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2010年3月29日 (月)

F.Boers&M.Demecheleer(1998).「A Cognitive Semantic Approach to Teaching Prepositions」を読む(『English Language Teaching Journal』)

この論文の詳細は次の通り。

Boers, F., & Demecheleer, M. (1998). A cognitive semantic approach to teaching prepositions. English Language Teaching Journal, 52 (3), 197-204.

感想:認知言語学の知見を外国語教育へ応用する初期の論文です。前置詞を持つ言語同士であっても、認知言語学的には共通する側面もあれば異なる側面もあります。特に後者については負の転移の原因になってしまい、外国語学習者は苦労します。この論文では、特にbehindとbeyondを取り上げ、これらの前置詞に関して負の転移を回避し、また、それぞれの前置詞の比喩的拡張の理解を促すような方法が提案されています。

著者らはまず、空間的意味は体系的な様式で中心的な意味から拡張されること、比喩的な意味は概念メタファーを通して空間的な意味から拡張されること、の2点を強調します。そして、例文を引用しながら、改めてこれらのことを確認していました。実際に認知意味論的な説明によってフランス人英語学習者がこれらの前置詞の理解が促されたことも実験によって示されていました。著者らは前置詞を認知意味論的に考えることによって、学習者が理解でつまずく点が予測できること(学習者の母国語と目標言語で前置詞を認知意味論的に分析すれば、どの側面がどちらの言語に欠けているのかということを予測することができます)、多義語の理解を促すことができること、の2点において教育学的貢献が期待できると述べられていました。

現在では認知言語学の知見を外国語教育に応用するという試みはたくさんされているので、今となっては特に斬新な点は見当たらないのですが、面白い例文が引いてあるので、読んでいてとても楽しかったです。

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菊池武弘(1973).「言語学と詩学のあいだ-言語学的詩学の可能性-」を読む(『Aspekt:立教大学ドイツ文学科論集』)

この論文の詳細は以下の通り。

菊池武弘(1973).「言語学と詩学のあいだ-言語学的詩学の可能性-」.『Aspekt:立教大学ドイツ文学科論集』,7,1-22.

感想:文学の経験的研究やドイツの語学的詩学を勉強するときに、よく参照させていただいている先生の論文です。この論文では、1963年頃から1973年までに提出された、言語学的詩学をレビューし、その問題点を指摘することを目的として執筆されています。主に4つの考えが紹介してあるのですが、最初の2つについては問題点が指摘され、最後の2つについては今後の発展の期待を込めた紹介という形になっているように思いました。

まず、詩の文法という考え方についてです。これは生成文法の考えをモデルとしています。これは、詩では「文法」は作品の一部しか生成できないということを重視し、詩を生成するための文法が必要であるとする考え方です。しかし、この考え方では、詩の文法の中に次々と規則を導入する必要が出てくるため、言語の文法をモデルとして詩の文法を作り上げるのは不可能であると述べられていました。

次は詩的能力という考え方についてです。これも生成文法の考えをモデルとしたものです。M. Bierwischの議論がレビューされています。しかしながら、このモデルには多くの課題が残っており、詩的能力という概念は挫折せざるをえないと述べられていました。

3つ目は、「詩の言語」なるものを明らかにしようという試みについてです。ここでは、S. J. Schmidtが60年代に行なっていた、テクスト言語学的な研究が紹介されています。K. Baumgärtner (1969)が指摘しているように、「詩的なものが詩的であるとみとめられるのは状況による。「あるテクストが社会的に詩として受けいれられている一般的事実」が働いている」(p. 11)という点を認めた上で、Schmidtは日常言語と詩の言語には次の4つの示唆的特徴を確認することができると述べています。それらは、情報性、間主体性、実用性、意味論の領域での余剰性、です。これら4つは詩の言語よりも日常言語において優勢になると考えられています。

4つ目は、詩的コミュニケーションという考え方についてです。R. Posnerの研究が紹介されています。一般に、美的コミュニケーションにおいては美的コードが帰納していると考えられています。「美的コードと他のコードのちがいは、それがほかの記号体系の知識を前提とすることにある」(p. 17)そうです。

後者2つの考えは、文学の経験的研究の基本的な考え方に大きく関係しています。著者自身は、言語学的詩学は、当時の段階では詩性を明らかにするにはほど遠い状況にあると述べています。しかしながら、3つ目と4つ目の文学の経験的研究の考え方には大きな期待を頂いているように感じました。また、1つ目と2つ目の考え方について改めて読んでみて、1960年代に文学研究が生成文法にかけた期待の大きさを強く感じました。

この論文では、M. Bierwischの考え方とテクスト言語学時代のS. J. Schmidtの考えが整理してあるので、とても貴重だと思いました。前者は、英語の論文が出ており、私自身もかつて読んだことがあるのですが、後者は日本語ないし英語ではなかなか知ることができない考えなので、とてもありがたいと思いました。ちなみに、Bierwischの論文は以下の通り。

Bierwisch, M. (1970). Poetics and linguistics (P. H. Salus, Trans.). In D. C. Freeman (Ed.), Linguistics and literary style (pp. 96-115). New York: Holt, Rinehart, & Winston. (Original work published 1965)

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2010年3月26日 (金)

S.J.Schmidt(1976).「Towards a Pragmatic Interpretation of 'Fictionality'」を読む(T.A.van Dijk(編),『Pragmatics of Language and Literature』,American Elsevier)

この論文の詳細は以下の通り。

Schmidt, S. J. (1976). Towards a pragmatic interpretation of 'fictionality'. In T. A. van Dijk (Ed.), Pragmatics of language and literature (pp. 161-178). Amsterdam: North-Holland/ New York: American Elsevier.

感想:文学の経験的研究の初期の論文です。この論文では、文学における虚構性を語用論的に定義しようという試みがなされています。先に結論を述べておくと、この論文では、虚構性は文学テクストの指示内容を現実世界から乖離させる語用論的な慣習とでもなると思います。以下に示すように、文学コミュニケーションと虚構性は表裏一体の関係にあります。

この前段階として、著者は意味論的に虚構性を規定しようと試みます。具体的には、真理値という観点から文学の虚構性を見て行きます。著者はFregeの議論に基づきながら、文学的テクストは指示をするのではなく、指示をしているように見えるという点を強調します。次に、文学を様相論理学における意味論的に規定を試みます。テクストをT(i)、世界をW(i)、世界の体系をW(i)(1)・・・W(i)(n)、我々の現実世界をEWとします。すると、このテキストの文pが真であるとは、次の2通りのパターンが考えられます。1つはpが時点t(x)でのW(i)において真であること、もう一つはpがt(x)においてW(i)かつEWにおいて真であること、です。科学的なテクストにおいては後者のパターンが取られ、文学においては前者のパターンが取られるようです。さて、この意味論的規定(伝統的な立場)について、次のように著者はまとめています。"... I tried to formulate from Frege's theory a rule of 'adequate' reception of literary texts saying that their assertive sentences do not have to be judged according to the referential truth of their assertions; on the contrary their reference (in Frege's sense of 'Bedeutung') is of no imporatnce at all. Speaking in terms of our modal logic that would mean that, as far as the semantic level is concerned, readers of literary texts are not demanded o primarily refer W(l)(i) (W(l)(i) = world or world system constituted by literary texts) to EW at t(x) on the semantic level but to regard W(l)(i) as a world in its own right, as an 'aesthetically valuable' literary world (a concept known to be the traditional topic of the autonomy of literary works of art)." (p. 165, emphasis in original)

しかし、このように意味論的に文学テクストを規定したとしても、読者が文学として受容しなければなりませんし、結局テキストだけでものごとを規定しようとしても無理が生じます。そこで著者は次のように述べます。"But I think (with the exception of obviously 'deviant' texts) that the isolated text alone cannot motivate readers to treat texts, presented to them as 'literary' ones, as if they only contained sentences which are regarded as being neither true not false, and with no direct referentiability to EW at tha time of text reception; it must be the literary communication as a system of norms (for the production, reception, and interpretation of texts) including the intentions and expectations of an author, text features, the training by social institutions, and the expectations and habity of readers together, that bring about this phenomenon." (pp. 170-171, emphasis in original)。そして、文学においてはEWとの関係を断ち切るという習慣は西欧文化においては歴史的に確立された慣例であると著者は述べます(ちなみに、このような習慣がなぜ確立したのかという点は文学史にとってとても重要な研究であると著者は考えており、おそらく支配者集団の政治的利害と密接に関わっているのではないかと著者は述べています。その理由は、"The reason is that suspension of direct relating W(l)(i)s to the EW of a special time opens, on the one hand, ranges of a ceratin freedom and autonomy for literature, but on the other hand renders impossible a direct influence of literature on social and political processes - the well known problem of the conflict between the autonomy and inefficiency of art in general." (p. 172))。そこで、著者は文学的コミュニケーションは、以下のような慣習によって規制されていると指摘します。

"Rule 1: If you want to read a literary text adequately your predominant task is not to evaluate its referrable parts according to truth-functional categories in the referential framework of EW at the time of the reception, but rather according to categories like 'new', 'interesting', 'exciting', 'stringent', etc." (pp. 171-172, emphasis in original)

