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2013年9月 4日 (水)

H.Leder&B.Belke(2007).「Art and Cognition: Cognitive Processes in Art Appreciation」を読む(C.Martindale,P.Locher,&V.M.Petrov(編),『Evolutionary and Neurocognitive Approaches to Aesthetics, Creativity and the Arts』,Baywood Publishing)

視覚芸術の美的経験における認知処理モデルが提唱されています。私の研究とは直結はしませんが、具象詩の理解プロセスの研究などであれば、この論文は大いに活用することができるでしょう。

Leder, H., & Belke, B. (2007). Art and cognition: Cognitive processes in art appreciation. In C. Martindale, P. Locher, & V. M. Petrov (Eds.), Evolutionary and neurocognitive approaches to aesthetics, creativity and the arts (pp. 149-163). New York: Baywood Publishing.

概要

この論文は、以下の4つの部分から構成されています。

(1) 実証美学(empirical aesthetics)での美的経験に関する研究の発展の流れ

(2) 著者らが提唱するモデルの解説

(3) 著者らが提唱するモデルの有効性を支持する証拠の提示

(4) 今後の研究の方向性の提示

●実証美学での美的経験に関する研究の発展の流れ

美的経験に関しては、BaumgartenやKantによって哲学的に検討されてきましたが、19世紀後半にFechnerやWundtが実証的な研究を始めました。20世紀には、美的経験の実証的な研究は3つの流れに分かれて進展しました。

・ゲシュタルト心理学に基づいた研究(Arnheimなど)

・実験美学の研究(Berlyneなど)

・精神力学に基づいた研究(Kreiter & Kreiterなど)

しかし、現在では認知心理学に基づいた研究がこの分野を引っ張っているそうです。事実、この論文の認知心理学の考えに基づいて執筆されています。

●著者らが提唱するモデルの解説

著者らが提唱しているモデルの全容はp. 156に分かりやすく提示されていますので、ここでは割愛したいと思います。このモデルでは、芸術処理における専門知識の重要性、認知処理と情意処理の並行性、が重視されています。

なお、モデルを説明する中でいくつか興味深い指摘がありましたので、紹介します。

(1) 進化論的に考えると、芸術は人に肯定的な自己報酬経験を生じさせるために存在している(他の研究者は、世界についてよりよく理解するため、子供と親のつながりを強めるため、といった考えを展開しているそうです)

(2) 20世紀は描かれている内容よりもその描き方が重視され、それにより多くの流派が生じてきた。その結果、見る者にはこれまでのどの時代よりも複雑な解釈が要求されることとなった。

(3) 作品の理解が深ければ深いほど、より豊かな美的経験を見る者にもたらす

(4) 芸術のスタイルについての明示的知識に基づいたトップダウン処理は、作品の理解を助け、さらに豊かな美的経験をもたらす(つまり、現代芸術をより豊かに楽しむには、現代芸術に関する専門知識が必要であるある、という考えが提示されています)

(5) 芸術作品の解釈に曖昧性が残るとそれを解消しようとして人は更に処理を行うことが多いが、その曖昧性は必ずしも解消されるべきものではなく、むしろ曖昧性が残ることを肯定的に考えることも時には必要である

(6) 芸術の処理においてもっとも重要なことは作品の理解に満足感を抱き、自己報酬経験を得ることができるかどうかである(このことに応じて作品の解釈の曖昧性を解消するかそのままにするかも決まってくる)。

●著者らが提唱するモデルの有効性を支持する証拠の提示

著者らが提唱するモデルでは、専門知識の重要性が強調されています。ここでは、視覚芸術の処理における専門知識の重要性及び専門知識によって見る者により有意義な美的経験がもたらされるということを支持する証拠が挙げられています。具体的には、人はスタイルに関する知識を持っている時に、そのスタイルが隠されている作品を見ると喜びを感じる(自分の知らないスタイルの作品を目にした時よりも喜びの度合いは大きい)という調査結果等が示されていました。

