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2012年6月27日 (水)

A.Paran(2010).「Between Scylla and Charybdis: The Dilemmas of Testing Language and Literature」を読む(A.Paran&L.Sercu(編),『Testing the Untestable in Language Education』,Multilingual Matters)

文学教材を使用した際のテストについて様々なジレンマが提案されているのと、文学教材のテストの例が示してあります。どちらかというと文学教育の色合いが強く(著者自身は外国語教育のことも含めて考えているのですが、論文全体としては文学教育を意識したような言葉が目立ちました)、外国語教育の中で文学テストを使用する場合にはそのままの形で使えないものも多いですが、参考になる点も多いと思いました。

Paran, A. (2010). Between Scylla and Charybdis: The dilemmas of testing language and literature. In A. Paran & L. Sercu (Eds.), Testing the untestable in language education (pp. 143-164). Toronto: Multilingual Matters.

感想:著者はまず、外国語教育の中で文学テストを行う場合のジレンマとして6点指摘していました。1点目は、 "To test or not to test?" (p. 144) と述べられています。文学作品を題材にテストを行う場合、外国語教育の目的とテストの目的がかみ合わないときがあり、"In an ideal world, the answer to this would be a clear 'no'. Literature would have its place in the language classroom, it would serve its purpose in terms of the learners' personal growth; teachers and students would engage with literature, and it would achieve its role within language learning or language acquisition through continuous engagement and discussion. There would be no need to test it; what would be tested would be only the language learning that has resulted from engagement with the literature." (p. 145) と述べています。一方で、Brumfit (2001) が述べるように、 "if we want literature to be taught, in most societies, we have to put up with it being tested." (p. 93) ということがあるのも事実です。著者も、文学をテストすることについては仕方ないかもしれないとしながらも、その波及効果については注意をする必要があると述べ、 "what happens in reality is that the test is an all-powerful influence not just in shaping, but also in dictating the classroom behavior" (p. 146) と指摘していました。やはり、どのようなテストを行うのかというのが非常に重要になってくると思います。

2点目のジレンマは、"testing language or testing literature?" (p. 146) というものです。ここで、このジレンマを解消することが期待できるものとして、imaginative functionに言及がされています。しかし、著者は言語テストのBachmanも、この機能について自身のモデルの中で言及はしているものの、テストの中でどのような位置づけとなるのか具体的な考えは示していないとしています。次に、CEFRでどのように扱われているかが調べられています。確かにCEFRの中で言語の創造的または芸術的使用について言及はされていますが、それらはその枠組みの中では高度なレベルに位置付けられているとのことでした。次に、実際にテストを行う場合に、言語能力を測定しているのか文学能力を測定しているのか明確に決めて望まなければならないと述べます。文学能力のみを測定する方法として、言語を産出させない方法(Parkinson & Reidがこのような項目の提案を行っていますが、このようなものは彼らが提案している項目のほんの一部であり、ほとんどが言語の産出を伴う項目タイプとなっているそうです)か、産出をさせるにしても言語の正確さは一切に採点に影響させないようにするという方法が提案されていました。そして、 "Testers will therefore need to make a clear decision which of the two competences is being tested, what the relationship between them is, and, in cases where both are being tested, what the weightings should be." (p. 149) と述べています。

3つ目のジレンマは、"testing knowledge or testing skills?" (p. 149) というものです。ここで、Carter and Long (1990) が提案している、 "paraphrase and context"、"describe and discuss"、evaluate and discuss" という3つのタイプに言及し、3つともどちらかというと知識を扱った設問となっていると述べています。そして、知識を問うタイプの設問を扱った授業でテストを行う場合、 "flight from the text" (Short & Candlin, 1986) という問題が生じるとしています。このことは、演劇の台本を使用した授業を例にすると、"They were not engaging with the play - they were engaging with the questions about the play" (p. 150) と説明されています。さらに、 "It is important to note that in all three types, we are not looking at literary competence or the ability to apply knowledge to new situations. What we are doing is testing the ability tob re-produce other people's meanings" (p. 150) ということにも注意しなければならない(簡単に言えば、学習者がテストの準備をする際には元のテクストそのものではなくその設問プリントを見て準備を行ってしまうといったことが問題とされています)として、次の4点目のジレンマへと話が移ります。