次に、読者はたえずテクストの内容を自分の住んでいる世界と対応付けながら読むことが可能であるにもかかわらず、文学においてテクスト内の指示を現実世界のそれとして判断することを停止するのはなぜか、ということについて議論がされています。そこで、著者は文学教育の過程で、次のような規則が読者の中に確立していると指摘します。

"Rule 2: If a text belongs to the class of 'literary' texts, consider the W(l)(i) built up by it as an 'autonomous' world; look at how the text is formally (stilistically) constructed; evaluate its quality by comparing it to other contemporary texts, and them place it into the literary development so as to decide whether i is innovative, interesting, etc. By this I mean: regard and evaluate the literary text in the framework of the closed universe of literary texts which constitute the present national, European, or world literature and which for their adequate reception demand observance of Rule 1 suspending a direct relation of W(L9(i) to the EW of ther reader (= suspension of reference). Observance of Rule 2 only allows to compare the universe of literary texts(+ correlatable worlds), processed in an adequate way (cf. Rule 2), with EW, that is, to discuss the role/funcion of literary communication as a complex institutionalized subsystem of social communication and, in this context, to discuss the social frunction of producing, understanding and evaluating fictive worlds by literary texts" (p. 174, emphasis in original)

そして、このような語用論的な観点から文学を規定することによって、様々な文学運動なおしは文学流派を記述することができます。

"(a) idealistic theories which postulate an absolute antonomy of literary works of art cut short the direct referential relation between W(i) and EW without denying the accessability of W(l)(i) from EW;

(b) marxist theories of 'Widerspiegelung' regard W(l)(i) as a more or less true and politically accentuated description of state of affairs in EW at t(i);

(c) representatives of a 'negative aesthetics' regard W(l)(i) as a negation of the odd EW or as a better alternative to EW;

(d) poiësis-theories suggest treating the production or W(l)(i)'s as a complicated process of inventing all possible sorts of possible worlds with all sorts of relations between W(l)(i)'s and EW in in order to widen the scope of imagination and find out alternatives to EW or parts of it;

(e) concrete and concept artists try to show the rules and elements of world constitution as such; they present the means and 'language' instead of 'contents"." (pp. 174-175, emphasis in original)

それぞれ、(a)文学の自律性の主張、(b)マルクス主義における反映論、(c)否定美学、8d)ポイエーシスの理論、(e)具象詩のことについて述べられています。

以上述べてきた内容について、虚構性ということを前面に押し出し、次のように要約がなされていました。"'fictionality marks a decisive characteristic of a socially institutionalized sort of discourse, respectively a subsystem, of social communications (viz. literary communication). (改行)'Fictionality' is the name for a special sustem of pragmatic rules which prescribe how readers have to treat the possible relations of W(l)(i)'s to EW in comprehending literary texts so as to treat them adequately according to historically developed norms in he system of literary communication. (改行)Fictionality is thus not a property of a literary texts itself" (p. 175, emphasis in original) また、著者は文学的コミュニケーションを博物館に喩えます。"Thus literary communiation proves to be an institution like a museum: it is a special context with strict rules of evaluation. Anything that enters this special context of 'art' (in the widest sense) looses all attributes and functions it normally possesses: stone lose their existence as stones, bicycles or aeroplanes lose their pragmatic functions, words and sentences lose their expected referential (EW-respective) force; ionstead of this they are suspiciously observed as to their possibloe art qualities." (p. 176)

また、文学はより広くは芸術の一部になります。そして、虚構性は実はあらゆる芸術の意味論的過程を規制する原理として機能していると言えます。著者は、そこで新たに次の規則を提示していました。

"Rule 0: Never jump out of the art context immediately! That means, if you read a text that belongs to this art context, observe Rules 1 and 2 above, i.e. relate the literary text to the context of literary communication. Do not primarily ask whether the text is true or false in EW, or whether a thing presented as art work in this context is useful or useless. Instead, evaluate it as a potentially autonomopus work, a work of art which can only be adequately received if and when the reader obeys the rule of fictional disrourse/communication according to which literary texts do not deal with facts but constitute possible worlds aumoored from reality of the type EW." (pp. 176-177, emphasis in original)

このようにW(l)(i)の虚構化とは美学的コミュニケーションの文化的伝統として強く確立されています。しかしながら、最近ではこの指示に関する伝統を変えようという試みもなされているそうです(社会参加の文学、詩の死の理論、具象詩、社会主義リアリズム、アヴァンギャルド芸術など)。これらが成功するかどうかは、まだ分からないとのことでした。

この論文では、誤字脱字や綴りミスがかなりあります。このブログでは、論文に忠実にミスのある箇所はそのまま訂正せずに引用しました。この論文には和訳もありますので、以下の和訳も参考にするとより理解が深まるのではないかと思います。実際、私も和訳論文も参考にしています。非常に分かりやい、優れた和訳だと思いました。

シュミット,S.J.(1978).「「虚構性」の実用論的解釈のために」(宗宮好和・宗宮喜代子(訳)).『エネルゲイア』,5,54-69.(原著は1976年出版)

様相論理学が苦手な人には少しつらい論文かもしれませんが、文学にとって虚構とは何なのかということについて一つの考えを知ることができるので、とても面白い論文だと思います。

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2010年3月23日 (火)

金谷憲(2008).『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』を読む(研究社)

この本の詳細は以下の通り。

金谷憲(2008).『英語教育熱 過熱心理を常識で冷ます』.研究社.

感想:大変面白いエッセーでした。英語教育に関してはついつい常識的には考えられないような主張がなされることが多いのですが、そのことを冷静に考え直させる機会を読者に与えてくれます。主に3つのパートに分かれており、最初の箇所では英語教育に関する過熱的主張が扱われています。2つ目のパートでは、なぜそのように過剰に過熱した主張がなされるのか、その原因について述べられています。最後の箇所では、英語教育に関しての提言がなされています。英語教育については冷静な視点をもって考察していく必要があるということを改めて思い出させてくれる大変重要な本だと思いました。

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2010年3月19日 (金)

林和夫(1968).「フランス語文体論の源流」を読む(『大阪大学教養部研究集録:外国語・外国文学』)

この論文の詳細は以下の通り。

林和夫(1968).「フランス語文体論の源流」.『大阪大学教養部研究集録:外国語・外国文学』,16 (4),1-18.

感想:なかなか難解な論文でした。本論文では、著者がR. L. WagnerのGrammaire et Philologie, fasc. I (1953)の文体論に関する箇所(p. 98~p. 106)を翻訳し、その後著者の考えを述べるという形で構成されています。

まずは翻訳の箇所からです。Wagnerは、「文体」という概念の変遷を述べています。文体は最初は「~~の書き方」(証書の書き方など公証人の文体)のような職業的文体であったそうです。しかし、これが文学作品の中で真似られ、利用されたそうです。文学の中では文体はジャンルと特に結びついていなかったそうですが、「さまざまな文学形式の自律性という思想がはっきりしてくるにつれ、徐々に文体は詩人が彼の詩の叙事詩、叙情詩、教訓詩、または諷刺詩的性格を、それによって、それぞれ強調するところの言語のあらゆる特徴を指し示すようになった」(p. 4)と述べられています。文体は古典時代にこういった形で発展が頂点に達したそうですが、ここから徐々に「作家が自分のものにしたテクニック、彼の芸術の最も独特な諸様相を意味することにな」(p. 4)りました。そして、ヴォルテールが定義するように、「言語の、取り扱われている主題への適合性の観念と、それに伴う作家の前にひらかれている選択の相関観念」(p. 4)という考え方が発展してきたと述べられていました。なお、Wagnerの本が執筆された当時には、これら2つの要素に加えて、作家の意識の及ばないところで既に形式の選択が行なわれているという考えが加わりました。

次にバイイの定義した文体論について説明がされています。バイイにとっては、「文体論は、言語活動における情意的事実の研究」(p. 5)になります。そして、言語は感情を表すものであるとされたので、「この意味で、文体論は、言語を構成する要素全体を、領域としてもつ」(p. 7, emphasis in original)ということになります。また、「文体論は常に、その研究を、時間的、空間的に限って、言語の一状態を対象としなければならない。この点で、それは、静態言語学につながる」(p. 7)ことになるとのことでした。特に、コンテクストから生じる表現価値や語順転換のメカニズム、語や形式がいかにして文章構造的統一体を構成するかという点、を研究対象とするようです。しかし、文体論はもはや何でも表すことができる、ある意味あまり役に立たない語になってしまった感もあるそうです。

次にマルウゾオ(J. Marouzeau)について述べてありました。彼は、バイイが考えた文体論と、古い修辞学に支えられている書く術である文体を対立させます。また、話者の選択という考えの上に文体論を構築しなければならないと考えました(ちなみに、バイイは文体論を選択というものの上に基礎づけることを認めていません)。マルウゾオは伝統的文体の考えの中で、話者の選択という考えに入るもののみを扱うことになったそうです。これに対してクレッソ(M. Cressot)は文体論の研究においては、表現の選択を支配する一般法則を明らかにすることと「フランス的表現とフランス的思考の諸関係を明らかにすること」(p. 12)をその目標としなければならないと考えました。前者に関しては特に問題はないのですが、後者のようにフランス的表現なるものからフランス的思考(国民の心的特質)を明るみに出すという研究は(ドイツ学派とも似ているものですが)、大きな問題があるとWagnerは考えているようです。

