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2013年7月31日 (水)

A.Paran(2008).「The Role of Literature in Instructed Foreign Language Learning and Teaching: An Evidence-based Survey」を読む(『Language Teaching』)

主に1996年以降の文学を使った外国語教育研究のレビュー論文です。著者の主張はそれほど前面には出ておらず、これまでの先行研究の動向を整理したものとなっています。

Paran, A. (2008). The role of literature in instructed foreign language learning and teaching: An evidence-based survey. Language Teaching, 41 (4), 465-496.

概要

実は、Language Teachingには、過去に2回文学を使った外国語教育研究のレビュー論文が掲載されています。しかし、著者は過去の論文は、実証的な研究に言及していない、英語を扱った研究しか取り上げていない、the institutionalized dichotomy between literary studies and language trainingを論文の中に持ち込んでしまっている(著者は、両者は連続しており切り離して考えられるべきではないという立場です)、という点で問題があったと述べています。

次に、これまでの文学を使った外国語教育研究を「軸1:language learning focus vs. no language learning focus」、「軸2:literary focus vs. no literary focus」という2つの軸によって、主に4つの研究タイプに分けることが提案されています。それらは、

(1) literary knowledge and skills are focused on, but there is also a conscious focus on the lexis(軸1:+、軸2:+)

(2) literature is used just as a text with no focus on literary values, literary knowledge, or literary skills(軸1:+、軸2:-)

(3) literature is discussed only as literature; any focus on language is on its literary effects(軸1:-:軸2:+)

(4) extensive reading(軸1:-、軸2:-)

というものです。著者はこの論文の中では言語教育と文学教育という2点の関わりについて考察をしていきます(著者は、この構図は研究分野を単純化したものであるということを認め、かつ一般的なリーディング研究や文化指導との関係でも論じられる必要があるということを認識した上で、このような限定的なアプローチを取っています)。ただし、ここで提示された4分法は、これ以降この論文内ではそれほど活用されていなかったように感じます。

●文学を使った外国語教育研究の理論的背景に関して

文学を使った外国語教育の理論的変遷について、Kramsch & Kramsch (2000) はアメリカでは "literature as part of an elitist study of foreign languages at the beginning of the 20th century to a view of literature as an authentic source of language at the end of the century" (p. 468) 、Hall (2005) はイギリスでは "a move from a suspicious attitude towards literature in the middle of the 20th century, through attempts to incorporate it in communicative language teaching through humanistic techniques, reader response, and stylistics" (p. 468) と整理しています。著者は、これらの研究での議論が妥当なものであると認めた上で、さらにEAPやESPにおいて文学教材が使用される例が増えてきていることに注目する必要性を指摘しています。加えて、これまでは応用言語学をベースとした理論的な研究ばかりが注目されていましたが、教師による実践報告にも注意を払う必要があるという点も強調されています。

また、文学教材の外国語教育への意義や有効性を否定した論文として有名なEdmondson (1997) に対して、"Language learning is not only about language - it is about learning as well; it is not only about training, but also about education" (p. 469) という反論を行っています(著者によると、Edmondsonは学習者を単純に情報処理システムのような形でしか考えていないとのことです)。

●文学を使った外国語教育研究で近年重視されている事柄

著者は、以下の6点を指摘しています。

(1) the move to data-based discussion

(2) research into cloze techniques

(3) interaction in the literature and language classroom

(4) the role of the teacher

(5) the role of the task

(6) the role of the reader

個人的に興味を持った点だけを述べます。(2) は、作品の本文に空欄を設けてその空欄に入る語を考えさせる活動を指しますが、"the value of technique is in the discussion that ensues from it, rather than in the activity on its own" (p. 472) という点が指摘されていました。(3) に関しては文学を使った授業の方が使わなかった授業よりも学習者の英語力が高まり、更にこの効果が生じるためにはその指導法は教師主導型ではなく学習者主導型でなければならないというYang (2001, 2002) の研究結果に関心を持ちました。

●教師や学習者が文学を使った外国語教育をどう考えているかという点の調査

これまでの研究で、指摘されていることを列挙します。

(1) "simply going through the techniques of literary analysis with their learners would turn them off literature; they call for a more student-centred methodology which values the contribution of the learner to the discussion of literature" (p. 477)

(2) EAPでも学習者は文学教材の有用性を感じており、その役割についてしっかりと定義する必要がある(Hirvelaらの研究より)

(3) 最初は文学教材の有効性を感じていない学習者であっても、実際に英語力が伸びるとその有用性を認識する。さらに、critical readingのスキルが向上したと考える学習者が多い(Yangの研究より)

(4) "most students accepted Shakespeare as an important part of their compulsory studies and thought he[Schmidt] should be on the curriculum, but this was not accompanied by an actual interest in reading and studying Shakespeare" (p. 479) (Schmidtの研究より)

(5) "pupils seem to profit most from a balanced combination of both learner-centred and text-centred approaches" (p. 479) (Schmidtの研究より)

(6) 文学教材使用に肯定的な学習者は文学教材から言語的にも経験的にも多くのことを得ることができ、かつ研究者同様に"it is enjoyable, that it deals with substantial non-trivial topics" (p. 480) という考えを持っている

(7) "What may well be a determining factor is the way in which the lerners are exposed to literature" (p. 480)

(8) 教員養成で文学教材の指導法について習っていないため、教員は文学教材を指導する自信がなく、教えるとしても作品自体ではなく二次的資料(作品の解釈が示されているような文献)ばかりを頼ってしまう。更に次の指摘も重要。"the lack of training then means that if teachers want to use literature later on in their teaching, they do not have the methodological wherewithal to do so, cannot engage in an informed dabate in this area, and fall back on teaching the way they were taught, perpetuating teacher-centted approaches. The absence of trainig also sends out a powerful message that literature is not something that is worth dealing with." (p. 480))(ただし、最近では教員養成の段階で文学教材の指導法を扱う教育機関も増えてきており、文学教材を扱えるかどうか不安に感じる教師の数は減ってくるのではないかと著者は述べています)

(9) 文学教材は "an added extra" (p. 481) と見做されており、定期的に使用する必要はなく、したがって教員養成で文学教材の使い方について学ぶ必要はないと考えている教員がいる(Gilroyの研究より

●指導アプローチに関する研究

ここでは、reader-response approach、task-based approach、the use of technology、integrating language and literature、extending the contexts and the contents of teaching literature、stylistics-based approach、が触れられていました。

stylistics-based approachに関して、著者はこれらの研究は本当の意味での学習者の学習を取り扱っていない(作品の言語分析が中心となっている)という問題点を指摘します。そもそも教育学的文体論は、Clark & Zyngier (2003) によると、"it is not the aim of activities within a pedagogical stylistics framework to achieve an improvement in the learners' linguistic competence, although this may be a 'by-product of such an activity'" (p. 486) という立場をとっているそうで、著者は "Unfortunately, this can result in a situation where the concerns of stylistics seem remote from the concerns of the language teacher in the classroom" (p. 486) と述べています(もちろん、例外的な研究もたくさんありますし、事実著者はそういった研究も論文内で紹介しています)。そして、"If stylistics wishes to capture an important place in language learning it will have to address the issues which language teachers and learners are preoccupied with, and will have to demonstrate the usefulness of the approach to language teaching. (中略) what we now need is research that will back up the intuitive endorsement of these (=stylistic) techniques for language learning; and we do need stylisticians to engage less in conversation among themselves, and more with language teachers" (p. 487) と主張しています。文体論的アプローチに対しては、(著者が期待している分)大変厳しい批判が展開されていました。

●文学を使った外国語教育を拡張していく方向性

以下の3点が指摘されています。

(1) 様々な作品や作家を扱っていく

(2) 非母語話者によって書かれた作品やマイノリティー文学作品の利用

(3) 扱うジャンルを広げる(児童文学、young adult literature)

●今後の展望

著者は、"I have demonstrated that principled evidence is emerging showing the benefits of using literature, and we are now in a better position to refute the claims made, for example, by Edmondson (1997)" (p. 489) と述べています。しかし、まだ十分ではなく、さらに以下の形で展開していくことが必要であると述べています。

(1) "We also need more systematic evaluation of courses, and systematic enquiries into the views of the learners" (p. 490)

(2) "We also need to investigate issues of testing in the language and literature classroom" (p. 490)

(3) 大学英語教育以外のレベルでも文学を使った外国語教育研究が実証的に行われていく必要がある

そして、最後に "It is clear that literature does have something very special to offer to language learning" (p. 490) と述べています。実用的な目的からは遠い存在である文学作品を、言語教育に利用するという一種の実用的な目的にどのように関係づけていくのかという点がこの分野が最も苦労している点であると言えるでしょう。

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2013年7月23日 (火)

P.Rosenkjar(2006).「Learning and Teaching How a Poem Means: Literary Stylistics for EFL Undergraduates and Language Teachers in Japan」を読む(A.Paran(編),『Literature in Language Teaching and Learning』,TESOL)

言語形式への注意を基盤として文学作品の解釈をさせるという教育学的文体論の実践報告です。テンプル大学(日本キャンパス)で、学部生と英語教育学を修める大学院生に対して行った実践がまとめられていました。

Rosenkjar, P. (2006). Learning and teaching how a poem means: Literary stylistics for EFL undergraduates and language teachers in Japan. In A. Paran (Ed.), Literature in language teaching and learning (pp. 117-131). Alexandria, VA: TESOL.

感想:著者は、本論文で扱う科目のカリキュラム上の背景等を説明した後、指導実践の前提について列挙しています。それらは、(1) 文学は一般的な教育的価値を有していること(Widdowsonの議論に基づいています)、(2) 文学と非文学テクストは目的と言語使用という点で根本的に異なっていること(これもWiddowsonの議論に基づいています)、(3) タスクを通した発見学習を学習者に行わせること、という3点でした。そして、具体的な英語詩に基づいて、合計で13の具体的な活動を例示しながら、言語形式への着目から徐々に作品の解釈へと学習者を導いていく手順が示されていました。

著者は、この実践には、根拠さえあれば多用な解釈を許容すること、楽しく詩を読むこと、という2つの特徴があると述べます。また、具体的なアドバイスとして、(1) choose poems that are appropriate for your students、(2) after choosing a poem to teach, perform a stylistic analysis for yourself、(3) think about what your students will need to understand in order to approach the poem、(4) create exercises relating to a set of stylistic features、(5) devise follow-up exercises to exploit the theme, content, and language of the poem in motivating ways、という点が示されていました。最後に、focus on formとの関係で、"Because it focuses on students' attention on language forms within a primarily meaning-focused environment, it can also be theorized to contribute to second language acquisition." (p. 130) という点も指摘されていました。

また、この指導では、他の実践同様に、まずは作品の字義的意味を確立してから、作品の解釈へ向かうべきというスタンスを取っています。字義的意味を確認する方法として、著者は各文をパラフレーズし、それぞれのパラフレーズがどの文のパラフレーズかを学習者に考えさせるというタスクを考案していました。非常に斬新なタスクであり、とても興味を持ちました。

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2013年7月22日 (月)

高田明典(2010).『物語構造分析の理論と技法:CM・アニメ・コミック分析を例として』を読む(大学教育出版)

本書の詳細は以下の通りです。

高田明典(2010).『物語構造分析の理論と技法:CM・アニメ・コミック分析を例として』.大学教育出版.

