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2012年8月31日 (金)

大石衡聴(2008).「付録:言語と生成文法理論」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

脳科学者向けに書かれた生成文法の概論です。言語学に精通している人であれば特に新しい情報はないかもしれませんが、生成文法の目的やこれまでの発展などがとても分かりやすく書かれています。私も、生成文法について改めて考えを整理することができました。

大石衡聴(2008).「付録:言語と生成文法理論」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 193-212).東京大学出版会.

感想:著者は、まず対象とする「言語」自体を明示的に示します。著者が対象とする言語とは「音声、文字、あるいは手話の動作を媒介とした記号の体系であり、自然発生的にできた人間の言語」(p. 194)を対象とし、こういった言語は、超越性、創造性、恣意性、構造、という特徴を持っていると述べます。

次に、言語学への科学的アプローチの流れについて整理します。まず言語を歴史的存在として捉えて科学的な研究を行った比較言語学について説明され、「体系的類似性のある複数の異なる言語を比較することでそれらの言語に共通する祖語を再建するという比較法(comparative method)と、1つの言語内での不規則で非体系的な部分が、より体系的な形を持っていた祖語からの歴史的変化であるという前提に立ってその言語の古い形を復元するという内的再建(internal reconstruction)という方法を用いて言語の歴史的変化を説明」(pp. 196-197)しようとしたと紹介されていました。次に言語を社会的存在として説明しようとした構造言語学が挙げられていました(ここでは、ヨーロッパ構造主義言語学とアメリカ構造主義言語学を混ぜて説明されているところが個人的には少し気になりました)。そして、最後に実在論的な立場に立つものとして生成文法が挙げられていました。「生成文法は、言語研究の焦点を人間の言語行動を可能としている脳の内部状態の研究へと転換した」(p. 198)と説明されていました。

次に具体的に生成文法の目的などについて説明がありました。研究対象、研究の目標について簡単に説明されていました。なお、ここで私が面白いと思ったのは、「プラトンの問題」という名称の由来と、生成文法の「言語知識はどのように使用されるのか」という問いに関する生成文法の見解が解説されている点でした(非常に短い説明ではありますが、多くの概論書では飛ばされることもあるため、とても助かります)。「プラトンの問題」の名前の由来については、「「我々人間が経験できることは限られているのに、なぜ豊かな知識を身につけることができるのか」というプラトン依頼の認識論的テーゼに由来する」(p. 201)と説明されています。また、後者の点については、透明性の仮説(「静的な言語知識が動的な言語運用に反映されるという仮説」(p. 202)、統語解析装置(言語運用における言語理解の問題に答えるためのもの)、派生の複雑度の理論(言語運用の言語理解の問題に答えるためのもの。標準理論のモデルをそのまま言語理解に適用したもの)、言い間違いの分析(言語運用における言語産出の問題に答えるため)、などがあるそうですが、十分な成果は得られていないそうです(理論が行き詰ったり、生成文法の目指す方向と酢齟齬が生じたりしたことが原因です)。

最後は生成文法の理論の変遷です。まずは、標準理論の基本的な考えが紹介され、「記述的妥当性と説明的妥当性の緊張関係」を経て、原理とパラメータのアプローチ(チョムスキー自身は、GB理論という呼び方よりもこの呼び方を好んでいるそうです)、そして極小主義プログラム、が説明されています。特に極小主義プログラムの説明は、限られた紙面の中で非常に分かりやすく、その基本的な考えが説明してありました。

生成文法の全体像を整理したいという方にはおススメです。

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2012年8月30日 (木)

田中悟志・花川隆・本田学(2008).「思考の基盤となる脳内情報操作の神経機構」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

この論文では、ヒトの高次脳機能は、他の生物と共有している運動に関する神経機構をもとに進化したものであるため、思考と運動には共通神経機構が存在するという立場をとり、思考と運動の神経上の共通性についてまとめられています。特に、「思考を含む脳内情報の制御機構は、感覚運動制御機構が連続的あるいは段階的に発展したもの」(p. 117)という点が強く強調されていました。

田中悟志・花川隆・本田学(2008).「思考の基盤となる脳内情報操作の神経機構」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 113-134).東京大学出版会.

感想:著者は、ヒトの高次脳機能の進化についてまとめる中で、「動物の脳は、5億年前に頭索動物としてその祖形が誕生して以来、進化の大部分の時間を、言語機能をもたない非言語脳として進化してきた。「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉に象徴されるように、地球生命の進化は、それまで獲得してきたものを確保した上に新しい機構を増設していくという「積み上げ戦略」を大原則としていることを鑑みると、5億年を超える時を重ねて高度に進化し成熟してきた高等哺乳類の非言語機能の基礎構造の上に、その一部を母体として構成された素朴で新参の機能が、言語や論理的思考といったヒトに固有性の高い高次脳機能であると考えるのが自然であろう。言い換えるなら、言語や論理的思考が、脳神経系という複雑系における何らかの不連続で創発的な現象によって出現した機能であったとしても、その素過程は他の生物とも共有可能な非言語機能から成り立っている可能性が高いと考えている。」(p. 116)という考えを提示し、さらに「同時に、私たちの暗黙的な認識とは裏腹に、ヒトに固有性の高い「高次」の機能ほど、進化的には「未熟」な機能であるという逆説的な関係が存在していることは注目に値する」(p. 116)とも述べています。

また、思考と運動の共通制御神経機構に関して、「西欧的な物心二元論の影響を強く受けた従来の脳科学では、物体を操作する「運動」と脳内の情報を操作する「思考」とは、暗黙のうちに分離・対比して扱われることが多かった。ところが、ここ十数年来のヒトを対象とした非侵襲脳機能計測の発展と、霊長類の詳細な神経解剖学的検討により、従来運動制御を担う機構と考えられてきた脳領域、たとえば小脳や大脳基底核、高次運動皮質などの機能が、これまで考えられてきた狭義の運動制御にとどまらず、広く知的活動一般に関与する可能性が示され、またそれを説明する計算理論モデルも提唱されつつある。情報処理装置としての脳という視点からみると、「運動」と「思考」の違いは、恣意性の高い分類であり、両者は実際には多くの神経機構と作動原理を共有している可能性が否定できない」(pp. 116-117)と述べられていました。特に、「運動制御の場合には、情報処理過程の最終的なアウトプットとして、実際の空間に存在する身体という物体の物理的なパラメータ群を操作し更新するというプロセスを挙げることができる」(p. 117)のと同様に、思考においては「脳内の記憶回路に保存された情報を操作し更新するプロセスを、思考の最終的なアウトプットとして位置づけることができる。脳内情報の操作更新過程は、思考の中のきわめて限られた一局面に過ぎず、それによって論理的思考プロセスのすべてが記述できるわけではないことは明らかである。しかし同時に、脳内情報の操作と更新を欠いては、いかなる思考も成就しない。そういった意味では、脳内情報の操作更新という認知的制御のプロセスは、思考に不可欠な必要条件であると考えることができる。」(p. 117)と述べられていました。また、調査方法として、PET(ポジトロン断層撮影法)、fMRI(磁気共鳴機能画像法)、TMS(経頭蓋磁気刺激法)、が紹介されていました。

次に、著者らの考えを指示する研究結果として、そろばんに関する研究がまとめられていました。まず、「運動想像を行うときには、実際に運動を行うときに活動する脳領域(運動前野、小脳など)が活動することが報告されている。すなわち、こうした運動遂行から心的操作へのスイッチングは、制御のための神経機構をある程度共有しながら、そこへの入出力を環境から脳内の記憶へと切り替えていったものと考えられる」(p. 119)、という点が指摘されています。そして、そろばん熟達者を被験者として、そろばんを実際に使っているときと、暗算をしている時で同じ部位(両半球の背外側運動前野と後部頭頂皮質)が活性することが示されていました(これらの部位は視覚運動制御に関わっているとされます)。また、熟達者と初心者を比較し、「通常の被験者では、左半球のブローカ野を中心とする言語処理に関連する脳部位に非常に強い活性が観察されたのに対して、そろばんの熟達者では、ブローカ野近傍の活動が弱く、そのかわり空間情報の処理に関連が深い右半球の強い活動が認められた」(p. 122)と述べられていました。つまり、「通常のヒトの言語機能に依存した稚拙な暗算能力が前項で述べた進化的に未熟な言語機能の射程と限界を象徴するのに対して、視覚運動制御のための神経基盤を巧妙に活用したそろばんの達人の驚異的な暗算能力は、複雑な環境を把握しそれにはたらきかけていくという多次元包括的で具象的な非言語脳機能の圧倒的な潜在活性を示唆する」(pp. 122-123)と述べられていました。そろばんに関しては、初心者と熟達者で使用する神経基盤が異なっているようです。