さて、ここからが著者の考えになります。バイイは文体論から文学的表現を排除しました(この論文ではこのことについてはあまり触れられてありませんでしたが)。これに対してクレッソは文学作品の言語も伝達行為の1つに過ぎないので(確かに他の場合よりも一層意思的かつ意識的ではあるが)、文体論の中で扱うべきであると考えています。しかし、クレッソは文学的文体の研究が最終目的なのではなくて、文学的文体も含めた上で、「表現の選択を規制する一般法則を規定すること」(p. 15)、そして、「フランス的表現とフランス的志向の関係を規定すること」(p. 15)が大切であると考えます。しかし、2点目については著者は「ゆきすぎ」と批判していました。

著者は文体論について、文学的フランス語の研究がクレッソやマルウゾウによって盛んになされているが、個人的文体の研究にならないように気をつけること、流行に流されすぎることなく学問の自律性を確立すること(一時統計学が流行したそうですが、当時は既に下火になっていたそうです)、が必要であると述べています。著者は、バイイの文体論は、文体論学者が必ず通らねばならない考えであり、情意的表現の研究は大切であるということを述べていました。

私はあまりフランス文体論の背景に詳しくないので、正直かなり読むのに骨が折れました。ですが、バイイの文体論とはどのようなものであったのかが、他の研究者との対照でより理解が深まったように思えます。とても面白かったです。

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2010年3月16日 (火)

津田葵(2001).『コミュニケーションの日米比較』を読む(大阪大学出版会)

本書の詳細は以下の通り。

津田葵(2001).『コミュニケーションの日米比較』.大阪大学出版会.

感想:本書は、基本的に談話分析の本でした。第一章でコミュニケーションという現象を考える上での理論が紹介してあり、グライスの協調の原理と会話の公理、発語行為論など、語用論に関する理論が扱われていました(他に談話標識なども扱われています)。第二章では、日本の訪問セールスにおけるセールスマンと主婦の会話が分析されていました。日本では、あくまでも自分の社会的役割に基づいて会話がなされている様子が明らかにされていました。第三章では、アメリカのデパートでの実演販売における、販売員と客の間のやり取りが分析されていました。アメリカでは日本の場合と違って、両者は台頭の立場に立った相互作用が行なわれていることが明らかにされていました。第四章では、復活祭の祝日にカトリック教会で行なわれる説教の構造の日米間の違いが分析されていました。日本での説教は、聖書の引用に基づいたテクスト依存的な説教がなされるのに対し、アメリカでは「よろこびとは何か」という問いかけから始まり、終始「よろこび」について語るという違いが明らかにされていました。また、アメリカでは司教の主観的な解釈もかなり盛り込まれていることも明らかにされていました(聖書に書かれていることを拡大的に解釈して語る傾向がある)。第五章は、大学の卒業式での学長の式辞の構造の違いが明らかにされていました。本書を通して、アメリカと日本での違いが最も明確に現われた分析ではないかと個人的に思いました。第6章はまとめです。国際コミュニケーション中心の時代になり、他者を認めることの重要性など、国際人として何が求められるのかということが議論されていました。大変面白かったです。

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2010年3月12日 (金)

舟阪晃(1982).「生成変形文法と文体論」を読む(『大阪外国語大学学報』)

この論文の詳細は以下の通り。

舟阪晃(1982).「生成変形文法と文体論」.『大阪外国語大学学報』,56,17-29.

感想:1982年時点での生成変形文法に基づいた文体論研究がわかりやすく整理してありました。著者はまず、人間には文体的直観があり「文体研究は、文体的直観の要因、特徴、機能等を、できるだけ形式的に、検証可能な方法で、考察しなければならない」(p. 18)こと、言語知識と言語運用を区別すること、「文体とは、可能な構造や規則の選択パタンである」(p. 18)こと、文体には少なくとも4つのレベルがあること(人間の認知能力から来る自然言語の文体、特定言語の文体、ジャンルなど集合文体、個人文体)、を確認します。そして、生成変形文法に基づいた文体論には、言語知識レベルで文体を捉えるアプローチと言語運用レベルで文体を捉えるアプローチがあるということを指摘していました。

まず言語知識レベルで文体を捉えるアプローチについてですが、主にGrinder and Elgin (1973)のモデルに基づいて議論が進められていました。このモデルでは、文体部門として変形部門Ⅱというものを設け、表層構造を入力として文学言語を出力とみなします。このアプローチでは、普通の発話と文学言語を区別し、普通の発話には文体はないと見なすそうです。文体規則については、Chomsky (1965)、Chomsky (1980)やChomsky and Lasnik (1977)などでもなされていますが、少し微妙な位置づけとなっているようです。また、Ross (1967)やKatz (1972)などでは文体部門のような明白な位置づけをすることなく議論を進めているそうです。著者は、Chomsky (1965)、Emonds (1976)、Banfield (1981)から文体的な条件を拾い集め、それらから文体規則を整理しています。その結果、「(i)すべて随意的である。(ii)表層構造を入力とし、出力の容認性を低下させる。(iii)文体規則で規定された文法関係、共起関係を維持する。一見維持されていないように見えても、正しく推測、決定が可能である。(iv)文法の枠組みの中では扱えない現象を扱う。」(p. 21)という4点に内容をまとめていました。そして文体規則の実例を見ていきます。その結果、本論文では、重複削除、技巧的削除、かきまぜ規則(ただし、条件付きではありますが)、の3つを文体規則として認めていました。その他の事柄(e. e. Cummingsの"he danced his did"のような文の場合、等位構造削除、など)についても検討されていますが、これらは文体規則の4つの条件を満たさないため、ここでは文体規則とみなさないという結論が下されていました。著者のまとめを示しておきます。「まず、言語知識に属る文体論では、文体部門が設定され、その中に可能な規則の一つとして文体規則がおかれる。本稿では、重複削除、技巧的削除、条件付で、かきまぜ規則が、それぞれ文体規則と認められた。ただし、これらの規則は、いづれも可能な規則の一つにすぎないのであって、それが選択使用されるかされないかは、言語運用の問題である。」(p. 29)

次は言語運用に文体を位置づけるアプローチについてです。このブログでも以前レビューしましたが、Ohman (1964)がこの種の研究の最初のものであり、主にOhman (1964)に基づいて議論が進められています。しかしながら、生成文法の理論的枠組みが変化しているため、Chomsky (1957)に基づいて執筆されたOhman (1964)はその方法論が修正されなければならないと注意が促してありました。さて、このアプローチでは、すべての文に文体があるとみなします。また、特殊な文体とは選択可能な表現の中で選択可能性が低いものを選択した結果であり、逆に無標な文体hとは選択可能性が高いものを選択した結果と考えます。その他の先行研究では通例の変形で説明できるような表現に議論が限られる傾向がありますが、Ohman (1964)自身が示しているように、必ずしもそのような規則だけで説明できる表現ばかりではなく、通例の変形の枠外で考察してくことの必要性があると著者は述べていました。著者のまとめを示しておきます。「言語運用に属する文体論では、文法的規則であれ文体的規則であれ、書き換え規則であれ変形規則であれ、随意的なすべての規則の選択・不選択が文体発生の要因となる。この種の選択のパタンは、"Yes or No"で答えが出るものではなく、いわばProbabiity Modelで記述されるべきものであろう。」(p. 29)

私はChomskyの一連の著作で文体規則というものが扱われているということは、実際に文献を読むことなどを通して知っていたのですが、Grinder and Elgin (1973)のように文体部門というものを明確に位置づけている研究を知りませんでした。またまた勉強不足が露呈してしまいました。機会があればGrinder and Elgin (1973)をはじめ、この論文で言及されていた研究に目を通してみたいと思いました。生成変形文法に基づいた文体論の状況が非常によく分かるので、とても便利な論文だと思いました。

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T.Y.Wilson(1971).「A Note on Stylistics in the Soviet Union」を読む(『Style』)

このリストの詳細は以下の通り。

Wilson, T. Y. (1971). A note on stylistics in the Soviet Union. Style, 5, 21-25.

感想:I. G. Galperinと言えば有名なロシアの文体論学者ですが、Galperinが"Some Principal Issues of Style and Stylistics as Viewed by Russian Linguists"というStyle誌に発表した論文の中で、1969年3月にThe Max Thorez Instituteで開催された文体論の学会について言及しています。その学会での学会発表のアブストラクトがまとめられた形で出版されることになったそうなのですが、1000部しか発行されず、ソ連外にはその本が行き渡ることは難しいとのことで、その学会発表のタイトルだけではありますが、Wilsonが一覧表を作成しています。ですので、論文というよりは学会発表タイトルリストといった方が適切です。当時のソ連でどのような文体論研究がなされていたのかを知ることのできる貴重な資料だと思いました。発表タイトルはすべて英語に翻訳されているようです。

ロシア・フォルマリズムや社会主義リアリズムなど、いわゆる20世紀前半のロシア文学理論の面影はタイトルからはあまり感じられず、むしろごくありふれた文体論の発表タイトルが並んでいます。また、機能主義的なアプローチを掲げている発表が結構たくさんありました。

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F.Boers(2004).「Expanding Learners' Vocabulary Through Metaphor Awareness: What Expansion, What Learners, What Vocabulary?」を読む(M.Achard&S.Niemeier(編),『Cognitive Linguistics, Second Language Acquisition, and Foreign Language Teaching』,Mouton de Gruyter)

この論文の詳細は次の通り。

Boers, F. (2004). Expanding learners' vocabulary through metaphor awareness: What expansion, what learners, what vocabulary? In M. Achard and S. Niemeier (Eds.), Cognitive linguistics, second language acquisition, and foreign language teaching (pp. 211-232). Berlin: Mouton de Gruyter.

