« 2011年9月 | トップページ | 2012年3月 »

2012年2月29日 (水)

R.Jakobson(1971/1985).「Sign and System of Language: A Reassessment of Saussure's Doctrine」を読む(『Verbal Art, Verbal Sign, Verbal Time』(K.Pomorska&S.Rudy(編)),Basil Blackwell)

Jakobsonが直接的にSaussureの言語観を評価している論文です。先週読んだ論文にも言及があり、興味がわき、読みました。論文全体としては、今後言語学がますます進展していくために考え直さなければならない点が提起されているというもので、その提起点にはSaussureの理論に直接関係する点とそうでない点が含まれていました。Saussure批判という形でこの論文を解釈するよりは、言語学が発展する上で言語学者が考えるべきことについてまとめられている論文とみなした方がよいように思いました。論文の詳細は以下の通りです。

Jakobson, R. (1985). Sign and system of language: A reassessment of Saussure's doctrine. In R. Jakobson, Verbal art, verbal sign, verbal time (K. Pomorska & S. Rudy eds., pp. 28-33). Oxford: Basil Blackwell. (Original work published 1971)

感想:これは1959年10月2日に西ドイツのエルフルトで開催されたthe 1st International Symposium "Sign and Sytem of Language" で行われた講演に基づいたものとなります。さて、Jakobsonはこの論文の中でSaussureの理論の中で再考が必要と考えられる点について指摘していきます。まず1点目ですが、Saussureの記号の恣意性という考え方についてその問題点を指摘します。Jakobsonに言わせれば、 "from the synchronic point of view of a language community using linguistic signs, one must not ascribe to them an arbitrary nature." (p. 28) と述べ、共時的観点から考えるとむしろシニフィアンとシニフィエの関係は義務的であると述べます。 同様に"The relation between a signans and a signatum, which Saussure arbitrarily described as arbitary, is in reality a habitual, learned contiguity, which is obligatory for all members of a given language community." (p. 28, emphasis in original) とも述べています。そして、むしろKruszewskiによって導入された言語の二つの関連、類似と近接という観点から考える必要があるのではないかと主張していました。なお、恣意性という概念が特にうまく機能しない場合として、同一語根をもつ言葉の間の類似性と音象徴に言及がされていました。

2点目は線状性についてです。Jakobsonはこれはきわめて危険な単純化であると批判しています。線状性はシンタグマティックという概念と強く関係づけられ、単純に時間的連続として議論されますが、著者はそこにはもっと複雑な問題が隠れているとします。 "Thus, I believe that the term "symtagmatic" is often misleading, since when referring to syntagmatic relations we think of successivity in time; however, besides the combination in temporal succession, we must deal also with combination of simultaneous features. It would be advisable in this respect to speak simply about combination, seen as contrasted to another factor, namely, selection. Selection of units or of their combinations, in contrast to combination per se, belongs to the paradigmatic level of language. It is substitution, as distinguished from both simultaneously and successivity. In selection, the principle of equivalence, or association by similarity, asserts itself." (p. 29) つまり、Saussureが線状性と呼んだものの中にはここで説明されているような「選択」といった複雑な操作が含まれていることを認識する必要があります。

3点目は、個人的には少しSaussureの議論とは離れたように感じたのですが、シニフィアンとシニフィエそれぞれの領域でそれぞれそのthe basic invariant(不変形)を発見する必要があると述べます。日ごろ、言語記号はコンテクストに依存しながら私たちに様々な異形態(variant)として姿を現しますが、シニフィアンは音声学的な観点から、シニフィエは意味論的な観点から、あくまでも言語学の中で客観的にその不変形が突き止められていく必要があると述べていました。

4点目は再びSaussureの議論に戻り、通時態と共時態の分離に関する問題点が指摘されます。Jakobsonは、この両者の分離を元に戻す必要があると考えています。そもそも、ソシュールは通時態を動的なもの、共時態を静的なものと考えましたが、このことがそもそも間違いであると指摘しています。そして、以下のように述べていました。 "Saussure's identification of the contrast between synchrony and diachrony with the contrast between statics and dynamics turned out to be midleading. In actual reality synchrony is not at all static; changes are always emerging and are a part of synchrony. Actual synchrony is dynamic. Static synchrony is an abstraction, which may be useful to the investigation of language for specific purposes; however, an exhaustive true-to-the-facts synchronic description of language must consistently consider the dynamics of language. Both elements, the point of origin and the final phase of any change, exist for some time simultaneously within one language community. They coexist as stylistic variants. When taking this important fact into consideration, we realize that the image of language as a uniform and monolithic system is oversimplified. Language is a system of systems, an overall code which includes various subcodes. These variegated language styles do not make an accidental, mechanical aggregation, but rather a rule-governed hierarchy of subcodes. Though we can tell which of the subcodes is the basic code, it is neverthless a dangerous simplification to exclude the discussion of the other subcodes. If we consider langue as the totality of the conventions of a language, then we must be vary careful not to be researching fictions." (pp. 30-31, emphasis in ogirinal) つまり、Jakobsonは言語体系というものはもっと動的なものとみなしたうえで研究することが必須ということになります。

5点目は、再びSaussureからは離れて言語学における記号の性質について注意が向けられます。Jakobsonは、 "what is real linguistic convention that enables exchange of speech in a given language commjnity and serves effectively the various tasks of communication?" (p. 31) という問題に言語学は取り組む必要があると考えており、このことを考えるにあたってシンボルとは何であるのかということについてしっかりと把握していく必要があると述べます。Peirceは言語記号をindexとsymbolに分類していますが、言語学が研究対象として扱うのはsymbolとなります。そして、 言語学はコミュニケーションの中で人々がsymbolを交換する際に機能しているコードをメタ言語に置き換えることがその仕事であると考えています。

6点目はBohrに言及しながら、言語観察を行う際に観察者と観察対象の関係を前もってしっかりと理解しておくことが必要であるという点が指摘されていました。Jakobsonは特に話し手と聞き手どちらの立場で観察を行うのかということは明確に認識されなければならないと考えています。また、翻訳による言語観察方法に関してもこれから積極的に研究に取り入れられていくべきであると述べてありました。

6点目のようなことは最近質的心理学などでよく議論されることではあるのですが、以前読んだパイクのタグミーミックスも合わせて、案外言語学ではこの点は古くから認識されていたのだなと思いました。私個人としては正直意外でした。

| | コメント (0)

豊田昌倫(1980).「文体論再考」を読む(『文体論研究』)

いつも学会等でお世話になっている先生が1980年に書かれた論文です。1980年前後というのは英語文体論では結構重要な文献が数多く出版された時期ですので、当時豊田先生はどのようなお考えを持っていたのかなということに関心があり、読ませていただきました。著者は、1980年という時代にあって、文体論が今後発展ないしは力を入れていく方向性として2つのものを提示しています。論文の詳細は次の通りです。

豊田昌倫(1980).「文体論再考」.『文体論研究』,27,91-101.

感想:著者は、日本の文体論は小説の文体に限定して研究を進めてきた観があるとその研究対象の狭さを指摘したあとに、「現代英語の用法調査」で使用されたコーパスの見取り図を示し、フィクションだけでなくノンフィクションの文体、さらにはありとあらゆる談話の文体(広告や新聞など)についてその分析に取り組むべきであるとその指摘しています。当時の海外の研究は、すでにフィクション外のスタイルに積極的に取り組んでいる研究がかなりあったようです。もう1点は、「外国語の文体研究は決して秘儀的な理論の追及に終わることなく、言語学習とも関連をたもち、文体感覚の涵養にさらに力が注がれなければならない」(p. 98)という点でした。このことばは、英語文体論が頻繁に英語教育に対して提言を行っている現在にも引き継がれている点であると感じました。著者は、英語以外の言語の文体論研究を豊富に引用しながら、文体論と言語学習の関連がいかに密接であるかを提示してくれています。

| | コメント (0)

2012年2月28日 (火)

泉尾洋行(1980).「科学理論的視点からみた経験的文芸理論の構築の可能性-文芸学におけるPragmatik-」を読む(『エネルゲイア』)

文学の経験的研究が自らが科学的アプローチであるあることを担保するためにいかにしてKuhnやSneedの科学理論を活用したのかが詳しく説明されている論文です。大学院生時代から、文学の経験的研究を科学理論に位置付けようとしてきた論文を何本か読んできましたが、これまで読んだ論文の中で最も理解しやすく、また自分の中で多くの情報を消化することができました。この論文では、なぜ文学の経験的研究がこのような科学哲学を活用するにいたったのかといった背景情報や、科学哲学で理論武装した文学の経験的研究への著者による評価などが書かれているため、このあたりの情報を整理する上で非常に有益な論文であると思いました。まず、Finkeが経験的文芸理論の構築のためにKuhnの理論を援用し、構成的機能主義の枠組を作り上げたようです。そして、理論構造の中心構造の中の一要素であるメタ理論に関してSneedの理論が取り言えれられたようで、いわばKuhnの理論とSneedの理論が入れ子構造になっている印象を受けました。そして、Sneedの理論に基づきながらS. J. Schmidtは独自の理論を作り上げたようです。この論文の詳しい情報は以下の通りです。

泉尾洋行(1980).「科学理論的視点からみた経験的文芸理論の構築の可能性-文芸学におけるPragmatik-」.『エネルゲイア』,7,57-71.

感想:文学の経験的研究が科学理論を援用したのは次の2つの目的によるそうです。それは、「(1) 文芸理論という対象理論の経験科学的妥当性をKuhn-Sneed-理論…の科学理論的視点を介して検証すること、(2) 理論が経験理論であるために必須なものとしてKuhn-Sneed-理論によって指摘された「経験理論の一般構造」を文芸理論にも再構成的に適用することにより文芸額に経験科学たるべき理論的枠組を与えること、という互いに依存した関係にあるふたつの方向性」(p. 57)と指摘されていました。当時、西ドイツの文学学は方法論的複数主義と概念の統一に由来する概念的複数主義という2つの点から強い批判を浴びていたそうです。もちろん、これは文芸学という学問の特質上仕方がないと開き直ることもできたのでしょうが、文芸学も他の科学分野と学際的に協力しながら研究を進めていく必要があったので(文芸には他者との情報のやり取りが必ず含まれるため、他者または他分野とのやり取りを一切否定してしまうような学問領域として文芸額を位置付けるわけにはいかなかったようです)、Finkeらがこの問題を重く受け止め、文学の経験的研究が経験科学になりうるということを基礎づけようとしたそうです。

次にFinkeが提案した構成的機能主義に関して簡単な説明がなされます。Finkeによると、文芸学が経験科学的であり、他の分野との学際的協力が可能になるためには<P、G、L、PG、PL>(P = 問題点、G = 対象、L = 解決の方策、PG = 問題の適切性、PL = 解決の方策の適切性)を明確にしなければならないと考えていたそうです。そして、これらすべては関連する他の概念、心理的・社会的・政治的な研究条件に依存して変化すると考えていたそうです。また、Finkeによれば理論は「(1) scientific communitiesにおいて議論が可能であること、(2) その理論構成の間主体性が確立されていること、(3) 機能性をもつこと、(4) 経験的要請にかなうものであること、(5) 解明のための方策を確立していること」(p. 58)が必要となるそうです。そして、著者は「もし文芸学が<P、G、L、PG、PL>を常に明示的に呈示することになれば、文芸学はその理論概念とそれに基づいた理論構造の経験科学的妥当性を検証するためのメタ理論的視座を獲得することにな」(p. 58)り、コミュニケーションという概念をうまく文芸学の中で扱ったり、概念の統一も可能になるだろうと指摘されていました。

ます、Finkeは、Kuhnの理論に基づいて上記の枠組を作り上げたようです。そして、経験的文芸学の理論構造(KEL)は、理論概念系の中心構造SELと理論概念系の周辺構造UELから構成されると考えられるそうです。つまり、KEL = <SEL, UEL>と表現されます。そして、SELは、KFEL、VEL、AEL、BELから構成されると考えられており、SEL = <KFEL、VEL、AEL、BEL>と標記されます。KFELは、構成的機能主義のメタ理論とされ、<P、G、L、PG、PL>と同じものとされています。VELは基礎理論と考えられており、文学の経験的研究が活用したSneedの理論が該当するそうです。AELは、生産的な類推の集合とされ、文学の経験的研究では文学に伴う行動や活動を指します。そして、BELは研究の範列の集合とされ、文学の経験的研究では経験的研究「(文学生産における個人という変異項、各々の需要で異なる複合Text etc.)」(p. 59)となるそうです。また、KELにおける理論的概念系の周辺構造UELですが、「経験的文芸額のための方法・手段の提供(研究者の社会状況・政治的枠組の決定」(p. 59)や「経験的文芸学の伝統的概念;経験的文芸学の非伝統的概念」(p. 59)などが該当するとのことでした。

さて、そもそもなぜVELとしてSneedの理論が選ばれたのか、ということですが、これはS. J. SchmidtとJ. D. Sneedが1977年の冬にBielefeld-Kolloquiumに同席していたことがきっかけであり、S. J. SchmidtはJ. D. Sneedに対して「文芸学もまたあなたの科学理論に基づいて経験科学として理論的に再構成され得るだろうか?」(p. 60) と質問したのがきっかけのようです。ちなみに、Sneedはこの質問に対して「好意的な懐疑」(p. 60)を示したとのことでしたが、Schmidtが「“文芸”という対象を科学的に扱う立場から、経験理論に必要な構造としてSneedが明らかにしたSneed-matrix-構造を文芸学の経験理論化のために逆にそこに再構成的に適用しようとする。彼の試みは、具体的にはpragmatischな文芸理論TLKH(= Theorie der literarishen Kommunikationshandlung)という形で実現されていく」(p. 62)と述べられていました。

次に、VELとしてSneedの理論が整理されています。まず、Sneedの理論の特徴ですが、「個別科学の理論がいかにその主張を検証するのかについての研究でもないし、その主張を構成する言語がどれ程正確であるのかについて研究するのでもない。彼の理論は、静的相のもとで理論の構造はどのように明示化されるものか、またそれが動的相のもとでいかに変化するかについてもっぱら研究するものである。」(論文中、p. 61)というGöttnerの説明が載せてありました。また、「「何が為されるべきか」と「実際に何が為されるか」との間の齟齬を消滅させる視点を与え」(p. 61)たり、伝統的文芸理論のようにもっぱら全称命題ばかりを扱うわけではない、といった特徴があると指摘されていました。

さて、その具体的な定式化についてですが、Sneedによれば経験理論は、理論素核Kと意図的適用I、つまりT = <K, I> という構造を持つ必要があるそうです。Finkeは、Kは内部に矛盾があってはならない、「Kは理論の対象領域であるIによって決定され、またKはIに関するすくなくともひとつの法則の定式化を可能にする」(p. 61)と説明をしています。したがって、「経験的文芸理論には、(1) 理論の無矛盾な構造核K、(2) Iとして文学的対象領域、(3) 文芸理論の適用に関する法則を形成可能にするKの存在が必要」(p. 62)になります。