ただし、同時に初心者であっても、左半球に偏っているとはいえ、熟達者と同様に運動関連脳領域に神経活性が認められます。このことに関して、「進化的に初期の段階には、外界から入力された情報を一定のルールで処理し、外界の物体を操作する運動として発現するはたらきを担っていた非言語脳の神経機構が、進化に伴う脳システムの複雑化と記憶貯蔵庫の発達によって、記憶デバイスから情報を引き出したり、逆に処理の結果を記憶デバイスに書き込むことが可能になった。その結果、外界との情報のやり取りを行わずに、脳の内部で一定のルールに基づいて情報を操作できるようになった…。すなわち入出力デバイスは異なるものの、コマンドを処理して情報を操作する部分については、運動制御と思考の素過程との間で、共通のしくみが使われている可能性が大きい…。この仮説に基づくと、人類の進化の過程で感覚運動制御から脳内情報の操作へと徐々に発展してきたプロセスを、数という言語情報を対象として、後天的な訓練と学習により個人の中で急速に実現した特殊な例がそろばん熟達者だとみなすことが可能になる。もしそうであれば、運動制御とは直接の関連をもたない脳内情報の操作にも、運動制御に関連した神経機構が動員されることは不思議ではない。」(p. 123)と説明されていました。

本章の残りの部分では、臨床症例やTMSを用いた研究から、ヒトの運動と思考の連続性を示唆する研究が多く報告されていました。そして、最後に「思考の素過程となる脳内情報操作に関わる神経機構が、感覚運動制御を司る神経機構と大きな共通性をもっていることは、脳が進化的に形成されていくなかで、反射的な刺激―反応連合から、感覚運動制御を経て、記憶空間に保持された情報を操作する能力を連続的あるいは段階的に獲得してきたことを示唆する。運動と思考に共通する神経機構が作動原理をも共有するのであれば、現実の世界から切り離すことが可能で、高い恣意性をもつと一般的に考えられがちな思考のプロセスも、実際は感覚運動制御と同様に、外界からの制約条件の支配下におかれる可能性も十分に示唆される。こうした他の生物との連続性に基づく「思考」の見直しは、新しい人間観の構築につながっていくことが期待される。」(p. 132)と締めくくられていました。

また、本章で紹介されていた調査方法で、被験者に操作を3分間継続してもらい、その中程約1分間のデータを用いて分析するという方法はとても有益であると思いました。

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2012年8月29日 (水)

馬塚れい子(2008).「言語獲得における年齢効果は臨界期か」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

臨界期仮説を実験的に検討した研究が整理され、臨界期仮説が本当にあるのか、あるとすればそれはどのような特徴があるのか、ということを検討した論文です。

馬塚れい子(2008).「言語獲得における年齢効果は臨界期か」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 41-77).東京大学出版会.

感想:著者によると、臨界期仮説は次の4点に分けて考えることができると述べます。それらは「①言語獲得の臨界期は脳が成長を伴って可塑性を失うことによって引き起こされる現象である。②言語獲得の臨界期は思春期頃で、③それ以降になると母語話者レベルでの言語獲得は難しくなる。④言語獲得の臨界期は脳の言語処理の左半球優位が達成されることと因果関係がある。」(p. 42)というものです。④に関して、著者は「言語処理に関する左半球優位は思春期よりずっと前に観察される」(p. 42)、「言語処理の左半球優位がいつ頃から現れるかということと言語発達に臨界期があるかどうかということとに因果関係がある必然性はなく、言語処理の左半球優位の出現とは独立に言語獲得の臨界期が存在しても不思議はない」(p. 42)と問題点を指摘しています。また、③に関しては、母語話者という概念は定義が難しいこと、母語話者だからといって実用的な語学力が外国語話者よりも優れているとは限らないこと、臨界期という言葉よりも敏感期と考えた方がよいこと(その時期を過ぎたら、言語の獲得が不可能になるというわけではなく、あくまでもその言語が母国語話者レベルで獲得できるかどうかが問題となっているので)、が述べられていました。また、②に関しては、「言語全般に関わる臨界期があるというよりは、下位領域によって異なるのではないかと考える研究者が多い」(p. 45)ことが指摘されていました。

次に、乳児期の音声知覚発達の研究を紹介し、臨界期という問題が検討されます。ここでは、(1) 乳児は生後1年ぐらいまでに自分の学んでいる言語で使用されない音素は区別できなくなること、(2) この変化は母音と子音でことなり、母音では6か月ごろから始ること、(3) 中には例外もあり、(1) の変化が起こった後でも、聞いたことがなくても容易に区別できる音や、訓練によって弁別可能になる音があること、(4) 生後1年ぐらいまでに自分の言語で起こる音素配列の制限も獲得していること、(5) 乳児は母音や子音などの音素よりも早い時期から韻律情報に敏感であること、(6) 新生児は他の女性よりも自分の母親の声を、外国語よりも母親の話す言語を好んで聞くこと、(7) 新生児は生まれながらにして特定の韻律特性を持つ音素を選考したり弁別したりする能力を持つこと、(8) 新生児は大人どうしの会話よりもマザリーズで話した音声を好んで聞くこと、(9) 新生児は、自分の母親が話す言語と同じリズム群に属する言語は弁別できないこと、(10) 生後半年前後で新生児は自分の言語に特有な韻律特性を習得すること、(11) 生後5か月ごろで自分の言語と同じリズム群に属する言語でも弁別ができるようになること、(12) 強弱型の単語が多い英語を母国語とする乳児は、強弱型の単語に選考を示し、自分が単語を切り出す場合も強弱型を使用すること、(13) 乳児は境界線や動詞句の句境界の韻律といった文構造に現れる韻律にも敏感であること(これも自分の言語に合わせてその敏感度が異なる)、(14) 5か月ごろの乳児は特定の韻律情報を使って話者の情動を素朴な形で理解していること、が示されていました。

この中の (6) から (13) に関して、「ヒトの胎児は受胎後30週頃には聴覚が発達し、外部からの音刺激を聞くことができるようになる。しかし、羊水に浮かんだ状態であるため外部の音声が聞こえても韻律情報以外は聞き取れない。・・・対峙が生まれる前に母親の胎内で外部から伝わる音声を聞き、その韻律の特性を学んだ結果であると考えられている。」(p. 49)と説明されていました。また、(14) に関して、「音声が意味を持ったコミュニケーションの手段として使われる原型」(p. 51)が残っている結果として考えることができると述べられていました。

次に、乳児期の音声発達は臨界期かどうかという点が考えらえていきます。基本的に「乳児が語彙や文法などを含む言語獲得を本格的に始めるためには、この「いらない音に対する感度を失くす」(p. 52)ことが必要な過程となります。このことは、「乳児期の早い段階で外国語の音声の弁別能力を失い、母語に特化した音声知覚の能力を獲得した乳児は、その後の言語獲得が速い」(p. 52)という調査結果からも裏付けられています。著者は、「言語を獲得する過程で母語の音声処理を効率的に行うことができるようになるためには、必要ない音に対する感度をいつまでも維持していることが邪魔になるのであり、自分の言語の音声に特化した処理が速くできるようになると、その後の言語獲得が効率的にできるようになる」(pp. 52-54)と述べています。ただし、生後1年以内で音声知覚が母国語に特化されるからといって、その後外国語の音声の弁別が不可能になるわけではないため、臨界期というよりは敏感期と考えた方がよいのではないかという主張がされていました。一方、乳児の脳発達については「大脳皮質のニューロンの総数は胎児期にピークに達し、生後15ヶ月ぐらいまでの間に約半数に減少して安定する」(p. 54)、言語野のシナプスの数は「生後3歳前後でピークを迎え、その後15歳程度まで減少した後は比較的安定した数を維持」(p. 54)する、ということが分かっています。これらの淘汰は、音素の知覚同様に経験に依存して淘汰されていきますが、このような脳発達プロセスがどのように音声知覚と関係しているかはまだわかっていないそうです。

著者は次に乳児期以降の言語発達についてまとめます。「乳児期の音声発達は、基本的に母語の音声の特性を学習することがメインであったが、乳児期以降は、その音声を意味と関連づける言語本来の象徴的な役割を獲得する過程になる。主な変化をみると、2歳前後に『観察される「語彙爆発」と呼ばれる急激な語彙増加とその後の語彙発達、4、5歳頃までの文法の獲得、その後の認知発達と語用論的知識の発達に伴って観察される高度な言語使用能力の発現などがある。発話のサイドからみると、生後1年程度で、初語が出現する。その後しばらくは、語彙は徐々に増加するが発話自体は単語1つだけという「一語発話」の時期が続く。1歳半から2歳ぐらいになると、「まんま」、「ないない」のような単語を組み合わせた二語発話がでるようになり、発話語彙が急激に増加する。3歳前後には、従属節を含む複文も聞かれるようになり、4、5歳ぐらいになるころには母語の統語的な特性はほぼ獲得しているといってよい。この年齢の用事の構音はまだ未熟で、たとえば、/Θ/や/f/ 、/r/や/l/のように7、8歳になっても大人のような発音が難しい音もある。また語彙や語用論的知識も限られており、幼児が大人のような会話ができるわけではない。しかし、4、5歳頃までには語順や助詞、動詞の活用のような基本的な統語構造の特性は確立しており、外国語学習者に見られるような文法的誤りはほとんど出現しない。例外的に、日本語の敬語体系や、英語の仮定構文(subjunctive construction)のようにもっと後にならないと獲得されない構文もあるが、これらは状況によっては成人になっても獲得しない人もおり、源吾に必須の構造とは質的に異なるものである可能性が考えられる。」(pp. 55-56)