感想:認知意味論のメタファー論の知見を活用した外国語語彙習得研究(この論文ではイディオムに着目)のレビュー論文といった感じのものでした。著者はまず、metaphor awarenessは外国語学習にとって有益であるということを指摘します。具体的に言及されていたこととしては、意味の具象性は語彙学習を促す、dual coding hypothesisによると具体的な項目は2重に記憶される(言語的記憶かつイメージ的記憶)、所定の項目が既存の意味ネットワークと関係を持つことで記憶から取り出されやすくなる、といった点がありました。実際に調査研究でもmetaphor awarenessの有効性を示す結果が出ており、学習項目の保持や産出に有効に機能するようです。この論文では、これらの調査結果を踏まえた上で、metaphor awarenessの外国語語彙習得への効果についてより詳細な議論がなされていました。

まず、効果の持続性ということですが、1回だけmetaphor awarenessを高めるような指導をしただけでは長期的効果は生じないということが示されていました。

次にmetaphor awarenessについては、従来指導に使われたインプットの保持やその産出をターゲットとしてきましたが、学習者に新たな表現を産出されるという側面の指導もこれから行なっていくことも必要ではないかという提言がなされています。ただし、これは授業の目的によります。というのは、学習者は目標言語内に存在しない表現を作り上げてしまう可能性が大きいためです)。しかし、調査によると、"completely novel instantiations of an established metaphorical theme may more easily be considered by native speakers as correct (but possibly "poetic") language than slightly deviant versions of standard idioms" (p. 220)という結果が出ているようです。ちなみに、ここで使われているmetaphoric themeとはいわゆる概念メタファーのことです。著者は、認知意味論の中で概念メタファーの実在性について色々と議論されていますが、教育上は非常に有意義な考え方であるため、議論を言語学の論争の中に巻き込まないようにするために、このように敢えて別の呼び方をしています(p. 213)。

次はmetaphoric awarenessが最も有効に機能するのはどのレベルの熟達度の学習者かが議論されていました。初級学習者であれば、そもそもイディオム内の語や、メタファーになっていても文字通りの意味さえも知らないという場合があります。一方、上級学習者であればイディオムの理解という面では理想的に機能すると思われますが、産出面については「自信のない表現は使わない」という方略が身についている可能性がありますので有効には機能しないかもしれないと述べられていました。著者の意見としては、intermediateレベルの学習者がターゲットとしては最も相応しいのではないかとのことでした。

次は学習者の個人的要因によってmetaphoric awarenessの機能のし具合が異なるかもしれないということについてでした。著者によると分析的スタイルの学習者は全体的スタイルの学習者に比べて、イディオムの背後のmetaphor themeを見つけ出したり、文字通りの意味から拡張的意味を区別したりすることに長けているそうです。また、イメージ型学習者は言語化型学習者に比べると、イディオムの背景の具体的なシーンを思い浮かべるのに長けているそうです。著者の見解としては、分析的スタイルの学習者とイメージ型の学習者にはmetaphoric awarenessは効果的に機能するのではないかとのことでした。

次はどういったタイプのイディオムがmetaphoric awarenessを使った学習においてより有効に機能するのかということについてです。著者によると意味的に透明性の高い表現が向いていると述べます。しかしながら、意味的透明度が低い表現でも、学習者にその背後のmetaphor themeを探させる活動などを通して深い認知処理をさせることができ、学習が生じることを期待できると述べてありました。それに、透明度の低い表現に関してはmetaphor awarenessを使った学習をその他の学習法と合わせることで効果を高めることを狙うことができます。著者は、文字通りの用法の指摘や語源について考えさせる方法を指摘していました。

最後は、metaphor themeとの関係があいまいであったり、複数のmetaphor themeが背後にあるような表現についてです。著者はまずは、metaphor themeとの関係がはっきりとしているものから指導を始めるべきであると述べています。また、metaphor theme自体がなるべく具体的なものである表現が特に指導に向いている(私の言葉で言い換えれば、導管メタファーといった抽象的なものではなくて、より具体的なmetaphoric themeに基づいている表現を取り上げるべきであるということです)。

イディオムの学習は外国語学習者にとってはとても骨が折れます。解決の糸口の1つとしてとても興味深いアプローチだと思いました。

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2010年3月11日 (木)

萩野俊哉(2008).『英文法Q&A こんなふうに教えてみよう』を読む(大修館書店)

本書の詳細は次の通り。

萩野俊哉(2008).『英文法Q&A こんなふうに教えてみよう』.大修館書店.

感想:英文法に関する本ですが、その焦点は英語教師が持っておくべき文法知識、及び英文法説明時におけるポイントの整理、に特に絞られていました。特に英語学の専門的な議論に入り込むことなく、あくまでもいわゆる英文法の範囲で説明がされていますので、英語学などの背景がない人でも簡単に読み進めることができます。非常にコンパクトにまとめられていますので、文法の参考書として手元に置いておいてもいいと思いますし、一つの読み物としてもとても面白いと思いました。本書はQ&A形式で進んでいくという形をとっていますが、提示されているQは思い当たる節が多いものだと思います。また、ところどころに「英文法ひとくちメモ」があり、そこでは英文法の説明の補足が行なわれています。例文も豊富ですし、とても便利な一冊だと思いました。

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P.Ziff(1972).「A Creative Use of Language」を読む(『New Literary History』)

この論文の詳細は以下の通り。

Ziff, P. (1972). A creative use of language. New Literary History, 4 (1), 107-118.

感想:創造的(生成文法的な意味合いではないので注意が必要です)な言語使用とはどのようなものであるのかその定義づけについて考察されている論文です。ただし、著者が導き出した結論は「正直分からない」というものでした。著者は「創造する」とはどういうことであるか、次のように述べています。"To create something it seems that one must characteristically anyway make something that meets the following vague conditions. What one makes must be relatively if not absolutely novel. It must be relevantly novel and not merely novel because of inessential features. It must be somehow something special and not special merely by being novel and not because of inessential features. Yes all this is vague and indefinite and certainly indecisive. And since "creative" and "create" seem to suffer from loose uses anyway even this vague characterization may fail to fit cases here and there." (p. 115)つまり、そこそこに目新しく、ある程度特別であるようなものと言った感じでしょうか。単に目新しいだけ、特別であるだけ、では創造的な言語使用にはなりません(私たちは日々目新しい発話を行っていますが、それらが創造的だと考えられないことを思い起こせば納得がいくでしょう)。

著者は創造的な言語使用は困難なものであると指摘します。"To be creative in the use of language is not all that easy. It is not hard to produce sentences and as has been indicated novelty is easy to come by. But it is harder and much harder to make new paragraphs or sentences or lines or phrases that have a genuinely special character and that are not simply trivially special because of inessential features." (p. 116)そして、創造的な言語使用を次のように定義づけ(?)ていました。"A creative use of language calls for the production of novel sentence having some special character. One such special character is that of constituting a melodic sound pattern. Unfortunately no analysis of what constitutes a melodic sound pattern ia at present available. But a creative use of language may display other kinds of special qualities (such as metaphysical conceits)." (p. 117, カッコ内は本ブロガーによる) ここでいきなり、メロディー・パターンの話が出てきましたが、実は著者は本論文の後半でメロディー・パターンということを足がかりにして創造的な言語使用を特徴づけようと試みていたので、ここでメロディー・パターンに言及されています。奇想(metaphysical conceits)については、論文の最後の箇所で少しだけ触れてあったので、(  )内に付け足しておきました。さて、著者は論文の最後でこのように述べています。"To complicate matters still further one may recognize that a work one is concerned with has an altogether special character without being able to provide any helpful description or specification of that character." (p. 117)

ちょっと肩透かしをくらった感じの論文ですが、「創造的である」とはどういうことであるのかを色々と考えることができました。

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2010年3月10日 (水)

幡山秀明(2005).「英語教育と文学的教材[1]」を読む(『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』)

この論文の詳細は次の通り。

幡山秀明(2005).「英語教育と文学的教材[1]」.『宇都宮大学教育学部教育実践総合センター紀要』,28,493-498.

感想:この論文では、『英語教育』2004年10月増刊号の座談会「英語教育に文学を!」とDennis J. Sumara (2002) Why reading literature in school still matters: Imagination, interpretation, insightの内容が要約されていました。

著者は、文学教材の選択や指導法が個々の教師の個人的興味、経験、アイデアに頼ったものであり、他人と共有できるような形で研究を進めていくことが必要であると考えています。また、教材の選択を学生側に委ねてみること、高尚な文学ではなく漫画やテレビドラマなども積極的に取り入れていくこと、などが指摘されていました。Sumara (2002)は読んだことがないので、機会があれば読んでみようと思いました。

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千野栄一(1972).「プラーグ構造言語学派における文体論の背景」を読む(『英語青年』)

この記事の詳細は次の通り。

千野栄一(1972).「プラーグ構造言語学派における文体論の背景」.『英語青年』,118 (2),36-37.

