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2012年3月30日 (金)

磯谷孝(1969).「ソヴィエトの文学研究における構造主義の潮流」を読む(『東京外国語大学論集』)

ソヴィエトの文学研究における構造主義がどのように発展してきたのか、ロシア・フォルマリズムの始まりからその衰退を経て、ソヴィエトにおける構造主義的文学研究までの流れがコンパクトにまとめてあります。ソヴィエト言語学との関係などについても触れてあるため、ソヴィエトの言語研究・文学研究に関してその全体像を理解することができるという非常に貴重な論文だと思いました。

磯谷孝(1969).「ソヴィエトの文学研究における構造主義の潮流」.『東京外国語大学論集』,19,57-77.

感想:著者はまず、ギローが分類した記述的文体論と発生的文体論という分類について触れます。前者は言語体系における感情の表現方法について分析するもので、バイイなどに代表されるものです。そして、後者は表現とそれを創出する個人ないしは集団との関係を扱うものとなります。発生的文体論とギローがのちに名づけた研究群は一方で文芸批評の方へ突き進み、一方で形式面を重視した研究へと突き進む流れもあります。そして、後者については「言葉を出発点とし作品の芸術的自律性というものを建前に、内在的な芸術的価値というもんを研究してゆこうとする気運がたかまりつつある」(p. 58)と述べ、その気運というのは文学研究の構造主義であるとしています。著者は構造主義(特にフランス構造主義とコペンハーゲン学派を中心に取り上げています)について簡単にまとめていました(ここでは省略します)。そして、文学研究における構造主義はロシア・フォルマリズムにさかのぼることができます。著者はこの論文でロシア・フォルマリズムの成果をまとめ、それが現代のソヴィエトにおいてどのように発展しているのか、ということについてまとめていきます。

ロシア・フォルマリズムは「革命前後の混沌とした文学運動の諸潮流の中で、シンボリズムに対峙するところの未来主義の理論的裏付けとして出現したもの」(p. 63)となります。当時の文学運動の諸潮流には、文化史学派、文献学的研究(実証主義的傾向が強いそうです)、比較史学派、ハリコフ学派(心理主義的傾向が強いそうです)、シンボリズムの理論的研究、などがあったそうです。ロシア・フォルマリズムは文化史学派と文献学的研究に関しては忌避したそうですが、他の3つの派閥はロシア・フォルマリズム形成において重要な役割を果たしたそうです。著者はそれぞれどのような点でロシア・フォルマリズムに貢献したかを整理しています(ここでは省略します)。著者は特にハリコフ学派のボチェブニヤの貢献を重視しています。彼は初めて文学を純粋に言語の問題として扱ったそうで、この姿勢はボドゥエン・ド・クルテネ主宰のオポヤズで本格的に研究が進められることとなりました(また、シンボリズムの理論的研究も同様に文学を形式的アプローチで分析しようとしており、ボチェブニヤが語彙の段階での研究にとどまったのに対して、彼らは詩のリズムといった文学における有意義な形式を扱った点で、一歩進んでいたと評価されていました)。「言語学の研究がレクシコロジー、モルフォルジー、シンタクシスといった段階を踏むように、文学の研究もそれに相当する段階を踏むべきである。そこで語いのみならず、モチーフ、プロットも一つの形式として追及されることになる。」(p. 64)とロシア・フォルマリズムの研究姿勢が述べられています。また、「あまりに顕在的な形式ばかりでなく、あらゆる詩的言語構造において内容を生み出すところのすべての要素を形式として追及していった」(p. 64)と評価がされる一方で、「形式」という語が外形的で単純な響きがあるので、次第に手法という語が好まれるようになったと説明されていました。また、文学史は弁証法に基づいて説明されました。「文学史というのは≪手法の体系≫の絶え間ない入れかわりであり、芸術的に働きかける力をもった新しい≪手法の体系≫が古い≪手法の体系≫をその王座からひきずりおろして即位する簒奪の歴史である。それはAのBへの発展的解消あるいはBによるAの遣産の相続・伝統の継承といったような歴史的な流れではなく、対立にもとづく≪新しい手法の弁証法的生成≫の歴史である。」(p. 66)と説明されています。そして、構造主義との関係について、「第一に、フォルマリズムも構造主義も共に文学ノン研究を他の人間活動の領域から独立した存在とし、作品の内在律の研究を目指すことにおいて一致している。第二に共に内容の形式化にあらゆる努力をかたむける点が共通している。」(p. 66)、「しかしながら、フォルマリズムの場合には、すべてを形式に帰してしまうが、構造主義では形態を出発点としながらも、顕在する形式の可能性を究めた上でさらにその彼方にあるイデーをも追求しようとする心構えがみられる。」(p. 66)、フォルマリズムではレヴェルの設定と総合の意義がはっきり認識されていない、「フォルマリズム、構造主義とも、対象の本質は認識しえないとするカント主義、新カント主義の立場にたつが、構造主義では現象の模写ともいうべき近似的なモデルの構築をもって認識法とする」(p. 66)、と述べられていました。著者は、構造主義とロシア・フォルマリズムの間には精神的なつながりを認めざるをえないとし、ヤコブソンが両者の橋渡しをしたと考えています。

ロシア・フォルマリズムはシクロフスキーが語彙レベルの研究を行い、プロップが形態論の研究を行ったように体系的に進みました。しかし、十月革命で誕生した政府が自己の文学政策を作り出そうとする際に、その政府に文化の担い手がほとんどいなかったため、「文学において新しい形式を追求しようという試みは人民の生活とは縁もゆかりもないものとして白眼視され(中略)その形式偏重からくるイデオロギーの欠如、非政治性は反体制的なものとみなされ、革命の側からはひんしゅくを買わずにはいられなかった」(p. 67)そうです。その結果、フォルマリズムはそのままの形で存続することが難しくなり、社会学を取ってつけたような形を試みますが(これは左翼戦線の支持を受けたそうです)、それでも批判はとまらず、結局オポヤズも解散することになりました。そして、シクロフスキーも有名な「学問的過ちの記念碑」を執筆しました。そして、正当マルクス主義文学理論が支配することになり、1934年に第一回作家大会で社会主義リアリズム理論が芸術の方法として採用されることになりました。

著者はここで少し脱線して、ソヴィエトで文体がどのようなものとして考えられていたのかということにふれます。1つ目はギローの個人的文体論と同じ考え方で、この考えはオポヤズに代表されます。2つ目は、「文体というものが歴史やその時代の社会環境などの所産にすぎない」(p. 68)という考え方で、ラップに所属した俗流社会学派によるアプローチです。3つ目は、一人の作家の作品の中に両方の要因を認める折衷論で、「時代の文体」を提唱し「芸術の方法」という概念を生み出したサクーリンらによるものです。ただし、折衷論はラップにより、「階級の文体」という概念に差し替えられてしまったそうです。しかしながら、このことによってラップは文体という言葉にマルクス主義的な内容を盛り込ませることになったそうです。ただし、結局は「文体」という語自体がすでに深い古された用語であり、人々に第一の意味を想起させてしまうため、なかなか人々の印象を変えることができなかったため、新しい用語を使用する必要性が認識されるにいたり、「文学における唯物弁証法的方法」「唯物弁証法的創作方法」といった語がラップ内で定着することになっていったそうです。結果として、芸術的方法という語は文体の社会学的側面を指すのに使われ、文体という語は個人的表現形式を指す語として使い分けされるようになったそうです。ただし、結局はソヴィエト使用されてきたもろもろの概念は最終的にマルクス・レーニン主義の文学理論体系の中に組み込まれることになったそうです。