4つ目のジレンマは、 "Testing private appreciation of literature or testing public knowledge about/of literature?"というものです。著者はRosenblattのefferent readingとaesthetic readingという概念に言及し、文学読解では後者が重要であるにもかかわらず、指導では前者のみが扱われていると指摘します。そして、テストにおいてはこのことはいっそう大きな問題点となり、 "The washback effect of doing so is not only to make leaners flee from the text, but also, even when they are reading the text, make the reading the experience efferent reading: they will approach a novel not with the idea of enjoyment, but with the conscious knowledge that as they read it they need to mentally note issues of character, plot, setting etc. Their reading experience will be coloured by this" (p. 151) と指摘します。しかし、private appreciation of literatureをどのようにテストで扱えばよいのか、非常に難しい問題です。

5つ目のジレンマは、"authentic/genuine tasks or pedagogical tasks?" で、実際に多くの文学読者が作品を読み終わった後に行うことをテストすること(レビューをネット上に書くなど)が提案されていました。

6つ目のジレンマは、"Should we require metalanguage?"という点です。著者はYesの立場で、文学について何らかの反応を行わせることを指導するには専門用語の導入は不可欠であると述べています。また、メタ言語の使用によって、テクストを客観的に眺め、そこから一般的な議論を行うことができるかどうかを観察することも可能であると述べています。さらに、母国語の文学作品の読みと外国語での文学作品の読みを結びつけて考えさせることも可能になると指摘しています。そして、テストの中でメタ言語自体もそのテスト内容に含まれる必要があると主張していました。

次は、文学テストを作成する際の重要項目が述べられていました。それらは、"include both public knowledge and private appreciation"、"use a variety of tasks"、"include choice" (学習者にどの設問に解答するか選択させるようにすべきということです)、"provide texts"、"include portfolio assessment"、"ensure that criteria are transparent"、"minimise the weighting of language"、"construct multi-part tests" という点です。ここで、ジレンマの2点目と4点目に対する著者の立場が示されていると感じました(ジレンマ2に対しては、どちらかというとtesting literatureの方を重視するということ、4点目のジレンマについては両方の側面をテストで扱うということ)。また、最後の"construct-multi-part tests" という点に関して、"A reaction to the whole - a personal reaction that exhibits knowledge of the text(改行)An appreciation of literary devices and the use of metalanguage(改行)An ability to engage, to a certain level, with unseen texts" (p. 156) という3つのセクションを少なくとも設けるべきであるということが主張されていました。

最後は、様々な設問例が挙げられています。まず、language-based tasksに関しては、"writing a review of a book for a newspaper or a magazine"、"writing a sequel or a prequel"、"writing a literary piece on the same theme"、"rewriting the work for the 21st century"という4つの方法が紹介されていました。non-linguistic tasksについては、"draw the poem/story/scene/chapter"、"design a cover for a book"、"choose an appropriate cover for a book out of a choice of five"、"choose an accompanying piece of music for the work" というものが提案されています。母国語と目標言語両方を含んだlinguistic tasksとして、"choose the best translation from a number of alternatives"、"translate part of the work into your L1 and comment on the product and on the issues that arise" という2つのものの紹介がありました。また、受験者が読んだことがないテクストを使ってテストを作成することの重要性も述べられています。シンガポールでの事例がごく簡単にではありますが触れてありました(p. 160)。

また、結論部分で、"we are teaching literature because it is worth teaching in and of itself; because it will enrich our students' lives; because an appreciation of literature is an appreciation of many of the spiritual and intellectual aspetcs of life, an appreciation that can operate at a large number of levels. So, if the washback effect of the examination is that students cram for it, if its effect is a flight from engagement with literature, it it is a flight from the text (Short & Candlin, 1986), then what the assessment procedure has done is merely to alienate students from literature, and furtuer cntribute to what Ellis with Fox and Street (2007:4) describe as 'the marginalisation of the aesthetic as a uniquely important way of knowing..." (p. 161)という指摘の後半部分は特にテストを作成する際に気を付けなければならないと感じました。

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2012年6月21日 (木)

C.J.Brumfit&G.D.Killam(1986).「Proposed Examination Paper」を読む(C.J.Brumfit&R.A.Carter(編),『Literature and Language Teaching』,OUP)

文学テストのspecificationの例が示されています。英語教育というよりは文学教育で有用となるようなテストだと感じました。

Brumfit, C. J. & Killam, G. D. (1986). Proposed examination paper. In C. J. Brumfit & R. A. Carter (Eds.), Literature and language teaching (pp. 253-255). Oxford: Oxford University Press.

