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2011年7月26日 (火)

D.S.Miall(2006).『Literary Reading: Empirical & Theoretical Studies』を読む(Peter Lang)

一般読者の文学テクストへの反応とはどのようなものなのか、どういった問題を考えなければならないのか、といった事柄がまとめてありました。主に文学の経験的研究の立場から書かれており、様々な調査結果も紹介されています。また、文学という言語行動および文学への反応を進化論的枠組みの中で捉えようという野心的な試みもなされています。非常に刺激的な一冊です。なお、文学理論と統計学の両方の知識が前提として書かれています。

Miall, D. S. (2006). Literary reading: Empirical & theoretical studies. New York: Peter Lang.

【第1章:Introduction

本書の基本的な立場と構成についてまとめてありました。著者によると18世紀以降、JohnsonColeridgeArnoldT. S. Eliotといった批評家たちによって文学の特殊性が謳われてきました。伝統的には、ミメーシス性、異化性、読者の教化、といったものが文学独特の性質であると指摘されてきました。しかし今日では、文学とそれ以外の言説を区別する特性はないとされており、文学とは慣習に過ぎず、その共同体が「文学」と見なしているものにすぎないという考えが主流となっています。しかしながら、多くの非専門家(一般読者)は文学に何か特別なものを感じており、これまで一般の読者が感じている特殊性について研究はされてきませんでした。また、文学研究は未曽有の危機状態にあり、過去30年の間に文学研究は衰退の一途をたどってきており、文学研究者自身もその危機について研究を始めている状態だそうです。本書は、実際の読者の経験という観点から文学読解について研究をするという点でこれまでの研究とは全く異なるアプローチですし、伝統的な議論に新たな視点を加えるものであるとも考えられます。著者は理論と実証を常に両方行うことを心掛けて本書を進めていくそうです。また、一般的な読者を研究対象とすること、文学のdehabituationという特性に注目すること、文学に弁別的な特性を認めること(ただし、ロシア・フォルマリストのようにもっぱら形式的な特性を指摘するのではなく、読者とテクストの相互作用の中にそういった特性を見出そうとしています)、文学読解の情意面の考慮すること、文学作品の解釈ではなく経験を扱うこと、進化論的な枠組みで文学読解の意義を考えること、という立場で本書全体が執筆されているそうです。

Part 1Becoming empirical

【第2章:On the necessity of empirical studies of literary reading

この章では、文学の経験的研究の必要性が強調されていました。一般に、 “first, that the nature of literary reading is necessarily decided by the theorist, who determines in advance what is to count in “the institution of literature”; second, that actual readers are too wayward in their readings to justify serious attention” (p. 11) と考えられがちです。また、最近では “all texts are considered to conceal latent content at odds with their surface claims” (p. 12) といった主張(通称suspicion)もされています。確かに文学理論家はこのような主張を行い、かなり大きな影響を文学研究に及ぼしてきました。しかし、著者は本当にそうだろうか、実際これらの主張は妥当なものなのだろうかと考えてみることが必要であると述べます。しかし、現在主流の文学理論の考えを捨ててしまえと述べているのではありません。これらの考えを実験可能なものへと変えていこうと述べているわけです。著者は実際に次のように述べています。 “The reader, in other words, is invited by a literary text to place her experiences under the aegis of suspicion, to reconsider or modify her attitudes, feelings, and conceptions. This does not eliminate literary studies under the sign of Derrida or Foucault, but it displaces them from their current central place and turns each critical thesis generated by their approach into an empirical question … To continue otherwise, allowing the present hermeneutics of suspicion to assert its domination of literary studies, is to leave out of account the most important question of all: why do people read?” (p. 13)このような主張を共有している学者は著者以外にも存在していますが、まだその理論的枠組みが定まっていません。しかし、いずれにせよ実際の文学読解を調査することが可能となるような形で議論を進めていく必要があると著者は述べます(著者はこの点でthe Empirical Science of LiteratureS. J. Schmidtを批判していました)。次に、現在文学研究で問題となっている事がらを取り上げ、それらが文学の調査研究課題になりうるということを指摘していきます。1つ目はthe renewal of canonという問題です。著者は、作品が読まれ、解釈され続けることによってキャノンの変化が行われるということを指摘し、調査課題として成立すると考えています。これまで、専門家による新しい解釈の提案の影響、イギリス労働者階級の人々の読書の影響、などがキャノンの変化に影響を与えてきたと述べられていました。また、文学を読解させて受刑者の再犯率を下げようという “Changing Lives through Literature” というプログラムも紹介されていました。文学を読むことで非常に強いイメージが形成され、そのイメージはたいていは強い感情を伴っており、自分自身の経験を見つめなおすことが可能になるというような調査結果も紹介されていました。こういったことが2点目の脱習慣化とも大きく関係しているようです。私たちは文学作品を読むことで自分が当たり前だと思っていたことを考え直す機会を持つことができ、現実世界の中で作品と同じような状況に置かれた際にはよりうまく行動できるようになると著者は述べます。そして、脱習慣化を促すものとして様々な言語的特徴がありますが、それらは総じて前景化されています。研究者によっては、脱習慣化を引き起こしているのは言語形式ではなく、その処理や機能であるということを述べる者もいますが、著者自身は “dehabituation is a prominent, perhaps even the most significant, aspect of readers’ responses to literary texts, and that as an agent for initiating this response identifiable formal features of the language of texts often play a key role” (p. 19) という立場だそうです。著者は脱習慣化についても調査研究課題として成立すると考えています。3点目は、decentering(作中の登場人物に感情移入し、自分自身を他者の視点から捉え直すこと)についてです。これについても多くの調査研究が行われています。例えば文学読解では多くのpersonal meaningが構築されたり(Halász)、 “seems to connect particularly with knowledge that is personal in the sense that one is an agent, a responsible subject interacting with one’s environment” (Sielman & Larsen, 1989, p. 174) といった実験結果が紹介してあり、論説文や説明文の読解とは大きく異なったことがわかってきつつあるようです。こういった事がらを促すのも、脱習慣化と同様に、言語構造なのかその処理ないし機能なのかということで論争になっているそうです。著者の立場は、 “we may be able to define literariness, at least in some respect, formally” (p. 21) というものとなります。このように、主流の文学研究で問題となってきた事がらも調査研究課題として考えることができ、かつ実際に調査研究を行うことで文学の読みについて新しい知見を加え、文学研究をさらに推し進めることができるというのが著者の考えのようです。

【第3章:Experimental approaches to readers’ responses to literature

一般に文学理論は「解釈」を重視してきましたが、実際の読者を調べてみると読者は必ずしも解釈(またはVipond and Hunt (1984) の言うところのpoint)を構築しているわけではないということが研究によって明らかになってきました。そして、 “Readers appear to be engaged in a rather different set of activities: contemplating what characters are doing, experiencing the stylistic qualities of the writing, reflecting on the feelings that the story has evoked.” (pp. 25-26) という研究報告がされています。また、読者は読解中よりも読解後に解釈(またはpoint)的な作業を行うことが多い傾向があるということも報告されています。また、解釈にはたいていは読者の個人的な事がらが伴っていることが多いということも示されていました。以上のような点から、著者は主流の文学理論からだけではわからない事がらを文学の経験的研究(そして実際の読者の文学的読解に関する調査研究)は示すことができ、その点で研究分野として大きな意義があるということを示しています。次は研究計画とそれに伴ういくつかの発見が示されています。ここでは研究計画に絞ってまとめたいと思います。まず、研究を行う上でテクストを操作するかそのままのテクストを使用するかということを考えないといけません。前者の研究例としてVipond and Hunt (1986) が、後者の研究例としてBortolussi and Dixon (2003)Miall and Kuiken (1994)が挙げてあります。また、外的要因によってテクスト読解を調査する研究方法もあります。この方法の研究例としてZwaan (1991)Vipond and Hunt (1984)が挙げてありました。3つ目のタイプの研究例は複数のテクストの読解を比較する研究で、Seilman & Larsen (1989)が示されていました。4番目のタイプの研究は発話思考法などによる研究です。この研究にはあらかじめ定めておいたカテゴリーに従って調査参加者のパフォーマンスを分類する方法と、得られたパフォーマンスからカテゴリーを作り出す方法(著者はNumerical Phenomenologyと呼んでいます)があります。著者らはあらかじめ様々な要因を排除することを避けることができるという点から、後者のタイプの研究を重視しています。また、再現性や一般化可能性もこのアプローチの方が優れていると考えているようです。最後に文学的読解を経験的に研究する際の問題点が5点指摘されています。それらは、「文学的」とはどういうことであるのか、「文学」とそれ以外のジャンル(の読解)はどのような関係にあるのか、暗黙の裡に前提にしてしまっている考えがないかどうか、歴史的要素も研究の考慮に入れることができるか、経験的研究の成果は実世界にどのように関係するのか、という点です。これらは文学の経験的研究を行う上で常に念頭に置いておかなければならない問題意識です。

