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2013年8月30日 (金)

村山七郎(1972).「スターリン後のソ連言語学の変容」を読む(『ソ連・東欧学会年報』)

ソ連の悪名高きヤフェット言語学(新言語学説)がスターリンの「言語学におけるマルクス主義に関して」でどのような影響を受け、本論文執筆当時のソ連の言語学がどのような状態となったのか、ということに関して分かりやすく解説されています。

村山七郎(1972).「スターリン後のソ連言語学の変容」.『ソ連・東欧学会年報』,1,62-81.

概要

ソ連では、多くの文化科学はスターリンの死を転機として変化したそうですが、言語学だけは話が違い、「言語学におけるマルクス主義に関して」をスターリンが発表した1950年を転機に大きく変化したそうです。この論文は、このような状況を踏まえた上で、以下の3つの点に関して整理がなされています。

(A) マルの説(ヤフェット言語学)の主な主張の整理

(B) スターリンの主張の整理とその影響

(C) 本論文が執筆された当時のソ連の言語学の状況の報告

●マルの説(ヤフェット言語学)の主な主張の整理

ヤフェット言語学の主な主張は以下の通りです。

(1) 言語が強く階級的性格を帯びており、1つの言語とみられるものであっても社会階級によって著しく異なる

(2) 新しい言語は言語の混交によって生まれる

(3) 人類の単一的言語生成過程を究明することを言語研究の究極目標とする

上記の (1) に関しては、この主張が「マルクス主義の史的唯物論とも一致するようにみえた」(p. 63)ため、マルクス主義言語学としてもてはやされるに至ったようです。

上記の (2) に関しては、比較言語学が祖語からの分化によって言語が生まれると考えたのですが、マルは祖語はフィクションにすぎないとして批判しています。なお、比較言語学は混交による新言語の発生を否定しています。

上記の (3) に関しては、比較言語学の方法を使用しなければこのことはとうてい不可能であったのですが、マルはあえて比較言語学の方法を使用することを放棄しました。そして、そこから空想のみに基づいた証明の裏づけのない説を展開することになります。

なお、ヤフェットというのは、旧約聖書に出てくるノアの3人の子の名前に由来しています。その3兄弟の名前は、セム、ハム、ヤフェットです。マルが興味を持っていた南コーカサス語がセム系の言語と親族関係にあったことから、南コーカサス諸語に「ヤフェット」という名を与えたと推察されています。当初は、このように比較言語学に基づいて研究を行っていたのですが、上記の (3) を目標にし、かつ比較言語学と袂を別った後は、「ヤフェット語=単一的言語生成過程の一段階」という同一視を行い、「南コーカサス語から出発して思いついた、SAL、PER、JON、ROSHという4要素が、世界のあらゆる言語のあらゆる単語の基本をなしているという、神がかった主張にまで進」(p.64)んだことはとても有名です。ここまでくると、マルの説はもはや科学ではないことは明白だったのですが、「マルの説はマルクス主義的言辞に粉飾されていて、それを批判することは、反マルクス主義的態度と解釈されがちであった」(p. 64)ため、誰も表立って批判をすることはなかったようです。

マルの説は共産主義者によって革命的な学説に祭り上げられ(現に、マルクス主義言語学、唯物論的言語学、10月革命のもたらした文化科学の最高の成果と目されたそうです)、西欧の言語学を「ブルジョア的」言語学とみなされて批判されることになります。そして、ソ連内で「ブルジョア的言語学」を行っている研究者への弾圧が始まります。後に、スターリンはこの弾圧のことを「アラクチェーフ的レジーム」と呼んでいるそうです(アラクチェーフは帝政時代の弾圧政治家の名前だそうです)。

なお、マルの後継者の筆頭にメシチャニーノフという学者がいます。彼は4要素説などは採用せずに、マルの説から非科学的な部分を極力取り除こうとしたそうですが、階級主義的言語観、比較言語学をブルジョア的言語学として批判する態度、全人類的単一言語生成過程説、アラクチェーフ的レジームは引き継いでおり、ソ連の言語学発達を依然として疎外し続けたとのことです(ただし、著者はメシチャニーノフにはすぐれた業績もあるため、彼の研究をマルの説の単なる延長としてみるのは健全ではなく、評価し直されるべきところも多いと考えています)。

●スターリンの主張の整理とその影響

スターリンはマルの説を厳しく批判します。主な論点は以下の通りです。

(1) 言語は階級的なものではなく、コミュニケーションの手段であり、国民全体に奉仕するものである

(2) 言語は史的唯物論における上部構造ではなく、社会変革によってあまり影響をうけない(急激な生産関係変化にともなって変化するものではなく)、文法構造及び基礎語彙を主要構成部分となすものである

(3) 4要素による言語分析は占いと同じレベルでの話であり、比較言語学のような実証的な研究の方がはるかに優れている

(4) 混交によって新しい言語が生まれることがなく、2つの言語が競い合うときには一方が勝利し、もう一方は消え去るだけである

(5) マルらの弾圧は、帝政時代のアラクチェーフ顔負けの大変ひどいものである

ただし、著者は上記のようなスターリンの主張は上記の (2) を除いてそれほど独創的ではないと著者は述べます。ただし、主張したのがスターリンであったからこそ上記のような主張が社会の中に定着したと著者は指摘しています(他の人が主張したのであったら、たちまち激しい攻撃に遭っていただろうとと推測されています)。また、1930年代と1940年代にソ連言語学界を牛耳ってきたマルの主張に対して、異議を唱えたのがスターリンであったからこそ、マルの説に壊滅的な打撃を与えることができたとも述べられていました。しかし、「全人類の単一的言語生成過程」というマルの説に関してだけはスターリンは十分に崩すことができなかったのではないかと主張されています(ただし、結局マルの説は人々から忘れ去られることとなり、このことは大きな問題とはならなかったのですが)。したがって、その意味ではスターリンのマルに対する批判は不完全なものであったと評価されてます。

何はともあれ、スターリンのおかげでソ連の言語学は正常化し、20年間の停滞した時間は取り戻されようとしています。著者は、「スターリン論文が言語学界に与えた影響は、階級主義的な言語観からの解放、比較歴史言語学の復興、外国の学者との協力の確立強化、外国の新しい学説に対する理由なき攻撃の停止、それへの理解の態度であります。換言すれば、マルクス主義的言辞で粉飾された、ひとりよがりの(つまり外国のまじめな研究者を説得する力のない)主張は姿を消し、どこの国へ出しても恥ずかしくない学説を築きあげようとする熱意が高まってきました。ソ連言語学は孤立性を脱却して国際的となりました。」(p.72)と評しています。

●本論文が執筆された当時のソ連の言語学の状況の報告

著者はアルタイ言語学を例に、その当時のソ連の言語学の状況を報告しています。さまざまな業績に言及がありますが、この記事では割愛したいと思います。

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E.コセリウ(1973/1981).『うつりゆくこそことばなれ:サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア』を読む(田中克彦・かめいたかし(訳),クロノス)

生成文法の背後でひっそりと執筆されたヨーロッパ構造主義言語学の名著です。構造言語学における「言語変化の問題」の扱い方の問題点が議論されています。著者は、「変化の問題を[経験の問題としてではなく]合理のことに属する問題として、それも、具体の言語活動の観点から提起すること」をその目的としています。本書を通して、言語をエネルゲイアと見なして考えていく必要性が主張されています。

コセリウ,E.(1981).『うつりゆくこそことばなれ:サンクロニー・ディアクロニー・ヒストリア』(田中克彦・かめいたかし(訳)).クロノス.(原著は1973年出版)

なお、本書の著者は、ランガージュを、パロール、規範、ラング(体系)という3つのレベルに区分するというアプローチを取っており、このことを理解していることが前提で執筆されていますので、注意が必要です。これら3つのレベルの詳しい説明に関しては、以下の書籍をご参照ください。

コセリウ,E.(2003).『一般言語学入門』(第2版,下宮忠雄(訳)).三修社.(原著は1976年出版)

概要

<第1章:言語変化の明らかな矛盾。抽象的言語とその投影>

構造言語学は、ソシュールの影響から、言語の本質は共時態・静的状態・ラングであり、通時態・動的変化・パロールを軽視してきました。しかし、構造言語学のこのような姿勢には大きな問題があると著者は指摘します。著者は「ソシュールがやったのは存在論ではなく方法論である。かれの主眼は、共時言語学と通時言語学とを、もっと適切に言えば、言語学における共時的観点と通時的観点とを区別することにあった。したがって、共時態と通時態との区別は、言語についての理論ではなく、言語学の理論にかかわるものである。」(p. 15)つまり、ソシュールによる共時態と通時態という区別はあくまでも言語学の研究上の方法論であって言語の本質ではないにもかかわらず、多くの構造言語学者はこの区別を言語の本質と捉え、言語の変化についての問題をないがしろにしてしまった、と主張されていました。

その他、個人的に面白いと思ったのは、以下の2点です。

(1) G.フォン・デア・ガーベレンツ、A.マルティ、FN.フィンクがソシュールよりも前にラングとパロールの区別をしていたこと(しかも、フィンクは言語学の対象はパロールと述べていたそうで、著者はこのことを高く評価しています)

