) と関連して、文学教授はしばしばジョークの解説のようになってしまうと述べられていました。ジョークの面白さは、ジョークの解説を聞いても感じ取ることはできません。聞き手自身がジョークの面白さを感じ取らなければなりません。同様に、文学に関しても、その面白さや魅力の説明をひたすら与えても駄目で、学習者が自身でそれらを感じ取ることができるように教師が工夫することが大切であると述べられています。

(4) と関連して、詩の指導においては、語のコノテーションを外国語と母語の間で比較検討させることが有益であろうと述べられていました。

●標準的な学習者も外国語文学の学習に積極的に取り組ませるための提案

著者は、以下の3点を提案しています(p. 24)。

(1) by equalizing background knowledge

(2) by sequencing intellectual demands more carefully

(3) by likewise sequencing the degree of intellectual risk students run in our classrooms

上記 (1) に関しては、外国語文学の授業を取る前段階として履修しておくことが望ましい授業を指定したり、授業で扱う文学作品等で前提となる情報が書かれている文章をリーディング・リストとして渡すといったことを著者は行ったそうです。そうすることで、学習者全員の知識をある程度均質化し、外国語文学教育を行う上で全員を同じスタートラインに立たせてはどうかと提案されています。実際、こうすることで多くの学習者が様々な解釈を提示したり、文学への楽しみを覚えたり、批判的な読解ができたり、教師ですら気づかなかったような解釈を提示したり、と積極的な授業となったそうです。

上記 (2) に関しては、教師がほぼ無意識で行っている解釈という試みを意識化し、解釈へと至るための各段階の知的容量を勘案した上で、指導手順を作り上げることが提案されています。また、外国語文学の授業では、あるテーマについてグループでディスカッションを行うといった作業が伴いますが、このことを助けるための補助教材として、著者はそのディスカッションで学習者が触れることになるであろうmodel questions、model answers、model comments、ディスカッションで必要となる文学の専門用語、過去の履修者のディスカッションの様子を撮影した動画、などを与えることも提案しています。

また、クラス全体を積極的に授業に参加させるための方法として、グループ分けの工夫(積極的な学習者を各グループに1名配置し、その学習者に自分以外でそのグループのリーダーを決めさせる、など)、課題の与え方の工夫(各グループで別の課題を与える)、文学読解の視覚化(ここでは、ノートを横にして、各ラインを1文として、主人公のその文での感情の変化を各自折れ線グラフ化させるという課題など数例が紹介されていました)、が提案されていました。

さらに、テストに関しても提案を行っています。著者のテストは主に3つの内容から構成されているそうで、"the first tests mastery of discrete items of terminology and literary history; the second, comprehension and retention of analytical discussions in class; and the third, application of skills to material never specifically discussed in class" (p. 27) と説明されています。なお、3番目の内容に関しては、文章だけをテストよりも前の日程で学習者に配布しておき(ただし、この文章に対してどのような問いが出題されるかは伏せたまま)、テスト本番(持ち込み不可)で再度その文章を設問とともに提示し、解答させるという方法だそうです。

さて、上記 (3) に関してですが、著者は授業の時間に休憩時間を設けて自由に学習者が質問できるようにすること、学習者が従事する活動や問いに関するcounterexampleをあらかじめ提示しておくこと、などを通して学習者が授業中に経験する可能性があるリスクを軽減する方法が提案されています。こうすることによって学習者全員の積極的な授業参加を促そうということがその狙いとなります。ただし、(3) で著者が意図していることは以下の事柄であるため、誤解しないようにしなければなりません。

"Of course, risk recognition and sequencing must not be confused with perpetual avoidance of intellectual risk. Support and safety mechanisms must be gradually withdrawn as students progress; at the same time students must be reminded of their progress and challenged to go further. While the capacity to defend one's onwn views in one-on-one dialogue with the professor in front of the whole class is not the starting point for most students, we should not lose sight of that level of proficiency as our goal. Beginning by acknowledging our students' difference from ourselves, we can come around to welcoming them into a community of critical readers." (p. 28)

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2014年5月 9日 (金)

V.M.Scott&J.A.Huntington(2007).「Literature, the Interpretive Mode, and Novice Learners」を読む(『The Modern Language Journal』)

著者らは、外国語教育(外国語としてのフランス語の授業)の中で文学教材を扱う際、初級フランス語学習者に関して、作品解釈の産出が、教師が行う授業と学習者だけの小グループでどのように異なるかを調査しています。教室やグループでのやりとりを会話分析することでその違いを考察していました。

Scott, V. M., & Huntington, J. A. (2007). Literature, the interpretive mode, and novice learners. The Modern Language Journal, 91 (1), 3-14.