●今後の研究の方向性の提示

ここでは、Parsons (1987) による芸術の理解に関するモデルが紹介されています。Parsons (1987) は、芸術の理解には5つの段階があるとしています。

レベル1:作品の内容を個人の信念に結び付ける段階

レベル2:作品の描写の美しさや写実性を理解する段階

レベル3:作品作成段階で製作者が心に抱いていたであろう考えや感情を理解する段階

レベル4:作品の形式やスタイルを理解する段階

レベル5:隠されたコンセプトや作品の独自性を理解する段階

著者らは、今後は、本研究で提示したモデルをParsons (1987) のモデルと関連づける作業を行っていく必要があると考えています。

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2013年9月 3日 (火)

千野栄一(1980).『言語学のたのしみ』を読む(大修館書店)

主にプラーグ学派の研究を下地としながら、言語に関する問題が幅広く取り上げられています。第110章が第Ⅰ部で「言語学の愉しみ」、残りの7章が第Ⅱ部「言語学ア・ラ・カルト」と題されています。第Ⅰ部では、かなり身近なトピックが取り上げられており、言語学を専門としない読者を想定して書かれているのに対して、第Ⅱ部はやや専門的であり言語学者を対象として書かれているように思います。

千野栄一(1980).『言語学のたのしみ』.大修館書店.

概要

<第1章:アンドロメダ星人との対話>

22世紀間近のある年の4月にアンドロメダ星人の乗っていると思われる宇宙船が奈良近辺に軟着陸したところから話が始まります。言語学者ラ・コート氏がテレビ番組に招かれ、アンドロメダ星人は言語を持っているかどうかというアナウンサーの質問に答えていくという作り話です。ここでは、アンドロメダ星人は一人の力では到底作り上げられないぐらい大きな宇宙船に乗っていることから、個体間でのコミュニケーションが不可欠であり、その意味で言語を持っているであろうと推測されています。このフィクションの中でラ・コート氏が述べていたのは以下の点でした。

(1) 人間は聴覚と視覚を使って言語を使用していますが、アンドロメダ星人はそれ以外の5感または第n感(n5)をベースとした言語を持っている可能性があること

(2) 人間と同じく聴覚と視覚を用いていたとしてもそれらの感覚で用いられる情報の範囲が人間よりも広い可能性があること

(3) 「宇宙船は何万という部品から成立っています。その部品の一つ一つに別の音なり、色なり、臭なり、味を当てはめているとは思えません。そうすると、これら何万の区別を、感覚が区別しうるいくつかの単位で表現しなければならない筈です。感覚が区別しうる少数の単位が組合されて何万ものものが区別されるのです。これはエコノミーの原則であり、二重分節の原則です。地球上の言語には凡てこの原則があてはまります。」(p. 18

<第2章:長い長いヒドラの話>

著者が出題した言語学の期末テストでの設問に対する学習者の解答が分析されています。取り上げられている設問は、ある2枚のヒドラの絵に対して、正確な記述と美的機能を最大限に発揮した記述をそれぞれ書くように求めたものです。面白い解答が紹介されていました。

<第3章:「元祖ゴキブリラーメン」考>

2章同様、著者が言語学の試験で出題した設問から話がスタートします。その設問とは、「元祖ゴキブリラーメンというラーメンは何故に存在しないかを言語学的に説明せよ」というものです。著者は、「「ゴキブリラーメン」なる名称は記号論的な立場から見ればありうること、しかし、言語的記号は記号論的記号とは異なって、表現の形式が一定のイメージを創るので、場合によっては、表現されている内容とうまく一致しないことのあること」(p. 38)を理解しているかどうかがキーとなると述べています。人は基本的には形式のイメージと内容の不一致を避けようとしますし、現に「ゴキブリラーメン」が存在しないのもその理由によります。しかし、言語にはアウトマチザツェ(自動化)とアクトゥアリザツェ(非自動化)という作用があり、人は時としてアクトゥアリザツェを行い、形式のイメージとその内容の不一致を積極的に利用してすることも多いということを忘れてはなりません。