(2) パウルやフンボルトも似たような区別をしていたこと

<第2章:抽象的言語と具体的言語。歴史的に限定された「話す能力」としての言語。言語変化の三つの問題>

言語学では、言語の変化は何らかの外的要因によって引き起こされると信じてきました。しかしながら、それは抽象的で静的なラングを出発点として考えるが故に生じている誤りであると著者は指摘します。著者によると、「言語は体系であるから機能するのではなくて、逆に、機能を遂行するために、ある目的に応ずるために体系をなしている」(p. 17)、「言語はそのまま機能し続けるために変化する」(p. 18)、「生きた言語は、できあがったものではなく、具体的な言語活動によって常にできつつあるものである」(p. 18)と考える方が正しく、パロールによってラングが常に建て直されており、むしろパロールの中に身を置いて言語について考える必要があります(「ラングはパロールの中にのみ、パロールによってのみ存在するものと理解しなければならない」(p. 34))。つまり、言語の変化は、言語学が第一に取り組むべき重要な問題となります。著者はランガージュを、「記号を創造する活動」(p. 33)と定義しており、その本質的な部分はパロールとなります。そして、人が個人間的に同様な表現を採用すればその結果、ラングのレベルでの変化がもたらされると考えています。著者は、「人間はことば(ランガージュ)の媒介によって、事物に関する意識を抱くのみならず、ことばそのものについての意識をも抱くのである」(p. 45)と考えているので、ラングは言語の「文化的側面」と見なすことも出来ると指摘しています。

もう一点、著者は次章以降で言語変化について考察するにあたり、言語変化の3つの異なる問題を区別しています。それらは、以下の3点です。

(A) 言語変化に関することわりの問題(そもそも言語はなぜ変化するのか、すなわち、なぜ不変でないのか)

(B) 変化に関する一般的な問題(どのような条件のもとで、言語に変化が起きやすいか)

(C) ある特定の変化の歴史的な問題

その他、個人的に面白いと思ったのは、以下の4点です。

(1) デュルケームがソシュールに与えた影響の考察(ソシュールが「ラング」のような個人外的社会事実を重視したのは、デュルケームの影響であると指摘されています)

(2) メイエは言語を話す個人に対して外的なものとみなしたのに対して、ブレアルは話す主体の外に言語は存在しないと主張した点

(3) ソシュールの言語観へのシュライヒャーの影響

(4) ランガージュには、パロール以外に機能的対立(ミニマルペアなど著者が言うところのラング)と規範(言語共同体内で構築された言語使用の規範)が含まれるという主張

<第3章:変化の合理性。改新と採用。音韻法則>

この章では、第2章の問題(A)について考察がなされていきます。著者は再度、言語とはパロールによって絶えず生まれつつあるがゆえに変化するという点を確認します。そして、「言語はなぜ根こそぎ変化しないのか。なぜ作りなおされるのか、話し手は自分の表現手段をなぜ全面的に発明しないのか、と」(p. 52)いう点について考えなければならないと述べます。

この点に関して、人は共同体の提供する体系を利用し、その制約の中で他者と会話をすることが原因で、言語は根こそぎ変化することはしないのだと主張します。その意味で、何かについて話すことは、「話されたことについて話すこと」(p. 64)であり、一次言語であると同時にメタ言語と考えることができます(p. 64)。ただし、このことはパロールの自由を制限するものではなく、話し手はあくまでもラングを表現行為のための雛形として利用しているに過ぎないと考えられています。

それでは、なぜ言語は変化するのでしょうか。著者は、話者が対話の中で既存のモデルから外れた発話(著者は「改新」と呼んでいます)を行った際に、それが聞き手に受容(著者は「採用」と呼んでいます)されることで変化が起こると考えられています。著者は特に採用が言語変化にとって本質的であり、「言語変化(「言語における変化」)とは、ある改新の拡散もしくは一般化であり、したがって必然的に、あいついで生じる一連の採用である」(p. 61)と述べています。言い換えますと、採用とは、パロールによって乗り越えられたラングを、その乗り越えに適合させるように再編することと考えることができます。なお、採用は、「常に表現の必要に応じて行われる。その必要とは、文化的、社会的、審美的、機能的いずれかのものであり得る。聞き手は、それが自分の知らないもの、美的に満足させてくれるもの、自分の社会的たちばをよくしてくれるものであったり、機能的に役にたってくれるようなものならば、採用する」(p. 67)とされます。

次に、採用の例として音韻変化について詳述されます。音韻変化を考える際には外延的な一般性と内延的な一般性を区別する必要があると著者は述べます。前者は、ある言語共同体内の話者全体が新しい音韻変化に基づいて発話を行うように変化することを指します。後者は、個々の話者の中で特定の音韻変化がラングの中へ組み込まれてラングが再編されることを意味します。著者は言語変化においてより重要なのは後者の内延的な一般性であると考えています。また、内延的な一般性として生起した音韻変化(音韻法則)は決してラングの中に完成品として生起するのではありません。それは、「未来の語を創るため」(p. 76)に生じるものとみなさなければなりません。「「規則的」音変化とは、すでに実現されてしまった何かにおける変化ではなくて、まさに言語的な創造行為の技術における変化」(p. 76)と説明されています。

最後に、言語変化は言語にとって必然であることが再度強調されます。「言語変化は諸言語の歴史におけることばの創造性の現われにほかならないのである」(p. 85)、「パロールが古いモデルの中に根をもつ、話すそして理解する行為だからこそ、ラングは作りかえられる。ラングが言語的活動によってのりこえられるのは、パロールが常に新しいからである。またラングが更新されるのは、理解ということが、言語行為にさきだつラングによってすでに知られていることを越えて理解することだからである。現実の歴史的言語がダイナミックであるのは、言語的活動というものが、一定の言語を話し理解することだからである。したがって、言語は、話し手の表現的必要に自らを合わせ、それが合っているかぎり、言語として機能しつづける。」(pp. 85-86

その他、A. W. de Grootの「ラング、パロール、解釈(対話)」という3分法に個人的に興味を持ちました。

<第4章:変化の一般的条件。体系的な決定要因と体系外的な決定要因。言語の伝統の安定性と不安定性>

続いて、第2章の問題(B)に話が移ります。この問題は次のように言い換えることができます。それは、「話す行為(パロール)の観点からとりあげてみると、言語的自由が言語(ラング)に改新をもたらす際の諸条件をつきとめることにある。また、できあがった言語(ラング)の観点に立つと、言語が話し手たちの表現上の必要に応ずるしかた、いいかえれば、表現的自由によって創られたものが、どんなふうに、またどんな条件のもとで受容され普及するのか、つまり言語的伝統の中に加えられて自ら伝統に転化するのかをつきとめるという問題になる。」(p. 89

著者は、そのような条件は体系的なものと体系外的なものに分類できると考えています。前者はラングの内的構造から生じる条件であり、後者はその外部からの要因(異民族の混淆、その共同体内で形成された言語的規範に対する態度など)から生じる条件となります。

前者の条件を考えることは、改新が個人間で好んで受容される条件をラングの状態の中に見出すことを意味します。そして、そのような条件として著者は、以下の2点を挙げていました。

・話し手の新しい表現的要求に応じることが必要な一種の不足点がラングの中に存在する場合(新しい表現的要求は、散発的な形式、確立された規範からの逸脱(誤り)、方言のような異体系的諸様式に姿を現わします)

・体系内に危うい箇所があったり、体系内で任意的変異形や等機能的諸様式が存在している場合

後者のタイプの条件としては、以下の4点が挙げられています。

(1) 1つの場所に地域的または社会的に多様な集団が共存している場合

(2) 特定の共同体で文化が頽廃したり、衰退した文化の社会集団で言語的知識が弱まる場合

(3) 複数の固有語が接触する場合

(4) その共同体が変化を好む文化的状況にある場合

各共同体にはそれまでに歴史の中で築かれた言語的規範が存在しています。上記のような場合、その言語的規範が弱まり、その維持が難しくなります。そもそも、体系と規範は不整合な状態にありますので(規範の中には英語の不規則形のように文法的に古い形が一つの語として固定された形で残っていたりしており、体系から見れば不都合な要素が依然として強く残っている場合があります)、そのような場合には規範を破る話者が相当数現われ、それがラングの中へ反映されていくことになります。ただし、このことは音韻レベルの方が文法レベルよりも顕著に生じるようです(文法には、よく使われる項目がしばしば不規則形として古い形を残していることがあります)。

なお、上記の(1)(2)に関して、逆に言語的知識が均質で安定していたり、話し手が自らの共同体における言語的伝統に強く執着する場合は、言語変化が生じにくくなります。なお、一般に優勢的な文化にある人たちに囲まれると、囲まれた共同体の言語は変化が生じやすくなりますが、逆に自分たちのアイデンティティに目覚めて変化しにくくなるということもあります。

また、言語変化を可能にするためには、ラングが常に内的矛盾を伴う状態に保たれていなければなりません。このことを可能とさせている事柄として5点指摘されています。

(1) 体系内に複数の変異形を存在させていること

(2) 体系内に存在しているにもかかわらず利用されていない対立を多くとどめていること

(3) ラング内の要素間に動的な相互依存関係があること(このことは、音韻、文法、語彙といった個々の部分体系内で見られます。なお、音韻の相互依存関係については、著者以外にも、ヤーコブソンやマルチネらが提唱した通時音韻論、J. ヴェンドリエスやM. グラモンが議論しています)

(4) 個々の部分体系の間にも相互依存関係があること

(5) 個々の部分体系の間で要素が一致だけでなく矛盾した状態でも存在していること(だからこそ、「言語の中では、一方で「構築」されるところのものが、他方では「破壊」されて、新たな「調整」が必要となる」(p. 109))

