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2012年4月25日 (水)

M.Abbott&C.Forceville(2011).「Visual Representation of Emotion in Manga: Loss of Control Is Loss of Hands in Azumanga Daioh Volume 4」を読む(『Language and Literature』)

『あずまんが大王』という4コマ漫画を題材として、その作品中の "hand loss" という現象(手の甲や指がなくなり、手が単純な棒状となる現象)が作中でどのような文体論的機能を果していて、それがいかに人間の認知方法に基づいたものであるかを概念メタファーの観点から考察した非常に興味深い論文です。

Abbott, M., & Forceville, C. (2011). Visual representation of emotion in manga: Loss of control is loss of hands in Azumanga Daioh Volume 4. Language and Literature, 20 (2), 91-112.

感想:本論文の目的は、"Our central aim in this article is to demonstrate that HL in Volume 4 of Azumanga Daioh connotes 'loss of control'. A second goal is to show how Azuma's use of this device functions narratologically by contributing to the six heroines' characterization. Finally, we want to show how the HL phenomenon is commensurate with the theorization of emotion in Conceptual Metaphor Theory." (p. 92) と述べられています。1点目に関しては、この論文で何らかの形で自制や感情を失った場合にHLが生じていることが示されていました。2点目に関しては、HLの使われ方が登場人物によって異なっており、その異なりによって各登場人物のcharacterizationをはかっていることが示されていました。3点目に関しては、これまで言語を中心として行われてきた概念メタファー研究で示されてきたEMOTIONS ARE FORCES、EMOTIONAL HARM IS PHYSICAL DAMAGE、THE PSYCHOLOGICAL CHARACTERISTIC OF A PERSON IS THE PHYSICAL CHARACTERISTIC OF HIS/HER HAND、THE HAND STANDS FOR CONTROL、CONTROL IS HOLDING IN THE HANDといった概念メタファーと大きく関連し、LOSS OF CONTROL IS LOSS OF HANDSといった概念メタファーを考えることが可能であることを指摘します。そして、今回のようなmulti-modalな談話での研究は概念メタファー研究の発展に大きく寄与するであろうということも指摘されていました。また、本論文とあまり関係はありませんが、近年概念メタファー研究では "'nature' is complemented by 'nurture'" (p. 105) という考えが浸透してきているようで、概念メタファー初期の研究に比べて随分と柔軟になってきているのだなと思いました。

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2012年4月 3日 (火)

T.トドロフ(1974).「フォルマリズムと未来派」(川端香男里(訳))を読む(『芸術倶楽部』)

未来派がフォルマリズムと近い関係を持つにいたらせた特徴を、主にポモルスカのまとめを整理しなおした論文です。とても分かりやすく書かれていて、ロシアの文学理論の理解を深めてくれるとてもよい論文です。

トドロフ,T.(1974).「フォルマリズムと未来派」(川端香男里(訳)).『芸術倶楽部』,1,166-170.

感想:まず、一点目は「未来派の人々は言葉の自律性、固有の価値、それ自体における重要性を主張する」(p. 167)という点です。未来派には「既成の文字以前の文字を使う傾向」(p. 168)、があり、いわゆるザウーミがその代表例です。「未来派の人々がみなほとんど同時に画家でもあり、彼らの最初の刊行物が詩と並んでデッサンをのせて」(p. 168)いたそうです。また、「響きのよさの探求、「自然音」の模倣ではなく、自律的な音楽的な音構成をめざす探求の多くの試み」(p. 168)もなされたとのことでした。他にも俗間語源説も展開されたそうです。このように、言語の透明性を書記素論的にも意味的にもはく奪しようとした試みであったようです。

2点目は、言語自体が文学の主題となり、もはや文学作品内に主題の位置がなくなるという特徴です。さらに、未来派の作家たちは個人の主題を取り去らうだけでなく、詩的匿名性の確立を目指し、文学をとにかく言語の問題としたようです。

3点目は、詩と詩の理論は同一のものとみなされるにいたったことです。結果として、未来派詩人はモスクワ言語サークルに参加することになりましたし、彼らの中には精密な詩の理論について研究を行っています。もはや詩と詩の理論に境界がなくなり、一方が他方のメタ的存在であるというような考えはされなくなりました。

4点目は、「自分たちの詩の事業それ自体が革命的行為だとみなす」(p. 169)という特徴です。「彼らは、「革命的芸術と革命国家との間に一致があるのはまったく当然であると信じていた。彼らは真に心の底から自分たちのことを一九一八年に共産主義者=未来主義者(コムフート)と呼んだ」(pp. 169-170)という事実が指摘してありました。この考えは、フォルマリストが自分の研究に現実との接点を持たせる際に大いに参考にされた考え方だそうです。

著者は、過去の文章は文学史家でもない限り通常は読んだりはしないといいます。しかし、なぜ過去の研究であるロシア・フォルマリズムが当時盛んに取り上げられたのでしょうか。批評的研究はそれ自体1つのテキストとなるか、他のテキストについて語るか、という2つの形があります。著者はロシア・フォルマリズムは前者の形であったのだろうと考えているようです。あるいは、従来の批評がそれを生み出した元のテキストしか扱えなかったのに対して、全文学に適用できるようなアプローチを練り上げたという点で、そもそもフォルマリズム自体が真の意味で「批評家」でなかったからこそ今日読み返されているのではないかとも述べていました(p. 170)。

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平井正(1974).「フォルマリズムのドイツにおける展開」を読む(『言語』)

ロシア・フォルマリズムの考え方がどのようにドイツで受け取られ、発展したかということについて整理されていました。ロシアとドイツの文学理論のつながりについて理解することができます。

平井正(1974).「フォルマリズムのドイツにおける展開」.『言語』,3 (3),206-211.