感想:このテストの目的は、 "to avoid setboook learning, to teach and cultivate reading and understanding of a wide range of books, and to encourage seeing clear links between book and book and between books and the experience of life" (p. 253) とされます。学習者にテーマと、そのテーマに関係すると考えられる書籍のリストを提示し、学習者はテストの日までに自分の関心のあるトピックの本を何冊も読みます。そして、テストでは、具体的な設問が出題され、その設問についてエッセーを書くといったものです。英語学習の手段として文学作品を使用するという場合にはあまり向いていないと思いますが、文学教育の1つの試験方法としては面白いのかなと思いました。

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2012年6月20日 (水)

大石衡聴(2008).「脳科学からの言語へのアプローチ-言語の機能局在」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

言語の機能局在という問題について考察された一章です。脳科学研究で使用する調査方法や脳の構造についてもとても詳しい説明がなされていました。

大石衡聴(2008).「脳科学からの言語へのアプローチ-言語の機能局在」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 21-40).東京大学出版会.

感想:著者はまず脳の構造について詳しく説明します。ブロードマンの分類との対応関係も述べてくれています。大脳皮質については、言語の問題はひとまず置いておき、運動野、感覚野、連合野に分けて説明がされていました。次に言語の機能局在を調べる方法が紹介されます。ここで挙げられていたのは、損傷法、干渉法(電気刺激を頭蓋の外から与える方法と脳の表面に直接与える方法があり、最近は経頭蓋磁気刺激法というものもあるそうです)が紹介されていました。そして、言語野について解説がされます。ブローカ野、ウェルニッケ野、角回、縁上回、の説明がなされ、これら4領域が言語に深くかかわっていることが明らかにされているそうです(p. 27)。また、これら4領域のブロードマンの分類との対応も示されています。次に研究方法の説明がされます。ここでは、ERP、MEG、PET、fMRI、NIRSについて詳しく説明され、その利点や問題点も簡潔にまとめられていました。また、いずれの方法を使用するにしても主に差分法を使用することになるとのことでした。次に失語について述べられています。ここでは、全失語、ブローカ失語(非流暢性運動性失語)、失文法症、ウェルニッケ失語(感覚性流暢性失語)、伝導性失語、超皮質性運動失語、超皮質性感覚失語、混合性超皮質失語、純粋失読、純粋失書、純粋語唖、純粋語聾、皮質下失語(皮質下運動性失語と皮質下感覚性失語)、の説明がありました。実際の症状では、言語の産出と理解は、二重乖離(一方の能力が失われても他方が保持されていること)しており、脳の機能局在を証明する大きな証拠となっているそうです。

本章の最後では、言語の機能局在という考え方について再考が試みられます。例えば、Vigneauらのメタ分析によると、音韻処理、意味処理、文処理に関して、「これら3つの処理を実行している際に活性化する脳領域が部分的に重なっていることを示し、各レベルの処理がそれぞれに特化した言語野の中で独立して実行されているのではなく、広範囲な言語野のネットワークにより実行されている」(pp. 34-35)と主張されています。また、ERPを用いた研究でも、従来のように意味的処理ではN400、統語的処理ではP600が検出されると考えられてきましたが、逆の形で脳波が確認された(意味的処理でP600が見られるなど)という研究報告もあるそうです。そして、「オンラインでの文処理の際、我々の脳は統語的処理と意味的処理を独立かつ同時並行的に実行し、それぞれの出力結果を相互作用させることで当該の文の意味を理解するための最終的な心的表象を構築していることを示唆している。もしこのことが妥当ならば、仮に統語処理と意味処理のそれぞれを特定的に担う言語野があるとしても、「異なる言語野間の相互作用は含意しない」という意味での「言語の機能局在」には、やはり問題があるように思われる」(p. 36)と述べていました。そして、「言語は、脳内の複数の言語野の連携によって処理されると考えた方がよさそうである」(p. 36)と結論付けられていました。

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入來篤史(2008).「総論-霊長類知的脳機能の進化」を読む(入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』,東京大学出版会)

ヒトの脳の進化について概説的に述べられている章でした。

入來篤史(2008).「総論-霊長類知的脳機能の進化」.In入來篤史(編),『言語と思考を生む脳』(pp. 1-19).東京大学出版会.