著者は次に社会主義リアリズムについて触れます。社会主義リアリズムは、「文学の方法というよりは作家の政治的心構え・姿勢ともいうべきものであった」(p. 69)そうです。スターリン政権下では社会主義リアリズムは君臨することになりましたが、その内これに矛盾が内在していることや文学自体が停滞してしまったことへの反省がなされるようになり、変質を余儀なくされ、結局社会主義リアリズムは有名無実化し、形骸化することになったそうです。このようなことが生じたのはスターリンが死去したことによる政治的雰囲気の軟化が関係しているそうです。言語学でも、マール主義に取って代わったスターリン言語学が崩壊し、西欧に目を向けて新しい言語学を受け入れる素地が作られました。「ごく一般的な理念としてマルクス・レーニン主義の言語理論がもちだされても、以前のように直接的にそれと研究とをこじつけるようなことはしないで、問題を純科学的に扱おうとする態度がはぐくまれた。こうしてスラヴ言語学のすぐれた伝統と西欧からの新しい言語理論(構造主義)をふまえて新しいソヴィエトの言語学が着々と成長してゆくことになる」(p. 69)そうです。

構造主義は「文芸批評が他の領域から独立した存在とみなし、社会的な認識の特殊な形式として芸術を追求しようとする。そしてその芸術性、芸術的価値というものを単一要素とみなさずに、諸々の要素がもつ機能の総体とし、そのモデルを構築しようとしてい」(p. 71)きます。「モデルとは内在的な関係を、機能を出来るだけ近似的に生み出すと考えられる体系で、いうなれば作品のもつ構造の再現であり、顕在化なのである。対象そのものの本質、実態は不可知であるから、それに近似的な効果を生み出すような何かを作り出すほかない。」(p. 71)そして、言語の研究からスタートすべきであると考えられていたそうです。このモデルを構築する方法には2つあると著者は述べます。「一つは数理的な方法であり、確率論、統計学、情報論などを駆使するもの、今一つは思弁的な方法である」(p. 71)と説明されます。特に前者に関しては、生成文法が紹介された後、それが機械翻訳と結びつき、結果として数理言語学が発達したソヴィエト(p. 69)においてはより盛んに研究された方向性のようです。しかし、「数理的方法が極端化されると、えられた結果と究極的なイデーとの必然的な関係の指摘が放棄され、直接的に感情を満足させることなく、丁度物理学で宇宙の認識が数式でなされるように、言葉以外の純理知的な媒体によってモデルを作ることで満足するようになる」(p. 71)という問題点があります。ただし、このような数理的な方法は20世紀以前にも行われており、さらに20世紀に入ってもシンボリズムやラップの中で類似した研究があったそうです。ただし、今回の構造主義においてはサイバネチックスとの結びつきが強いことが一つの特徴として指摘されていました。もう一つの思弁的な方法は、「数理的操作を行うとき、規準を選定するための直感的思考であり、これは意味附与の行為」(pp. 71-71)となります。ただし、数理的な方法と思弁的な方法は二者択一的なものではなく、両者は相補的な関係にあります。

ソヴィエト内で構造主義を標榜した人はほとんどが数理言語学者、数学者だったそうです(例外はロトマン)。それに対して、一般の文学研究家(伝統的文学研究者)は純粋に文学研究を専攻した人たちだったそうです。両者の間には論争が起こりましたが、平行線をたどり今日に至っているそうです。両者が対立している原因ですが、著者は結局言語学者と数学者が自分の領域の一つの可能性を実証するために文学に構造主義を持ち込んだきらいがあること(伝統的文学研究では文学研究における数量化を嫌うため、一層この点は対立の原因となったようです)、「第二に政治的事情が挙げられる。文学というものは人民の心情に直接的に影響を与え、ある時代の文化の傾向をもっとも端的に総合的に反映するものであるから政府も当然その動向に大きな関心を払わざるをえない。新しい形式・傾向というものはまかりまちがえば反体制に結びつかないともかぎらないから警戒の目をもって迎えられる。ところで構造主義というのは物の本質、実体は直接的には認識しえないというブルジョア哲学のカント主義、新カント主義にもとづくものであり、唯物弁証法とも対立するし、文学の自律性、経済的な因果関係をふまえた歴史及び社会学的実証主義に立つ政府にしてみれば政策的に好ましいとはいえない。こうした訳で文学者に対してはしめつけが厳しいが、構造主義者の方は、構造主義言語学が自動翻訳、サイバネチックスの問題と深く結びついているために政府の科学優先主義をかくれみのとして公然と構造主義を標榜できるのである。文学の研究がそうした科学研究の課題の一つのような観がするのはそのためである。」(p. 74-75)ということが指摘されていました。そして、究極的にはこの対立は「美は科学的認識の対象たりえるか、ということと、歴史主義か機能主義かの問題になる」(p. 75)と著者は指摘します。しかし、両者が対立し続けるのは文学研究にとって非常にマイナスであると著者は考えています。伝統的研究もこれまでの研究を反省した上で科学的たりえなくても科学性を思考することは大切なことです(そうしないと文学研究は停滞してしまうと著者は考えています)。また、構造主義者もこれまでの伝統的研究を再評価し、文学とは何かという根本的な問題に取り組まなければ、「一方的に機械化し、文学研究にとって真に価値あるものが見失われ」(p. 74)るかもしれないとしています。結局、両方のアプローチが手を取り合うことが必要ということになりますね。

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朝妻恵理子(2009).「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論-言語の「転位」-」を読む(『スラヴ研究』)

ヤコブソンの6言語機能モデルを近接性という観点から整理しなおした力作の論文です。私も、これまでヤコブソンのメトニミーという考えがいまいち整理しきれなかったのですが、この論文を読んでかなり明確に理解することができました。

朝妻恵理子(2009).「ロマン・ヤコブソンのコミュニケーション論-言語の「転位」-」.『スラヴ研究』,56,197-213.