感想:著者はまず、言語の研究を科学的にしたのは青年文法学派であり、青年文法学派を否定する形で現われたのが構造主義言語学であると述べます。両者は対立的に考えられがちですが、著者によると、両者は言語の記号性に着目していたという共通点があるとされます。構造主義言語学については説明するまでもないと思いますが、青年文法学派については、「形式と内容の間には原則として関係がない筈であるのに、いくつかの言語で同じ(または似た)形式が、同じ(または似た)内容を持つことに注目して、共通の起源を考えた」(p. 36)という点で言語の記号性に着目していたと指摘してありました。また、プラーグ学派は他の構造主義言語学派(アメリカ、コペンハーゲン)とは違って、「言語の記号性の限界の追求、言語記号の構造性に対する疑問、言語の非構造的性質の研究、構造性と非構造性の間の矛盾の解消」(p. 36)ということについて研究をしたということも述べてありました。

さて、著者によると、プラーグ学派には、ボードアン・ド・クルテネの思想とロシア・フォルマリズムの言語理論ないしは文学理論が影響を与えています。特にプラーグ学派とロシア・フォルマリズムの関係については、様々な見解がありますが、著者は「チェコ・フォルマリズムの伝統の上にロシア・フォルマリズムが影響を与えた」(p. 37)という立場が真実に近いのではないかと述べていました。

プラーグ学派では、パロールがそれ自身のラングを持つことを認めたほか、文語の研究、言語はいくつかの機能が組み合わさったものであると考えること、などが指摘されています。また、文体というものについては、「当時のプラーグ学派では文体とは言語の構造的総体の個性的な組織化と定義され、やがて、言語手段の文体論的な評価が十分になされるためには、言語がよく安定し、文語の規範が充分に統一性を示すことが条件であることに気がついてくる」(p. 37)と述べられていました。

なお、文体論の定義は定まっていませんが、書き方の芸術としての実際的な文体論と、バイイやフォスラーらによって起こった理論的な文体論を区別しておくことが必要です。著者は、プラーグ学派によって提起された文体論は、「個々の言語の法則性を明らかにするような、それらの言語の文体的な諸現象の体系的解釈で、これは文体論の体系化と呼ばれる」(p. 37)ものであり、実際的な文体論と科学的な文体論以上に重要なものであると考えています。しかし、こういった文体論の構築は非常に困難であると著者は述べます。というのは、文法研究などに比べると、対象の現象に対して一種のゆるみのようなものが出てきてしまうからです。著者は適切な研究方法を考案していくことが必要であると述べていました。

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寺嶋健史(2007).「中学校・高等学校の英語授業における辞書使用の実態調査-愛媛県の英語教員を対象にしたアンケート調査から」を読む(『大学英語教育学会中国・四国支部研究紀要』)

この論文の詳細は次の通り。

寺嶋健史(2007).「中学校・高等学校の英語授業における辞書使用の実態調査-愛媛県の英語教員を対象にしたアンケート調査から」.『大学英語教育学会中国・四国支部研究紀要』,4,19-36.

感想:愛媛県の中学校と高等学校の英語教員を対象に行なわれた、かなり大規模な調査の結果です。授業で辞書を使わせている教員と辞書を使わせていない教員を分けて分析がなされていました。まず辞書を使わせている教員についてですが、次のようにまとめられています。「まず、普段の授業で生徒に辞書を使わせる英語教員は全体の6割弱で(表1)、その多くは高校教員であり(表2a)、世代別では若手よりも熟練教員でその割合が多かった(表2c)。使えて当たり前であるはずの辞書を生徒が使いこなせないことが、授業で使わせ始めた最大の理由であり(表4)、特に高校教員でその傾向が強い(表4-1)。周囲の環境に影響されて辞書を使わせ始めた割合は若手教員に多い(表4-2)。実施状況(表5、表7、7-1、7-2)を見ると、中学では英作文をさせる時に英和辞典と和英辞典が同じ程度に使われている。その実施率は高学年になるほど高くなる。辞書引き競争をする以外は、特に使い方を指示せず生徒の自由に任せている教員が多い。一方、高校ではリーディングの際に英和辞典で例文、語義、語法を参照させる教員が多く、高学年になるとその実施率は下がる。中高いずれも、必要時に5~10分程度辞書を引かせているだけで、体系的な指導は行なわれていない。しかし、半数強の教員がその効果を実感しており(表8)、熟達教員ほどその傾向が強くなる(表8-1)。」(p. 32)特に50歳以上、強陰暦30年以上のベテラン教員は辞書を使わせる割合が高かったと指摘されていました(p. 33)。

それに対して、辞書を使わせていない教員については以下のように分析結果がまとめられていました。「授業で辞書を使わせていない背景は様々で(表9)、中堅教員になるほどかつては辞書を使わせていた割合が高く、逆に若手教員ほど使わせたいが実現できていない割合が高い(表9-1、9-2)。実施していない最大の理由は時間が取れないことにある。それに加え、中学では教科書巻末単語リストで済ませてしまうこと、高校では生徒が辞書を持参しないことが、それぞれ主な原因となっている(表10、10-1)。中学で辞書の必要性を感じないまま高校に進学するという一連の流れが出来上がってしまっているのかもしれない。また、どの世代にも辞書を使わせる考えが無い教員が約3分の1居ることが明らかになった。」(pp. 32-33)

英語教育における辞書使用は私も興味のあるトピックなので、とても面白かったです。

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R.Ellis(2009).「Implicit and Explicit Learning, Knowledge and Instruction」を読む(R.Ellis,S.Loewen,C.Elder,R.Erlam,J.Philip,&H.Reinders(編),『Implicit and Explicit Knowledge in Second Language Learning, Testing and Teaching』,Multilingual Matters)

この論文の詳細は以下の通り。

Ellis, R. (2009). Implicit and explicit learning, knowledge and instruction. In R. Ellis, S. Loewen, C. Elder, R. Erlam, J. Philip and H. Reinders (Eds.), Implicit and explicit knowledge in second language learning, testing and teaching (pp. 3-25). Bristol, England: Multilingual Matters.

感想:implicit vs. explicitの論文は、博士論文執筆時代に随分と読み漁った(このブログを開設するよりも前の話です)ので、久々に読みました。しかし、基本的にはそれほど大きな進展はなかったようで、非常に読みやすかったです。強いていうなら、神経言語学的な証拠というものに以前よりも多く言及されることが増えたというようなことでしょうか。

まず、認知心理学においては、人間の学習においては単一のシステムしかないとする立場とexplicit/implicitという2つのシステムがあるという立場があるということが紹介してありました。この問題には決着がついていないのですが、著者は2つのシステムがあるという立場に立って研究をするということを明言しています。さらに、著者は学習と知識を区別し、それぞれに対してexplicitとimplicitなものがあるという立場を取っています。この論文では、explicit/implicit learning、explicit/implicit knowledge、さらにexplicit/implicit instructionというものについて、これまでの先行研究を整理していました。

まず、学習についてですが、implicit learningもexplciti learningも共に定義が定まっていません。implicit learningについては、"there is no consensual definition of implicit learning although all theorists would accept that it excludes metalinguistic awareness" (p. 7)と述べられ、explicit learningについては、構造や概念形成、概念同士の連結に関して意識的、故意的に仮説を立てるプロセスと述べられていました。これまでの研究では、explicit learningの方がimplicit learningよりも効果があるという結果が多いのですが、著者はその効果が短期的なものであることが多いこと(explicit learningに有利)、効果の測定方法がexplicit learning向きなものであることが多いこと、が原因で、明確なことを述べることはできないと指摘されていました。

次は知識についてです。著者はこれまで述べられてきたことを列挙していき、解説を加えていました。それらは、"Implicit knowledge is tacit and intuitive whereas explicit knowledge is conscious" (p. 11)、"Implicit knowledge is procedural whereas explicit knowledge is declarative" (p. 11)、"L2 learners' procedural rules may or may not be target-like while their declarative rules are often imprecise and inaccurate" (p. 12)、"Implicit knowledge is available through automatic processing whereas explicit knowledge is generally accessible only through controlled processing" (p. 12)、"Default L2 production relies on implicit knowledge, but difficulty in performing a language task may result in the learner attempting to exploit explicit knowledge" (p. 13)、"Implicit knoledge is only evident in learners' verbal behavior whereas explicit knowledge is verbalizable" (p. 13)、"There are limits on most learners' ability to acquire implicit knowledge whereas most explicit knowledge is learnable" (p. 14)、"The learner's L2 implicit and explicit knowledge systems are distinct" (p. 14)、"L2 performance utilizes a combination of implicit and explicit knowledge" (p. 15)、でした。

次は指導についてです。著者によると、指導とは学習者の中間言語発達に介入することであり、それには間接的介入と直接的介入があります。さらに、直接的介入の中にimplicitな指導とexplicitな指導があると整理されていました(p. 17)。そして、著者が注意を促していますが、指導形態とその学習形態(ひいては知識形態)に関して、相関関係はありません(言い換えますと、指導形態がexplicitであったと言っても、実際に学習者が行なうのはimplicit学習であることも十分あるということです)。さて、これまでexplicitな指導とimplicitな指導でどちらが有益であるかということが研究されてきました。しかし、それぞれの指導の操作化が研究者によってバラバラであること、効果の検証はexplicit instruction向きなものが使用されてきたこと、などから明確なことはいえないと結論づけられていました。