【第4章:Interpretation, cognition, and feeling

この章では、まず解釈を追い求め続ける文学研究の問題点をHenry Jamesの残した作品を例として指摘し、その後で認知詩学も結局解釈を追い続けるという点では従来の研究と同じであるということを述べていきます。Henry Jamesの作品の例はとても面白かったです。ある作家の作品解釈をめぐり様々な登場人物ないし批評家(語り手も含めて)が自分がたどり着いた解釈の正しさを作家に尋ねるという物語なのですが、解釈を追求した人たちは次々と死んでいくというもので、本書の著者はJamesのこの作品は文学研究の解釈を求める姿勢を批判していると述べます。Jamesのこの作品については、他の研究者は作品解釈の不可能性を表しているといった考えを残していますが、Miall自身は、 “I believe we can understand from “The Figure in the Carpet” itself that James places an interdiction on such critical activities, while leaving open a rich domain for appreciation.” (p.39) と考えています(Jamesは作品内に様々な構造を見て取ることは可能であるということも述べているので、appreciationnot interpretation)は可能であるとMiallは考えているようです)。次に認知詩学について議論が移されます。認知詩学は人間の認知プロセスに基づいて文学読解を研究するという試みですので、一見Miallのアプローチと似通って見えます。しかしながら、実際の読者を調べたものではありません。むしろ、ある解釈をサポートするために認知科学の概念を使って文学作品の分析を行っていることから、著者に言わせれば結局従来の研究と同様に「解釈」という枠から抜け出ていないと指摘します。現在の文学研究は、これまでの批評理論の乱立が原因で(どういったアプローチで読むのが正しいのかという問いの追求が原因で)、読者の実際の読みを規定する結果となり、学問分野として衰退し、人々にとっても魅力あるものではなくなってしまいました。最近ではafter theoryの時代の次は指導法の研究が文学研究の中心になるという意見もあり、そのようなことになれば結果として文学研究は崩壊してしまうことにあるでしょう(もはや、読み書きの指導の研究となってしまうおそれがあるので)。そういった中で認知詩学は衰退の一途をたどる現状から文学研究を救い出すことができるかどうかが考察されています。しかしながら、著者は現状では認知詩学は3つの問題点を抱えていると述べます。一つは、解釈の追求です。様々な認知詩学の概念を援用してはいますが、認知詩学は結局は実証的に実際の読者の読みが調べているわけではありません。著者は認知詩学の概念を使って、実際の文学読解のトップダウン処理について調査することが必要であると述べるとともに、プロトコル研究などを通してボトムアップ処理についても調査していくことが必要であると述べています。2点目の問題点は、感情という側面を認知詩学が扱っていないということです。著者らは、感情にはevaluative feelingnarrative feelingaesthetic feelingmodifying power of feelingという4つの側面を認め、その研究を行っていますが、認知詩学は感情は扱われたとしても副次的であり、本格的な研究が取り組まれていません。著者らは、独自に研究に取り組み、感情について次のような仮定をしています。それらは、 “In brief, we suggest that feeling facilitates border-crossing, that is, feelings enable us to relate concepts in unrelated fields. Second, feeling prompts us to take a certain stance towards events, preparing us to interpret incoming evidence in a specific way; anticipation of this kind seems to be one of the fundamental properties of feeling. Third, a more common claim, feeling is generally self-implicating; it occurs when some issue of our self-concepts is in question. these processes may not only cut across cognitive processes, reshaping them in ways not allowed for by cognitive accounts, but even take over the primary role in literary understanding, perhaps derailing such processes (at least for a while)” (p. 45) という仮定です。著者はこういった考えを認知詩学の考えと結び付けていくことが必要であると述べます。 “What is required, in part, is a more focused attempt to integrate feeling into the structures of response already laid out in cognitive terms by cognitive poetics, and to do so in a way that allows for the priority of feeling where appropriate; then to develop hypotheses that are amenable to empirical testing, so that the theoretical claims we make can be arbitrated in the light of responses from actual readers.” (p. 45) 3点目は、認知詩学は文学性の独自性をうまく扱えていないという点です。認知詩学は、人間の認知活動に共通するメカニズムを基にして文学を扱うためこういった事態になるのですが、著者は感情こそが文学の独自性を説明できるのではないかと考えているようです(まだたくさん研究が必要ですが)。著者は最後に認知詩学の進む道に関して、 “The choice facing cognitive poetics now is whether to continue with a limited and perhaps limiting focus on interpretation, or seek to situate literary study within an explanatory scientific framework in which the phenomena of interpretation form only one corner of a much larger field.” (p. 46) と述べていました。

【第5章:Feeling in the comprehension of literary narratives

著者はこの章で、 “I will suggest that during comprehension response is controlled by feeling, which directs the creation of schemata more adequate to the text – that is, literary texts call our existing structures of knowledge into question and require us to formulate new structures. I will point to several properties of feeling that contribute to developing this model of narrative understanding.” (p. 47) という点を示していくと述べています。言い換えますと、 “The purpose of the present chapter has been to examine one text in detail in order to demonstrate psychological processes of response not accounted for by the schema based models of narrative structure. In this analysis, the primary focus has been on the constructive role of emotion in going beyond the initial schemata of response.” (p. 67, 時制は適当に置き換えて理解してください)ということになるそうです。著者は、従来のスキーマ理論では簡単な語りや児童文学であれば扱うことができるかもしれないが、文学作品を扱うことは難しいと述べます。具体例としてGrasesser (1981) Schema Pointer Plus Tag というモデルでその問題点を指摘していきます。やはり、登場人物が複数の動機に突き動かされて行動している場合(複数の要因によってある行動が決定づけられている場合)や要因間の関連性が曖昧な場合などは、従来のモデルで取り扱うことは難しいようです。そして、著者はこのような状況を踏まえて、 “The indeterminacy itself may be a primary agent in the reading process, driving other systems that control and modify schemata with their apparatus of causes and goals. The argument presented in this chapter is that such indeterminacy points to feeling as the primary process underlying comprehension. This contention is compatible with other research findings on feeling, but also goes beyond the functions generally assigned to feeling in most theoretical accounts.” (p. 49) と述べ、感情を中心として文学読解をとらえ直すことの必要性を指摘します。感情と読解の関係について、著者は具体的には “feeling provides the necessary criteria for such a principle. I postulate three main criteria: (1) feeling is self referential: It allows experiential and evaluative aspects of the reader’s self concept to be applied to the task of comprehension; (2) feeling enables cross domain categorization of text elements; and (3) it is anticipatory, pre structuring the reader’s understanding of the meaning of a text early in the reading process… At the highest level the goals and beliefs of the self are instantiated in the feelings; thus it seems likely that feeling plays a determining role in cognitive processing (perception, memory, and reasoning) when this is performed in the service of the self.” (p. 48) と主張しています。また、従来のスキーマ理論によるアプローチの問題点を次のようにまとめていました。 “1. Schema identification is necessary to allow the work of understanding to begin, but the application of schemata is likely to be thwarted or disrupted in a variety of ways by a range of textual features. (改行) 2. Providing a causal account of states or events is often problematic, due to uncertainties about how text elements relate or to multiple potential relationships within the text. The status of narrative elements as states or events may itself be indeterminate. (改行) 3. A goal directed account of characters is often inadequate. Goals may be multiple, ambiguous or conflicting, so that their status becomes a focus of narrative interest.” (p. 51) そして、文学読解について次のようにまとめます。 “The outcome of a literary narrative, therefore, may include the following: Causes are not what the reader might have believed (a cause may be more complex, profound, or obscure); goals may be ineffective or turn out to have been inappropriate, so that the story becomes a critique of the goals as such. Thus, the reader’s effort after meaning is directed towards developing a schema for the narrative that transcends the more simple schemata with which she started. The aim of comprehension can be described as the creation of schemata, rather than their application. It is notable, however, that few attempts to examine the creation of schemata are available in the research literature. (p. 51) 次に最近の新しい研究動向として、Cook (1994) Semino (1997) を取り上げています。前者は、literarinessの本質はscheme refreshmentだと主張し、後者はschema reinforcingだと主張しています。著者は特にSemino (1997) の研究について論じており、感情を考慮に入れていないことの問題点を指摘しています。事実、著者に言わせれば、感情という要素を考慮に入れて研究していないがために、Semino (1997) の作品分析にはいくつかの重大な「穴」があると考えているようです(詳細はp. 52)。