次に、乳児期以降の言語発達に関する研究でこれまで示されている調査結果が紹介されています。具体的には、(1) 臨界期仮説の証拠として挙げられてきたGenieは実は知的障害があった可能性があり、必ずしも臨界期仮説の肯定的証拠とはなりえない可能性があること、(2) 一方でGrimshawらが発表したEMの事例は臨界期仮説の証拠となりうる可能性があること、(3) 移民の場合はその国への到着年齢が獲得レベルを決定する可能性があること、(4) 到着年齢は、特定の文法規則の正確さにも影響を与えること、(5) 到着年齢は発音と文法能力ではその影響の受け方が異なり、発音に関しては年齢の影響はより早くから見られること、(6) 外国語の獲得に年齢が大きく影響を持つといっても、年齢はその他の多くの要因(学習スタイルなど)と相関しているため、必ずしも臨界期仮説を肯定するような証拠とはなりえないこと、(7) 臨界期以前、以後に関係なく、言語の獲得開始の年齢が上がるほど発音の訛りが強くなること、(8) 臨界期と考えられる年齢が、自分の母国語とその外国語との言語的な関係性によって変化すること、(9) 手話においても獲得の時期が獲得のレベルに影響を及ぼすこと、が述べられていました。ただし、著者の立場としては、言語のような複雑な体系の獲得は単純な脳の年齢による効果だけで説明することは難しいというものでした。

最後に言語獲得と脳の活動の関係について調べた研究が整理されていました。ここで述べられていたのは、(1) 生後早い時期に獲得された第2言語は、脳内では単独の言語を自然に獲得したモノリンガルとほぼ同じように処理されること、(2) 早い時期に獲得した言語であれば、言語が1つでも2つでも脳内ではどちらの言語も同じ部位で、同等の活動レベルで処理されること、(3) バイリンガルの言語の使い分けに関して、必要のない言語を抑制する実行機能や言語の切り替えにおける尾状核などの皮質下の組織の役割の研究が進められていること、(4) 第2言語を遅い時期から獲得した学習者では、処理が関わる部位は母国語と同じであるが、第2言語では活性化のレベルが上がり、脳波も異なっていること、(5) 手話では、言語のモダリティが視覚であったとしても音声言語と同様の言語野において処理がなされていること(言語野ではモダリティの様式に制限されない高次の言語処理が関わっていると考えられる)、(6) ただし、手話話者に特有のパターンとして右脳の活動が観察されること、(7) 獲得の時期が遅ければ脳内で別の処理がされることとなるため、臨界期の証拠となるようにも一見思えるが、必ずしもそうでなないこと、が述べられていました。特に (7) に関しては、(a) 早期に獲得されなかった第2言語でも、学習が進んでその熟達度が上がるにつれて第1言語との違いが小さくなること、(b) 両方の言語を早期に獲得した高度なバイリンガルでも、普段どちらの言語を多く使用しているかによって活動のレベルが変わること、(c) 第1言語と第2言語が系統的に似ているかどうかが第2言語の獲得のレベル及び脳内処理に影響を与えること、が挙げられています。これらのことから、「脳のもつ可塑性によって、脳内でどのように言語が処理されるかは、年齢以外にも言語の習得レベルや使用頻度、また第1言語と第2言語との類型的関係などの要因によっても変わってくるということである。これは、言語獲得の年齢によって言語処理に伴う脳活動に差が観察されたからといって、それが必然的に臨界期の証拠にはならないということでもある。」(pp. 69-70)と述べられていました。また、幼児期に母国語として獲得した言語であっても、その後全く使用しなければ第2言語として学習した言語が第1言語に置き換わってしまうという現象も紹介されていました。

最後に、Clark (2003) を引用しながら、「幼児が周りで話されている言語に触れるうちにその言語を自然に獲得するためには、基礎的なレベルで1万時間、上級レベルに達するにはさらに2万5000時間程度の接触が必要である」(p. 72)という推定を紹介し、「1日1時間のレッスンを毎日受けても1万時間には27年かかる」(p. 72)と述べられていました。また、「言語獲得に年齢がどのような効果を及ぼすかの議論と、子供にどの年齢から外国語を教えるかという議論は切り離して行われるべきである」(pp. 72-73)と指摘されていました。この最後の指摘は非常に重要だと思います。私たちは、言語教育の研究を言語習得の研究にのみ基づいて議論しないように気を付けなければなりません。

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M.リガード&T.ランディス(1988/2000).「美しさは見る者の視野の各半分で異なっているかもしれない」(日比野治雄(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

美に関する優位半球はないが、各半球で異なった審美体験をしているということを示した面白い論文でした。

リガード,M.,&ランディス,T.(2000).「美しさは見る者の視野の各半分で異なっているかもしれない」(日比野治雄(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 233-249).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者らは、この論文で主に3つの調査の結果を報告し、主に視覚に基づく美の研究ではありますが、各半球における美の知覚について考察していました。この論文で述べられていたのは、(1) 「情緒的な(美に関する)選択も、二つの大脳半球によって異なる。この事実は、美に関する判断が二つの異なったシステムによって扱われれることを意味する」(p. 240)、(2) 「男性と女性とで、刺激提示が右半球か左半球かによって、美についての判断が異なる結果となる」(p. 240)、(3) 「男性のほうが女性よりも、認知的決定と同様に美についての判断においても、半球特異性が強い」(p. 247)、(4) 「刺激の性質(すなわち、ゲシュタルト法則でいうような完成している、単純である、あるいは意味をもつというような「形のよさ」)は、知覚だけではなく美についての嗜好にも影響を及ぼす」(p. 240)、(5) 刺激を言語的に意識しているかしていないかで美に関する知覚は影響をうける、(6) 美に関する情動は無意識の状態(または認知に先立って)で既に発動している、(7) 「左半球は既知のものを好み、右半球は新奇で通常と違ったもののほうを好む」(p. 243)、(8) 同じ刺激が右半球か左半球化どちらに提示されるかによって解釈が異なる、(9) 両半球それぞれで独自の「パーソナリティ」特性をもっている、(10) 「われわれが何を見て、何を好むのかは、いくぶんかはどちらの半球が刺激されるかによる」(p. 246)、(11) 「各半球は視覚的環境に情緒的に異なった反応をするのであるが、これは各半球がそれぞれ異なった審美的な経験をしていることを示している」(p. 246)、(12) 「しかし、われわれの二つの半球には連絡があるので、われわれの嗜好や回避という行動は、おそらくより抽象的で知的な側面、あるいはより情動的な側面のどちらかによって支配されるのであろう」(p. 246)、ということです。

また、上記の (9) に関連して、「右の大脳半球(左視野)は、時に全体の包括的視点を欠くという代償を払うことはあるが、さまざまな事象を結び付けたり統合したりする能力に優れているように見える。右半球は、接近して、急に与えられた事象(たとえその「与えられた」のが全体ではないときでも)を把握する能力に優れているのである。形を正確に評価する能力が左半球よりもいくぶん優れている。右半球の知覚内容は具体性には欠けるが、より独創的である。つまり、純粋に知的な能力というよりは、むしろ直感的に推論するようである。また、右半球は、より想像力に富んでいる。情緒的適応性は比較的よいのであるが、その情動的敏感さ(この情動的敏感さは創造性を生みだすが、またより暗示にかかりやすくもする)のため、右半球は時に危険な状態に陥るのである。左の大脳半球(右視野)は状況の本質的要素を把握するのであるが、組み合わせの能力はほとんどない。こちらの「人」はより抑制されており、情緒的衝動を抑え、そして情動的敏感さはほとんどないことがわかったのである。左半球は、かなり順応性は高いが、いくぶん醒めていて刺激的なところがないようである。」(p. 245)と、個々の半球のパーソナリティが説明されていました。また、面白いことに、この結果は「右半球と左半球が分断された患者での情緒的特異性、すなわち、離断脳患者での二重人格という考えときわめてよく一致する」(p. 245)そうです。また、健常者の場合は、その「人」は、両半球のパーソナリティの混合体ということになるという考えもとても重要だと思いました。

また、上記の (6) に関連して、「情動の処理においてもっとも重要であることが知られている脳幹の覚醒系の信号が最初に辺縁系を活性化させ、その後初めてより高次の認知的処理を担う両半球にその信号が到達するという推測ができる」(p. 247)と述べられていました。

著者は、最後に美の問題を言語的ラべリングにたとえて、「結局、美に関する判断というのは、環境における事象に対する情緒的ラべリングにほかならないと結論を下してもよいのかもしれない」(p. 248)と指摘されていました。

この論文で述べられていたことを文学読解に置き換えると、たとえばどちらの半球で最初に処理するか、性別による文学読解の差異、など非常に多くの新たな問いが浮かんできます。知的好奇心を揺さぶってくれるとても面白い論文でした。

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2012年8月28日 (火)

J.レヴィ(2000).「大脳皮質の非対称性と美的経験」(森下正修(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