概要

著者らはThe Standards for Foreign Language Learning in the 21st Centuryに言及し、この中で文学教材への直接の言及がないことを指摘します。しかし、著者らはこのことによってかえって文学教材の外国語教育における意義や役割を再考する機会を得ることができたとしています。また、このことによって以下のような固定概念を崩す機会にもなったと述べています。

"this exercise in "rethinking" literary study involves deconstructing the traditional hierarchy that places literature at the top and language study at the bottom of foreign language program goals." (p. 3)

論文中でははっきりと述べられていませんが、著者らのロジックは以下のような流れであると考えられます。

(1) interpretive modeの必要性がThe Standards for Foreign Language Learning in the 21st Centuryで挙げられている

(2) 文学教材はinterpretive modeを初級学習者の段階から育成することを可能にする

(3) したがって、文学教材は外国語教育において重要な役割を担っている

さて、この論文では下記の事柄が述べられていました。

(A) 著者らが行った予備調査の結果報告

(B) 著者らの研究の立場

(C) 今回の調査結果の報告

●著者らが行った予備調査の結果報告

著者らは初級外国語学習者がどのようにして目標言語(または母語以外の言語)の文化知識を発達させるのかを調査したそうです。そして以下の結果を得たとのことです(p. 4)。

(1) literary texts can help students develop cognitive flexibility and affective awareness

(2) literature can be used to develop these qualities in the earliest stages of language learning

(3) using the first language (L1) can be productive when discussing L2 literary texts with novice learners

(1) に関して、著者らはこれらの特性は他の文化を理解する上で最も重要な特性と考えています。

なお、(1) と (2) の結果から、著者らは "a literary text was more effective in developing C2 competence than was a fact-based approach" (p. 3) と結論づけていました。

●著者らの研究の立場

著者らは以下のようなスタンスで研究を行っています。

"In fact, the argument against including literature in the early stages of language learning is founded on the notion that students do not have the necessary language skills to read and interpret literature. In our view, exposure to literary texts can serve to motivate novice learners to think critically―to engage in the interpretive mode―about compelling aesthetic and cultural issues. Novice learners are fully capable of thinking critically about these kinds of issues; however, we believe that certain kinds of critical thinking activities are most productive when carried out primarily in the L1." (p. 5)

●今回の調査結果の報告

今回の調査は初級フランス語の授業の中で実施されており、学習者は教師による授業の中でフランス語詩を理解する学習者(Group A:12名)と学習者のみの小グループ(3~4人グループ)で詩の解釈を行う学習者(Group B:36名)に分けられています。そして、これら2つのGroupが詩を解釈するプロセスにおいてどのような違いが見られるかが考察されています。なお、学習者はいずれのグループにおいてもL1(英語)を使用することが許可されています。また、Group Aは、教師が介在しているとは言え、学習者中心のアプローチが取られていることにご注意ください。

なお、学習者の発話を分析するにあたって、以下の4つのカテゴリーが設けられています(pp. 7-8)。

(a) translation talk (talk that involves translation from the L2 to the L1 or from the L1 to the L2)

(b) language talk (talk about the L2 itself)

(c) interpretive talk (talk that attends to constructing meaning from a text)

(d) off-task talk

なお、(c) の基準については以下のように説明されています。

"Interpretive talk included wondering questions about the poem (i.e., "Is the lack of punctuation in the poem connected to the oral tradition?" "Why does Tadjo end her poem with a question?"), thoughtful responses to peers' questions and comments, connections with the poem and personal knowledge and experiences, and purposeful explanations of thoughts and feelings about the poem. Brief or fragmentary responses (i.e., "The poem is depressing," "It's nostalgic," "There's no hope"), with no attention to how or why, were not included in our definition of interpretive talk." (p. 8)

以上のようなカテゴリーや基準を用いて、2集団の作品解釈中の発話を調べたところ、以下のような結果が得られたそうです。

(1) Group Aはinterpretive talkをしており、その他のカテゴリーの発話はほとんど見られなかった

(2) Group Bは主にtranslation talkとlanguage talkにとどまっており(off-task talkも見られた)、詩の言語的表層を超えた内容まで踏み込めていなかった

(3) Group Aは、自身の観点から眺めたり自分の経験と関連づけながら詩の理解を行っていた

(4) Group Bは、とにかく詩のすべての語をL1(英語)に訳そうとしていた

著者は以上の結果から、以下の指摘を行っていました(p. 12)。

(1) novice learners were able to engage in the interpretive mode and to grapple with the meaning of this difficult poem if they were in the teacher-moderated group.

