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2010年9月30日 (木)

S.バディル(2004/2007).『イェルムスレウ ソシュールの最大の後継者』を読む(町田健(訳),大修館書店)

この文献の詳細は次の通り。

バディル,S.(2007).『イェルムスレウ ソシュールの最大の後継者』(町田健(訳)).大修館書店.(原著は2004年出版)

感想:

<序章>

ここでは、イェルムスレウの著作に関する基本的な情報、彼の研究に影響を与えた人物、言理学の受容の状況、について簡単に触れてありました。未完の理論とのことですが、グレマスやバルト、デリダなど多くの研究者に影響を与えているようです。

<第1章:記号の階層>

まず、最初に、「言語学は科学であること、言語は記号であること、言語使用者に共通の形式(ソシュールのラングに当たる)を抽出すること、最後に、使用の状況による変異(ソシュールのパロールに当たる)の分析が実行されること」(p. 21)が言語研究には必要であるというイェルムスレウの考えが説明されます。次に、言語分析は、経験的データに基づいた経験主義に基づかなければならず、理論の中では理論的適合性を満たさなければならないという立場が説明されていました(言語学が科学となるために必要な基準)。次は、記号と非記号について説明されていました。それまでの構造言語学では、チェスや代数も記号と見なされていたのですが、イェルムスレウの言う記号はより狭い意味(「その表現の側面と内容の側面は、それぞれが固有な構造をもっていなければならない」(p. 28))で使われています。そして、表現面の最小単位は音素であり、内容面の最小単位は内容素(内容記号素)とされます(表現面の最小単位は内容面の最小単位として機能することはなく、両側面が固有の構造を持っていることが分かります)。ただし、両側面は分析過程では、お互いに依存しています(音素の研究がミニマル・ペアに基づいているのを想像すればいいでしょう。イェルムスレウは、表現面と内容面の分析が関連していることを記号機能と呼んでいるそうです。そして、記号機能によって結び付けられている表現と内容のことを機能素と呼び、表現機能素と内容機能素の結びつきが安定している場合は、それらはお互いに不変体と呼んでいます。)。しかし、イェルムスレウは、分析過程よりも最終的な分析結果においては、両側面に固有の構造が見られるという点を強調し、このような立場を取っているそうです。そして、イェルムスレウにとって記号の体系とは二重分節を持つコードに限られます。つまり、「表現面に属する最小の要素に、内容面に属する最小の要素が対応していないようなコード(規則の体系)」(p. 32)のことです。そして、マルチネの二重分節理論との違いが説明されていました。両者は、表現面については違いはないのですが、二重分節理論では表現面自体が単位を形成して、その単位が意味ないし内容を担うと考えたのに対し(つまり、意味や内容は表現に還元でき、内容には固有の構造はないとする)、イェルムスレウは内容に固有の構造を想定していたというわけです。ここでは、電話番号を使って分かりやすく両者の違いが説明してありました。次は、外示記号(外示体)と非外示記号の区別についてです。イェルムスレウは、記号の中でも他の記号の確立を前提としないような記号のことを外示記号と呼び、個別言語は外示記号の代表例と見なしています。ただし、外示記号という考え自体は言語の特徴を明確に示す特性ではなく、他の外示記号と言語との違いは社会的・文化的な理由によると考えられています。次に外示記号の分析の方法について説明されていました。基本的には、構造言語学一般と同じで、範列的な分析(相関関係の分析)と連辞的な分析(連関関係の分析)に基づいて行なわれます。「「連関関係」とは、…何らかの言語的要素が別の要素と結びつく可能性を定義する関係」(p. 38)、「「相関関係」の方は、…ある言語的要素が他の言語的要素と同じ価値をもつ可能性、つまり同じ条件で置き換え可能かどうかを定義する関係」(p. 39)と説明されています。そして、両者の分析は直行する二つの軸によって表現されました。なお、この分析は、特定の記号機能の分析に対して行なうこともできますし、記号体系全体に対して行なうこともできます。次は共示記号についてです。記号の中には、異なった表現機能素(音素の連続)が、一つの同じ内容機能素(意味)に対応している場合があり、外示記号の分析における「ある表現機能素が記号機能に関して不変体だと見なされるために、それがある一つだけの内容機能素に対応しているという条件」(pp. 41-42)に矛盾してしまうケースがあります(日本語の「jitensya」と「charinko」という表現機能素がその例となります)。このような場合に見られる意味の違いは、単語の意味的な違いを区別する場合の対立(「jitensya」と「jidousya」など)とは違っていて、いわゆる言語使用域の違いとなります(共示記号)。これまで本章で説明されてきた言語分析では、言語は均質であるという前提に立ったものでしたが、実際の言語には様々な言語使用域が入り込んだ不均質なものであると言えます。そこで、言理学では、外示記号と共示記号の間に階層を設け、前者に対しては研究を行なう便宜上テクストが均質であるという前提で分析を行ない、このことから生じる問題(テクストの不均質性という事実)をすべて共示記号のレベルで扱うこととし、外示記号は共示記号に取り込まれているという構図を提案しています。次は共時記号の体系についてですが(1つの個別言語の中に存在する、社会方言、地域後、文体、など、異なるジャンルないしは言語使用域を整理すること)、統計を取ったり、リストを作ったりすることで確定させることができるのではないかという考えをイェルムスレウは持っていたそうです。ただし、最初からその区分を決めてかかるのではなく(規範的にではなく)、できるだけ言語を既述する中で出てきたという形にしたかったそうです(例えば、最初から、「東北弁」という区分があると設定して研究をするのではなく、言語を分析していく過程で東北地方を中心としてある種の規則的な言語変異が見られ、それを「東北弁」と名づける、という形にしたいということ)。ちなみに、「共示」という語を最初に言語学に導入したのはブルームフィールドだったそうですが、彼は個々の言語形式の正確な定義を妨げているものを共示とみなしたそうです。イェルムスレウは、科学性を求める点ではブルームフィールドと同じでしたが、共示的意味を言語分析の精度を助けるものであり、必要なものであると考えています。本章のレビューの最初の箇所で、p. 21から引用をしていますが、共通部分が外示記号の分析、変異が共示記号の分析に該当します。