大脳皮質の機能の非対称性がどのように美的経験と関係しているかが述べられていました。

レヴィ,J.(2000).「大脳皮質の非対称性と美的経験」(森下正修(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 207-232).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者は、一方の半球が美的経験に決定的な反応を優位に示すということはなく、「両半球の処理過程の統合によって可能になる」(p. 212)というスタンスで議論が進められています。ただし、両半球にはバイアスがあり、「左半球は時系列的なプログラムにバイアスされており、右半球は空間的表象と構成にバイアスされてい」(p. 213)ます。なお、右半球の優位性は、「線分の方位、曲率、ランダム多多角形、ドット・マトリクス中の水平・垂直方向の直線、視覚信号の空間市、立体手がかりからの奥行きの弁別、共有する不変項からの幾何的、位相幾何的な図形の内包、外包の判断、統一的、断片的な図形内の類似・非類似の弁別や、イメージ表象、空間位置関係の心的変換、全体的形状の統合と融合を必要とする他のさまざまな課題においてみられる」(p. 213)そうです。また、左半球は聴覚優位、右半球は視覚優位というバイアスもあるそうです。そして、それぞれの情報処理においては、「それぞれの半球は同一の入力刺激を異なって処理し、感覚刺激をそれぞれに特有の表象的な戦略という視点から再組織化するということが示唆される」(p. 216)と述べられ、「健常な脳によってつくられる現実のモデルは、それぞれの半球でおこなわれる表象的戦略の単なる足し算とは質的に違う」(p. 216)と主張されていました。

また、右半球は情動の経験・表現・弁別においても優位だということが知られています。事実、右半球を損傷すると、人は発話の情動的な抑揚を失うことが分かっています。しかし、両半球は関係しあっており、「右半球の多くの複雑な入力情報を全体的な形にまとめあげる傾向が、情動的な経験を精緻にしたり促したりするのに決定的な役割を果たしていること、また左半球の経験を要素的に分析し時間順序をもたせ、細部を厳密にまとめあげる傾向が、情動的な藩王を調整したり緩和したりすることに役立つ」(p. 218)というタッカーの考えを引用し、「二つの半球の認知的・情動的特性は密接に関連しており、認知機能の特殊化において相補的であるように、情動の調整においても相補的であることわわかる」(p. 218)と述べています。また、「時空間における形・関係・心的表象や抽象の生成は、…情動がかかわるときに最適となり、おそらくは美的創造が生れるのはこの最適状態においてであろう」(p. 218)と主張されていました。

当然、「音楽、絵画芸術、文学や詩において、両半球と関係のある認知的な過程と情動的な過程が統合される必要がある」(p. 218)わけですが、このことは芸術だけでなく、科学にも当てはまります。著者は「芸術家にとっても科学者にとっても、努力の中心となることがらは、美と調和をもつ心の構築物の探求であるといえる」(p. 219)と述べていました。

更に、「美的経験を特徴づける心的な構築物が、両側の脳の密接な協力を必要としていることは明らかなようである。そして、芸術家が普通のひとよりも際だって半球間の統合の能力が優れていると考えるのは不合理ではない。おそらく、芸術的な創作活動に不可欠な脳の処理過程は芸術家のほうがより両側的に表現されており、芸術家は両半球が相互連絡するための共通の場をより多くもっているであろう」(p. 220)という主張が展開されます。このことは、同じ症状であっても、芸術家の方が一般人よりも特定の技能の低下が少ないという調査結果に基づいたものです(例えば、画家は、一般人よりも、右脳に障害を負ったとしても絵を力の低下は少ないという報告があります)。この議論は、「一般人では片側の大脳半球に強く優位性の見られるプロセスを、芸術家は両側の大脳半球で表現しているとう解釈がより妥当であると私は思う。障害の経験を通じて、芸術家の両半球が類似しているため、左右半球間のコミュニケーションが特に親密になり、それによりさらに対称な組織がつくられていくのであろう。右半球は、左半球に得意化されている表象方略を高い水準で備えるようになり、左半球もまた右半球に特殊化されている表象方略を高い水準で備えるようになったのである。このように脳の両側が芸術的相さうに必要な機能や形態、方法を発達させたことにより、大人になってから一側の半球に脳損傷を受けても、健常なほうの半球が芸術的な能力を支えるのであろう。そうした能力は、その半球がもともと持っていたものと、もう一方の半球との共同作業の中で発達したものとが合わさっているのである。」(p. 221)、とまとめられていました。

最後に面白い調査結果が示されていました。笑顔と真面目な顔を左右半分ずつくっつけた写真では、左側に笑顔がある場合の方が右側にそれがある場合に比べて、右利きの人はその写真が楽しそうに見えるそうです。ただし、興味の中心に関しては、左右で非対称的な画像であればあるほど、右側に興味の中心が配置されている方が好まれます(右利きの人の場合です)。これは空間配置が問題となるので、一般に左に配置されている方が好まれるような気がしますが、著者は「刺激のもつ非対称性が、生得的にもっている近くの偏りを補うからであろう。それに対して左により配置されたものは、刺激自体と知覚の非対称性が合わさって、画像の内容が左端から落ちていくような知覚を生み出してしまう。」(p. 229)と解釈していました。そして、「右半球だけが美的反応を担っているわけではない。むしろ脳自身のもっている注意の偏りが刺激の特徴をとらえる知覚のフレームを形づくり、近くのバイアスを補って、調和とバランスの感じを生みだし、より好ましいと感じられるのである。これは、右半球よりも左半球にとってより処理しやすい右側に関心を引く対象が置かれたときにのみ、可能となるのである。」(p. 230)と述べます。もともと、傾いている天秤をより水平にするにはどうすればよいか、ということをイメージするとこのことは理解しやしです。そして、このことは、右半球をより活性化させるようは情報は、かえって右側に配置した方がより美的に感じられるということを意味します。そこで、著者は、8歳児に、幸せな絵を悲しい絵を書くように指示したところ、幸せな絵の方が悲しい絵よりもその感情対象が右側に描かれることを発見しています(幸せの方が悲しさよりも右半球の覚醒水準が低い)。

この論文も文学読解自体を対象とした論文ではありませんでしたが、これからの研究に対して多くの示唆を得ることができました。

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2012年8月27日 (月)

I.レンチェラー,T.カエリ,&L.マフェイ(1988/2000).「美の情報処理」(安藤新樹(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

「芸術における絵画スタイルの発展が脳内での多様な知覚表現に対する焦点の移動と関係してる、という指摘」(p. 203)がこの論文の主張です。美術に関する論文ですが、文学読解研究にも多くの示唆がありました。ここでは、私が文学読解研究にとって重要と考えたことのみを紹介します。

レンチェラー,I.,カエリ,T.,&マフェイ,L.(2000).「美の情報処理」(安藤新樹(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 167-206).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者は、人の視覚は脳内の様々な領域で別の形で表象され、それが統合されることで構成されますが、作家は視覚の中に含まれる特定の資格表現に注意を払い、結果として画風を作り上げていると述べます。言い換えると、「美術は脳内の視覚表現の同様な次元によって評価できると考えられる。画風が違えばそれらのマップ間やマップ内の強調点に差があるわけである。」(p. 180)と言えるそうです(同様な議論はp. 198でも述べられています)。また、「伝統的な見方に何かを加えることによって画家が創造的になるのではなく、むしろ画家の現実概念にとって不適切な情報を取り去ることによって創造的になるのだと指摘したい。」(p. 188)と主張されていました。また、絵画が美的であると判断されるためには、それを見る人がその作品との美的なかかわりを共有しなければならない(p. 205)と述べられ、この辺りは文学の経験的研究の立場とほぼ同じであると感じました。

この論文の中で、アブラハム・モールズとマックス・ベンスが発展させた情報美学のことが述べられ、視覚情報美学の限界点に触れてありました。私はまだ情報美学はあまり勉強していないのですが、特に文学読解とのかかわりで、時間を見つけて勉強してみようと思いました。

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2012年8月25日 (土)

岡ノ谷一夫(2008).「動物の音声コミュニケーション」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

動物の音声コミュニケーションについて整理し、そこから人間の言語、さらには言語の起源について示唆を得るという壮大な内容の論文でした。著者の他の論文を以前読んだのですが、前回同様内容が非常に濃厚で、たくさんのことを学ぶことができました。ここでは、特に私が関心を持ったことについてのみ触れたいと思います。

岡ノ谷一夫(2008).「動物の音声コミュニケーション」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 79-112).東京大学出版会.