感想:脳が拡大し、その機能が爆発的に開花したのは10万年前だそうですが、ここ10万年の間に遺伝子はほとんど変化していないそうです。つまり、ヒトで生じた量的変化はごくわずかであったと言えます。しかし、その質的変化は非常に大きなものであったと著者は指摘します。そして、著者は「ヒトで生じた新たな脳領域で、これまですでに要素的に用意されていた機能が、何らかの新規遺伝子あるいは環境からの触媒作用を受けて、このような知的脳機能が創発したと考えると説明できるのではなかろうか」(pp. 1-2)と著者は述べます。

著者は言語と思考を生物学的に位置づけます。そしてそれらは純粋脳内現象であり、「他の個体の純粋脳内現象とのみ直接共鳴する。共鳴を起こすための媒体が「コミュニケーション言語」である。脳は、物理的自然界を介さない機能を獲得した。」(p. 3)と述べられていました。また、「いわば「自然現象」としての生命活動から、新しく付け加わり乖離逸脱した「内的現象が滲み出した」現象である。つまり、外界に対して直接的な効果を生み出さない。外界にあって、同様に「心」を持つ「主体」にはたらきかけたとき、初めて「効果」を生み出す。その効果は、その主体の内的な現象に対してのみである。」(p. 2)とも述べられていました。

単細胞生物から哺乳類までのほとんどの生物は、その運動の基本は「移動」であり、自然現象の一環として考えられます。それに対して、ヒトの祖先が道具を使用し始めたときに関して、「道具が身体の一部となると同時に、身体は道具と同様の事物として「客体化」されて、脳内に表象されるようになる。事故の身体が客体化されて分離されると、それを「動かす」脳神経系の機能の内に独立した地位を占める「主体」を想定せざるをえなくなる。その仮想的な主体につけられた名称が、意思を持ち感情を抱く座である「心」というものではないか。」(p. 5)と述べられています。そして、「心」を他者にも認めざるを得なくなり、動かす対象に他者も含まれるようになり、心の相互作用が始まったのではないかと述べられます。そして、文化社会が形成され、精神文明が生み出され、さらに科学技術文明が発達してきたのではないかという見解が示されていました。

これまで進化や心の創発については、「自然環境からの要請と選択のみによって説明しようとする、要素還元論的な自然淘汰による、いわゆる「ダーウィン進化論」」(p. 6)が主流だったそうですが、最近では「行動変化が進化の駆動力となっている」(p. 6)というニッチ構築論が定式化されつつあるそうです。ただし、その生物学的メカニズムについては明らかにされていないとのことでした。

次に人は10万年前になぜ過去にないほどに飛躍をしたのかということについて述べられています。著者によれは、その駆動力となったのは道具使用そのものではないと述べます。むしろ、それは「将来を見越して、洞察的・意図的に環境の変化にはたらきかけ、そして自らの変化を積極的要因である「思考」、そして文化の伝搬継承の手段となる「言語」を生み出してコントロールする「こころ」の創発だったのではないだろうか」(p. 7)と述べています。そして、「何らかの要因によって、動物の知的な脳機能とその産物である道具などの環境要因が相互作用し、逐次階層を積み重ねるという方法によって、双方が次第に(しかし加速度的に)複雑化し拡大していったのではないだろうか」(p. 8)と述べられていました。そして、その要因の可能性のひとつとして「「自己」という概念の確立とその「意図」の意識化」(p. 8)があったのではないかとされています。ヒトの爆発的な飛躍以前は、環境に変化が生じ、それに対応するために偶発的に行動などを変化させ、均衡点に到達して安定するというものを繰り返していたのですが(受動的ニッチ構築)、これらが確立されることにより、環境と生物の相互作用が意思によって制御され、立つ続けにニッチ構築を引き起こすメカニズムを確立したと述べられています(意図的ニッチ構築)。このようにして道具を外在化した後に、情報とその処理も外在化させ、絵画、書字、録音、コンピュータなどが比較的最近になって生み出されたとします。そして、情報とその処理を外在化させる際に、「それまで環境の具体的な事物や事象と分かち難く埋め込まれていた情報を、抽象化・象徴化して情報のみを分離して、貯蔵し処理する手段を生み出さなければならな」(p. 8)くなり、言語という新機能及びそれによる思考が生み出され、心の外在化も可能になったとされます。「それらの情報とそれらを担う記号が、複数の個体間で共有されたとき、コミュニケーションが成立し、それを通して、人間社会が形成されたのであろう」(pp. 8-9)と説明されていました。そして、最近になって「ヒトにおいてさまざまな特殊な技能および精神活動を経験すると、主として頭頂葉と前頭葉の一部が拡大・肥大することが示され始めている」(pp. 9-10)そうで、ヒトのこのような発達が脳の拡大を約10万年前に引き起こしたことをサポートするような証拠も出始めているそうです(ただし、まだ多くの研究が必要なようです)。