<第2章:記号の変異性>

まず、イェルムスレウのラングの捉え方が説明されます。彼は、ラングを心的存在として捉えるのではなく、形式主義的な「図式」として捉えています。「図式とは、記号の表現面と内容面における選択関係(相関関係)と並列関係(連関関係)によって定義される機能素の集合、言い換えれば体系と構造の中での関係をもとにして性質が決まる要素の集合」(p. 64)という意味です(ちなみに、ラングを心的存在として捉え、言語使用をその外面化した表示として捉える立場には、従来の文法、構造主義言語学、生成文法と認知意味論、などに見られる、と著者は述べています)。ラングは、何か物質性や実質性を持つものとは考えられておらず、「外部で経験される現実に名前をつけるための原理として、その機能を限定される」(p. 64)と著者は指摘していました。そして、言語使用を形式化する可能性について、共示記号論がその役を担うことになると述べています。基本的に、図式の中で確定するのは不変体です。しかしながら、変異というものがどうしても存在してしまいます。これらは不変体が定項と呼ばれるのに対し、変項と呼ばれます。そこで、著者は不変体、変異体、純変異体、の3つを明確に区分します。「ある記号機能が、表現機能素と内容機能素をはっきりと示しているにもかかわらず、連辞的な分析において定項でない場合、少なくともどちらかの機能素は「連辞変項」(または「可変素」)である。同じ範列的分析による機能素とそれ以外の機能素との間に見られる関係に規則性がない場合には、その機能素は「範列変項」(または変異体))である。要するに、表現面または内容面で、一つのまとまりをなしていて独立した単位である可能性があるものがテクスト中に観察される場合、それらのまとまりが、他のすべてのまとまりと機能的にはっきりと区別できるかどうかが判定できなければ、それらのまとまりは「変項」と呼ばれる。同じテクスト中に現れる他のまとまりとの関係、つまり連辞的な観点から見た変項が「連辞変項」、同種の種類をもつ他のまとまりとの関連、つまり範列的な観点から見た変項が「範列変項」である。連辞変項が同時に範列変項である場合、それは「純変異体」(または「変体」)と呼ばれ、記号の「使用」(ソシュールの用語では「パロール」)に見られる体系中の変異に対応するものである。範列変項のうち定項と見なされるものは「変異体」(または「変種」)であり、記号「図式」中の体系における変異に対応する。最後に、連辞変項が範列変項であることはできないし、同様に、すべての不変体は必然的に定項である。」(pp. 67-68)。ちなみに、訳者は、「音韻論における不変体とは音素であり、変異体とは音声、そして純変異体とは、テクスト中で実現するさらに個別的な音声のこと」(p. 74)と説明していました。また、内容面の範列変項に関して、「純変異体と変異体との境界線を理論的に定義することはできない」(p. 80)ということも指摘してありました。なお、変異体と純変異体は、共示記号分析の結果として出てくるものとなります。この共示記号という観点を取り入れることで、イェルムスレウは、非常に柔軟な枠組みで言語を分析することが可能となりました。彼は、言語が均質か不均質かということをあらかじめ定めることなく、外示記号と共示記号という2つのツールによって的確に言語を分析することが可能となりました。著者は、「図式と使用の区別のおかげで、そして構造主義的記述に関して根強く言われ続けていることとは逆に、この方法に従う分析は、言語を厳格で単純化された体系に閉じ込めるのではなく、言語が実際に現れる際の変異性に対して開かれた言語記述をもたらしてくれる。またこの立場は、表現面と内容面を同様に取り扱う分析を提示するものでもある。」(pp. 86-87)、「共示体を理論に組み込むことで、純粋に外示的な分析蛾許す記述に比べて、はるかに精密な言語記述が可能となる」(p. 87)と評していました。

<第3章:共示体>

この章では、共示に関するイェルムスレウの理論が実際に適用可能な例が8つ示されていました。それらは、「(地域語or個人的特徴)の範疇に関わる共示体に結びついた(表現or内容)の(変異体or純変異体)」というものでした。イェルムスレウは、「日常的言語使用」といったような大きな共示体しか予見できなかったと指摘されることが多いそうですが、彼は単に共示体の分析を大きな共示体から始めるということを指摘しているのであって、細かな共示体についても十分に扱うことができると著者は述べていました(ただし、その分析における重要性から、イェルムスレウは大きな共示体に重要な地位を与えています)。イェルムスレウの共示記号論について、著者は次のように結論付けています。「共示記号論は、言語の内部にある変異性をより適切な形で保障することを可能にし、テクストが与えるデータを過度に単純化したり、記述の構造的な厳密性を損なうこともない。共示体は、数に制限はないものの、範疇に分割され、互いに連帯して階層を形成することから、共示体の分析により、これらが構成する内容面の体系を詳細に説明することが可能となる。そしてその一方で、内容の体系と関連する外示記号の変異体および純変異体は、表現面を形成する。これが明らかに意味するのは、テクストは「常に」一つの、少なくとも一つということではあるが、外示に関わる図式を表すと同時に、共示に関わる図式をも示し、共示の図式は外示の図式を前提とするということ、そして外示の図式が明らかになるためには、必ず共示の図式が分析されることが要請されるということである。」(p. 106)なお、イェルムスレウが共示記号に与えた定義は、「共示記号とは、その表現面も記号であるような記号である」(p. 106)というものだったそうです。「第一の階層、つまり外示的な階層では、面Aが面Bに対立する。しかし第二の階層、つまり共示的な階層では、両者の対立的機能が、面Cと対立する場合には、この二つの面がA-Bという一つの面を構成することになる」(p. 107)。なお、著者はイェルムスレウの「共示」という用語は、一般的なそれとはさほど違わないとのことでした。

<第4章:認識論的概念>

ここでは、共示記号とメタ記号の区別がなされます。「ある記号を含む面が表現として機能している場合、この面を要素として含む記号は、共示記号として記述される。ある記号が内容面を形成している場合は、その記号は、最初に論理学の枠組みで作られた概念、すなわちメタ言語の概念に対応することになる。」(p. 111)次に、著者は、表現と内容、意味作用、形式と実質と質料、という概念について整理していきます。表現と内容に関しては、イェルムスレウは「記号機能によって互いに結び付けられた二つの機能素を現そうとしていた」(p. 113)という点が再確認されていました。意味作用については、「相互に依存する二つの機能素により、同じ時点に実質が特定化されること」、と定義されています。また、形式は分析によって抽出される定項、実質は分析におけるすべての変異体、質料は形式を伴わない実質(分析によって明確になる以前の、分析によって与えられ得るもの)、と説明されていました。つまり、質料の中で実際に分析において形式と結びついたものが実質と呼ばれているということになるでしょうか。また、ここではメタ記号について触れる中で、「科学的記号と非科学的記号の間に明確な境界は存在しない」(p. 122)という点が指摘してありました。