(2) The students in the teacher-moderated group engaged in interpretive talk that led them to a holistic understanding of the poem.

(3) The students working in small peer groups, however, focused on individual words and phrases, which led them to a fragmented understanding of the poem.

(4) use of the L1 supported the development of the interpretive mode when managed by the teacher-moderator.

そして、以下のようにまとめています。

"To sum up, we found that the nature of the teacher-moderated, yet distinctly student-centered, interaction promoted novice learners' awareness of their affective and cognitive responses to the poem and had a profound impact on their engagement in the interpretive mode." (p. 12)

著者はさらに議論を一般化して、以下の指摘も行っていました。

(1) interpretive modeはThe Standards for Foreign Language Learning in the 21st Centuryの中でcommunicative modeの1つされてるが、このモードは初級学習者でも実践することが可能である。

(2) 初級学習者のinterpretive modeを発達させたいのであれば、外国語教育におけるL1の位置づけを再評価しなければならない。

(3) 初級学習者であってもinterpretive modeを発達させる機会を提供できるという点で、文学教材は初級外国語教育において重要な役割を担っていると言える

(4) L1の使用を許可された状況で文学教材を使用した教師による授業を受ければ、学習者はinterpretive modeを発達させることができ、多言語共同体のメンバーへと育成することができる

ただし、(2) に関して、"using the L1 to develop the interpretive mode is effective only when a teacher guides the discussion." (p. 12) と述べられています。これは、Group Bがtranslation talkやlanguage talkのレベルにとどまり、interpretive talkのレベルまで至らなかったという結果に基づいてのことです。

初級学習者であっても外国語で書かれた詩の言語形式等に注意を払わせることは可能であるが、作品解釈の構築へと彼らを導くためには教師による介入が不可欠という結果と言えるでしょう。そして、教師による介入を受ける際にはL1の使用が非常に効果的であるということも今回の調査から言えると思います。

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2014年5月 8日 (木)

L.Bouman(1983).「Who's afraid of poetry?」を読む(『Modern English Teacher』)

ちょくちょく引用される文献です。お恥ずかしながらまだ読んでいなかったので、この度入手し、読みました。著者は、オランダにおける英語教育において詩が使用されていないことを非常に残念に思っており、小学校レベルから積極的に用いられていくべきであるという立場に立っています。なお、この論文の次の一節は有名で、多くの研究が引用しています。

"Visitiing schools and teaching English poetry to 12-16 year olds (in Holland) my experience has taught me that only too often the teachers rather than the pupils were afraid of poetry." (p. 14)

この論文の文献情報は以下の通りです。

Bouman, L. (1983). Who's afraid of poetry? Modern English Teacher, 10 (3), 14-19.

概要

この論文では以下の点が述べられています。

(A) 詩を英語教育で扱う意義

(B) 教材の選択について

(C) 詩の指導法の提案

(D) Creative writingの指導法の提案

(E) 英語教育における詩の利用についての著者の考えの確認

●詩を英語教育で扱う意義

著者は、以下の5点をその意義として挙げています(p. 14)。ちなみに、著者は詩を読むだけでなく、創作することも含めて議論をしていますので、ご注意ください。

(1) It helps the pupil experience that reading (poetry) can be, above all, enjoyable

(2) It stimulates pupils in the language-acquisition process

(3) It stimulates a pupil's imagination and understanding of others. Pupils learn to be receptive to the feelings, thoughts, ideas and imagination of others.

(4) It builds up confidence, as pupils discover that they do have the ability to express their own thoughts, feelings in words, even in English as a foreign language.

(5) It improves a pupil's language proficiency.