最後に、explicit knowledgeとimplicit knowledgeの関係について大きく3つの立場が紹介されています(これは定番ではありますが)。まず、両者か完全に独立な立場であるというthe noninterface position("in a weaker form of the noninterface position, the possibility of implicit knowledge transforming into explicit is recognized through the process of conscious reflection on and analysis of output generated by means of implicit knowledge" (p. 21)←Bialystok (1994)の立場です)、一方が他方に変容するとするthe strong interface position、そしてthe weak interface position、が説明されていました。the weak interface positionには大きく3つの立場があります。それらは、"Explicit knowledge can convert into implicit knowledge through practice, but only if the learner is developmentally ready to acquire the linguistic form" (p. 21)、"The second version sees explicit knowledge as contributing indirectly to the acquisition of aimplicit knowledge by promoting some of the processes believed to be responsible" (pp. 21-22)、"learners can use their explicit knowledge to produce output that then serves as 'auto-input' to their implicit learning mechanisms" (p. 22)というものです。そして、著者は神経言語学研究を引用します。しかし、神経言語学研究でも立場は様々であり、決着はいまだついていないということでした。

非常に包括的にimplicit/explicitという問題が扱ってありますので、概念の整理をすることができ、とてもよかったです。この問題にあまり詳しくない人が読むと少し混乱してしまうかもしれません。個々の問題についてはそれほど丁寧には扱っていないので(特に知識については)。

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2010年3月 9日 (火)

千野栄一(1968).「プラーグ学派の構造言語学-現況-」を読む(『英語青年』)

この記事の詳細は以下の通り。

千野栄一(1968).「プラーグ学派の構造言語学-現況-」.『英語青年』,114 (6),382-383.

感想:1968年時点でのプラーグ学派の状況が紹介してありました。著者は、イェルムスレウ死後に終焉を迎えたコペンハーゲン学派や次々と理論が変わるアメリカ学派に比べて、「プラーグ学派は、静かに発展しつつある」(p. 382)と述べていました。著者はまず、V. Mathesiusの研究について紹介し、「二つまたはそれ以上の言語を、歴史比較的にでなく、対象比較することにより、一つの言語ではある形式で表現されている機能が、他ではいかに表現されているかを調べ、機能から形式という形で言語の研究をすすめて行ったので、プラーグ言語学派のもう一つの特徴たる、言語における構造を強調することと共に、プラーグ学派が構造機能言語学と呼ばれる基を作った人である」(p. 382)とその業績をたたえています。プラーグ学派は第二次世界大戦中及び大戦後にあまり活発に活動をしていないと思われがちですが、第二世代(論文執筆時には長老)及び第三世代(論文執筆時には若手)が育っており、TCLPをついたTLPなどの雑誌も再刊されるなど、しっかりと研究が行なわれていることが強調されていました。

そして、著者は1968年時点での研究について簡単に紹介していきます。それらは、(1)音韻論中心から統語論中心になったこと(Mathesiusの研究が下地となっており、DanesやFirbasへと続いている)、(2)語形成の研究、(3)言語の不均衡(言語体系の中央部分では構造的法則性が徹底して機能するが、周辺部分ではその法則性が低下する)、(4)言語の1つの面での変化は他の面に大きな影響を与えること、(5)言語が他言語と接触するときに「もとの言語の構造にさまたげにならない限り、たとえその言語の構造に余計なものであても受け入れる」(p. 383)こと(これは言語の余剰性とも関係しており、A. Martinetが言語を経済法則に基づいて考えている立場と相反している)、数学論理学的方法に基づいた言語研究がなされていること(Prague Studies in Mathematical Linguisticsが刊行された)、が指摘されていました。

プラーグ学派の中で触れられることが少ない側面について指摘してあり、プラーグ学派の全盛期以降の様子を知ることもでき、とても勉強になりました。

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北岡誠司(1981).「テクスト理論の誕生-フォルマリズム、形態論、バフチン・グループ-」を読む(『思想』)

この論文の詳細は以下の通り。

北岡誠司(1981).「テクスト理論の誕生-フォルマリズム、形態論、バフチン・グループ-」.『思想』,689,57-76.

感想:この論文では、ロシア・フォルマリズムに端を発するファーブラとシュジェートの区別、プロップに端を発する形態論詩学、バフチン・グループによるテクスト解釈のためのコミュニケーション論的枠組み、の3つに注目し、これらの遺産が今後どのように創造的に再利用できるかを議論し、その再利用のための枠組みを提案するという形で構成されていました。

まず、ファーブラとシュジェーの区別についてですが、ファーブラは異化の技法を介してシュジェートになるとロシア・フォルマリズムでは考えられていたようです。著者はさらに、ジュネット(及びバルト)によるこれらの概念の精錬(イストワール/レシ/ナラシオン)を紹介します(ナラシオンは、「テクストの中の語り手が、同じくテクストの中の聞き手に、出来事(イストワール)を話(レシ)に組みかえて語りきかせる行為そのもの」(pp. 60-61))。そして、時、法、態、という観点について教科書的に説明が加えられていました。

次は形態論的詩学についてです。特にメレチンスキーら(ロシア)の研究が中心に紹介されており、必要に応じてグレマスら(フランス)の研究にも言及がなされています。これらの研究は、イストワールの中の論理について扱っていると著者は考えています。グレマスらもメレチンスキーらもトドロフの後継者という点では同じですが、「もっとも前者が、プロップが対象とした魔法昔話だけではなく、他の諸々の伝承説話(神話や宗教説話など)、さらには、近代小説(モーパッサン)など、いわば、筋のあるテクスト全般の構造記述に適用できるように、プロップの図式を(構造意味論などと結びつけて)できうるかぎり一般化し抽象化するという方向で組みかえてきているのに対し、後者は、グレイマスらのそれも含めた説話学の多用な成果を考慮に入れながらも、あくまで対象は、プロップが扱っていた魔法昔話に限定し、そのより完全な構造記述のために、一層包括的で一層明示的なモデル(構造記述のためのメタ言語)づくりにつとめている、という違いはあります」(p. 64)と述べられていました。私も始めて知ったのですが(←またまた勉強不足が露呈しています)、メレチンスキーらの枠組みは「試練」と「価値」という側面からプロップの枠組みを整理しなおしたもの(8項図式のモデルでした)で、とても面白く思いました。また、著者は、二項対立についても触れ、これらのモデルの背後に二項対立という考えが強く機能している点と、タルトゥ学派によれば二項対立は人間の文化の中に実在していると考えられていること(研究者が研究用に考案した一種の虚構ではないこと)、が述べられていました。二項対立の中では、二項対立の束が「登場人物の属性、実体的特性をつくりあげている」(p. 68)と考えられることになります。著者は、二項対立とメレチンスキーらのモデルを統合し、より詳細なモデルを示しています(p. 69)。

最後は、バフチン・グループについてです。バフチン・グループはテクストには2つの極があり、1つは言語構造(ラング)のことであり、もう一つはコミュニケーションであるとしています。しかし、著者自身は、バフチンらのもっとも重要な点は、コミュニケーションのレベルで研究すべきであると提案したことではなく、テクストの内部(ラングのレベル)でも不可視の語り手と聞き手の間でコミュニケーションが行なわれていることを指摘した点であると考えています。著者は、バフチン・グループについて、語る主体、対象、発話ジャンルないしはコード(著者が指摘していますが、形態論的詩学が研究していたのはコードであると考えることができます)、他の発話(「発話は、そこで常に、それが言及する対象に向けられるだけではなく、「当の対象について発せられた他者の発話を志向することになる」」(p. 72))、聞き手、という5つの観点から、説明をしていました。

以上の議論を受けて、著者はこれら一連の研究の再利用の方向性を提案します。それは、テクストの包括的な分析と解釈を行なうための枠組みになるのですが、「Ⅰ、二項対立の体系のレベル、Ⅱ、出来事の展開の論理(本稿では、八項図式)と「機能」のレベル、Ⅲ、ファーブラ(筋(イストワール))のレベル、Ⅳ、シュジェート(話(レシ))のレベル(および、ⅢをⅣに変換する異化の技法)、Ⅴ、語り(ナラシオン)(テクストに内在する語り手/話(レシ)/聞き手)のレベル、Ⅵ、言語(語彙と文法)と文体とのレベル、Ⅶ、テクストの“外”でのコミュニケイションのレベル」(pp. 73-74)という枠組みを提案しています。Ⅰが一番深層的なレベルになり、Ⅶが一番表層的なレベルとなります。著者は、これら7つのレベルを考慮に入れてテクストを分析する必要があると述べていました。ロシア・フォルマリズムやジュネットの研究、形態論的詩学の研究、バフチン・グループの研究が再利用されているのが大変よく分かります。そして、それらを非常に有機的に統合した枠組みであると思いました。

私自身、恥ずかしながら形態論的詩学はそれほど勉強していませんので、メレチンスキーらの研究については今回初めて知りました(プロップやグレマスについては知っているのですが。。。)。他の文献で引用されているのは見たことがあるのかもしれませんが、これほど前面に押し出された説明は初めてでした。ですので、形態論的詩学の箇所については、説明されていた枠組みは始めて知ったので、これから形態論的詩学についても勉強していきたいと感じました。また、この論文で引用されていた研究者や概念などについて知っている人であれば、非常に簡単に読むことができます。もし、あまりこれらの考え方に馴染みのない人であれば、少し難しい論文かもしれません。著者が示してくれた、再利用の枠組みは大変面白く思いました。

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R.Jakobson(1970).「Subliminal Verbal Patterning in Poetry」を読む(R.Jakobson&S.Kawamoto(編),『Studies in General and Oriental Linguistics: Presented to Shirô Hattori on the Occasion of His Sixtieth Birthday』,TEC Company)

この論文の詳細は次の通り。

Jakobson, R. (1970). Subliminal verbal patterning in poetry. In R. Jakobson & S. Kawamoto (Eds.), Studies in general and Oriental linguistics: Presented to Shirô Hattori on the occasion of his sixtieth birthday (pp. 302-308). Tokyo: TEC Company.