<第5章:論理と記号>

著者はメタ記号について次のように説明します。「メタ記号は、不変的な形式のもとに、一連の言語形式を集合させるものであり、これらの言語形式は、メタ記号の立場から見ると実質、すなわち範列変項だと見なされる。「名詞」や「動詞」はこのような記号の一種であり、メタ記号分析では、それぞれの名詞や動詞は、同じ<名詞>や<動詞>という内容を表現しながら、記号機能に関しては、お互いに異なる表現に対応しているという点で、「名詞」「動詞」という記号に対する範列変項を構成する。この意味で、メタ記号は、共示記号と同様に、外示記号分析の内部に、形式の変異性を導入することを可能にする。」(p. 130)このことだけだと、「メタ記号」といわゆる「メタ言語」という概念は同様なものだと思ってしまうのですが、著者はイェルムスレウはこのこと以上の機能を「メタ記号」という概念に与えており、メタ言語と同一視することは適切ではないと述べていました。さて、共示記号とメタ記号は、ともに形式に変異を与えるということですが、その方向性は異なっており、「共示記号は、外示記号が示す変異性をもったものを定項へと確定するのだが、一方でメタ記号は、対象記号の定項を純変異体へと転換させる」(p. 132)と述べてありました。共示記号は、異なった内容を結合させ、「内容の違いを外示記号の表現面に投射することが」(p. 132)その働きだとしてきされています。共示記号については悉皆的な記述は達成不可能であり、その点で著者は非科学的な記号であると指摘していました。一方メタ記号は、常に悉皆的であり、科学的な記号とみなされています。「外示記号が二つまたはそれ以上の数の不変体を考慮に入れなければならない場合でも、メタ記号分析であれば、対応する外示の不変体が範列変項となるような不変体を一つだけ取り上げればよ」(p. 136)く、「外示記号のあらゆる形式に必然的に到達し、これらを「新しい」形式のもとに再編する」(p. 137)と指摘しています。「メタ記号に関する手続きの方向は、要するに外示記号の不変体のすべてを一つの統一的な観点から体系としてまとめあげるさぎょうに他ならない」(p. 137)という点もこの記号が科学的であるということの証左の一つです(共示記号は、逆に言語構造を複雑化させます)。「共示記号とメタ記号は、同じ一つの軸上で対立する方向へと向かうものである。この軸は、分析される対象に関して、絶対的な普遍性と絶対的な変異性を両端とし、形式的な分析のレベルに立つ場合は、絶対的な個別性と絶対的な一般性を両端とする」(p. 138)ということも指摘してありました(ただし、絶対的な個別性と一般性は、連続体でメタ記号と共示記号を考えるにあたっての便宜上設定されている両極にすぎませんが)。なお、この連続体の中心を構成するのは外示記号です。また、著者は、テクスト分析にあたっては、ラングとパロールという単純な2区分ではなく、記号レベルにおける形式(ラング)と実質(テクスト)、それにメタ記号レベルにおける形式(メタ記号)と実質(記述)を考慮することが必要であると述べていました。

<第6章:メタ記号>

著者は、まず自律素という概念について説明します。自律素とはメタ記号の表現機能素に該当し、言語使用によってしか通常の記号の表現機能素とは区別されることはできないと述べます(表記上では、「  」を伴うことが多いですね)。著者は、「特定の表現機能素をテクスト中に引用して、その内容をメタ記号によって説明したもの」(p. 149)とも説明してありました。また、ただ1つの内容範列変項しか与えられないという特徴もあります。ですが、その分析方法は外示記号などと同じで、連辞的・範列的分析によります。著者は次にメタ記号分析について説明します。メタ記号分析とは、「記号分析のための一般的な記号分析理論」(p. 153)です。ラングの記述が主な任務となります(表現面で言えば音素などが該当するでしょう)。そして、最後にメタメタ記号についてです。イェルムスレウはメタメタ記号について概略的にしか述べていないため、著者が推測しながら説明をしていました。メタメタ記号とは、音声で言えば、異なる音素を純変異体とし、「舌先歯音」といったような新たな類を作り上げるといったことを担う記号です。著者は、表現面のメタメタ記号が音声学、内容面のメタメタ記号が意味論としています。次に、共示記号とメタ記号の面白い関係についても触れてありました。「~~学派の用語」などは、表現面がメタ記号であるような共示記号です。また、社会言語学、心理言語学、歴史言語学、方言学、文献学、解釈学も同様です。そこで、著者はメタ記号学(言語学を含む)を中心として、理論的一般化を目指すメタメタ記号学と理論的個別化を目指す共示記号のメタ記号化という両極をになった連続体として原理学のモデル化を提示します。一般に、メタ言語は言語を語るためのものと考えられがちですが、イェルムスレウにとってのメタ言語とは、「外示記号と共示記号の両方に関わる分析に対して実行される分析の結果である」(p. 169)ということが述べられてありました。記号分析によってメタ記号が示され、その記述能力が限界に達すると、次にメタ記号分析が行なわれメタメタ記号などが出てくることとなります。

<第7章:言理学受容の歴史>

イェルムスレウの著作が最も反響を呼んだのはフランスの記号学においてで、ロラン・バルトがその中心です。しかしながら、著者はバルトはイェルムスレウの理論を多くの点で誤解しており、しかもその誤解を含んだバルトの理論に基づいてイェルムスレウの考えが批判されるに至ったという不幸な歴史を指摘していました。その問題点ですが、バルトは外示記号体系の分析のことを全く考慮していないこと、メタ記号に「歴史的な相対性と断定的な虚無主義」(p. 178)を見出していること(ただし、言理学ではなく、フランスの記号学のみに限定して言えば、このように考えることは正しいと著者は指摘しています)、記号を考えるにあたってソシュールの用語に移し変えていること(しかも、それらの概念はFregePierceOgden & RichardsEcoらのように記号を3区分して考える(指示対象というパロールの範疇を組み込んで考える)理論に由来する概念(表示部と内容部)であること)(結局、フランスの記号学は三項モデルにしたがってメタ言語と共示の概念を解釈することになったそうです)、「共示」という呼び名を与えてしまったことで共示が記号であることの必然性が明示的に確定されないこと(メタ記号と共示記号の対象性が崩壊してしまった)、イェルムスレウが表現と内容について「面」としているのに対してバルトは「単位」と考えていること(グレマス、エーコ、トドロフも同様です)、外示の内容部が共示の表示部に挿入されるということを前提としているがそのようなことを正当化する根拠がないこと、です。特に「面」と「単位」の点に関して、単位のレベルに位置づけた共示の分析はほとんど実りないとしています(「例えば、「ファシスト」は本来政治的な「外示」をもっていたのだが、今日ではそれが多くの場合、軽蔑的な「共示」に置き換えられている」(p. 191)といった分析)。言理学では、「「心理的価値をもつ共示体の範疇に属する「軽蔑的価値」という共示体…の観点からすると、外示的内容の体系を構築することができて、その体系では、他の多くの内容形式の中で、次のような形式を区別することができるだろう。「ファシスト」「畜生」「悪党」「極悪人」「むかつく奴」「マッチョ」「スターリン主義者」「全体主義者」など。」(p. 192)また、メタ言語をメタ言説として考えるような誤解も多かったようです。このような誤解をしてしまったレイ・ドゥボーブなどは、更に「記号」の自律素といったものを認めてしまい(イェルムスレウでは、記号の形式面についての概念だったにもかかわらず)ました。メタ言語をメタ言説と見なす考えはヤコブソンに由来しているそうです。バルトは、イェルムスレウのメタ記号とヤコブソンのメタ言語的機能を同一視してしまいました。このような一連の問題点から、メタ記号と共示記号の定義が作られた理論的枠組みがいかに不当な認識をされてきたかを知ることができます。このような不当な認識は、アンドレ・マルチネの機能主義も含めて、プラハ言語学に端を発するものだと著者は指摘します。この立場は3つの点において言理学と対立します。「まず、この伝統は、内在的な分析ではなく、指示的な分析の方を選択した。次に、面の分析ではなく、単位の分析を選択した。そして、数々の反論にもかかわらず、言語の形式的体系ではなく言説に固執し続ける分析を選択した」(p. 199)。こういった3つの理論面での不一致が根本の原因となり、言理学で提案された共示記号とメタ記号は非常に不正確に解釈されることとなったと指摘されていました。なお、フランスにおける記号学はとても人気があったのですが、その人気がなくなるや、イェルムスレウなどが関係する「記号学」という用語を捨て、記号論という名称を好むようになったそうです。