感想:著者は、最初に音声コミュニケーションとはどのようなものであるのか、その基本的な内容を整理します。まず、動物行動の研究分野でのコミュニケーションの定義として「発信者が受信者の行動に影響を与えることにより、結果的に利益を得るような、動物どうしの信号の伝達のこと」(p. 79)という点が紹介されます。また、コミュニケーションで伝達されるのは意図と内容があり、常に内容が伴うと考えるべきではないこと、近年の若者のメールのやり取りは内容というよりも意図を伝達するコミュニケーションとみなすべきだという主張があること、が指摘されていました。なお、意図伝達のコミュニケーションとは、「その信号によって具体的なメッセージを伝えるものではなく、信号を出すという行為そのものが、親和性や敵対性を伝えるようなコミュニケーション」(p. 79)だそうです。さらに、よく言われることですが、動物がコミュニケーションで使用する信号は、ほとんどがイコンないしはインデックスであるということも確認されていました。また、著者によると、音声コミュニケーションは現存する脊椎動物のすべての網(魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類)、で確認されており、かつ聴覚と痛みを連合させることは視覚とそれを連合させることよりも簡単であることから、コミュニケーションの手段としては非常に原初的であること、音声コミュニケーションは「苦痛や危険を伝える方法としてよりも、求愛の方法として」(p. 82)開花したこと、が指摘されていました。また、言語の定義として、「象徴機能を持つ記号列(単語)を、限定された順番(文法)で結合して、森羅万象との対応をつけるシステム」(p. 82)と定義し、動物の記号体系とは大きく異なること(たとえば、サバンナモンキーは動物の「ことば」としてよく引用されるそうですが、地理的に離れたサバンナモンキーであっても同じ記号を使うため、社会的な約束事というシンボルとしての体をなしていないそうです)が説明されていました。

次に音声コミュニケーションがどのような神経学的仕組みによって成立するのかが説明されていました。ここでは、この論文自体が非常にコンパクトにそのメカニズムをまとめてあったので、その内容を要約することは避け、私がとても面白いと感じたことのみを紹介します。まず、発声に関しては、(a) ソース・フィルター理論、(b) ほとんどの脊椎動物で発声は発声に大脳が関与しない(中脳から下のレベルのみが関与)のに対してヒトと鳥類では大脳皮質運動野の細胞の軸索が中脳と延髄に連結しており、生得的な発声以外に学習を必要とする発声を行うことと強く関係していること、が面白いと思いました。聴覚のメカニズムについては、「脊椎動物において音を受容する器官は、抹消においては種の多様性が大きいが、中枢においてはほとんど同じ構造が種を超えて保存されている」(p. 86)ことがとても興味深かったです。また、発声と聴覚の相互作用による現象として、音圧の調整(ここではランバート効果が紹介され、これは脳幹のレベルの反射として説明されているようです)、ピッチの調整が紹介されていました。さらに、魚類、両生類、爬虫類、鳥類、哺乳類の音声コミュニケーションでこれまで研究されている事例が紹介されており、とても面白いです。特に両性類は、「感覚便乗」仮説という考え(p. 92)がとても興味深かったです。

次は、特に鳥類を中心として、発声の後天的な学習(たとえば九官鳥のものまねなど)についてこれまで分かっていることが整理されていました。ここでも、この論文自体がすでに簡潔な説明となっているため、ここでそれをさらに要約することは避け、私が面白いと感じがことについて述べます。鳥の歌制御系のシステムの詳細は本論文を直接ご参照ください。さて、私が面白いと感じたのは、(a) 鯨の音声には方言が存在すること、(b)鳥類とヒトの発声学習はそれぞれ独立して発達させていること、(c)鳥類の中でも発声学習をする種類は限られており、進化の過程でこの特性を消失している種が多いこと、です。また、前回のこの著者の論文を読んだときにもとても興味を持ったのですが、ミラーニューロン(自分がある意図を持って行動した場合と、他の個体が同じ意図をおって行動する場面を見た場合と、両方の場合で同様に応答する神経細胞)の話はやはりとても面白かったです。ヒトはブローカ野でこのような特性をもっているそうですが(ミラーシステムと呼ばれています)。今回、ヒトはこのようなシステムを持っているからこそ、文学作品を読んで感情移入ができたり、人の意図した意味(語用論的な現象)が理解できるのかも、と思ったりしました(もちろん、これは単純に私が感じただけで、議論にはかなりの飛躍がありますが)。また、鳥類にも喃語期があること、さらに喃語期と成長期では歌制御の仕組みが異なっていること、も興味深かったです。

最後に、著者は言語の起源について考察します。著者は前適応説を採っており、この説の説明として、「前適応説では、言語を1つの認知機構として扱わず、言語を構成する要素となる下位の認知機構がいくつも融合して出現した、融合機能であると考える。そして、それぞれの下位機能は漸進的に少しずつ自然淘汰で進化してきたが、それらが融合して言語を成したのは進化の歴史から見れば一瞬の出来事で、融合の過程自体には自然淘汰は関与しない」(p. 104)と述べています。また、ウェルニッケ-ゲシュビント・モデルを紹介し、そのモデルを評価しつつも、「このモデルで定義された領域すべての損傷が必ずしも失語に関与しないこと、実際の損傷例と障害との対応は個人によって差があることがわかっている」(pp. 105-106)とし、このことは「そもそも大脳皮質の機能分担は個人差があること、また、損傷後に失われた機能を補償する方法にも大きな個人差があることから生じる」(p. 106)のではないかと述べていました。また、近年の研究でブローカ野の中でも特にブロードマンの44野が文法に特異的に関与しているのではないかということを示す研究が発表されているそうですが、この44野の雛形ともいえるべきものがアカゲザルに確認されること、ウェルニッケ野相当部位がチンパンジーに見られること(ただし、ヒトと同じような働きをしているかどうかは分かっていないそうです)、ウェルニッケ野と同じような働きをしている部位が鳥類に見られること、ブローカ野と同じような働きをする部位も鳥類に見られること、が紹介され、ヒトの言語も動物の音声コミュニケーションと共通点があることが示されていました。また、著者はウェルニッケ野やブローカ野は聴覚領域と発声領域にはさまれていたり、それらの部位と直接連絡を持っていることから、「言語とは、聴覚情報処理と発声制御中枢との狭間に生成した新たな機能なのだといえよう」(p. 110)とし、著者が提唱する前適応説の仮説が提示されていました。

通常、言語学の領域で動物コミュニケーションのことについて述べる場合は、いかに人間の言語システムが優れているのかということに集中しがちですが、この論文では人間の言語システムと動物の音声コミュニケーションの共通点というものが重視されていて、言語に対してこれまであまり重視されていなかったさまざまな側面が浮き彫りにされ、とても斬新でした。また、個人的に差分法のことが詳しく述べられていたこと(pp. 107-108)はとてもありがたかったです。

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2012年8月24日 (金)

G.バウムガルトナー(1988/2000).「視覚的な美と生理的制約」(苧坂直行(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

視覚芸術の生物学的基盤としての視覚システムの特徴を、当時の研究成果をもとに記述している論文です。主に絵画が関係する研究なのですが、この論文で、文学読解の研究にとっても重要な指摘がされていたので、ここでその部分に限ってまとめておきたいと思います。

バウムガルトナー,G.(2000).「視覚的な美と生理的制約」(苧坂直行(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 149-166).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者は、「美的体験というものを「科学的にはとりあつかえないもの」と考えるにしても、その前提となる性質については調べることができるだろう」(p. 151)とした上で、さらに「美的体験への生理的制約は、…美そのものを説明する企てと理解されるべきではない」(p. 151)と述べます。この主張は、現在の私の研究の前提としてしっかりと認識しておかなければならないことだと思いました。また、「美的体験は生理学的制約があるというとき、美的経験の生物学的重要性の問題にも直面することになる。それなら、美的事象は肯定的な経験であるから、生物学的に報酬となると言えると仮定するかもしれない。誰でも報酬となる刺激が好まれることを知っている。美的感覚は知的にも情動的にも報酬的でありえるし、また両者は結びついている。これもすでにカントが指摘している考えである。情動的な要因は、新皮質の下部にあり脳幹をつつんでいる部分である大脳辺縁系とよばれる皮質領域のはたらきと深くかかわっているようである。」(pp. 165-166)という主張も大切です。なお、ここでカントの話が出てきていますが、著者はこのこと以外にも、「刺激は、視覚情報処理の内的なメカニズムが好む特徴によって選好されるということを示している。このことはまた、そのようなタイプの刺激が肯定的な美的事象を構成するということも示していることになる―カントの、形は、もしそれが知覚のプロセスを促進するならば美しいと判断される、ということばを思いおこさせる。」(p. 165)という点でも言及されており、カントの考えが脳科学的に当を得ていたと考えられていました。

私は文学の読解に関心があるので、この論文の中身自体は少し話がずれるのですが(もし関心のある方はこの論文そのものをお読みください)、ここで言及されていた研究の前提などはとても大切だと思いました。

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酒井邦嘉(2011).『脳を創る読書 なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』を読む(実業之日本社)

一般書ですが、脳科学の観点からの紙の本の読書の重要性が説かれており、とても面白く読みました。

酒井邦嘉(2011).『脳を創る読書 なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか』.実業之日本社.