上記の(2)に関して、もちろん言語変化によって逆に体系内の重要な対立(語の区別など)が損なわれることもあります。しかし、さらに部分的な変化(語彙の派生、意味の拡大、新たなる改新)を生じさせることによってその区別の維持が試みられます。つまり、「あらゆる変化は、それとおなじような、あるいはそれと相関的な、新たな変化の動機である(あるいは動機であり得る)」(p. 106)わけです。

また、ラング内の損傷は、どのようなものであっても言語変化によって修繕することが可能であるという点に留意する必要があります。ラング以上のことをパロールで口にされることによって、その損傷は修繕(つまり言語の変化)されます。ラング(=パラディグマ)は、パロール(=シンタグマ)と常に対立しているからこそ言語は変化していくことになります。

最後に、著者によるこの章のまとめを示しておきます。「このようにして変化に対して体系的および文化的「要因」(=体系外的要因)は改新の選択要因として、つまり、言語を創りかつ創りなおす作業における言語的自由の条件および制限として機能するものだと結論することができる。パロールの中に認められる無数の改新のうち、特定のものだけが採用されて拡められるのは、それだけが機能的な体系のその可能性と必要性に見合っているか、あるいは個人間の言語的知識の状態の中に有利な条件を見出しているからである。つねに言語変化はある規範の「ずれ」としてはじまり、ひろがってゆく。しかし規範の「ずれ」が生じるためには、次のことが不可欠である。すなわちそのことが機能にかなっており、かつ必要であるか、それとも話し手が規範を知らないか、あるいはそれを知らないことが言語の機能性(聞き手にそれが理解できること)をそこなわないか、そのいずれかである。言語というものは伝統的知識であるから、その知識が全般的に衰えている時代には変化もいっそう急速にすすむが、さりとて体系の機能のこの限界まではこえない。言語はまた機能的な体系であるから、何よりもその「弱い個所」で、すなわち、その体系が話し手のその表現ないし伝達の必要を効果的に満たしてくれないような個所で変化する。しかし「必然的」変化も、伝統の壁を破ってすすむことはない。つまり活力ある文化の規範は、たとえ「不均衡に陥った」体系であっても、かぎりなく長期にわたって維持し続けてゆくことができる。このようにして、おなじ体系的、体系外的「諸要因」が、かつは変化の、かつは変化に刃向かう諸条件となる。けだし、ことは機能的に必要なものと文化的に許容されたものとの間の一致と不一致に、また二系列の要因のどちらが優位を占めるかにかかわるのである。」(pp. 113-114

<第5章:歴史的問題としての言語変化。「発生的」説明の意味と限界>

最後に第2章の問題(C)について議論されます。問題(C)は、問題(B)と密接に関係しています。「この第三のタイプの問題の解決は変化の一般的問題を提起するにあたっての必要な材料を提供してくれるし(それが帰納を要求するかぎりにおいて)、この意味で言語変化の「条件的」説明は「一般化された歴史的説明」である。他方では、歴史的問題は、言語のダイナミックは現実を考慮に入れてはじめて、また変化の一般的条件の知識があってはじめて、これを提起することができる。したがって、言語変化の第二、第三の問題―これらは経験的問題として、これだけが正当なものである―は相互に依存しあう問題であるから、かた一方がわかればもう一方もわかるという関係にある。」(p. 115)。

さて、言語の特定の歴史的変化現象に関して、これまで「因果律にのっとった物理的な考え方」(p. 115)や「生理学的「説明」」(p. 116)がなされてきましたが、こういったアプローチでは言語変化の問題を正しくとらえることはできないと著者は考えます。また、言語変化を改新と同一視する考え方も問題があると再度確認されています。「歴史的観点からすれば、初発的改新の種類(とりかえ、借用、体系的創造等々)を推定したり見分けたりすることが重要になってくる場合もあるかもしれないが、そのこと自体は変化の説明にはならない。変化の歴史的問題とは、ある言語様式がいかに始まったか(いかに始まり得たか)をつきとめることではなくて、伝統としていかにうまれ、いかにうまれ得たか、すなわち、どのようなしかたで、どのような文化的、機能的条件のもとで、伝統的な様式体系の中に汲みこまれ、また組みこまれ得たのかをつきとめることである。ゆえに、改新は変化を説明しないけれども、変化の説明の方は初発の改新の性格や理由についても光を投げかけることができる。」(p. 123)この章では俗ラテン語とロマンス語との複合未来形を例として、言語変化に対する従来のアプローチの仕方の問題点と著者自身のアプローチの妥当性が示されています。

<第6章:原因による説明と結果による説明。言語変化に対する通時的構造主義の立場。「目的論」的解釈の意味>

この章では、以下の2点を主な目的として執筆されています。

(A) 原因によって言語変化を説明しようとすることの問題点の再確認

(B) 通時的構造主義による言語変化の扱い方の問題点の指摘

上記の (A) に関しては、本書でこれまで述べられてきた言語変化に関する3つの問題点のレベルを単一のレベルの問題であると誤解し、しかもその問題を外的原因の概念を用いて説明しようとしてきたという問題点が再度確認されています。言語変化は機能的概念と文化的概念を用いて初めて説明できるものであり、何らかの原因を探し求めることで解決できるものではないと述べられています。著者曰く、原因に基づいて言語変化を説明しようとすることは、「言語学を自然科学まがいの「法則科学」にでっちあげたいとねがう実証主義の夢想の余弊」(p. 144)と評されています。著者によると、言語学は物理学にあこがれており、言語学を厳密な科学として確立しようとする際に、物理学をその模範として研究をしてきたようです。結果、文化の事象を物理的に説明しようという試みが積み重ねられてきました。しかし、ある科学が厳密になるのは、物理学のアプローチに基づくことではなく、その学問領域が扱う対象の性質によるということを理解する必要があります(著者は、このことこそが自然科学から言語学が学ぶべき事柄であると述べています)。著者は、文化の諸科学はそれ独自の厳密さの型を持っており、その型に応じてアプローチを確立するべきだと主張しています。そして、言語学は外的な「原因」ではなく、「自由」(言語使用者の言語使用における自由)と「目的」(話し手が新しい言語様式を採用する目的)という点から言語変化に関して考察をすることが必要であると指摘しています。著者は、「そしてなされなければならぬゆえんのものは、自然の、あるいはとにかく自由の外にある「原因」をあれこれと探し求めることではなく、個々の歴史条件のもとで自由によって実現されたものを目的から裏づけることであり、新しく現われた形が変化に先行する言語の欠陥と可能性とによってどのようなしかたで必然性もしくは可能性として決定(限定)されるのかをつきとめることである」(p. 160)と述べています。著者は、「言語事実は、話し手が何かのために創造するから存在する」(p. 163)と考えています。このことは、言語変化をパロールから考えるという著者の立場をよく表しています。

次に上記の (B) についてです。通時的構造主義の評価できる点として、以下の点が指摘されています。

(1) 言語はいかに創られるかという言語変化に関する問題を提起したこと

(2) 言語変化を構造的(機能的)説明と歴史的(文化的)説明の両方から考察したこと

(3) 言語的自由が体系の中に統合されることを示したこと

(4) 言語変化に対して目的論的な立場から考察を行おうとしたこと

しかし、各点に対して、著者はその問題点(限界点)も指摘しています。上記の (1) に関しては、すでに指摘したように、言語変化に関する3つの問題点のレベルを単一のレベルの問題であると誤解し、しかもその問題を外的原因の概念を用いて説明しようとしてしまったという点が問題であったと述べられています。3つのレベルを混同したということに対しては、個々の言語変化事例を明らかにすれば(3つ目のレベル)、言語変化という一般的な問題が解明できる(1つ目のレベル)であろうと想定していたという点が誤りであったとされています。

上記の (2) に関しては、一方が他方に先行すると考えてしまった点が問題であったと指摘されています。著者は、「構造的説明と歴史・文化的説明とは、いかなる意味においても、そのいずれかが一方に「先行する」というふうなものではない。そのいずれもがひとつひとつの変化にさいして必然的に相補的である。」(pp. 175-176)と述べています。

上記の (3) に関しては、(a)「目的」という観点が欠けていること、(b) 多様な選択を通じて言語の「規範」の中にくりひろげられる統合の過程そのものを扱っていないこと、(c) 体系をすでに「できあがりの」「つりあった」ものと見なして言語変化について考察してしまっていること(このことが原因で、言語変化を説明するために外的原因に助けを求めざるをえなくなっていると指摘されています)、がその問題点として指摘されています。特に (b) に関しては、「出発点(改新)と到達点(転化)との間には「拡散」、つまり個人から個人への改新の採用とか、何回もの往きつ戻りつの極度に複雑な歴史過程といったような、まさに変化そのものが存在する」(p. 179)のであって、通時的構造主義はこのことを十分に汲み取ることができていないと述べられています。

上記の (4) に関しては、通時的構造主義は確かに「目的」という語を使ってはいますが、著者が考えている「目的」とは意味合いが異なっていると指摘されています。通時構造主義は、青年文法学派が唱えた「原因」という概念に対するものとして「目的」という語を使っており、この考え方により青年文法学派の機械主義を乗り越えられるのではないかと考えていました。しかし、通時的構造主義が想定している「目的」とは、「外的で、前もって定められた客観的目的性」(p. 184)であり、結局は彼らが想定している「言語の目的論とは原因主義の特殊な形式にすぎない」(p. 186)とします(「目的」をこのような意味合いで理解していることが原因で、通時的構造主義は共時態と通時態というソシュール的二律背反を越えることができていないと著者は指摘しています)。著者は、通時的構造主義者の思いとはうらはらに、機械主義は乗り越えられるどころか強化されていると指摘してきしています。現に、通時的構造主義者は外的原因に基づいて言語変化の一般法則を確立しようとしてきました(そして、それによって言語変化の方向性を予想しようともしてきました)。通時的構造主義は、「言語の「発達」とは、何か自然の対象の「進化」ではなくて、文化の対象の構築であること、したがって、それは話し手の目的によってのみ動機づけられている」(p. 191)ことを認識する必要があると述べられています。