<終章>

ここでは、まず著者がイェルムスレウの考えに基づいて学問体系を整理していました(p. 205)。更に、イェルムスレウの認識論について2点説明されていました。1点目は、「あらゆる科学は記述的なものであり、その意味で、言語と関わりがある」(p. 209)という科学史における言語論的転回のような認識論です。最近の質的心理学とも関係によく見られる立場ですね。2点目は「科学に階層性があるという理由で、単一の分析モデルが必要になることは全くない」(p. 213)という認識論です。

さて、これで本書は終了です。イェルムスレウの理論なので、本書も非常に難解です。しかしながら、これまで読んだ関連文献の中で最もイェルムスレウの言理学を理解することができたと思います。読み進めていくうちに徐々に理解できていきました(本書には用語集があるので、それを使いながら読み進めました)。また、イェルムスレウが言語使用をも射程に入れた理論を展開しようとしていたことがはっきりと分かったこと、そのモデルは一見高度に形式的に見えて実はとても柔軟性があること(形式と実質の区別がレベルによって変化する点などがそう思いました)、バルトの考えとイェルムスレウのオリジナルの考えの違いを明確に理解することができたこと、など、とても得るものが大きかったです。また、イェルムスレウのあらゆる前提を排除して分析に当たろうという姿勢にも非常に感銘を受けました。イェルムスレウが、言語こそが諸科学の根底にあるという言語論的転回に似た認識を持っていたからこそ、言語だけでなく、あらゆる学問分野を位置づけたことで、壮大な記号学的プログラムを構想したということがとてもよく分かりました。

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2010年9月18日 (土)

綾部保志(2009).「英語教育研究の向こうに見えてくるもの」を読む(綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』,ひつじ書房)

綾部保志(2009).「英語教育研究の向こうに見えてくるもの」.In 綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』(pp. 243-255).ひつじ書房.

感想:この章は、これまでの3つの論文の関係づけを明確化することと、各章の要約が行われていました。すべて読み終わった後にこの章を読むと、3つの章の関係がとてもよく分かり、私はとてもすっきりしました。著者は、今後の英語行為国必要となる目標として2点指摘していました。それらは、「単に会話力や対人関係力のスキルアップのような一面的なコミュニケーション能力ではなく、社会や文化や歴史、言語や人間や物事を、より多様で複雑な考え方で理解でき、自己限界さえも再帰的に特定できるような「超越論的な認識力(批判的な理性)」、更には、家族や友人などの隣人、様々な文化圏に属する人々に加えて、人間に深く関わる自然や天地宇宙を含む万物(動植物、天候、自然現象、天体の変化など)とも対話・交感できるような「包括的なコミュニケーション能力」(p. 254, emphasis in original)でした。非常に重要な目標だと思いました。

これで本書は終わりです。どの章も力作で、それぞれに大きく得られるものがありました。関連文献も読んでみたいと思いました。

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榎本剛士(2009).「英語教科書登場人物とは誰か?:「教育」と「コミュニケーション」のイデオロギー的交点」を読む(綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』,ひつじ書房)

この論文の詳細は次の通り。

榎本剛士(2009).「英語教科書登場人物とは誰か?:「教育」と「コミュニケーション」のイデオロギー的交点」.In 綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』(pp. 195-241).ひつじ書房.

感想:この論文では、CDAの手法を用いて、2002年度版の中学校英語教科書を分析し、その登場人物像と登場人物たちによるコミュニケーションを明らかにし、それらが現在の社会構造と密接に関係していることが示されていました。そして、教科書の中でもイデオロギー操作が生じていることがわかりやすく述べてありました。

著者は、まずこれまでの教科書変遷研究をまとめます。そこで述べてあったのは、「英語教科書の題材の変遷は、「「『異文化理解=アメリカ理解』とする図式の崩壊」から、「日本人の積極的登場と『発信型』重視の教材」への移行を経て、「アジア・アフリカの登場と理解の深まり」、そして「少数民族の記述」の増加へ向かう流れとして、大体、把握することができよう」(p. 198)という江利川(1992)の研究のまとめでした。類似したまとめとして、八代(1989)に関して、「昭和24年から昭和61年までの中学校用検定済英語教科書における日米関係は、昭和20年代に見られる「アメリカの一方的な紹介」、および、30年代の「(圧倒的なアメリカ重視であるが)アジアを含む世界への関心」から、40年代における「日本の場面設定」と「日本人としての健全な自身と誇りを持った日本人の登場」を経て、60年代における、アメリカ人が日本文化を学ぶという「日米関係の逆転」への流れを示す、ということになろう」(p. 200)と述べてありました。その他、教科書では「「他者」、発展途上国、環境、ジェンダー、戦争、障害者を脱政治化した形で表象する題材を取り上げ、英語教科書に依然として潜む「政治的無意識」を鋭く批判している」(p. 200)研究、戦争を学習者に無縁なものとして描く性質、日本人登場人物の発話量の偏り(英語母国語話者に対しては多いが、非英語母語話者に対しては少ない)、登場人物が英語学習者として理想化されていること、一枚岩的な言語観に基づいた登場人物となっていること、などが指摘してありました。つまり、一見アメリカ一辺倒の時代を終えて、多様な文化に目を向けるように見えるのですが、実はそのなかには相変わらず植民地主義的な世界の捉え方が、依然として教科書に色濃く反映されているようです。しかし、著者はこのような権力構造的な枠組みだけでは問題のすべてを扱うことはできないと指摘し、「登場人物が「何について」「どのように語っているか」を分析することで、登場人物の「人間性」に至り、…英語教育を取り巻く「教育」というコンテクストを経由することによって、…英語教科書における題材研究・題材批判の新たな地平を切り開くことを目指す」(p. 202)としています。