文学読解には異化が伴いますが、著者はこの作用は感情によって先導されていると考えます。感情は人によって弱かったり強かったりしますが、その強さに拘らず文学読解を方向付けると考えています。ちなみに、著者が言う感情とは、 “I will understand feeling to denote a subjective experience without the overt signs and incentives to action of emotion, including (necessarily for my argument) feelings that have little or no cognitive content but which operate immediately as judgements, preferences, and the like” (p. 53, emphasis in original) と定義されています。さて、その感情ですが、著者はcross domainanticipatoryself-referentialという3つの働きを通して読解プロセスを先導すると著者は考えます。cross domainとは、感情がある領域から別の領域へと動くこと(例えば最初は大切だと思っていた箇所が、読解中にその箇所が大切ではないと思い、これまであまり大切だと思っていなかった箇所を重視するようになること)です。これは、自分の当初思っていた考えでは作品をうまく理解できない場合などに生じます。anticipatoryという機能は、作品の理解に先立って生起するというものです。作品を読み始める際、当初自分が思っていた解釈と関連した感情だけでなく、その解釈とは異なる感情も生起しています。self-referentialとは、登場人物に感情移入したり、テクスト内の様々な要素に個人的な意味合いを投射することなどが含まれます。self-referentialに関しては、これまで個人的な情報を投射するとその情報の再生率が上がり、さらに感情が伴っているとその再生率はさらに上がる(Miall, 1986)、文学の読解が自己の変革をどの程度引き起こすかはテクストによってどの程度読者の個人的な経験が活性化されるかによる(Kuiken, Miall, and Sikora, 2004klinger 1978)、文学読者は説明文読者よりも自己意識が高い(Miall, 1990)といった研究成果が紹介されていました。さて、著者はVirginia Woolf “Together and Apart” という短編小説を使って、感情が読者の読解を方向付けているということを具体的に示していきます。この物語は一見「人間関係を築いていくこと」というコミュニケーションに関するスキーマに従って理解する作品だと思うのですが、よく読んでみるとむしろ逆で「人間関係の儚さ」といった事柄(そのスキーマの更新)を扱っているように思えてきます。著者は実際に28名の英文学専攻学習者に調査を行い、彼らの実際の読解を調べます。彼らは、2つのグループに分けられます。第1グループは、テクストの前半を読みながら文の各チャンクに感じた感情の強さを6段階で評価し、その後で覚えている情報を再生するという課題を行いました。第2グループは、テクストの前半を読んで、各チャンクでその重要性を6段階で評価し、テクストを今度は通して読んだあとで、もう一度各チャンクの重要性を6段階で評価するという課題を行いました。作品も前者のスキーマ(人間関係を築いていくこと)で重要となる箇所と後者の観点(人間関係の儚さ)で重要になる箇所を分けます。第1グループは基本的に前者のトピックと関連した箇所(情報)をより多く再生していました。しかしながら、各箇所で生起した感情の強さと再生の間には関連性は見られず、学習者は前者のトピックと後者のトピック両方で同程度の感情の強さを感じていることがわかりました(つまり、感情のanticipatoryという機能がここで観察されます)。第2グループは、読解の最中にテクストを1つ目のスキーマの観点では理解が難しいと判断したようです。実際に1回目では人間関係を築いていくという読みに関連した箇所が重要だと考えられていたのですが、2回目の読みが終わった後ではそれらの重要度は下がり、むしろ人間関係の儚さという観点と関連する箇所(この作品では主に空や状況に関する情報)が重要だと考えられるように変化していました。これは、1回目に読んだ時点で生起していた人間関係の儚さに関する箇所の感情が別の読解を先導したと考えられます。このように、文学は読者に様々な影響を与えていると考えられ、文学作品を既成のスキーマの観点からだけで考えることは大きな問題があると言えます(著者の立場に立って言えば、むしろ大切なのは感情であるということになるでしょう)。

著者は最後に、 “as literary narratives defamiliarise standard schemata, the feeling controls must negotiate the production of new meaning, that is, they manage the process of schema creation” (p. 66) と述べ、今後ますます研究を重ねて、理論モデルも改良していく必要があると指摘します(具体的には、Kintsch (1998) Graesser (1981) Semino (1997) が挙げてあり、Kintschは感情が記憶をもコントロールしている可能性があること、後者にはこれらのモデルの中にスキーマと個人的意味の関連性を反映させることが提案してありました)。まとめとして、 “it must be assumed that the readers of literary texts seek the experience of defamiliarisation. narratives allow us to redefine, modify or suspend schemata, but through this process it seems likely that the primary goal of reading is to explore the feelings of the self through engagement with the text. The feelings invoked by narrative episodes and their outcomes allow the reader to enact symbolically various implications for the self. One effect may be to alter the felt valency of existing schemata, and thus their relationship to other elements within the cognitive system, as well as to bring into being new (and possibly more adaptive) schemata.” (p. 67) と述べていました。

【第6章:Feelings in literary reading: five paradoxes

著者は、Kate Chopin “The story of an hour” を読んだ読者の反応(think-aloudにより収集)を参考にしながら、感情はテクスト内の様々な情報によって引き起こされ、慣習的内容(常識的知識)によって引き起こされるだけでなく、そういった内容を疑問視させ、それを超越することもあると指摘します。そして、 “Feeling provides an important, partly text-driven source for literary understanding. Insofar as feeling drives interpretation, then, the text itself plays a significant role in shaping the meaning it comes to have for a given reader.” (p. 70) と述べていました。このプロセスについては、更に “ Overall, feeling appears to enable a reader to “frame” a particular meaning, to register it for the time being as a possible component of the story, and to draw if necessary on the reader’s prior experience when a feeling matches an occurrence or an issue from the reader’s memory. But as feelings shift, or other feelings occur, a particular feeling can be framed in such a way as to call it into question, to place it in a critical context.” (p. 70) とも述べています。そして、著者はこのような感情の働きには、感情のパラドックス的役割が関与していると考えています。そしてこのパラドックス的役割ないし機能こそが文学読解に特徴的なものであるという立場を取っています。著者は以下で主に5つのパラドックス的役割について説明していきます。

まず1つ目は、虚構の登場人物に対して本当の感情を覚えさせるという働きです。この働きについて、 “This is because, … feeling and its implications can be active independently of the existence of reality of its objects; or, to put it more precisely, feeling, by virtue of its context as the expression of our state of being and its possibilities, bring into play a reality of its own.” (p. 76) と述べています。そして、 “a notable effect of literary fiction is to subject a feeling to a critical context, to modify our understanding of it – a general process occurring in fiction of which, we argued, catharsis” (p. 76) “because feelings for a character, especially empathy, are rather readily evoked, a literary text can situate such a feeling in an unexpected light, calling it into question either tangentially by showing its inadequacy, or by reversing it – possibly an informative experience for the reader.” (p. 77) と補足がなされていました。

2つ目は同じ作品を繰り返し読んでもなお同じ感情を引き起こすという働きです。これについては、 “we can regard such feelings in the literary domain as cognitively impenetrable: they are immune to information that we might expect to change or forestall them” (p. 79) と述べられていました。

3つ目は否定的な感情を作品読解中に感じつつも喜びを読者にもたらすという働きです。このことについては、 “The pleasure of literary reading may thus centrally implicate the re-experiencing of negative feelings from ordinary life, but within a context in which they can be developed, contextualized, and brought into relation with other feelings.” (p. 81) “This point to an everyday therapeutic role for literary reading, in which the experience of negative feelings in a pleasurable context serves to lighten the allostatic load (the degree to which dysregulation in the physiological system, involving blood pressure, the immune system, etc.; Ryff and Singer, 2003). In other words literary reading has beneficial effects for our physical as well as our mental well-being.” (p. 81) と述べられていました。