感想:ヤコブソンの6言語機能モデルについては、「複雑でたようなはずのコミュニケーションが線的な図式に収められ、双方向的な作用が無視されているという批判や、コミュニケーションを構成する話し手や聞き手といった主体や時間性を構造主義的方法論にしたがって排除しているといった批判」(p. 198)を受けることがありますが、著者はこれらの批判を当を得ていないと考えています。そして、これらの批判点をそれぞれ反証していきます。

まず、最初の批判点ですが、著者はヤコブソンの理論におけるコードという概念を整理するところから始めます。ヤコブソンは、人は地域、性、階級などによって異なる社会的・個人的コードを持っていると考えています。そして、話し手と聞き手の間でコードが一致することは稀であり、話し手は聞き手のコードを推測しながら(「聞き手に自分を順応させながら相互理解を得よう」(pp. 199-200)としながら)コミュニケーションをしていると考えました。したがって、コミュニケーションにおいて誤解や理解にずれが出るのは当然と考えていたそうです。ちなみに、ヤコブソンがコードという用語を使った理由は、ソシュールが静的で単一の体系をラングと呼んだのに対して、彼は社会的・個人的な種々の変異を指すためであったそうです。また、6言語機能モデルには、名前の通り6つの機能が区別されています。これらは、同時に作用することが想定されています。これらのことを踏まえて、著者は「ヤコブソンは、コミュニケーションにおいて話し手と聞き手が複数のコードを効果的に変換し、かつ状況に応じて複数の言語機能を折り重ねながら作用させる点に着目し、「動態、すなわち、言語の全体の内部における下位コードの相互作用が、言語学の共時性の枢要な問題」(Jakobson)として言語の動的な階層構造を主張している」(p. 201)とまとめていました。

次に、結合、近接性、メトニミー、という非常に密接に関連している概念について整理していきます。ヤコブソンはソシュールの連合と連辞という考え方に賛同し、「選択はメッセージではなく、コードのなかに存在し、結合はコードとメッセージの両方、または実際のメッセージのなかにおいてのみ存在する」(p. 202)と考えたそうです(ただし、このこれら2つの区別はクルシェフスキが1883年に提出したものが元々です。そして、ホーレンシュタインによれば、クルシェフスキとヤコブソンは連辞的結合という概念に近接性の原理を含めているのに対して、ソシュールは含めていないそうです。また、リクールはヤコブソンの結合をコードとメッセージ両方に存在するとする考えを批判しているそうです。)。そして、ヤコブソンは「コード-選択-類似性-メタファー」と「メッセージ-結合-隣接性-メトニミー」というふうに関係づけて議論を展開することとなりました。特に、ヤコブソンはメトニミーの方に着目し、メトニミーを使った転位に関心を寄せます。特に、部分-全体または原因-結果の関係に見られる内的近接と時間的・空間的近接に基づく転位であるメトニミーに注目をしたそうです。

ヤコブソンは特にパースの指標性としての近接性の議論を背景としながら議論を展開します。ヤコブソン自身「パースの著作を役立たせた最初の言語学者」と自負しているそうです。しかしながら、ヤコブソンのパース解釈には誤解が含まれているとのことでした。著者は、さらにパースの考え方が現代言語人類学にも大きく影響を与えたことに触れています。その例としてハイムズのSPEAKING、シルヴァステインの理論が紹介してありました。これら現代言語人類学では、パースのもともとの考えである指標性としての近接性に基づいて理論が展開されたのですが、どうやらヤコブソンはそのようには考えなかったようです。

しかし、ヤコブソンがパースにもっとも関心を寄せていたのは、「意味とは「ある記号の、ほかの記号体系への翻訳である」」という定義だそうです。ここでコードの問題との接点が出てきます。結局話し手が聞き手に何かを伝達する際は、自分の言いたいことを完全に等価的に記号に翻訳できるわけではありません。常に近似的な翻訳をするしかないということになります(それは、自分が翻訳できないこともあれば、他人のコードの合わせて翻訳をしなければならないなど、様々な理由があります)。ヤコブソンは「意味したい対象からその近接物へと視点をずらすことによって表現を可能とし、このとき必ず意味の転位を生み出している」(p. 205)と考えたそうです。このずらしがあるからこそ表現が豊かになり、自然言語の創造性を生み出していると考えています(これは芸術の言語だけでなく日常言語においても同様と考えられています)。

一方の聞き手も、与えられたメッセージを完全に等価的に基づいて置き換えるわけではありません。ヤコブソンは、聞き手はメッセージを推論によって全体的に理解するとしています。したがって、ヤコブソンに言わせれば、シニフィアンとシニフィエは表裏一体の結合物ではありません。同一性と際に基づいて両者の関係を考えたソシュールと違い、これらはお互いに同一性が不十分であると考えられています。「記号と対象との同一性(AはA1である)が直接的に自覚されるのと同時に、その同一性が不十分なものである(AはA1ではない)という直接的な自覚もまた必要」(Jakobson)であるとし、つまりは言語記号に備わる「近接性」を強調している」(p. 206)と著者は解説しています。そして、「話し手も聞き手も言語記号の同一性に基づいて語り、理解しているのではなく、近接性に依拠して言語を用いる。いわわ「同一性から近接性への逃避」(Jakobson)によって、話し手も聞き手も現実世界と結ぶつくことができる。またコミュニケーションにおいて、しばしば誤解が生じて相互理解に至らないのは、話し手も聞き手も言語の近接性に基づいてコード化・コード解読をおこなっているためである。」(p. 206)とまとめていました。

次に2つ目の批判点について論じられます。まず、ヤコブソンは聞き手を重視します。聞き手は決してメッセージを受身的に理解するような存在ではなく、能動的な解釈者(聞く主体)であると考えたそうです。ソシュールは語る主体の意識から研究をスタートしていることと対照的です。そして、ヤコブソンにとって話し手の方がむしろ自分の言いたいことを近接的に翻訳せざるをえない不自由な存在であると考えています。また、ヤコブソンの聞き手重視の姿勢は彼の弁別素性の研究にも表れています。ヤコブソンは、音素を分析するさいに調音の観点からだけでなく聴覚の観点からも研究することを強調しています。このような姿勢はまさに言語を手段と考えている機能主義の観点と一致しています。

彼の聞き手重視の姿勢は文学作品の分析にも表れています。彼はマヤコフスキイに代表されるような抒情詩は一人称「わたし」の視点からものごとが眺められ、そこにはメタファー表現(「わたし」の付属物)があふれているとします。それに対してパステルナークのような叙事詩や散文では一人称「わたし」をまわりのあらゆるものに近接的に置き換えるメトニミーにあふれているとします。そして、「外在的な主体からフォーカスを合わせるメトニミーの表現においては、読み手は主人公あるいは語り手という絶対的な主体から解放され、個々の状況に応じてさまざまな角度から生き生きとした描写を知覚することができる。メトニミーは近接性に基づいて意味に豊かな幅をもたせるだけでなく、固定されない動的な視点を知覚する読み手にもたらすのである。」(p. 210)と、ヤコブソンがメタファーよりもメトニミーを重んじる理由が説明されていました。その他、(1) 話し手と聞き手は頻繁に入れ替わること、(2) 語の意味は所与の状況下で分析することが必要であること、(3) 言語記号自体は固定した絶対的な視点を持たないこと、さらに (3) のことから (4) 自身の空間や時間から離れたことについても語ることができること、が可能になると説明されていました。