まず、登場人物についてです。登場人物の出身国は、日本、アジア近隣諸国、英語圏、アフリカ、中南米に渡っていたそうです。次は登場人物によって語られているトピックですが、科学・技術、戦争・平和、公共・福祉、環境・共生、人間・言語・コミュニケーション、異文化理解・自文化紹介、が見られたそうです。コミュニケーションの展開パターンですが、トピック提示→相違点・独自性/共通点・類似性/現状・問題点⇔学び・(再)発見/評価・(感情的)反応/実体験/意見・主張/助言/提案/合意・連帯、というパターンが見られることが豊富な具体例を元に示されていました。著者は、「「(実践的)コミュニケーション」を志向する、2002年度版の中学校英語教科書においては、日本をはじめ、様々な国籍を持つ中学生登場人物たちが、社会問題や文化的事象を中心としたトピックに関して、主体的にコミュニケーションを図りながら、相互理解を生み出したり、自らの意見等を発信したりする様子が描かれている」(p. 211)とまとめていました。また、「(実践的)コミュニケーション」のための英語教科書が提示する中学生の英語コミュニケーションとは、日本を含んだアジア諸国、英語圏、アフリカ、中南米など、世界の様々な地域から来た人物間に起こる、「科学・技術」、「戦争・平和」、「公共・福祉」、「環境・共生」、「人間・言語・コミュニケーション」、「異文化理解・自文化紹介」についての語り(合い)である。そして、それはまた、誇りを持って独自性を発信し、相違点や類似性、共通点を見つけ、それらに驚嘆すると同時に、社会の現状や問題点を痛切に感じながら、それらについての学びや実体験、価値判断、主張、あるいは提案をしたり、合意や連帯を導いたりする、きわめて強調的なプロセスである。」(pp. 211-212)として、中学校教科書で提示されている「コミュニケーション」の枠組みを解説していました。

次は、各トピックについて、登場人物がどのような認識を持っているかが分析されていました。技術(インターネットなど)については、「使用に伴うリスクに対して自ら責任を負いながら積極的に駆使されるべきものである」(p. 213)という認識が、科学に関しては「(希望を持って)自ら参加・開拓するものであり、将来の夢の対象」(p. 213)とまとめられていました。戦争・平和については、戦争はなぜ起こったのかといった批判的視点を欠いた状態で、戦争の悲惨さが訴えられたり、戦争は絶対悪で平和は絶対善であるという認識が前提とされていることが示されていました。公共・福祉については、援助や施しを与える側と受ける側の2分法が確立し(植民地主義的な考えが見られる)、後者がなかなか個人で文の主語となることが少ないという状況があるが、与える側が積極的に福祉・公共に参画すべきであるという認識が確認できたそうです。環境・共生については、「自然から人間への働きかけに関しては言及されておらず、自然は破壊され、病んでおり(ill、dead)、人間はそのような自然や地球を救う立場にあるという、不均衡な二項対立的関係が前提となっていることが分かる」(p. 218)としています(植民地主義的構図がここでも見られる)。人間・言語・コミュニケーションについては、「コミュニケーションにおける非言語的側面や、英語の社会的側面に対する気づきは見られるものの、依然英語を中心とした一枚岩的なものであり…、同時に、日本人にとっての、「アジア対アジア以外の国」という構図を含んでいるものであると言える。また、個人の自己実現や能力開発を目指す自由な(普遍的な)主体として、「人間(一般)」は位置づけられている」(p. 220)とまとめていました。異文化理解・自文化紹介については、「話題となっている文化的知識・習慣・生産物を持つ者と持たない者とが明確に分離されており、実体・物質に還元された文化による、登場人物の差異化が行われている」(p.223)と指定してありました。また、「彼/彼らが文化について語る時には、肯定的な価値判断を伴うのみならず、それらが誰に独自なものであるのか(=誰がそれらを所有しているのか)が、はっきりと示されている」(p. 223)と述べてありました。ここでは引用しませんが、本論文のp. 223からp. 224にかけてこれまでの議論の総括がなされており、とても理解しやすいです。

さて、現代の日本の教育においては、第2章でも指摘されていたように、新自由主義と新国家主義が融合して進んでいます(p. 227)。そして、そのような教育の目標は、「自己実現を目指そうとする意欲や態度、情報通信技術の基礎・基本を基盤とした探究心、発想力や創造力、そして問題解決能力を持った人間を育てると同時に、規範意識や倫理観、他者の痛みを理解する優しさ、自然を愛する心、国や社会の問題を自分自身の問題として考え、そのために積極的に行動するという「公共心」を持ち、ならびに日本人であることの自覚や、郷土や国を愛し、誇りに思う心を兼ね備えた人間(人材)を育成すること」(p. 229)となります(これは中央教育審議会が2003年3月に提出した答申に基づいたものです)。そして、この人間像は中学校教科書の登場人物像と一致していると指摘します。そしてそのための模範的なコミュニケーションが教科書で展開されているコミュニケーションということになるようです。著者は「登場人物の規範的な「善意・善行」の背後には、それに隠蔽された形で、国家戦略としての新自由主義・国家主義のイデオロギーが「コミュニケーションの原動力」として、いわば潜伏している」(p. 229)と述べていました。また、教科書においてはこのような価値観を日本人以外の登場人物が同じく持っているという世界観を生み出しているとも指摘してありました(p. 230)。文化に関しては、態度や価値観など個人の内面や制度には抵触しない形で提示されていること、「登場人物には「自文化」に対する特権的な所有権が与えられる一方、それ以外の文化に関しては「鑑賞者」という外在的な立場しか与えられていない」(p.232)という指摘、もされていました。

この章もとても勉強になりました。中学校の教科書という(つい最近では特に言われることですが)平凡な文章の中にある政治性が明快に暴かれており、とても興味を持ちました。そして、それが国家戦略と密接に結びついていることも明快に示してありました。著者は、最後の章で本論文の限界も指摘しています。CDAを行う場合に気をつけなければならない重要な指摘だと思いました。

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2010年9月17日 (金)

綾部保志(2009).「戦後日本のマクロ社会的英語教育文化:学習指導要領と社会構造を中心に」を読む(綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』,ひつじ書房)

本論文の詳細は次の通り。

綾部保志(2009).「戦後日本のマクロ社会的英語教育文化:学習指導要領と社会構造を中心に」.In 綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』(pp. 87-193).ひつじ書房.