<第4章:タモリの言語学>

タモリの持ち芸である、四か国語麻雀とハナモゲラ語が言語学の立場からなぜそれらしく聞こえるのかが考察されています。基本的にタモリがこれらの芸の中で話す語はノンセンス・ワードです。形式はありますが、実体を伴っていません。これは、かつてロシア・フォルマリズム構想した「意味を越えた言語」と非常に似ていると著者は指摘します。著者は、タモリの芸を「伝達が語の意味だけで行われるものではないこと、イントネーションや語の音色などによってもかなりの伝達が可能であること、しかし、それでもまだ正確な伝達には不十分であること(タモリの場合には周到な状況設定がなされている)、正確な伝達には語の意味を理解することがどうしても必要であること」(p. 62)、を気づかせてくれるよい例であると考えています。

<第5章:地名学と言語学>

地名学という分野には2つの立場があるそうです。1つ目は、地名学を厳密な意味での言語学の一分野とみなして、歴史や地理の影響を排除して考える立場です。2つ目は、地名学を言語学と地理学、歴史学との接点に確立しようとする立場です。著者は後者の立場に賛成のようです。地名学が発展すれば、「その地名学は言語学の分野では言語の発展、特に、音と語彙の発達の研究の有力な武器となり、方言学にも貢献することは間違いない。また、歴史学では居住の発展、文化の歩みをたどることを可能にするし、地理学では居住地の性格を形成する要素を明らかにする。このほか、民俗学、考古学、古植物学などへのプラスは計りしれないものがあるであろう」(p. 76)と述べており、この分野の発展が大いに期待されています。

<第6章:人名学と言語学>

人名学は、文字通り人名を研究する言語学の一分野で地名学とともに固有名詞額を支える2つの部門の1つと位置づけられています。特にチェコスロバキアで発達しているそうです。地名学同様、人名学も関連分野に大きな示唆を与えることが期待されており、言語史、言語地理学、語形成論、社会の構成の様子に関する研究、住民の移動に関する研究、民族意識の研究、民俗学への貢献が期待されています。また、聖者の名前にも流行があること、父称や職業名を人名に使うことは様々な言語で見られること、はとても興味深く感じました。

<第7章:ことばの旅>

かつてことばは、ゆっくりと時間をかけてある場所から別の場所へと伝播していきました。そして、その過程でオリジナルの語は様々な変化を蒙り、それが非常に面白い言語事実を生じさせてきました。しかし、現在(この章が執筆された時以上に現代は特にそうですが)は、その日のうちに情報が全世界をかけめぐり、地球上の何カ所でも情報が受け入れられることになります。著者は、「ことばが線状に移動し、それぞれの土地で定着し、そこから次へと移るというような余裕は」(p. 109)もはやなく、今後「ことばの旅」は現れることはない、と述べています。

<第8章:現代のロゼッタ石>

80の言語を東京で収録したレコードを発売するという企画の制作記録です。各話者に1から10まで数えてもらった音声と、自由に好きなことを話してもらった際の音声を収録したとのことです。

<第9章:日本語と日本人>

言語の性質と民族の精神を軽々しく結び付けて考える(「日本人が非論理的であるのは、日本語が非論理的であるからだ」など)言論の危険性が議論されていました。そうではなく、仮に「日本語が非論理的」だとすれば、どのようなときにそのような問題点が現われるのかを検討し、それが解決されるべき深刻な問題点なのであれば、言語を改良する努力をすればよいと述べられています(著者は、言語は人為的な関与によっても変化を与えることができるオープンな体系であるということを認識すべきであると主張しています)。

<第10章:ことばの不思議>

世界で最も音素の数が多い言語と、少ない言語が紹介されています。前者に関しては、子音だけで80もあるウビフ語が紹介されています。後者については、音素の数が11(子音6つ、母音5つ)しかないロトカス語が挙げられていました。なお、面白いことに、子音が80もあるウビフ語は、母音が2つしかなく、世界で最も母音の数が少ない言語となるそうです。