結論部分ではこの論文の総括がなされます。「ヤコブソンは言語に関しては「近接性」に基づいた記号のずらしの性質に注目し、また言語の担い手である主体の問題に関しては、コミュニケーション論で理論的に想定されるような普遍的な主体の存在を拒否し、意味が生産されるたびに入れ替わり立ち代りにあらわれる語る主体と聞く主体に目をつけ、言語においても主体においても中心的な視点を定めることを避けていた」(p. 212)、「ヤコブソンの考える「全体性」は、解釈学的循環のように理解の構造を個は全体から、全体は個から捉えるという、個と全体という対立に立脚したものではない。ヤコブソンはコミュニケーションに関して、繰り返し得ないものの反復性を見いだし、「構造」という概念に回収できない「全体」という概念を想定したのである。「話すという出来事」はその場一回限りのもので、話し手にとっても聞き手にとってもはじめてのものであるにもかかわらず、話し手も聞き手も理解し合えるのは、「話すという出来事」が言語の脱中心化の作用によって全体で捉えられるためである。言語は個々の因子において一点に集中化せず、その周縁において作用することが可能なコミュニケーション・ツールである。」(p. 213)、「ヤコブソンは一般に構造主義的言語研究の先駆者の一人とされるが、言語現象の具体性を捨象し関係性の中秋つにのみ専念し、主体を消去して、一つの完結した言語構造の構築をめざしていたのではない。コミュニケーションにおいて、さまざまなレヴェルで「多層的階層」関係が成り立っていると考えていた。「言語は孤立し密閉した全体と解釈することができず、全体としても部分としても同時にみなければならない」(Jakobson)というヤコブソンの主張がコミュニケーション論からも明らかになった。」(p. 213)と説明され、本論文とヤコブソンの言語アプローチ全体の橋渡しがされていました。

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2012年3月29日 (木)

大瀧敏夫(2002).「医師・患者間の会話分析日米比較-「人生相談」テキスト・スキーマとの比較において」を読む(『金沢大学文学部論集 言語・文学篇』)

医師と患者の間の会話の構造(テキスト・スキーマ)について日米比較を行った研究です。同時に、ラジオでの人生相談と医師-患者間の会話の構造についても比較されています。大学院生時代、文学の経験的研究に関する著者の論文を読んで勉強をさせていただきましたが、今回はその内容とは異なるものです。卒論指導の一環として読みました。本論文の詳細は以下の通りです。

大瀧敏夫(2002).「医師・患者間の会話分析日米比較-「人生相談」テキスト・スキーマとの比較において」.『金沢大学文学部論集 言語・文学篇』,22,1-21.

感想:本論文では、最初に学問分野として会話分析が成立するまでの流れが解説されます(エスノメソドロジー、談話分析、テクスト科学、Text and discourse学会)。そして、本論文の目的が示されます。この論文では、「一つは医師・患者間の会話が日米でどのような相違があるかを明らかにすること、二つ目は医師・患者間の会話と人生相談のテキスト・スキーマの相違を明らかにすること」(p. 1)がその目的となります。

まず、医師・患者間の会話のテキスト・スキーマの日米比較についてですが、日米での共通点としては(1) 「全体の構成が途中の順序に繰り返しの相違はあるものの、挨拶、来診理由、口頭診察、身体診察、診断、治療、次回の診療日・挨拶という全体としてその構成は変わらないこと」(p. 14)、(2) 医師が会話をリードしていること、(3) 医師は割り込み発話などを使って患者の発話を補助・確認し両者間のコミュニケーションの維持に努めていること、が示されていました。また、日米の相違点としては、(1) 日本では来診理由や世間話に費やす時間が少ないのにたいしてアメリカではこれらは多いこと、(2) スキーマの戻り回数に違いがあること、(3) 日本では医師・患者共に発話が短いこと(日本では割り込みによって情報を補い合っているため、このような結果となっているようです)、(4) 日本では相槌が多いこと(アメリカでは聞き手は割り込みせずに黙って聞いているそうです)、(5) 日本では話し手が抑揚をつけて話していること、が示されていました。

次にラジオの人生相談におけるテキスト・スキーマとの比較の結果です。医師・患者間の会話のテキストスキーマとの共通点は、(1) どちらも全体の3分の1は医師と相談者が聞き手に回ること(この時間では、患者と相談を持ち込む客が発話の主導権を握っている)、(2) 全体としては医師や相談者が主導権を握っていること、(3) 医師や相談者の方が会話への割り込み率が高いこと(特に日本ではその割り込み率が顕著に高いようです)、(4) その割り込みの種類は情報確認のための割り込みと発話者にたいする情報補助のための割り込みであること、が示されていました。次に相違点ですが、(1) 会話の中間以降で人生相談では相談者が完全に会話の主導権を握ることになるが、医師・患者間ではその移行が完全ではないこと、(2) 発話交代の回数は人生相談では前半が多く、後半になると減るのに対して、医師・患者間の会話ではその頻度が逆になること、(3) 割り込み発話の回数で医師・患者間では会話の中間以降増大するのに対して、人生相談ではそうならないこと、(4) 割り込み発話の種類を見てみると、医師・患者間では情報交換を補助し確認しあうという会話が行われているが、人生相談では対立意見を持ち出して意見交換をするという会話が行われていること、が示されていました。

著者はこれまでの自身の研究と本研究を関係付けながら、次のような結論を述べています。それらは、(1) 「日本においては電話での会話と顔を合わせての会話では発話交代の相互行為に差がある」(p. 17)こと(ラジオの人生相談のように電話での会話では発話交代が少ないが、診療のように顔を合わせた会話ではその回数が多い)、(2) 相槌は電話での会話でも顔を合わせた会話でも日本がアメリカに比べてその回数が圧倒的に多いこと、でした。

また、この論文では調査方法(病院でのコミュニケーションを分析に使う際にどのように許可を取ったか)、データの分析方法、割り込みの種類を分析するための枠組み、が示してあり、分析結果以外にもとても面白い内容でした。医療コミュニケーションに関する文献も多く紹介してあります。とても勉強になりました。

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2012年3月23日 (金)

磯谷孝(1972).「ロシヤ形式主義詩学における≪手法≫の意義について」を読む(『東京外国語大学論集』)

ロシア・フォルマリズムの中で特にシクロフスキーを中心として議論された「手法」という概念について深く考察した論文です。

磯谷孝(1972).「ロシヤ形式主義詩学における≪手法≫の意義について」.『東京外国語大学論集』,22,19-28.

感想:著者はまず、ロシア人以外で詩学の形式的方法を唱えた人としてスイスのヴェルフリン(他の芸術分野から諸概念を導入して形式的方法を確立しようとしたそうです)を挙げます。また、ロシアでもアレクサンドル・ヴェセロフスキーとシンボリストのアンドレイ・ベールイがいるそうですが、やはり体系的に形式的方法について議論したはロシア・フォルマリズムが最初だそうです。この文芸運動においては、詩は「特別に組織された言語」(p. 19)とみなされ、芸術の目的は対象を「見える」ようにすること(ものを知ることではなくて知覚すること)と考えられ、芸術家は「「見ること」を実現するフォルムの創造を目指さなければならない」(p. 20)と考えられたそうです。次に、シクロフスキーが「手法としての芸術」を執筆するまでの流れが同時代の他の研究とのかかわりで説明されています(ヤクビンスキーの研究など)。