感想:この論文では、戦後の英語教育がよりマクロな社会的コンテクストの中で影響を受けながら変化してきたということが示されていました。非常に大著で、密度も濃く、ミクロなことばかり考えている私にはとても勉強になりました。この論文では、Kachru (1992) の枠組みで言うところの「拡大する円」に日本が存在するということを指摘することから議論が始まっていました。そして、日本の英語教育を、戦後復興期(1945~1954)、高度経済成長期(1955~1973)、移行期(1974~1989)、社会構造転換期(1990年以降)、の4期に分け、それぞれの時期における英語教育がいかにその時代の社会情勢に左右されてきたかが丁寧な資料分析の上に展開されていました。

詳しい要約は避けますが、私が特に面白いと思った点を時期ごとに指摘していきたいと思います。まず、戦後復興期ですが、50年代前半までの教育政策の箇所では、児童のリテラシー能力向上と学習負担の軽減を議論した表示改革(「ローマ字」国字化の議論や漢字の表記法修正の議論)(p. 98)がとても面白かったです。1947年の学習指導要領については、文言上の「生徒中心主義」(その背後には戦前と同一の科学的言語観(オーラル・メソッドなど)や標準語一元化的思想があった)、文学・読解中心から音声面重視への変化、が面白いと思いました。著者は、「戦前の反省に立ち、文学教育・読解中心から音声面重視へと切り換え、自由と民主主義の象徴であるアメリカ・モデルの英語教科書を用いて、豊かな経済力がもたらす生活水準向上の夢を、国民全体に植え付けようとしたことが、戦前の教育政策の変更点である。・・・この指導要領の特徴は、戦前の思考の延長上にある教育観の上に、新たなアメリカ的自由主義と民主主義を接合させた結果であると思われる。」(p. 101)と述べていました。戦後初めて日本人の手で作成された1951年の学習指導要領に関しては、人格修養を目指した教養主義が戦前と形を変えて再登場したこと(以前の教養とは英文学であったが、この時代には英語国民(アメリカ人)を知ること、となった)、そしてその教養が実用と統合したこと、アメリカ国民の民主主義を学習することが大切だと考えられたこと(当時の冷戦などの影響による)、ローマ字が国語教育に九州されたこと、が面白いと思いました。終戦後の英語会話については、英語会話に陽気なイメージが付与されてその後の国際行事や消費文化と結びついていったこと、当用漢字が制定されたこと、が面白いと思いました。

次に高度経済成長期です。1956年の高等学校学習指導要領に関しては、産終戦後の自由主義が一変し、再度書記言語が重視され、教養主義・知識主義が高まったことが面白いと思いました。1958年中学校学習指導要領と1960年高等学校学習指導要領に関しては、中学校でも1956年の高等学校学習指導要領の影響で語彙と文法が重視されるようになったこと、高校では業界の複線化(エリートとそうでない人に分けること)に応ずるように英語が2科目に分化したこと、オーディオリンガリズムに影響を受けていること、が面白いと思いました。ただし、著者は、「この指導要領は、従来の内容を、より現代的に鮮明化・明瞭化する方向で改訂させただけで、基本的にその発想法に大きな変化は見られなかった。」(p. 110)と指摘しています(文部省の官僚主義の高まりによる教養主義の高まり、それによる教育や言語の標準化、など)。60年代の教育政策については、著者は産業界と教育の関係をもう少し詳しく述べていました。「60年代初頭に政府や文部省、財界が打ち出した教育理念は、何にも増して「産業化」(industrialization)に寄与する人材養成であり、メリトクラシー(meritocracy)を徹底させ、ハイ・タレントを早期発見し、教育投資を注ぎ込むことであった。その価値のない者には、多様なコースを用意し、能力に見合う教育を施し、愛国心や社会規範を備えた「期待される人間像」に近づけようとした。」(pp. 113-114)このような教育政策を可能にしたのは、50年代後半からの教育制度の中央集権化が原因であると著者は指摘していました。1969年の中学校学習指導要領と1970年の高等学校学習指導要領に関しては、国際理解が英語科の目標となったこと、指導要領の文言で主体が教師から学習者に移ったこと、学習者自らが積極的に活動を行なうことが重視されたこと(文法は影を潜めた)、言語材料削減の流れが出来たこと、教科書内に日本や日本人が割合が少ないながらも全ての教科書に登場していること(ただし、設定場所は中心的登場人物はやはりアメリカ(人)である)、教科書内に非英語圏(アフリカ)が登場していること、帰国子女教育の目的が海外での経験を早く忘れて日本にいち早く適応することであったこと、が面白かったです。アフリカが教科書に登場していることに関して、著者は、「経済大国日本の自信回復や海外への経済進出により、対照的な境遇にある、途上国への眼差しが芽生えた」(p. 116)のではないかと指摘しています。ですが、この時期の日本は依然として「アメリカ追従の「自文化中心主義」」(p. 116)がかなり強かったのではないかと述べられていました。60年代に世間一般で展開された英会話現象については、学校で受験英語が盛んになるのに対して、英会話の放送が充実していったののと海外渡航が増えたことで第2次英語ブームが到来したこと、英検が出来たこと、通訳が職業として成立したこと、日本語に外来語が多く含まれるようになったこと、が面白いと思いました。世間では「生きた英語」が浸透していったそうです。

次は、私が教育を受けた移行期についてです。1977年の中学校学習指導要領と1978年の高等学校学習指導要領については、国際理解教育の推進、コミュニケーションの手段として外国語能力を培う必要性が大々的に謳われたこと、受験英語を害悪と考えて言語材料と授業時数が大幅に精選・削減されたこと、教科書内で日本人の主人公が多く登場するようになったこと(彼らがアメリカを舞台に活躍する題材が増えたこと)、英米以外の英語圏(カナダ、オーストラリア)や第3世界(アジア、中南米)が登場したこと、コミュニケーション能力が重視され始めること(オーディオリンガルやシチュエーショナル・ランゲージ・ティーチングが衰退し、概念/機能シラバス、CLTに注目が移ったこと)、英語教育大論争において「(1)東京五輪・アポロ月面着陸・大阪万博など一連の国際化の進展や、海外旅行の大衆化やメディア・出版物により世間一般に広く流布した英会話と、(2) 戦後の経済復興・科学技術振興の下で展開し、(明治後期から大正期にかけて確立した)受験英語に見られる、書きことばに言語教育規範性を置く教養主義、これら両者の対峙の様相を呈していた」(p. 125)こと、が面白いと思いました。英語教育大論争に関係づけながら、著者はこの時期のことについて「書きことばを重視する保守的・伝統的体質を堅持する学校の英語教育課程を、メディアの発達や国際交流によって拡散した、現代的な話しことばを軸として、抜本的に改革する試みが発案された」(p. 125)と指摘していました。80年代の教育政策については、人間主義的なゆとりを教育理念に掲げたこと(ただし、その内実は学習内容を大幅に削減しただけ)、生涯教育から生涯学習と呼び名が変わったこと、言語教育の主潮が合理主義や認知心理学から構築主義へと比重が変化したこと、強い個人の育成が謳われたこと、が面白かったです。1989年の学習指導要領については、口頭英語・日常会話・情意・実用的価値に重きが置かれたこと、発信型教育が重視されたこと、中学校の教科書では挨拶など対面的で平板化した日常会話が一般化したこと、「自己と異なる他者との相互理解・共存共生・関係性構築のための」(p. 130)言語習得という考えがされるようになったこと(従来は外国文化を理解するための言語習得だった)、帰国子女として日本語を学習する人の数が増加したこと(これにより国語教育よりも日本語教育の重要性が高まった)、が面白いと思いました。最後に、大量生産型英会話に関しては、70年代後半以降多様な英会話学校が乱立したこと、英会話が学校スタイルから脱して娯楽化したこと(レジャー要素が多く取り込まれるようになったこと)、TOEICとTOEFLが始まったこと、共同言語学習・内容中心的アプローチ・タスク中心指導法が重視されるようになったこと、通訳産業が発達したこと、海外留学が増えたこと(日常会話程度の簡単な英語力を備えた人々が増加した)、が面白いと思いました。TOEICとTOEFLに関しては、「人間の一元的能力による選別試験は、受験英語や偏差値と同様に、日本では激しい批判に晒されていたにも関わらず、TOEICなどの輸入型試験は、排他的な選別的正確が覆い隠されて、一躍脚光を浴びながら徐々に信頼性(reliability)を獲得していく」(p. 133)という指摘が面白いと思いました。また、英会話学校の乱立に関して、「多様な学習者のニーズに適応するため、コミュニカティヴな授業を売りに展開したが、その中身kは学習者を「主人公」に仕立て上げ、自由な会話を楽しませる即時充足的な授業が主に行なわれた」(p. 135)という指摘がとても面白いと思いました。著者は、この時代の英語学習について、「メディアなどが創出する仮想現実世界の消費者(学習者)像とも近似していた」(p. 135)と述べていました。