感想:

<はじめに―「現代の神話」としての映像作品―>

ここでは、本書の基本的なスタンスが示されています。具体的には、(1) 物語構造分析の目的は「私たちの社会の成り立ちや、人間の精神の仕組みを知」(p. i)ることである、(2) 神話は「最高の物語」「物語のなかの物語」であり、物語研究は神話研究の下位分野として位置づけられる、(3) テレビアニメや映画、コミックは神話の形態が変容したものであって、これらこそが現代の中で神話の役割を担っている(これらの内部に神話の中で語られた構造が入り込んでいる)、(4) 「「長らく語り継がれてきたこと」「多くの人間が感銘をうけるということ」事態に、何らかの理由が存在」(p. 11)し、その理由は「その文化圏や社会が持っている精神構造と、新w納屋物語に内在している構造との間に存在する相同性であると考える」(p. ii)、(5) 神話研究は前の時代から次の時代へどのような価値が伝承されるのかを明らかにし、「人はぶんかや歴史の流れに単に流される存在なのではなく、自らが歴史を選択し、文化を創造していく役割を担うべきであるという基本的認識」(p. iii)があり、それによって主体を自分たちのもとへと取り戻すことを目指す、ということが示されていました。

第Ⅰ部 物語構造分析の基礎理論

<第1章:言語論的展開と主体問題>

ここでは、まず世界は事物ではなく事実(=言語によって付与されている価値)によって構成され、事実の多くが物語によって提供され、人は物語を通して価値判断の基礎が形成されると述べます。そして、私たちの世界を支えている価値を研究対象とする学問分野が物語構造分析であると指摘されています。

次に私たちには決して完全な自由が担保されているわけではなく、伝承によってある一定の文化的価値を選択し、その価値に無意識のうちに従って生きていると指摘されていました。かつては伝承者によってこのことがなされていましたが、現代ではそれが映像作品によって伝承されているようです。中には排除すべき価値(人種差別など)もありますが、「私たちの社会に存在する慣性力によって」(p. 8)伝承され、「それを流布している人間たちも、それに気付いていない」(p. 8)と述べます。なお、慣性力とは「文化的な伝統や、継承された価値観の表現としての作品に含まれる力」(p. 8)だそうです。

物語構造分析の大きな目的は、「ある時代もしくは現代において支配的である価値の枠組み(中略)を単に知るだけではなく、それを提示することを通して、私たちの社会の来歴を知り、さらには社会の行く先を予測し制御するための一助という目的が存在している。それは、私たちが採用している「価値」を自覚することを通して、よりよい未来を紡ぐための一助となるよう目論むということ」(p. 9)となるそうです。そして、人が無意識のうちに採用してしまっている物語の価値の枠組みを注意喚起するというのが分析者の責務として示されています(分析者はその価値を採用すべきものか排除すべきものかというような決定には関与することはできないと述べられていました)。また、「「その作品が、どう読まれるか」であり、また、「その作品によって、どのような<物語=行動のパターン>が視聴者の内部に醸成されるか」ということに関する1つの解釈を示すことが物語構造分析の役割となるそうです。

<第2章:解釈学概観>

この章では、まず解釈学の起源に関してディルタイの説明に基づいて解説がなされます。ディルタイによると、解釈学はキリスト教神学の一分野として新・旧約聖書解釈学が成立したことに大きく由来しているといいます。なお、新・旧約聖書解釈学は、それまでの権威的な解釈に対して、テクストを正確に読むことによって対抗したことがきっかけで、解釈学は反権威主義、反教条主義的な意味合いを持っているそうです。新・旧約聖書解釈学に対して、古典文献解釈学という別に発達してきたものもあり、ダンハウザーはその統合を試みました。そして、その統合の道筋をアストが示したと言います。この過程で、解釈学は解釈学的循環という問題と対峙することになります。アストは、全体と個別要素は調和し強調すると考え、この循環を解決しようとしたそうですが、シュライエルマッハーはこの立場に反対し、「解釈学的循環を解決すべき問題とは捉えずに、その循環の中に率先して身を置くことによって、解釈者自身が発展していく過程が重要と考えた」(p. 14)そうです。そして、「個別要素は異質なものであり、解釈学とは「異質なものを理解する過程」」(p. 14)という考えを表明したそうです。ディルタイは、シュライエルマッハーの立場を継承しながらも、部分と全体は相互補完的な関係にあるとする立場を取りました。そして、意味を発生させる「生」というものに着目して、これが解釈において重要な働きをすると考えたそうです。

次に、ガダマーの基本的な考えについて整理がされていました。ガダマーにとって、解釈とは作者の意図を理解することではなく、「著作者の意図を越えた何らかの要素が存在し、ある先入観を持つ解釈者が主観的にそれに参与していくことによって、そこに意味が発生する」(p. 15)と考えたそうです。ガダマーは芸術の作者はその作品の適切な解釈者ではないと考えていました。また、彼の考えのキー概念に「再演性」というものがありますが、音楽などに限らず読解にも当てはまると言います。そして、人はある先入観を持って特定のテクストをそのテクストが指し示す枠組みないし条件のもとで解釈し(再演し)、結果として新しい物語が再生産されることになります。しかし、その物語はテクストを読む前に読者が持っていた先入観ともテクストのレプリカでもなく、完全に新しいものとなります。ガダマーは、これを「共通の意味への参与」と呼んでおり、著者は「私たちは、ある意味もしくは解釈を生産するために、別の物語を必要としているのであり、解釈とは「意味を紡ぐ営み」であると言える」(p. 17)と指摘しています。そして、人は解釈をし続ける存在であり、常に物語を必要としており、その中で価値を発生させていると指摘されていました。そして、だからこそ物語論は非常に重要な役割を担うことになると著者は考えています。

次に、ガダマーの考えを更に進めたリクールの業績が整理されています(ただし、彼の研究にはハイデガーの影響も強く見られます)。著者はリクールの功績を高く評価しています。特に「疎隔」と「帰属」という概念に着目して解説がされています。人は自分の先入見に「帰属」していますが、そこから一歩「疎隔」することによって新しい物事を了解できるのだとリクールは考えました。リクールのこの試みがどの程度成功したかということについては賛否両論があるようですが、著者はリクールによる聖書の構造分析をレビューする中で、「表現制作物やテキストが、「何かを示す」ことによって価値を紡ぐのではなく、疎隔を発生させることによって、読者や観者や視聴者の側に価値が発生することを期待することができる(中略)。もちろん、一般的な表現制作物においては、疎隔と帰属の表現の双方が存在しているが、「疎隔」において遊離した状態になった受容者の価値を回収する「受け皿」としての「帰属すべき価値」の表現は、存在しなくても問題ない(中略)。むしろ、「帰属すべき価値」の表現が存在しないところにこそ「聖性」もしくは「聖の顕現」が発生する余地が存在しうる」(p. 23)と指摘し、ここにおいて個別解釈学に共通する方法論として一般解釈学を確立したと指摘されていました。

次に、ガダマー解釈学が影響を与えたいくつかの学問領域がレビューされます。まず受容美学が取り上げられていました。受容美学は、「「芸術」をそれとして成立させているのは受容者の解釈のみであり、それ以外のものは必要ない。意味とは、受容者の側において常に新しく生産されるものであり、受容者こそが芸術的価値の創出者である。」(p. 26)という立場を取りました。また、もう1つの事例として、図像解釈学が紹介されます。マールやヴァールブルクが受容面に着目した図像解釈学成立のきっかけを作り、それをパノフスキーが推し進めて「受容者がある作品に直面したときに、それをどう了解しうるのかということを念頭に置く考え方」(p. 28)を作り上げたと紹介されていました。パノフスキーの「自然的意味」「慣習的意味」「内的意味」という3段階による図像解釈の説明はとても興味深かったです。

最後に、解釈という行為そのものに全幅の信頼を置くことはできないという点が指摘されます(人は、解釈に身を置いてきた結果、たくさんの不幸な歴史を作ってしまっています)。著者は、むしろ解釈ないしは意味の再生産の過程を考えていくことが重要であるということを指摘し、ギアーツの「厚い記述」に言及していました。そして、「厚い記述」が提供されることにより、それを見た人間は価値体系の変容を促されるのではないかと述べられていました。

<第3章:神話学概観>

著者は、ここではデュメジル(Dymézil)の三機能仮説及び「数多くの「ヴァリアント(派生形)」を収集し、それらに共通する関係構造を抽出し、関係構造から「主要概念・主たる構成要素」を抽出するという方略」(p. 35)とレヴィ=ストロースの神話学の関係性について指摘した後、レヴィ=ストロース(Levi=Strauss)、エリアーデ(Eliade)、キャンベル(Campbell)の研究を概観していきます。

まず、レヴィ=ストロースに関しては、「相同性」という概念がキーとなるそうで、「神話分析の結果得られた構造と、人間精神あるいは文化の間には、何らかの相同である性質・類似点が存在している」(p. 36)と考えているそうです。著者は、レヴィ=ストロースのアプローチの分析に関して、対立関係(構造)(「物語分析とは対立する概念を抽出するという作業を経由して、そこに内包されている「意味」「観念」を同定するという営みであるといえる」(p. 37))、研究の目的(文化に見られる差異に注目することで人種の不平等の問題を解決に導きたいという考え)、シノプシス、シーケンス、シェーマ、が解説されていました。また、デュメジルは社会学の概念に依拠して研究を行ったのに対して、レヴィ=ストロースは音韻論の概念に基づいたと説明されていました。