(1) に関して、著者は学習者に分析的に詩にアプローチさせるのではなく、直感的にアプローチさせることが重要であると指摘しています。

(2) に関して、詩は英語の音韻的特徴の習得、1つのテクストに対してたくさんの読み方が可能であるという事実の理解、語彙力の構築、に有益であるとしています。ただし、語彙力の構築に関して、1つの作品に12以上の新出語彙がある場合は、学習者の注意は内容理解にすべて割かれてしまい、その作品の芸術的価値や音韻構造、作者の伝えたいことに意識が向かなくなってしまうとも述べていました。

●教材の選択について

著者は、以下の3点を満たす教材が理想的であると考えています。

(1) appropriate age-interest

(2) appropriate age-level

(3) brevity

著者は特に以下のような詩は言語の習得に大いに役立つと考えています。

"If the poem is brief enough and its structures and vocabulary simple enough, i.e. appropriate for the child's language level, and if the contents of the poem are challenging enough to stir his imagination and his emotions, it will undoubtedly be a great stimulus in the language-acquisition process." (p. 15)

ただし、詩の提示や活動の仕方も同様に重要です。これらは教師が詩(または英語教育への詩の利用)に対してどのような態度を取っているか、その授業の中で教師はどのような役割を担うのか、といったことに大きく影響を受けることになります(p. 15)。

●詩の指導法の提案

著者は、教師の最も重要な役割の1つは "to stimulate the pupils" (p. 16) であり、そのための指導法が必要であるとしています。著者は、introduction、presentation、exploration、の各段階に対して、提案を行っています。

まず、introductionでは、発問や様々な教材(広告、映画など)を使用してこの後で読む詩が扱っている主題を導入することを提案しています。また、キーワードをあらかじめ提示しておくことも有益であると述べています。

presentationの段階では、著者は音読の重要性を指摘しています。ただし、特定の型に学習者の音読を合致させるのではなく、各々が各自の解釈に基づいて音読をすることが重要であるとしています。

explorationの段階では、教師が学習者に発問をしたり、学習者に発問を作らせて最もよい発問をクラスで選出したりして、詩の理解を深める方法が提案されていました。

●Creative writingの指導法の提案

著者は、さらに上記の3つの段階に加えて、学習者の詩への反応をより豊かに発展させる段階としてcreative writing活動を提案しています。著者は詩の読解にcreative writingを加えることの利点を以下のように考えています。

"I believe that by the stimulation of "creative writing" the responsive reading ability can be improved through which the pupil acquires the ability to appreciate the poems of others because he has himself learned to write poems in a foreign language and has personally experienced how that process feels and comes into being." (p. 15)

著者は、creative writingによって、"the opportunity to put his own thoughts, imagination and emotions on paper as a 'creative' reaction to the poem" (p. 17) を学習者に提供できると考えています。

著者はKenneth Kochによって提案された具体的な活動例として以下のものを紹介していました。

(1) 学習者ひとりひとりに 「I wish+仮定法」の構文で1文英作文させ、それをつなげてクラス全体で詩作品を創り上げる活動(他にも色など特定の語を使った英文を作らせてこのことを行うことも可能)

(2) strange comparison(あるものを異常なものに喩えさせる活動、"I used to be~. But now~." という談話パターンで英文を作らせる活動)。これも、(1) 同様に全員のアウトプットを一つにつなげることでクラス全体での詩作品の創作が可能となります。

Kochによるこのような活動の背景には以下のようなねらいがあるそうです。

"His method was based on the desire to give the children self-confidence by helping them to discover for themselves that they could certainly put their imaginative toughts into words and sentences, that nothing should be cponsidered crazy and that writing poems was great fun and even exciting." (p. 18, emphasis in original)

なお、著者も詩への反応をより豊かに発展させるためのオリジナルの活動例を提案しています(p. 19)。

(1) After the discussion of the poem the pupils should look for visual material to illustrate and/or interpret the theme or the contents of the poem

(2) The pupils can write and then dramatize a dialogue on the contents of a part of them or on the theme of the poem.

(3) The pupils individually or as a class can write a poem on a poetic idea based on a word or line from the poem.

(4) The pupils can write letters based on the poem.

(5) The pupils can write their reactions to a certain line or a certain word in the poem or can draw a picture showing these reactions.

(6) Using a line out of the poem as their first line or title, the pupils can write their own poem or story.

(7) Pupils bring to class other poems or songs on the same subject which they have discovered on their own. These poems or songs can then form the basis for other discussions.

(8) In small groups the pupils can discuss another poem which has the same subject.