<第11章:言語は変化する>

言語の変化の研究は、これまで、次の3つの点を導き出してきました。

(1) 言語の変化は言語のあらゆるレベルで生じる

(2) 言語の変化の速度は一定ではない(絶えず変化を続けている部分と、ある限られた時期にのみ起こる変化がある)

(3) ある特定の要素にだけ限定的に起こりそれがそのままの形で言語の中に残り続ける変化と、異なる要素間で補い合いながら絶えず進み続ける変化がある

また言語変化の原因として、以下の4点が挙げられていました。

(a) 外界からの影響

(b) 言語が社会の中で機能していくにあたって生じた新たな必要性

(c) 言語構造からの要求

(d) 偶然

上記の (c) に関して、「言語の本質がいくつかの機能を満たすことにあり、その機能を満たすために言語が構造をなす」(p. 180)と著者は述べ、体系がよりととのった体系となろうとするとアナロジーが生じると指摘しています。「アナロジーは常に均衡を求めているのである。しかし、複雑な構造を持つ言語において、ある一つの部分での均衡は必ずしも言語全体の均衡を意味せず、一つの均衡が他の不均衡を生み出すことも少なくない。言語の変化においてアナロジーと対立する概念がアノマリーで、この二つがまた言語の変化において均衡しているのである。もし、このお互いに相反する方向に動く二つの力がなかったとしたら、言語は発展の長い歴史を通じてこの上なく体系的に整備されたものとなったか、逆に、なんらの体系性も持たないアノマリーの巣になっていたに違いない筈である。」(p. 181)という主張はとても興味深く思いました。

また、言語変化の一例として挙げられていたスラブ語の歴史の話が非常に面白いです。スラブ語には12の言語が属しているそうですが、千年ほど前はほとんど一つの言語といっていいほどの統一性を保っていたそうです。それが、千年の時の中で分離してしまったと述べられています。これらの言語は、お互いに全く異なった言語的特徴を独自に発達させているそうです。

<第12章:言語の普遍性>

これまでの言語研究では、以下の4つのタイプの現象に対して「ユニバーサル」という語が適用されてきたそうです。

(1) 凡ての言語に共通の現象

(2) 多くの言語に共通の現象

(3) 一定の条件のもとで、凡ての言語に共通の現象

(4) 一定の条件のもとで、多くの言語に共通の現象

しかし、著者は「ユニバーサル」という語は上記の (1) のタイプの現象に対してのみ使用すべきと主張します。そして、残りに3つのタイプはタイポロジーの分野で検討されるべき事柄と述べます。

さて、これまで「ユニバーサル」な特徴として指摘されてきたものは、実はそれほど多くなく、以下のような点に限定されているとのことです。

・二重分節

・音素の弁別的特徴(音素に弁別的特徴があるということ自体を指し、分析の結果見出された個々の音素がユニバーサルだと言っているのではないことに注意)

・言語外現実を当該の言語に取り入れる命名の単位と、その単位をより高いレベルへと組み上げるルールがあること(オノマトロジーとシンタックスがあること)

・言語記号の多レベル的性質(音素、形態、意味、といったレベルのこと)と非対称性(曖昧性など)

・言語の線状性

・指示語の存在(人間行動の一般原則である「最少の努力で最大の効果を求める」という経済の原則から考えると、前に出た語や語の繰り返しを避けるはずであり、結果としてどの言語にも指示語があるのではないかと推定される)

<第13章:プラハのヤーコブソン>

201235日の記事をご参照ください。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/1975-16e2.html

<第14章:プラーグ学派の詩学>

この章では、プラーグ学派の詩学の特徴が記述されています。まず、この記述を始めるに先立って、現代における「詩学」の意味が示されています。かつては「詩学」は、アリストテレスによる修辞学(弁論術)の対概念でしたが、現在では「「文学作品の形についての学」、すなわち、文学的形態論と定義され、文学理論の一部を作って」(p. 216)います。なお、文学理論を詩学に還元しようという立場もありますが、それだと文学作品と現実の関係という問題を放棄してしまうことになるので、好ましい態度とは言えないと述べられています。ちなみに、文学理論と文学史、文芸批評を加えて「文芸学」と呼ぶそうです。