次に、Schmidtが具体的にどのようにTLKHをSneedの考えに基づいて再構成したのかが説明されています。Schmidtのこの理論での中心的主張は「行為者Aは文学的交信行為系…の中で行為する」(p. 62)というものです。そして、この主張に基づいて構造素核Kの中に「この中心的述語に有意義な解釈を与えること」(p. 62)を目指しました。ちなみに、Sneedの枠組の中では、K = <Mp, Mpp, r, M, C>と表現されます。まず、Schmidtは彼の中心的主張をより具体的に位置づけるために、Mppとして文学的交信行為に含まれる4つの産・媒介・受容・加工を位置付けます。そして、Mpとして、文芸の生産者、文芸の媒介者、文芸の需要者、文芸の加工者、文芸の前提系、文芸の状況、文芸の方策という概念を導入します。また、Mとして「文学的交信行為系の中での生産・媒介・受容・加工という行為役割の枠内におけるすべての具体的な行為」(p. 62)が該当します。なお、M、Mp、Mppの関係ですが、Sneedによると「M(= Model)は集合論的Pradikatを満たす実体であり、Mp(=ein partieles Modell[部分的なモデル])は、集合論的Oradikatを規定する若干の公理のみを満たし、かつ他の若干の公理は満足しないような実態であり理論のためのMatrixである。またMpp(= ein partielles potentielles Modell[部分的な潜在モデル])は、Mpの中に現れてくるすべての理論的関数t-Sneedは、理論Tに帰することなしにはその値を決定することができないような関数をTに関して理論的であると表記する-が消去されることによってMpから生じるような実体である。」(p. 61)と説明がされています。Sneedの枠組みにおけるCですが、「理論モデルの結合を保証する一般的副次条件」(p. 61)と説明されており、TLKHの中では「発話行為が文学的交信行為系の枠内での行為となるのは、交信参加者により文学的なものとして受け入れられるthematisches Kommuikatの実現へとその参加行為が意図的に向けられているときだ」(pp. 62-63)というものとなるそうです。ちなみに、rですが、「理論の非論理的構成要素n1, ..., nmを理論的構成要素t1, ..., tkから孤立させる制限関数」(p. 61)とだけしか説明されておらず、TLKHの中で具体的にはどのようなものとなるのかに関して記述はありませんでした。

しかし、SchmidtはSneedの拡大された構造核Eという概念に基づき、さらにTLKHを強固に経験科学として位置づけようとしたそうです。Eは、Kに対してさらにさらに3つの要素G、CG、αが加わったもので、E = <Mp, Mpp, r, M, C, G, CG, α>と標記されます。「G = その理論のためだけの特殊規則、CG = もしGがT-theoretischであればそのt(= theoretische Funktion)のみを制限するような特殊な副次条件、α=Mppの一個の元に一顧のGを付加する適用関係」(p. 63)と説明されます。そして、そのGとして、ÄL-慣習とPL-慣習を位置付けることになるそうです。CGとαに関しては特に説明はありませんでした。

次に著者はTLKHの特徴を論じていくのですが、その上でSneedの述べる理論網という概念が重要であると指摘します。「個々の単一的な理論…をSneedは理論素…とよぶ。各々の理論素は各々の経験理論において相異なった一般化の度合いを示し、相互に区別されるものである。しかしこれらの各々の理論素は理論間に相互の関係により結合されて理論網を構成する。理論網は「理論核の網…」と「理論適用の網…」に区別される。「理論適用の網」とは、「理論核の網」から成るすべての理論素核の意図的な適用領域の網…である。」(p. 63)とこの概念について説明されています。そして、TLKHにおいては、「行為理論」という規定要素を共有した一般行為理論、一般交信行為理論、美的交信行為理論の3つの理論素が理論網を形成しており、行為理論という規定要素の中に生産行為理論・媒介行為理論・受容行為理論・加工行為理論という4つの特殊化が認められているために、結果としてTLKHにおいてもこれら4つの区分が認められることになっています。

以上の理論的背景をもととして、TLKHの基本概念と理論構成について著者が整理していきます。まず、Schmidtは人間の「行為系」の理論的規定からTLKHの再構成を始めたそうです。そして、行為系には (a) ある社会化の過程における行為者A1, ..., An、(b) Aの前提系(Aの能力・要求・意図・動機、言語記号の使用規則についてのAの知識、Aをめぐる価値と規範の系、Aをめぐる生物的・社会的・政治的な種々の制限条件etc.)、(c) 行為状況、(d) Aの行為意図とそのための方策、(e) 行為のための道具、(f) 行為役割(生産・媒介・受容・加工)、(g) 行為規則・行為規範・行為タイプを介した行為の実現、(h) 行為結果、から構成されると規定したそうです。

次は交信行為系の規定を行います。交信行為系には行為系のすべての構成要素が含まれると同時に、あらたに交信体(Kommunikat)と交信体ベース(Kommunikatbasis)という概念が導入されます。交信体ベースとは「調音された音声あるいは活字にされた言語表現などの素材的な交信手段」(p. 64)であり、行為者が交信体ベースを介して交信行為を行う時(このような行為者は交信参加者と呼ばれます)、その場で伝達された交信体ベースは交信体として実現されることになります。そして、交信体の言語表現は認知的、情意的な側面を表現したり、交信参加者にとって関連的なものとなります。

次に美的交信行為系が規定されます。美的交信行為系には交信行為系の構成要素のすべてが含まれることになります。また、美的交信行為系独自の概念として美的慣習、さらにはA慣習とP慣習が導入されることとなります。Schmidtは美的交信行為系を規定するうえで慣習という概念が重要であると考えていたようです(p. 64)。基本的にSchmidtは、一般的交信行為系では、T慣習(事実を重視する慣習)とM慣習(意味が単一に決まる慣習)が機能しているのに対して、美的交信行為系ではÄ慣習(人々がT慣習に沿って物事を行わず、対象を美的なものとして扱おうとする慣習)とP慣習(意味の多様性を認める慣習)が機能していると考えています。

そして、以上の議論を踏まえて、Schmidtは「文学的交信行為系…を言語記号による美的交信行為の系として規定した。文学的交信行為系には美的交信行為系の構成要素が含まれ、さらにそこに“文学的-Kommunikat”および“ÄL-慣習”、“PL-慣習”(=文学的交信行為のためのÄ-慣習、P-慣習)という概念が導入される。」(p.. 66)こととなりました。また、ÄL-慣習とPL-慣習によって可能になる文学的交信行為を「文学的Kommunikatを実現する行為」とSchmidtは規定したそうです(p. 67)。また、「「文学という現象」は、通常の場合には、マスメディアをめぐる市場操作に依存した形で存在するわけだから、「文学という現象」は文学的マスコミュニケーション行為系として存在することになる」(p. 67)と著者が指摘しており、実際にSchmidtは文学的交信行為の規定にマスコミュニケーション行為の諸条件を付け加えています(p. 67)。

最後に、著者はTLKHの問題点や課題点を指摘していきます。まずTLKHの社会概念における問題点ですが、「慣習」という概念を「期待」という「慣習的行為を内包する概念」で同義語反復的に規定してしまっている点が指摘してありました。次に、TLKHの文学概念における課題点として「Kommunikatの実現の動因としてどのようなKommunikatbasis-内在的な構造的特性と言語使用上の構成条件が存在するのかを理論的に解明・整理するための具体的な方法論を提供すること、が指摘してありました。次はTLKHの科学概念に関する問題点です。著者は確かにTLKHは「「解釈」研究から「文学的交信行為系」の研究へと文芸学のParadigmaを変換させたことで、経験的文芸学の論理的基礎づけとその理論の適用にたいして新しい可能性を与えた」(p. 70)としながらも、これがはたして1つの文芸学のParadigmaとして永続的に機能するかどうかについては懐疑的です。著者は、TLKHはひとつの新しい研究アプローチの1つとして終わってしまうかもしれないと危惧しており、「TLKHが「文学的交信行為」についての通常研究を今後の文芸研究領域に定着させてゆくことになるのかどうか、それはTLKHの理論の構想核K = <Mp, Mpp, r, M, C>における各々のモデルの決定が論理的かつ経験科学的にplausibelであるのかどうか、さらにTLKKHとその意図的適用Iが個々の具体的な文学的Kommunikatの分析にどれほど有効性を示すのか、によって決まるであろう。」(p. 70)と述べていました。また、最後にメタ理論的な観点からの問題点が指摘されていました。TLKHはプラグマティックな視点を入れた研究であろうとしていますが、そのプラグマティックな側面が文学とあるいは言葉に関するレベルでのプラグマティックなものに限定されており、そのモデルレベル、理論レベル、メタ理論レベルでのプラグマティックな側面を加味していないという問題点も指摘してありました。このことは、「Pragmatik理論は、それの理論性…と経験性…を検証する観点にたいするpragmatischなレベルでの配慮を欠落させたまま、対象(z. B. 言語行為)についてのpragmatischな研究を遂行するというパラドックスに陥ることになる。」(p. 71)と指摘されていました。

| | コメント (0)

C.D.Lee(2011).「Education and the Study of Literature」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学作品を読む力をどのように教育研究していくべきか、ということについて重要な問題点等が多く指摘されている論文です。基本的には第一言語教育を主眼としていますが、ほとんどの議論は第二言語教育や外国語教育にも当てはまると思いました。論文の詳細は次の通りです。

Lee, C. D. (2011). Education and the study of literature. Scientific Study of Literature, 1 (1), 49-58.

感想:著者はこれまでのempirical study of literatureによる文学読解研究は大人の読者によるものが中心で、文学読解初心者や文学経験が発達途上にある者、子供や青年などはほとんど研究対象とされてきていないという問題点を指摘します。また、文学読解や文学作品の処理に関する理論的な研究がなされていないことが原因で、教育現場で文学読解指導をどのように指導ないし評価すればよいのか、現在の学習者の文学読解のパフォーマンスは今後どのように伸びていくのか、といったことがないがしろにされているとも指摘されていました。著者は、文学作品のsymbolic meaningの理解を例として、 "Hence it would be valuable to have a model of how reasoning about symbols in simple children's stories develops over time to emcompass reasoning about symbols in more mature literary works.... Such a model would include not only how situation models of the text change..., but equally how such processing occurs, and how it may vary by cultural communities." (p. 50) と述べ、学習者の様々な文学読解を位置付けることができるような、その能力の発達段階も加味したモデルを作り上げる必要があると述べています。

次に、評価の問題に著者は議論をしぼって話を進めます。著者は次のように述べています。 "There currently exist no assessments of literary processing. Although tests of reading comprehension include literary passages, the questions rarely go beyond literal analysis of plot and minimal interpretations of characters and themes, and rarely address the rhetoric of literature, let alone the fullness of the experience of literature. Questions about polyvalence in poetry, or how an author uses language, remain unanswered in most educational assessments. Nor do such assessments address the range of linguistic tools authors use to communicate point of view, to invite the reader to step inside an imaginary world (Jakobson, 1987). High stakes assessments like Advanced Placement or the Scholastic Achievement Test (SAT) have specialized literature tests, but results capture more of the outcomes of comprehension than they reveal about literary processing." (p. 51) Hillocks and Ludlow (1984) などが、短編小説の理解に関する質問項目のスキームを提案しているそうですが、文学読解を評価する目的のためにはほとんど取り入れられておらず、結果として、 "As a consequence, literature teachers in North American schools, especially those in middle and high school, have virtually no tools for assessing where students enter or how they are progressing with regard to the development of specific literary skills. And perhaps more broadly, there is little to draw teachers' attention to dimensions of the experience of literature that invoke emotional responses, personal identification and introspection." (p. 51) と指摘されていました。評価をするためには明確な評価基準が必要となります。このことについて、著者は現在はそのような評価基準がまだ構築されていないと述べます。 そして、"Assessments of literary response depend on an articulation of clear standards of what readers should know and be able to do at different points along a developmental spectrum. Existing standards for literary interpretation - as is the case generally for reading comprehension - are woefully lacking, in part because trajectories from novice to expert have not been well articulated in empirical studies of literary response." (p. 51) と述べていました。アメリカでは最近Common Core Standardsというものが構築されており、その中で文学を読む力について記述があるそうです。著者はこのような試みには評価できる点があるとする一方で、記述が恣意的であったり実際の調査に基づいた上で作成された尺度ではないという問題点があり、かなり改良をする必要があると述べていました。

次は文学作品のテクストの複雑さに関する問題です。これまでgeneric readablity formulas(Flesch, 1974)、Lexiles(White & Clement, 2001)、the Coh-Metrix(Graesser, McNamara, Louwerse, & Cai, 2004)などが提案されてきたそうですが、これらはいずれも私たちが文学作品を読む際に感じる「難しさ」をその値に表現することができていないと指摘します。確かに、一見簡単な英語で書かれてある作品(ヘミングウェイの作品)であっても、その解釈には困難が伴いますが、このような難しさがまだテクストの複雑さを表すための指標には反映できていないと述べられていました。 "What we do not have are well-developed indicators of the sources of difficulty that the Hemingway novel poses, nor for example how issues of social maturity and life experiences might impact its accessibility for particular groups of students. Such sources of difficulty in literary narratives can include problems of figuration (e.g. symbolism, irony, satire, localized uses of metaphor and simile), of point of view (e.g. multiple narrators, unreliable narrration), of plot structure (e.g. inverted chronologies, epecialized genres such as magical realism or allegory), of syntactic forms (e.g. tense as in Ernest Hemingway or highly embellished as in William Faulkner or Toni Morrison, where both syntactic patterns can be quite challenging." (p. 53)

次に著者が取り組んでいるCultural Modelingという教育活動について簡単にまとめられていました。この論文からでは私自身この活動が全体としてどのようなものかを理解することはできませんでしたが、著者が強調していた点だけを挙げておきたいと思います。1つ目は日常生活と関連付けながらアフリカ系アメリカ人の学生がであるであろうliterary problemsを明確化するということがされているそうです。2つ目として、文学を読む際に必要とされる方略に関して明示的な指導を行われるそうです(これまでの研究によると、明示的な指導は効果的とのことでした)。

また、literary responseという概念自体をより広く考える必要があると著者は述べます。そして、an aesthetic orientation to language play、moral reasoning、social, sociological, even political understanding of the real worldといったものも含める必要があると述べていました。著者によると、要は "The point is simply that we need to include a human development perspective in trying to understand and examine potential trajectories in the development of literary reasoning, but a human development perspective that is ecologically sound and not driven by ideas of developmental progressions based solely on limited samples of white, middle class populations." (p. 56) と著者の文学教育に関する根本のスタンスが明言されていました。

最後にProject READiと呼ばれるものについて簡単な紹介がされていました。このプログラムでは、 "basic research to document progressions in response to literature, develop assessments of literary understanding for middle and high school, software to support struggling readers in the domain of literature that scaffolds explicit strategies for sense making in literature, and a longitudinal study of relationships between psycho-social development and literary understanding among adolescents." (p. 56) が研究され、 "Our aim over time is to empirically test hypotheses with regard to the kinds of knowledge on which readers of literature draw, how these kinds of knowledge are integrated in acts of interpretation, and how competence in drawing upon these categories of knowledge change with text difficulty for readers of different ages and with different generic skill levels of reading comprehension." (p. 56) ということが目指されているそうです。今後の研究発展が非常に楽しみです。

| | コメント (0)

池上嘉彦(1968).「Generative Grammar批判」を読む(『英語青年』)

成層文法の観点から、変形生成文法(標準理論)の問題点が指摘されている論文です。著者の立場は、変形生成文法よりも成層文法の方が優れた理論であるというものとなっています。かなり古い論文ですので、現在の最新の言語学において、この論文中で議論されていることはもうあまり問題とはならないかもしれませんが、成層文法と変形生成文法がどのような関係にあったのか、ということに関心を持ち読んでみました。

池上嘉彦(1968).「Generative Grammar批判」.『英語青年』,114 (1),18-22.