4つ目は、感情は思考と行動両方を促すという役割です。伝統的にはfeelingは思考を、emotionは行動を促すものと考えられていたそうですが、著者は “The agency of feeling as a prompt to action or inaction seems to depend upon local circumstances, which means, specifically, the current condition of the reader.” (p. 82) と述べられていました。

5つ目は、感情は一時だけでなく時間を超えて生起するという働きです。通常感情というのは非常に速いスピードで変化していくものだそうですが、文学ではShklovskyが言うように “It seems probable, however, that one of the distinguishing features of literary reading is its ability not only to foreground feeling but to prolong our experience of it.” (p. 83) とも言えます。著者は “It seems possible that when evoked strongly a feeling presents itself as outside time, as an atemporal experience. In neuropsychological terms this may signal a role for the amygdala, in contrast to the hippocampus where we know that emotions are time-dated when they are recalled.” (p. 84) “The atemporarity of feeling, when sufficiently powerful, thus demonstrates our ability to experience altered states of consciousness in which the meaning of the self is radically modified, in which all that we are becomes translated into the terms of the new, comprehensive state that the feeling signifies.” (p. 84) と述べられていました。

本章の最後では、作品読解中にパースペクティブを変更する必要があるとき(唐突な情報が出てきてこれまでの理解を改めなければならないとき)には、常に感情が重要な役割を果たしている(この章で述べてきた5つの働きのいずれかが機能している)ことが示されていました。また、読者は特定の登場人物の感情や視点に則って作品を理解することでfirst order feelingsを得、それを更に読者自身の世界の事がらに感情的に関連付けて(second order feelings)自己変革や状況の克服を試みようとします。 “from first order (intrinsic to the text) to second order (extrinsic to the text), where on the basis of a feeling evoked by the text we reconnect to the world around us in order to consider the implications of the feeling for the real self.” (p. 86)

【第7章:The empirical approach: A survey and analysis

本章の目的について、 “The predominant questions of this chapter are: What is literary discourse? and does it result in a type of reading different from that studies in mainstream discourse processing research?” (p.90) という問いについて考えていくそうです。そして、 “empirical research suggests that literary readers form specific anticipations while reading, that the interpretive frame may modify or transform while reading a literary text, and that markedly more personal memories are evoked during reading. There is evidence for a constructive role for feeling in the reading process, a process that may in part be driven by response to stylistic and other formal qualities.” (p. 90) という研究成果が上がっているということを示していくようです。

しかし、本題に入る前に、著者は経験的研究と従来の文学研究の違いを3つのトピックを元に見ていきます。まず1つ目は、読者反応理論の歴史です。I. A. Richardsが偶然にも実際の読者の反応を1929年に調査しました。しかし、その調査の結果として実際の読者は詩の識別能力が低く、結果として実際の読者の反応はあまり当てにならないという考えが広まってしまいました。この考えは後に新批評などによって更に強固にされました。読者反応理論がその後台頭しますが、結局は理想の読者の研究にとどまり、実際の読者の研究は進みませんでした。しかも、読者反応理論は結論として読者の読みは暗黙のうちに慣習によって方向付けられているという考えをするようになり、Freund (1987) などは読者反応批評の考えを “self-deconstructing” と述べています。なお慣習を重視するアプローチは文学の経験的研究にも影響を与え、Schmidt (1982) なども慣習を中心として考えるアプローチ(aesthetic conventionpolyvalence convention)を提案するに至っています。そして、経験的研究はそれらの慣習の習得と文学作品の読解について調査を行ってきています。次に2つ目のトピックですが、それはジャンルです。従来の文学研究ではジャンルは作品の特徴づけないし分類の結果程度にしか考えていませんでした。しかし、経験的研究はジャンルは読解に影響を与えるものと考えており、読解へのジャンルの影響を調査してきています。3つ目のトピックは文学性についてです。この概念は元はJakobson1921年に提案したものだそうですが、文学に独自の特性を見出そうという試みは古代ギリシャまでさかのぼることが可能です。ただし、近年では文学の独自性を否定する研究は多く、Schmidt (1982) などは、文学性をテクスト内の何らかの実在物に求めることをontological fallacyと呼んでいます。最近では、文学性があるとすればそれはテクスト内の実在物の処理の仕方にあるとする見方が多くなっているようです。現在では認知プロセスの観点から文学読解を説明しようとするconventionalist approachと特定の言語的特徴が読者の情意面に変化をもたらしてテクストへのevaluationが生じるとするtraditionalist approachが存在しています。著者は後者の方がより重要だと考えています(ただし、情意自体が慣習によって条件付けられている可能性があることを忘れてはいけないとも述べていました)。また、最近では文学に特徴的な言語表現があまりにも軽視されすぎている点も指摘していました。ただし、文学の経験的研究にとっては、 “The principal issue will be, not their presence as such, but whether it can be shown that readers of literary texts are influenced by them in measurable ways” (p. 95) ということになるそうです。以上3つのトピックに加えて、著者は経験的研究の理論的背景についても述べていました。一般に北アメリカ系経験的研究の背景には教育実践の改善という目標があるのですが、その裏返しとして理論的基盤が弱いことが指摘されています。対してドイツにおけるSchmidtESLは、Kuhn流の科学哲学に基づいた研究で、文学を人間行動理論から説明しようとした試みです。この研究では “literariness cannot be regarded as a textual property but as a result of actions of analysis and evaluation performed by subjects within an action system” (Schmidt, 1983, p. 31) ということになります。しかしながら、この考えはドイツ内外であまり受け入れられることがありませんでした。というのは、読みの善し悪しを結局どのように見分ければよいかその手段を提供することができなかったためです。著者は経験的研究の発展の歴史を鑑みて、経験的研究も(従来の文学研究同様に)規範的な読み(反応)というのをどうしても前提としてしまっているようだと考えます。著者は経験的研究は特定の文学テクストと特定の文学反応を優れていると暗黙の内に前提しており、更に文学読解プロセスをその他の読解プロセスよりも上位の読解であるとみなしている傾向があると指摘します。しかし、その文学読解プロセスが慣習によって動かされているものなのか、人間生来の特性によるものなのかを考える術を経験的研究は持っていると著者は主張します(従来の文学研究は文学読解を動かしているのは前者であると考えてきました)。著者は、本章の残りで、 (1) 従来の談話プロセス研究のパラダイムは必要ではあるがそれだけでは文学読解プロセスを解き明かすことはできないということと、(2) 既存のカテゴリーに基づいた研究と研究の中で新たなカテゴリーを作り上げる研究は、それぞれが別の意味で文学読解の重要な問題点を明らかにするということ、の2つを明らかにしていくと述べます。

次に著者は、談話処理パラダイムに基づいた文学読解の研究について見ていきます。これらの研究は情意よりも理解(comprehension)を重視し、このことが文学読解について明らかにしようとする試みを狭めてしまっていると指摘します(ただし、議論を理解に絞ることで研究の理論的強度と方法論的正確さを高めているとも述べています)。また、これまでエキスパートと初心者の読解を比較する研究が行われてきましたが、 “While expertise, of the kind studied here, reflects in significant ways on how literary training enables readers to analyse texts and report on their features, it seems likely to differ significantly from the processes manifested by those reading for pleasure.” (p. 100) と指摘します(なお、Hanauer (1995) Andringa (1996) によって文学における専門知識とは美学的観点と情意的観点からすると一体どのようなものであるのかを明らかにしようとされてきましたが、その後の研究が続いておらず、この解明は進んでいません)。やはり、従来的な談話プロセスの枠組みで文学読解を研究することには限界があるようで、近年ではそういったモデルを土台としつつもその範囲にとどまらない研究もなされています(情意的要素を加えた研究やZwaan (1993) のように literary control systemといった構成概念を組み込んだ研究なども行われています)。