次にヒトの脳の特性について述べられています。まず、1つ目は概念作用です。ヒトは多くの事象を区別し、分類する中で、全く同一ではないものを同一とみなすような特性を持っています。さらに、直接的には存在しない「性質」や「関係性」を規定し、それに適合するような要素を列挙するということもできます。これらのことに関して、「概念とは、このようにして形成された、抽象的特徴に依拠する具体事象のグループのことであると考えられ」(p. 11)、「このように形成された概念に貼られたラベルが、言語における名称賦与の原型ではないかと思われる。そして、これらの諸概念の構造や関係性を表象する形で統語や文法構造が現れて、その操作によって思考機能がヒト脳に与えられたのであろう」(p. 11)と述べています。

また、「自己」に関して、「感情に突き動かされる行為、「他者」との即時的関係性に依拠する行為、環境からの緊急要請に呼応する行為。これら各種の行為を担う別個の神経系それぞれに、その行為を発動する主体たる「自己」を想定することができる。脳内に分散して表現されていた、各種の自己が、偶発的行為によって、連携し、ネットワークとしての全体的な「統一的自己」を生み出したのではないだろうか」(p. 12)と述べられていました。さらに、ヒトはそれ以外の動物と違い、「行為の主体の「意図」、それを発動する原因となる「状況」と、「行為そのものの「型式」」(p. 13)を分けて記述することができます。そして、私たちの社会ではこの「意図」が重要なものとなっていると著者は指摘します。

最後に、このような基盤によって成立した人間文明環境の特性についてその特徴が述べられます。まず、ヒトは因果を希求する一方で、必ずしも正しくない論理に基づいて行動するという点が触れられていました。人は「AならばB」ならば「BならばA」を、「AならばB」かつ「BならばC」ならば「AならばC」を自動的に真とみなす傾向があります。しかし、実際にはこのことはかならずしも真になるとは限りません。しかし、ヒトは社会や文化によってある程度の安全性が保証されたので、このような必ずしも真ではないような論理性に基づいて物事を考え、一層の安全性を確立する中で科学技術を発展させたのではないかと述べていました。2点目として、芸術について触れられていました。原始生物などでは、「外界情報を検出する感覚器と、それに対する固有の運動を引き起こす効果器」(p. 18)は1対1で結びつければよかったそうですが、ここに進化が進んで身体構造が複雑化する中でこの関係性を維持することができなくなり、汎用処理装置が必要となり、その結果初期の単純な中枢神経が生まれたと著者は述べます。しかし、この段階ではまだ外界の情報しか処理がされず、芸術や美などは対象外です。しかし、情報処理が複雑化すると、外界と脳内が分離し、純粋脳内世界が誕生することになります。その中で夢や幻覚というものが可能となり、これらを見る機能は他の動物のは異なったヒトの脳の特徴であると述べます。そして、「純粋にヒトの脳の内部世界に宿る、究極的融解と現実構造の狭間、はかなくもうつろいやすい超多元的情報世界のゆらぎの中に、そして身体の感覚運動期間を通した摺り合わせの妙味の中に、我々は「美」を見いだす。それを「芸術」と名づけたのであろう。」(p. 19)と述べられていました。

とてもスケールの大きな章で、読み応えがありました。

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岡ノ谷一夫(2009).「言語の起源と進化Ⅱ-脳・神経科学の立場から」を読む(池内正幸(編),『言語と進化・変化』,朝倉書店)

言語の起源と進化に関して脳科学の立場ではどのようなことが明らかとなっているのかがまとめられた論文です。この論文の詳細は以下の通りです。

岡ノ谷一夫(2009).「言語の起源と進化Ⅱ-脳・神経科学の立場から」.In池内正幸(編),『言語と進化・変化』(pp. 73-94).朝倉書店.