次は社会構造転換期です。90年代以降の教育政策については、ゆとり教育と強い個人の合体像である「生きる力」が標榜されたこと、総合的な学習の時間の設置、個性重視の転換の加速、ゆとり教育が学力低下に起因しているという論調の登場、人間主義と新自由主義を是正しようという動きが出てきたこと、個人の規範や価値観が多様化する一方で国家が規範とする枠組みから外れる者に対して囲い込みを行おうとする新国家主義の台頭、が指摘してありました。1998年の学習指導要領については、ゆとりの中で生きる力を育てること、教育内容の厳選、授業時間と高等学校の卒業単位数の縮減、総合的な学習の時間の創設、必修語彙数が100語と減少したことで特色ある教科書編纂が可能となったこと、中学で外国語が必修化されて原則として英語学習が義務づけられたこと、聞くことと話すことのみを特別扱いしていること、中学では少ない語彙での平凡なやりとりが中心的学習内容となったこと、口語を重視していること、センター試験にリスニングが導入されたこと、国際理解は総合的な学習の時間に吸収されたこと、が指摘してありました。また、地球語としての英語が強調されたにもかかわらず、「日本の言語政策は、逸脱を許さない標準英語教育のみに特化した」(p. 141)一元的な英語教育が展開されたこと(「標準英語による「実践的なコミュニケーション能力」の育成」(p. 142))、は特に興味深かったです。次に、第3次英語ブームについてです。「「実践的なコミュニケーション能力育成」という限られた範囲の中に、現代のポスト・フォーディズム体制が投影され、それまで国内の教科書会社や学校、教員などに制限を加えていた規制が緩和(deregulation)され、民営化(privatization)や市場化(marketization)が進み、それぞれが独自性や優越性を求めて、熾烈な自由競争を行っている。この傾向は、…小学生や幼児といった、これまで英語学習とはあまり関係のなかった層までをも巻き込む様相を呈していく」(p. 143)という指摘がとても興味深かったです。ここでは、イマージョン・プログラム、セルハイ、小学校での英語活動、これによる早期英語教育ブームが第3次英語ブームを生み出したと述べられていました。そして、幼稚園や保育園にも影響が及んでいるそうです。この時代は、英語教育と大衆の英語文化に歩み寄りをした時代であると同時に、早期英語ブームは0才児までをも巻き込み、早期英語教育を受けた者とそうでない者という言語能力格差を生み出していると述べられていました。

最後のセクションでは、英語教育の変遷を政治、経済、メディアとより明確に関係付けながら議論がされています。このセクションでは、これまでの議論が整理され、しかも図表にまとめてまるので復習に役立ちます。また、ここで議論に出てきた3つの教職観(聖職者論、労働者論、専門職論)も面白かったです。医療・保険の変化と英語教育の変化に見られる平行性、英語ブームについてのまとめ(戦後間もない頃には、豊かな生活を謳歌するアメリカと彼らの言語への強い憧れから生じた第一次英語ブーム、高度成長期において海外旅行や英会話学校の普及で英語に直接接触することが可能となったことにより生じた第2次英語ブーム、高度な英語力をつけることができなかった親がその夢を子供に託した第3次英語ブーム(早期英語教育ブーム))、「こうして、大衆が戦後から描いてきた「使える英語」への夢と憧れは、現在、文科省を軸とする「中央」により、前面に押し出されている。かつて近代化の課程で行われてきた「受験英語」、「文法訳読」、「言語材料」など、「使えない英語」に繋がった過去の遺物を早期に取り除き、「改革すべき悪・敵」とみなすことで、大衆を国家の「味方」につけて、下意上達を装いながら、実際には上意下達的に、脱標準化政策を標準化させようとしている」(p. 158, emphasis in original)、という指摘もとても興味深かったです。

結論部分では、著者は言語教育の目標が日常生活の口語に置かれすぎることに危惧を示していました。「社会変革や社会操作をできるような(メタ・レヴェルの)高度な言語認識能力ではなく、消費者活動や単純労働など、実生活で反復的に生じる出来事を乗り切るための、最低限度の(低度で平均的な)言語認識能力しか習得できない(あるいはそれに甘んじる)ことが懸念される」(p. 161)と指摘しています。とても大切な点ですね。著者は今後は読解力向上に重きが置かれるように教育がシフトしていくのではないかという予想も立てていました(p. 139)。

この論文では、英語教育がいかにその時代の社会構造に影響を受けているのか、そしてその構造の中で営まれているのか、をとてもよく理解できます。特に、経済や政治、メディアの影響がとてもよくわかりました。英語教育史をより大きな視点から学ぶことができ、とてもよかったです。とても勉強になりました。何度も読み返したいと思います。

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2010年9月 6日 (月)

小山亘・綾部保志(2009).「社会文化コミュニケーション、文法、英語教育:現代言語人類学と記号論の射程」を読む(綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』,ひつじ書房)

本論文の詳細は次の通り。

小山亘・綾部保志(2009).「社会文化コミュニケーション、文法、英語教育:現代言語人類学と記号論の射程」.In 綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』(pp. 9-85).ひつじ書房.