著者は最後に、以下のように述べて本章を終えています。「だから、ある意味では、言語学は法則科学になる必要はない。…また他方からすれば、言語学はその対象の本性がそうなることを禁じているのであるから、法則科学になることはできない。言語学は、自由の支配のもとにありながら、なお因果法則を確立しようという、この不合理な企てを放棄すべきである。そうすることによって「厳密」になることを諦めるのではなく、それでこそ人間の科学として全き厳密さを獲得し得るであろう。人間諸科学はすでに「厳密」であり…、物理的諸科学にならってそれらを扱うことは、それでもって一層これを厳密にするゆえんではない。ましてや、言語学は歴史的対象を研究するのであるから、ゆめにも預言者の科学になろうなどと焦がれることはない。」(pp. 192-193)「言語学」の部分を「英語教育学」に変えても大半の部分の意味が通じてしまうのが大変面白いところです。

また言語変化に関して具体的に述べられている箇所があったので、引用しておきます。「もし弁別的なもの(音素)が弁別の役目を果たさなくなれば(無用となれば)、その弁別は廃棄される。もしそれが有用であっても、弁別のちからに欠けるならば、それは形をかえてしまう。もしある能記が、異なる所記をもつ別の能記から弁別されておらず、それでもなお弁別する必要のあるばあいには、形を変えるか、とりかえられる。能記が意味することをやめれば(たとえば意味されている事物に関する知識が失われれば)廃棄される。また、新しい所記が生ずれば、やはり新しい能記が創られる。」(pp. 165-166)このような変化に関して、たとえば現実に混同される2つの音素が変わってゆくのは、「混同されるからではなく、識別を保つためである」(p. 168)という指摘はとても興味深く思いました。

<第7章:共時態、通時態、歴史>

この章では、ソシュールの主張の妥当性を検討し、その上でソシュールが立てた共時態と通時態を乗り越えるために求められるアプローチが示されています。まず、ソシュールの『一般言語学講義』における主張で肯定的に評価されているのは、以下の点でした。

(1) 言語を文化的対象として捉え、その歴史性を認めていたこと

(2) ラングとパロールの相互依存関係を理解していたこと

(3) コセリウが言うところの体系と規範を暗に区別していること(ソシュールが類推について述べる際にこの区別が見られるとのことです)

(4) 言語変化はパロールのレベルでの主観的な契機を原因として生じるということを指摘していたこと

(5) 言語変化を体系的な創造とみなすと同時に、言語変化は体系の全般的改新ではなく部分的な改新を生じさせることを指摘していたこと

確かに、ソシュールは上記のような点を認識しており、その点では評価ができるのですが、一方で重要な点の見落としや問題点もあると指摘されています。ソシュールが見逃していたこととして挙げられているのは以下の点でした。

(1) 言語変化の理由を類推だけに限定してしまったこと

(2) 言語の生成は言語の修復であることを捉えていなかったこと

(3) 言語変化において生じた新しい形式はずっとその後も古い形式と共存するということを見落としていたこと

(4) 規範をラングと同一視してしまったこと

(5) 言語が体系的で個人間的であるのは言語が持っている歴史性の結果であるということを認識していなかったこと

(6) 話し手が新しい表現要求に適応しようとするためには、言語変化は機能的共時性にとって必要条件であると認識していなかったこと

(7) 言語変化は合理的な説明のつかない一種の外的宿命であると考えていること

(8) 言語変化に関して、直接変化するのは体系内の個々の項目であり、これらの項目が作り出す関係が変化するわけではないと考えたこと(ただし、この考えはソシュールのラングの概念と矛盾すると指摘されています)

(9) 共時態と通時態の二律背反を打ち立てるために、しばしば上記の (8) のように、彼自身が創りだした概念と矛盾をするような議論を行ってしまっていること

(10) 「体系=文法的・共時的」、「音的=変化・進化的」という同一視を行い、言語変化を体系にとって外的としてしまっていること

(11) 「言語の状態=言語」という同一視を行ってしまったこと

(12) 言語を「できあがった体系」、つまりエルゴンとする考え方を採っていたこと

(13) 言語をデュルケーム的な「大衆」というものに追いやり、具体的な言語活動と分離されてしまったこと(言語を自然的対象、つまり人間にとって外的な対象として考えていること。したがって、「大衆」という考えが踏まれているとは言え、彼のアプローチは決して社会的ではないことに注意すべしと指摘されています)

(14) 最終的にラングとパロールを切り離して考えてしまったこと

(15) もっぱら「できあがった変化」、いれかわりとしての変化のみを念頭において、変化そのもの、つまり進行中の変化を無視してしまったこと

(16) 共時態と通時態という二律背反を維持するために、通時的なものをパロールに押し込んでしまったこと(ただし、パロールは「その場かぎり」の「瞬間的」なものとソシュール自身が考えているため、連続性を意味する言語変化をパロールに押し込めるのは明らかな矛盾となると著者は指摘しています。また、ソシュール自身が通時言語学は「ラングの学」であるという立場を取っており、変化するのはラングとなるわけですが、変化はラングにとって外的であるから、ラングの中で研究することはできない。したがって、変化をパロールに押し込めると…という堂々巡りが議論に見られるとしています)

(17) ソシュールは青年文法学派のアトミスティックな通時態を批判して共時態の体系性を対置したが、結局ソシュールは通時態に対してはアトミスティックな立場を強めてしまっていること

(18) 言語で最も重要なのはパロールであるということを理解していなかったこと

(19) 価値という概念を導入して言語を文化的現象として捉えようとしたものの、体系を数学的対象と解釈してしまい、研究アプローチにおいて矛盾が生じてしまっていること

(20) ソシュールは確かに言語を歴史とみなしてはいるが、言語学はどのようにすれば歴史でありうるのかということについては考えが及んでいないため、議論に多くの欠陥があること

(21) ソシュールは言語の状態を記述すると歴史の外に出てしまうという錯覚に取りつかれていること(政治史などを考えれば分かりやすいですが、ある歴史的対象の記述は、実際にはその対象の歴史の1つの時点です)

さて、ソシュールの学説はその後様々な学派で引き継がれていきましたが、コセリウが問題点として指摘している上記のような事がらを受け入れてしまったがために、各学派で個別に様々な問題を引き起こすことになりました。ここでは、ジュネーヴ学派、言理学、プラーグ学派(通時的構造主義)、が取り上げられています。各学派で生じてしまった問題とは以下の通りです。

・ジュネーヴ学派:パロールの重要性を認め、パロールの言語学を打ち立てようとしたが、パロールで生じた現象をラングとうまく統合することができず、言語変化を歴史的に捉えることに失敗してしまった

・言理学:言語を体系的で恒常的にしているのはなぜかということを明らかにしようとしたが、言語を数学的な対象(静的で非時間的な対象)とみなしてしまったために、歴史という視点を捉えそこなった

・プラーグ学派:共時態と通時態の相互的な依存関係を主張したものの、「言語とはすでに実現されてしまった体系であり、変化はその中で生ずるという」(p. 221)立場に立ったため、言語または言語変化を外的対象とみなし、体系の因果関係や客観的目的論という幻想に取りつかれてしまった(言語はその本質においてダイナミックなのであり、変化があるからこそ体系が生成されるというところまで考えが至らなかった)(詳しくは第6章を参照ください)

さて、以上のように述べてきたところで、著者は最後にソシュールの共時態と通時態という二律背反をどのように乗り越えてゆけばよいのかということについて考えをまとめます。「理論的観点からすれば、ソシュールの二律背反は、根本的な意味において、ことばをエネルゲイアとして見ることによってのみ、言いかえれば、変化というものをたんにすでに与えられた体系の模様替えとしてではなく、体系の絶え間ない構築として理解することによってのみ超えることができる。経験的には、変化を説明するには体系から出発することになっている。…しかしながら、厳密な立場に立って言えば、体系と変化は、これを入れ替えなければ理にかなわない。…体系の形成を理解するには(特定時点における特定体系を記述するためでないかぎり)変化から出発しなければならない。…言語は体系として変化しているということ、つまり、言語は体系的に生成することを意味するのである。…「言語を言語たらしめているもの」はたんにその構造ではなく(構造は、言語が機能してゆくためのたんなる条件にすぎない)、言語を創造し言語を伝統として維持するゆえんのその言語的活動である。そこで、もし変化が言語の体系的生成として理解されるならば、「体系」と「変化」との間にはいかなる扜格もない。いな、「体系」ならびに「運動」という対立しあうものを考えるべきではないのであって、考えうべきは「運動における体系」のみである。言語の発達とは、肆意的で危なっかしい絶えざる「変化」ではなく、絶えざる体系化である。そして「言語の状態」一つびとつは、まさにこれが体系化の瞬間であるから、体系的な構造を示しているのである。「体系化」の概念によって、通時態と共時態の二律背反は根本的に克服される。というのは、通時的なものの没体系性も、体系的なもののみかけの静止性も、一気に除かれるからである。このように、言語を体系として理解するために、変化を継子扱いしたり、それに目をつぶったりする必要のないことも、また明らかになった。変化は体系であることに刃向うようなものではないからである。逆に、言語体系に固有の体系性―それは動的な体系性である―を否定するものは静止性であり、静止性こそは、言語が言語として機能することを不可能にし、やがてはそれを「死語」にしてしまうものである。」(pp. 221-223