更に、著者は特定の詩を行ごとにばらばらにして、学習者に順番を考えさせ、発表させる活動も提案しています。この活動により、学習者は自身の詩作品を作り上げることになるとしています。

●英語教育における詩の利用についての著者の考えの確認

著者は以下のように述べています。

"poetry can be a great aid in foreing language teaching to children, as it enriches their vocabulary, as it serves as a stimulus in all sorts of language activities, through which they gain confidence and improve their language proficiency. (改行) Therefore one should preferably start reading and exploring poetry at an early stage, and the teacher should take great interest in arousing the child's interest, stirring his imagination, challenging his response." (p. 19)

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2014年5月 7日 (水)

山内啓子(1993).「高等学校の英語教科書に現れた文学教材」を読む(伊原巧・江利川春雄・林浩士(編),『青木庸效教授還暦記念論文集 英語科授業学の諸相』,三省堂)

著者は昭和54年度の学習指導要領改訂以降の10年間に出版された英語ⅡBの教科書のうち33種を対象に、どのような文学作品がどのような形で提示されているかを分析しています。なお、著者は「英語Ⅰの教科書にも数多くの文学教材が使用されているが、文学の特性を最も忠実に教材化しているのは、英語ⅡBの教科書である」(p. 142)という理由から、分析対象を英語ⅡBに絞っています(残念ながら、英語ⅡBが文学の特性をもっとも忠実に教材化しているという主張の根拠は示されていませんでした)。

山内啓子(1993).「高等学校の英語教科書に現れた文学教材」.In伊原巧・江利川春雄・林浩士(編),『青木庸效教授還暦記念論文集 英語科授業学の諸相』(pp. 142-154).三省堂.

概要

この論文では、以下の事柄が扱われています。

(A) 英語ⅡBの教科書に現れた文学作品の分析結果

(B) 教材化された作品と原作との比較

(C) 文学作品の役割

●英語ⅡBの教科書に現れた文学作品の分析結果

今回の論文で示されていた分析結果は以下の通りです。

(1) 32人の作家による作品が抽出された(作家とその作品の一部が論文中に紹介されています)

(2) 大多数は近代の文学作品であった

(3) 短編小説の名手と言われる作家の作品が多く見られた(Saroyan、Caldwell、Hemingwayの起用が特に多かった)

(4) 各作家の代表作品はあまり教科書には登場しなかった(せいぜい、Hemingway、Jerome、London、Twain程度)

(5) 英米の作家が中心であった(ただし、日本文学の英訳は見られた)

(4) に関して、著者は代表作品は大作であることが多く、改作によってその素晴らしさが損なわれることを恐れて避けられているのではないかと推測していました(同時に、文学作品を改作によって均一化したり、表現を原作とは程遠いものに変えてしまうことには大きな問題があることも著者は指摘しています)。しかし、代表作品は「文学作品として当然紹介されてしかるべき、また高校生の発育段階において情操教育の面からもふさわしいと思われる」(p. 144)と述べられており、このことは非常に嘆かわしいことであると著者は考えています。

●教材化された作品と原作との比較

著者は、H. H. Munro(Saki)の "The Open Window" を例に、原作、New Horizonでの改作、The New Age Readersでの改作を比較しています。なお、The New Age Readersの改作の方が原作に忠実であったと述べられていました。著者は、改作されている部分を具体的に取り上げながら、その改作によって生じている問題点等を指摘しています。全体としては、この比較分析の結果、以下の点が指摘されていました。

(1) 単に難解であるという理由から、文面下のニュアンス、語調、文体が排除されており、問題がある

(2) 文章構造やパラグラフは原作の形が維持されている

●文学作品の役割

著者は文学作品の役割として以下の点を挙げていました。

(1) 難解な英語学習の中にほっと息をついて教養を学習する意欲を湧かせる役割

(2) 自己啓発の一端とする役割

(3) 文化紹介、英米文学の根底に流れるものの紹介、日常生活の一端の紹介、の基礎知識を与える役割

(4) 人間存在の普遍性を実感させる役割

(5) 英語学習への興味を喚起させる役割

なお、著者は文学作品を (3) の目的で使用するのであれば、大幅に改作をしても構わないと考えています。文学作品を (4) の目的で使用するのであれば、難易度を無視して原作を使用し、注釈を充実させる形を提案しています。また、長編であれば山場のみを扱う形もよいのではないかとしています。文学作品を (5) の目的で使用する場合は、気軽に楽しめる作品(著者は、詩、音楽、クイズ、映画のストーリーなどを挙げています)を使用するのがよいのではないかとしています。