感想:ドイツは、ロシア・フォルマリズムの受け取り方にきわめて特徴があったと著者は指摘します。なかには、エルリッヒのようにドイツの作品内在的な研究(オスカー・ヴァルツェルによる研究方法など)と対応しているとする考えもあったようですが、「作品内在的な方法が切り離された対象としての個別的作品をさまざまなアスペクトから眺めるものであるのに対し、フォルマリズムは一定の文学的技法の特色と機能を、さまざまなジャンルや時期の素材を用いて示そうとする傾向を特徴としており、個別作品への制限は稀である」(p. 207)というシュトリーターの区別は重要であると著者は指摘します。著者はさらに、「フォルマリズムは言語素材そのもの、その取り扱い方、その構造を問題とする。それゆえ言語素材を詩と散文に分ける。しかしO.ヴァルツェルのテュポロギーから作品内在的方法に至るまで、ドイツの文芸学は抒情詩、叙事詩、劇詩という三分法を守っていたことからもわかるように、古典美学の枠を破ることはなかったのである。エルリッヒは表面上の類似にだまされて、フォルマリズムが現代美学への第一歩であるのに対し、他方が古典美学の更新であるという基本的な相違を見落としたのである」(p. 207)とも指摘していました。また、ドイツの作品内在的な方法は、有機的生長の観念とテュポロギーというゲーテ由来の伝統的な文学観をバックボーンとしているのに対して、フォルマリズムはこれらとはいずれも相容れない文学観を取っており、古典美学に挑戦するものであったとも指摘していました。

ドイツにおけるフォルマリズムの受け取り方には大きく2つの方向で以上のことを強く意識していたと著者は述べます。1つ目は、ドイツではフォルマリズムにならって言語素材そのものへの志向を徹底するということが行われるようになったそうです。「それは、言語学を基礎とする厳密な学としての文芸学を構想する言語学的文芸学であるが、ほとんど偏執的にその革新性と学問性を強調し、伝統的なドイツの文芸学を徹底的に排斥する」(p. 207)ということを行ったそうです。具体的に排斥されたものとしては、フンボルト、ディルタイ、クローチェと結びついたドイツ(特に前者二者)とイタリア(特に後者)の伝統全体、フォスラーやシュピッツァーらによる新観念論的文献学、ヴァルツェルのゲハルトとゲシュタルト研究、形態論的諸方向、P.ベックマンの形式史、クルティウスやラウスベルク(またはアメリカ)の新アリストテレス派の修辞学派、新批評からフランスのエクスプリカシオン・ド・テクストを経て作品内在解釈に至るまでの様々な解釈学派が含まれるそうです。とにかく、「フォルマリズムは伝統美学を断ち切るものとして意識された」(p. 208)そうです。さらに、ハーバーマスは、フォルマリズムは文芸学だけでなく学問全体のあり方の問題にも示唆を与えるものであり、「法則定立的な理論」(p. 208)とみなされたそうです。このように、ドイツの文芸学を最終的に法則定立的な学という方向へ向かわせたというのが1つ目の特徴です。

2つ目は、フォルマリズムが強調してきたエヴォリューション理論を独自に展開させるという方向性です。ロシア・フォルマリズムは文学内のエヴォリューションの問題には力を入れて考察をしてきていますが、フォルマリズム自体をそのエヴォリューションの中でどのように捉えればよいのかということについてはあいまいな態度をとってきたと著者は指摘します。エヴォリューションの問題はヤウスによって展開されました。彼は、「フォルマリズムとマルキシズムの歴史的認識は文学的事実を、創作者中心の美学でとらえている。そのため受容と作用のダイメンジョンが無視されている」(p. 209)と指摘します。彼は「文学が文学として具体化される相を作用の層と措定し、文学は成立の相においてではなく、受容の相においてとらえられねばならないと」(p. 209)考え、「エヴォリューションの理論はこうして、古典美学を廃棄するだけでなく、歴史認識をも変換させる方向へと発展させられる」(p. 209)ことになったそうです。ヤウスは文学の歴史性は、歴史的時間の多様性の問題として把握しなければならないと考えました。そして、「同じ時期に属する文学作品の異質な多様性が形成する複雑なヒエラルキー構造は、一様でない時間的推移の構造的相関物と見做される」(p. 210)こととなったそうです。ヤウスはS.クラカウアーの歴史論に基づきながら、「歴史的時期はそれゆえ、それぞれ固有の時間の、異なった瞬間に生ずる出来事の混合と考えられねばならない」(p. 210)というヤウスの歴史的時間論が定立されることとなりました。さらに、ヤウスはこのような文学の歴史的把握を、創造美学と受容美学という2つの側面から文学を眺めることによって、美学的把握と統一することも企てました。著者によると、ヤウスは自身の作用の美学によってフォルマリズムとマルキシズムをアウフヘーベンすることを意図してたとのことでした。

また、最後にヤウスがF.ヴォディチカを介してプラーグ学派の考えを取り入れ、それに全面的に基づく形で自身の理論を作り上げたということが指摘されていました。ヤウスについては、このブログを立ち上げる以前に『挑発としての文学史』を読んでいるので、私としてはとても分かりやすかったです。ですが、この理論自体を読んでいないという人には少し難しい論文かもしれません。私としてはロシアとドイツの文学理論のつながりに関する理解を深めることができ、とてもよかったです。

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