次はエリアーデです。エリアーデは非因果的で非周期的に発生する出来事の連鎖のことを「歴史」と捉えます。そして、この「歴史」を受け入れる人と受け入れない人がいると述べます。後者は「出来事や事件が何らかの原理性に基づいて周期的に発生したり、それらの出来事や事件の背後に、それを発生させている「アーキタイプ(元型・祖形)」があると考え、歴史事件にそれ自体としての価値を与えない立場」(p. 46)の人を指します。それに対して、前者は「何ら反復性や原理性なしに、出来事が突発的に発生すると考える」(p. 46)立場を指します。そして、著者は人は自由を獲得するためには前者の立場に立つ必要があると考え、そうすることで人は自分の意志で事象を創出することができるようになったと指摘します。ただし、その代償として、歴史は単に一回性の出来事の羅列であるということを認めざるをえないこととなり、絶望と厭世(「歴史の恐怖」)にさらされることになったそうです。しかし、キリスト教信仰によって、神という概念、「神にとってはすべて可能となる」という概念が流布し、人は自由を手にしながら同時に歴史の恐怖へ立ち向かう術も得ることになったと指摘されていました。さて、エリアーデの考えでは、「神話とは「歴史の恐怖」から人びとが救われるための考え方の枠組みを提供するものとしての機能を有していた。それは、その時代の「価値」となり、多くの人間(というよりもむしろ古代から近代に至るまでのすべての人間)がそれを信じ、それによって出来事を解釈するということになる。」(p. 48)そうです。そして、エリアーデは神話を分析することで、祖形を抽出しようとしたそうです。

最後はキャンベルです。専門家の中ではあまり高い評価は得られていないそうですが、その意義は大きいと著者は考えています。キャンベルの考えに基づいてヴォグラーが作り上げた「キャンベルの12のステージ」はハリウッドに影響を与え、事実多くの作品がこの枠組みに基づいて制作されているそうです。そして、この枠組みそのものに訴求因が存在し、多くの受容者を楽しませることにつながっているようだと推察されています。ただし、分析する際には、そもそも作品自体がこの枠組みで制作されているため、その作品を分析する際には別の枠組みを使用する必要があると指摘されています。別の枠組みによる分析をもって、キャンベルの12のステージの意味を検討する必要があるそうです。

<第4章:物語論概説>

著者は、物語論に関して「物語構造分析は、物語の中に出てくる登場人物や要素の間の関係性の分析を基礎として、その物語によって表現されている深層構造を抽出することを基本的な目的としている。そしてその場合において深層構造は、その多くが文化の枠組みに由来している。私たちのこの社会の文化は、多くの物語によって維持されてきたと言っても過言ではない。」(p. 54)と述べ、物語分析の意義について説明がされています。そして、著名な物語論研究者の分析方法について解説を加えていきます。

まず、プロップに関しては、機能、登場人物の類型化、が説明されていました。バルトに関しては、分析は素晴らしいが手順が明示化されていないこと(著者が指摘していた、「内容的には素晴らしく示唆に富むものではあるが、どう分析するのかはわからない」(p. 62)という感想には非常に共感を覚えました)、個々の研究者の分析手法の統合(ブレモン、レヴィ=ストロース&グレマス、トドロフのアプローチを統合しています)、テキストの切り分け、テキストで引用されているコードの目録作成、関係の抽出と調整、内的相関関係と外的相関関係、が説明されていました。グレマスに関しては、状態言表と行為言表、端緒と欲望の関係、契約関係(「依頼と代行」)、敵対の関係、物語の類型化、行為項、意味空間(ただし、意味空間の分析に関してはあまり成功していないと著者は考えています)、が説明されていました。スーリオに関しては、諸機能が解説されていました。ジュネットは物語行為に関して説明が加えられ、ブレモンは上位シーケンスと下位シーケンスの分離(及び各下位シーケンスの結びつき)、物語のシーケンスと語られたシーケンスの区別が、トドロフと前田愛に関しては入れ子構造(シーケンスのフラクタル状構造)について重要な業績として指摘されていました。

特にトドロフの解説は非常に懇切丁寧であり、かつとても分かりやすいです。私もこれまで以上にグレマスの考えについて理解を深めることができました。

<第5章:隠喩理論>

ソスキースの説明によると、言語学における隠喩理論は代置理論、感情理論、付加理論の3つに大別できるそうです(ただし、感情理論は代置理論の1つのバージョンとみなすこともできるようです)。さらに、付加理論はビアズリーによる対立理論、ブラックによる相互作用理論、レイコフによる現代隠喩理論に下位区分できるとのことでした。

著者は次に相互作用理論の例として、物語論の範疇での隠喩理論を取り上げます。まずバルトの隠喩論を取り上げます。統合と体系、ディノテーションとコノテーションの考えに基づいた解説がなされていました。その中で、ディノテーションしかもたない文が他の文と連結され、ある配置を持つことによってコノテーションが発生することがあるという指摘は非常に面白く思いました(p. 98)。また、バルトによる「コードの目録の作成」はディノテーション/コノテーションの構図を前提としており、「個別のコードは「外示的意味」を抽出するものであり、そこから一歩踏み込んで、全体の構成(つまり、物語の連鎖=シーケンス)から、「共示的意味」を紡ぎだすのが、バルトの物語構造分析の基本的流れである」(p. 99)と指摘されていました。

次はリクールの隠喩論です。リクールは、対立理論と相互作用理論を援用しつ、かつ解釈理論の考えに基づいて、隠喩について考察しました(読者は文脈というガイドもしくは枠組みに沿いつつ、文脈から逸脱した表現を文脈の内部に回収しようとし、その際に受容者の解釈によってその表現の意味が生成される)。なお、リクールは記号論的な考え方に対して見直しを要求していると著者は指摘します(ただし、記号作用を否定しているわけではないそうです)。

最後は、言語学における最新の隠喩理論として、レイコフの考えが紹介されます。著者は、上記のバルトとリクールの理論では、相互作用の仕組みが十分に示されなかった(あくまでも、読者によって意味が作られるという点を示したということでしょうか)として、その問題点を解決しうるものとしてレイコフの理論を提示しています。この理論に関しては、「“S is P”型の叙述の隠喩的表現においては、Pが示す意味写像の空間と、Sが示す意味写像の空間との間の「重なり」が検索され、その中から妥当なものが選択されるというモデルを提唱する」(p. 102)と解説がされていました。著者は、現在のところ、この理論が最上のものであろうと認めつつも、「最初の段階で「記号対象」としての概念もしくは内部表象がどのように形成されるのかに関しての説明は不十分である」(p. 103)とその問題点も指摘していました。

<第6章:映画映像論>

映画を学問的な研究の対象として最初に取り上げたのはコアン=セアだそうで、彼はフィルモロジーを「フィルム的事象」の研究と「シネマ的事象」の研究に分けました。しかし、この研究は映画研究の中心とはなりえず、作家論ないし生産美学てきな研究を中心として研究が進められてきたそうです。また、1970年代は記号論的な研究が多くなされたそうで、バルト、メッツ、スーリオ、ウォレン、といった優れた研究者が誕生したそうです(ただし、これらの研究者であっても、作家論的なアプローチが散見されたようですが)。

次に、映像作品における比喩について考察がされます。著者は、比喩は常にどう受け取られるかが問題となるため、受容者の観点での研究が必要であると述べます。また、映像においてはすべてを比喩と捉えることが不可欠であると指摘します。そして、映像においては比喩は物語性と切り離さずに考える必要があります。というのは「物語の進行の流れと遊離して(つまり、物語の文脈から逸脱して)表現されている映像表現は、すべて、隠喩として受け取られる可能性が存在するからである。つまり、「文脈からの逸脱」という場合の「文脈」の存在が、隠喩の発生を担保する。しかし悩ましいのは、映像表現における隠喩とは、文脈からの逸脱によって発生しつつも、その文脈(物語)を修飾したり補足したりするという構図を有していることである。これは、物語性が中心であり、隠喩がそれを補足するという意味ではなく、表層における物語性が隠喩表現と相互作用しつつ、深層における新たな(受容者の側での)物語を生成するという意味である。したがって、表層における物語性(端的に言えば、脚本などの文字表現によって表現されている物語)は、隠喩表現による影響を受けて、表層とは別の物語を受容者の側に発生させることもできる。というよりもむしろ、隠喩として認識される表現の存在によって、表層の物語は(よい意味で)歪められ、新しい意味を帯びることになる。このとき、隠喩表現によってどのような物語が受容者の側に生成されるかは、表現者の意図からは遠く離れてしまう場合がある。これは、映像表現のみならず、すべての表現制作物に共通している要素であると言えるが、特に映像表現においては、映像が持っている膨大な情報量によって、表現者の意図せざることが発生してしまう可能性が高いと言える。ただし、繰り返しになるが、その意味においての小説と映像との差異は程度の問題であり、小説であっても同様のことは発生しうる。」(p. 113)著者は、文脈からの逸脱、適度な繰り返し、適度な協調、対比的提示といった事柄を見ると、それを比喩として解釈する傾向があるとのことです。

最後にバルトの「第三の意味」「鈍い意味」というものについて考察がされています。作品には解釈の幅を担保するための要素が無数に取り入れられています。私たちは、映画を見るときに、作品の本筋とはあまり関係のないような要素(登場人物の持ち物、口紅の色、素振り、など)に着目し、解釈を膨らませることがあります(それらは結局作品の結末とはあまり関係のないことが多いのですが)。バルトはこれらの要素によって触発される極めて個人的な意味のことを「第三の意味」と呼んでいるようです。

<第7章:心理学的基礎概念>

著者は、ユングによる分析心理学の考え方も物語構造分析と共通点があり、かつ利用できる部分があるとして、特に元型、象徴、コンプレックスという事項に絞って説明がなされます。元型とは「社会および文化の底流に居移して存在している要素」(p. 121)とされ、それの表現型が象徴となります(隠喩が固定化したものと考えることができるとのことでした)。著者は元型の種類として、自己、自我/エゴ、影、仮面/ペルソナ、魂、アニマ、アニムス、太母、老賢者、始原児、永遠の少年/プエル・エテルヌス、トリックスターを挙げており、仮面/ペルソナと魂、アニマとアニムス、太母と老賢者、始原児と永遠の少年/プエル・エテルヌスはそれぞれ対をなす元型とされます(各元型の説明は割愛します)。

次にコンプレックスについて説明がされます。著者によると、コンプレックスとは「元型に由来する核のまわりに群がったイメージや観念の集合体」(p. 128)とされ、「それ自体は人間の行動や感情の源となっているものであり、決して害をなすものではないが、特定の行動や観念が過度に抑圧された場合などに問題が発生するとされる」(p. 128)とされます。具体的なコンプレックスの種類として、エディプス・コンプレックス/エレクトラ・コンプレックス、劣等コンプレックス、自我コンプレックス、カイン・コンプレックス、シンデレラ・コンプレックス、白雪姫の母コンプレックス、が説明されていました(各コンプレックスの具体的な説明は割愛します)。