また、手法という概念についてですが、「形式主義者たちのいう手法というのは非常に広い意味を持つもので、どうやら詩的言語をもたらすものはすべて手法と見なされたようである」(p. 25)と述べられています。そして、この手法という概念には形式面と機能面の両方が含まれていると指摘しています(p. 26)。また、エイヘンバウムの主張を引用しながら、「初期を過ぎると次第に手法という用語が用いられなくなるが、その理由は、この言葉が連想させる伝統的な意味が邪魔になるのと、形式主義詩学が動態性を重んじており、それゆえに機能とフォルムの混同が不都合であることがしだいに自覚されてきたためである。手法は自動化した言葉をそこから引き出す方法であり、作用(機能)であると同時に、その結果でもある」(p. 26)と説明されています。そして、その手法の中ではそれに含まれる要素が互いに相互作用をすることで特定の機能を具現することになります。さらに、特定の機能が具現されるとき、ある要素は他の要素を従属したり、変形させたりし、これらを知覚することこそが芸術における形式の知覚であると説明されていました。

結論として、手法という概念は、「フォルムと機能という用語で置き換えた方が当を得たものであったことは明らかである」(p. 27)と、この概念の問題点が明確に指摘されていました。私も、手法という概念を論文などでよく使うのですが、この概念がはらむ曖昧さを明確に示してくれていたので、今後の論文執筆においてとても参考になりました。

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北岡誠司(1971).「≪詩的言語≫とは何か:言語学的アプローチ」を読む(『国文学:解釈と教材の研究』)

Roman Jakobsonの詩的機能の考え方を解説した論文です。Jakobsonの理論の土台となっている情報理論から丁寧に解説されています。

北岡誠司(1971).「≪詩的言語≫とは何か:言語学的アプローチ」.『国文学:解釈と教材の研究』,16 (10),40-47.

感想:情報理論の解説がかなりわかりやすく書かれていました(特にp. 41)。また、Jakobsonoの6言語機能モデルの説明において、「いわば、言語通信の構成要因を下部構造、実体的な基盤として、その上にその上部構造として言語機能が設定されるという、機能モデルである。≪志向≫がいわばその二つの構造を連結する。」(p. 42)という説明はとても分かりやすく、授業でこのモデルを説明するときにも役に立つと思いました。Jakobsonの6言語機能モデルについていまいちよく分からないという人にはお勧めの論文です。

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2012年3月19日 (月)

山取清(1998).「カール・ビューラーの『言語理論』と文体論」を読む(『独逸文学』)

ビューラーの言語論が文体論にも通じることを指摘したとても珍しい論文です。ビューラーの言語論の背景や基本的な考え方についてもわかりやすく説明されています。論文の詳細は以下の通りです。

山取清(1998).「カール・ビューラーの『言語理論』と文体論」.『独逸文学』,42173-191

感想:著者は、ビューラーは決して「文体」という用語を使用してはいませんが、彼の書いた『言語理論』には文章の巧みさと、読み手を飽きさせない理論展開がなされていることと合わせて、彼の「叙述」や「表出」(特に「叙述」)への関心から、「彼の研究の深奥では絶えずこの概念に対する意識が原動力として存在したと思われる」(p. 174)と主張しています。次に、ビューラーの理論の背景について、フッサールとソシュールの関係を整理していきます。フッサールに関しては、「ビューラーは、フッサールが「純粋文法」の中心概念として想定していた意味形式の複合法則を、言語における意味の生成のメカニズムを具体的に説明するモデルに適用できると考えた」(p. 176)と説明されています。それに対してソシュールとの関係については、「ソシュールにおいては、言語の社会的、慣習的性格を前面に打ち出すために、「ラング」が個人に存在しないことが強調されるが、ビューラーでは、記号間の差異や記号の体系よりもむしろ記号の意味作用の解明を目指すという力点の置き方の相違が問題となる」(p. 176)と説明されています。そして、ビューラーの記号学はむしろソシュールよりもフンボルトのエネルゲイアとしての言語、「すなわち言語の動的性格をとらえることを目指す」立場に近いと指摘されていました。

次にビューラーの言語理論の説明がされます。彼の理論の中心にはオルガノンモデルと4場図式があります。「「オルガノンモデル」では、中央に言語記号を表す逆三角形を配置し、それを取り囲む「事象と事態」、「送り手」、「受け手」という三つの契機との関係から、記号は「象徴」(Symbol)、「症候」(Symptom)、「信号」(Signal)の3種類に区別され、それぞれの意味機能に「叙述」(Darstellung)、「表出」(Ausdruck)、「呼びかけ」(Appell)という異なる名称が与えられる」(p. 178)と説明しています。4場図式については、言語形式を「発話行動」、「言語所産」、「発話行為」、「言語形成体」という4つの観点から規定するというものです。オルガノンモデルと4場図式についてのより詳しい説明はここでは省略したいと思います(詳しくは、本論文を読まれるか、ビューラーの『言語理論』を直接ご参照ください)。ビューラーは特に叙述と表出という機能に関して体系的にその役割を示そうとしたそうで、特に叙述に関してはヴェーゲナーの研究を基礎としながらその理論を精密に作り上げようとしていたようです(p. 183)。そして、その理論は同時代の構造主義言語学と大きく共通しているものの、元来心理学者であったことから独自の観点もみられるとしています(p. 183)。そして、ビューラーが叙述に関する理論を構成する際に、ヴェーゲナーの見解に基づいて場の理論することになったのですが(言語学でTrierが導入した「場」の理論とビューラーの場の理論には関係はないそうです)、その中で想定上の対象指示、共義的な場(素材的補助と品詞)、描写の傾向、といった概念の中に文体的なものへの関心が見られると指摘されています(ビューラーの場の理論の解説は本論文のpp. 183-187に詳しく解説されています)。彼は亡命という出来事によってこの理論を完成させることはできませんでしたが、プラーグ学派が「メッセージの形式的異化という操作を通して非慣習的な表現が作り出されるという、機能主義的な観点からのものであるのに対して」(p. 187)、ビューラーは「人間の創造的活動の最も重要な部分」(p. 187)と考えており、「人間の持つ根源的な性向という心理学的な観点から説明される」(p. 187)という違いがあるそうです。つまり、フォスラーと比較的近い立場にいるのかなと、思いました。とても勉強になりました。

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2012年3月14日 (水)

名執基樹(2011).「オートポイエシス論は文学テクストの夢をみるか?-ドイツ文学システム論争を超えて-」を読む(『ドイツ語文化圏研究』)

いつも論文で勉強させていただいている先生から新しい論文を送っていただき、勉強させていただきました。文学システム論についての論文で、私にとってはとても新情報の多い論文で、文学というものについての考え方をより広めてくれました。詳細は次の通りです。