著者は次に経験的研究で明らかにされてきた、文学読解の独自性について紹介していきます。1点目は読解時間の長さです。読者の読解は外的に決定されるのか、言語表現などによって内的に決定されるのかは決着がついていませんが、読解時間が長くなるという傾向は常に見られるようです。もちろん、一部にはこれは読者が表層情報へ注意を多く払っていることが原因となりますが、著者は2点目として多価性(polyvalence)を指摘します。読者は同時に複数の意味を楽しんだり、あるいは何度か読んでいるうちにそれまでとは違った(あるいは全く逆の)意味に気づいたりするようです(これまでの研究によると、読者は文体論的な特徴によって複数の意味に気づくようです)。3点目として著者は予想を挙げます。読者はテクスト内で複数の意味を経験し、それらは常に1つの仮説として理解されています。読者は様々な意味に気づき、それぞれの意味に基づいて様々な解釈を前もって考えるようです。4点目は再読です。読者は1回目よりも2回目の方が文学テクストの評価を高く判断する傾向があります。これまでの研究によるとこれも読者がテクスト内の文体論的な特徴に気がつくことが原因だと考えられています。そして、5点目として文学的意味が挙げられます。Huntらは作品内にpointを読者が見出そうとすることをその例として挙げていますが、なかなか実際の調査では読者がpointを発見するということを示すことはできていないようです。著者は、確かに作家はpointを基にして作品を書くかもしれないですが、読者はpointを見つけるといったこととは違った形で文学読解に従事している可能性があると著者は述べます。そして、personal readingや感情がそのキーワードになると著者は考えています。

さて、そのpersonal readingですが、特に自分が動作主になっているようなことが特に強く経験されるようです(説明文の場合は読者が非動作主になっていることを思い出すようで、読んだり聞いたりしたことをよりよく思い出すそうです)。そして、こういった事柄が文学で最も多く経験されるのは各テクストの最初の部分だそうです。このことについて著者は “This suggests that readers call on specific, personal information in order to contextualize the world of the text” (p. 108) と述べています。他にも自由間接話法によって読者の登場人物への感情移入が影響を受けたり、文化(自国の文化の中で書かれたテクストのほうが個人的意味をより多く経験する)、視点(この要素は文化よりも強く読者に影響を与えるようで、読者自身の文化の中で書かれたテクストでなくても読者に作用するそうです)、読者が作り上げる語り手のモデルと語りへの距離(ただし、登場人物や物語のテーマに対する語り手の見方などは意識しないとなかなか読者は作り上げることができないそうです)なども読者の個人的意味の経験に影響を与えるという研究結果が報告されていました。次に2つのタイプの感情について述べられています。それらはnarrative emotionsaesthetic emotionsです。Narrative emotionsには、更にaltercentric emotions(物語内の登場人物へ向けられる感情)とegocentric emotions(自己に向けられる感情)があります。物語が変わっていたり、曖昧、抽象的であったりした場合はegocentric emotionsが発動しますが、物語の内容が明確な場合は、その作品内で新しいエピソードが現れるまでこの感情は弱まるそうです。そしてこの結果は感情が文学作品読解を方向付けているということ(feeling-based understanding)を示していると著者は考えます。事実、Andringa (1990) の文学読解を調査するためのプロトコル研究では、文学経験の少ない読者は感情をまず生起させ、それから作品の評価を行い、最後に理解を試みるという形で文学作品を理解しているという結果が示されています(ちなみに、文学経験が豊富な読者は、舞所にテクストの所定の部分へ言及し、その箇所の意味をより精緻なものにするためのメタコメントがあり、それから解釈的コメントがなされるという結果が示されています)。また、Cupchikらの研究では、(1) 文学読解では新たな感情の方が感情的記憶よりも多く生起し、前者はあまり快いものではない(less pleasant)のに対して、後者は読者に強い影響をあたえる傾向があるということ、(2) 作品内の叙述的箇所では前者のほうがより多く生起するということ、(3) 後者は物語の最初の方で頻繁に生起するのに対して、後者は読解プロセスの後の段階でより多く生起する、ということが示されたそうです。著者は自身が第5章で行った実験とこの調査を比較し、 “this seems to imply a schema-setting role for emotion memories, but an interpretive role for fresh emotions” (p. 111) と述べていました。

著者は、感情的側面以外にも文学読解における重要な要素があると考えています。そして、これまでの経験的研究でその重要性が示されてきた事柄について整理していきます。まずはimageryです。Imageryを持っている場合と持っていない場合では、前者の方が情報の再生率が高いということがこれまでの研究で明らかになっています。しかし、通常の読解ではそれほど詳しいimageryは構成されていないと考えられるそうです。また、imageryの中でも特に視覚的なものと情意的なimageryが読解経験で重要な役割を果たすということが示されてきているようです。それ以外のimagery(嗅覚や触覚など)についてはまだあまり研究されていません。2点目として前景化を挙げます。最近の研究はこの要素を軽視する傾向がありますが、前景化が読解に確実に影響を与えていると考えられる調査報告が多くなされています。3点目はphonetic variationです。読者は、テクストの音韻的情報(sound symbolismやテクスト内の音素の使用頻度など)に敏感に反応していることを示す多くの結果が示されていました。

本章の最後の箇所で、著者は今後の文学読解研究の展望を述べています。Magliano and Graesser (1991) は、 ““three-pronged” approach to literary understanding” (p. 115) を提唱しています。それは、 “This requires us to (1) make predictions based on medium-level theories about literary response, (2) analyse think-aloud data from readers, and (3) use behavioral measures such as reading times” (p. 115) というものです。しかし、著者はこれに更にこの章で明らかにしてきた様々な事柄をひとつの研究プログラムへとまとめていく方向性も加えるべきであるとのべていました。また、文学読解という複雑な現象を扱うための研究方法も確立する必要もあります。さらに、今後の課題として著者は3点指摘します。1点目は “a rapproachment of cognitive and alternative approaches that examine affective, self-referential, and cultural issues, must be sought” (p. 115)2点目は文学が人間の進化上どのように位置づけられるのかを明らかにすること(これまでは慣習など社会的・文化的観点からのみ議論がされてきましたが、生物学的・発生的議論も必要です)、3点目はデジタル時代の文学読解についての研究、です。デジタル時代の文学読解がこれまでの紙ベースの文学読解と同一という証拠はないため、これまでの文学読解はどのようなものなのかを明らかにすることが急務となっています(デジタルが進んでいくと、純粋に紙ベースの文学読解の経験について明らかにすることが難しくなってしまいます。デジタル時代の読者は間違いなくデジタル文学経験を有しているためです)。