感想:非常に膨大な情報量が含まれている本でした。ここでは、とりあえず私が特に面白いと感じがことを中心に述べたいと思います。とても読みやすく、かつ啓発的な本ですので、関心のある方はぜひ一読されるといいと思いました。まず、本書の章構成は以下の通りでした。

はじめに:それでも「紙の本」は必要である

第1章:読書は脳の想像力を高める

第2章:脳の特性と不思議を知る

第3章:書く力・読む力はどうすれば鍛えられるのか

第4章:紙の本と電気書籍は何がどう違うか

第5章:紙の本と電子書籍の使い分けが大切

第1章では、脳内の言語処理に関する背景知識が導入されており、著者が提唱している「言語地図」の簡単な説明がされていました。著者の言語地図では、読解を司る領域は左脳の前方に位置付けられています。そして、彼が示した言語野は、活字のようにインプットの情報量が少ないものであればあるほど、活発に不足している情報を想像して補うことになると述べられています(p. 21)。逆に、出力の情報量が多い場合にも、脳は想像して情報を多く補いながら言語産出を行うと述べられています(p. 38)。そして、「脳の想像力を十分に生かすためには、できるだけ少ない入力と豊富な出力を心がけるとよい」(p. 39)と述べ、読書と会話を楽しむことが重要であると主張されていました。

第2章は生成文法の説明に多くのページが費やされていました。また、音楽の楽譜に関しても言語同様に樹形図を書くことが可能であることから、音楽は言語の延長線上にあると述べられていました(だからこそ、Jackendoff (1987) や Lerdahl & Jackendoff (1983) でGeneral Theory of Tonal Music (GTTM)が研究されたのでしょうね)。次に、美について述べられています。著者によると、美しい文章や美しい言葉は、「単純であること」(p. 66)、「均衡のとれた文章であること」(p. 67)、「意外性が含まれていること」(p. 67)が条件となるようだと述べていました。また、非対称の美も存在するのですが、それはあくまでも対称性が基本として備わっていてはじめてその美が感じられると指摘されていました。他には、「左脳は論理、右脳は感性」という議論には慎重になる必要があること(論理や感性の脳における座がまだわかっていないし、左右の半球間での違いはせいぜい言語機能ぐらいしか分かっていないため)、右利きと左利きの人でどちらが優位半球となるかの割合が異なっていること、分離脳患者を使った研究が原因で両半球間の機能の違いが拡大解釈されてしまったこと、などが説明されていました。特に最後の点に関して、「多くの場合、大脳の神経結合は活動を抑制する結合となっており、左脳が優位であるときは右脳は基本的に抑制された状態にある。そういう状態では右脳が本来持つ機能が隠されてしまうのだ。左脳に損傷がある患者の場合、右脳の活動が高まる例が多く報告されている。その場合、それまで右脳を抑制していた左脳が損傷したため、右脳が抑制されることなく活動し始めた可能性がある。」(pp. 77-78)ということから、脳梁で両半球の連結が保たれている人を使って半球間の機能の違いを調べることは難しいという指摘はとても面白かったです。また、脳には先読みする能力が先天的に備わっていること(これはヒト以外の動物にも備わっているとされています)、人は文章を読むときに登場人物に対してモデルを作り、その思考や次の行動を創造によって予想することによって、行間を読むことを可能にしていること、も指摘されていました。

第3章では、明治時代の仮名漢字廃止論(日本語のローマ字書きの提案)が簡潔にまとめられていました。ただし、現在の日本語教育でたまに見られるローマ字書きの主張とは全く異なるものであることが指摘されていました。明治時代は、「西洋の知識を積極的に取り入れ、日本語との融合を図っていくための切迫した必要性」(p. 117)を反映したものであったのに対して、現在は外国人でも簡単に日本語の読み書きができるというような効率性や経済性を反映したものであると説明されていました。著者は日本語教育におけるこのような主張には反対しており、「人間の言語の本質を追求し、その多様な表現手段を(漢字仮名表記もローマ字表記も)最大限に保障することのほうがはるかに大切だ」(p. 118)と主張されていました。また、私たちはあるテクストが文学作品であるとか説明書であるとかいうふうに知らない間に分類して読んでいること、女性は行間を読む能力に長けて男性は論理的な理解力に長けている傾向があること(ただし、個人差がこのような性差を上回る場合もある)、人は一日に約1万6千語ほど話すということ、が紹介されていました。

第4章と第5章は私の研究とは少し外れることですので、ここでは詳しいことは述べませんが、著者は基本的に紙の本と電子辞書が共存してくことが重要と指摘しています(両者にはそれぞれ違ったよさがあるため)。それでも、本の内容からいっても、紙の本のよさや重要性の説明にかなり多くのページが費やされています。また、第5章で、音楽を聴く上でどんどんと音質がよいソフトやハードが出てきているにもかかわらず、古いもの(蓄音機など)に魅力を感じてしまうのは、その情報量が少ないために脳が想像力で音を補っているからであろう(第1章で述べられていたことです)という説明はとても面白かったです。

気軽に読めて、かつ新しい発見のある本ですから、おすすめです。専門知識も必要ありません。

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2012年8月23日 (木)

F.ターナー&E.ペッペル(1988/2000).「韻律詩、脳、そして時間」(上村保子(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

詩の韻律と脳の聴覚処理の関係について論じた面白い論文です。

ターナー,F.,&ペッペル,E.(2000).「韻律詩、脳、そして時間」(上村保子(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 49-75).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者によると、「人の神経系には世界について確かな、筋の通った、一貫した、まとまりのある、予測力の高いモデルを構成しようとする強い動因がそなわって」(p. 55)おり、文化的に普遍性があり、「最古の、古代的、原始的な文化の要素をにも見て取ることができ」(p. 56)、「祈祷師たちによって、ほとんど魔術的なインスピレーションと知恵の源とみなされ」(p. 56)、「教育とか、戦争や協同的農業など大規模なプロジェクトの組織化とか、性、出生、死、病気などに潜在的に含まれている危険なエネルギーや有益なエネルギーを社会的に有用なものへと振り向けるさまざまな儀式のように、独創的な思考や複雑な計算という高度な能力を要求する社会的・文化的活動と結びついている」(p. 56)ものが、心のその統合力(モデルの構成)を促進してきたと述べます。そして、その最も重要なものの1つに韻律詩があると指摘します。韻律詩はここであげられたすべての特徴に合致する促進剤と言えます。

著者は韻律詩の普遍的特徴についてまとめます。まず、韻律詩はライン(行)から構成され、各ラインの発音にはおよそ3秒ほどかかり、そのリズムは人に快感覚を与え、記憶の助けともなると述べます。2点目として、パターンの反復があること、3点目として韻律パターンの一時停止およびそのパターンに斬新なひねりを加えて人を驚かすと言う特徴(文体論でいうところの内的逸脱ですね)、が挙げられていました。そして、「韻律パターンは、類推的構造の要素であって右大脳半球で理解される。それに対して、言語としての詩は、おそらく左大脳半球で処理される。もしこの仮説が正しいとすれば、韻律は右脳の処理を、言語理解をおこなう左脳の活動へと導く一つの方法ともいえる。言い換えれば、高度に文化と結び付いたわれわれの言語能力を、人間にも他の高等動物にも共通で、言語能力と比べればより原始的な空間パターン認知能力とつなぐ一つの方法なのである。」(p. 58)という仮説を提示していました。

さて、先ほど、多くの文化の韻律詩で、1行の発音に3秒程度時間がかかるということを述べましたが、実は人間の聴覚も3秒程度情報を聞き続け、一度中断して、その情報を統合し、また3秒聞くというような形の情報処理をしているという研究成果が示されていました。つまり、詩の1行が3秒程度発音に時間がかかるのは、脳のそのような性質を反映したものであると考えられています。また、韻律詩のリズムは読者がそのリズムの中で使用されている単語自体を忘れたとしても、リズム自体が記憶に残っているために、「われわれが詩を初めて聴いたり読んだりした心的状態を回復するのを助け、記憶の扉を開く。そしてことばが直ちに戻ってくるのである。」(p. 64)と述べ、記憶を助けることになると説明されていました。

また、詩と脳の関係についてまとめられています。まず、著者らはバーバラ・レックスの「「駆動行動」として一般化されている心的状態の変化をもたらす種々の技術は、左脳の、線形的で分析的かつ言語的な資源に、より直感的で全体的な右脳の理解を加えるよう設計されている。また、中枢神経系を調整し、累積したストレスを緩和するものである。さらに、社会的連帯と文化的価値を促進するよう、交感神経系と副交感神経系により媒介される強力な身体的・情動的な力と、それらが統制する向作業性および向栄養性反応をもたらすように設計されている。」(p. 65)という立場を紹介し、なぜ人は韻律詩を持ち、かつ好むのかということを説明しようとしていました。次に、韻律詩は、その仕掛けによって行と行の間に類似性をもたらし、反復を強調しますが、このことによって読者は穏やかな催眠状態になり、「リラクゼーション、世界に対して抱く全体感」(p. 66)を感じると述べられていました。また、聴覚的駆動は左脳よりも右脳に強力に影響するので、散文はモノラル・モードで伝わり、主に左脳に影響するのに対して、韻を伴う言語はステレオモードで伝わり、「左脳の言語的資源と右脳のリズムにかかわる潜在力を同時に呼び起こす」(p. 66)とも述べられています(単に同時に両半球が働くのではなく、両半球での作業が統合される(韻律詩の処理は右脳と左脳の協同作業となる)ことになります)。さらに、韻律詩の理解において、引喩と象徴を認知する活動が伴う場合は、占いなどの予言的行為と類似が出てくるという指摘がされていて、面白かったです。