感想:ちょくちょく引用される論文ですが、初めて読みました。文学作品を言語学的に分析すると、色々なパターンがテクスト内に含まれていることが明らかになりますが、分析者はこのパターンは意図的なものなのかどうか悩んでしまうことがよくあります。しかし、著者によれば、ロシア詩人のVelimir Xlebnikovのように、作家が作詩中は全く気がつかず、作詩後にそのパターンに気がつくということはよくあると述べます。著者は、ロシアの民俗なぞなぞやことわざ、ポーランドのフォークソングの歌詞などに、音韻論と文法の観点から言語分析を行ない、そこにいかに人が意識していないような規則的パターンが機能しているかが示されていました。著者がこの論文で述べたかったことは、次の言葉に集約されていますので、引用しておきます。"Phonology and grammar or oral poetry offer a system of complex and elaborate correspondences which come into being, take effect, and are handed down through generations without anyone's cognizance of the rules governing this intricate network. The immediate and spontaneous grasp of effects without rational elicitation of the processes by which they are produced is not confined to the oral tradition and its transmitters. Intuition may act as the main or, occasionally, even sole designer of the complicated phonological and grammatical structures in the writings of individual poets. Such structures, particularly powerful on the subliminal level, can function without any assistance of logical reflection and patent apprehension both in the poet's creative work and in its perception by the sensitive reader". (p. 308)

作者の意図とテクスト構造の関係について一つの考え方を示してくれる大変重要な論文だと思いました。

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2010年3月 4日 (木)

小高康正(1984).「チェコ構造主義研究(一)-チェコ構造主義とロシア・フォルマリズムとの関係について-」を読む(『独逸文学』)

この論文の詳細は以下の通り。

小高康正(1984).「チェコ構造主義研究(一)-チェコ構造主義とロシア・フォルマリズムとの関係について-」.『独逸文学』,28,59-78,関西大学独逸文学会.

感想:この論文はロシア・フォルマリズムとプラーグ学派の関係が特にムカジョフスキーとヤーコブソンに着目しながら考察されていました。著者は、ロシア・フォルマリズムの後期に執筆されたJ. トゥイニャーノフとR. ヤーコブソンにおける「言語と文学の研究の諸問題」(1928)(「TJテーゼ」)が1929年のプラーグ学派による「テーゼ」の下地になっており、両者の間にかなり直接的な関係が見られること、などが原因となり、両学派の関係をどのように扱うのかということで様々な立場があることを指摘しています。

まずV. エアリッヒは、プラーグ学派での理論の発展は認めつつも、プラーグ学派はロシア・フォルマリズムの理論的枠内での発展であると考えています(記号論も含めて)。従って、両者を同一視した立場です。それに対して、O. ススは、チェコ国内の芸術理論の延長線上にプラーグ学派を位置づけ、エアリッヒと比べるとロシア・フォルマリズムの影響をかなり小さく考えた図式を提案しています。この図式では、すでにJ. F. ヘルバルトやR. ツィンマーマンのドイツ・オーストリア美学の流れをくんだ形式主義が19世紀以来の伝統としてチェコ国内にはあり、それがプラーグ学派成立前に前衛的な理論として形成されており、学派成立後にムカジョフスキーに至ると考えられています。著者はエアリッヒの立場はスラブ・フォルマリズムの系統を基にした考えであり、ススの考えはドイツ・オーストリアの美学の系統を基にした考えと指摘しています。したがって、ススの考えでは、フォルマリズムから構造主義への移行はあくまでもチェコ美学の伝統の中で起こったことと考えられることになります。また、著者はH. ギュンターにも触れ、エアリッヒなどに対して「チェコ構造主義の成立におけるチェコ美学の伝統の役割や、1930年代半ば以降のムカジョフスキーの「構造主義」の展開、とりわけ、マルクス主義への接近を見逃してはならないと述べ、チェコ構造主義とロシア・フォルマリズムの「差異」に注目するように促している」(p. 62)立場も紹介していました。

以上の研究を踏まえた上で、著者は新しい考えとして、J. シュトリーターの考えを紹介します。この考えの中では、ロシア・フォルマリズムからチェコ構造主義にかけて、3つの発達段階が抽出されています。それらは、「Ⅰ.知覚を困難にすることを目的とした、異化する機能をもつ手法の総計としての芸術作品(改行)Ⅱ.共時的及び通時的に特殊化された諸機能をもつ手法からなる体系としての芸術作品(改行)Ⅲ.美的機能をもつ記号としての芸術作品」(p. 63)というものです。このモデルでは、第三段階の有無を基準にしてロシア・フォルマリズムとチェコ構造主義を分類しようとしているそうですが、第二段階から第三段階の合間、具体的には1928年のTJテーゼから1934年のムカジョフスキーによる「記号学的事実としての芸術」までの間は両派の考えが密接にかかわりあっているため、一面的に第三段階だけを基準として両派を区別することについては慎重になる必要があると著者は注意を促していました。

ヤーコブソンとムカジョフスキーはプラーグ学派の中で共に美的機能について研究をしました。しかし、両者の間には少し違いがあるようです。著者によると、ヤーコブソンは文学理論という枠組みの中で「記号論的観点から「詩的性格」の理論化を一層精密に仕上げていき、文学と社会の相関性の問題よりも「美的機能の自律性」を重視して、ロシア・フォルマリズム以来の理論的原則を貫いた」(p. 72)のに対して、ムカジョフスキーは記号学という枠組みの中で、「芸術と社会の「相関状態」を考慮しながら芸術の「記号論的基礎づけ」を行なうことになった」(p. 72)と説明されています。実は、既にTJテーゼの中に。「内在的法則の発見」と「諸々の体系との相関状態」の重要性が打ち出されていたのですが、ヤーコブソンが執筆した「テーゼ」の箇所では前者が強調され、ムカジョフスキーが執筆した「テーゼ」の箇所では両者が強調されています。ムカジョフスキー自身は、最初は前者の研究を中心に行なっていったのですが、徐々に後者へと関心が移っていったようです(これに対して、ヤーコブソンはあくまでも内在的法則の研究が中心であり続けました)。面白いことに、ムカジョフスキーは、最初は自らの研究とロシア・フォルマリズムの研究を同一と見なした発現を行なっていたのですが、1935年にはロシアのフォルマリズムとチェコの構造主義という形で対立させるに至っています(ただし、明確に別の学派として区別したわけではありませんが)。

著者は一連の議論のまとめとして、次のように述べています。「チェコ構造主義の理論的立場は、1926年のプラーグ言語学サークル創設時にすでに仕上げられていたのではなく、ロシア・フォルマリズムとの相関的な関係の中で形成されていった」(p. 72)。

両者の関係についての見識を深めることができたと同時に、プラーグ学派設立時によく言及されるチェコ美学の伝統ということについてもその内容が具体的に理解することができたので大変勉強になりました。ちなみに、論文タイトルに「(一)」とあるのですが、「(二)」はないようです。

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L.Jeffries(2008).「The Role of Style in Reader-Involvement: Deictic Shifting in Contemporary Poems」を読む(『Journal of Literary Semantics』)

この論文の詳細は次の通り。

Jeffries, L. (2008). The role of style in reader-involvement: Deictic shifting in contemporary poems. Journal of Literary Semantics, 37 (1), 69-85.