名執基樹(2011).「オートポイエシス論は文学テクストの夢をみるか?-ドイツ文学システム論争を超えて-」.『ドイツ語文化圏研究』,951-91

感想:1980年代からドイツで徐々に研究がすすめられ、1990年代に久々のドイツ生まれの文学理論として地位を獲得した文学システム論について(ポスト構造主義が流行っていた時代にもシステム論自体はすでに存在していましたが、当時は古い理論と考えられていたそうです)、(1) 最近文学システム論と非常につながりの深いオートポイエシス理論が様々な分野が広がりを見せていること(さらに文学システム論の論文の執筆が盛んになりつつあること)、(2) 近年より新しい理論によってシステム論自体が新しい時代を迎えつつあること、という2つの理由から、現在において過去の理論を振り返ることが必要であると著者は述べ、特に3つの文学システム論および3つの立場の間の論争について扱っていきます。著者は、ズィーゲン大学を拠点としたS. J. シュミットらによる経験的文学理論、ボーフム大学を拠点としN. ルーマンの理論を基盤とした社会システム論(および、ライデン大学を拠点都市、同じくルーマンの理論を基盤とした社会システム論)、ミュンヒェン大学を拠点としT. パーソンズの考えを下敷きとした社会システム論について各理論の記述が丹念になされたあと、各理論がどのような点でお互いに論争となっていたのかをこれまた詳しく説明してくれています。私は経験的文学理論しか背景知識を持っていなかったので、新しいことがたくさんでした。従いまして、ここで各理論について、著者の論文での記述以上に要約することはできません。著者は非常にコンパクトに要点をまとめてくれていますので、興味のある方はこの論文を直接ご参照ください。文学システム論の論争は特に経験的文学理論とルーマンの理論を下敷きとした社会システム論の間で特に活発になされたようですが、著者も指摘している通り、文学テクスト自体をどのように扱うのか、オートポイエシス論をどう扱うのか、という2つの点において開始まもなく行き詰ってしまったそうです(この点も詳しくはこの論文を直接ご参照ください)。そして、90年代半ばに決着のつかないまま論争は終わってしまったそうです。

この論争からの教訓として、著者はテクストの扱いに関しては「社会性未満、個人性以上。テクストもハイブリッドなのである」(p. 84)という指摘がなされており、非常に重要な指摘であると思いました(かつての文学システム論は社会か個人かどちらかにテクストを位置づけようとしてしまったようです)。また、オートポイエシス論については、ルーマンのシステム論と同一視される傾向があり、こうした過度な一般化を行ってはいけないと指摘されていました。これらの問題点に加えて、文学研究がメディア研究化するにしたがって、文学システム論自体が少し停滞してしまったようだと述べています(p. 85)。しかし、近年新たな理論を援用することで、この停滞が打開できるかもしれないと著者は期待を寄せています。特に、「フィジカルな相を含む、ナチュラル・システムとしての文学システムを捉える観点」(p. 85)に著者は期待を寄せています。論文の第5節で、この観点がいかに期待できるものであるかが例示されており、とても納得させられます。

この論文は、勉強不足の私にとってはとても豊富な情報量で、論文の大まかな概要のみをここで述べさせてもらいました。文学システム論に関しては、辞書代わりとして手許においておきたい論文です。とても勉強になりました。ありがとうございました。この論文の内容に関心を寄せられた方は、ぜひ論文を直接ご参照ください。

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R.J.Gerrig(2011).「Individual Differences in Readers’ Narrative Experiences」を読む(『Scientific Study of Literature』)

読者の生活上の経験の違いが文学作品の読解に具体的にはどのような影響を与えるかということについて少し突っ込んで議論(論考)している論文です。論文の詳細は以下の通り。

Gerrig, R. J. (2011). Individual differences in readers’ narrative experiences. Scientific Study of Literature, 1 (2), 88-94.

感想:読者の経験は文学作品の読解に影響を与えると一言で言ってしまえばそれまでなのですが、著者はこの問題についてもう少し詳しく議論をしています。読者は生活上の経験が違えば、構築する心的表象も異なりますし、作品読解中に行う推論も異なります。また、読者は登場人物の行動と登場人物の目的が適合しないような場合には理解するのに困難を覚えることがすでに調査で明らかにされているそうですが、どのようなときに個々の読者が両者が適合していない(または適合している)と判断するかはやはり読者の生活上の経験の違いによって大きく異なることになるようです。また、著者は生活上の違いが作品への反応にも大きく影響を与えることについても強調しています。もちろん、読者の生活上の経験の違いは価値観、モラル、感情などの側面にも影響を与えることが予測されるため、著者は読者の生活上の違いがどの程度文学作品の読解に影響を与えるのかということもこれから積極的に調査していくべきであると主張していました。

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2012年3月 5日 (月)

P.Dixon&M.Bortolussi(2011).「The Scientific Study of Literature: What Can, Has, and Should Be Done」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学の経験的研究の成果、これからなされるべきこと、研究方法、文学の経験的研究が作り上げるべき理論、について整理してある論文です。詳細は以下の通り。

Dixon, P., & Bortolussi, M. (2011). The scientific study of literature: What can, has, and should be done. Scientific Study of Literature, 1 (1), 59-71.

感想:著者はまずこれまでの文学の経験的研究がもたらしてきた重要な点について説明していきます。それは "the object of literary studies should be the investigation of the interaction between reader and text, rather than simply the interpretation of texts or analysis of their style." (p. 60) という点で、著者はテクストと読者の相互作用のことをliterary processingと呼び、文学研究とはliterary processingの研究であるということを明確に示したことが挙げられていました。2点目は、literary processinの研究を認知面と情意面に分けて、それぞれの領域で研究を進めてきたことが挙げてありました。認知面については、読みの目的や文学読解を行うという期待がliterary processinに影響を与えることを示してきましたし、テクストのテーマはテクストと読者の相互作用の結果として、読者が多くの推論を行ったり、世界に関する知識を活用したり、一貫したメンタルモデルを構築することによって読者の中に心的に作り上げられる、ということを明らかにしてきました。情意面に関しましても様々な研究が行われてきています。このようなliterary processingの研究は、さらにこの処理が読者の特性によってどのように異なるのか、社会システムとどのように関係するのか、といった研究にも発展してきています。

次は、これから何がなされるべきか、ということについてです。まず、文学教育などのようなsocial conditioningがliterary processingにどのように関係するのかということがほとんど研究されておらず、このことについて今後研究が急がられると述べられていました。次に、文学の受容とその文脈の関係についてもまだあまり研究されていません。現在、その文脈についてはポスト・コロニアリズムやフェミニズムなど様々な観点が提案されていますが、ある特定の観点がいかにしてあるテクストの特定の読みを生み出すのかという点が研究されなければならないと述べられていました。また、このことを行うためには、まず文脈的要素の中のどの要素が科学的に研究できるのかということも見極める必要があるとも述べられていました。第3に、テクストの記憶についても調べる必要があると述べられています。一般的な談話処理研究ではテクストの記憶研究は盛んに行われていますが、こと文学読解になると研究がほとんどありません。この理由は、文学理論が理想的な文学読者のモデルを中心に研究を進めてきて、理想的な読者はすべての関連したテキスト情報を知覚、想起、処理できるはずであるという前提から研究が進められてきたことによるのではないかと著者らは分析しています。文学の経験的研究は実際の読者の読みについて研究するため、このような理想モデルに基づいた研究に固執するわけにはいきません。また、読みの期待が読解に果たす役割や文学読解の感情的側面についてももっと研究が重ねられなければならないと述べられていました。

次は研究手段についてです。テクストを理解するための研究手段、読者を理解するための研究手段、文脈を理解するための研究手段に分けてその手段が列挙されています(かなりありきたりの内容でしたので、このブログでは割愛します)。

また文学の経験的研究は理論を構築していく必要があります。どのような理論を作り上げる必要があるのかということについて、著者はrelational description(文学読解にかかわる様々な変数の関係の記述)、processing models、sociological accounts、authorship theories、models of reading in context、の5つをその例として挙げていました。

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千野栄一(1975).「プラハのヤコブソン-プラーグ学派の成立まで-」を読む(『言語』)

ヤコブソンのプラハに来てからプラーグ学派が成立するまでの間の活動について、その伝記的内容がまとめある貴重な文献です。

千野栄一(1975).「プラハのヤコブソン-プラーグ学派の成立まで-」.『言語』,4 (4),64-69.