詩学は、様々な分野と関連します。この章で述べられていたのは以下の分野です。

・文学史:独自の発展の問題、発展と外因との関係という問題を共有する

・芸術史:異なる芸術形式の相互影響の問題、詩が発達の過程で他の芸術と近づいたり詩のテーマが他の芸術のテーマに使われたりすること(その逆も然り)

・哲学:記号の認識論的分析、時間と空間の問題、価値、詩の構造の要素としての哲学的見解というテーマを共有する

・心理学:個性の問題、受容の問題、形成の問題を共有する

・言語学:言語体系の個々の要素と全体の性格を詩に利用するためのあらゆる問題が関わる(韻律学、文体論、意味論が特に関わる)

・社会学

・民俗学

上記の分野の中で、詩学は特に言語学と深い関係を築いています。著者は「詩学の歴史を眺めると、これらの関連科学との接近、同化が繰返されているとはいえ、最終的には常に文学作品の本来の素材である言語の諸法則を研究する言語学とは密接な関係を有することになる」(p. 218)と述べています。したがって、プラーグ学派が詩学と言語学を関連付けて研究したのは必然であったと考えらえています。

さて、プラーグ学派の詩学ですが、その基礎はロシアにあります。歴史的詩学のAN.ベセロフスキーと言語学的詩学・神話学的詩学のAA.ポチェブニャの影響が大きいそうです。特に、後者に関しては「ポチェブニャの業績からはロシア・フォルマリズムがうまれ、詩学を言語学と近い関係におくという、それ以後の詩学の基本方針が定められており、やがて、ペトログラードとモスクワでおこった「オポヤズ」と呼ばれる詩的言語研究会の手によりロシアの詩学は構造主義詩学へと発展していく」(p. 217)と述べられ、その重要性が強調されています。

ロシア・フォルマリズムはチェコ・フォルマリズムに受け入れられ、プラーグ学派へと発展していきました。そして、プラーグ学派での研究を通じてロシア・フォルマリズムが世界へと知られることになります。著者によると、プラーグ学派はソシュールよりもボドゥアン・ド・クルトネの影響を強く受けているそうで、事実後者の業績を高く評価し、「機能」という概念を引き継いでいると指摘されています(チェコ・フォルマリズムが既にボドゥアンの思想を取り入れていたからこそ、ロシア・フォルマリズムと容易に融合できたと著者は考えています。ちなみに、ボドゥアンは「オポヤズ」の指導者でした。)。「機能」という語は現在様々な学派で異なった意味合いで使用されていますが、プラーグ学派では「どのような役割、どのような仕事をするかということ」(p. 219)を指すそうです。そして、「「機能」こそが「構造」の存在を保証していると考えられ」(p. 219)ることになります。著者はさらに「それだからこそ、プラーグ学派は自らを機能構造学派と呼んでいるわけで、ついでながら、現代の言語学に数多く創見をもたらしたA.マルティネがプラーグ学派の直系を自認していることと、「機能」を重視していることとは有機的関連を持っているのである」(p. 219)とも述べられていました(事実、マルティネをプラーグ学派の1人とみなす言語学史研究もあるようです)。

詩学との関係で述べると、プラーグ学派は「言語は人間の社会においてどのような役割を担っているのか、言語は何の役に立っているのかという考察から、言語の特別な機能として詩的言語の研究」(p. 220)に取り組みました。そして、「言語学的詩学の研究方法と、実際の場面での具体的な目的を持ち、しかも独自の内的法則性を持つ、複雑で動的な規範の総和としての言語の機能構造的概念が、きっちりした体系へと組み上げられた」(p. 220)と評価されています。