脳の皮質のレベルでは、韻律詩は「脳に、リズムの体制化されたシステムと一定の範囲内での意味的および統語的可能性を与えることによって、脳の仮説構成という統合的かつ予測的な活動を鼓舞し、同時にすぐさま心地よい満足がもたらされるだろうという期待をおこさせる。その意味で詩の内容には、しばしば、強い予言的性格-詩のもつ予測的機能を明白に示している-がある。そして、詩の神話的要素はなすべきことの導きとなって、未来の精妙なモデルとなる。詩は時間的にもリズムのうえでも、また言語的にも階層性をもつシステムを脳に呈示するがゆえに、脳自身の階層的な体制にかなう。それは、情報をリズムのあるパルスに体制化し、種々の異なる型の情報-リズム的、文法的、語彙的、聴覚的情報など-を容易に同化しうるまとまりへと統合し、それらがある同一物に属すことを示すために命名するという、脳がそれ自体通常おこなわねばならない作業によくかなっている。」(p. 68)と述べています。また、韻律詩の喜びは、「脳の自己報酬的能力を刺激するという力に由来」(p. 68)していると述べられています。脳は、真・善・美という特性を備えたモデルを好むそうですが、これらはまさに詩が扱ってきたトピックでもあります。「詩は左脳の時間的体制化と右脳の空間的体制化の協調を強め、われわれが真の理解と呼ぶ統合された「ステレオ」世界の見方をもたらす。・・・それは、美と優雅とまとまりを生むに生産的であり、世界を強力に予測するモデルなのである。」(p. 68)と述べられてました。

次に皮質下のレベルについてですが、韻律詩には、「生物生理学的ストレス低減(平和)と社会的連帯(愛)」(p. 70)にも寄与すると述べます。「韻律は明らかに話し手と聴き手を同調させるばかりでなく、聴き手を互いに同調させ、その結果、・・・一つのリズミカルな、共同の行為へと発展する可能性をもつ共同体をつくりだす。」(p. 70)と説明されていました。また、記憶についても、「韻律自体が、人が最初にその詩を聴いたときの脳の状態をひきおこすことができ、それゆえ直ちに細部にわたってことばを想起させることができる。」(p. 71)と述べられていました。

著者はこの論文の内容を次のように要約しています。「韻律詩は文化的に普遍であり、その顕著な特徴である3秒のラインは、聴覚情報処理系における3秒の現在に同調している。韻律の変形という方法により、右脳の音楽的・絵画的能力が左脳の言語的能力と協力し合う。聴覚的駆動効果により、神経系の下位水準が詩の認知的諸機能を強化し、記憶を改善し、生理学的・社会的調和を推進するように駆動される。韻律詩はわれわれの時間に対する、より微妙な理解を発達させるのに重要な役割を演じ、それによって、真・善・美といった価値によって世界を意味づけるという、人間に特有の傾向に集中しそれを強化するような技術として作用するであろう。韻律は、左半球の二つの小さな領野内に幽閉された言語的表現と鑑賞を解放し、脳全体にエネルギーをもたらす」(p. 71)(このレビューではあまり触れていないことも書いてありますので、詳しくは本論文自体をご参照ください)。このことは、フィリップ・シドニー卿に代表されるような「詩は「喜びによて教示する」」(p. 71)という古くから言われてきた考えが正しいことを裏付けるものであるとも考えられます(この章では、この考えに対して、モダニズムやポストモダニズムは神経学的には芸術の本質に逆らうものであると批判されていました)。また、韻律詩に比べて自由詩は脳全体を活性化する利点を欠いているということも強調されていました。

最後に非常に興味深い教育的示唆が述べられていたので紹介します。「もし若者の精神の力を十分に発達させようと願うならば、良質な韻律詩に早い時期から絶え間なく接する機会を与えることが必須である。というのは、高い人間的価値、パターン認知と一般化の認知能力、愛や平和などの肯定的情動、さらに時間とタイミングへの洗練された感覚などは、すべて詩によって発達するからである。その上、われわれのもつ自民族中心主義の偏見は、他言語の詩を学び、韻律詩のもつ普遍性を認識することによって、ある程度は克服されるだろう。労働者階級と中産階級に対する実利的教育の振興が、出んつ的な民俗詩の喪失とあいまって、われわれの時代に政治・経済的専制の成功をもたらしたのももっともだと言えよう。詩の美しく複雑なリズムに飢えた大衆は、残念なことに粗野で過度に単純化されたリズムや全体主義的スローガンや広告文句などに感じやすくなっている。詩を用いた教育は、脳全体を同調させてはたらかせることのできる市民をつくるだろう。そうした市民は合理的思考と計算を、価値と責任とに統合させることができるであろう。」(pp. 74-75)

最後の教育的示唆は、英語教育自体にどの程度活かすことができるのか分かりませんが、詩の教育的価値を考える上で押さえておくべき重要なポイントだと思いました。

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2012年8月21日 (火)

I.アイブル-アイベスフェルト(1988/2000).「美の生物学的基礎」(野口薫(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

美には、多の種と共有されている側面、人間という種固有の側面、各共同体で異なる側面、があるということを述べたとても面白い章でした。

アイブル-アイベスフェルト,I.(2000).「美の生物学的基礎」(野口薫(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. 1-48).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:著者は、まずヒトが他の高等脊椎動物と共有しているバイアスが美の知覚に関係していると述べます。具体的には、「まわりの世界の中に秩序、規則性、パターンを求める」(p. 28)というバイアスです。実際に多くの生物でこの傾向が確認されているそうです。そして、特にヒトは、秩序を発見したいという衝動によって、対象物に隠されたメッセージの発見へと導かれると述べられていました(p. 7)。なお、「美的対象は、複雑すぎず、また単純すぎない程度の秩序をもつものでなければならない」(p. 6)と述べられていました。

次は、ヒトという種固有のバイアスについてです。著書によると、種は、系統発生的適応の過程で特定の刺激に対して対応する受容器を発達させており、各個体はこのような受容器を生まれながらに持っていると述べます。「私たちのデータ処理機構は、個人の安全にとって重要な外界の出来事にうまく対処するようにプログラムされている」(p. 19)ため、赤ん坊も特定の刺激に対して特定の反応をするということが見られます。また、一見ヒトが生きていく上では特に必要のないようなバイアスにも、それがヒトにとって必要なバイアスであることが分かりやすく説明されていました(例えば、ベビィ・スキーマなどが議論されていました)。

第3に、各文化に固有なバイアスが議論されます。これまでの生得的なものと異なり、「幼少時代に学習され、後になって全体としての文化によって用いられる。これは自分の属する集団のきずなを深め、自他の集団を区別し、成員の行為を操作し、社会的基準や価値を強化する」(p. 28)ものと説明されています。そして、著者は「芸術は強化のメディアとなる」(p. 29)と述べています。芸術の中に埋め込まれたメッセージの内容が徐々に芸術の受け手の中に刷り込まれていくことになります。

次に、音楽、ダンス、詩、を取り上げ、これらで上記の3つのレベルのバイアスが利用されていることが指摘されていました。ここでは、詩のみを取り上げます。詩ではメタファーやリズムが巧みに使用されており、読者(聞き手)はそのテクストの中にパターンを見つけようとします(高等脊椎動物と共有するバイアス)。さらに、ヒトは明暗で明るい方を肯定的に捉え、後者を否定的に捉えるというような反応をし、このような反応は作品の中で活用されることとなります(ヒトの種に固有のバイアス)。また、テクストの中に隠されたパターンを発見しようとする結果として、そのメッセージも発見しようとし、結果としてそのメッセージが読者の頭の中に強く残ることになります(各文化に固有なバイアス)。ある特定のメッセージを教化する手段として詩が使用されてきました。

著者は、「芸術は、社会的なリリーサーおよび美的なアピールで化された文化的シンボルによって、メッセージを伝えるコミュニケーション・システムにおいて機能する」(p. 2)と述べ、「注意を引きつけ、保持し、感覚的探索を誘い、コード化されたメッセージの発見に導くが」(p. 48)、このことは芸術の受け手に快楽を感じさせるため、「そこで発見されたメッセージは教化される」(p. 48)ことになります。このことは、文化的価値や倫理などを教え込ませるのに都合がよく、芸術は教化のメディアとして利用されてきました。また、ヒトは「芸術それ自体のために、調和と美の経験をただ楽しむために、また恐ろしい思いや悲しみを味わうスリルのために、芸術を創り出す」(p. 47)快楽追求も可能であるという大きな特徴を持っているとも指摘されていました。

最後に、p. 33で述べられていた、石斧が、それにさらに労働が投資されることで、石斧の本来の機能的価値を失い、装飾的な斧となるという話に非常に興味を持ちました。「本来の機能を果たすにはあまりにも価値あるものとな」(p. 33)ってしまい、物の芸術化が起こると考えられています(ケーニヒは「ユニフォームの生物学」と呼んでいます)。私は、携帯電話が最初は(私が大学生の頃)非常に地味な機種しかなかったのが、徐々にファッション性に富んだ機種が出てきたことを思い浮かべながらこのことについて読みました。

少し最後は脱線しましたが、とても刺激的な章でした。もう古くなってしまった文献ですが、ここで議論されている事柄は文学者や言語学者にはあまり知られていない事柄であると思います。現在でも読む価値が非常に高い論文であると思いました。

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I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー,&D.エプスタイン(1988/2000).「序文」(苧坂直行(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

本書の原著が1988年に出版された際の序文です。重要なことが述べられていたので、ここにメモしておきます。

レンチェラー,I.,ヘルツバーガー,B.,&エプスタイン,D.(2000).「序文」(苧坂直行(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. iii-v).新曜社.(原著は1988年出版)

感想:以前から美についての研究は哲学の仕事であり、経験科学では真実には近づけないという考えがあったそうです。しかし、神経科学によって脳の研究が進展するにつれて、従来は哲学の仕事されていたような心の問題が、神経科学でも考察されるべき課題へと変化してきました。本書は、神経科学者、心理学者、人類学者、哲学者、画家、音楽家、詩人が1979年から1983年にかけてドイツのウェルナー・ライマース財団で「美的判断と創造性に生物学的な側面があるかどうかという問題について議論した」(p. v)成果がまとめられたものだそうです。

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I.レンチェラー(2000).「心のユニークなはたらき―日本語版への序文」(苧坂直行(訳))を読む( I.レンチェラー,B.ヘルツバーガー&D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』,新曜社)

芸術を生物学的に考察する興味深い本の日本語版への序文です。

レンチェラー,I.(2000).「心のユニークなはたらき―日本語版への序文」(苧坂直行(訳)).In I.レンチェラー・B.ヘルツバーガー・D.エプスタイン(編),『美を脳から考える 芸術の生物学的探検』(pp. i-ii).新曜社.