また、著者は文学教材の高等学校英語教育のカリキュラムへの取り入れ方について以下の提案を行っています。

「教科書の中心に一編もしくは数編の安直なrewriteのない、内容の充実した文学作品を載せ、知識習得、伝達習得のための教材と、興味喚起のための教材をバランスを考慮して配置する教材集を提案するのである。中心となる文学作品のためには、ページも贅沢にとり、欄外注も充実させて教師の負担を少しでも減らす。Teacher's Manualに文学作品の採用意図を載せ、提供でき得るものは可能な限り提供し、内容に関しては教師の指導に一任する。限られた数の内容豊富な文学作品であれば、教師にとって準備に時間を振り分けることも心理的にさほど困難なことではないと推測する。時期的には、準備あるいは吸収に時間的余裕のある夏休み前後が適すると考える。」(p. 152)

また、著者は聖書を教科書に取り入れることも提案しています。政教分離の原則は理解できるものの、聖書は西欧文化の礎であり、文学作品としての価値も高く、欽定訳が英語に与えた影響も大きいため、教材化への道を模索する必要があると指摘していました。

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2014年5月 2日 (金)

V.D.Weist(2004).「Literature in Lower-Level Courses: Making Progress in Both Language and Reading Skills」を読む(『Foreign Language Annals』)

大学における外国語としてのスペイン語教育(中級レベル)で実際に文学教材を使用した授業を実施し(講義科目名は、「Spanish 120」)、その様子を直接著者が観察したり、履修者4名(履修者は全部で14名いたそうですがそのうちの4名が調査に参加しています)及び授業担当教員1名へのインタビューを行って、文学と言語はどのように関連付けられているのか、授業で暗黙の前提とされている事柄にはどのようなものがあるのか、その前提はどのように授業に反映しているのか、という点が分析されています。

Weist, V. D. (2004). Literature in lower-level courses: Making progress in both language and reading skills. Foreign Language Annals, 37 (2), 209-223.

概要

この論文では、以下の点が議論されていました。

(A) 外国語教育において文学教材を利用する際の問題点

(B) 調査結果

(C) The National Standardsに基づいた指導の提案

●外国語教育において文学教材を利用する際の問題点

著者は以下の点を挙げていました。

(1) 学習者の目標言語における言語知識が不足していること

(2) 文学教材には特殊であったり通常では目にしないような表現が含まれていること

(3) 特定の文学教材が執筆される際に作者によって前提とされていた文化的知識を学習者は持っていないこと

(4) 学習者は特定のスキーマをどのタイミングで活性化すればよいか分からないこと

(5) 学習者は文学教材を読む上で必要となる技能(批判的能力や分析的能力)をすでに持っていることを前提として授業が進められる傾向があること(学習者はL1ですらできないような知的作業を求められること)

ただし、上記の (1) に関しては、具体的に言語知識のどのような側面が学習者の文学教材の理解を深める上で重要なのかということは分かっておらず、"Unfortunately, a prevailing presumption in many literature courses is that langugage serves as a mere tool without which literary appreciation cannot go forward and that students should arrive in their literature classes with language proficnency as standard equipment - that is, with fluent, accurate, analytic linguistic ability" (p. 210) と漠然と考えられているそうです。

また、上記の (5) に関して、仮に学習者が文学教材を読む上で必要となる技能をL1で獲得していたとしても、それが必ずしもL2ですぐに発揮できるわけではないということが補足されていました。

●調査結果

論文中には授業の詳細や、インフォーマントの情報など詳しく書かれていますが、この記事では省略したいと思います。今回の調査で示されていた結果は以下の通りです。

(1) 学習者はSpanish 120に対してお互いに異なった期待をしていたが、いずれもこの授業を履修することで他の教材では得られない特別なもの(それが文化的知識であったり、より高度な読解であったり、異なった意味階層であったりと、学習者によって異なってはいますが)を獲得できると考えていた

(2) 教師は、文学教材を使う授業を使わない通常の語学の授業と区別していた

(3) 文学教材に対して学習者の理解を深めるために、教師はL1を使用していた

(4) 上記 (3) の目的でのL1使用を肯定的に評価していた学習者とそうでない学習者がいた

(5) Spanish 120では伝統的な指導観("the instructor as the dispenser of knowledge, and the students as passive recipients of that information" (p. 214) に基づいて運営されていた