感想:まず、変形生成文法については当時様々な批判があったそうですが、そのほとんどは誤解に基づくものであると著者は指摘します。そして、成層文法は変形生成文法と並ぶ優れた理論であると著者は述べます。当時、お互いの理論がお互いに組織的な批判をしたということはなかったそうです。著者は、この論文で成層文法の立場から変形生成文法に内在する問題点を指摘していきます。

1点目は、言語体系に関してです。著者によれば、句構造規則などを考えれば、変形生成文法ではその研究がいきつくところ言語体系とは「結局、ばらばらの要素の集りにすぎないlexiconのようなものだけという極めて不完全なものしか得られない」(p. 19)と指摘します。しかし、成層文法は言語の中に複数の層を設けているため、もっと意義のある言語体系の記述が可能であると述べています(「TG[変形生成文法]ではsyntaxの最小単位からultimate unitsのdistinctive featuresに至る間のstratificationがない」(p. 19))。また、変形生成文法は人間の言語の分析にしか使用することができないのに対して、成層文法では「gesture languageのみなでなく、電気計算機の「言語」から遺伝子の結合の記述に至るまで、あらゆるinformationを伝達する体系の記述への適用が試みられている」(p. 19)として、その適用範囲が広いことも優れた点の1つとして提示されていました。

2点目は、process descriptionとrealization descriptionについてです。変形生成文法は的確な文の産出プロセスに興味があるため、process descriptionとなっていますが、成層文法は産出も理解も両方同一のプロセスで説明するrealization descriptionの立場を取っています。著者は生成文法はあくまでもcompetenceのレベルでの研究をしているのに対して、成層文法はperformanceも視野に入れて研究しているので、このような違いが出てくるのは仕方がないとしながらも、成層文法のモデルの方がcompetenceのレベルの話も含めた上で「そのままごく自然にperformanceのモデルにもなりうる」(p. 20)ので、より価値があると指摘されていました。実際に、成層文法では何の問題もないことが、変形生成文法がprocess descriptionを行っていることが原因で奇妙で非文法的なものをその理論の中で派生せざるを得なくなっていると指摘されていました(p. 20)。

3点目は記述モデルの清廉さの度合いの違いについてです。著者は、変形生成文法は「syntactic componentはphonological componentとsemantic componentとは全然違った構成をもっているのみならず、必ず他の二つのcomponentsに優先する。すでに指摘したように逆方向に進むことは許されない」(p. 20)のに対して、成層文法のモデルはいくつかの層が設定され、その層の中も共通の構成を持たしているため、非常にsymmetricalであると指摘しています。そして、変形生成文法が成層文法のようなsymmetricalな記述モデルをもっているがために、不自然な言語分析となってしまっているということが指摘されていました(pp. 20-21)。

4点目は深層構造と表層構造についてです。著者に言わせれば、この2つの層を設定した時点で、変形生成文法は言語構造の成層性を認めたことになるので、結局言語の分析は成層文法の方がうまくいくのではないかと述べられていました。

5点目は従来の言語理論との関係付けについてです。ここに関してはそれほど成層文法とは関係がない論点かなと思いました。変形生成文法は従来の言語学を不当に厳しく批判したり、逆にフンボルトや17~18世紀の伝統的文法に不正確に自分の研究を位置付けていると指摘されていました。

著者は、すでに研究が当時どんどんと進められた結果として具体的な困難点にぶち当たっていた変形生成文法を、まだ理論構成しかできていない成層文法と比較するのはフェアではないかもしれないとしながらも、生成文法の方が変形生成文法が目の当たりにしている困難点をうまく解決し、よりすぐれた理論と言えると考えています。成層文法に関して私はほとんどまだ知識を持っていないので、ここで展開された議論について私の立場から評価をすることができませんが、成層文法の特徴についていくつか挙げられていたので、勉強になりました。

| | コメント (0)

D.I.Hanauer(2011).「The Scientific Study of Poetic Writing」を読む(『Scientific Study of Literature』)

poetry writingの研究について、これまでに分かっていること、研究の意義、今後どのように研究を進めていくべきか、という3つの観点から整理した論文です。論文の詳細は次の通り。

Hanauer, D. I. (2011). The scientific study of poetic writing. Scientific Study of Literature, 1 (1), 79-87.

感想:著者は、これまで "a specific set of literacy practices clustered around the genres of literature" (p. 79) に関しては、リーディングが中心であり、ライティングに関してはあまり研究が進んでいないと指摘します。そして、著者自身は、近年ではライティングの研究に傾倒しています。このことは、依然D. I. Hanauer (2010) Poetry as research: Exploring secpond language poetry writing. をレビューしたときの記事を見てもらえればわかると思います。

さて、著者はこれまでpoetry writingについて分かっていることをを整理していきます。論文自体は非常に少ないとしながらも、かなり詳しくまとめられていました。ただし、著者も述べているように、その内容はかなりまだ「一般的」なものであるようです(よし詳細な研究が今後なされる必要があります)。また、実証的な研究が少ないこと、詩作においてはrevisionのプロセスが重要であり "the process of writing involves awareness of language and processes of meaning construction." (p. 82) であること、なども指摘されていました。そして、最後に "poetry is a genre that combines attention to meaning with attention to form. This conclusion seems relevant for both the reading and writing of poetry." (pp. 83-84) と述べられていました。

次はなぜ詩作プロセスを研究する必要があるのかという点について考えられていました。著者は4点その意義を指摘しています。1点目は、文学知識というジャンル特有の知識について見識を深めることができることが挙げられています。現在、詩の中では様々な実験的な作品もあるため、これらの作品を記述ないし説明することができるようにしておくことが必要であると述べられていました。2点目は詩作が他のリテラシーにどのように関係するのかを明らかにする点が挙げてありました。3点目は、詩作が "self discovery, multicultural communication, and critical interaction with the world" とどのように関係するかを明らかにする点でした。4点目は、詩作自体が各個人が自分の経験をどのように理解しているのかといったことを明らかにするための研究方法になりうるということが挙げてありました。いずれにしても、詩作プロセスを研究することはかなり広範なトピックに対して意義があると著者は考えています。

最後に、今後どのように詩作を研究していけばよいのかということについてコメントがありました。それらは、エキスパートと初心者の詩作プロセス両方を研究すること、詩作をオンラインで研究すること(現在の研究はいずれもretrospectiveなものとなっているそうです)、詩作の過程で書き手が産出する文書も合わせて分析すること、Hyland (2002) が述べた4つの観点から体系的に研究を進めること(practitioner, text, writer, reader)、でした、最後のHylandの枠組みについてですが、practitionerの観点に基づいた研究とはライティングが生起する教育的文脈の研究、textの観点に基づいた研究とは詩の中に含まれる言語的特徴の分析、writerの観点に基づいた研究とはライティング・プロセスや作者の態度・信念に関する研究、readerの観点に基づいた研究とは実際の読者が作品を読んだ際の反応やそれが環境や読者の背景によってどのように異なるかといったことを研究することになります。

私は詩作については全く研究をしていないのですが、近年中学校などで英語で詩を作る活動などもなされているようですので、これらの優れた実践をこういった研究と組み合わせると面白い研究ができるかもしれませんね。

| | コメント (0)

2012年2月25日 (土)

磯谷孝(1973).「ヤコブソンの芸術記号論-そのパステルナーク論に寄せて」を読む(『東京外国語大学論集』)

論文のタイトルには「パステルナーク論」とありますが、基本的にはこの論文ではパステルナーク論の範囲にとどまらず、より広くヤコブソンがどのようなプロセスで6言語機能モデルを作り上げていったのかが非常に詳しく記述してあります。ロシア・フォルマリズムの理論、ムカジョフスキイ、ソシュール、イェルムスレウ、ビューラー、フッサールらの言語観に関する基本的な知識がないと少し読むのが難解になるかもしれませんが、このあたりに詳しい人であれば非常に読みやすい論文なのではないかなと思いました。論文の詳細は次の通りです。

磯谷孝(1973).「ヤコブソンの芸術記号論-そのパステルナーク論に寄せて」.『東京外国語大学論集』,23,23-47.

感想:この論文は、ロシアでは芸術一般においてフォルムを対象から自立させるような作品が多く作られた時期があったことに触れた上で、文学においてもその流れに沿った形で1911~1922年に多くの実験詩が作られたことを指摘するところからスタートします。この時代、「対象を志向する自然主義的芸術原理、指示作用から無対象性を志向する芸術原理への移行が行われた」(p. 25)と述べられていました。そして、この時代2人の巨人が誕生しているそうです。1人はパステルナークで、「最初音楽家、のちに哲学者を希望、三転して詩人になった」(p. 25)人物です。もう1人はヤコブソンで、「アリャグロフの名で詩人を志望しながらも世界的な言語学者として大成し」(p. 25)ています。両者に関して、「前者[パステルナーク]はマヤコフスキー等とともにモスクワ言語学研究会に出席し、自己の作品のなかでもっとも深く言語論を展開した詩人、作家であり、そのシェルシェネヴィチ批判はヤコブソンの詩的言語構造論の定式化に大きな示唆を与えた。後者[ヤコブソン]は詩人としての感性を具え、文学にも大きな理解を示しながらも、詩的言語の創造より、その分析の中から新しい言語理論の構築を行ったのである。そして両者の深い結びつきを具現するかのように一方が他方の言語分析を展開する。ほかでもない、ここで取り上げようとしている『詩人パステルナークの散文に関する傍注』…がそれである。」(p. 25)とその関係性が明示されていました。

さて、ヤコブソンは個々の作品が他の作品に対して持つ特徴や文学作品全体の特徴を明らかにして、文学を成立させる一般的原理を抽出しようとしました。そこでまず1910~1920年代の詩人たちを芸術一般の中に位置付け、とくにパステルナーク、マヤコフスキー、フレーブニコフ(「ザーウミ」と呼ばれる「意味を超えた言葉」を追求したことで有名な人ですね)という3名の未来派詩人たちが未来派という芸術全体の流れのなかでどのような個別の特徴を持つかを指摘することによって、パステルナークの詩や散文の特徴を明らかにしようとしたそうです。そのためには、ヤコブソンは芸術史を考える必要があると考えたそうで、「古典主義時代にはとりわけ建築に代表されるような造形芸術が支配的であるのに対し、ロマン主義時代は音楽が支配的位置につく、そしてリアリズムの時代に入ると文学がそれにとってかわることになるのである。ここでは音楽も文学から取材した標題音楽が盛んになる。」(p. 27)と考えたそうです。また現代詩の始まりに関してはヤコブソンは他の研究者と同様にシンボリズムの運動に関連付けて考えているようで、未来派の詩人たちとシンボリズムの関係性について考察する必要性を指摘していました。ヤコブソンもそうであるが、一般にシンボリズムは音楽と関係があると考えられているそうです。しかし、シンボリズム芸術への反抗が絵の世界としてキュービズムや未来主義の中で起きることになり、「自然を忠実に模写することを止め、純粋に視覚的な効果という点から対象を再構築しようとする」(p. 27)ことをねらいとしていたそうです。そして、「こうして絵に始った運動が、「芸術の記号的性格」が意識されるようになるにつれて次第に言葉の芸術、すなわち詩の世界がクローズ・アップされるようになり、さらにこれが新しい運動の模範的存在になったのである」(p. 27)と述べられていました。

さて、ヤコブソンによる3名の未来派詩人の記述ですが、フレーブニコフは叙事詩型、パステルナークとマヤコフスキーは抒情型と区別しています。さらに、パステルナークはめとにみー的表現に貫かれた抒情型作品であるのに対して、マヤコフスキーはメタファー的表現が多く使用されている作品であると特徴づけています(マヤコフスキーのメタファーはシンボリズムのメタファー表現を極端化しているだけでなく、本質的にメタファーそのものがその作品のテーマの構成と展開を形作っていると指摘していました)。特にパステルナークとマヤコフスキーにあてられた、「メトニミー的」、「メタファー的」という考えは、ヤコブソンが記号としての言語を成立させている2つの原理(接近連合と類似連合)とみなしたものと同じであり、非常に重要です。ただし、これらの概念を言語学の中に最初に取り入れたのはヤコブソン自身ではなく、ボドウェン・デークルテネの弟子であるN. クルシェフスキーであったそうです(私はこのことを初めて知りました)。そして、ヤコブソンにとってメトニミーとメタファーはそれぞれ「転位」(「物の置かれている通常の時間的、空間的関係を破壊して、ものを新しい秩序のもとに置くこと」(p. 30))、つまり記号の無対象性を生み出す方法とみなされたそうです。また、これら2つの概念に基づいて未来派詩人の作品を分析する中で、ヤコブソンは「詩と芸術的散文の相違を全然質的に異なったものとみるよりもむしろ量的なものとみなしていた」(p. 31)そうで、詩と散文の明確な違いは明らかにされないまま現在まで来ているようです。実際、トゥィニャーノフが述べるように散文と詩は常に相関し合っているため、両者の区別は難しく、現代にあっては両者はあまりに密接に相関し合ってきた結果として、散文と詩という区別がもはや意味をもたないぐらいに両者が接近してしまった可能性もあると述べられていました。しかしながら、ヤコブソン自体は散文と詩を量的な違いとみなしつつも、芸術一般を記号的に定式化することはできず、しかもその考察の対象は詩というジャンルに限定されていたようであると指摘されていました(p. 32)。また、パステルナークの散文についてのヤコブソンの考えがpp. 32-33にまとめられています。その大まかな内容ですが、パステルナークの散文においては、メトニミーを駆使することで転位さらには無対象性が生起し、その結果として作品がキュビズムの絵に近づいているというものでした。

次にヤコブソンの記号論が言語学における記号論とどのような関係にあるのかということに話が移ります。一般に、言語を記号とみなそうとする考えを最初に提示したのはまたしてもクルシェフスキーだそうですが、後代にもっとも大きな影響を与えたのはやはりソシュールであるということを認めざるをえないと述べられていました。そして、ソシュールの理論をさらにイェルムスレウが言理学の中で発展させることとなりました。ヤコブソンは、カルチェフスキー(1907年にジュネーブに移住してジュネーブ学派と接点を持っていたそうですが、1917~1919年にモスクワに滞在してソシュールの紹介を熱心に行ったそうです)を通して、モスクワ言語研究会でソシュールの考えについての知識を得ていたようです。しかし、「ヤコブソンはソシュールを踏襲するというよりも、その基本的命題を修正して、より精密化した。彼の注目すべき点は、常に、詩的言語の研究のなかから言語一般に関する命題を引き出してきた点にある。」(p. 36)と指摘されていました。そして、詩は美的な機能を帯びた言語であると考えるようになり、言語を機能的な観点から研究し、詩的言語と日常言語の機能の違い(美的な機能と伝達の機能)を明らかにする必要性を認識するようになったそうです。なお、こうした研究の立場を最初に明らかにしたのはヤクビンスキーでした。さらに、ロシア・フォルマリストはフッサールの言語論(本論文中にはp. 38にまとめがあります。言語を機能的なものと考えています。ここでは割愛します。)にもかなり習熟していたようで、機能論的な観点に立った言語研究を深めていったようです。同時期にフッサールの言語論に基づいたモデルを作り上げた人としてビューラーがいますが、ヤコブソンはのちに彼のオルガノン・モデルをそっくり吸収することになります。そして、「形式主義時代の初めから現在にいたるまでヤコブソンの意味論を構成するものは、音、意味、対象のこうした動態的関係であり、おそらく、言語学の自立性のために対象とのかかわりの問題を捨象したソシュールとの大きな差がここにはっきり現れている、」(p. 38)とその特徴が指摘されていました。