Part 2Contexts of reading

【第8章:Episode structures in literary narratives

これまでの研究では、文学作品内の重層的な構造にばかり目を配ってきており、 “Less attention has been given to the moment-by-moment unfolding of the text itself as we might suppose the reader to experience it.” (p. 119)と指摘されています。しかし、そのような読解処理をテクストのどのレベルで考察するかという問題があります。そこで、本章では、 著者が述べるepisodeというレベルで実際の読者の読みを考えていきます。Episodeについて、 “In prose this is likely to consist of a number of sentences taking up half a page or a page, usually demarcated by a coherence in the temporal or spatial setting or both. The most signal feature of the episode, however, is that it offers a thematically distinctive topic requiring a shift in the reader’s understanding. As I will suggest, episodes often function by introducing and establishing a certain setting or concern, then offering a special twist, or insight, in the final sentence or two. Such a twist has the effect of motivating reader interest in the next episode, which it thus helps to launch.” (p. 120)と述べられていました。次に、episodeという概念に近い事がらについて研究した先行研究を見ていきます。EcoBarthesIngardenIserに言及があり、それぞれの優れた点と問題点(Barthesに関しては問題点の言及はなし)が述べてありました。そして、著者が先行研究の中で最も参考にするものとしてReformatskyが挙げられていました。第2節では、Maupassant “Un Coq Chanta” という短編小説を具体例として、Reformatskyと著者のエピソード分類が示されていました。両者の分類は多くの点が共通しているのですが、若干異なって部分もあり、著者は自らの分類の方が優れているということが示されていました。さらに、Reformatskyの研究では考慮に入れられていなかった要因(narrative twistや感情など)への言及もありました。また、先行研究で、エピソードの境界線にあたる文を理解するとき、読者の読解スピードが遅くなるという報告が紹介してあり、とても興味深かったです。narrative twistについては“… the episodes of such narratives are still characterized by a range of internal features that endow them with a specific identity: not only unity of time or space, or the presence of certain characters, but also possibly stylistic resources, point of view, or thematic concerns. In literary narratives, in addition, … each episode also presents an extra challenge to the reader’s understanding at or near its end. This serves to develop the themes or motifs of the narrative in a specific direction, often unexpected by the reader; such narrative “twists,” as I have called them, represent a focusing of issues for the characters involved, beyond which events may unfold in more than one way.” (p. 129) と述べられていました。また、感情に関しては、Tanらの研究を参照しながら “emotion may be the guideing feature of readers’ responses, wich predicative inferences primarily arising from them, while “spatial and temporal relations are only inferred in as far as they ontribute to emotional appraisal (184; Miall, 1995)” (p. 132) と述べてありました。本章の最後の節では、著者による調査報告がされています。調査対象は エピソードの変化は感情の変化によって特徴づけられるかということと、発話思考法によって得られた読者によるエピソード理解の分析です。テクストはいずれもKate Chopin “The story of an hour” です。1点目に関しては、エピソード内よりもエピソード間の方が感情が変化する(肯定的感情、否定的感情いずれの場合でも)ことと、読者が内容の展開に驚きを感じるのはエピソード内よりもエピソード間である傾向があること、が示されていました。そして、そのまとめとして、 “Overall, then, this first empirical study supports the conception of episodes as marked by distinctive shifts in feeling. Feeling can also be seen to mark out events as they unfold within an episode. Feeling can also be seen to mark out the shifts from one episode to the next as tension rises, or as changes occur in the meaning of the narrative situation. Since feeling, as I discussed earlier, relates what is being read to a reader’s self-concept, the feeling operative during episodes provides a vehicle for empathy, sympathy, rejection, and other potentially self-defining processes that position the reader, defining and perhaps serving to change her attitudes towards the subject matter of the narrative. In this respect the occurrence of episode feeling and its shifts can be seen as the most powerful and most binding of the literary experiences available from narrative, exceeding developments in plot, the invitation of point of view, and the potential intimacy of empathy, since episode feeling incorporates and relates all of these components. Above all, it is worth reiterating that episodes provide the frames within which shifts in meaning are negotiated by the reader…, since episodes move the horizons within which meaning emerges; thus, a meaning apparent in one episode can be radically modified when it reappears in the next.” (p. 137) と述べられていました。次に2つ目の点ですが、優れた読者とうまく作品を読解できなかった読者それぞれについて考察がされていました。前者については、 “In summary, the readers described here behave as though each episode has a point, and they often identify the narrative twist as a salient passage for inferring the point, presumably because the twist introduces a new perspective that is, at the same time, fraught with indeterminacy. In so doing, however, readers also tend to be drawn into evoking their own experiences or perspectives and reflecting on their personal stance on the issue they see being raised by the story. The narrative twist seems an effective agent for engaging readers’ close attention, principally because in the context of the current episode it seems incongruous, or adds unexpected information.” (p. 139) とまとめられていました。これに対して後者に対しては、 “These readers, and others like them, tend to characterize the episodes only partially or not at all, and they rarely notice or comment upon the narrative twists. While the readers we have just described are clearly point-driven readers (Vipond and Hunt, 1984), the points they elaborate encompass only a part of the story’s meaning, or, as in the last instance, import a point that reflects the reader’s own preoccupations rather than being derived from the story. More effective readers, the evidence suggests, tend both to respond to what is distinctive in each episode and to be influenced by the narrative twists that each episode contains. This makes it more possible for the reader to experience the modifying processes that a literary story makes possible.” (p. 140) と説明されていました。最後に本章は次のようにまとめられていました。 “As the earlier reviews showed, episodes can be characterized by a number of convergent criteria: by unity of action (goal and outcome), as a phase in a character’s predicament, by coherent location in place and time, and above all by feeling. To this analysis I have added the role of the narrative twist occurring at or near the end of an episode, serving to intensify or redirect the issues raised, and itself characterized by a distinct development in readers’ feeling. Above all, episodes provide the phases during which issues of concern to readers are managed and developed: if readers experience the modifying of feelings or concerns about the self as a result of literary reading, it is in the transitions between one episode and the next that we are likely to find such changes – between the twist at the end of one episode and the onset of the scenario provided by the next. In studying the cognitive challenges of reading narrative, especially readers’ concerns about a story, how it relates to their own experiences, and the emotional resonance it has for readers, the analysis of the episodes of a story may thus provide a valuable framework for identifying the key developments in the responses of readers.” (p. 141)

Chapter 9Literariness: Are there neuropsychological indicators?

著者は “literary” とは、少なくとも次の3つの事がらを含むと考えます。 “Through reading we extend the reach of self-knowledge; the experience of reading involves feeling; and reading is anticipatory, allowing us to sense some future understanding. It is this combination of three components, self-reference, feeling, and anticipation that appear characteristic of literary reading – yet in themselves they do not constitute literariness.” (p. 143) 更に、 “the process of reading involves decentering, an ability to focus on the not-self. This capacity for disinterested appreciation is, I will suggest, a key element of aesthetic response, part of our neuropsychological structure. But once the not-self, or external realm has been understood, its energies become available as a metaphor to recenter the self.” (pp. 143-144) “the self is extended to accommodate what was previously an unknown way of relating to the world” (p. 144) などとも述べられていました。また、著者は文学性について次のように述べています。 “I will employ the term literariness to refer to the combination of formal qualities in the literary text and the array of responses these initiate that we can consider decentering (for an appropriate reader at an appropriate time). Literariness is, necessarily, a result of interaction between text and reader, nor merely a specific set of formal textual features. Within this framework I will consider three ways in which literariness may be embodied by distinctive neuropsychological processes: the defamiliarization-recontextualization cycle in response to foregrounding; the dynamic structure of narrative episodes in prose and poetry; and the functions of empathy in our response to characters in narrative.” (p. 144, emphasis in original.” (p. 144) 著者は、もちろんこれら以外の要素も文学性には関連していると考えられると認めた上で、これら3要素が文学性を特徴づけるもっとも重要な要素であると述べ、 “Thus the specific conception of literariness I address is that of a shift in feelings and concepts that is brought about by each of the three formal aspects to be discussed.” (p. 144) と述べます。この章の残りの箇所では、著者は文学性のもっとも重要な3要素がそれぞれどのような神経心理学的メカニズムによって支えられているのかを先行研究を参考にしながらまとめていきます。

まず、the deramiliarization-recontextualization cycleについてですが、著者は右半球の前頭葉前部皮質が関連していると述べます。右半球は左半球よりも「荒い(coarse)」連想を扱う傾向があり、特に715秒程度時間が経過してからその機能が活発となるようです。更に右半球は韻律や感情(右半球は辺縁系の海馬や扁桃体とも連結しています)についても重要な働きをしていることがわかっています。海馬には2つの役割が確認されており、それらは “”to detect conflicts between competing courses of action,” which is consistent with “neuroimaging experiments that show hippocampal activation in response to novelty” (Epstein, 2004, p. 229)” (p. 147) と、 “the predictive capacities of the hippocampus and their role in memory suggest “the hippocampus is the mechanism that allows stored information about the regularities of the world to be applied to the current substantive thought in order to obtain a subsequent thought that is related to the current thought in a sensible way” (Epstein, 2004, p. 230)” (p. 147) というものです。そして、 “In both roles, the hippocampus thus helps resolve the ambiguity or indeterminacy that foregrounding often creates; and it provides resources from long term memory as the basis for recontextualization following the foregrounded moment.” (p. 147) とまとめられていました。