(6) テクストの音読が学習者と教師の両方で重視されていた

(7) ただし、詩を扱う際は教師は学習者にその音に耳を傾けるように指示し、音読を重視しなかった

(8) 学習者は、解釈にせよ音読にせよ教師の提示したものに従うことを期待されていた

(9) 作家や作品の社会文化的背景に関する知識を補う目的で映画が多用されていた

(10) 教師も学習者も、言語の学習と文学教材の学習を区別して考えていた("the polarity that exists between language learning and literature instruction" (p. 216))

(11)教師は文学的な言語表現をしばしば授業で無視していた

上記 (3) に関して、学習者は文学について理解するための専門的知識やその方法を知らない(指導されていない)ことが原因で、教師はL1を使わざるを得ない状況になっている可能性があると述べられていました。

上記 (5) に関して、この指導観は多くの文学教育で前提とされていると述べられていました。

また、Muyskens (1983) を引用しながら、著者は語学科目の履修者は増えつつあるのに対して文学の科目の履修者は減少していること、文学教材を指導する教員の多くは外国語教授法についての知識を持っていないこと(教員養成の段階で習っていないこと)、を問題点として指摘していました。

●The National Standardsに基づいた指導の提案

著者は、The National Standardsに基づいた実践を行うことで「言語vs文学」という二分法を乗り越えたより統合的な指導が構築できるのではないかとしています(なお、The National Standardsの要点はこの論文の付録に掲載されています)。そして、具体的にその基準に基づいてプレリーディング活動、リーディング中の活動、ポストリーディング活動を提案しています(この記事では省略したいと思います。詳しくはこの論文を直接参照ください。)。ここで提案されていた活動自体はそれほど目新しいものではないように思いましたが、リーディング中の活動として文学的な言語表現に注意を向ける指導が提案されていました。

著者は最後に、言語学習カリキュラムの中で、言語(またはリーディング)と文学を別個の要素として扱うのではなく、統合していく方法を模索する必要があると述べて、この論文を終えていました。

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2014年5月 1日 (木)

大学入試問題集における小説文の扱い方について

手元にある大学入試用問題集で小説文がどのように扱われているのかを調べてみました。やや古くなってしまっている問題集ですのでご注意ください。

●永田達三(2000).『永田の難関大対策 長文読解 英語の神髄』.東進ブックス.

英文の種類には、論説文、随筆文、小説文の3つがあるとした上で、それぞれの文章タイプについて説明をしています。ですが、小説文についての説明は短く、「一人称の主語Iが主人公になっている私小説文と、登場人物それぞれに名前がついていて、役割分担が決まっている物語小説文というのがある」(p. 31)とした上で、大学入試ではほとんど出題されないという理由からそれ以上本の中では扱わないとされています。

●佐藤喬・片山七三雄・信田勇・小平俊樹・長嶋浩一(1997).『基礎からベスト 基本問題集 英文読解』.学習研究社.

小説・物語については、以下の読み方を推奨しており(p. 98)、実際の練習問題も設けられています。

(1) 登場人物がどんな人間で、どのような立場や状態にあるか、また登場人物同士が相互にどんな関係にあるのかを正確に把握する。

(2) だれが(who)、いつ(when)、どこで(where)、何を(what)、どのように(how)行動するかという4W1Hを念頭におきながら読み進める。

(3) 単にストーリーの筋を追うのではなく、主人公の心理状態や心の動きに注目する。

(4) 文法的事柄にとらわれず、イメージを描きながら頭から読みこなしていく。

練習問題には、和訳問題及び同一人物を表す表現を本文から探す設問が設けられていました。

●安河内哲也(1996).『安河内哲也の英語:魔法の長文解法』.学習研究社.

著者は、小説文は出題頻度は低いものの多くの受験生が苦手としているとして、以下の攻略上のポイントを挙げています(p. 200)。

(1) 登場人物をとらえること

(2) 時間的展開に注意すること

(3) 場所的展開に注意すること

加えて、固有名詞や数詞に印をつけていくことも推奨しています。

著者は比較的長めの小説文の練習問題を1題設けています。この練習問題に含まれていた設問は、文法に関する空所補充問題(本文中の括弧内に適切な表現を入れる問題)、代名詞等の表現が指している内容を答えさせる問題、本文中の特定の表現が同じ用法で用いられている文を選択肢から選ばせる問題、空所に入るべき会話表現を選択させる問題、本文の内容に合う事柄を述べた選択肢(英語で書かれています)を選ばせる問題、でした、基本的には、語彙・文法問題と作品内の字義通りの意味に関する問題と言えるでしょう。