感想:著者はまず言語の特徴づけを行います。そして、本章では、象徴性、統語性、構成性、超越性の4つをすべて同時に満たすものを言語とみなという立場で議論がなされます(ただし、根源的なのは象徴性と統語性で、これらから構成性が創発し、さらに構成性から超越性が生まれるとされます)。次に人間言語の特異性について、述べられます。その特徴として、膨大な数の語彙、埋め込み、の2点が指摘されていました。

次に言語の脳機構について代表的なモデルである、ウェルニッケ=ゲシュヴィントモデルが説明されます。このモデルでは、一次聴覚皮質、一次視覚皮質、角回、ウェルニッケ野(ブロードマン22野後部)、弓状束、ブローカ野(ブロードマン44野と45野)、一次運動皮質、という7つの要素から構成されるモデルで、最も有名です。このモデルでは、「ブローカ野とウェルニッケ野が重要であるということ」(p. 77)、「大脳皮質の前半分が言語の表出に関わり、後半分が認知に関わるということ」(p. 77)は正しいとされているようです。ただし、このモデルで重要とされた領域が損傷したとしても必ずしも失語に到るわけではないということが明らかとなってきました。その原因として、「大脳皮質の機能分担には個人差があること、また、損傷後に失われた機能を補償する方法にも大きな個人差があること」(pp. 77-78)が指摘されていました。また、イメージング研究法方法としてPETが紹介され、さらに差分法について解説がありました。さて、この論文は言語進化がそのトピックです。著者は、言語進化へのアプローチの方法として、構造からの接近法、機能からの接近法、遺伝子からの接近法の3つの方法があると述べます。そして、それぞれの方法及び調査結果について解説がされています。

構造からの接近法は、「ヒトの脳と言語の関係についてわかっている事柄から、その構造についての知識を取り出し、それらが他の動物でどのくらい実現されているのかを調べてみようという立場」(p. 80)です。そして、その研究として、霊長類の発生と学習に関する研究(ヒト以外の霊長類には統語性や構成性はなく、せいぜい象徴性の萌芽がある程度であるという結果が出ているようです)、霊長類の「言語」能力研究(サルには埋め込みはおろかより単純な反復の問題も解けない)、霊長類の「言語」野の研究(ブローカ野:最近の研究で埋め込み操作には特にブロードマン44野が重要であるとされており、これに相当する部位が小さいながらもアカゲザルに確認され、自種の鳴き声を聞くとこの辺りが活性する。ウェルニッケ野:ヒトには左半球にしかなく、その側頭平面が右半球よりも広い。このことはチンパンジーでも確認されるが、アカゲザルではその左右差はない。また、自種の仲間を呼ぶ声を聴くと、左右どちからの活動が上がるが、それが左右どちらかは個体によって異なる。この結果から、「アカゲザルでもウェルニッケ野に相当する部位があるかも知れないが、側性化の度合いは低い」(p. 84)。弓状束:「44野(ブローカ野)と22野(ウェルニッケ野)の連結は、ヒトでもっとも密で、次にチンパンジー、アカゲザルでは非常に弱かった」(p. 84))、といった点が紹介されていました。

次は機能からの接近法です。この方法は「系統発生はさておいてヒトの言語の特徴と少しでも対応するものがある生き物を使って、それらの生き物がどういう脳機能をもって前「言語」的機能を可能にしているかを調べる」(p. 80)ものです。この方法に基づいた研究として、鳥類の発生と学習の研究(鳥のさえずり(歌)は統語性をもち、その習得過程は、他個体から学ぶべき音を選択・記憶し、自身の発声をそれに近づけるという2段階から構成される)、鳥類の「言語」能力研究(複雑な歌を変奏するムクドリには埋め込みと反復を区別する能力があるようである)、鳥類の聴覚発生系の研究(後部伝達路:神経核を連結し、歌をうたう行動そのものを司る。前部伝達路:神経核を連結し、「歌を学ぶ過程、歌を維持する過程を司る」(p. 86)。RA:「歌を構成する音要素それぞれの運動パターン」(p. 86)を司る。HVC:RAで司るパターンの組み合わせを司る。NIf:「その組合わせのさらに高次の組合せを」(p. 86)司る。ミラーニューロン:ミラーニューロンとは、自身がある意図をもって行動した場合と他者が同様な意図をもって行動した場合で同じような反動をする神経細胞のことであり、ヒトではブローカ野で確認され、ミラーシステムと呼ばれている。鳥類ではAreaXにミラーニューロンと言える性質があることがわかってきた。喃語期の特異性:鳥類にも喃語期があり、成長と若鳥では歌制御の神経システムが異なっている。音声記憶の座:歌を聴いたときの即初期遺伝子(「刺激を受けてから30分程度で脳において発現し、その後の脳の可塑的変化を司る一連の分子カスケードを引き起こす遺伝子」(p. 88))の発現箇所が歌を歌う場合とは全く別であった)、が紹介されていました。これまでの研究から「鳥類の脳構造はヒトの脳構造と大きく異なるが、発生学習の発達過程を見るときわめて類似している」(pp. 88-89)と述べられていました。