次に、ユング派のビルクホイザー-オエリによる分析心理学及び元型理論に基づいた「白雪姫」の分析とフロイト派のベッテルハイムによる精神分析学に基づいた「物語の機能」の分析が紹介されています。著者はユング派の研究者とフロイト派の研究者がそれぞれ必ずしもビルクホイザー-オエリとベッテルハイムの方法と同じアプローチを取るわけではないとしながらも、「大枠としてフロイト派の物語分析は日常的な生活の中での価値の生成とその価値の機能(意義)を基軸とした分析であり、一方、ユング派の分析は、ある文化圏に共通して存在する価値の体系を物語の中に見いだすことに機軸を置いた分析であると言える。端的に言うならばフロイト派の物語分析は、個人を見据えつつ、より現実場面に即した論となっている場合が多く、ユング派の分析は、時代や文化を見据えた論となっている場合が多い。この両者の立脚点の違いにより、同じ物語を分析しても異なる解釈が得られている。(改行)別の言い方をすれば、ユング派の分析では「価値を生成する枠組みの分析」としての側面が強調されており、フロイト派の分析では「その物語によって生成される価値そのもの」が分析対象となっているとも言える。その意味では、ユング派の分析は、いわゆる美学における「叙述美学(=ある作品が生まれた背景に着目して分析するという立場)」により近く、フロイト派の分析は「受容美学(=ある作品がどう受け取られるかに着目して分析するという立場)」により近いと言える。」(pp. 140-141)ただし、こういった違いは瑣末なものと考えられており、「両者ともが中心に据えているのは読者もしくは受容者であり、その人間たちがどのような枠組みのもとで「ある物語を解釈しうるのか」を知ろうとしているという点では同じ」とされ、現代物語論、現代解釈学の文脈で言えばフロイト派とユング派は同じものに対して別の見方をしているにすぎないと著者は考えています。ですが、ベッテルハイムの分析は「物語の中にある種の「構造」が存在し、その構造が子どもの心的な構造と相同性を有しているということを基軸として、物語分析を進めていく。しかし、その構造もしくは物語の構造がそのまま意味として伝達されるのではなく、それに触発される形で、読者の側に新しい意味が発生する」(p. 140)という考え方は、著者自身認めているように現代解釈学の考え方そのものであると感じました。

第Ⅱ部 構造分析手順

著者は、ここでは第Ⅱ部で行う分析手順の概略を示します。それらは、①典型ストーリーの抽出、②シーケンス分析、③話素の抽出、④行為項分析/機能分析、⑤シーン分析、⑥暗喩の同定と元型分析、⑦深層構造の同定、⑧訴求構造の同定、です。しかし、すべての作品でこれらすべてをおこなわなければならないわけではないとのことです。著者は単発ものの映像作品では①と⑧を省略しており、連続ものの映像作品の1回分では②⑤⑧、連続ものの映像作品の全編を通した分析では①⑤⑥⑧、ストーリー性の低いCMの分析では①②③④⑧、ストーリー性の高いCMの分析では①②⑧が省略できるとのことでした。

<第8章:典型ストーリーの抽出>

著者はテレビシリーズには、毎回繰り返される「基本パターン」的ストーリーと全編を通して展開される「長編ストーリー」があると指摘します。そして、著者は前者を分析するアプローチとして、①シノプシスの抽出に先だって、典型ストーリーを推定してしまう方法(視聴による典型ストーリーの抽出)、②各回のシノプシスを作成し、そのシノプシスの重なり方を元にして、典型ストーリーを抽出する方法、③シーケンス分析による方法、の3つを紹介していました。著者は低年齢層向けの番組であれば①を使用し、対象年齢が上がり物語が複雑化するにしたがって②や③を用いるべきと考えているようです。

<第9章:シーケンス分析>

著者は『のだめカンタービレ』を例に、シーケンス分析の手順を説明します。シーケンス分析は、①シノプシスの抽出、②相同な物語事象の抽出、③物語事象の再配置、④スキーマの同定、という手順で行われるとのことでした。

<第10章:行為項分析>

ここでは、『アンパンマン』を例に行為項分析の手順が説明されています。行為項分析は、①シーケンス分析による結果を、いくつかのシノプシスに書き下す(話素を抽出する)、②それぞれのシノプシスを、記号表現する、③記号表現されたシノプシスの「機能」を同定する、④対象を同定する、⑤対象の関係を抽出する、⑥登場キャラクターの位置づけを同定する、⑦登場キャラクターの関係を抽出する、⑧対象の暗喩を推定する、⑨深層構造を抽出する、という手順からなります。話素の抽出では、意志の主体者、行為の主体者、対象、動詞、に分けて記述することが有益であると述べられていました。また、手順⑥において、『アンパンマン』は「「バイキンマンが主人公である物語」でもあり「アンパンマンが主人公である物語」でもあり「食品キャラが主人公である物語」でもありうる」(p. 179)という指摘はとても面白く思いました。ただし、これら3人の登場人物にはそれぞれ主人公たる特性を欠落させている部分があり、「「この物語には、確固たる主人公が存在しない」。準主人公が三人存在し、そのどれもが「主人公」とはなり得ていない。三つの物語が「どれが支配的となるわけでもなく」並行して存在している物語であると言える」(p. 180)とも述べられています。このように行為項分析によって、パッと見では分からない『アンパンマン』の物語の複雑性が記述されていました。また、暗喩による対立関係を記述する際には、抽出された対立項がもとの物語において有益な情報を提供し得るものかどうかということを常に考えて分析を行う必要があると述べられていました。重要な点だと思いました。

<第11章:シーン分析>

シーン分析は基本的に、作品中の印象的な場面を1つの絵画とみなし、それを解釈していく作業となります。しかし、その解釈はそのシーンの前後のシーンで決まるため、「一つのシーンが「連続するシーンの中でどのような意味を有しているか」を読み解いていく作業」(p. 189)と考えられています。また、「人間は、「一見、文脈から遊離しているように思える表現」を目にしたとき、その「意味」の解釈を試み、「整合性のある一連の物語の中の一つの要素」として位置づけるという機能を有している。そして、この人間の心的機能の特性を利用することによって、映像表現に意味や訴求力を持たせるのが「映像における比喩表現」の基本的機序である」(p. 189)という指摘はとても重要だと思いました。シーン分析は、「「比喩表現」を分析の要素としても用いることにより「深層における物語」の同定を試み」(p. 206)る作業となります。

シーン分析は、①シーン抽出、②シーンに存在するアイテムなどの抽出、③シーンに存在するアイテム・キャラクターの比喩の特定、④深層における物語の同定、という手順で進むそうです。①の作業では、(1) 繰り返し用いられるシーン、(2) 多くの視聴者が象徴的だと感じるシーン、(3) ストーリーの展開から明らかに逸脱したシーン(製作者側の明らかなミスと製作者側の意図的な挿入の両方を含む)、(4) 入念に作られているシーン、を取っ掛かりにするとよいそうです。また、②ではそのシーンを詳細に記述します(シーンの言語化)。そこには、(1) 登場人物・登場キャラクターのリストの作成、(2) アイテムのリストの作成、(3) 上記の2工程で作成したリストのそれぞれの項目の詳細な記述、という作業が含まれるとのことでした。その後、③の作業で、(1) 物語の文脈から逸脱した表現、(2) 表層的な主題との間で何ら関係性を有しない表現、(3) 強調されている表現、(4) 不自然に省略された表現、(5) 対を形成している表現、を取っ掛かりとして、比喩を考えていくことが推奨されていました。なお、この作業には、比喩対象(被喩辞)の特定(隠喩・提喩・換喩の比喩対象の特定)、意味(または主題)の推定、といった作業が含まれます。なお、「「文脈から逸脱した表現」が、「文脈に回収されていく」という一連の流れを意識しながら分析を行うことに注意が必要」(p. 198)と指摘されており、とても重要だと感じました。次に、1990年版Nissan Fairlady ZCMを題材として分析例が示されていました。なお、この分析例の中で実際に④の作業について例示されていました。

<第12章:元型分析>

元型分析では象徴的表現(シーン分析では比喩)を特定し、そこから深層構造を突き止めようとする分析となります。著者は、元型分析をシーン分析の1つの特殊な形態と位置づけています。元型分析はストーリーが見いだせないような作品に対して有効な手段となるそうです。また、行為項分析と組み合わせることで多面的な分析を行うことができるとも指摘されていました。なお、「行為項分析においては、対象が「視聴者の心的構造と相同となる」ことを仮定しているのに対して、元型分析においては「いくつかの登場人物の相互の関係」が「視聴者の心的構造と相同となる」ことを仮定している」(p. 207)という点で違いがあるとのことでした。なお、元型分析は、①物語構造を特定する上で十分といえるシーケンスが存在しない場合、②行為項分析の結果、十分な「対象の構造」を同定できない場合、に有効だそうです。それに対して、③登場人物のうち「元型」に該当するものが1つ以下である場合は、行う必要はないとのことでした。

次に元型の抽出について様々な具体例を引用しながら例示されていました。自己、自我/エゴ、影、仮面/ペルソナ、魂、アニマ、アニムス、太母、老賢者、始原児、永遠の少年/プエル・エテルヌス、トリックスター、の具体例が示されていました。なお、自我/エゴに関しては、他者を説得できるレベルにまで議論を精緻化させることが困難であるため、極力抽出は避けた方がよいという助言がなされていました。なお、元型は対をなします。まず、自我⇔影、ペルソナ⇔魂という対立があります。更に、アニマ⇔アニムス、太母⇔老賢者、始原児⇔永遠の少年、という対があります。これら3つの対はそれぞれ性、感情と理性、成長という基軸を持っています。したがって、「元型分析において抽出されうるのは「性・感情と理性・成長」という三つの概念のみである。しかしながら、これらの三つの概念は、人間にとってきわめて重要なものであり、その意味では、大きな訴求力を構成することが可能な要素であるとも言える。」(p. 215)と説明されています。なお、これら3つの対において、一方がペルソナを形成する場合は他方は魂となります。また、魂が抑圧されていれば、それは影となるという関係があるそうです。

<第13章:深層構造の抽出>

これまで提示された、シーケンス分析、行為項分析、シーン分析、元型分析は、深層における対立軸を構成する要素を抽出してきました。深層構造の抽出は、「対立関係を構成する要素を、相同関係によってまとめるという作業」(p. 217)となります。なお、相同とは対立関係を構成する要素間に見られる共通点と考えることができます(「黒い球体」と「黒い塔」は「球体―塔」という対立関係を有していますが、同時に「黒い物体」という相同関係も有しています)。

著者によると、物語の深層構造(=深層における意味空間)とは、「その物語の表現を契機として鑑賞者側に惹起される「意味」」(p. 220)だそうで、「鑑賞者がその表現制作物を解釈した結果としての「構造」」(p. 220)となります。鑑賞者は、その意味空間に自己移入をすることになります。ここでは、「ここで抽出した「深層における意味空間(=意味構造)」とは、たとえるならば、鑑賞者がその中で模擬的に活動する「箱庭」のようなものである。その「箱庭」に自己移入した鑑賞者は、その中で、それぞれの思惑によって再演を行う。これがガダマーの言うところの「意味の再生産」であり、また「共通の意味への参与」である。(中略)表現制作物とは、ある価値や意味を提示するものではなく、価値や意味を再生産するための枠組み(=箱庭)を提示するものであると言える。」(p. 221)と説明されていました。