この章では、特に以下の2点がプラーグ学派の研究の重要な点として取り上げられています。

(1) 機能の体系としての言語研究

(2) 文語と詩の言語の関係の研究

上記の (2) に関しては、「言語の諸機能を充分に果たせるような文語の確立を目標とし」(p. 224)ており、「文の様々な機能における言語手段の特別な用法のタイプの一つとして、自動化とアクトゥアリザツェ(非自動化、異化)を考え、「このアクトゥアリザツェが最大で、それ自身が目標であるのが詩の言語である」と定めているので、詩の言語の研究と文語の研究は対立するものではない」(p. 224)と考えられているとのことです(反対に、自動化が最大であるのが文語ということになります)。

なお、1929年のプラーグ学派による「テーゼ」の中で詩の言語について記述したのはムカジョフスキーです。チェコは1930年代の終わりからナチスの台頭によって独立を失い、1945年のソビエトによる解放までは外部と遮断されてしまいます。プラーグ学派による音韻論研究は、すでに第二次世界大戦前にほぼ確立していたため、外国に知られていましたが、ムカジョフスキーを中心とした詩学研究はその閉じ込め期間中に最高潮に達したため、すぐには外国に伝わりませんでした。さらに、第二次世界大戦後のスターリン主義の時代には構造主義が禁止されていたそうで、1960年代になってやっと世に認められ、知られることになったそうです。1960年代には既にムカジョフスキーの次の世代の研究者が国内で活躍していました。しかし、1968年にプラハの春が起こり、その活動が停滞してしまいます。著者は、「1960年代の中頃を中心に著しい盛り上がりをみせたチェコ詩学は現在あまり活発ではない。しかしながら、この原因の多くが、外的な要因であり、言語学的な基盤がいまだに存在しているので(例えば、文体論は現在でも活発である)、何らかのきっかけで、再び、チェコの詩学が隆盛をとりもどすことは充分に考えられる。チェコ本国での詩学が衰えたとき、チェコ以外でその業績が認められ、つぎつぎとチェコ語からの翻訳がなされているのは何としても皮肉な現象といわねばならないであろう。」(p. 230)とまとめていました。私が知る限り、チェコの詩学は停滞した状態がそのまま続いていると思います。

<第15章:言語記号は記号か>

201231日の記事をご参照ください。

http://takayukinishihara.cocolog-nifty.com/blog/2012/03/1970-2ae1.html

<第16章:情緒の言語>

著者は「自然言語には、剰余性、潜在性、あいまいさ、非対称的二重性、不明確さ、ボーダーライン・ケイス、中心・周辺・周囲、オープン・システム、周辺要素などそれぞれの言語学者により異なって呼ばれる現象があり、この現象の存在が情緒の言語を支える基礎となっている」(p. 248)と指摘します。そして、「情緒的な強さを強調するためには、「特殊性」を浮立たせる普遍性の言語形式が強固であることが必要」(pp. 2552-253)と述べています。そして、様々な言語の具体例が示されています。ただし、この「特殊性」は、以下の2つの場合には機能しません。

(1) 情緒的な効果をあげるために、特殊な音を加えたり、その他の変形を行うことによって、何を言っているのか分からなくなってしまう場合(言語の伝達の機能が破壊されてしまう場合)

(2) 単に誤用と見なされてしまう場合

しかし、(2) の場合は、少し注意が必要で、誤用かそうでないかの区別は決して一定ではありません。「詩人の言語はしばしば一般の日常生活の言語では誤用とみなされる形式を使うことがある。その言語を母国語として使用している人に許されても、外国人が使うと、誤用として訂正されるのは、外国人には特殊な表現、「特殊性」のバックになっている普遍的な言語形式が欠けていると推測されるからである。」(pp. 253-254

最後に、「情緒の言語の存在には一定の制限があることが明らかで、一方では情緒性を表現しにくいダブレットが、他方では、伝達(言語の基本的機能)の破壊、誤用が限界を形成しているが、その枠内では、普遍的な言語形式が強固であればある程その形式を破って表現される情緒性は強い効果を与える。」(p. 254)と総括されています。

<第17章:ソシュールとソビエト言語学>

ソシュールの『一般言語学講義』の考えがボドゥアン・ド・クルテネの言語理論を下地にしているということを示す多くの証拠が提示されています。

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