さらに、著者は以下のような提案をしています。

(1) 共時態と通時態をそれぞれ、各話し手の言語様式の使用と採用という意味合いで用いること

(2) 言語を、「すでに実現され終えた諸形式の全体、そのままの姿で使用されるべきモデル(規範)であるにとどまらず、実現されたものをさらにこえてすすんでゆくための技術、すなわち「可能性の体系」(体系)でもある」(p. 224)ことを肝に銘じること

(3) ある一時点での言語を記述する場合は、「記述される「状態」が「体系化」の一瞬、言い換えれば、ダイナミックな現実の一瞬であることを考慮に入れるべき」(p. 224)であり、体系の内的矛盾やその弱点(体系の中でおさまりが悪かったり、機能効率のとぼしい個所)を際立たせるものにすること(均衡がとれているかのようなつじつま合わせは避けるべき)

(4) 現実の話し手は常に多様な伝統を前に多様な表現意図に基づいて、様々な言語形式を使用しているため、言語の状態において内延的な多様性と外延的な多様性に留意すること(「同一の「言語の状態」の中にいくつもの体系が共存」(p. 225)していることを思い出すこと(方言や近隣言語のことを思い出せば分かりやすいでしょう))

(5) 歴史という観点から言語をその生成において見ること。しかも、「「外的歴史」としてではなく「内的歴史」として、つまり歴史的対象たる言語そのものの研究として理解されねばならない」(p. 226)こと。その歴史とはどのようなものかというと、「時の流れのまにまに、あるいは維持され、あるいは変化し、とりかえられる言語様式のその歴史とは、伝統の歴史、つまりは文化の歴史である。しかしながら、ここに言う文化の歴史とは、言語様式の中に(とりわけ語彙の様式の中に)必ず反映される言語以外の文化、つまり言語外的文化の歴史だけではなく、何よりもまずそれらの様式自体が組みたてる文化のその基礎をなすところの、かの特有な形式の歴史である。」(p. 226)と説明されています。

(6) ソシュールの共時態という考え方は言語学にとっては有用なものであると考えることはまだ可能であるが、ソシュールの通時態という考え方だけは即座に廃棄すべきであること(ソシュール自体は、通時態をある時点での共時態と別の時点での共時態の間のずれという程度にしか考えていません。一方、共時態に関しては、著者は「体系を組みたてている要素のそれら一つびとつはすべて他の要素との関係におかれている」(p. 208)「体系自体がその使用者とともに共時化されている」ということは事実であるため、その有効性を認めています。ただし、2点目の理由に関して、使用者が関わるからこそ共時態はダイナミックでなければならないと考えており、ソシュールの共時態をそのまま言語学が使用し続けることには反対しています。)

(7) 共時言語学と通時言語学を、それぞれ言語の記述と言語の歴史という言い方に換えて研究していくこと

以上述べてきたところで、著者は最後に、もう一度以下の点をポイントとして掲げています。

(1) 言語が機能するためには変化しつづけなければならない

(2) 体系は、話し手の表現的必要に応じて、話し手によって創られる

(3) 言語は絶え間なく変化するが、その変化は既成の言語の破壊ではなく、修復である

(4) 言語変化によって直接的に変化しているのは体系内の均衡である(体系全体は常に維持されている)(ある変化表の中に変化が起きたとしても、すぐさまその変化表の中の諸関係や同じ部類の中の他の変化表に影響を及ぼすものでもなければ、その内部関係に変化をひきおこすわけでもない。古い形と新しい形が共存する時期がしばらく続く)

(5) 言語変化とは、ある部分は同じに維持しながら、新しい伝統を取り込むことである

なお、本書の最後に訳者の1人(田中克彦氏)は、本書の意義を以下のようにまとめていました。

「ソシュールが設けて以降、近代言語学のすべての流派が採用するに至った、共時態・通時態という、単に作業上の便宜でしかないこの教条主義的な二分法を、あくまでも歴史現象としての―絶えざる転変と建てなおしのただ中にある―言語の現実そのものから出発することによって打ち破る道すじを発見することに、本書の題名ははっきりとねらいをさだめている。本書においてはまた、従来、ソシュールのわく組みに義理だてしつつ、深刻ぶってくりかえし唱えられてきたところの、言語における構造と歴史との二律背反なるものは、科学の名において設けられた架空のまぼろしとして克服されているばかりでなく、言語が絶え間なく生成し、維持されるのは、自然科学主義が排除してしまった、人間の意志のいとなみにほかならないことが明らかにされ、言語学が避けてきた、規範の問題があらたな角度からすすんでとりこまれている。(改行)コセリウのこの労作は、言語は構造でありながら―あるいは構造であるからこそ―いかに人間的ないとなみであり、いかに歴史的な形成物であるかを、西欧的哲学の全史を背景としつつ、ねばっこい論理で執拗にせまってみせた、おそらくソシュール以後最大の、いな、ソシュールそのものをはるかに超えた、真の意味における言語学の記念碑であると私は思う。」(p. 239

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2013年8月27日 (火)

米田英嗣(2010).「物語理解と社会認知神経科学」を読む(楠見孝(編),『思考と言語』,北大路書房)

主に感情面に焦点を当てて人間の物語理解について調べた研究がレビューされています。

米田英嗣(2010).「物語理解と社会認知神経科学」.In楠見孝(編),『思考と言語』(pp. 270-290).北大路書房.

概要

著者は、以下の2つのタイプの研究をレビューしています。

(1) 人間の物語理解を調べた研究

(2) 物語理解を研究の手段として人間の社会認知を調べた研究(これらの研究は他者の心的状態の理解や高次な感情、自閉症患者の理解をターゲットとしています)

●近年の物語理解研究の概要

重要な点として、以下の点が指摘されていました。

(1) 著者は物語の理解とはシュミレーション経験であり、実際に自身が何らかの運動を行ったり感情を生起させたりする場合と同じ神経基盤が活性化すると考えられ、現にこのことを支持する証拠も報告されている(加えて、ミラーニューロンシステムとの関係性についても示唆されています)

(2) 主人公の感情を推測しながら読解する場合は、自分と類似している主人公の物語のほうが類似していない主人公の物語よりも読解時間が短い(p. 274)(つまり、読者と類似した主人公が記述された物語であれば、理解は促進される)(Komeda et al. (2009) の研究より)

(3) 外向性が高い読者は外向性が低い読者よりも、外向的な主人公が喜びを感じていると推測し、外向性の低い読者は外向性の高い読者よりも、外向的な主人公が怒り、嫌悪、不安を感じていると推測する傾向がある(p. 274)(Komeda et al. (2009) の研究より)

(4) 前部、帯状回、運動前野、側頭回は物語を事象として切り分けることに関与していると考えられる(Speer et al. (2007) の研究より)

(5) 腹内側前頭皮質と扁桃体は登場人物に対する共感と関わると考えられる(Ferstl et al. (2005) の研究より)

●物語理解を研究の手段として人間の社会認知を調べた研究

主に、他者の心的状態の理解(メンタライジング)、高次な感情に関する研究、自閉症患者の理解の研究、が紹介されています。なお、「高次な感情」とは、罪悪感、恥、誇り、妬みなど、人間以外の動物が持ち合わせていないとされる感情(自己意識と関連した社会的感情)を意味しています。また、ここでは社会脳というものが重要となります。社会脳とは、人間の社会性に関連する脳領域のことで、扁桃体、側頭極、上側頭溝、側頭頭頂結合部、内側前頭前野、が含まれるとされます。ここでは主に以下の点が指摘されていました。

(1) 心の理論は内側前頭前野と帯状回の一部が関与している(Fletcher et al. (1995) の研究より)

(2) メンタライジング(「自動的に完全に無意識のレベルではたらくある活動であり、他者の心の状態を読み取って他者の行動を予測する時に行っていること」(p. 278))は、側頭極、上側頭溝、側頭頭頂結合部、内側前頭前野が関わり、かなりの部分が社会脳と一致する(Fletcher et al. (1995) の研究より)

(3) 意図の推論は側頭頭頂結合部で行われ、内側前頭前野では他者の意図の推論に限らず、より一般的な社会認知に関与していると考えられる(Saxe & Powell (2006) の研究より)

(4) 罪悪感と恥を喚起する物語を読んでいる際に共通して活動している脳領域は、内側前頭前野、上側頭溝、視覚野である。また、恥を感じる物語を読んだ場合は罪悪感を感じる物語を読んだ時よりも右半球の側頭領域、左右半球の海馬、視覚野に活動が得られた(社会的感情はメンタライジングの神経基盤によって処理されている)(Takahashi et al. (2004) の研究より)

(5) 同じポジティブな感情であっても、社会的感情である誇りとより基本的な感情である喜びで神経基盤が異なっている。前者の場合は、右半球の上側頭溝、左半球の側頭極が活動し、メンタライジングの脳領域が活動していた。それに対して、後者の場合は、腹側線条体と島(報酬や快刺激を受けた時に活動する領域)が活動していた。したがって、誇りを感じる際には、他者がどう思っているか、その意図を考えていると推定される(Takahashi et al. (2004) の研究より)