<第14章:訴求構造の同定>

意味空間(深層構造)の中で、鑑賞者がどのように再演しているのかということを分析することが主な作業となります。つまり、訴求構造分析とは、「「どのような(再生産された)物語が訴求するのか」ということを同定する分析的営み」(p. 223)で、「視聴者がとりうる可能な選択肢を提示していくこと」(p. 223)と説明されていました。ガダマーは解釈とは再演を行うことと述べましたが、まさに「視聴者が物語を解釈するという営みは、その物語に自己移入し、そこにおいて、個別の物語を再演することにほかならない」(p. 225)というわけです。

この分析は、具体的には「作品と鑑賞者の間に発生するどのような要素によって、訴求力が発生しているのかを推測すること」(p. 225)となるそうで、訴求力の発生原因となる構造として、(1) 鑑賞者が自己移入する物語構造と、(2) 鑑賞者が自己移入する物語において、鑑賞者が感情移入する登場人物の認知的スクリプト、が考えられるそうです。

(1) に関しては、鑑賞者が自己移入する物語構造の同定を行います。この作業では、鑑賞者の側に存在する「相同な」心的構造の推定を行うことになります。なお、「相同」とは、「構造分析によって抽出された対立軸が、鑑賞者の直面しているものと類似しているということ」(p. 228)を指します。そして、「鑑賞者が直面している」とは、「その対立軸を構成する二つの要素のうちのいずれをとるべきかについて明確な判断が得られないでいるという状況を指す」(p. 228)そうです。著者は「対立軸を持つ物語の世界に自己移入するということは、鑑賞者が持っている迷いをその物語世界の中で再演することにほかならない。自己移入とは鑑賞者の能動的な営みであり、そこに自己移入することによって何らかの快が得られるからこそ、それを行う。それは、自分が現実世界において直面している問題を、箱庭的な物語世界において再演し、何らかの結論を得ようとする営みであると言える。」(p. 229)と説明しています。

(2) に関しては、鑑賞者が感情移入する登場人物の認知的スクリプトの同定を行います。物語の深層における機能は「初期状態―行為―帰結状態」という3要素でまとめられますが、感情移入は初期状態に自分を重ね合せることによって達成されるそうです。そして、(a) 主として一人の登場人物に感情移入を行っていると想定される場合(典型例は『ドラえもん』)、(b) 複数の登場人物に感情移入を行っていると想定される場合(主人公(主体)が複数である場合)、に分けて説明がされていました。さらに、(b) の場合については、並列主人公性の場合(典型例は『セーラームーン』)、機能の異なる複数の主人公が存在している場合(典型例は『ウルトラマン』、『アンパンマン』)、に分けて解説がなされています。

第Ⅲ部 応用

<第15章:CMの構造分析>

Commercial FilmCF)の構造分析の目的に関して、著者は「毎日繰り返し放送されるそれらのCFを視聴することにより、視聴者の内部にどのような構造(関係の束)が形成されるのかを知ることが、その主たる目的である」(p. 235)と述べられていました。この章では、ナイキの「シークレットトーナメント」、大塚製薬のオロナイン軟膏のCF、シャネルのN’5が分析対象として選択され、第Ⅱ部で説明された分析腫瘍が適材適所で使用されており、かつ深層レベルで展開されている構造等が明らかにされていました。

<第16章:子ども向けテレビ番組の構造分析>

日本の子ども向け番組は、①秩序(平和)、②対象(困難)の提示、③通常努力による戦闘と敗退、④工夫・努力・訓練、⑤再戦と勝利、⑥秩序(平和)の回復、という構造を持っているそうです。そして、②の対象に関して、一般的な昔話が王子との結婚など「正の価値を持つもの」であることがほとんどであるのに対して、日本の子ども向けテレビ番組ではほとんど困難となっているという特徴があると指摘されていました。したがって、こういった番組では、主人公は困難の排除や困難からの復活を目指して行動しているそうです。さらに、主人公の敗退シーンがあるという構造は、ブレモンの枠組みで言うところの「可能世界シーケンス」というタイプに属すらしいのですが、日本の子ども向け番組では、なぜかこのタイプの物語が大量生産され、ウルトラマン・仮面ライダー・ドラゴンボール・遊戯王でもこのシーケンスは守られていると指摘されていました。この章で具体的に分析対象となっていたのは、デジモンアドベンチャー、名探偵コナン、おじゃる丸でした。やはり、第Ⅱ部で紹介された分析手法が、作品の特性に応じて適材適所に使用されていました。また、作品の解釈も非常に面白かったですし、おじゃる丸がとても複雑な構造をしているという点も大変興味深かったです。

<第17章:コミックの構造分析>

この章では、『DEATH NOTE』と『デビルマン』を題材として、「「コミック作品の中に存在する物語性・神話性」がどのようなものであるのかを検討するための資料」(p. 273)の提示が行われていました。ここで、物語世界への自己移入の図式化(pp. 277-279)が非常に分かりやすかったです。また、『デビルマン』という作品構造の複雑さには圧倒されました。これら2作品の分析は、他のコミックを分析する際にもひとつのモデルとなるものであり、とても有益です。また、この章で提示されていた分析及び考察は、非常に読んでいて面白いものでした。日本のコミックがいかに洗練されているのかということを感じることもできました。

以上で、本書は終了です。分析の枠組みが豊富に提示され、とても勉強になりました。また、具体的な分析も読んでいて大変面白いです。様々な分析を有機的に組み合わせることによって、1つの作品を多面的角度から考察できる、従来の物語構造分析を越えた枠組みが提示されていたと思いました。また、人はなぜ物語を必要とするのか、ということについても深い洞察が示されており、多くのことを学ぶことができました。

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B.Lin(2006).「Exploring the Literary Text Through Grammar and the (Re-)Integration of Literature and Language Teaching」を読む(A.Paran(編),『Literature in Language Teaching and Learning』,TESOL)

文法への着目を通して文学教材の指導と外国語教育を統合しようとした実践の報告となります。

Lin, B. (2006). Exploring the literary text through grammar and the (re-)integration of literature and language teaching. In A. Paran (Ed.), Literature in language teaching and learning (pp. 101-116). Alexandria, VA: TESOL.

感想:シンガポールでは、高卒のための国内共通テストthe Singapore-Cambridge General Certificate of Education (GCE) Ordinary (O) Level Examinationがあり、その中の1つの科目としてLiterature in Englishがあるそうです。しかし、その難しさから、年々受験者は減少しているそうです。そこで、1999年にこの科目のシラバスが発行され、response to literature、a skills-based approach、the text as a resource、breadth of literary experienceという4点がguiding principleとして提示されました。これらの意図するところについて、"The syllabus thus seeks to reassert the relevance of literature by focusing on developing the pupils as individuals and on their personal and aesthetic growth while still being concerned with imparting literary appreciation and experience in their own right. In addition, through its principle of a skills-based approach, it appears to recognize the prior need for close reading skills to enable these aims to be met. To ensure this, unseen texts have been introduced in literature examinations at every level." (p. 102) とまとめられています。このシラバス以前は、出来合いの解釈を覚える作業が中心であり、新たなシラバスでは、学習者は試験において文学読解に必要とされる技能にどれほど習熟したかを測定されることになります。しかし、それらの技能の指導法についてはシラバスは何も述べておらず、教員は困っているそうです。また、2001年に新たなシラバスが発布され、"focus on how generic structures as well as lexical and grammatical features help texts achieve their functions and purposes in discourse in varied contexts" (p. 103) という点が新たに加えられました。この点の前提として、"texts achieve their purposes and create their meanings by managing the lexical and grammatical resources of the language. Comprehension is therefore, in part at least, a matter of attention to these features, whether consciously or implicitly." (p. 103) という考えがあります。

文学読解において文法へ着目する必要性はWiddowsonやHasanによっても主張されています。前者は、文学作品の文脈は、言語への着目を通して読者自身が作り上げなければならないと主張しています(文学は、日常とは切り離されて読まれるため、論説文のようにテクスト外の文脈に基づいて読むということには問題があると指摘されています)。また、文学読解における言語への着目はテクストの意味の性質や意味構築過程に対して自覚的になることができ、さらに批判的な読解の基礎ともなります。また、Hasanは文学にはdouble meaningがあり、読者は単に言語に着目するだけではなく、言語への着目に基づいて作品内の真相の意味について解釈を巡らせなければliterary communicationとは言えないと指摘しています。そこで、著者は、"pay close attention to lexical and grammatical patterns in order to read more precisely what really is happening within the world of the text(改行)see further patterns in the linguistic patterns and make sense of them in order to interpret the second-level thematic meanings in the discourse between the text and the reader" (p. 104) という2点を重視した実践を報告します。

なお、実践は、(1) introduction、(2) first reading、(3) close reading: pronouns、(4) close reading: verbs、(5) patterns、(6) reflectionと進みます。この実践では、最初に代名詞と動詞について着目させ、それらが作品内でどのようなパターンを作り上げているのかを考えさせることを通して、深層レベルの意味理解及びその意味がどのように構築されているのかを考えさせるというものとなっています。この実践で非常に面白いと感じたのは、"reading a poem sensitively could lead people to think more about some facet of their lives" (p. 108) という点を明示的に学習者に説明し、作品と自分の生活について考えさせる点でした。学習者は、詩を読む際に日記をつけるように指示されていたそうですが、その日記の記述では自分の生活が顧みられ、自分自身や自分を取り巻く環境についてより深く理解することができ始めたという記述が見られたそうです。

文学を使った英語教育では、授業全体のテーマ(「この授業では、「家族」をテーマとした作品を扱っていきます)を設定して実践するのがよいのか、すべての作品に対して内容理解だけでなくその作品と読者自身の関係を考えさせるのが望ましいのか、などいろいろと思考をめぐさせることができ、大変有意義な論文でした。また、文法や語彙への着目から解釈へと至る指導手順はまさに見事としか言えないものですが、同時に他の多くの実践でもすぐに取り入れることができるものとなっているため、非常に実用的な論文だとも思いました。

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2013年7月19日 (金)

A.Iida(2012).「The Value of Poetry Writing: Cross-genre Literacy Development in a Second Language」を読む(『Scientific Study of Literature』)

俳句を作成する活動が散文のライティングにどのように貢献するかを調査した非常に面白い論文です。

Iida, A. (2012). The value of poetry writing: Cross-genre literacy development in a second language. Scientific Study of Literature, 2 (1), 60-82.