また、著者は服部史郎が提案している(1)発話における意味(意味)、(2) 文における意味(意義)、(3) 単語における意味(意義素)という3つのレベルに基づいてロシア・フォルマリズムの考えを説明しています。基本的にロシア・フォルマリストが一般に伝達内容と読んでいるものは(1)が該当し、日常言語では(1)が一義的に機能しています。それに対して、詩的言語では、(2)と(3)の(1)に対する優位が起こったり、(1)(2)(3)の区別が排除されるということが起こっていると述べています。また、(1)(2)(3)がそれぞれどのように拮抗するかによって自然主義からシュールレアリズムまでの様々な段階を記述することができるとも述べられています自然主義では(1)がやはり強力に機能しますが、シュールレアリズムや曖昧性一般では(2)や(3)の方が(1)よりも強力に機能することになります。このような考え方はロトマンの第一次モデル形成体系(現実世界の反映)と第二次モデル形成体系(芸術的虚構の世界)の議論とも関係してきますし、他に(1)と(3)という2つの意味に基づいてフォルマリストの考えを説明しようとしたエンゲリガルトの考えとも関係していることが指摘されています(エンゲリガルトの考えのまとめはpp. 38-39にあり、基本的に詩的言語では(1)は完全に無効になることはない状態で、(3)が(1)よりも優勢に機能するということが生じると述べています)。そして、ヤコブソンは指示作用や対象関係性が色濃い自然主義ではなく、ロシヤ・モダニストたちが追及していた転位の方法によって通常の時間的・空間的関係が弱められた作品に関心を示し、その意味論の究明に務めたようです(p. 39)。このように、ヤコブソンは無対象性を追及するのですが、このことを追及していくと芸術は完全にナンセンスなものになってしまわないかという危惧が出てきます。このことに対して、ヤコブソンは無対象性の追求はナンセンスの拡散を生じさせることは決してないと考えていたようです。彼はフォルムの秩序がそのことを避けてくれると考えていたようです。これに対してムカジョフスキーは反対の立場を取っており、ビューラーのオルガノン・モデルに修正を加えた上で「記号そのものに注意が集中された結果、伝達の機能そのものは弱められるが、それはある特定の個人とのその結びつきが弱まるだけでデノミネーションを行う主体の意図というものはコンテキストの持つ内的な意味統一性により一定不変のものとして作品全体をつらぬき、総体的なデノミネーションの性格を帯びることになり、個人よりも集団全体が宇宙を知覚する方法に影響を与えるようになると主張した」(p. 40)そうで、著者は「これはヤコブソンの無対象性志向に対する批判とも補正とも受けとれる」(p. 40)と指摘しています。

次はヤコブソンの6言語機能モデルについて記述されます。まずビューラーのオルガノン・モデルの説明がなされたあとで、ヤコブソンのモデルの説明が行われます。そして、1960年の有名な論文の中で「Ambiguityはすべて自己を志向する通報(message)の内在的、不可欠な本質である。エンプソンとともに次のように繰り返して言おう。Ambiguityの策謀は詩の根底そのものに属している。通報そればかりでなく、話し手も聞き手もambiguousになるのである」(この論文中ではp. 44に引用)と詩の本質を定式化しています。

しかしながら、著者が指摘するように、かつて『パステルナーク論』では詩と対等に組み込まれていた散文に関しては全く放置されるという状態になっています。そして、「ヤコブソンの詩的言語論は、芸術的散文に対するpositiveな規定が欠如していることと、音韻論的レベルをはじめとして様々な内在的フォルムの美的必然性に依拠することによってもっぱら言葉の虚構の世界のみを志向する点でなにか物足りなさを我々に感じさせる」(p. 45)と指摘しています。散文と詩がますます接近しつつあるので、ヤコブソンの考えだけでは文学性とは何かということについて考えるには不十分となってしまっているとも指摘します(ただし、散文の規定を十分に行った人はまだ誰もいないため、ヤコブソンを責めても仕方がないと著者はフォローしています)。また、ロシア・フォルマリズムが芸術は知覚の喚起を前提としたものであると考えたことは正しいことであるとしながらも、これを芸術のすべてとみなしたことは誤りであったとも述べます。ロシア・フォルマリストはフォルムを非常にフィジカルなものと捉え、詳細な分析を行っていく上で、フォルムが空気のように透明な散文は敬遠し、目立ったフォルムを具えたモダンな作品をその研究対象としたのでした。しかし、作品によってはフォルムを極力目立たさないような形で執筆される作品もあります。このようにロシア・フォルマリズムまたはヤコブソンが提案した文学性の理論は一部の作品には該当しますあ、文学全般を包括するような理論にはなりえないと著者は述べていました。そして、今日「改めて、芸術とはなにか、文学とは何か、人はなにゆえに芸術、文学をもとめるかということが問いなおされ、詩も芸術的散文も統轄できるような一般的な命題が打ち出されてしかるべきであろう」(p. 46)と述べてありました。著者は、その足がかりになるものとして、言葉という素材の可能性を極めると同時に広い意味での生に対して関わるという考え方、文学では言葉と生(あるいは宇宙観または世界観)が密接なつながりを持つちう考え方、を提案しています。著者は文学は決して日常的意味世界からは孤立して存在しているのではないと述べ、あくまでも文学性の問題は日常的意味世界との関連で研究されるべきだと考えています。このことと近いことを実際に行った研究としてヴィノグラードフの「作者の形象」、トゥイニヤーノフの諸系列の相関に関する考察、ムカジョフスキーの作品の指摘デノミネーションに関する考察、が言及されていました。また、現代の研究としてロトマンの研究に注目しています。

さて、以上、非常に内容の濃い論文でしたが、著者の最後のヤコブソンの評価については非常に納得しました。私も英語教育研究などでヤコブソンの理論を引用するとき、なんとなく感じていたことを非常に明示的に示してくれていました。しかし、ヤコブソン自身も最終的にはdominanceという概念を使用するようになり、極力日常意味世界の中で詩的言語を考察しよう試みはしたのではないかなとも思いました(ただし、著者が言うように、そのことが根本的な問題(散文の無視)を解決する策にはならなかったと思います)。ヤコブソンの理論の前提やそのニュアンスなど非常に細かい部分を整理することができたので、とてもよかったです。

なお、私はまだ読んだことがないのですが、ヤコブソンは『記号と言語の体系』という論文の中でソシュールの記号論に対する立場を明らかにしているそうです。折を見て読んでみたいと思いました。

| | コメント (0)

林栄一(1970).「言理学における「意図」」を読む(『英語青年』)

言理学における「意図」の概念について扱われているとても希少な文献です。詳細は以下の通りです。

林栄一(1970).「言理学における「意図」」.『英語青年』,116 (8),450-452.

感想:言理学については、依然S. バディル(2004/2007)をレビューした時に触れていますが、今回「意図」という概念に着目した文献を見つけたので勇気を振り絞って読んでみました(やはり言理学は非常に難解です)。著者によると、意図という概念は実質という概念とかなり似ている点があるようです。それらは互いに形式に対する可変体として位置づけられています。ただし、実質はすでにある特定の言語と関連を持つものであるのに対して、意図は特定の言語との関連を持つ以前のものであると考えられているようです。著者は、「図式化すれば、形式-実質-意図といった系列が存在していると考えてもよい」(p. 451)と指摘していました。なぜ、Hjelmslevが意図という概念を取り扱うに至ったかということについて、著者は次のように指摘しています。「このような秩序立ては、もともとSaussureのCours, pp. 155-157にある考え方に淵源をもつのであるが、Saussureが星雲状の思想と音声のかたまりを所記と能記として、両者の結合が形式を生じせしめると説いたのを、不十分としたHjelmslevが、独自に改編した結果であった。もとの星雲状のかたまりを、どこかに位置づける必要上Hjelmslevは意図なるものをつくりあげたと考えられるのである。」(p. 451)しかしながら、結果として意図は非常にわかりにくいものになってしまったと著者は指摘し、結局特定の形式が特定の実質と結びつくのは結局のところ意図の力によるという結論になってしまうと指摘しています(「意図があればこそ実在界の森羅万象は言語に秩序だてられるのである」(p. 451))。

著者は意図の正体はいったい何なのか、どのように研究していけばよいのか、と投げかけます。言理学のように、言語を4層に分ける考え方(表現面と内容面にそれぞれ形式と実質を認める考え方)は成層文法に取り入れられたそうですが、意図の研究はされていないそうです。著者は、意図を言語学を考える上で非常に重要な概念と考えており、生成文法が言うような「変形」は実は意図と関係しているかもしれないと述べています。また、意図の解明に役立つかもしれないとして、格文法とNidaらの翻訳理論に期待が寄せられていました。

僕自身、言理学について詳しいわけではないので、専門家から見た場合にHjelmslevの意図という概念は一般にどのように評価されるのかわかりませんが、言理学という構造言語学の中でももっともガチガチしたイメージがある理論の中で「意図」という概念が取り上げられていたのが非常に斬新でした。一方で、あまり意図という概念を重視しすぎると、言理学が作り上げてきた理論自体が実はあまり意味のないものであったという結論にならないのかなという気持ちにもなりました。

| | コメント (0)

M.Kotovych,P.Dixon,M.Bortolussi&M.Holden(2011).「Textual Determinants of a Component of Literary Identification」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学作品を読解する際に、読者は自身と語り手や登場人物を同一視(identification)することがよくありますが、この論文ではテクスト中のどのような特性がこのことを引き起こしているのかということが調査されていました。この論文の詳細は次の通りです。

Kotovych, M., Dixon, P., Bortolussi, M., & Holden, M. (2011). Textual determinants of a component of literary identification. Scientific Study of Literature, 1 (2), 260-291.

感想:これまでidentificationの重要性は指摘されてきていますが、多くの学者にとってこの概念はあまりに広く不正確な概念とみなされてきました。そこで、この概念を特徴づけるものとして、これまでparticipation、affinity、transparancyといった概念が用いられてきたようです。Participationとは、 "a phenomenon in which readers share emotions and attitudes of the character and feel as though they were participating in the events of the story." (p. 261) というものです。Affinityは、"affinity describes the reader's attitude toward a character. In many treatments of identification, it is assumed that ther reader comes to like the character (e.g., Liebes & Katx, 1990), and some have argued that positive attributes are necessary precondition to identification (e.g., Cohen, 1999)." (p. 262) と説明されています。それに対して本研究では、transparancyというより認知的な側面を扱う概念をもってidentificationの問題に挑みます。この概念は、"in our usage, a character is transparent to the extent to which that character's thoughts and behavior are clear and transparently understandable. Thus, transparancy incorporates readers' knowledge and appreciation of the behavior and attitudes of the character." (p. 262) と説明されています。

次にidentificationを引き起こしている原因として、これまでidentification-through-homophily perspective("the idea that a reader may identify with a character in a story to the extent to which the character is perceived to be similar" (p. 263))とidentification-through-strategy perspective("identification is promoted or perhaps controlled by the strategy or processing mode adopted by the reader")という考え方がなされてきたそうです。また、両者を混合させたような研究もされてきたとのことです。しかし、著者らはこれらの研究では、文学テクスト外の要因ばかりを強調し、肝心のテクスト内の特徴については軽視しすぎていると指摘します。

次に、著者らは文学読解をどのように考えているのか、その基本となる考え方が示されます。彼らの前提として、"readers are likely to treat their representation of the narrator in much the same way as that of a conversational participant and apply the same kind of logic and inferences concerning that representation as they would in conversation" (p. 265)、"We hypothesize that readers typically adopt the same kinds of assumptions with respect to the narrator or a story; that is, readers assume the narrator is rational, reliable, and providing necessary and sufficient information for them to understand the narrative." (p. 265)  と述べ、基本的にGriceの考え方を文学読解に会話同様に適用しています。そして、narratotial cooperativensss (p. 265)、"narratorial implicature (p. 266) という概念を提示しています(基本的には、Griceの考えをnarrativeに応用したものなので、Griceの考えとほとんど相違はありません)。もちろん、Griceの枠組みを発展させた研究もたくさんあるので、そういったより新しい理論に依拠することもできるのですが、 "processing the narrator as a conversational participant provides a plausible description of what most reades will do on an initial reading of a text under many circumstances" (p. 266) と述べ、今回はあえてGriceの理論に基づいて研究を行うとしています(なお、文学読解をGriceの枠組みで考えること自体は、文体論にしてみればそれほど目新しいことではないことも付け加えておきたいと思います)。また、文学をコミュニケーション的にみなす考え方には様々なものがあり、一般的には読者は作者と意図された聴衆の会話を第三者的に立ち聞きするといった立場で考えられることが多いです。しかしながら、著者らはこの文献では "readers often interpret the narrator's words as directed to themselves in a conversational fashion, without considering in any detail the larger problem of idenrtitying the intentions of the actual author." (p. 266) と考えており、読者を物語世界のコミュニケーションの中により積極的に位置付けています。

次に、著者らはnarrative implicatureがtransparencyにどのように関係するのか、彼らの仮説を明確化します。 "Our hypothesis is that this process of using one's own knowledge and experience in the service of constructing marratorial implicatures produces transparency: After making these kinds of attributions, the narrator will subsequently be seeen to have the same kind of experiences as the reader. In effect, the text invites readers, through the use of narratorial implicatures, to construct a representation of the narrator that shares important elements of readers' background and attitudes." (p. 267) つまり、読者は自らの知識や経験を活用しながら文学作品を読む中で、narratorial implicatureを生成し、それを語り手に帰属させることでtransparencyを高め、その結果として語り手と自分が似ていると感じるのではないか(identificationが生じるのではないか)という考え方です。

以下、3つの実験が行われます。1つ目の実験では、"we tested the hypothesis that transparency is produced when readers attribute their own knowledge and experience to the narrator in trhe service of constructing narratorial implicatures. This hypothesis makes a clear prediction: Transparency should be less pronounced if fewer narratorial implicatures are needed in understanding the narrative." (p. 268) といったことが扱われます。著者らはAlice Munroの "The Office" という作品を使用し、この作品の冒頭を極力narratorial implicatureを読者が生起しなくてよいような形に書き換えました(narratorial implicatureとして読者が構築しなければならない内容を明示的に文章中に示す形で書き換えられました)。そして、「オリジナル冒頭+文章の残り」、「書き換え冒頭+文章の残り」、「オリジナル冒頭+書き換え冒頭+文章の残り」、「書き換え冒頭+オリジナル冒頭+文章の残り」という4つの条件を設定し、調査参加者をこの4条件に振り分けました。調査終了後に、transparencyに関わる質問(この論文はより大きな研究の一部のようで、他の概念に関する調査項目も含まれているようですが、今回はtransparencyに関する項目の結果のみを扱います)をアンケート調査で行い、データが収集されています。そして、調査参加者の回答が4つの条件でどのように異なるのかが調べられていました。その結果、読者がとにかく最初にオリジナル冒頭に触れてnarratorial implicatureを生成しなければいけない条件の方が、そうでない条件よりもtransparencyが高まることが示されました。どうやら、 "the ability to understand the narrator is contributed not by the information provided in the text (as in the explicit version) but by readers themselves as they attempt to understand the narrative on the basis of the principle of narrative cooperativeness." (pp. 273-274) と言えるようです。また、今回は書き換えなどによって調査参加者が読む文章の量に若干の違いが出てしまいましたが、今回の調査ではテクストの長さという影響はほとんど実験に作用しなかったようです。また、とにかくオリジナル冒頭から読解を始める場合と、書き換え冒頭から読解を始める場合のtransparencyの違いについて、差があることはあるのですが、その効果は "not large" (p. 275) と述べています。その原因として、文章の残りの部分で読者がnarratorial implicatureを構築したからではないだろうか、という見解が述べられていました。

続いて実験2に移ります。実験2では、実験1で得られた効果は実はnarratorial implicatureの構築の違いにあるのではなくて、単純に書き換えに伴って生じた文体の変化によるものではないのか、という疑問点を解消するために行われています。そのため、同じ作品の冒頭を情景の描写に書き換えたものを作成します。さらに、その文体に合わせる形でnarratorial implicatureを明示した冒頭を新たに作成し、「オリジナル冒頭+残りの文章」「narratorial implicatureを明示した冒頭+残りの文章」、「情景描写の冒頭+残りの文章」という3つの条件を作り、調査参加者をこれら3つのグループに分けて、実験1とどうような調査を行っています。まず、この実験でオリジナル冒頭を読んだときの方がnarratorial implicatureを構築する必要のない冒頭を読んだときよりもtransparencyが高まるということが再度確認されました。また、情景描写を加えたバージョンもオリジナルと同等のtransparencyを生み出すという結果となり、文体の変化が実験1の調査結果に何らかの影響を与えた可能性は低いのではないかという結論が導かれていました。