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D.I.Hanauer(2001).「What We Know About Reading Poetry: Theoretical Positions and Empirical Research」を読む(D.Schram&G.Steen(編),『The Psychology and Sociology of Literature』,John Benjamins)

再読になります。2001年の時点で、L1での詩の読解プロセスについてどのような理論的立場があり、どのような実証的調査報告がなされていたのかがまとめられています。

Hanauer, D. I. (2001). What we know about reading poetry: Theoretical positions and empirical research. In D. Schram & G. Steen (Eds.), The psychology and sociology of literature (pp. 107-128). Amsterdam: John Benjamins.

概要

この論文では以下の事柄が整理されています。

(A) 詩の読解についての理論的立場

(B) 詩の読解について実証研究で明らかにされている事柄

●詩の読解についての理論的立場

著者は、新批評、構造主義、文体論、読者反応批評、脱構築批評を取り上げ、それぞれの立場が考える詩の解釈にについて整理しています。この部分はかなり基本的な内容ですので、この記事では省略します。

●詩の読解について実証研究で明らかにされている事柄

著者は詩の読解に関して、以下の事柄を明らかにする必要があると述べています。

"As with other text-processing models, a description of poetry reading should describe how this discourse specific knowledge is activated, how the reader's attentional resources are used, what underlying cognitive processes are activated in order to construct meaning and which types of internal representation are appropriate. In addition, the model needs to relate to potential differences between the way expert and novice readers handle the poetry reading task." (p. 116)

著者は、これまでの研究で、詩の読解に関して以下の事柄が報告されていると述べています。

(1) テクストを詩としてカテゴリー化するテクスト的特性(パターン化された言語表現など)については初級学習者もよく知っており、そのような特性をそなえたテクストを詩と容易に判別できる

(2) 上記 (1) のような知識は容易に獲得することができるが、そのようなテクスト的特性をどのように処理すればよいのかということについてはより発展的な文学知識を必要とする(初級学習者はそれらのテクスト的特性をうまく処理することができない)

(3) 読者は (1) のような特性がテクストに含まれているかどうかではなく、そのような特性がどの程度テクストに含まれているかという観点からテクストのジャンルの判別を行う

(4) 初級学習者は、上記 (1) のような特性がテクストに多く含まれている場合にのみそのテクストを詩と判定するが、上級学習者(experts)はそのような特性があまり含まれていないテクストであっても詩として判定する(上級学習者の方が、初級学習者よりも、テクストを詩と判断する際に用いる知識が広い)

(5) 上記 (2) (3) (4) より、詩に関する専門知識は詩の読解プロセスに影響を与える

(6) 詩の中に前景化された表現が含まれていれば、読者はそれを自身の心的モデルに関連づけ、その表層情報を再生できる(詩の読解では百科事典的文章の読解よりも表層情報の再生が高い)

(7) テクストのレイアウトに関する情報は読者の読解処理に大きな影響を与える(詩の特徴的なレイアウトを見ただけで読者はそのテクストを詩と判断する)

(8) 詩の読解は百科事典的文章の読解よりもスピードは遅い

(9) 詩の読解では百科事典的文章の読解よりもテクストの内容理解の確信度が低くなる

(10) 初級学習者は、詩の読解においてテクスト内の表現を標準的な表現に置き換えること(パラフレーズをすること)で理解をしようとする(初級学習者は詩の洗練された解釈を作ることはできない)

(11) 上記 (10) に関連して、詩の解釈を作り上げるためには専門的な文学知識が必要になる

上記のような結果を総合して、著者は "Empirical research of poetry has demonstrated the intial detection of linguistic patterns but knowledge is needed as to how these patterns evolve into interpretations." (p. 126) と述べています。また、現在のところ、特定の理論的立場のみを支持する証拠は得られていないということも指摘されていました。

著者は、文学読解の実証的研究は少なく、さらに詩の読解研究はより少ない(p. 109)、そして詩の意味理解構築プロセスの研究はその中でも更に少ないとを述べていました(詩の意味理解構築プロセスについては1件の研究しか取り上げられていませんでした)。まして、L2での研究となると本当に少ないです。この状況は私が知る限り、2014年現在も変わっていないと思います。

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