感想:著者は、文学とはsocial practiceであり、L2のリテラシー発達に役立てることができるのではないかという点を研究の出発点としています。著者は、Hanauerによって提唱されているliteracy transfer hypothesisについて調査を行っています。本論文の目的は、"The main objective is to investigate the potential contribution of writing haiku in English to L2 literacy development. By doing so, the article intends to contribute to the development of theory regarding the use of poetry in ESL/EFL writing classrooms as a tool for literacy development in the target language." (pp. 61-62) と述べられています。また、poetry writingを指導する理論的な枠組みが提示されたそうですが、様々な教育レベルで論争があるそうです。

次に、外国語または第2言語で詩を書くことに関して、先行研究から重要なポイントが整理されています。私が個人的に特に重要な指摘だと感じたのは、学習者中心主義的アプローチ、自己表現(自分の感情や気持ちの表現)、言語知識や文化知識発達に貢献すること、でした。

著者は、TOEICで400~495点の20名の大学生に対して、prose writingを2回行わせ、その2回の間にhaikuのライティングを行うことで、literacy transfer hypothesisの検証を行っています。著者は、"1. What are the genre specific features of English haiku written by Japanese college students?" "2. What are the effects of writing haiku in English as a second language on prose writing?" を具体的なリサーチ・クエスチョンとして分析を行っています。なお、これらの事柄を調べるために、著者は非常に多角的にデータを解析しており、とても勉強になりました。質的研究法と量的研究法を分析の目的に応じて非常に柔軟に組み合わせてありました。

1点目のリサーチ・クエスチョンに関しては、"English haiku is short, personal, direct, and descriptive poetry which incorporates the writers' emotional concerns for their own experiences." (p. 73) という結論が導き出されていました。リサーチ・クエスチョン2に関しては、"Overall, participants' responses to haiku writing show some interaction between haiku writing and prose writing, indicating that the knowledge, processes and strategies acquired through haiku composition can be transferred to prose writing." (p. 75) という結果となっています。特に、prose writingへの効果として、語数の増加、段落数の増加、impersonal pronounsの使用の増加、否定語の使用の減少、といった点が顕著な点として紹介されていました(p. 78)。著者は、俳句という構造化された形での英作文を経験する中で、学習者はmetalinguistic awarenessを高めたのかもしれないという点が指摘されていました(p. 79)。

以上の結果と先行研究の結果を照らし合わせて、考察がなされます。個人的に特に興味を持った指摘は以下の通りです。"the use of literature helps second/foreign language learners to express themselves meaningfully in the target language." (p. 76)、"poetry writing is within the abilities not only of advanced ESL but of low-intermediate EFL writers; and more importantly, L2 learners can write unstructured, free-style poetry as well as structurally designed haiku in the target language." (p. 77)、"the direct usage of a particular season is one of the prominent patterns of English haiku written by adult Japanese EFL writers" (p. 77)、 "EFL haiku may not consist of both surface-level scenery and deep-level psychological descriptions" (p. 78)。

研究の内容もそうなのですが、論文の書き方、分析の仕方などに関してもとても学ぶところが多い論文でした。

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2013年7月16日 (火)

A.Iida(2010).「Implications for Teaching Haiku in ESL and EFL Contexts」を読む(『The Language Teacher』)

日本人母語話者による英語のhaikuの特性について分析がされていました。

Iida, A. (2010). Implications for teaching haiku in ESL and EFL contexts. The Language Teacher, 34 (3), 56-61.

感想:日本人は、英語でhaikuを書く場合、3-5-3という音節構造を好むこと(ただし、他にも多様な音節パターンを取っている)、季語は季節名・月名・天候・動物・植物・行事の6パターンが観察されること、が指摘されていました。季語に関して、最初の3つは世界共通で季節を表すことができますが、最後の3つは文化によってかなり左右されるとのことです。更に、最初の3つの使用が圧倒的に多く、その理由として、haikuの読者への分かりやすさが挙げられていました(ちなみに、日本の俳句ではこれら3つの使用は避けられる傾向があり、より間接的な表現で読者に行間を読むように誘うことの方が一般的だそうです)。

また、季語の使用に関して、文化の意識と読者に対する意識の高揚を育成できるのではないかという視点も非常に興味深く思いました。また、haikuはリテラシー育成や自己発見の手段としても期待できるという点が指摘されていました。

これまで自分の中であまり考えたことがなかった事柄が提示してあり、大変勉強になりました。

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D.Willis&J.Willis(2001).「Task-based Language Learning」を読む(R.Carter&D.Nunan(編),The Cambridge Guide to Teaching English to Speakers of Other Languages,CUP)

タスクに基づいた外国語教育に関して整理されていました。

Willis, D., & Willis, J. (2001). Task-based language learning. In R. Carter & D. Nunan (Eds.), The Cambridge guide to teaching English to speakers of other languages (pp. 173-179). Cambridge: Cambridge University Press.

感想:著者はこの指導法の重要点として、"The first principle of TBL is that units of syllabus organisation should be tasks which define what outcomes can be achieved through language, rather than lnguistic items as such. The second principle is that learning will be effective only if it is related closely to language use and involves relating form and meaning." (p. 176) と述べられていました。言語形式に焦点化させることの重要性についてはかなりページを費やして議論されており、このことを行わないと学習者の知識がclassroom dialectのレベルで化石化してしまう危険性(Skehan, 1992) があると述べられています。また、focus on formを文脈の中で行うのか、一時脱文脈化して行うのか、という点に関して争点がありますが、"All agree, however, that forms will not be processed to become a part of the learners' grammar unless learners are allowed to engage with meaningful use of those forms while the explicit focus is held in short term memory" (p. 176) という点で見解の一致をみているそうです。

TBL以前にも概念/機能シラバスや、指導の最後にfree productionを伴うCLTの弱いバージョンが登場しましたが、それらは基本的に言語を細かな単位に分けるという点で言語使用を十分に扱うことができなかったと、著者は指摘しています。その後、様々な実践がされていますが、この指導法の最も有名な事例はPrabhuらのprocedural syllabusだそうです。しかし、著者はprocedural syllabusは教師中心主義であったり言語形式への注意が不十分であるという点で問題があり、process syllabusの方を高く評価していました。

また、これまでの研究成果を整理していました。具体的には、"if we can provide learners with a series of tasks which involve both the comprehension and the production of language with a focus on meaning this will prompt language development." (p. 176)、"variables that generate more negotiation of meaning; these included two-way rather than one-way information flows, closed rather than open outcomes, narrative rather than expository discourse domains" (p. 176)、"generally learners who had planning time produced a richer and longer discourse than those with no planning time, as well as generally showing a stronger engagement with the task itself." (p. 176)、という結果が紹介されていました。

また、指導の箇所で、ロール・プレイに関しては問題解決を伴うものでなければただの演技であり言語学習にはならないという指摘はとても興味深く思いました。

著者は最後に、この学習法の展望について次のように述べています。"TBL represents a attempt to harness natural processes and to provide language focus activities based on consciousness-raising which will support these processes. The crucial challenges for TBL, therefore, are to do with the design and sequencing of tasks, and the determination of how best to encourage learners to focus on language form in a way which prompts language development while, at the same time, recognising that there is no direct relationshi between language instruction and language learning." (p. 179)

タスク基盤の外国語学習に関してその問題点などがコンパクトにまとめてありました。

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2013年7月12日 (金)

A.Paran(2006).「The Stories of Literature and Language Teaching」を読む(A.Paran(編),『Literature in Language Teaching and Learning』,TESOL)

文学を使った英語教育研究に関して重要な論点が整理されていました。

Paran, A. (2006). The stories of literature and language teaching. In A. Paran (Ed.), Literature in language teaching and learning (pp. 1-10). Alexandria, VA: TESOL.

感想:著者は、文学を使った外国語教育(second language teaching)の流れには実は3つの物語があると述べます。1つ目は最も有名なものであり、かつて外国語教育の中で中心的な位置にあった文学教材がCLTによって周辺部へと追いやられ、さらにそれが言語との関係で再度外国語教育の中で注目されたという物語です。2つ目は、決して文学は外国語教育の中から周辺部へ追いやられたりはしておらず、近年ではこれまであまり注目されてこなかった文学の言語的側面への関心が高まっている、という物語です。3つ目は、文学教材は確かに外国語教育へと帰ってきたが、それは1990年代の中頃までの話であって、それ以降は再度関心が薄くなっている、という物語です。

次に、文学を使った外国語教育研究の傾向についてまとめられていました。それらは、(1) 文学と言語を分離せずに統合すること、(2) 文学の中に様々なジャンル(ポップ音楽など)を含めること、(3) 様々な作家を扱うこと(これまでは男性作家が中心で、しかも批評家から賞賛を浴びたキャノンに属すものがほとんどだったそうです)、(4) 学習者中心主義的アプローチ(教員が一方的に考えを押し付けるのではなく、学習者の考えや経験を重視する)、(5) 様々な目的の外国語教育の中で文学教材の活用が検討されている、(6) 文学教材を使用することの恐怖心を克服する、(7) 様々なアプローチを組み合わせる、(8) creative writingを奨励する、(9) 政治的・社会的変化と文学教材使用の関係、(10) 様々なテクノロジーの使用、でした。特に (6) に関しては、文学教材の使用を恐れているのは学習者ではなく教師自身である、という指摘は非常に重要だと思いました。教師は、教材を十分に説明しきることができないかもしれない、授業で扱うことでその作品の価値を低めてしまうかもしれない、CLTになじまないかもしれない、教え方が分からない、学習者は作品を面白いと感じないかもしれない、と言った事柄を心配しているようだと指摘されていました。

次に、今後考慮していくことが必要だと考えられる点について議論がなされていました。まず、文学教材の使用を考える上で文学能力の養成と言語能力の養成は、1つの連続体の両極であり、文学教育と外国語教育を分離して考えることは問題があると指摘されていました。さらに、外国語教育の中で扱うのは言語だけでなく、それ以外の様々な側面についても取り上げるべきであるという主張もありました。また、L1とL2の研究を区別して行うことも重要と述べられていました(L1での活動が必ずしも上級L2学習者の活動として適切となるわけではないということに注意が必要と述べられていました)。具体的に扱われるべき研究トピックがp. 9-10に列挙してありましたが、その中に文学テストも挙げられていました。また、世界のほとんどの研究論文は英語以外で執筆されているため、多言語で執筆された研究成果について情報収集を行うことが必要であるという指摘はとても珍しい指摘でした。

最後に、著者は文学教材をなぜ外国語教育に使用するのかということに関して私見を述べています。著者自身は、外国語教育はより広い教育の一環であり、よりホリスティックな観点から考えて、学習内容を学習者自身の生活・経験に関連付けられるという点で、文学教材の使用は有意義であるという人間主義的な立場に立っていることが表明されていました。

文学を使った英語教育研究においては必読文献であると思いました(今頃読んでいる自分の不勉強をまた認識させられました)。

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2013年7月11日 (木)

M.Warschauer(2001).「On-line Communication」を読む(R.Carter&D.Nunan(編),The Cambridge Guide to Teaching English to Speakers of Other Languages,CUP)

オンライン・コミュニケーションに関する概説の論文です。

Warschauer, M. (2001). On-line communication. In R. Carter & D. Nunan (Eds.), The Cambridge guide to teaching English to speakers of other languages (pp. 207-212). Cambridge: Cambridge University Press.