最後は実験3です。これまでは1人称の語りにおけるnarratorへのtransparencyについて扱ってきましたが、この実験では3人称の語りにおける登場人物へのtransparencyについて調査がなされます。著者らやとくにfree-indirect speechとfree-indirect thoughtという技法がそのカギとなると考えているようで、Stacy Aumonierの "Miss Bracegirdle Does her Duty" という作品とWilliam Sansom の "Question and Answer" という比較的このような技法が多く使用されている作品を選択し、それぞれの作品からfree-indirect speechとfree-indirect thoughtの技法を取り除いた書き換え版を作成しています。そして、著者らは "free-indirect speech creates an association between a character and the narrator and that in the presence of such an association, readers do not clearly distinguish the attributes of the character and those of the narrator. In this case, readres consider the character as rational and reasonable (which, on the assumption of narratorial cooperativeness, should be properties of the narrator) and feel that the narrtor may share the property of gender with the character. In the present experiement, we examined whether such an association could also produce transparency." (p. 281) という予想をもって分析に臨んでいます。調査参加者は、「Aumonierオリジナル+Sansom書き換え」、「Aumonier書き換え+Sansomオリジナル」、「Sansom書き換え+Aumonierオリジナル」、「Samsomオリジナル+Aumonier書き換え」という4つの条件に分けて、それぞれ2つテクストを読むことになり、読解後にtransparency(今回は語り手と主役となるような登場人物両方に関するtransparency)に関する質問項目に答えています。また、書き換えに伴う文体が何らかの作用を引き起こしていないかどうかをチェックするために、作品全体の印象に関する質問項目も読解後に調査参加者にたずねています。さて、結果ですが、 予想通り、オリジナル版を読んだ場合の方が語り手と登場人物へのtransparencyが高いことが示されました。このことを引き起こした原因として、"First, the reader's knowledge and experience are attributed to the narrator in generating narratorial implicatures, and second, an association between the narrator and the character leads the reader to attribute this knowledge and experience to the character as well. As a result, the readers rate the character higher in transparency." (p. 285) と見解が述べられています。また、今回の調査にともなう書き換えが今回の調査結果にはあまり作用していないこと、オリジナルと書き換えでtransparencyの差がそれほど大きくないのは調査参加者が他の言語的特徴からもnarratorial implicatureを構築していることが原因と予想されること、が申し添えられていました。また、今回は語り手と主役の登場人物が近い作品を選びましたが、シャーロック・ホームズのストーリーのように語り手と主役の登場人物の間に距離がある作品があります。そして、このような作品では今回の調査と同じ結果は得られないであろうと注意喚起がしてありました。

さて、調査全体をまたがっての考察ですが、簡潔にまとめられています。 "First, logical gaps and inconsistencies in the narration lead readers to generat narratorial implicatures on the assumption that the narrator is being cooperative and ratinal. narratorial implicatures often entail attributing the reader's own knowledge and experience to the narrator. ... Second, when the narrator is closely associated with a character through devices such as free-indirect speech, the reader may not carefully distinguish the narrator and the character, and the reader's knowledge and experience may be attributed to the character as well. Transparency thus entails that the character is perceived as more like the reader by birtue of having this knowledge ane experience in common. Consistent with this mechanism, readers found the central character's thoughts and actions more difficult to appreciate when the markers for free-indirect speech were removed. Together, these results suggest that transparency is produced by what are essentially conversational processes that are engaged in service of understanding the narrator. Unlike some of the earlier arguments made in the literature concerning identification, this account places a critical role on the precise manner in which the narration is presented rather than suggesting that identification is primarily a function the characteristics of the reader and his or her processing strategy." (p. 286) また、"transparency may occur even when the central character has objectively negative attributes and behaviors." (p. 287)、"Although homophily is likely to be important in the construction of narratorial implicatures, we nonetheless argue that the form of text and the manner in which information is conveyed is critical in signaling when such implicatures should be drawn." (p. 287)、明らかに読者に対して非協力的と映る語り手が語る作品があることに対して "Although we suspect that the tendency to process the narrator as a cooperative conversational participant is common, it need not be universal, and readers' intentional reading strategies are clearly important." (p. 288) と述べていました。最後の2つの点については、著者らはcidentification-through-homophily perspectiveに対しては懐疑的であり、identification-through-strategy perspectiveに関してはその有用性を認めているようでした。

最後に本論文の結論として、"Our theoretical claim is that readers process the narrator as a conversational participant and as a consequence, generate narratorial implicatures to make sense of the narrator's thoughts and actions. Transparency can occur when the implicatures involve attributing the reader's own experience and knowledge to the narrator. Transparency of a character in a third-person narration can occur when the narrator is closely associated with a character through, for instance, the extensive use of free-indirect speech. This analysis suggests that the perceived similarity between the reader and the character can be the prodeuct of transparency rather than a prerequisite." (p. 288) と述べられていました。

とても明快な論文で非常に面白く読めました。英語教育では文学作品を教材に使用する場合は改作が行われますが、今回の調査結果は重く受け止める必要があると感じました。

| | コメント (0)

2012年2月24日 (金)

E.M.Koopman(2011).「Predictors of Insight and Catharsis Among Readers Who Use Literature as a Coping Strategy」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学作品の持つ "therepeutic function" に関して分析したとても興味深い論文です。論文の詳細は次の通りです。

Koopman, E. M. (2011). Predictors of insight and catharsis among readers who use literature as a coping strategy. Scientific Study of Literature, 1 (2), 241-259.

感想:著者は "Various therapeutic art programs, like bibliotherapy and creative therapy, suggest that practicing as well as consuming art has the potential to heal." (pp. 241-242) と述べ、芸術のもつtherepeutic functionについては人文学が取り組むべき課題であると述べます。そして、この研究の目的として、 "The current study explores the function of literature in providing support during and after difficult life events, focusing solely on people who choose to use reading as a coping mechanism themselves." (p. 242) と述べます。今回はnon-clinical subjectsを対象として研究を行ったそうです。また、copingの定義ですが、 "cognitive and behavioral efforts to deal with situations appraised as stressful, in an attempt to alleviate stress" (p. 242) と定義されていました。therepeuticの定義は、 "'therapeutic' is also defined in a descriptive and broad fashion, as the self-reported cognitive and emotional benefits gained through using this specific coping strategy." (p. 242) と示されています。また、この研究の限界点について、 "While the answeres from the group of non-clinical readers examined in this study cannot be generalized to clinical subjects, nor to people who do not choose to read in times of stress themselves, these answers do shed light on the therapeutic potential of literary works. Within actual clinical therapy, people who like reading but do not use if for coping could possibly use this potential to their benefit." (p. 242, emphasis in original) と述べています。

さて、著者は文学作品がどのように人々が困難な時期を乗り越えるのに使用されてきたかを整理しようとしますが、先行研究がほとんどありません。そこで、bibliotherapyの研究をその代わりとしてまとめていきます。それらの研究では、読書には肯定的な効果があるということが明らかにされているようです。また、 "What all bibliotherapeutic studies seem to agree on is that recognition is a salient features in the comforting impact of a literary narrative on readers. The feeling that you are not alone, that there are others - even if they are fictional - who share your experience and are able to give a voice to those shared troubles can be extremely comforting." (p. 243) というこれまでの研究の大まかなまとめがされていました。

また、著者はその他に文学読解に伴う情意面の研究についても整理しています(このブログでは割愛します)。そして、一連の先行研究に基づいて、"multifold model concerning the healing function of literature" (p. 245) を構想します。その内容ですが、 "through identification with protagonists and recognition of one's own troubles..., and/or through feelings pertaining to the aesthetics of the work..., readers can be triggered to reflect on the text as well as on their own problems and sense of self.... The insights provoked by the confrontation between text and reader can furthermore lead to a release of negative emotions." (p. 245) と述べられています。多くの構成概念を考慮に入れなければなりませんが、この論文ではaesthetic feelings、narrative feelings、absorption、emotional response、identification with the characterを分析に含めるとし、これらの概念がcatharsisやinsightといったものと肯定的に相関するのではないかと予想が立てられています。

研究方法ですが、著者は知り合いを頼りながら雪だるま式に調査参加者を募ったそうです。質的研究法などでよく取られる方法ですが、著者のこの論文中での調査方法の記述の仕方が非常にわかりやすく、私も今後このような調査方法を使用する際には、その記述の仕方の参考にしたいと思いました。調査方法の詳しい内容についてはここでは割愛しますが、調査参加者に人生の困難に出会ったときのことを思い出してもらい、その時の経験に関してアンケートにオンライン上で回答してもらったものを基礎データとして分析が行われています。調査参加者は文学作品(詩か散文)をその時に読んだという人に絞られています。

一気に調査の結果にいきます。ここでは様々な構成概念が出てきますが、各構成概念の定義については、論文中のp. 248にまとめられており、ここでは割愛したいと思います。まず1点目として、年齢や性別には特に関係なく、文学作品のtherapeutic functionは比較的一様に調査参加者に作用しているようだという結論を出しています。2点目として、詩と散文でtherapeutic functionの様子が少し異なるようだということも挙げられていました。散文の方が読者の物語世界へのabsorptionを高めるようです(ただし、詩を読む読者にしてみればfocusing on styleがabsorptionと相関するようですが)。ただし、いずれにせよ "being focused mostly on style does not seem beneficial for coping, in the sense that it does not lead to either insight or catharsis, while being more focused on the narrative world (feeling identification and recognition) does." (p. 256) と述べられており、therapeutic functionに関して言えば、focus on styleまたはそれに伴うaesthetic feelingsよりもnarrative worldから生じるnarrative feelingsの方が重要なようです。3点目として、文学のtherapeutic functionを引き起こす上で重要なのは、文学作品読解を通してinsightを得ることよりもcatharsisを経験することであること、両者にはaesthetic feelingsよりもnarrative feelingsが関わっていることが導かれていました。4点目ですが、 "aesthetic feelings... correlated with absorption and with experiencing more thoughts during reading, while narrative feelings seemed to go together with a more emotional response" (p. 241) とまとめられ、focus on styleはむしろ認知領野に働きかけるものであり、therapeutic functionとの関連性は弱い可能性があることが述べられていました。5点目ですが、catharsisが重要という結論を得たものの、"the most important predictor turned out to be 'distraction." This may indicate that it is not so much reading about one's own emotions that reduces the intensity of those emotions, but precisely being distracted from one's own emotions through reading."という結果が述べられていました。登場人物へのidentificationなどを通して自分の感情との共通点を見出すということも重要なcatharsisの要素ではありますが、今回はこの要素よりも自分の感情から目を背けることが重要であるという結果となったようです。ちなみに、困難な時期に詩を読んだという調査参加者は感情よりも思考をたくさん経験しており、catharisisもあまり生じていないそうです。6点目ですが、文学読解でinsightを得る上でもっとも重要な要素はrecognitionであったそうです。

文学作品のtherapeutic functionについてはこれまであまり深く考えてこなかったのですが、catharsisを読者が経験することが必要であり、そのためにはnarrative feelingsが生起したり、自分の現状から目を背けることができたりすることが重要なのだなということが分かりとても興味深かったです。私は研究の関心の都合、aesthetic feelingsの方が関心があったのですが、これはどちらかというと読者に物事を考えさせるという方向において機能するということが示してあったことは非常に大きな収穫でした。

| | コメント (0)

D.S.Miall(2011).「Science in the Perspective of Literariness」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学の経験的研究が今後文学性という問題についてどのように取り組んでいくべきなのかという点を特にliterary readingの研究という観点から議論している論文です。文学の経験的研究の雑誌Scientific Study of Literatureで一番最初に載っている論文となります。この論文の詳細は次の通りです。

Miall, D. S. (2011). Science in the perspective of literariness. Scientific Study of Literature, 1 (1), 7-14.

感想:著者は "to help elaborate what is meant by scientific in the literary context" (p. 8, emphasis in original) ということについて次の3つの観点から整理をしています。それらは、 "1) elucidating what is the object of research; 2) designing appropriate methods of research; and 3) asking what purposes literature serves, whether for the individual or for the wider community" (p. 8) というもので、それほど目新しいものではないかなと思いますが、新しい雑誌の巻頭論文ということで改めてこのような基本的な事項が確認されているものと思われます。

さて、1) についてですが、著者は "the theory of literariness that I am proposing (and there may well be others) postulates that a range of specifiable interactions between a text and a reader occur that mark out those texts as aesthetically and culturally distinctive." (p. 9) と述べ、他のタイプの読解には見られない文学読解独自の相互作用について研究する必要があると述べています。しかも、これを研究するためには他分野からの理論を押し付けるのではなく、文学分野の知見に基づいて構築した理論によって解明されなければならないと指摘しています(つまり、文学読解を認知科学の情報処理論の拡張版として捉えるようなやり方には著者は反対しています)。著者はこれまでの文学の経験的研究で文学性の問題において重要とみなされたきたものとしてpersonal resonanceなどを挙げていました(p. 9)。

次に 2) についてです。著者は基本的には文学性を研究するための方法論も可能な限り、これまでの文学の経験的研究で培われてきた方法に基づいていることが必要と指摘します。その一方で認知科学での研究方法も時には役立つと指摘してます(ただし、一般的な物語処理のことを文学的物語処理に一般化したりしてしまう傾向があるので、注意が必要と著者は指摘してます)。そして、結論として、 "In short, to adopt a scientific approach to the study of literary reading will often involve employing experimental methods that more typically characterize research in cognition; but the methods borrowed, adapted, or designed for the purpose, should serve to illuminate what is literary in the response processes under examination." (p. 11) と述べ、あくまでも文学読解の独自性を明らかにするための方法論を採るべきであると述べてありました。

最後に 3) です。著者はこの論文中ではabsorption(文学作品の物語世界の中に読者が引きこまれることなど)について言及しています。このabsorptionは他のsub-literaryジャンルでも観察されますが、著者は文学の場合はそのabsorptionは特にmultii-channel responsesになると指摘しています。著者は "we are simultaneously immersed in, say, the dialogue of a couple of key characters, while questioning the status or ethical stance of the characters on which the dialogue depends" (p. 11) と説明していました。

この論文は特に目新しいことはそれほど書いていないのですが、文学の経験的研究はあくまでも文学性の問題を取り上げていくというスタンスが明確化されており、いわゆる一般的なナラティブや文章読解研究とは一線を画すという姿勢がとても伝わりました。

| | コメント (0)

2012年2月23日 (木)

小野文(2008).「ソシュールの異言研究序論-読解にともなう幾つかの困難について」を読む(『慶應義塾大学日吉紀要:言語・文化・コミュニケーション』)

前回の論文と関連した論文ですが、今回はソシュールにスポットを当てた論文です。ソシュールの異言研究および、ソシュールの火星語への態度、なぜ火星語だったのか、といったことについて広くまとめられている貴重な論文です。

小野文(2008).「ソシュールの異言研究序論-読解にともなう幾つかの困難について」.『慶應義塾大学日吉紀要:言語・文化・コミュニケーション』,40,213-228.