感想:ヤコブソンは1920年7月、23才のときにプラハへやってきたそうです(それ以前は18才のときからモスクワ言語学サークルのメンバーとして活躍していました)。彼は決してソビエト政権から亡命してきたのではなく、「ソビエトから派遣された「ロシア赤十字使節団」の一団員としてで、この使節団はプラハのソビエト外交機関に属する公式なものであり、ヤコブソンはそこの役人として来たわけである」(p. 65)と説明がありました。モスクワ言語学サークルでは、学者と作家の結びつきが強く、詩の暗唱が行われたり、詩の討論が行われたりしていたそうで、ヤコブソンによってこの伝統がプラハに持ち込まれたことが非常に重要な点であると著者は指摘しています。したがって、プラーグ学派は学者と作家の接点が多いという伝統の上に構築されたことになります。この記事の中には、プラーグ学派ができる以前にいかに学者と作家の接点が多かったかということを伝える資料が整理してあります。

また、マテジウスとヤコブソンの接点についても詳しく書かれています。マテジウスはヤコブソンがプラハへ来てすぐに彼に葉書を送り、話合いを持つことができたそうです。ヤコブソンはマテジウスの考え方を非常に高く評価していたようです。特にマテジウスが行った教授就任講演での「言語現象には一定のゆれがあり、そこに変化の潜在性を認める考え方」(p. 67)はヤコブソンを驚かせたそうで、「もしこの講演が一九一一年にモスクワでなされていたら、モスクワでは言語学に革命がおこったのに」(p. 68)という言葉を残しているそうです。ちなみに、1964年にこの講演の英訳が出た際に、ホケットはその斬新さにとても驚いたそうです。また、このマテジウスの考え方はプラーグ学派の「言語は構造をなす」というテーゼにとってはアンチテーゼにあたるため、テーゼの前にアンチテーゼがあったという極めて重要な事柄でもあると著者は指摘します(p. 67)。

1925年3月13日にマテジウスは、ヤコブソン、トゥルンカ(マテジウスの弟子にあたるそうです)、カルチェフスキーを呼び、さらに10月14日にはハブラーネックも招いて話し合いを行い、1926年10月6日に第一回プラーグ言語学派の会合が開かれるに至ったそうです。1926年12月にムカジョフスキーが加わり、1945年まで「マテジウスを中心に、ヤコブソン、トゥルンカ、ハブラーネック、ムカジョフスキーという体制」が続くことになったそうです。また、トゥルベツコイについても触れてあります。トゥルベツコイは当初プラーグ学派にはあまり関心を示さなかったようです。ですが、徐々にそのプラーグ学派の斬新な考えに魅了され、結局2年後にこの学派に参加することになったそうです。ですので、一般にトゥルベツコイはプラーグ学派の創始者の一人と考えられていますが、それは間違いであると指摘されていました。

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水野忠夫(1963).「ソビエト 「形式主義」批判の復活」を読む(『新日本文學』)

1960年代のソビエトにおける芸術の形式主義をめぐる動向について触れてある希少な記事です。記事の詳細は以下の通りです。

水野忠夫(1963).「ソビエト 「形式主義」批判の復活」.『新日本文學』,18 (4),154-157.

感想:この時代、ソビエトでは形式主義批判が徐々に盛んになっていきているという状態があったそうです。作家は意欲的に芸術活動に取り組み、形式主義的な工夫をこらした作品を多く生み出していたそうですが、政府がこのことにストップをかけたがっていたようです(政府はこのような芸術運動は過去への逆行であると考えていたようです)。ソビエトでは1930年代にも形式主義批判(または、ロシア・フォルマリズムの批判)が行われています。1930年代の命式主義批判について、著者は「三〇年代の形式主義批判は、二〇年代の芸術のアヴァンギャルドたちの大胆な芸術方法の探求と革命的パトスを否定しつつ、芸術の分野におけるスターリン・ラインの確立を志向したものであったが、血の粛清という政治的強制までつけ加えておこなわれたのであった」(p. 156)とまとめています。このことと同じことが再びソビエトで起こるのではないかという危惧があったようですが、そういったことが再び起こることはないだろうというのが多くの人々及び著者の件かいとして示されています(p. 157)。しかしながら、形式的な工夫をして作品を作ろうとしている若い芸術家たちにとって厳しい時代であることは間違いはなく、「若い世代の芸術家たちが今回の試練に耐え、自己の芸術の方法意識を深め、芸術の自律性をいかに回復させるかという課題を追求して、芸術的抵抗を行えるかどうか、そのことを、われわれは、今後更に強化されるであろう芸術に対する政治の側からの攻撃と共に、注目しなければならないだろう。この試練に堪えぬいた時、ソビエトの芸術は、はじめて、ゆたかな真の芸術を創造するだろう。」(p. 157)と記事が締めくくられていました。

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J.ムカジョフスキー(1934/1995).「文学理論」(千野栄一(訳))を読む(『ユリイカ』)

ムカジョフスキーが書いた論文ということで読んでみました。ですが、この文章は『カレル・チャペック散文選集』という本の冒頭に書かれた記事が訳されたものであり、その内容はカレル・チャペックの作品や批評に特化していました。私はチャペックという人に関して全く知識を持っていなかったため、内容を持て余してしましました。。。

ムカジョフスキー,J.(1995).「文学理論」(千野栄一(訳)).『ユリイカ』,27 (12),76-79.(原著は1934年出版)

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村井志摩子(1976).「ヤン・ムカジョフスキーとわたし」を読む(『テアトロ』)

演劇理論におけるヤン・ムカジョフスキーの重要性が書かれている論文です。著者はヤン・ムカジョフスキーと生前に交流があったそうで、その追悼の記事でした。タイトルにムカジョフスキーの名前があったので読んでみたのですが、演劇理論については私は全く知識がないので、その内容を持て余してしましました。記事の詳細は以下の通りです。

村井志摩子(1976).「ヤン・ムカジョフスキーとわたし」.『テアトロ』,395,62-65.

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住谷在昶(1987).「ロマーン・ヤーコブソンの「詩的機能」論」を読む(『国士舘大学教養論集』)

ローマン・ヤコブソンの詩的機能に関してとてもわかりやすく解説されている論文です。ヤコブソンの6言語機能モデルについてしっかりと理解したいという方にはお勧めの論文です。6言語機能モデルと通信理論や音響音声学(その中の弁別的素性)の関連性が非常に詳しく扱われているのがこの論文の特徴でした。また、レヴィ=ストロースとヤコブソンの共著であるボードレールの「猫」の分析の批判も集められていて、資料的な価値もとても高いと思いました。論文の詳細は以下の通りです。

住谷在昶(1987).「ロマーン・ヤーコブソンの「詩的機能」論」.『国士舘大学教養論集』,25,43-55.