感想:言語教育研究におけるオンライン・コミュニケーションは、1980年代のコンピューターを媒介としたコミュニケーションの教育への導入と、1990年代のWWWの登場、の2つの段階を考える必要があります。

第一段階については、long-distance exchangesとcomputer-assited conversation in the classroomという活動が行われたそうですが、どちらの活動も焦点の対象が文脈における言語使用へと移行した、学習者の動機づけを高めた、学習したばかりの語彙や統語パターンをよりよく理解したり使用してみることを可能にするrapid written interactionをもたらした、という点では共通しています。また、1つ目の活動については、母語話者との接触の機会が増えたことによる文化知識の増強、読み書きをオーセンティックで協同的にしたこと、が指摘されていました。なお、第二段階についても書かれていますが、特に目新しい事柄などは見当たらなかったので省略します。

研究成果のセクションでは、オンライン・コミュニケーションの様々な教育学的効果について示されていました。それらは、(1) "The studies have suggest that computer-mediated commmunication can help serve as a useful bridge between speaking and writing by facilitating L2 interaction that is linguistically complex yet informal and communicative." (p. 209)、(2) "Several studies have shown extensive incorporation of new syntactical patterns or lexical chunks during computer-mediated interaction and have concluded that the on-line medium facilitates such incorporation by allowing greater opportunity to study incoming messages and carefully to plan responses." (p. 209)、(3) Research also indicates that the types of tasks and topics chosen have an important affect on the nature of computer-mediated negotiation, with substantial benefits found from conversational tasks which are goal-oriented and encourage learners to reflect onthe ri won use of language." (p. 209)、(4) "L1 research has shown that computer-mediated communication tends to feature more balanced participation than face-to-face conversation, with less dominance by outspoken individuals" (p. 209)(L2でも同じ結果が得られているそうです)、(5) computer-mediated communication can be a useful tool for encouraging greater participation of quiet or shy studnets and for creating alternatives to the traditional 'IRF' (teacher initiation, student response and teacher follow-up) discourse pattern which dominates most classrooms." (p. 209) 、(6) Qualitative studies in several on-line classrooms have described how students' reading and writing processes become more collaborative and purposeful as students engage in project-oriented research and writing for a real audience. ... These benefits occur both during email exchanges and, especially, when students publish their work on the internet, as the act of public display encourages them to make their writing more 'reader-centered'." (pp. 209-210)、(7) "Research to date suggests that on-line learning activities are generally quite motivating for language learners, in part because learners feel they are gaining technical skills which will prove beneficial in the future. Learners are also motivated by the opportunity to publish their own work, communicate with distant partners, work collaboratively in groups and create their own projects that reflect their own interests. However, learners lose motivation if they don't understand or agree with the purpose of technology-based activities and feel that such activities are interrering with their language-learning gloals." (p. 210)、という点でした。

著者は、オンラインの機器等を使用する活動を行う際に注意する事柄として、"Internet-based activities should be complex enough to allow for the kinds of interaction, collaboration and autonomous decision-making that are well supported by the medium. The activities should also be sufficiently structured to allow learners to achieve objectives without floundering or getting lost." (p. 210) と述べています(ただし、これらの事柄はオンライン機器を使用しない活動でも言えることではありますが)。

最後に、著者は1990年代以降の動向に触れ、"Beginning in the late 1990s, there has been a gradual shift from seeing on-line communication as a tool to promote language learning towards seeing the mastery of on-line communication as a valuable end in itself" (p. 211) と指摘しています。また、Shetzer and Warschauer (1999) による、electronic literaciesについて言及していました。

ここで提示してある研究成果は、私の日ごろの授業実践でも当てはまる点が多かったです。また、この分野がどのように発展してきたのかということについて知ることができ、とてもよかったです。

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2013年7月10日 (水)

R.L.Oxford(2001).「Language Learning Strategies」を読む(R.Carter&D.Nunan(編),The Cambridge Guide to Teaching English to Speakers of Other Languages,CUP)

学習方略に関するチャプターです。

Oxford, R. L. (2001). Language learning strategies. In R. Carter & D. Nunan (Eds.), The Cambridge guide to teaching English to speakers of other languages (pp. 166-172). Cambridge: Cambridge University Press.

感想:著者は、学習方略を、"operations employed by the learner to aid the acquisition, storage, retrieval and use of information, specific actions taken by the learner to make learning easier, faster, more enjoyable, more self-directed, more effective and more transferable to new situations" (p. 166) と説明しています。次に、著者は言語学習方略のタイプを説明します。それらは、cognitive strategies、mnemonic strategies、metacognitive strategies、compensatory strategies for speaking and writing (communication strategies)、affective strategies、social strategies、で、それぞれについて簡潔に説明がなされていました。

研究に関しては、SILLの紹介、good language learner study、方略使用と熟達度の関係、方略指導研究、方略の選択に影響を与える要因、に触れられていました。good language learner studyに関しては、当初は上級学習者はそれ以外の学習者に比べてより多くの種類の方略をより頻繁に使用し、自身の方略使用についてより自覚的であると考えられていました。しかし、いろいろと調査を重ねると、こういった事柄は上級学習者とそれ以外の学習者を区別する指標にはならないということが明らかになったそうです。いろいろな研究の結果、"more successful learners typically understand which strategies fitted the particular language tasks they were atempting. Moreover, more effective learners are better at combining strategies as needed" (p. 169) ということが明らかとされているそうです。また、方略使用と熟達度の関係については、両者の間に関係が確認されているとのことでした。

方略指導研究に関しては、(1) その効果は文化的背景や信念、指導内容や提示方法によって変化すること、(2) "strategy instruction should address affective and learning-style issues, deal with strategies students really need to know, be authentic and relevant, and be woven into regular language instruction、(3) 指導は明示的であること、が述べられていました。そして、このことをより意識した指導法として、fully informed strategy-plus-control instructionという概念が紹介されていました。

また、方略の選択に影響を与える要因については、動機づけ、学習環境、学習スタイルと性格、ジェンダー、文化、キャリアへの志向性、年齢、言語タスクの特性、が触れられていました。

この分野はあまり詳しくないのですが、方略指導研究については非常に興味を持ちました。

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2013年7月 9日 (火)

H.Lin(2010).「The Taming of the Immeasurable: An Empirical Assessment of Language Awareness」を読む(A.Paran&L.Sercu(編),『Testing the Untestable in Language Education』,Multilingual Matters)

学習者の文学読解上達の指標としてlanguage awarenessに着目し、それをテストで測定したという実践報告です。英語を外国語とする英語専攻の学習者に対して文体論を使用した文学教育が施されています。授業ではShakespeareを使用したそうです。

Lin, H. (2010). The taming of the immeasurable: An empirical assessment of language awareness. In A. Paran & L. Sercu (Eds.), Testing the untestable in language education (pp. 191-214). Bristol, UK: Multilingual Matters.

感想:著者は、これまでの文学教育におけるテストに関して、次のように述べています。" Traditional literature assessments often focus on literary comprehension and a set of dead facts that can be easily scored and measured. As such, an essential element in most literature examinations is the retrieval of memorised information. There is relatively little attention paid to such complex constructs as sensitivity to the linguistic components of literary achievement and awareness of how language works in literary works. Purves (1990) rightly points to the alarming fact that there has been altogether too little research effort devoted to valid measures of the readers' awareness stimulatated by the power of literature." (pp. 207-208, emphasis in original)

そして上記のような事柄を背景として、日々の授業の中でrhythm & meter、alliteration, assonance & rhyme、binary oppositions、repetition、metaphor & imagery、antithesis、voiceという7項目を取り上げたそうです。これらはいずれも文学テクストによく見られる特徴であるという理由から選択されています。またこの論文では、language awarenessは "an awareness of this definite set of stylistic devices. It is therefore construed here as the ability to identify the stylistic features... and account for their representational significance (or effects) in (literary) texts." (p. 193, emphasis in original)とlanguage awarenessの操作的定義がなされています。

また、著者はlanguage awarenessやliterary competenceの測定を扱った文献をデータベースで見つけることができなかったとした上で、この論文のオリジナリティを指摘しています。著者のテストは3つのパートからなります。それらは、semantic differential(affective responseを見るために実施されるそうで、Snider & Osgood(1969)のものが使用されています)、detection text(テクストの中に見られる文体論的特徴を指摘させるタスク)、見つけた技巧のテクストにおける働きや効果について解釈させる活動、から成ります。なお、学習者の授業での発達を見るためコース開始前とコース終了時にテストを行っていますが、テストの内容や用いられたテクストは同一です(ただし、学習者には同じテストを2回受けることになるということは伝えなかったそうです)。また、テストでのテクストはNissanのThe New Terrano IIの広告が使われていました。

次に、著者はTurner & Upshur (1995, 2002)のFBB scale development procedureを使用して、評価尺度を作り上げています。とても使い勝手のよさそうな8段階の評価尺度が作られていました。また、実際の評定は2名の教員で行い、その評価が2段階以上離れている場合は、著者が第3の評価者として評価を行ったそうです。なお、2名の評価者の平均をその学習者の最終的な評価としたそうで、第3者の評価者が評価を行うケースでは、第3の評価者の結果と2名の評価者のうちで第3の評価者の値と近い方の平均を最終的な評価にしたそうです。また、同じ箇所に関して解釈を示している2名の学習者がいたとしても、その内容次第でちゃんとスコアの差別化を行ったそうです(詳しくはpp. 202-203)。

次は結果です。まず、コースの前後で学習者はNissanの広告をより好意的に評価するように変化したそうです。著者は、学習者のlanguage awarenessが高まったことによってこのような変化が生じたのだろうと考えています。このことは、"interpretation of a text is both (or at least) an interplay of text characteristics and the reader's psychological/cognitive/affective construction" (p. 204) というvan Peer (1990) やMiall and Kuiken (1998) の主張を支持する結果であると指摘されていました。また、コース前のテストとコース後のテストでは、学習者のパフォーマンスも上がっていました(この論文で提示された評価尺度に従って評価した結果、学習者の成績が向上していました)。コース前では全く文体論的特徴に気づかなかったような学生でも、7回の授業を通してかなりlanguage awarenessを発達させたそうです。Hanauer (1999: 21) は、"development of language awareness can be manifested in 'an increase in a literary student's ability to selectively focus on, use and explicitly discuss specific aspects of a literary text for interpretation purposes'" (p. 207) と述べているそうですが、著者はまさにこのことが今回の実践で確認されたと述べています。