次はnarrative episodesについてです。著者はこれも先行研究から前頭葉前部皮質が関係していると考えており、Grafman (2002) が述べるところのStructured Event Complex (SEC) という役割が大きく関連していると述べます。SECとは、 “The role of the prefrontal cortex in the online modulation and integration of many central cognitive processes, such as planning, memory, anticipation, etc.,”Grafman (2002) が付けた名前です。GrafmanSECrepresentationとイコールの意味で使っているようです(p. 149)。前頭葉前部皮質について、 “According to Grafman the prefrontal cortex, in comparison with other areas of the brain, shows sustained firing of neurons over time, indicating its role in working memory; at the same time, the neurons appear to handle more inputs than other neurons, enabling the prefrontal cortex to integrate signals from a wider range of sources (p. 293)” (pp. 148-149)と説明しています。また、この部位は感情の調整とも関連しています。このことについて、 “The feeling imbued by the sentence, in other words, may remain accessible as part of the reader’s processing of the episode, even though the reader loses direct conscious access to the sentence itself. Grafman goes on to suggest that SECs that are ill structured require, “the subject to adapt to unpredictable events using analogical reasoning or similarity judgment to determine the sequence of actions on-line” (p. 299). Here the likely role of the distinctive RH processing comes into play, as I outlined in the previous section: in Grafman’s account, RH “is thought to be specialized for coarse, slower coding, allowing for the processing of information that is more distantly related …  and could be adept at integrating or synthesizing informationacross events in time” (p. 301) – for instance, accommodating the “delicious breath of rain” [an expression in Chopin’s work] to the ambiguous state of the protagonist later in the same episode by sensing an anticipation of an alternative state (as one of our readers put it at the end of episode 2, “She just begins to experience those feelings that she’s trying to repress”).” (p. 149) そして、このように時間差での作 用を扱うために、Baddeley (2000) などはワーキング・メモリーのモデルを拡張し、1520ユニットの情報を保つことができるan episodic bufferという要素を組み込んでいます。ただし、SECan episodic bufferは文学性という特性そのものを説明するための概念ではありません。しかし、文学性を支える神経心理学的メカニズムを考えていくための枠組みとしては大変有用であると述べられていました。

3つ目はempathyについてです。著者はこれも右半球が大きく関連していると考えています。1つには右脳は心の理論が機能しているということが述べられています。また、文学作品では否定的な感情が頻繁に引き起こされます。しかしながら、通常はこういった感情は左半球によって抑制されているそうです。ですが、文学読解においては右半球はその抑制を乗り越えてしまうと述べられており、このことが文学を読むことで読者が得る様々な経験を説明すると述べます。 “Literary reading that involves empathy would thus, in the light of these findings, operate as a powerful incentive to overcome the normal repression of negative emotion in the self-representation system of the RH: this would allow for the archetypal literary experiences, often discussed, of catharsis, or the negative sublime, or the more routine (but still significant) type of self-referential insight of the reader” (p. 151)

この章ではこれまでの神経心理学研究を参考にしながら文学性という経験を支える神経学的メカニズムについて考察してきました。しかしながら、いずれもまだ文学独特の経験を支えるメカニズムは明らかにされていません(この章では、関連した先行研究をもとにして、文学性の3要素それぞれについて関連していると考えられる要素を紹介した、という域を出ていないと思います)。そこで今後は “first, it will require a better understanding of the temporal modes of literary response; and, second, a broader approach to the aesthetic dimensions of literariness that will accommodate the insights of research into other arts forms, such as music or the visual arts.” (p. 152) という試みが必要であると述べます。特に1点目に関しては、文学読解のanticipatoryという側面(そして、この側面が感情に大きく影響を受けていること)をうまく説明できるようなメカニズムを探し出すことが大切になるようです。これも前頭葉前部皮質が大きく関係しているのではないかと著者は考えています。2点目に関しては、visual artに関する研究が言及されていました。そして、結論としては文学読解の研究は観察によって明らかにされなければならず、その際に神経心理学の知見が大いに役立つだろうと述べられていました。 “In the light of what is being discovered about the process of the brain, then, we must continue to monitor the possibility that new evidence will allow us a greater understanding of the experience of literainess. While neuropsychology as yet provides no direct evidence of the nature of literary reading, it does provide, as I have tried to show, a number of suggestive lines of evidence that provide a foundation for the further examination of the power and significance of literary experience.” (p. 155)

Chapter 10: The body in literature: Metaphor and feeling

この章では、Mark Johnsonのイメージスキーマという考え方に着目しつつ、文学読解でこの概念を適用する際に生じる問題点が議論されていました。著者はまずMark Johnsonの議論を整理していく中で、その問題点を指摘します。それらは、 “an undue reliance upon the spatial properties of schemata; a conflation of dead with live or poetic metaphors; and a neglect of other bodily influences on thought, especially kinaesthetic and affective aspects” (p. 158) です。また、Johnsonの理論はスキーマという概念を使ってはいるものの、認知心理学よりはKantBartlettと関連付けて考えなければならないという注意点が示してあったのと、意味はあくまでも身体的経験なのか、それとも身体的経験から投射ないし変形された結果として生じるものなのかが曖昧であるという問題点も紹介してありました。次に、Mark Johnsonが著書の中で分析を行ったlegal clerkによる談話を取り上げます。そしてJohnsonはこの談話がAPPEARANCE IS A PHYSICAL FORCEという考えによって構成されていることを示した点でとても優れていると認めた上で、なぜこの考えによってこの談話が構成されているのかという点が考えられていないということは問題であると指摘します。そして、 “beneath the metaphoric structure of the clerk’s discourse articulated by Johnson, lies a deeper level of structuring, formed by the clerk’s feelings and their implications for his self concept” (p. 163)” という言葉からもわかるように、やはり感情が重要な働きをしているということを主張していました。次に著者はWordsworth “The world it too much with us” というソネットの冒頭を分析し、そこにイメージスキーマが使われていると同時に他の様々な要素(類音や韻律など)も同時並行で機能しており、それらが感情を高め、ついには異化作用を引き起こしているということを示していきます。そうすることで、Johnsonのイメージスキーマの考えだけでは文学という経験を十分に扱うことができないということを示していました。JohnsonKantの議論を出発点として議論を高めていますが、その形式主義的特性を克服することができていないと主張します(しかし、JohnsonKantの精神と身体の二元論については克服しています)。そして、むしろ私たちはColeridgeに学ばなければならないと主張します。Coleridgeは身体と精神は感情によって結び付けられていると主張し、更に感情はイマジネーションの創造的力の中心にあると考えました。著者は、Johnsonの議論をColeridgeの考えで補強することでイメージスキーマという考えが文学研究にとってより有益な分析ツールとなるだろうと考えているようです。

【第11章:Sounds of contrast: An empirical approach to phonemic iconicity

音と意味の関連性については18世紀に詩人Popeが言及しているそうであうが、それ以降PlatoSaussureも取り上げてきました(Platoは両者の関連性について考えており、Saussureはその恣意性について議論しています)。また、文学理論ではFishは音と意味の関係はないと考えているのに対して、NewmanFónagyは両者の関係について考察してきています。音と意味の関係の研究は示唆に富むとしながらも、著者は統合的な枠組みを欠いているために、単発の研究を関連付けることができないと指摘します。著者は “such a perspective is required in order to examine to what extent systematic sound differences occur in literary texts, and, if so, whether readers are sensitive to them.” (p. 174) 従来の研究は、音と意味の関係についてphonetic symbolismという言葉で言い表してきました。これは、意味が音に内在するという考え方ですが、著者自身こういった考えには疑問を持っています。そして、代わりの概念としてphonetic iconicityという概念を提案します。 “I will present an alternative framework that I term phonetic iconicity, in which phoneme distributions are shown to systematically embody contrasts of meaning.” (pp. 174-175, emphasis in original)

次に著者はphonetic symbolism研究をレビューします。その結論として、 “This brief review of the main studies in phonetic symbolism shows that the concept has some support. Judgments on dimensions such as small-large are consistent among speakers of English, although speakers of other languages may map different phonemes onto this dimension. But it remains unclear whether symbolism is generated from word meanings in a given language, as Taylor (1963) argued, or is an innate quality of the acoustic components of phonemes, an issue judiciously examined by Tsur (1992). At the same time, several studies have shown systematic differences in phonetic frequencies in poetic texts that correspond with their tone and meaning. The examination of phonetic distributions in the words for smallness or largeness, or in male and female names, also appears to show the effectiveness of phonetic analysis within specific domains. It seems probable, then, that while phonemes have no intrinsic meaning … they possess a potential meaning capable of realization when a contrast is in question. … In other words, phonemic contrasts can help to motivate meaning in a literary text, as well as direct choices in nonliterary contexts such as the formation of names.” (p. 178) しかしながら、こういった一連の現象を体系的に調査する試みはこれまでなされておらず、著者はこの章でその方法を提示します。

詳しい調査方法(pp. 179-182)は割愛しますが、著者はlarge words(「大きい」ことを表す語)とsmall words(「小さい」ことを表す語)、男性の名前と女性の名前、MiltonParadise Lostにおける地獄を扱うシーンとエデンの園を扱うシーン、Coleridge “Frost at Midnight” における肯定的な内容を扱うシーンとネガティブな内容を扱うシーンをそれぞれ比較しています。そして、それぞれのデータにおいて顕著な違いがあることが確認されていました。