(6) 自分と同性で自分より優れている登場人物には強い妬みを感じて前部帯状回が活性するが、そのような登場人物がひどい目にあった時には喜びを感じて腹側線条体が活性する。また、前部帯状回の活動が高かった人ほど腹側線条体の活動も高くなる(Takahashi et al. (2009) の研究より)。

(7) メンタライジングに関連する部位である右半球の側頭頭頂結合部が通常の人では意図の推論などといった特定の作業に対して選択的に機能するのに対して、自閉症患者はあらゆる推論に対してこの部位が活性化する(Saldana & Frith (2007) の研究より)

(8) 主人公の感情を含んだ状況モデルの更新には、メンタライジングに関わる内側前頭前野と側頭極、感情の評価に関わる外側前頭眼窩皮質の活性が高まる(Komeda et al. (submitted) の研究より)

(9) 個人主義傾向の人は個人主義的な登場人物が登場する物語の理解で、集団主義傾向の人は集団主義的な登場人物が登場する物語の理解で内側前頭前野の活動が見られる。また、その人の傾向が個人主義傾向か集団主義傾向かに拘わらず、事前にどちらのタイプの登場人物が登場する物語を読むかによって、どちらの傾向と関連したタスクで内側前頭前野の活動が高まるかが変化する(プライミング効果)(Chiao et al. (2009) (2010) の研究より)

(6) の結果は、更に以下のように解釈できるとされます。「第1に、前部帯状回は他者が物理的な痛みを受けているのを観察している時に活動する脳領域であることから、他者に対する妬みや痛みとして脳内で表象している可能性がある。第2に、…腹側線条体は報酬を受けた時に活動する脳領域であることから、自分にとって好ましくない他者に不幸が起こることは報酬として処理されている可能性がある。つまり「他人の不幸は蜜の味」は、事実なのかもしれない。第3に、前部帯状回の活動が高かった参加者ほど腹側線条体の活動も高いということは、他人に対して妬みやすい人ほど、他人に対する不幸を報酬として受け取るという個人差が見られたといえる。」(p. 281)

(7) に関しては、「自閉症患者は社会性に関わる推論ができないのではなく、おそらく異なった方略を用いているのではないか」(p. 283)と考察されています。

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2013年8月26日 (月)

窪田三喜夫(2004).「脳と言語習得」を読む(小池生夫・寺内正典・木下耕児・成田真澄(編),『第二言語習得研究の現在』,大修館書店)

事象関連電位に基づいた研究成果を中心にまとめられています。

窪田三喜夫(2004).「脳と言語習得」.In小池生夫・寺内正典・木下耕児・成田真澄(編),『第二言語習得研究の現在』(pp. 43-62).大修館書店.

概要

この章では、言語習得への脳科学的アプローチの背景として古典的脳地図と脳機能測定方法が概説され、その後に脳内文法処理、脳内意味処理、脳内音響処理、脳内単語処理、バイリンガルの脳内言語処理、の研究成果が整理されています。

●言語習得への脳科学的アプローチの背景

まず、Broadmannによって52の領域に分けられた脳地図が紹介されます。そして、ブローカ野(44野と45野)は、言語の産出、単語の想起、単語の復唱、物の名前を答えること、文処理における語句や意味を一時的に記憶しておく作業、と関係すると紹介されます。また、44野はミラーニューロンが存在している場としても知られており、「言語産出という脳機能が確立する前のブローカ言語野が担っていた原始的な機能は、動作の認知・理解と模倣であったと考えられる」(p. 44)と述べられています。また、「言語の産出機能と動作の模倣機能が同じ部位のBA44にあるため、L1の発話獲得は口の動かし方の模倣から始まると推測可能である」(p. 44)とも述べらています。これらの対して、ウェルニッケ野については、言葉を理解する際の音素の識別、発話時の音素の選択、規則性のある時系列の信号の処理、を担っていると紹介されていました。

脳機能測定方法については、EEG、MEG、fMRI、PETが取り上げられています。

●脳内文法処理

文理解時の脳内文法処理には3種類の脳波反応が観察されています。1つは、超早期文法処理成分(ELAN)で、文法的に逸脱した語を聞いたり読んだりしてから120~200ミリ秒後に観察され、「脳の左半球前部において脳波の波形が上方に振れる陰性成分」(p. 46)となります。なお、この成分が観察されるかどうかは、L1話者の場合は言語構造が複雑かどうか、L2話者の場合はこのことに加えてL2能力レベルによって結果が異なってくるという結果となっています。この成分は、文法的にローカルな処理に関わり、「脳は文法に反した予期しない単語が現れると、約150ミリ秒という極めて短い時間内で、文法性を判断する自動的な処理を行っていると考えられる。すなわち、この超早期文法処理は、順番に単語を積み上げて文構造を理解している時に、予想に反した文法的エラーを検出するという文法的ミスマッチのメカニズムを反映していると解釈できる」(pp. 47-48)とされます。

2つ目は早期文法処理成分(LAN)で、「300~500ミリ秒後に、左半球の前部などにみられる陰性成分」(p. 46)です。ただし、「など」という語が付記されているように、側頭部、頭頂部でも観察されます。LAN同様に、ローカルな文法処理に関わると考えられています。特に左半球のブローカ野の44野が記憶負荷の高い複雑な文を理解する際にこの成分が観察されるようで、ブローカ野は文法的作業記憶の場として機能している可能性が示唆されています。ただし、単語を黙読したりする際にもこの成分が観察されるそうで、この部位は語彙も一時的に記憶する役割も担っているようです。

最後は後期文法成分(P600)です。文法的逸脱を含む表現を認知後「約600ミリ秒を頂点として脳波が下方に振れる陽性(プラスの電位)成分」(p. 46)となります。この成分は両半球の頭頂葉中央部に分布が確認されるそうです。「P600成分は、言語インプットの文法的再処理を示し、エラー文に対しては文法的修正を、袋小路文に対しては文法的再分析を、文法的に困難度の高い複雑な文に対しては文法的統合を行っていると考えられている。文法的エラーについては超早期文法成分(ELAN)や早期文法成分(LAN)に引き続きP600成分が生じることがあるが、袋小路文と文法的統合の難しい文は文法的には逸脱していないため、P600成分が単独で出現するのが特徴である。」(pp. 50-51)とされます。

以上3つの成分の解説のあと、以下の3点が重要点として強調されています。

(1) 超早期文法成分は文法に関するエラーによってのみ生じる

(2) 早期文法成分と後期文法成分は、文法に関するエラーだけでなくワーキングメモリーの負担などその他の要因にも影響される

(3) L1話者とL2学習者との間で脳反応に大きな違いが見られるのは超早期文法処理成分である(これはこの成分が文法処理の自動的処理を反映しているためと考えられます)

●脳内意味処理

意味的なエラーを含む文に対して、300~500ミリ秒後の間にN400が生じるということが知られています。ただし、エラー文に対してだけでなく、正しい単語が繰り返されない、出現頻度が低い語に出会った場合、空所に入る単語が予想に反する場合(意味的には正しかったとしても)、にも生じるそうです。この成分は、両半球の頭頂部、側頭葉後部、後頭葉にまたがるそうです。つまり、早期文法処理成分と生起する時間は似ているものの、電位分布は異なっていることになります。この電位に関しては、L2学習者とL1話者の比較研究でも一致した結果が得られておらず、さらにどの部位がもっとも関係しているのかも先行研究により異なっているようです。

●脳内音響処理

外国語を学習することにより、音に対する脳内反応が変化するという調査結果が報告されています。ただし、L1話者と非L1話者の能力を分けるのは音響レベルの識別能力ではなく、音韻や文法、意味レベルでの能力ではないかという結果が得られているそうです。

●脳内単語処理

先行研究から、目標言語の所定の単語を知っているかどうかで処理が異なる、単語の接尾辞の処理は語幹の処理よりも時間がかかる、人は文脈に応じて単語を予想しながら文を聞いている、ということを示す証拠が紹介されていました。

●バイリンガルの脳内言語処理

「一般に、L1と比較してL2では、脳活動の部位が広範にわたる傾向にあるが、被験者のL2能力レベルや、L2学習開始年齢、タスクの種類、言語処理の種類(発話vs.理解)、言語タイプ(例:同語族vs.非同語族)という脳内活動分布に影響を与える様々な要因の違いをよく幹分ける必要があ」(p. 57)ることが指摘されていました。

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2013年8月24日 (土)

大門正幸(2011).『スピリチュアリティの研究 異言の分析を通して』を読む(風媒社)

かつてあのソシュールも関わった異言現象が扱われており、興味を持ったので読ませていただきました。

大門正幸(2011).『スピリチュアリティの研究 異言の分析を通して』.風媒社.

