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2012年3月 5日 (月)

千野栄一(1975).「プラハのヤコブソン-プラーグ学派の成立まで-」を読む(『言語』)

ヤコブソンのプラハに来てからプラーグ学派が成立するまでの間の活動について、その伝記的内容がまとめある貴重な文献です。

千野栄一(1975).「プラハのヤコブソン-プラーグ学派の成立まで-」.『言語』,4 (4),64-69.

感想:ヤコブソンは1920年7月、23才のときにプラハへやってきたそうです(それ以前は18才のときからモスクワ言語学サークルのメンバーとして活躍していました)。彼は決してソビエト政権から亡命してきたのではなく、「ソビエトから派遣された「ロシア赤十字使節団」の一団員としてで、この使節団はプラハのソビエト外交機関に属する公式なものであり、ヤコブソンはそこの役人として来たわけである」(p. 65)と説明がありました。モスクワ言語学サークルでは、学者と作家の結びつきが強く、詩の暗唱が行われたり、詩の討論が行われたりしていたそうで、ヤコブソンによってこの伝統がプラハに持ち込まれたことが非常に重要な点であると著者は指摘しています。したがって、プラーグ学派は学者と作家の接点が多いという伝統の上に構築されたことになります。この記事の中には、プラーグ学派ができる以前にいかに学者と作家の接点が多かったかということを伝える資料が整理してあります。

また、マテジウスとヤコブソンの接点についても詳しく書かれています。マテジウスはヤコブソンがプラハへ来てすぐに彼に葉書を送り、話合いを持つことができたそうです。ヤコブソンはマテジウスの考え方を非常に高く評価していたようです。特にマテジウスが行った教授就任講演での「言語現象には一定のゆれがあり、そこに変化の潜在性を認める考え方」(p. 67)はヤコブソンを驚かせたそうで、「もしこの講演が一九一一年にモスクワでなされていたら、モスクワでは言語学に革命がおこったのに」(p. 68)という言葉を残しているそうです。ちなみに、1964年にこの講演の英訳が出た際に、ホケットはその斬新さにとても驚いたそうです。また、このマテジウスの考え方はプラーグ学派の「言語は構造をなす」というテーゼにとってはアンチテーゼにあたるため、テーゼの前にアンチテーゼがあったという極めて重要な事柄でもあると著者は指摘します(p. 67)。

1925年3月13日にマテジウスは、ヤコブソン、トゥルンカ(マテジウスの弟子にあたるそうです)、カルチェフスキーを呼び、さらに10月14日にはハブラーネックも招いて話し合いを行い、1926年10月6日に第一回プラーグ言語学派の会合が開かれるに至ったそうです。1926年12月にムカジョフスキーが加わり、1945年まで「マテジウスを中心に、ヤコブソン、トゥルンカ、ハブラーネック、ムカジョフスキーという体制」が続くことになったそうです。また、トゥルベツコイについても触れてあります。トゥルベツコイは当初プラーグ学派にはあまり関心を示さなかったようです。ですが、徐々にそのプラーグ学派の斬新な考えに魅了され、結局2年後にこの学派に参加することになったそうです。ですので、一般にトゥルベツコイはプラーグ学派の創始者の一人と考えられていますが、それは間違いであると指摘されていました。

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