感想:1890年台は火星人への関心が高まった時期だそうで、火星語が登場するのはそれほど不思議ではなかったようです。また、フロイトの『夢判断』が1900年に出版されたり、フルルノワも無意識に近い概念を提出したりと、「意識とは別に働く器官の解明」(p. 215)が非常に高まった時代でもあったということが述べられており、エレーヌ・スミスの交霊会が歴史的に位置づけられていました。

ソシュールがフルルノワと交流を深めたのは一般に「ソシュールの沈黙」(p. 215)と呼ばれる時代だったそうで、その時代彼は高度な研究成果を得ていたにもかかわらず、あまり執筆活動を行わなかったそうです。また、彼は書簡を通して様々な言語学者とやり取りをしていたそうですが、あまりいい思い出がなかったようで、異言研究に関してフルルノワと交わした書簡の中にも自らが書簡恐怖症であるということを語っているようです。

さて、エレーヌの異言についてですが、ソシュールは「比較言語学者として、「エレーヌの話しているのは疑似サンスクリットだ」という結論を最初から出しつつ、ソシュールはなおも彼女の言葉の分析を続けている」(p. 220)そうです。そして、ソシュールとフルルノワのやり取りはフルルノワが『インドから火星へ』の中に収められることになったそうですが(ソシュールはあまり気乗りしなかったようです)、それをヴィクトール・アンリが読み、彼が『火星語』を出版するに至ったそうです。ソシュールはアンリの解釈を全くの妄想として激しく批判します。しかし、それと同時に同じような妄想は自らがフルルノワにあてた書簡の中にも巣食っているいることに気づき、それがアンリの妄想を引き起こしてしまったと考えるようになったようです。このことに関して著者は「この体験はソシュールにとっては愉快なものではなかっただろう。自らが熱心に練り上げた比較の理論が、実はたわいもない妄想に過ぎないと気づかされたのだから。フルルノワとの交流は続くものの、異言に関してぱったりと研究を止めてしまうのは、フルルノワからの要請がなくなったからでも、またエレーヌの無意識のことばが解明できたからでもない。自分の仮説を妄想と認めた時点で、異言研究には終止符を打つしかなかったのだ。異言を研究しながら、自らも異言めいた「ラテン語の模作」を作ってしまった時、そしてその模作という行動の意味に気づいたとき、ソシュールは改めて書簡の恐怖に捕われたのではなかろうか。」(p. 221)このように、著者はソシュールの異言研究を彼の一連の書簡恐怖症の中に位置付けて示してくれています。

次に、なせエレーヌの交信相手が火星に住んでいなければならなかったのかということについて詳しく考えていきます。著者はその理由として、1877年と1894年に火星が地球に近づいたこと、著名な天文学者スキアパレッリが火星に広範囲の水路システムを観測したという報告を行ったこと、フラマリオンが地球外の惑星の居住性について肯定的な著作などを多く出版していたこと、「火星の水路の模様を信号や文字と捉える見方や、火星表面に明るい点が見えた、という多くの報告から、火星人が何らかの交信を求めている可能性は大きいと考えられていた」(p. 222)こと、パウエルが著書『火星』の中で人間とは大きく異なる身体的特徴を持つ火星人のイメージを大衆に植え付けたこと、などが挙げてありました。つまり、火星人は時代的に選ばれるべくして選ばれたといった感じだと思います。また、「「火星」という選択は、エレーヌ自身が強く望んだものではなく、彼女以外の学識ゆたかな出席者によってもたらされたものと見てよい。おそらく火星人との交信は、交霊会の人びと、特にオーギュスト・ルメートル教授の秘やかな希望を叶えようとするものであった。」(p. 223)、「エレーヌは彼女の周りの満たされぬ思いや願いを感じ取り、共同幻想のような形で交信を始めている。ソシュールが交霊会に出席したときも、エレーヌは特別に火星語の“翻訳”を披露し、言語学者と出席者を喜ばせようとするのである。」(p. 223)と著者は指摘していました。

また、彼女は少女時代から東洋にあこがれをもっており、彼女の話したインドの物語はこのことと関連していると考えられています。

それと、この論文でも「転移」「逆転移」のことについて触れてありました。エレーヌは彼女を取り囲む学者たちと一対複数という形で転移及び逆転移を引き起こしていると指摘してありました。エレーヌは他者の願望を読み取って、それを自分の幻視の中で再現させ(転移)、さらに出席者もあいまいで非論理的な記録を残すにいたっているそうです(逆転移)。実際、交霊会の記録から、「ここでは、語られる幻も異言も誰が発しているのか分からないほどに、人物の境界線が曖昧になっている。サンスクリットを正しく写し取ろうと交霊会に出席するソシュールが、いつの間にか古代インドの登場人物にさせられてしまったり、最終的には自分もまた「異言」らしきものを作ってみたりするように、エレーヌを取り巻く学者たちは、科学的であろうとすればするぼど、曖昧で非理性的な記録を残している」(p. 224)と指摘されています。

エレーヌがもたらした火星の幻と東洋の幻は共通点があると著者は指摘します。両者は、「エレーヌたちのいる場所から時間的にも空間的にも最も離れている対蹠点」(p. 224)に存在する一方、「エレーヌやフルルノワ、ソシュールの分身たちが住んでいるという点で、最も近しい場所にもなりうる」(p. 224)という点で一致しており、そこには「彼ら自身の知らない場所-「無意識」の場所」(p. 224)が指し示されていると著者は指摘していました。そして、ソシュールの一般言語学の中にこの対蹠点は取り入れられたのだろうかと疑問が投げかけられていました。

最後に、エレーヌが発したサンスクリット語における/f/の不在について述べられています。ソシュールはエレーヌはサンスクリット語に/f/がないことを知っていたのではないかと疑っていたそうです。それに、彼女の母国語である「フランス語」という語はまさに/f/から始まるため、彼女にとって/f/はいかにもフランス語的なものと映っており、彼女は極力フランス語的にならないようにつとめた結果として、/f/の不在という現象が起こったのではないかという考えも示していたようです。それに対してアンリは、彼女がサンスクリット語に/f/があることを知っていたかどうかが問題なのではなく、むしろ無意識の中でフランス語の/f/を避ける方向に彼女が向かっていったのではないか、と主張しています。つまり、ソシュールはあくまでも意識のレベルで、アンリは無意識のレベルで/f/の不在の現象をとらえようとしていることが分かります。しかし、「ソシュールが「無意識」という概念に対して抵抗を感じつつも、それが我々の意識と隣り合わせにあるものと気づいていることは確かである。」(p. 226)と著者は指摘します。というのは、ソシュール自身がそのような言葉を残しており(このブログでは省略します)、著者は「法則に支配された、理性的な言語とその学問を目指しつつ、ソシュールはそうした言語と人間の心理探求が切り離せないものであると確信してい」(p. 226)たようだと著者は述べていました。

ソシュールは、結局フルルノワとの書簡の中で偽ラテン語を作るという自らも異言を発してしまったことから、異言研究及び無意識という問題から遠ざかることになりました。しかしながら、「この問題が彼のなかで再び蘇るのは、ギリシャ・ラテン語の詩のなかにアナグラムの形で固有名詞を聴き取った時ではないだろうか。その時には、エレーヌという魅力的な導き手はおらず、ソシュールは独り一般言語学の拡がる地平の縁に立ち、無意識の深淵を眺め入ることになる。」(p. 227)と著者は指摘していました。

この論文を読んで、ソシュールの異言研究というのは決してソシュールにとって魔が差したというようなものではなく、晩年の彼の研究に大きな影響を与えたのだなということを理解することができました。非常にわかりやすく書いてあり、とても勉強になりました。

| | コメント (0)

東郷雄二(2005).「言葉に憑かれた人たち-人工言語の地平から7 夜の女王エレーヌ・スミスの火星語」を読む(『すばる』)

フルールノワやソシュールによって行われた、霊媒師エレーヌ・スミス(本名エリーズ・ミューラー)のサンスクリット語や火星語の研究についてまとめられた貴重な文献です。この論文はオンライン上で公開されていましたので、今回はオンライン上で文献を手に入れて読ませていただきました。この論文の正式な情報は以下の通りです。

東郷雄二(2005).「言葉に憑かれた人たち-人工言語の地平から7 夜の女王エレーヌ・スミスの火星語」.『すばる』,27 (1),238-245.

感想:以前、ヤグェーロの文献をレビューしたときにも火星語研究についてはレビューしていますが、この論文は非常にコンパクトに火星語研究のあらましがまとめてありました。事の始まりは1894年10月24日の夜にジュネーブの住宅街で霊媒師エレーヌ・スミスが行った交霊会だそうです。そもそも、この時代ヨーロッパでは心霊学研究がさかんであり、このことは特に当時珍しいことではなかったようです。また、フロイトが『夢判断』を出版した年が1900年ということであり、人々は人間の意識下に非常に関心を持っていた時代であったそうです。エレーヌは主に3つの物語を話したそうで、十五世紀のインドの物語(エレーヌは院との女王の生まれ変わりと名乗ります)、火星の物語(エレーヌが火星に逃れた霊体と会話する)、マリー・アントワネットの生まれ変わりとなってカリオストロと対決する物語、がそれに当たります。そして、彼女が習ったことがないサンスクリット語と火星語を話したということが、当時の学者の注目を集めるきっかけとなったそうです。

さて、彼女の言葉ですが、サンスクリット語を話すことは外国語がかり(xenoglossia)という現象に相当し、火星語を話すことは異言(glossolia、gift of tongue、speaking in tongues)といった現象に相当します。前者は「知らないはずの外国語を話す現象」を指し、後者は「広くは宗教的法悦状態や神がかりの状態に陥った人がしばしば意味のわからない言葉を話す現象」を指します。著者は、両者は非常によく似た現象であるので、両方含めて異言現象と呼んでいます。

異言については、新約聖書の『使徒言行録』に記載があるなど、宗教と関係することが多いそうです。しかし、フランスなどでは言語学雑誌『言語』で1988年に異言特集が組まれたり、いくつかの専門的な著書が出版されるなど、日本よりも異言の扱いに積極的であるようです(日本語に訳された文献が紹介してありましたが、ここでは割愛します)。ですが、重要なことは言語学者はすべての異言現象を事実とは思っていないということです。「その宗教を信じている人にとっては、異言は神のお告げであり、疑う余地のない奇跡であるかもしれない。しかし、言語学者は一歩引いた<外>から異言現象を観察し、なぜこれほど広範囲にしかも時代を超えて異言が報告されるのか、報告された異言には何か共通する特徴があるのかといった点に興味を持つのである」と著者はまとめています。これは、つい先日読んだパイクのイーミックとエティックという概念が関係する記述だと思いました。

さて、まずはサンスクリット語についてですが、彼女が4年間30回にわたる語りの中で最初にサンスクリット語らしい語を発話したのは1895年3月6日だったそうです。この日の交霊会には心理学者フルールノワが出席しており、彼の同僚であったソシュールにその分析を依頼したのがソシュールが異言現象にかかわるきっかけだったそうです。しかし、ソシュールはフルールノワのようにエレーヌが話す物語にのめりこむことはなく、あくまでも慎重に分析を行い、早急な結論(彼女は本当にサンスクリット語を話しているかどうか)は差し控えたようです。しかし、著者は「しかし晩年のソシュールが、自ら構想した一般言語学をそれ以上発展させることなく、神話研究やアナグラム研究に没頭したことを想起すると、この霊媒との出会いが何かしら意味あるものに思えてくることもまた事実なのである」と指摘されていました。

次は火星語の研究についてです。エレーヌが火星語を話すとき、まずトランス状態になった彼女が火星語を話し、次に彼女の守護霊レオポルドが彼女に憑依し、その翻訳を行うというかなり複雑なプロセスを経たようです。しかも、レオポルドはいつもすぐに翻訳を与えてくれるわけではなかったようで、数日経ってやっと翻訳をするということもあったそうです。また、エレーヌは火星語を火星文字で表記するようにもなったそうです。

彼女の火星語のセンセーションはすさまじかったようで、サンスクリット語とインド=ヨーロッパ諸語の比較文法を専門とするヴィクトール=アンリが1901年に『火星語』という本を出版するにも至ったそうです(ただし、比較言語学者であったソシュールはアンリの研究は粗雑過ぎると批判しているそうです)。言語学が火星語の分析に取り組むのは突拍子もないような感じがしますが、アンリの本を読めばその理由が分かります。著者がアンリの本から引用している「言語とは無意識的主体の行う無意識的活動の所産である」「通常はすでに固定化してしまったものとしてしか観察することのできない言語形式の誕生の瞬間に立ち会うことには、たいへん大きな意味がある」「既存のどのような言語にも似ていない言語を作る過程を観察すれば、言語生成にかかわる意識下の自我の秘められた働きを推測することが可能になる」という言葉から、言語学者は火星語を通して言語の起源について考えたかったのであろうと指摘しています。そして、著者は「人間の言語の起源は遥かな太古の闇の中に没していて、直接の手掛かりはない。しかし、一九世紀は生物学の時代であり、ヘッケルが一八六六年に提唱した「個体発生は系統発生を繰り返す」という生物発生原則はよく知られていた。系統発生が直接観察できないのならば、個体発生を観察すればよい。アンリはエレーヌのトランス状態における異言という個体発生をつぶさに観察することで、ヒトという種が初めて言語を作り出した時に働いた無意識の心の機制を推し量ろうと試みたのである。」と指摘していました。

また異言現象は「語る主体」の問題にも大きく関係してくると著者は述べます。エレーヌが霊媒をしている最中は、語る主体はエレーヌではありません。その意味で、霊媒中の彼女の言葉は「語る主体なき言葉」となります。これはあるい意味で小説や詩の言葉と類似しています。作品では作者は自分自身とは違う別の<私>を起点として言葉を発しています。著者は「エレーヌの異言は、トランス状態の霊媒の口から流れ出るが、それは彼女の言葉ではなく、そしてまたその異言は守護霊レオポルドを介してフランス語に翻訳されるという複雑な過程を辿ったように、文学の言語もまたどこか深い場所に潜んでいる「もう一人の私」から発して、物理的には「今、ここ」にいながらも、発話の座標軸としての「今、ここ」からは外された<私>によって書き留められる。この奇妙な転倒した関係が、異言と文学言語の共通した性質なのである。」とまとめてあり、実に興味深い指摘だと感じました。

さて、エレーヌの火星語は本物だったのかどうかということですが、単語の並べ方は彼女の母国語であるフランス語を土台としていることが分かっています。また、500語中で1回しか現れない語のパーセントを調べてみると(これは自然言語と人工言語を区別するために言語学者が編み出したものでハパックスと呼ばれるそうです)、その割合は32%だったそうです(自然言語はたいてい46~48%に収まり、人工言語になるとこの数字を上回るそうです)。この結果から、「火星語はいろいろな言語を素材として作られたチャンポン言語だろうと推定される」と著者は指摘していました。しかし、彼女の異言現象には謎も残っており、それが彼女がサンスクリット語を話した際に使用しなかった/f/の音です。フランス語やドイツ語にはこの音は多く使用されるそうですが、サンスクリット語にはこの音は実際にないそうです。また、彼女はトランス状態でサンスクリットで使用されるデーバナーガリー文字を書いたという記録も残っており、真相は闇の中というのが正しいのかなと思いました。

この論文ではエレーヌの晩年についての情報もまとめられていました。フルールノワとエレーヌは恋仲にあったようです。エレーヌはインドの物語を語る際にその物語内で登場する恋人をフルールノワに擬していたそうで、「患者が分析医に恋愛感情を持つようになるという「転位」現象を思わせるところがある」と述べられていました。また、フルールノワの執筆した『インドから火星へ』という本がいろいろな言語に翻訳されて各国で広く知れ渡るにつれて、科学界から霊媒を分析対象とした研究方法に非難が集まるようにもなったそうです。こうしてフルールノワとエレーヌは様々なスキャンダルに巻き込まれることとなったそうです。しかし、『インドから火星へ』の印税をめぐって、結局フルールノワとエレーヌ自身も仲たがいするに至り、彼女は心霊主義を信奉するとあるアメリカ夫人から遺産を受け継いだことをきっかけにして霊媒活動から身をひくことになったそうです。しかし、彼女は晩年にますます神秘主義にふけるようになり、トランス状態で絵画を書いたりするようになっていったとのことでした。

| | コメント (0)

2012年2月22日 (水)

佐藤千登勢(1996).「手法としての「降伏宣言」-ヴィクトル・シクロフスキイの『ZOO(ツォー)』と『第三工場』をめぐって-」を読む(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』)

ロシア・フォルマリストとして有名なシクロフスキーが政治的弾圧の結果としてマルクス主義へと傾倒し、実質ロシア・フォルマリズムがマルクス主義文学理論に降伏したというのが一般的に言われることですが、本論文ではそのことに対して異議を唱えています。論文の詳細は次の通りです。

佐藤千登勢(1996).「手法としての「降伏宣言」-ヴィクトル・シクロフスキイの『ZOO(ツォー)』と『第三工場』をめぐって-」.『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(第2分冊 英文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシヤ文学・中国文学),42,131-141.