著者は最後に、これからの文学テスト研究について次のように述べています。"In developing this type of measure, however, challenges have begun to emerge: to move away from modes of assessing literary reading through comprehension questions or literary criticism, the teacher must give a more appropriate assessment of the reader's response to a literary text; to maintain authenticity, the teacher must design test tasks that can capture or recreate the essence of the real literary experiences. To stand scrutiny, the assessment must provide both criterion-based standards and judgement reliability that may not be required by commonly found literature testing in the classroom. As a natural corollary, designing and implementing such assessment approaches is extremely time consuming." (p. 208) そして、今回は言語的な側面だけを扱ったが、社会言語的側面や文化的側面なども取り入れていく必要があること、様々なタスクをテストの中に取り入れて様々な観点から学習者の能力を評価すること、の重要性が指摘されていました。また、knowledge about literatureではなくknowledge of literatureを重視する方向で文学テスト研究を発展させていかなければならないと述べられていました。

文学の技巧に着目させた文学読解指導はまだ日本ではあまりその重要性が認識されていないので、文学教育という枠組みでの研究ではありましたが、非常に共感できる内容でした。

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2013年7月 5日 (金)

C.Kramsch(2001).「Intercultural Communication」を読む(R.Carter&D.Nunan(編),The Cambridge Guide to Teaching English to Speakers of Other Languages,CUP)

異文化間コミュニケーションについて整理された文献です。

Kramsch, C. (2001). Intercultural communication. In R. Carter & D. Nunan (Eds.), The Cambridge guide to teaching English to speakers of other languages (pp. 201-206). Cambridge: Cambridge University Press.

感想:この分野はアメリカでは行動科学、心理学、ビジネス・トレーニングと関連づけられてきたそうで、ヨーロッパでは人類学や言語科学と関連づけられてきた伝統があるそうです。

アメリカでは、第二次世界大戦前はcultureは "knowledge about great works of literature, social institutions and historical events, acquired through the translation of written texts" (p. 201) と考えれらていたそうです。しかし、言語学や社会科学の発展及び市場経済の需要から日常生活に根差した現在の意味での "culture" という概念が重視されるようになったそうです。TESOLでは1980年代に「異文化間コミュニケーション」という語がよく使われるようになりましたが(これは1970年代に発達したCLTの影響です)、研究分野自体は1950年代のLadoやHallの研究に遡ることができるとのことでした。Ladoは言語と文化を言語教育の中で最初に関係づけ、Hallは「文化=コミュニケーション」という定式化を行ったそうです(Hallは)。1970年代はこの分野の研究は国際ビジネス教育で利用され、1980年代に-context communicationとlow-context communicationという概念についても議論しています)は公民権運動によって同一国内での多文化共生(multi-ethnicity)において重視されることとなったそうです。以上の議論を著者は、"In sum, the field of intercultural communication grew out of the practical, competitive needs of post-Second World War American international diplomacy and business, and was only later applied to interethnic conflicts within the United States. Influenced by research in areal linguistics during the Second World War, and in business organisational management after the Second World War, its foundational disciplines were, besides linguistics, the behavioral sciences, especially psychology and social psychology." (p. 202) とまとめています。

これに対してヨーロッパは、"the field of intercultural communication in Europe was a direct outcome of the social and political upheavals created by the large scale immigrations into the industrialised countries. It has therefore been much more closely linked to fields such as anthropology, sociolinguistics, pragmatics and discourse analysis even though behavioural training is also part of the field in Europe. It is worth noting that intercultural communication studies have not drawn to any notable extent on humanistic disciplines like semiotics, hermeneutics or cultural studies." (p. 202) と述べられていました。

研究に関しては、この領域が派遣員が派遣先で現地の人とコミュニケーションを取れるようにするという目的から始まり、異文化間心理学、言語学(対照修辞学)、社会言語学、言語人類学によって発展し、最近ではcritical approachが影響を与えてきているという流れが確認されていました。

授業実践では、以前は教員が英語国の情報を学習者に伝え、学習者がその英語母語話者のような行動が取れるように訓練するといった指導がなされていました。しかし、昨今では、このことに変化が生じています。"the pedagogy of intercultural communication is currently shifting from teaching accurate facts and culturally appropriate behaviours to teaching the social and historical contexts that have given present cultural phenomena thair meaning within larger cross-cultural networks." (p. 205) さらに、非母語話者の母語話者に対する社会的位置づけ、国際語としての英語という文化に非母語話者の観点はどのような事柄をつけ加えることができるのか、ということについて考えさせることが重視されているとのことでした。

最後に最近の傾向に関して、言語権という概念にintercultural rightsやintercultural linguisticsという概念が関連付けられて考えられ始めていること、単純な「自己vs.他者」という対立で捉えられなくなってきている状況(自己の中に他者が存在し、他者の中に自己が存在しているという状況)を異文化コミュニケーションは扱う必要があること、が指摘されていました。

あまりなじみのない分野だったので、とても勉強になりました。これほど重要な分野であるにも関わらず、これまでほとんど勉強していなかったことを大いに反省しました。

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2013年7月 3日 (水)

A.Paran(2010).「More Than Language: The Additional Faces of Testing and Assessment in Language Learning and Teaching」を読む(A.Paran&L.Sercu(編),『Testing the Untestable in Language Education』,Multilingual Matters)

言語テストの在り方に関するユニークな提言です(とはいえ突拍子もないことを述べているわけではなく、あくまでも外国語教育実践という立場に立った非常に真っ当な提言だと思います)。著者は、"the psychometric, the industrial and the scaling trends" (p. 3) の問題点を指摘し、テストの新たな方向性について提言を行っています。

Paran, A. (2010). More than language: The additional faces of testing and assessment in language learning and teaching. In A. Paran & L. Sercu (Eds.), Testing the untestable in language education (pp. 1-13). Bristol, UK: Multilingual Matters.

感想:著者はまず、指導とテストは車の両輪であること(teaching involves assessment)、テストは社会に大きな影響力を持ち言語政策の実施や導入に主要な働きをすること、を確認します。そして、これまでのthe psychometric, the industrial and the scaling trends" (p. 3) は言語しか扱ってこなかったことを問題視しています(languageとcontentの乖離が見られると指摘されていました)。

著者は本書で指導の中にテストを統合し、かつintercultural competence、autonomy、literature、content teachingをテストの中でいかに扱っていくかということについて検討してくとしています。著者は、本書の基本的なスタンスとして、従来の言語テストへの批判的態度、言語以外のものもテストで扱うこと、を挙げています。また、本書を通じて、questioning testing and assessment(従来的な意味のtestingとassessmentを指しています)、the continuing tension between assessment of learning and assessment for learning、multiple sources of data、the voice of the learners、teachers learning from assessing their learners、integration and interdisciplinarity、the responsibility of the tester、a focus on the classroomといった事柄が何度も取り上げられることになると述べられていました。また、"many of the contributors do not see themselves as primarily engaged in language testing: they are engaged in language assessment only to the extent that any teaching involves assessment." (p. 11) という寄稿者の立場も代弁されていました。また、本書での議論の一般化可能性やテストの妥当性については、"the chapters indicate the extent to which whork is being done in this area in a large variety of international contexts. The large variety of educational contexts discussed in this volume may well serve as an indication to educators of what is possible to achieve in this area at classroom and institutional level." (p. 11) と述べられていました。

言語テスト研究の論文としては、非常にユニークな立場のものであると思いました。

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2013年7月 2日 (火)

L.van Lier(2001).「Language Awareness」を読む(R.Carter&D.Nunan(編),The Cambridge Guide to Teaching English to Speakers of Other Languages,CUP)

language awarenessに関して包括的に整理されていました。

van Lier, L. (2001). Language awareness. In R. Carter & D. Nunan (Eds.), The Cambridge guide to teaching English to speakers of other languages (pp. 160-165). Cambridge: Cambridge University Press.

感想:実はlanguage awarenssはヨーロッパでは伝統があり、1930年代のオランダではlanguage understanding、language feeling、language insightという言葉で区分され、言語自体に意識的になることの重要性が認識されていたそうです。また、基本的にlanguage awarenessという考えは "a view of language learning (both first and second) that focuses on prescriptive instruction and is concerned primarily with correctness, and only secondarily with understanding, appreciation and creative expression." (p. 160) という立場に反対してきたそうです。language awareness=文法指導と考えないように気を付けないといけません。アメリカの国語教育では、様々なジャンルのテクストの分析を通して実践されてきたそうです。最近のアメリカでは、カリキュラムをまたいだ言語学習や中学校での入門外国語コースなどでlanguage awarenessの実践がなされているそうです。また、アメリカではWhole Languageとも密接に関係しているという点が指摘されていました。著者によると、最近のlanguage awareness研究は、(1) the language awareness movement in the UK、(2) a psycholinguistic focus on consciousness-raising and explicit attention to language form、(3) a critical, ideological perspective that looks at language and power, control and emancipationの3つの観点と大きく関係しているそうです。

(1) に関しては、この動向の軌跡が述べられていましたが、その中でNCLEによる "a person's sensitivity to and conscious awareness of the nature of language and its role in human life" (p. 160) という定義が示されていました。なお、著者は "an understanding of the human faculty of language and its role in thinking, learning and social life" (p. 160) という定義を行っています。

(2) に関しては、consciousness raising、focus on formといった概念が紹介されていました。

(3) に関しては、"to "present the view that language use if part of a wider social struggle, and that language education has the opportunity to raise learners' awareness of this"" (p. 162) という定義が示され、学習者と権力の問題、不平等のメカニズムなどを研究する必要性が指摘されていました。

最近の実際の研究に関しては、まずGarret and Jamesによるaffective、social、power、cognitive、performanceという5つの相互依存分野に分けて考えるという枠組みが紹介されていました。次に、language awarenessの効果を明確に示している研究はあまり多くないこと、(その一方で)language awarenessの重要性については広く認識されていること、が指摘されていました。

実践面では、様々な活動や教材が提案されているそうです。また、多くの教材が帰納的なアプローチをとっているとのことでした。

私は (2) 以外のアプローチについてはあまりよく知らなかったので、とても面白く読みました。また、ヨーロッパではlanguage awarenessは応用言語学でfocus on form等が提案されるはるか前からその重要性が認識されていたという点もとても面白かったです。

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