感想:まず、6言語機能モデルとその背後にある通信理論の関係について詳しく説明してくれているのがとても珍しい論文だと思いました。そして、「メッセージは言語の形式面を表す概念であって、その意味は、受信者がコードに基づいて解読することにより与えられる、と解される」(p. 46)、「言語は、こうした6つの機能が束になった総括的コードである。(これらの機能はその下位コードである。)」(p. 47)といったついついヤコブソンの理論で誤解されがちな内容についても強調されているのがとてもありがたかったです。また、ヤコブソンは調音音声学ではなく音響音声学の立場に立ち音韻論を整理し、それがどのように彼の6言語機能モデルと関係しているのかということも詳しく解説されています。この説明の中で著者は、「弁別特性が語や音節や音素と同じように言語の構成要素であるなら、言語行為は、継起的であって、共起的ではない、とするソシュルの原則は修正されねばならない。従って、話し手が言語要素を結合してメッセージにしあげる際に、同時的存在の共起という仕方と、継起的存在体の隣接という仕方との二重の作業が必要である。」(p. 50)、「もしも、弁別特性が、弁別的であって、かつ、同時に存在できる言語要素であるという点で等価であるとすれば、音素は選択の軸上に位置する1つ以上の等価な存在体の束であると言い得る。(改行)…「音素は弁別特性という同時的存在体の共起による束である」という定義の背後に、「選択」という原理がある、と言えるのであって、これは、メッセージを送る際に、類義語の中から1語づつ線b託しつつ、それらを結合してメッセージに仕立てる過程と共通である。ただし、語の選択は意識的に行えるのに対し弁別特性の個人による意識的選択は不可能である。」(p. 50)という説明をしており、ヤコブソンの理論の理解を深める上で非常に役立ちました。また、「等価原理の基づく選択と隣接性に基づく結合という言語記号の配列を決定する2原理は、言語以外の記号配列を決定する2極的原理として昇華され、人間の記号行動、すなわち文化的営みの基底にある2極原理として把握されようとしていることを理解する必要があろう」(p. 53)、という指摘も重要だと思いました。

最後に、レヴィ=ストロースとヤコブソンが共同して行ったボードレールの「猫」分析への批判が集められていました。具体的には、ジョルジュ・ムーナン(等価的な言語単位の内で、どれがなぜ詩の審美性に関与するのかが重要であるのに、これらの点について検討されていないという問題点)、ニコラ・リュウエ(文学的問題への言語学の介入は補助的にとどまるべきである。言語学では作者の世界観を扱いきれない。分析に使用する言語学は構造言語学ではなくて生成文法であるべきである。また、等価的な言語単位の内で、どれがなぜ詩の審美性に関与するのかが重要であるのに、これらの点について検討されていないという問題点)、ミカエル・リファテール(等価な言語単位の分析は平均的な読者でも気が付けるようなレベルのものに限るべきであるが、ヤコブソンらの分析はこのレベルをはるかに超えたものとなっている)による批判です。リュウエの批判には少し首をかしげるものも含まれていますが、ほとんどの批判点は重要だと思いました。

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2012年3月 1日 (木)

千野栄一(1970).「言語記号の非記号性」を読む(『言語学論叢』)

数理言語学が台頭しつつあった時代にあって、言語記号が一般的な記号とどのように異なっているのかを認識した上で、言語研究に取り組むことを提言した論文です。プラーグ学派の知見を議論に適宜取り入れつつ論が進められています。論文の詳細は以下の通り。

千野栄一(1970).「言語記号の非記号性」.『言語学論叢』,10,36-42.

感想:著者によると、構造言語学(著者は論文中では「近代言語学」と呼んでいます)もそれ以前の比較言語学も言語の記号性について認識している点では共通していると指摘します。この論文中で言語の記号性(言語記号と一般的な記号が共通して持つ特性)として挙げられている特徴は、(1) 必ず人間の感覚によって捕えられる必要があること、(2) 形式と意味の関係が恣意的であること、(3) 集団によって認められない限りは伝達の手段として社会的な機能を果たせないこと、(4) 記号同士はお互いに異なっている必要があること、の4点でした。しかしながら、言語記号と一般的な記号には重要な違いもあります。まず、言語記号の多義性が挙げられます。言語記号には同音異義語などがあり、言語記号は一般的な記号のように形式と意味が1対1できれいに結びついているわけではないということが指摘されます。2点目は、言語記号は一般的な記号と違って情報の伝達に加えて感情的な態度の表出なども行うということが述べられていました。3点目は、信号などの人口の一般的記号はコードが決して変化しないのに対して、言語記号ではそのコードは安定しておらず、常に不安定であるという特徴が挙げてありました。

数理言語学は言語記号を一般的な記号と同一視して研究を進めることとこの論文では考えられており、そのような研究では言語の一側面しか明らかにすることができないと著者は述べます。言語の非記号性は、構造言語学が登場した当初には言語学者に非常に強く認識されていたそうですが、サイバネティックス、電子工学、情報理論の進展に伴ってその重要性が忘れられてしまったと著者は述べます。そして、著者は改めて言語記号を非記号的性質を持ったものとして研究する方法を考えていくことの必要性を主張していました。

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池上嘉彦(1968).「Generative GrammarとStratificational Grammar再論」を読む(『英語青年』)

長谷川欣祐先生は「生成文法と『成層』文法」という論文で、生成文法の方が成層文法よりも優れた理論であるという主張をされたそうで、成層文法派の著者はそれに反論ないしはコメントをしているという論文です。著者によると、成層文法はかなり誤解された上で批判されていたようです。論文の詳細は次の通りです。

池上嘉彦(1968).「Generative GrammarとStratificational Grammar再論」.『英語青年』,114 (3),28-29,9.

感想:基本的に前回読ませてもらった成層文法の論文と内容がかなり共通しており、理解が助けられました。この論文で特に強調されていたのは、(1) 成層文法は文であろうが最終的には談話も同じ理論的枠組みで分析が可能になるという利点があること、(2) 成層文法が自然言語以外の記号体系の分析にも活用できることは決してその理論の欠点ではないということ(長谷川先生はこの点を成層文法の問題点として考えていたようです)、(3) 成層文法はcopmetenceのレベルだけでなく諒解行為というperformanceも同じ枠組みでかつ生成文法よりも自然な形で扱うことができること、(4) 成層文法も生成変形文法のように言語記述の重複性を解消する術を持っていること、(5) 成層文法の記述は実質的規定を具えたものであること(長谷川先生は成層文法の記述は実質的規定を欠いていると考えていたようです)、(6) 変形生成文法は構造言語学を批判する際の厳しさを伝統文法に対して向けていないこと、が指摘されていました。また、「SGがHjelmslevの考えの発展であると言うのは事実として正しくない。ある程度まで発展した段階でHjelmslevとの類似性が気づかれたというのが妥当で、発生的にはむしろHockettらの考えによるところが大きい。」(p. 153)と言理学との関係性についてもコメントがありました(ちなみに、Hockett自体は成層文法にも変形生成文法にも両方反対していたそうです)。また、成層文法の入門書としてS. M. LambのOutline of Stratificational Grammarがありますが、この論文が書かれた時点で、成層文法自身が理論修正を行っており、その内容はすでに古くなっていると指摘されていました。

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