感想:本書の第1章です。著者は、コミュニケーションというものを言語人類学の観点から定義していきます。その際、サイバネティクス・意味論的なコミュニケーションモデル(Shannon & Weaverのモデル)、Jakobson・プラハ構造主義のコミュニケーションモデル、出来事モデル、の3つを順序提示し、出来事モデルこそが重要なモデルであるということが示されています。

出来事モデルは、前提的指標(これが一般に適切さに関連します)と創出的指標(効果に関連します)という次元、「言うこと」と「すること」という次元、そしてテクスト化とコンテクスト化という次元を中軸として構成されているそうです(pp. 28-29)。そして、このモデルはオリゴという「今・この場所」を中心として構成されています。詳しい説明は本書(pp. 29-42)をご参照下さい。

次に、本書では言語人類学の歴史について簡単に触れてありました。この分野はBoasによって始められ、弟子のSapirによって受け継がれ、現在へと至るそうで、その歴史は100年ほどになります。「言語人類学を一貫して構成してきたテーマは、文法に典型的に見られるような規則的現象と、他方、出来事に典型的に見られるような個別的、コンテクスト化された現象、これら両者を接合するような包括的枠組みを模索、構築すること」(p. 43)になるそうです。そして、言語人類学が想定する普遍文法には、名詞句階層、名詞句階層を基礎とする言及指示継続の階層、述語句・節の階層、述語句・節の階層を基礎とする節結合の階層、の4つがあり、これらについて順次解説がなされていました。また、これらとあわせて社会的言語行為の階層についても説明されていました。これらは、いずれもオリゴを中心とし、より指標性が高いものから低いもの(象徴性が低いものから高いもの)へと階層をなしており、それらについて詳しく解説がなされています。そして、それらが見事に理論的にも調和しており、また様々な言語現象をうまく説明することができていたので、とても面白かったです。文法という象徴性が高い現象をこのようにコミュニケーションという観点から既述することによって、コミュニケーションと文法という対立が解消されています。

著者は最後に言語教育について述べています。ここでは、出来事モデルに基づいて英語教育を展開することが有益であるということが述べてありました。しかし、そのことを行なうために具体的にどうするのかということは、あまり述べてありませんでした。この章は理論編なので仕方がないのかもしれませんが、私としては、これまでの理論に基づいて英語教育という現象を詳しく語って欲しかったと思いました。

とは言え、この章は大変勉強になりました。著者の広い知識とそれを統合しようという試みには感服します。私は、言語人類学について直接勉強したことはありませんで、せいぜいBoasに関する文献を読んだり、社会言語学や(批判的)談話分析関係の文献を読んだだけですので、議論を整理することができました。この章は、言語学一般、言語学史、社会言語学、文法論などの基本的知識がないと正直なかなか読みきることは難しいかもしれません。本書の最初の部分でも難しいかもしれないということが述べてありました(笑)。ちなみに、本論文でしばしば言及されているSilversteinやJakobsonの弟子にあたるそうです。知りませんでした。。。

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綾部保志(2009).「英語教育と教育現場の限界性と可能性」を読む(綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』,ひつじ書房)

この文献の詳細は以下の通り。

綾部保志(2009).「英語教育と教育現場の限界性と可能性」.In 綾部保志(編),『言語人類学から見た英語教育』(pp. 1-8).ひつじ書房.

感想:本章は、この本の序章で、本書の狙いや意義、目的などについて大まかに述べてありました。本書は、主に「科学的でありながらも、実践的な学問体系」(p. 5)である言語人類学に考えに基づき、英語教育という現象について考察を深めることが目的とされています。とても楽しみです。

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2010年9月 1日 (水)

佐藤千登勢(1997).「ヴィクトル・シクロフスキイの『大尉の娘』論について-形式主義的方法と社会学的方法の融合:1966年の論考を基に-」を読む(『早稲田大学大学院文学研究科紀要』)

この論文の詳細は次の通り。

佐藤千登勢(1997).「ヴィクトル・シクロフスキイの『大尉の娘』論について-形式主義的方法と社会学的方法の融合:1966年の論考を基に-」.『早稲田大学大学院文学研究科紀要』(第2分冊 英文学・フランス文学・ドイツ文学・ロシヤ文学),43,117-126.

感想:この論文では、シクロフスキイの『大尉の娘』論の中で形式主義的方法と社会学的(マルクス主義的)方法が融合していることが指摘してありました。私は、スターリン主義によってシクロフスキイが社会学的方法へとシフトをした以降については全く勉強しておらず、この論文を読んでとても勉強になりました。彼は、当時比較的検閲が緩やかであったという児童文学と歴史小説の研究に着手することになり、プーシキンの『大尉の娘』を分析するに至ったそうです。それ以来、半世紀にわたって、彼はこの作品を扱ったとのことでした。ちなみに、著者は、1953年に出版された論考において、「伝記的資料の調査と草稿の比較に依拠しつつ試みる社会学的方法が打ち出されているが、そこには形式主義的方法が依然として混在している」(p. 118)、「シクロフスキイの編み出した独自の社会学的方法、厳密に言えば「形式的社会学的方法」は、社会主義のイデオロギー礼賛の道具に堕していない」(p. 118)と指摘してありました。ちなみに、ここで言う社会学的方法とは、「文学作品を社会的環境(この場合、60年代のソ連社会)に置き、社会的テーマやメッセージを読み取る方法論」(p. 119)という意味だそうです。また、著者が指摘する形式主義的社会学的方法については、「形式主義的な視点から論じた後、なんらかの社会学的な思考で形式主義を包み込むように作為的に並列させて方法論の融合を図っている、ということだ。そしてこの形式主義と社会学的思考の並列は対をなして随所にあらわれるため、全体の論述形式から見ると、2つの方法が交互に顔を出して相克しつつも融合している印象を与える。」(p. 121)と説明していました。また、場所によっては、この作品は形式と内容が密接に関係しているため、その結果として必然的に2つの方法が融合している箇所も多いと指摘しています。したがって、著者は、「「形式主義的方法と社会学的思考の並列による作為的な融合」(p. 123)と「形式と内容の表裏一体性を生かした自動的な2つの方法論の融合」(p. 123)を区別していました。

シクロフスキイが分析する以前は、『大尉の娘』はリアリズムの礎とみなされていたそうで、典型的な歴史小説という評価だったそうです。これに対して、シクロフスキイがこの作品が歴史小説の伝統をいかに破っているか、事実の歪曲や虚構化がいかに行なわれているか、ということを分析を通して明るみに出したということで、私としてはシクロフスキイの形式主義的方法が1960年頃にも生きていたことを知ることができました。ロシア・フォルマリズム以降のシクロフスキイについて概括的に述べてある論文は、私が知る限りではあまり数は多くないので、とても貴重な論文であると思いました。勉強になりました。

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