3つ目の遺伝子からの接近法ではFOXP2が紹介されています。これはGopnikに1990年に報告されたもので、当初「文法遺伝子」と期待がされたそうです。これは、「DNAに結合して遺伝子のオン・オフを制御する転写因子(transcription factor)と呼ばれるタンパクをコードする遺伝子」(p. 89)なのだそうです。チンパンジー、ゴリラ、アカゲザルとヒトの間では2箇所だけアミノ酸が異なっているそうです。しかし、そのうちの1つの変異は食肉目にもみられるそうで、少なくとも1つの変異は言語とは関係していないであろうと著者は述べます。FOXP2は、肺の発生に関わることが知られており、脳では「大脳基底核、大脳皮質第4層、小脳プルキンエ細胞、視床などで発現する」(p. 89)ことが明らかになっているそうで、「FOXP2は言語のうちでも前頭前野と大脳基底核で実行される系に関連する」(p. 90)野ではないかと著者は述べていました。FOXP2は鳴禽類では発生の制御に関係する部位に発現するそうです(特にAreaXでは、「感覚運動学習期に一時的に増加し、学習が完了すると減少する」(p. 90)そうです。)。実際、これが発現しないと鳥の歌は大変みずぼらしいものになるとのことでした。マウス(チンパンジーらとは1つのアミノ酸が異なっているだけだそうです)では、小脳と大脳基底の形成に関わっているという可能性が示唆されています。また、コウモリは、FOXP2に多くの変異が見つかっており、特に音響定位を用いるコウモリはそれが顕著になるそうです。一方で、ネアンデルタール人はすでにヒトと同じ変異を持っていたことが明らかになっているそうです。以上の結果を踏まえて、「FOXP2は運動全般に関わる遺伝子であるといえる。とくに、行動と感覚の相互作用を必要とするような正確な運動制御に強く関わっている。(中略)言語の進化に大切であるが、言語そのものを可能にする遺伝子ではない。遺伝子からの接近は今後有用や方法となってゆくであろうが、たった1つの遺伝子から言語が生じたと考えるべきではない。」(p. 91)と述べられていました。著者の、「言語は複合機能であるから、単一遺伝子で制御されるはずはないと思う」(p. 80)という考えをここで報告された研究成果が裏付けていると感じました。

最後に著者は、「言語は純粋に進化の産物としてのみ扱うわけにはいかない代物である。言語の起源は、生物進化、文化進化、個体間学習の3つの要因の複雑な相互作用から説明されなければならない」(p. 92)と述べ、「生物言語学という学問は、その一部に生成文法を含むべきなのであり、Jenkins (2000) に見られるように、単に生成文法を生物言語学と呼ぶのは分野の矮小化に過ぎない」(p. 92)と述べられていました。つまり、生物言語学にとって生成文法の知識は不可欠ですが、生物言語学と生成文法を同一のものとみなしてはいけないということでしょう。私にとって新しいことが大変多く、とても勉強になりました。

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遊佐典昭(2011).「脳科学から見た第二言語習得」を読む(佐野富士子・岡秀夫・遊佐典昭・金子朝子(編),『第二言語習得 SLA研究と外国語教育』,大修館書店)

第二言語習得について脳科学の見地からの見解がまとめられている論文です。著者の先生には先日の学会でも直接いろいろと教えていただきました。

遊佐典昭(2011).「脳科学から見た第二言語習得」.In佐野富士子・岡秀夫・遊佐典昭・金子朝子(編),『第二言語習得 SLA研究と外国語教育』(pp. 109-117).大修館書店.

感想:著者は、まず「脳科学」という語を「認知神経科学」の意で用いている点を明確に述べます(学問の名称については、簡潔に冒頭で整理されていました。ちなみに、「脳科学」という語は1980年頃から使われているそうです)。次に、研究方法が紹介されます。EEG、ERP、MEG、fMRI、NIRSへの言及がありました。また、NIRSについては、「基準となるモデルが提案されていないために、成人の言語処理に関する本格的な研究成果はまだ発表されていない」(p. 110)という点が指摘されていました。現在のところ、ERPとfMRIを使用した研究が成果をあげているそうです。また、脳科学的調査の難しさについても言及されており、脳活動の絶対値は測定できないこと、言語課題でできる調査は限られていること、が述べられていました。どの調査でもそうですが、1つの調査方法に限定せず、多角的に調べることが必要とのことです。