また、音の対立に対する読者の反応についても調査されていました。ここでは、 Sean O’Faoláin “The trout” を題材とし、状況に関する部分とそうでない部分の音声的違いがどのように読者の反応(読解時間、情意、驚き)に影響を与えているかが調べられていました。 “The trout” 自身、これら2つの場面で音声的違いが確認できるのですが、その違いは読者の読みにも影響を与えており、実際に読みの速度が変化したり、情意や驚きにも関係していることが示されていました。ですが、その影響の仕方は文脈によって異なるようで、著者の結論は “Phonemic patterns, in other words, do influence readers of literary stories, although in different ways according to which aspect of the story is in question.” (p. 187)とされています。

さて、本章の結論ですが、 “In conclusion, the findings described here have indicated the presence of phonemic contrasts in several domains: in words for smallness and largeness, in male and female names, and in two literary texts where differences could be expected. In addition, I have shown that readers of a literary story are responsive to phonemic differences, as their reading times and ratings suggest. Contrary to the earlier studies of phonetic symbolism, and in opposition to a persistent theme in stylistic analysis, phonemes do not appear to possess a fixed quality that can be translated into literary meaning. On the other hand, the physiological dimension of vowels and consonants provides a matrix of potential contrasts, such as high-low, long-short, or bright-dark, which can be realized, as Tsur puts it (1997, p. 286), “when in a specific context the sounds encounter some relevant meaning component.” Thus, front vowels are able to connote the confined spaces of Hell in one context, but the feminine qualities of first names in another; plosives tend to characterize words for smallness, but are also prominent in Coleridge’s reports of his negative experiences in “Frost at Midnight.” The specific qualities that emerge from the array of phonemes in a text depend on the contrasts offered by the text. This, in a word, is why such effects can be described as iconic rather than symbolic, suggesting a relative rather than a fixed meaning.” (p. 188) と述べられていました。

【第12章:An evolutionary framework for literary reading

どの文化であっても「文学」という特殊な言語行動様式を持っています。いわゆる「文学」は、18世紀の中産階級の文化的関心を満たすために生じたと考えられていますが、研究者によっては、16世紀後半から生じるとする考えや、最初の創造的テクストが作られた時から生じるという考えもあるようです。しかしながら、著者自身は「文学」は人間という種全体に独特に関わるものであり、進化論的枠組みの中でなぜ人間が「文学」という能力を保持するに至ったのかを考える必要があると考えています。著者は文学(または芸術)を進化論的枠組みで考えた先行研究として機能主義的アプローチ(Dissanayake)と主題的(内容的)アプローチ(Carroll)の研究を紹介していますが、著者は後者に関しては解釈という問題に重きを置きすぎているとして苦言を呈していました。

まず、文学とは生得的な特性であるということを示していきます。その前に、文学言語という考え方に批判的な考えには主に次の3つがあります。それらは、 “first, that distinctive features (alliteration, metaphor, etc.) are as common in non-literary as in literary texts; second, that such verbal features provide no formula for reaching an interpretation, i.e., that they are devoid of the kinds of meaning that stylistic critics have attempted to build upon them; or, third, that if we pay attention to foregrounding it is solely because we have been schooled into doing so.” (p. 192) しかし、文学言語は存在するかどうかという問題は、そういった言語に読者が出会った時に特徴的な読解プロセスが存在するかどうかということを示すことをまず行わなければ議論が始まらないと著者は考えます。そして、このことが示されて初めて、それが後天的なのか先天的なのかが議論できるとします。著者自身、前景化に出会うことで独特な読解プロセスが生じるということを本書を通して示してきました(著者はその全体的まとめをp. 193で簡潔にまとめています)。そして、そのことを踏まえて文学読解は後天的(教育の結果)なのか、先天的なものなのかを考えています。著者は、全面的に後天的であるという考え方には反対しています。実際に文学経験に関わらず読者は同じように前景化された言語表現に反応するということがこれまでの調査で明らかにされているためです。また、先天的であるということについては、母親言葉における前景化への幼児の反応、幼児自身による前景的な言語表現の産出、すべての文化に(口頭様式ではあるが)文学という言語行動が存在していること、を理由にその立場を支持しています。ですが、前者2つは、pre-literaryな段階であり、どちらかというと注意を引くということに重きが置かれたものとなります。それに対してliteraryな段階になってきますと、これまで培ってきた考え方を変更したりするための手段を提供するようになります。人間が培ってきた文学という行動を近代の書きことばによる文学と区別すべきではないかという考え方もあるかもしれませんが、著者自身は両者を区別する必要はないと考えています。そして、 “Whatever the precise mode of attention, the moment of response to foregrounding promotes a familiar experience to the status of being special (in Dissanayake’s terms), and opens it to the possibility of being re-evaluated. In this process, the feeling now in place may outlast its occasion, either allowing it to govern the emergence of some new cognitive formation, or, alternatively, to be relocated within a perspective that will modify understanding of it.” (p. 196) とまとめられていました。

最後に、著者は再度 “Literary reading, in this perspective, must be understood as a response to the ancestral environment and the cognitive, emotional, and social challenges that it posed.” (p. 197) ということを強調します。そして、特にDehabituationという特性に着目し、その進化上の意義について考えていきます。そして、 “While effective behavior, particularly in the ancestral environment, typically depends on rapid assignment of meaning to appearances following their assessment in relation to the interests of the self or the group, the tendency inherent in this facility is to stereotypic concepts and stock responses. Literary experience, which takes place outside the normal demands of daily life, enables stereotypic concepts and responses to be put in question. Through literature readers or hearers may evolve new modes of feeling for the issues that are most central to their experience; as I also suggest below, literature may facilitate the modulation or repair of emotionally negative experiences in particular. By dehabituating, in brief, we prepare ourselves for encountering experience in ways that are potentially (although not necessarily) more productive, thus enhancing the flexibility of our responses to the environment or our social interactions.” (pp. 197-198)と述べます。また、著者は文学の生得的特徴を強調してきましたが、生得的側面からだけで説明がつくもではなく、その文化的側面も考慮しなければなりません(つまり、文学とは生得的側面と文化的側面両方を考慮して考えなければなりません)。これまでの議論を総括すると、文学の進化論上の意義として、著者はまず次の点を挙げます。 “The primary function of discourse is to instantiate common interpretive schemata, for which emotional responses and self-awareness arise only incidentally and are generally stereotypical; but a text that only instantiates a frame with relevant information is not literary. Literature, in contrast, facilitates changes in perception or in the self in its relationship with others, thus enhancing the survival and reproductive ability of the group.” (p. 199)。また、文学には社会的側面と個人的側面もあり、この観点からも柔軟に考察することが必要です。そして、2点目の進化論的意義として、 “literature can also be seen as a solution to an endogenous adaptive problem, that of social constraint, repression, and pathology.” (pp. 200-201) と述べます。そして、 “literature enhances our abilities to respond flexibly to experience and thus assists our powers of survival” (p. 200) と指摘していました。

最後に進化論的枠組みが文学の経験的研究にもたらす示唆について議論されています。著者は2つの示唆があるとします。1点目は、異化理論は文学テクストと読者の関係に関連付けて実証的に検証されなければならないということです(このことについて、著者は具体的な研究枠組みをFigure 12.1 として示しているのですが、残念ながら文字がぼやけており、少し読めない箇所がありました)。2点目は、専門家ではなくて一般読者の読みを研究する必要性です。Gerald Edelman (1992) は、 “only “popular thinking” can account for the selection and development of a species trait” (p. 201) と考えています。そして、 “For literature, the question is thus what function literary reception may have in populations of readers, not individuals – although the evidence can only be studied as it is manifested within the responses of a range of actual individual readers.” (pp. 201-202)と述べ、 “Thus empirical study of real readers, guided by defensible scientific hypotheses about the adaptive functionality of literature, appears to be the most productive paradigm for future research” (p. 202) と本書を締めくくっていました。

私自身、Miall先生の論文は単発でいろいろと読んできたのですが、その断片的な理解を本書を通して統合することができました。部分的にわかりづらい箇所も多い本ではありましたが、とても勉強になりました。研究心をいろいろと刺激してくれる一冊です。

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