感想:シクロフスキイの降伏宣言としては、書簡体小説『ZOO(ツォー)、あるいは愛についてではない書簡、またあるいは第三のエロイーズ』、回想録『第三工場』、論文「科学的誤謬の記念碑」という3つのものがあります。そして、ヴィクター・エールリヒはこの3つの文献をもってシクロフスキイが「マルクス主義的方法を受け入れ、体制に迎合していく」(p. 131)と指摘しました。それに対して、70年代にャード・シェルダンは決して体制を受け入れていないと主張しています(シクロフスキイと同時内の論客にもアブラム・レジネフやオシープ・べスキンといったシェルダンと同じ立場の人たちがいたそうです)。そして、本論文の著者はシェルダンの方の立場に立っており、「これらの作品が当時、いかに体制に抗っていたか、すなわち、今日の視点から見れば、いかに屈伏していないか」を示していきます。

まず、『ZOO』ですが、一見確かに体制に降伏しているかのような表現が多く見られます。しかしながら、その内容は喜劇的・嘲笑的な形で示されており、もはや体制への降伏といった本来の機能をそれらの表現は有していないと指摘されています。したがって、「文字通りにそして一義的に、降伏宣言、あるいは体制への迎合とみなして、非難すべき対象ではない」(p. 134)と主張されていました。

次は『第三工場』です。この文書は、『ZOO』と違って体制への迎合を思わせるような文字通りの表現はあまりないそうで、むしろ「作品全体に窺えるマルクス主義的方法への曖昧な迎合と時代の屈従ゆえ」(p. 135)に降伏宣言とみなされているそうです。しかしながら、同時代にシクロフスキイはフォルマリスト仲間へ書簡を送り、その中で自己批判をするふりをしてフォルマリズムの主張を明示したりしており、形だけの降伏宣言である可能性が高い点が指摘されていました。さらに、『第三工場』自体にもロシア・フォルマリズムの議論で散見されるような技巧が多くこらされていることも指摘されています。その喜劇的効果は明白であり、 (1) 非論理的手法(ただし、この作品では手法だけでなく素材そのものにも喜劇性が志向されているそうです)によって読者を煙に巻き、体制を嘲笑している様子、(2) 手法の剥き出し(作品中のアネクドートの形式や逸脱の手法を目立たせている)、(3) 洒落、(4) 擬人化の多用、(5) パロディ、(6) 降伏宣言を装うメタファー、が駆使されていると指摘されていました。そして、「シクロフスキイにとって、降伏宣言は嘲笑のための手段であり、喜劇の手法なのだ」(p. 140)と述べられていました。

以上の議論を受けて、この論文で挙げられたことは、シクロフスキイが「手法としての芸術」という論文で述べたことときわめて合致していると著者は指摘します。そして、「第一に、降伏宣言という突飛な素材が読者の注意を引き付けるがために、シクロフスキイの言う「再認する段階を超えて明視する」ことを可能とし、そして言うまでもなく、驚きを与える。そして第二に、迎合的態度による表現の曖昧さ、それによって生じる解釈の難渋さにより知覚のプロセスを引き延ばしもする。このようなかたちで、文学的手法の基本的条件を満たしており、またシクロフスキイの理論を実践しているものとも言えるのだ。さらに、この方法の効果、すなわち喜劇的効果の視点から見ると、降伏宣言を嘲笑の手段とすることで、風刺する力をより強く引き出す可能性を与えたのである。」(p. 140)とまとめられていました。私自身、エールリヒに代表される考え方しかしていなかったので、とても勉強になりました。

| | コメント (0)

U.Christmann,L.Wimmer&N.Groeben(2011).「The Aesthetic Paradox in Processing Conventional and Non-conventional Metaphors」を読む(『Scientific Study of Literature』)

文学の経験的研究の論文です。非慣習的比喩の解釈プロセスとそれによって生起する情意の関係について実験調査がされています。詳細は次の通り。

Christmann, U., Wimmer, L., & Groeben, N. (2011). The aesthetic paradox in processing conventional and non-conventional metaphors. Scientific Study of Literature, 1 (2), 199-240.

感想:著者はこれまでの比喩の処理研究をレビューし、 "the amount of cognitive effort required to understand these figurative utterances depends on their level of (non-)conventionality" (p. 201)、"there exists an empirically based consensus that non-conventional metaphors are inherently polyvaslent (i.e., semantically open) and that their processing is cognitively more demanding than the processing of conventional metaphors or non-figurative language." (p. 202)、ということを確認します。

次に比喩の理解プロセスにおいて情意面の考察がこれまで欠けていたことを指摘します。そして、最近の著者らの研究で、 "non-conventional variants of figurative language were evaluated as more aesthetically pleasing than conventional variants" (p. 203)、"non-conventional figurative utterances were evaluated as being cognitively more demanding than conventional figurative utterances" (p. 203) ということを見つけたと報告します。そして、この非慣習的比喩の理解における処理容量と情意の関係のことを "aesthetic paradox" (p. 203) と名付けていました。そして、 "an increased cognitive load (which is normally perceived as stressful) is evaluated positively when processing non-conventional figurative language, provided that the processing result is pleasing" (p. 203) という仮説を立てます。そして、この研究は関連性理論の研究をさらに発展させることができると述べられていました(関連性理論と本研究の違いについてはp. 203)にまとめてあります。

さて、著者は先行研究で認知処理負荷と情意の関係について扱ったものを拾い出そうと、関連性理論、作動記憶研究、cognitive load theory研究などを見てみるのですが、これらの研究では情意面をあまり扱ってこなかったようです。したがって、なぜ非慣習的な言語表現の処理において通常では起こりえないようなaesthetic paradoxが生じるのかが説明できないとしています。そこで、文学の経験的研究が以前から研究してきたpolyvalence conventionという概念に言及し、非慣習的な言語表現がこの慣習に基づいて情報処理することを自動的に読者に促しているのではないかと考えられていました。以上の議論を踏まえて、aesthetic paradoxについてもう一度整理がなされ(p. 206)、さらにこの研究の分外理論上の位置づけと意義(pp. 206-207)が述べられています。

また、conventional metaphorとnon-conventional metaphorの定義も明確化されます。 "A metaphor was defined as conventional if it had only a figurative meaning, that is, if the figurative meaning was used as a lexicalaized set unit (i.e., as an idiomatic metaphor" (p. 210)、"We defined a metaphor as non-conventional if it had a non-lexicalised figurative meaning, and it its components were compiled freely (not as a set unit)" (p. 211) メタファーはオンライン・ジャーナルやメタファー集などから取られたそうです。

調査方法ですが、非常に緻密な方法がとられていました。著者らが慣習的な比喩と非慣習的な比喩を集め、それぞれに適切な解釈と不適切な解釈(ただし、しっかり考えないと不適切とは判定できない解釈)を用意します。そして、「この比喩を知っているか」という質問に対して使用する比喩と比喩の解釈を訪ねる際に使用する比喩に分けます(この比喩グループをAとBとすると、調査参加者によってはBをAとして使用する者もいます。)。

そして、この調査はStudy 1 と Study 2 から成ります。Study 1では、まず「この比喩を知っているかどうか」という質問項目にPC上で回答していきます(読解時間の調査)。次に1つの比喩に対して2つの代替的な解釈が提示され、どちらがより適切な解釈かを問う質問項目にPC上で回答します(解釈時間の調査)。最後に、13件法の情意面に関する調査項目にPC上で回答します。Study 2も基本的にはこの調査法と同じなのですが、解釈時間の調査で、解釈の選択肢が1つのみ提示され、その解釈でよいかどうかを答えるというものに変更になっています。この違いによって、タスクが与える調査参加者への負荷に関係なく、非慣習的比喩の理解ではaesthetic paradoxが起こるということを証明しようとしています。また、解釈時間の調査の際には何度も出題されている比喩について見ることができます(ただし、タスクの制限時間は1問60秒と定められていました)。

さて、以上の調査により、次のようなことが示されています。 "the results of the two studies consistently demonstrate that non-conventional metaphors require longer reading and processing times (increased decision times in paraphrasing tasks and an increased number of times the metaphors were re-accessed) than conventional metaphors." (p. 225)、"the cognitively more strenuous (greater duration) processing of non-conventional metaphors is positively evaluated, provided that participants are indeed satisfied with their processing reult, that is, if the have discovered a satisfactory meaning for themselves." (p. 225) (ただし、興味深いことに満足のいく解釈が見つけられなかった場合にはそのプロセスが否定的に評価されるということは見られなかったようです)

この調査方法で、私が興味を持ったのは、調査参加者の解釈プロセスの解答が正答かどうかということについては問わずに分析を行っていることと、実際に調査参加者がpolyvalence conventionが生起しているのかどうかも今回は調べていないという方法です。文学の経験的研究は比較的こういった形の分析方法を取るのですが、私の専門である英語教育学などでは正答しているかどうか、polyvalence conventionが生起しているかどうか、が常に問われていて、少し使い分けをする必要があるのかなと思ったりしました。

| | コメント (0)

近藤愛紀(2010).「ソシュールの考えていた文体論-草稿から読み取れるもの-」を読む(『関西外国語大学研究論集』)

ソシュールが構想した文体論について整理されている貴重な論文です。ソシュールが残した「文体論講座」という草稿に基づいて議論がされていました。

近藤愛紀(2010).「ソシュールの考えていた文体論-草稿から読み取れるもの-」.『関西外国語大学研究論集』,91,185-194.

感想:まず、文体論という名称を最初に使った人として、シュタインタール(1866年)とする説とノヴァーリス(18世紀末)とする説が紹介されています。しかしながら、文体論を明確に定義して体系化したのはバイイで間違いはないようです。ソシュールが残した草稿のなかで「文体論講座」というものがあるそうで、その中のラング・パロール・ランガージュの規定から、この草稿は第3回講義(1910年10月~1911年7月)に近い時期に書かれたものではないかと推察がされていました。というのは、ラングとパロールにそれぞれ受動的、能動的という用語を使用しながら定義を与えているためで、これはそれ以前の講義では明確には見られないものであると指摘されていました。参考までに、第3回講義での定義を紹介しておきますと、ラングは「受動的なもので集団(共同体)の中に存在する。言語活動を組織し、言語能力の行使に必要な道具を形作る社会的なコード」、パロールは「能動的で個人的なものである」とされています。

さて、肝心の文体論ですが、著者によると「必ずしもフランス語の文体論を意味するものではなく、あらゆる特有語の決まり文句、慣用表現を対象とする」(p. 188)というものであったようです。さらに、この草稿は弟子のバイイのために当時進行中であった新講座設立の後押しをするために書いた文章であったようです。

基本的にソシュールの構想した文体論はバイイのそれに依存したものであったようで、『文体論提要』『フランス文体論概論』の2冊の内容に基づいたものであったと考えられています。バイイによれば「文体論は(…)情意的な内容の観点から組織された言語活動=言葉の表現の諸事象、すなわち言葉による感受性の諸事象の表現、言葉の諸事象の感受性への働きを研究する」ものとなります。したがって、ソシュールも個人の独創的な表現を扱っているのではなく、「既に社会(言語共同体)によって認められた言い回しを対象にしている」(p. 190)と指摘されていました。

また、ソシュールはstyleとstylistiqueの区別を強調していたそうです。両者の区別は、「一般にstyleとは文書のスタイルであり、語句・語法・修辞などにあらわれる文章表現上の特色、特に、或る作家特有の文章表現上の特色を言う。それに対し、ソシュールの考えている文体論は、基本的には話し言葉に見られる言語の客観的な事実を記録し、識別、分類しようとする。」(p. 190)というように著者が明確に区別をしてくれています。つまり、ソシュールの言う文体論は書かれた言葉を排除するわけではないものの、基本的には話された言葉を研究対象として考えていたようです。

一般に、ソシュールは文体論へ言及はしているもののその理論展開はなされていないという指摘がなされるようです。しかしながら、著者はこの考えに異論を唱えています。著書には、「ソシュールが構想していた文体論はおおむねバイイの路線に沿っているのは事実だが、記号学との関わりの中で文体論を位置づけようとしている点にソシュール独特のものの見方があるように思われる」(p. 191)と指摘しています。実際に、ソシュールが構想した記号学の中の一分野として文体論は名前が挙げられています。ソシュールの考えでは、あくまでも記号とは社会共同体の中で「一定の約束に基づいてあるい意味内容を指し示すために使われるもの」(p. 191)と考えられているため、「「社会的に容認された言語コード(記号体系)を用いて、自身の感情、思いを伝えようとする表現」を研究する文体論は、記号学を構成する項目の一つになりうるのである」(p. 191)と著者は述べています。

ソシュールは第3回講義で「三部 個人における言語活動の能力と行使」 というテーマで「パロールの理論化」や「パロールの言語学」について語ることを予告していたそうですが(結局は語られなかったそうです)、文体論はこれらの内容に通じるものであったと推測されると著者は指摘しています。そして、「ソシュールはラングだけを扱ってパロール(言、発話)の部分を切り捨てたのではなく、ラングとパロールを相互補完的に捉えながら―いわば言語の根本的な二重性を尊重することによって―言語活動(言葉)の全面的な姿を探求しようとしていたことが、この草稿から十分窺える」(p. 192)という著者による最後の言葉はとても納得させられました。とても勉強になりました。

| | コメント (0)

2012年2月21日 (火)

幡山秀明(2008).「英語教育と文学的教材[7]-英語教科書分析の試み-」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

「英語教育と文学教材」のシリーズの最後の論文です。高校生が印象に残っている英語教科書の内容を調査したアンケート結果が報告されていました。

幡山秀明(2008).「英語教育と文学的教材[7]-英語教科書分析の試み-」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,31,143-147.

感想:著者によると、アンケート結果は「多い順にポピュラー・ソング、自然と環境問題、人種問題、童話、戦争の問題、障害を乗り越える不屈の話、偉人伝、世界遺産」(p. 143)であったそうです。そして、必ずしも文学教材ばかりが上位に来ているわけではないことを指摘(福田・幡山(2008)のアンケート結果にはデータの偏りがある可能性が指摘されていました)していました。また、文学教材は教科書に含まれているケースが少なく、含まれていてもその扱いが満足のいくものではない場合が多いことも指摘されており、英語教師は文学教材を最大限に生かすためにはどのようにすればよいのか考える必要があるということが述べられていました。

| | コメント (0)

佐藤英幸・幡山秀明(2007).「分析の試み:英語教育と文学的教材[6]」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

「私のここ数年来の経験では、精密な精読に裏付けされた多読こそが、われわれ日本人でさえもがネイティブを上回る英文表現力を身につけうる唯一確実な方法と考えられる」(p. 406)という主張に基づいた上で執筆された論文です。詳細は以下の通り。

佐藤英幸・幡山秀明(2007).「分析の試み:英語教育と文学的教材[6]」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,30,405-409.

感想:上記の主張のように、精読に基づいた上での多読が重要と考えられています。著者は特に名文に触れることがより効果的であるとして、エレーヌ・ペエイジェルズの『隠された福音』というテキストに基づいて、文を1文ずつに分け、各分で文頭、韻律(同音・類音)、語彙(同義語・異義語・同意表現・反対表現)のバラエティーがどのように工夫されているかを考えさせる活動が提案されていました。文学教材を通してライティング力を高めるための指導といった感じの論文でした。

| | コメント (0)

福田勉・幡山秀明(2008).「英語教育と文学的教材[5]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(下)-」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

前回の論文の続編です。これが最終章となります。

福田勉・幡山秀明(2008).「英語教育と文学的教材[5]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(下)-」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,31,149-156.