次に、神経神話(「脳科学の事実を拡大解釈して、神経科学的に根拠がない言説」(p. 111))が取り上げられ、特に「3歳までに、脳の重要なすべての特性が決定してしまう」(p. 111)、「外国語には、その時期内に教授が行われなければならない臨界期が存在する」(p. 111)という2つのものが取り上げられ、実際の調査研究を引用しながら、これらの言説が問題を抱えている点が明らかにされていました。1点目については、最近の調査研究からこの言説には根拠がないことが示されていました。2点目については、「臨界期」は最近では「最適期」とも呼ばれることがあるそうで、確かに第二言語の音声知覚と産出に関して感受性の高い時期があるようですが、いわゆる「臨界期」のような絶対的なものではなく、個人差があったり、母国語に影響を受けたり、母語話者の定義に依存したりと、かなり問題があるようです。著者は「臨界期の研究は、ESLの議論でありEFLの議論ではないので、我が国の英語教育政策の資料とはならないことに注意しなければならない」(p. 114)と述べており、とても重要な指摘だと思いました。

次に脳科学から第二言語習得への示唆が述べられています。最近の研究によると、「熟達度が上がれば獲得時期とは関係無く母語と第二言語は文法処理に関して同じ部位で処理されている」(p. 115)ということが明らかとなってきたそうです(従来は、大切なのは学習開始年齢だと考えられていたようですが、最近はむしろ重要なのは熟達度であるという結果が出ているそうです。ただし、母語と第二言語で賦活の強さや同一部位内の賦活領域には違いがあるそうです。)。その他、外国語環境でも母語習得で機能する生物学的制約が機能しているのか、可塑性に注目して外国語の熟達度を測定できないか(ERP研究によると、大学で初めての外国語に数時間触れただけで脳は構造的に変化をするそうです)、という問いについて脳科学は研究を行っているそうです。ほかに、「EFLの定着には英語の開始年齢だけでは説明できずに、6年以上の接触が重要であること」(p. 116)、小学生を対象とした調査で母国語と外国語のERP成分出現順序が同じであったこと、が紹介されていました。ただし、著者自身が述べておられますように、実際の政策提言などを行う愛には、所定の言語現象に関して多方面から調査を行うことが必要です。

最後に、脳科学の調査と英語教育の関係について述べられていました。「脳科学リテラシーを高めながら脳科学に目配りすることは重要ではあるが、現状では脳科学の成果を英語教育の現場には直接応用できる段階に到っていない」(p. 117)、「英語教育の問題解決の場として脳科学に過剰な期待をすべきでなない」(p. 117)、「現時点では、優れた英語教師の方が脳科学よりも英語教育にとっての重要なポイントを認識している」(p. 117)、の指摘はいずれもとても重要だと思いました。また、脳科学研究をする上では言語学の知識が不可欠である点も指摘されていました(p. 115)。とても勉強になりました。

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2012年6月19日 (火)

中島平三(2010).「ことばと脳」を読む(瀬田幸人・保阪靖人・外池滋生・中島平三(編),『[入門]ことばの世界』,大修館書店)

言語と脳の関係について初学者に分かりやすく要点が説明されていました。この論文の詳細は以下の通りです。

中島平三(2010).「ことばと脳」.In瀬田幸人・保阪靖人・外池滋生・中島平三(編),『[入門]ことばの世界』(pp. 120-129).大修館書店.

感想:この章は、脳の構造、一側化と局在論、失語症のタイプ(ブローカ失語(運動性失語)、ウェルニッケ失語(感覚性失語)、伝導失語、失名詞失語)、実験方法(PET、MRI、ERP)、言語遺伝子(FOXP2)、臨界期(子どもの失語症回復、ことばから隔絶された子どもの例)、練習問題、読書案内、から構成されています。いずれも大変簡潔にわかりやすく記述してありました。特に私が特にとてもわかりやすいと感じたのは、ERPのN400とP600について、頭皮の分布と言語課題が一覧表にまとめてあった箇所(p. 125)と、FOXP2の解説(第7染色体の31領域に存在するこの遺伝子についての最近の研究では、「FOXP2は「親分遺伝子」のようなものであり、消化器や心臓、肺など様々な器官と関係した遺伝子の活動を「仕切って」いることが明らかになってきた。また特定言語障害では、語の形態的変化(屈折)ばかりではなく、単語の反復や複雑な分(例えば関係節を含む文)などの処理ができないことや、さらに口や顔の複雑な動きの調節がうまくできないことなども明らかになってきた」(p. 126))でした。神経言語学について整理する上でとても便利な章でした。

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