概要

本書のタイトルが示している通り、この研究の主眼はスピリチュアリティ、特に過去生(意識の死後存続)ないし生まれ変わりに関心があり、過去生という現象を分析する手段として異言に着目がされています。したがって、異言の分析そのものがその研究の主たる目的となっているわけではないことを断っておきます。ですが、この記事では主に異言に関する部分のみを取り上げたいと思います。本書で取り上げられているスピリチュアリティ研究の課題や意義といった点は本書を直接ご参照ください。なお、本書の著者はチョムスキーからも言語学を習った生粋の言語学者で、古英語研究やコーパス言語学でも活躍されています。著者は、オカルト的として片付けられている過去生という現象を極力科学的な方法で検討・調査を試みています。

では、なぜ過去生の研究で異言が取り上げられるのかというと、言語知識はPolanyiの言う暗黙知の一種であるからだと説明がされています。「「過去生の記憶」との関連で重要なのは、もし催眠中の被験者が今生で身につけたとは考えられない技能を持っていたとすれば、それは本物の過去生から受け継いだことを示す有力な証拠だと考えられる点です。このような技能として一番の候補になるのが外国語です。すなわち、もし被験者が退行催眠中に、今生で身につけたはずのない言語を理解したり使ったりすることができれば、被験者が思い出したのは本物の「過去生の記憶」と考えざるをえないということです。」(p. 31)

上記のような外国語使用のことが異言と呼ばれています。英語であれば、宗教ではglossolaliaと言う語が好まれ、それ以外の分野ではxenoglossyと言う語が使用されているそうです。

なお異言には朗唱型異言(recitative xenoglossy)と応答型異言(responsive xenoglossy)の2種類があるそうです。前者は、「知らないはずの言語を話したり書いたりすることはできるけれど、それを使って母語話者とコミュニケーションすることはできないという場合」(p. 34)です。報告されている異言のほとんどはこのタイプに属すそうです。後者は、母語話者と意思の疎通ができる場合です。「幼少期に使っていた言語が何かの拍子に口をついて出てくる、しかし、本人が昔その言語を使っていたという可能性がなければ、こちらは過去生の検証手段として大変有力な現象」(p. 34)と考えられています。

著者は、これまでの学術雑誌等で掲載された異言の報告例をレビューしていきます。I. StevensonとI. Tuckerがこの分野で大きな功績を挙げているそうで、彼らの研究が中心となっています。なお、著者は憑依と過去生を区別しています。ただし、憑依でも異言は発生することが報告されており、そのような事例も紹介されていました。

また、著者自身が携わったある日本人女性の異言の研究はかなり詳しく説明されていました。その女性は、前回の過去生ではネパールのナル村に住んでいた村長ラタラジューであり、さらにその前の過去生では江戸時代のタエという女性だったそうです。本書では、ネパールのラタラジューとしての異言が分析されています。本人はネパール語を学んだ経験はないにもかかわらず(調査の結果、その被験者の周辺にもネパール語と接点のあった人はいなかったそうです)退行催眠中に実際にネパール人とネパール語で会話をしています(プロトコルは本書に付録として収められています)。また、著者は実際にナル村に趣き、被験者が述べた意味内容の裏づけを取ったりそのプロトコル内の意味内容と言語形式に対してナル村の人たちにコメントをもとめたりととても大掛かりな実地調査がなされてていました(異言を科学的に扱うためにはどのような作業が必要となるのかを知ることができました)。総合的に判断して、著者はその被験者はラタラジューとして話をしているときはネパール語の言語能力を保持していると結論づけています。そして、本書の目的としては、過去生・生き返りという現象の証拠の1つとしてこの調査結果が提示されています。

最後に本書の章立てを示しておきます。

第1章:「人間学」としてのspirituality研究

第2章:本研究の位置づけ

第3章:前世療法と「過去生の記憶」

第4章:退行催眠中の異言とその実例

第5章:事例報告:退行催眠中にネパール語を話す日本語話者の例

第6章:結語

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2013年8月23日 (金)

R.C.Oldfield(1971).「The Assessment and Analysis of Handedness: The Edinburgh Inventory」を読む(『Neuropsychologia』)

調査参加者の利き手を調べるための質問紙が考案されています。

Oldfield, R. C. (1971). The assessment and analysis of handedness: The Edinburgh Inventory. Neuropsychologia, 9, 97-112.

概要

利き手を調べる方法は、(1) 実際に調査参加者にある行動を行ってもらって判断する方法、(2) 質問紙によって「~する時はどちらの手を使いますか」といった項目に答えてもらうことで判断する方法、の2つがあります。著者は、簡便性という観点から (2) の方法を採用し、そのための質問紙を作成しています。最初に20項目からなる質問紙を作成するのですが、相関等数量的な手法によって10項目から成る質問紙へとスリム化を行っています。この論文の最後に、本研究を通して著者が作成した、調査参加者の利き手を調べるための質問紙(The Edinburgh Inventory)が掲載されています。非常に簡便なものとなっており、実用性は高いと考えられます。

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岸学(2010).「説明文・マニュアルの理解と表現」を読む(楠見孝(編),『思考と言語』,北大路書房)

宣言的説明文、手続き的説明文(マニュアルなど)、非連続型テキスト(グラフや地図、記入用紙など)、の理解及び産出に関する先行研究がレビューされています。

岸学(2010).「説明文・マニュアルの理解と表現」.In楠見孝(編),『思考と言語』(pp. 217-244).北大路書房.

概要

この章では、著者はまず以下の点を指摘します。

(1) 説明文と物語文では表象構築プロセスが異なっている

(2) 説明文は宣言的説明文と手続き的説明文に区分できる(両者は同じ説明文とは言え、かなり異なった処理及び産出過程を伴う)

次に、宣言的説明文と手続き的説明文の理解と産出に関する先行研究がまとめられています。

●宣言的説明文の理解と産出について

以下の4点から、先行研究が整理されています。

(1) 宣言的説明文の理解モデル(状況モデル)

(2) 宣言的説明文の理解に影響する要因(先行知識の量)

(3) 宣言的説明文の産出モデル(Hayesによる文章産出モデル)

(4) 宣言的説明文産出とメタ認知の関係

各項目についてこの章の中で取り上げられている先行研究については省略をしますが、個人的に興味を持った点のみ挙げておきます。

(1)に関して、Kintsch (1994) による、「テキストベース形成までを文章の記憶、状況モデル形成を文章からの学習」(p. 222)という位置づけは非常に興味を持ちました。この章の著者は、前者を「浅い理解」、後者を「深い理解」と呼んでいます。

(2)に関しては、「先行知識量と文章からの知識獲得量との関係は逆U字型の曲線関係にあり、先行知識量が少ない、あるいは多い場合には知識の獲得量が少なく、先行知識量が中程度の場合、知識獲得量が最大になる」(p. 223)という調査結果が紹介されていました。

●手続き的説明文の理解と産出について

このタイプの説明文についてはこれまであまり研究がなされていないそうです。しかし、社会の中でこのタイプの説明文の重要性が増してきたこと(このタイプの説明文が理解できないと生活に困難をきたす人が増えるような形に社会が変化してきたこと)、これまで研究されてきた宣言的説明文と物語文のモデルが適用できないこと(これらとは全く異なるタイプの理解・産出が必要であり、新たにモデルを構築する必要があること)、から研究が急がれているとのことでした。ここでは主に以下の項目に関して先行研究が整理されています。

(1) 社会の中でマニュアルに求められる機能の整理

(2) 手続き的説明文の理解に影響を与える要因

(3) よい手続き的説明文を産出するために必要な事柄

上記の (3) に関して、「「読み手を意識すること」のなかでも、「読み手の知識状態の推測」と「それにあわせて表現を修正すること」という2つが重要なようです。こういった意識は、認知発達が十分なレベルにある大学生や成人でもかなり個人差が大きいそうです。したがって、手続き的説明文産出指導にあっては、このような要素を取り入れる活動が必要になると言えそうです。

●非連続型テキスト及びそのテキストを含んでいる説明文の理解について

この点に関しては、以下の項目に分けて解説がされています。

(1) 非連続型テキストの特徴及び特性

(2) 非連続型テキスト及びそのテキストを含んでいる説明文の理解

この文献を読んで、文学的テクストと何か説明文を対比させる場合、説明文に宣言的説明文と手続き的説明文どちらを使用するのかということに関して、実験計画の段階で慎重に考える必要があるということに気づかされました。また、調査で使用する説明文の内容を、調査参加者がどの程度の量の知識を持っているものとするのかという点も、合わせて重要な決定項目となります。

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2013年8月21日 (水)

木下徹(2011).「脳機能イメージング技術の言語研究への応用」を読む(藤村逸子・滝沢直宏(編),『言語研究の技法 データの収集と分析』,ひつじ書房)

私の出身大学の大先輩が執筆された1章です。fNIRSの性能の長所と短所が分かりやすく解説されています。

木下徹(2011).「脳機能イメージング技術の言語研究への応用」.In藤村逸子・滝沢直宏(編),『言語研究の技法 データの収集と分析』(pp. 179-195).ひつじ書房.