感想:これまで述べてきたことのまとめがなされていました。前回の論文同様に、D. J. Sumaraの研究に基づいて執筆されています。まず、文学教材をfocal thingとみなし、集団で文学教材を解釈する活動(focal practice)が有用であるということが再度強調されていました。次に、The Giverという作品を利用した教育実践についてまとめられています。精読をコアとした指導案で、しかもその活動が示唆に富んでおり、とても興味深い指導案だと思いました。そして、英語教育で文学を扱う意義として、(1) 論理的思考力の養成が可能であること、(2) 文学作品は生きた英語であり、教師と生徒がその生きた経験を共有できること、(3) 「面白い」「感動的である」「美しい」といった人間の情緒や知的好奇心に訴えること、(4) 文学作品の読解を通して異文化理解・異文化体験が可能であること、(5) 文学作品を読むことで異国へ投げ出させるのと同じような経験をすることができ、母国語話者の論理の組み立てや発想に触れることができること、(6) 生徒が読めるレベルの言語レベルでかつ彼らの知的好奇心を満たすことができること、(7) 自立学習を促しうること、が挙げられていました。また、授業で文学作品を使うことを困難にしているものとして入試制度が言及されていました(ただし、言及されているのみで、残念ながら考察についてはなされていませんでした)。最後に、高校生に英語教科書で印象に残っているストーリーを答えるように頼んだアンケートの結果が紹介してあり、その結果として上位3つが文学的作品であったことが報告されていました。

| | コメント (0)

福田勉・幡山秀明(2007).「英語教育と文学的教材[4]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(中)-」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

前回の論文の続編です。この論文では、アイデンティティーという概念を中心として議論が展開されていました。今回の論文もD. J. Sumaraの研究を下敷きにまとめられています。

福田勉・幡山秀明(2007).「英語教育と文学的教材[4]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(中)-」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,30,411-420.

感想:著者はアイデンティティーという概念も前回の論文同様にintertextとみなすべきだと考えていました。つまり、私たちの精神の奥底に恒常的に潜んでいるものではなく、それは日々様々なテクストと私たちの過去の経験が相互作用をする中でその都度「物語」として立ち現われてくる可変的なものと考えられています。文学教材は、学習者のアイデンティティーにもっとも強力に働きかける1つのテクストとして重要な教材とみなされていました。

| | コメント (0)

福田勉・幡山秀明(2006).「英語教育と文学的教材[3]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(上)-」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

英語教育の中で文学教材を利用する意義について、D. J. Sumara の著、Why reading literature in school still matters: Imagination, interpretation, insight. に基づいて理論的に考察した研究でした。この論文の詳細は次の通り。

福田勉・幡山秀明(2006).「英語教育と文学的教材[3]-文学を授業で扱うことの意義と可能性(上)-」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,29,499-513.

感想:基本的にはD. J. Sumaraによる著書の解説とD. J. Sumaraが本の中で援用している哲学者の考えを適宜引用しながら、文学教材を英語教育の中で使用することがなぜ大切なのかということが考えられていました。論文内で様々なキーワードが丹念に定義、明確化されていました。特に私が興味を持ったのは、Albert Borgmann という人のfocal thingとfocal practiceという概念でした。前者は、他人とともに心や体が働きかける対象物を指し、その結果として生じる働きかけがfocal practiceと呼ばれています。この論文では、文学作品がfocal thingであり、その解釈訓練(focal practice)を通して認知力、感受性、さらにはinsightが高められると考えられています。しかも、Eメールのやり取りなどと違って、現実世界の様々な拘束に影響を受けることなく、常に「想像」という形を保ちながらこれらのことが可能である点が、文学教材の大きな長所であると述べられていました。

また、私たち自身が様々なテキスト(過去の経験)を内的に保持しており、日々様々な新たなテクストに触れることで解釈を行い、新しいテクスト(intertext)作り上げながら毎日生活をしているということが指摘されており、文学教材は私たちにもっとも自由な反応を可能にするという点でも優れていると述べられています。他にも、文学教材には過去の既成概念を覆すようなinterruptionが含まれており、より柔軟なintertextを作ることを促すということも強調されていました。他には、文学作品は空想であるがゆえに、架空の人物を通して自身の苦難を直視することを読者に可能にする点もメリットと考えられています。

最後に、文学教材が有用であるかどうかを議論する際は、それが現実と合致しているかどうかという点ではなく、その活動を通した得られたintertextが学習者にとって現実世界で役に立つかどうかという点で判断すべきだと述べられています。文学テクストは学習者に現実世界で役立つintertextを作らせる上で重要な教材であるというのが著者の主張と私は解釈しました。

| | コメント (0)

幡山秀明(2006).「英語教育と文学的教材[2]-映画Dogvilleの活用-」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

文学を使った英語教育の研究で、特に映画を利用した場合の指導案について提案されていました。本論文の詳細は次の通り。

幡山秀明(2006).「英語教育と文学的教材[2]-映画Dogvilleの活用-」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,29,493-497.

感想:この論文では、英語教育においては学習者が考えずにはいられないような内容が必要であると主張されており、かつ「芸術性の高い映像とスクリプトの文字を併用することで、言語習得のみならず、疑似体験による深い感動と鋭い洞察力を」(p. 494)を与えることができる作品として、Dogvilleという作品を利用した授業の指導案が提案されていました。多くの質問例が提案されていましたが、いずれも学習者に内容についていろいろと考えさせることを促すものであり、とても興味を持ちました。

| | コメント (0)

2012年2月17日 (金)

K.L.パイク(1982/1997).『英語学の基本概念:タグミーミックス入門』を読む(谷口伊兵衛(訳)),而立書房)

タグミーミックスの入門書です。文体論に応用されることもしばしばあるため、前から気になっていた言語理論でした。今回、思い切ってこの理論に挑戦してみました。アメリカの言語学ですが、認知言語学出現以前に、これほど文脈、意味、分析者と言語データの関わり、語用論的側面、などについて詳細に扱っているものがあったことに驚いたと同時に、文体論で利用される理由もよくわかりました。かなり難解な本でした。本書の詳細は以下の通りです。

パイク,K.L.(1997).『英語学の基本概念:タグミーミックス入門』(谷口伊兵衛(訳)).而立書房.(原著は1982年出版)

感想:本書は序論でタグミーミックス理論及びこの本の要約がなされます。しかしながら、私は一回読んだだけではこの序論は全く理解することができませんでした。第1章から順番に読んでいき、最後にもう一度読むことでやっと理解することができたと同時に、本書の内容を整理することができました。

本書は、まず第1部で語分析はかならずその観察者の関心との相関でなされることを重視しています。そして、その言語分析は主に粒子的な視点に立ったもの(個々の要素を個別に扱う方法)、波的な視点に立ったもの(隣合う要素の重なり合いやそれによって引き起こされる変化などを扱う方法)、場的な視点に立ったもの(要素を関係の集合体の中に位置付けて扱う方法)の3つがあり、観察者は必要に応じて言語を静的、動的、関係的に扱い分ける必要があると述べられていました。

次に第2部では、粒子的視点、波的視点、場的視点に立った場合の言語の分析においてその研究対象となる事柄が整理されていました。粒子的視点においては、要素の対照と同定が、波的視点においては要素同士が関わりあうことによって生じる変化が、場的視点においては体系における各要素の分布が扱われていました。

第3部では、言語の階層について話が移ります。本書では具体的には文法の階層、音韻論の階層、参照の階層(文によって表現される命題や出来事)が扱われています。そして、文法の階層を説明する際に、タグミーミックス理論のもっとも重要な点であるタグミーム(脈略内単位)が導入されています(pp. 108-120)。基本的にすべての言語要素は4つの側面から記述されなければならないとする考え方です。4つの側面とは、スロット(全体の中のどこに位置しているのか:連辞的関係)、クラス(代わりにしようできる項目の総和:範列的関係)、役割(ある項目が文や発話の中で果たしている役割:主体や客体など)、結束性(ある項目を有意味化させる枠組み:たとえば文法的時制のシステムなど)、を指します。そして、この枠組みに基づいて、3つの階層でタグミーム分析が行われていました。また、音韻論の階層では、詩の韻律についてタグミーミックス分析が実践されています。

第4部では、タグミーミックス理論全体の目指す方向性などについて議論されています。まず、ある要素の分析においては、文法、音韻、参照、3つの各階層においてタグミーム分析を行ったうえで、対処する必要があることが述べられていました。そして意味と形式を別個に扱うことの問題性も指摘されていました。次に言語における変化(ここでいう変化とは通時態ではなく共時態内で生じるもろもろの言語上の変化のことを指しています)を扱い場合には、必ず場の視点に立って研究をしなければならないということが述べてありました。また語の意味をプロトタイプ的に考えているところにも関心を持ちました。最後に非言語的な要素が大きく関わる談話レベルにおいて研究を進めていくことの重要性が語られていました。したがってタグミーミックスはいわゆる言語的なレベルだけにとどまるのではなく、言語使用がなされるもろもろの背景的体系(文化的慣習など)も取り込んで研究を進めていくことが目指されていることが分かりました。本書の最後の結び(pp. 199-201)はこれまでの議論を簡単に整理してくれていますし、最初にも述べましたように、ここまで読んでから序論を読むと本書の内容を整理できると思います。

タグミーミックスは、表示付き樹系図を使用するという点では非常にアメリカの言語学らしいところがあるのですが、その理論の柔軟性、語用論的な要素や談話レベルへの関心、言語のレベルを互いに相関的に扱うこと、分析者と言語データの関わりについて考えていること、意味をプロトタイプ的に考えていること、など非常に先見的な視点が様々に含まれていたのだなということが分かりました。タグミーミックス理論はある意味で人間に関する一般理論をめざしているのかなあという印象も受け、この点で言理学との共通点も感じられました。また、こういった柔軟な理論的枠組みを持っているからこそ、文体論などにもしばしば適用されるのだろうということが分かりました。また、本書のところどころで様々な英語ジョークが分析されていることも印象に残りました。パイクと言えば、当事者の視点の立場であるイーミックと部外者の視点の立場であるエティックが有名ですが、本書ではこれらのことについてはそれほど詳しくは述べられておらず(むしろ、どちからというと前提とされていたような気がしました)、私自身これらの立場を使い分けて言語を分析することが必要であるという程度にしか理解できませんでした。最後に本書の目次を挙げておきます。

第Ⅰ部 観察者と事物

第1章 理論

第2章 タグミーミックス理論の概説

第3章 粒子

第4章 波

第5章 場

第Ⅱ部 単位

第6章 対照と同定

第7章 変異

第8章 分布

第Ⅲ部 階層

第9章 文法の階層

第10章 音韻論の階層

第11章 参照の階層

第Ⅳ部 脈略

第12章 <形態と意味>

第13章 変化への必要条件としての共有

第14章 談話の世界

| | コメント (0)

S.L.McKay(2001)「Literature as Content for ESL/EFL」を読む(M.Celce-Murcia(編),『Teaching English as a Second or Foreign Language』(第3版),Heinle & Heinle)

文学を使った英語教育に関する基本的な論文です。あまり目新しいことは書いてはありませんが、この研究分野をこれから勉強したり、一般的な議論を整理する上ではとても便利な論文だと思いました。また、活動例については豊富に挙げてあります。論文の詳細は以下の通り。

McKay, S. L. (2001). Literature as content for ESL/EFL. In M. Celce-Murcia (Ed.), Teaching English as a second or foreign language (3rd ed, pp. 319-332.). Boston, MA: Heinle & Heinle.

感想:文学を使用するメリットとして、著者は次の3点を述べています。それらは、 "(1) it demonstrates the importance of author's choice of form to achieve specific communicative goals, (2) it is an ideal resource for integrating the four skills, and (3) it raises cross-cultural awareness." (p. 319) そして、それぞれの点について、その根拠を説明していきます。

まず、(1) についてですが、Widdowson (1975) の議論を引用しながら、文学の目的とは "to convey "an individual awareness of reality" (Widdowson, 1975, p. 70)" (p. 319) であると述べ、what と how が文学では不可分に結びついていると述べます。そして、このことは "First, how something is said often contributes to speakers' achieving their purpose in communication; and second, in deciding how something is said, speakers often communicate something about themselves-they establish their voice." (p. 319) という2点において、学習者の意識を拡げるものであるとしています。また、Kramsch (1993) による活動も紹介されています。次に文学と読者の関係について触れられ、Rosenblatt (1978) やCarterによるlanguage-based approachも紹介され、読者(つまり学習者)を中心にすることの重要性が説かれています。次に実際に、2つの文学作品の抜粋を使用ししながら(1)の点を高めるための方法が提案されています。著者は2つの文学作品を比較する中で学習者にcharacterization、point of view (具体的には、psychological point of view、spatio-temporal point of view、ideological point of view)に着目させるタスクが提案されていました。それぞれのタスクについて、その狙いが明示的に書かれているので、とても理解しやすかったです。そして、どのような活動を行うにしても次の点に注意しなければならないと述べてありました。 "First, in order to promote students' enjoyment of reading literary texts, classroom activities should always begin with having students individually or in small groups share their personal reactions to a literary text. Second, as a way of developing students' awareness of how their interpretation of the text has been influenced by how the story is told, classroom tasks should encourage students to go back to the text to support their interpretations. Finally, exactly what type of classroom tasks are used will depend of what features of the story are most salient (e.g., temporal or spatial description, point of view, or characterization)." (p. 326)

次に (2) について議論が移ります。著者は4技能それぞれについて文学はどのように寄与するかを述べています。リーディングに関しては、精読と多読に貢献すると述べられています。リスニングに関しては、多聴と様々な方言や音声的特徴に触れることができること、  が挙げてありました。また、テープなどではなく実際に目の前で音読したものを聞かせることも重要であるという指摘もありました。スピーキングに関していは、著者は4技能の中で最も文学が寄与すると考えています。特に社会言語学的側面や語用論的側面への寄与が大きいとしています。実際に作品の中では文脈があり、その中で様々な言語使用がなされますが、それらに触れることで学習者は言語使用の適切性について学ぶことができると主張されていました。さらに学習者にダイアローグを書かせたり、会話の複雑性や規則性への意識の高揚、も指摘してありました。Fish (1989) による戯曲を使用した興味深い活動も紹介してありました。最後はライティングに関してです。文学作品の読解をもとに学習者はジャーナルを書いたりエッセーを書いたりすることができます。この中でどのように自分の意見をサポートするかといったアカデミック・スキルも学ぶことができるとされています。されに、テクストの中の「声」や視点についても意識を高めることができます。また、詩はあまり英語力の高くない学習者にも有効であり "The simple themes of poetry and the unconventional method of expressing these themes thus provide an avenue for language learners to use the English they have to express sophisticated ideas, unrestricted by the typical constraints of conventional discourse." (p. 328) と述べてありました。

最後は (3) に関してです。Adaskou, Britten, and Fahsi (1989) によると、文化には以下の4つの側面があるといいます。それらは、 "the aesthetic sense in which a language is associated with the literature, film, and music of a particular country; the sociological sense in which language is linked to the customs and institutions of a country; the semantic sense in which a cluture's conceptural system is embodied in the language; and the pragmatic sense in which cultural norms influence what language is appropriate for what context. (p. 328, emphasis in original)、というものです。そして、文学作品はこれら4つの側面全てにかかわると述べています。ただし、注意しなければならないのは、 "the ultimate goal of cultural learning is not to convey information about a culture nor to promote the acquisition of culturally influenced ways of behaviong, but rather to help learners see their culture in relation to others so as to promote cross-cultural understanding." (p. 329) という点であるとしています。ここでも具体的な移民文学をもとにその活動例が提示されていますが、大切なのは学習者が作品内の登場人物がなぜそのような行動を取ったのかを文化的な前提の観点から理解できるように手助けすることであると述べてありました。

| | コメント (0)

2012年2月14日 (火)

伊藤和夫(1997).『英文解釈教室』(改訂版)を読む(研究社)

久々に文法読本的な書を読みました。文法規則を極力定式化し、その定式化をもって英語の読解力を上げようとする試みがなされており、とても面白く読めました。本書の詳細は以下の通りです。

伊藤和夫(1997).『英文解釈教室』(改訂版).研究社.

TOEICなどの英語教材などでは決して出てこないような内容もふんだんに含まれおり、英語の文法など自体に刺激を求めたい人にはお勧めの1冊です。

| | コメント (0)

« 2011年9月 | トップページ | 2012年3月 »