感想:本書の原著が1988年に出版された際、「生物学的アプローチでは芸術の本質をとらえられない」(p. ii)というような反応があったそうです。しかしながら、「ヒトの美的判断がシンメトリのような刺激の物理的規則性によって影響されること、しかしそれだけでなく、かたちについての主観的評価にも依存していることを示し」(p. ii)、芸術が生物学的本質に大きく関係していること、及びそのような研究アプローチの妥当性を示していると述べられていました。

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2012年8月20日 (月)

C.F.Hockett(1958).「Chapter 63: Literature」を読む(『A Course in Modern Linguistics』,Macmillan)

アメリカ構造言語学停滞期に活躍した有名な言語学者が文学をどのように考えていたのか知りたくなり、この文献を読みました。サピアらから続くアメリカ・インディアン語の研究の影響も感じられるとても興味深い議論がされていました。

Hockett, C. F. (1958). A course in modern linguistics. New York: Macmillan. (今回読んだのは、Chapter 63: Literature)

感想:言語学者は、文学の言語と日常言語との違いを発見するという目的から文学というものに関心を寄せますが、ほとんどこの分野の研究は進んでいないと述べています(p. 553)。次に文学の定義ですが、 "In every society known to history or anthropology, with one insignificant exception, there are some discourses, short or long, which the members of the society agree on evaluating positively and which they insist shall be repeated from time to time in essentially unchanged form. These discourses constitute the literature of that society." (p. 554, emphsis in original) とされています。しかし、西洋では文学専門家が高く評価する文章は一般人が嫌う文章となりがちなので、文学の典型的特性に関する研究を始める出発点としては向いていないとしています。著者はアメリカ・インディアンのような、比較的小さくかつ同質的な共同体の文学から研究するのがよいと考えているようです。しかし、そのような共同体の中であっても、短い期間しか文学としての地位を持たない談話と、より長い期間その地位を保持するテクストがあることがあることに注意しなければなりません。また、吟唱と吟唱の間にどのようにその談話の形状が変化するのか、また変化しないものは何なのか、ということも考える必要があります。また、著者は重要なのは客観的な形式などの変化ではなく、話を聞く人々が変化を実際に感じるかどうかという点であるとも述べています。

次に、文学談話の特徴が述べられます。著者は、まずexcellence of speechという特徴を挙げます。確かに、文学はすべてこのような特徴を持っている傾向があります。ただし、著者が述べるように、この特徴を持っているテクストがすべて文学というわけではありません。2つ目の特徴は、special styleと述べられています。具体的な例として挙げられていたのは、文法項目の使用の違い(ただし、必ずしも文学とそれ以外で明確な違いがみられるわけではないとしています。しかし、仮に言語的な違いがなかったとしても、テクストの内容的には違いがみられるはずであると考えています。)、特定のタイプの登場人物に典型的な話し方をさせること(作品では、たとえば道化が道化らしく話すといった具合です)、extensive use of figure of speech、です。これらは3つはすべてlow-size levelの特徴です。より高次のレベルのことになると、研究社はstyleというよりもstructureという観点から考えるようです。しかし、こういった高次のレベルに対しても、より低いレベルでの分析ツールを使い、有益な分析ができると著者は考えています。 "A whole novel, we must assume, has some sort of a determinate IC-structure, its ICs in turn consisting of still smaller ones, and so on down until we reach individual morphemes. The terminological arsenal of the literary scholar applies, often very well, to the largest size-levels of this structure; that of the linguist applies equally well to the smallest size-levels; but there is at present a poorly explored terrain in between." (p. 557)

次に文学のタイプについて述べています。著者は、その文化圏内で行われている分類を明らかにする必要があると述べた上で、 "Whatever other sort of indigenous classification may appear in a society, the segregation of the sacred tale  from all other kinds is very widespread" (p. 558) と述べています。

次は散文と詩について述べています。著者は、詩の多くは韻形式のパターンに基づいて作成されますが、このこと自体が詩を定義するわけではないと述べます。著者は、 "Probably a better basic definition of poetic discourse is that in it as much as possible is made of the secondary associations of the shapes which represent morphemes, as means of reinforcing the obvious literal meaning of the words. The emergence in poetry of rhythm, rhyme, and assonance them comes about as one formal means to the end." (p. 559) と述べています。また、吟唱から吟唱の間に、詩は散文に比べて形状が変化しにくいという特徴がありますが、それでも必ず各吟唱において何らかの変化が加えられていることに注意する必要があると述べられていました。

次は、文字表記体系が文学にどのような影響を与えたのかが3点議論されています。まず、文字によって取りこぼされてしまう要素が多く出てきたという点が指摘されていました。そして、文字はこの取りこぼしを補う手段を発達させてきたとしています。その手段の例としてtypographicalな配列が挙げられていました。詩のような短い行区切り、あるいは具象詩のような独特の配列は、文字の限界を補うために発達したものと考えられています。次に2点目です。確かに文字によって文学が後代まで保存されることが可能となりましたが、残っているものが必ずしもその当時の人々にとって文学であったのかどうかは分からないということも気を付けなければなりません。さらに、言語は常に変化するものですので、詩の中に含まれるリズムや連想がすでに現在のその言語ではリズムや連想の体をなさないという場合も考えられます(口承文学であれば、吟唱されるたびにその当時の言語に合わせて調節がされるので、このようなことは生じないのですが、文字で記録されるとその段階でそのテクストは固まってしまうため、このような問題が生じます)。このことは、文字で記録される文学にとってはさけては通れない運命です。しかし、宗教的な動機から、この動きを遅くすることはできます(実際に、欽定訳聖書の英語はすでに現在では古い英語となっていますが、多くの人に好まれているため、その英語のリズムや連想がいまだに何とか機能しています)。最後に、authorshipの発現について言及されています。口承文学では、吟唱者はたとえそのテクストを過去から受け継いでいるとしても、そこに自己流のアレンジを加えるので、同時に創作者ともなります。文字のある共同体での文学においても、過去の作品を後代の人がアレンジすることがありますが、異なるバージョンが同時に残っており、しかも個々の作品は独自性を出そうとして、かなり大幅なアレンジが加えられています(口承文学ではそれほど大きなアレンジは加えられないと述べられています)。このような独自性を追求するところからauthorshipが発現したと著者は考えているようです。ただし、authorship自体は、文学の本質ではないということに注意する必要があるとも指摘されています(p. 563)。

最後に、偉大な作家がその言語を形作るということは誤解であるという著者の考えが展開されていました。著者にとっては、あくまでも "The "architects" of our language are not literary atrists, but the masses of people who use the language for everyday purposes. The greatness of a literary artist is not measured in terms of his stylistic novelty ... he can develop freedom and variety of expression within the constraints imposed by the language." (p. 564, emphasis in original) と述べられています。そして、シェイクスピアを例に、彼が使用した多くの言語は彼が作品で使用する前から使われていたこと、彼が作ったイディオムで現在も残っているものは特定の人々や特定の状況でしか現在は使用されないこと、すでに廃語となった表現もたくさんあること、を指摘し、言語を作るのは作家ではないことを強調していました。そして、文学の意義として、 "The literary tradition of a community ... is a vital mechanism in the training of the young in culturally approved attitudes and patterns of behavior; it serves to transmit the moral fiber of the community from one generation to the next." (pp. 564-565) と説明しています。最後に、アメリカ・インディアンの文学と西洋の文学に対して、 ""Marginal men," their aboriginal heritage undermined by the intrusion of Western ways, lose their literature-if the stories are remembered, the evaluations are gone-and the cultural orientation which it provides. Perhaps this is not unrelated to the peruliar state of literature in Western society itself." (p. 565) と述べている点が非常に印象的でした。

全体としてはかなり読みにくい内容でしたが(古い文献を読む場合にはこのようなことが多いのですが)、これまで私があまり考えたことがない視点(特にアメリカ・インディアンのような口承文学の観点からの議論の展開)が豊富に示されており、とても勉強になりました。さらに、Sapirの文学への議論の影響(言語の制約の中での創造的活動という考え)(p. 565)、アメリカ・インディアンの言語研究を重視したアメリカ構造主義言語学全体の特徴、文学理論への言及(p. 565)、アメリカ構造主義言語学の理論を使って文学を分析できるという見通し(p. 557)、についてはとても面白く読みました。

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