概要

本章は、脳機能・画像イメージング手法の比較と各手法を用いた言語研究の先行研究のレビューという2つの部分から成り立っています。

●脳機能・画像イメージング手法の比較

著者はまず、脳の分析は個々の学問分野だけでなく学問分野間の融合的な展開にとっても大きく貢献している点、現在ではきわめて多様な分野が脳の分析を行っている点、を指摘しています。次に、MEG、EEG、fMRI、PET、fNIRS、OR、MEMを、空間分解能、時間分解能、機能測定能、非侵襲性、非拘束性、測定基準時間、刺激の容易性という6つの視点からの評価した武田(2003)が紹介されています。なお、この章の著者は課題は残るとしながらも、fNIRSを推奨しています。fNIRSの利点として、以下の7点が挙げられています。

(1) その他の手法と比べて大がかりな設備が不要で実用的である

(2) その他の手法と比べて調査参加者の拘束性が低い

(3) その他の手法と比べて、実際の言語使用環境に比較的近い状態で測定できる

(4) 非侵襲性に優れている

(5) より多くの情報に基づいた測定が可能である(fMRIは酸素化ヘモグロビンの情報に基づくのに対して、fNIRSはこれ以外に脱酸素化ヘモグロビンの情報と両者の和であるトータルヘモグロビンの情報に基づいて測定を行う)

(6) 操作が容易で特別な資格も不要である

(7) 価格が比較的安価である

また、その課題点としては以下の事柄が指摘されています。

(1) 時間分解能が最高でも100ミリ秒程度にとどまる(ただし、fMRIに比べてシグナルノイズ比が比較的良好であるため、一定の結果を得るのに課題をたくさん繰り返す必要はないそうで、この問題点の挽回は可能と著者は指摘しています)

(2) 空間分解能が20ミリ程度にとどまる

(3) 脳の内部はせいぜい表面から20ミリ程度しか扱えない(言語習得において言語熟達度や自動化は皮質の脳溝の奥や大脳基底核といった深部が関与していると言われており、調査目的によっては大きな問題となります)

(4) 得られた結果の解釈のコンセンサスが確立していない

(5) 計測値が血流の絶対量ではなく、個人内の相対的変化である

●各手法を用いた言語研究の先行研究のレビュー

ここでは、EEG(電磁気的変化測定法)、MEG(電磁気的変化測定法)、fMRI(血流変化測定法)、fNIRS(血流変化測定法)が使用された言語習得研究のレビューがなされています。最近の研究を中心にまとめられており、情報量がとても豊富です。具体的な内容は本章を直接ご参照ください。

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2013年8月 7日 (水)

A.Iida(2012).「Writing Haiku in a Second Language: Perceptions, Attitudes, and Emotions of Second Language Learners」を読む(『Sino-US English Teaching』)

英語で俳句を書かせる活動の特性を明らかにし、この活動が第2言語学習にどのように貢献しうるのかということについて考えられている論文です。

Iida, A. (2012). Writing haiku in a second language: Perceptions, attitudes, and emotions of second language learners. Sino-US English Teaching, 9 (9), 1472-1485.

概要

●文学教材を第2言語教育に用いる際の困難点

著者は、これまで述べられてきた事柄として以下の6点を挙げています(いずれもp. 1473より)。

(1) vocabulary, grammatical structures, and syntax in literary texts make it difficult for L2 learners to understand the content

(2) the focus of L2 learning is more on producing the target language accurately than on using it fluently

(3) L2 students are expected to learn to write academically rather than creatively

(4) there seem no connection between literary learning and the development of L2 proficiency

(5) literary reading is time-consuming

(6) it can demotivate L2 students

●文学教材を第2言語教育に用いる利点

著者によると、先行研究では以下の5点を主張してきています(いずれもp. 1473より)。

(1) developing L2 cultural awareness

(2) enhancing L2 linguistic knowledge

(3) promoting L2 communicative competence

(4) gaining awareness of critical thinking

(5) helping self-discovery or personal growth

また、著者はParan (2008) に言及しながら、"Of particular importance is to learn the target language as well as literature itself with consideration to its culture left behind the literary texts. Doing so allows L2 learners to develop literary, textual, and cultural knowledge of the target language in the process of constructing meaning in the texts." (p. 1473) と述べています。加えて、Paesani (2005) による "the significance of the usage of literary texts "as comprehensive input for the acquisition of grammatical forms and as the basis for meaning, form-focused communicative language use" (p. 22)" (p. 1473) という指摘も重要です。

●調査の概要

大学生英語学習者20名(TOEFLのスコアは435-470点)(日本人17名、韓国人1名、ブラジル人1名、ミャンマー人1名)に対しての6週間にわたる俳句ライティングの実践です。学習者は6週間の間、俳句の概念の復習、英語の俳句を読む活動、自分の人生の中で忘れられない瞬間に関する俳句の作成(合計20作品を作成し、最終的に個人が目次や序言を付けた上で製本する)、作成された作品のフィードバック(学習者同士によるフィードバックと教員によるフィードバック両方を含む)に基づいた推敲、を行いました。6週間後に、"to examine "the hidden conceptual and emotional world of individual" (Hanauer, 2003, p. 78) and to clarify how haiku writing had impacts on L2 learning" (p. 1475) を目的として、調査参加者にインタビューを行いました。また、学習者には6週間の間に日記をつけることも義務付けており、学習者の面接での発言及び日記での記述を基礎データとして以下の2点が分析されます(いずれも、p. 1474より)。

(A) What are the perceptions, attitudes, and emotions of EFL students concerning L2 haiku writing?

(B) What are the potential contributions of haiku writing to L2 learning?

●結果

著者は、質的研究法によって基礎データをカテゴリー分けし(詳細はp. 1475)、大きく4つのカテゴリーを抽出します。そして、各カテゴリーの中にはそれぞれサブカテゴリーが設けられています。ここでは、抽出されたカテゴリーの紹介のみ行います(詳しい説明は、この論文をご参照ください)。なお、括弧内はそのカテゴリーの中に含まれているサブカテゴリーです。

・Difficulty (syllables、seasonal references、self-expression、remembering、vocabulary、previous learning experiences)

・Value (self-expression、vocabulary、audience awareness、applicability to other genres)

・Emotions (anxiety、frustration、reluctance、surprise、interest、the sense of achievement)

・Attitude (acceptance、resistance、unsureness)

また、著者は上記のカテゴリーに基づいたデータの分類結果から、以下の6点を指摘しています。

(1) the difficulty of L2 haiku composition is attributed to structural, lexical, and semantic issues in expressing voices (p. 1482)

(2) haiku writing is useful for L2 learning from the aspect of acquiring vocabulary and gaining a greater awareness of self-expression, along with the applicability of knowledge and techniques used in haiku composition to other genre writing (p. 1482)

(3) more than a half of the participants had positive feelings for writing haiku (p. 1482)

(4) some participants had unexpected feelings by noticing or finding something new in the process of creating L2 haiku (p. 1482)

(5) comparatively low percentage of the participants shows negative emotions for haiku writing, such as anxiety (30%), frustration (15%), or reluctance (10%) (p. 1482)

(6) the majority of participants took positive attitudes toward L2 haiku composition and they were satisfied with the use of haiku as a way for English learning (p. 1482)

著者は、以上の結果から "haiku writing is a satisfying task for most of the participants" (p. 1482) と述べています。

●考察

著者は今回の調査の結果から、主に以下の3点を主張していました。

(1) A principal contribution of haiku composition is the development of L2 linguistic awareness (p. 1482)

(2) L2 haiku composition has positive impacts on the awareness of self-expression (p. 1483)

(3) the contribution of writing haiku to other L2 genre writing (p. 1483)

まず、(1) に関しては、"The majority of participants agree with the perspective that haiku writing helps to increase vocabulary, acquire new vocabulary, and choose appropriate lexical items to present emotions in texts. The development of L2 linguistic awareness can be seen as a result of the participants' negotiations of meaning construction in a structurally designed format. Haiku composition requires the writers to choose lexical items in order to adjust the 5-7-5 syllable pattern. ... this linguistic negitiation process allows for a greater awareness of L2 knowledge. In other words, the attempt at adjusting the 5-7-5 syllable pattern enables EFL students to carefully look at L2 linguistic items. In this way, the students' perceptions of writing haiku reflect the theoretical assumption that the use of literature enhances L2 linguistic awareness." (p. 1483) と述べられています。

(2) に関しては、"Most of the participants perceive haiku writing to be a valuable task for developing a sense of self-expression. Composing haiku is a genre-specific writing to express the writer's voice and is regarded as a task for the participants to negotiate the meaning to express their thoughts in texts. The fact is that, however, self-expression was a main difficulty the majority of participants faced in the process of writing haiku. This difficulty is attributed to their previous learning experiences... However, the challenge of expressing emotions in a predetermined format allows the participants to negotiate the process of constructing, developing, and producing meaning, and as a consewuence, it leads to the evelopment of a greater sense of voice. This finding supports the argument that L2 poetry writing emphasizes the importance of self-expression (Hanauer, 2004), and composing haiku assumes this conceptual aspect of poetry writing. In this sense, writing haiku can be a viable approach to develop self-expression with a greater sense of voice in L2 writing." (p. 1483) と議論されています。

(3) に関しては、"Some possible transferable factors are the processes of negotiating meaning, the techniques of gathering impressions, extracting necessary information from them, and narrowing down a main argument, the strategies to use their personal experience to develop the argument, and the approaches to write it succinctly. This finding provides some empirical support for literacy transfer theory (Hanauer, 2011) in which literacy skills in poetry writing such as "the ability to handle metaphor, awareness of linguistic structures, conciseness of expression, imagistic description, emotional communication and a range of additional possibilities" (p. 83) can overlap other genres in writing. It also posits the significance of the contribution of writing haiku in interdisciplinary settings, which is the evidence of the L2 literacy development from the perspective of looking across the curriculum at different types of writing." (p. 1483) と議論が展開されていました。

著者は最後に、"Overall, writing haiku in English has the potential to expand L2 linguistic knowledge, enhance a better understanding of voice and self-expression, gain a greater awareness of writer-reader interaction, and develop L2 literacy skills transferrable to other genre writing" (p. 1483) とまとめています。さらに、指導に関するアドバイスとして、"Taking adequate time to teach haiku writing with integration to language feedback group and explicit instruction of lexical choices for self-expression would enable L2 learners to better understand haiku writing and possibly to improve their L2 writtern performance." (p. 1485) という点が提示されていました。

creative writingをこれから考えていく上で非常に重要な研究であると思います。また、制限がかけられたフォーマットの中で意味構築をしようとする過程で言語意識が高まるという点は、文学を使った外国語教育研究にとっては大きなサポートとなる指摘と言えるでしょう。

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