感想:文体論の下位分野で、最近非常に盛んに研究がなされている、deictic shift theoryの論文です。僕もこの分野の論文は初めて読んだのですが、色々と考えることができました。

この論文の目的は、"This article addresses the question of whether reader-involvement in a poem can be at least partly explained by reference to stylistic features." (p. 69)ということになります。そして、このことを示すために、Peter Sansomの"Mittens"と、Mebdh McGuckianの"Pain tells you what to wear"という2編の詩において感じる、reader-involvementの違い(前者の方がreader-involvementを強く感じるということが著者自身及び多くの学生によって示されています(予備的調査による))を作品内のダイクシスに注目することで説明しようという試みがなされていました。考察するための理論的背景として、Emmot (1997)の物語理論と、McIntyre (2006)のdeictic shift theoryと、Fauconnier and Turner (2001)のblending theoryが用いられています(私自身は、前者2つの理論をちゃんと勉強していないので、少しこの論文を理解するのにてこずりました。blending theoryについてはランカスター大学大学院在学中に昔勉強していたのですが。)。著者は"it is thought that the way that deictic expressions work in narrative is that they cause the reader to take up the deictic positioning of the character, place and time which are indicated by the textual triggers." (p. 71)と指摘し、ダイクシスによって、読者と登場人物(ないしは語り手)との一体化が生じると指摘します。

まずは"Mittens"についてです。この作品は1人称で書かれています。また、時間や場所についてのダイクシス表現もかなり多く含まれています。一人称の詩について、著者は次のように述べていました。"The deictic shift of a reader's viewpoint into a first person narrated poem may not differ a great deal from that involved in reading a novel or story, though there may be a greater expectation, in the absence of clear cues to the contrary, that a first person narrator has the same identity as the poet. It is also possible that reading a poem (rather than other genres) increases the likelihood of readers reading from the same point of view as a first person narrator. (p. 73, emphasis in original)そして、reaqder-involvementについては、"Expectations from readers of poems, may include a willingness to identify with a first person narrator, made possible by the use of 'I' in normal self-expression, but also a willingness to interpret the poem more broadly in a way that is relevant for the reader her/himself." (p. 74)、"These are mechanisms - the stronger possibility of identification with a first person narrator and the inclusion of some element of the reader's own deictic field on analogy with the narratorial deictic field - which may differ between genres and occur more readily in poems than other longer narratives." (p. 74)そして、語り手と読者の一体化がblending theoryを用いて説明されていました。

次は、"Pain tells you what to wear"です。この作品は2人称で書かれていますが、実質は3人称的に機能していると著者は指摘しています(youがoneと同じような形で使われている)。そして、"Whilst this needs more investigation, it may be hypothesized that the initial deictic shift into a third person (omniscient) narration may produce a less complete identification with the who, where and when of the deictic field, particularly when using neutral modality." (p. 79, emphasis in original)と述べていました。そして、語り手と読者の一体化が非常に置きにくく、読者がどの程度作品内の隠れたダイクシス的要素を読み取るかということによってその一体化に段階性が現われるのではないかということがbleiding theoryで説明されていました。

著者は以上の議論を受け、"It may be that at the initial stages of a text, there are seveal possible levels of reader-involvement, depending on the different deictic (world-building) triggers. Thus, the different choices of person, time, type of text world (i.e. moal, generalized, actual) etc might influence the reader's own deictiv shift into the text, and, depending on what happens next, could influence the whole reading experience in significant ways." (p. 82)と指摘していました。

ここでは、個々の作品に留まらないやや一般的な内容のみを紹介しましたが、論文の中では個々の作品のダイクシス表現が詳細に検討され、それがreader-involvementにどのように影響すると考えられるかが議論してあり、とても面白いと思います。特に、"Mittens"は、ダイクシス表現などを基に作り上げられるテクスト世界が実は矛盾に満ちた非常に理解しずらい世界であるにもかかわらず、1人称であるがゆえにreader-involvementが強く形成されることが指摘してあった点は大変面白かったです。これに対して、"Pain tells you what to wear"では、ダイクシス表現が非常に乏しく、reader-involvementを形成しにくい形になっていることが指摘され、同様なことがJane AustenのPride and Prejudiceの冒頭や、C. A. Duffyの作品にも見られることが指摘してありました。

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2010年3月 3日 (水)

川端香男里(1971).「ロシア-フォルマリズム」を読む(『国文学』)

この論文の詳細は以下の通り。

川端香男里(1971).「ロシア-フォルマリズム」.『国文学』,16 (10),54-59.

感想:ロシア・フォルマリズムの要点がコンパクトにまとめてありました。また、新批評と所々比較されていて、とても面白かったです。

まず、著者はフォルマリズムという呼び名は、ロシアでマルクス主義文芸学と対立する方法であるとみなされたので、激しい悪口として認知されるようになってしまったとその不幸を嘆いていました。

また、ロシア・フォルマリズムはその出発が1915、1916年辺りなので新批評よりも成立が早いという点も指摘してありました。

ロシア・フォルマリズム以前のロシアに関して、著者は次のようにまとめています。「十九世紀の実証主義は文学上ではリアリズムないし自然主義という形をとって現われるのであるが、この立場からすると、世の中には現実というものがはっきりとあって、文学作品は言葉でそれを写し出し模写するのだ、という考え方になる。作者は現実と同じ次元に立って現実を反映し、模写するのだ、と考えられる。だから言葉とか、文字という形式は、現実という内容を映し出すための手段だ、ということになる。内容は社会に客観的に存在する現実と考えられることもあるし、作者の認識が内容となって作品のなかにはいりこむのだ、と考えられることもある。このような考え方からすると、文学作品の解明のためには、その内容を明らかにする必要があるということになって、作者の研究、作品の内容と考えあれる社会的現実の研究、作者の思想の研究が重視されることになる。(改行)伝記的研究とか社会学的背景研究が重視されるのは、したがってリアリズム時代、実証主義の時代の重要な特徴の一つなのである。」(p. 55)また、ロシアの場合は特に、「伝統的にリアリズムの考え方が強い上に、人々が政治的圧迫をのがれて文学に発言の場を求めたため、文学作品のなかから社会的、政治的要素をとり出して論ずるという批評態度が生まれた。文学作品は評論家が論ずべき内容が注ぎいれられるための文字通りの形式とみなされることになっていたのである。」(p. 55)

これに対して、上記のような動きに反抗するロシア・フォルマリズムの動きは、「新しい文学流派である象徴主義の精神風土を出発点にしていると言ってよい」(p. 55)と指摘されます。「それまでは詩はイメージで思考するものと考えられていて、この場合言葉の模写機能、現実との対応が重視されていたのであるが、今や言葉そのものが詩を作るのだ、詩は言語の芸術なのだ、という考え方が中心になって」(p. 56)いったそうです。ロシア・フォルマリズムは特に未来派と親密な関係を持っており、ロシア・フォルマリズムの初期においては両者はほとんど一体化して活動していたそうです。つまり「詩の理論と創作がたがいに助け合う形で発展して行った」(p. 56)ということです。また、ロシア・フォルマリズムは他の批評家と違って、言語学的研究手法に精通しており、最初にボテブニャーの詩的言語と日常言語の区別を身につけ、詩的言語の研究に没頭したそうです。彼らの初期の仕事ぶりについて、著者は次のようにまとめていました。「フォルマリストたちの初期の仕事は、このような詩語の特質、日常言語からの逸脱の特性に集中していた。何が描かれているか、ということは当分問題にはされず、どういう音的効果、文体的意匠、趣向が用いられているかという点について精密な分析が展開された。(前時代の内容一点張りの研究に対するはげしい反動が、ひたすら形式のみを研究するという方向に彼らを追いやった」(p. 57)。この時期のロシア・フォルマリズムは韻律論と詩形論で大きな成果を挙げたそうです。その後、散文の理論にも大きな成果を挙げ、この点でロシア・フォルマリズムは新批評と異なっている(新批評は散文研究についてはあまり成果を挙げることができなかった)と著者は付け加えていました。

1920年代のロシア・フォルマリズムについては次のように著者がまとめています。「フォルマリズムはやがて成熟するにつれて着実な学者グループをまわりに集め、二十年代初期には文学研究の主流となり、それとともに文学史の構想から歴史的なもの、社会的なものへと向かって行き、初期の荒々しい伝統破壊的な一面性を脱した。フォルマリストたちは形式と内容を二元的に対立させ、内容のみに重点をおいた十九世紀的方法を徹底的に批判し、作品を形式と素材とに分け、この両者のあいだには決定的な分裂というものはないのだ、と説明し、自分たちはその両者をあつかうのであって、形式一辺倒ではないと説明していた。しかし実際には十九世紀風の実証主義に対する反抗の情熱の方が強くて、実証主義がマルクス主義文芸学という形で生き返り、よく現実を反映しているとか、客観的法則性をよく認識しているか、ということを批評の規準とし始めたとき、フォルマリズムの命運は定まったと言えるのである。(改行)社会主義リアリズムが唯一の文学の教義として確立されたスターリン時代に、フォルマリズムは比較文学的研究方法とともにブルジョワ的コスモポリチズム的偏向として抑圧されてしまった。」(p. 58)

著者はまた、ロシア・フォルマリズムの理論的背景として、フッサールの現象学以外に、ヴェルフーリンやワルツェルの様式概念、ゲシュタルト心理学を挙げています。また、現象学的風土を基盤として、ポーランドではロマン・インガルデンやマンフレッド・クリドルらによる構造主義的文学論・芸術論が現われた点も指摘してありました。

スラーリン時代終焉後のロシア文学研究に関して特筆すべきこととして、著者は「社会史的文化史的展望のなかに文学を位置させようとするバフチーンの仕事」(p. 58)と「ソビエト意味論・記号学研究、言語・芸術・文化の全域にまたがるタイポロジー研究の発展」(pp. 58-59)が挙げてありました。

ロシア・フォルマリズムの流れについて本当にコンパクトに分かりやすく要点がまとめてあります。ロシア・フォルマリズムについてよく知らない人にとっては取っ掛かりとしてとても便利な論文だと思いました。タルトゥ学派やボードイン・ド・クルテネらが出てくるとより包括的にロシア・フォルマリズムを理解できるのかもしれませんが、少々マニアックすぎるのかもしれません。また、このレビューでは触れませんでしたが、プラーグ学派との関係についても簡単に触れてあります(ヤコブソンがプラハに移住しプラハ言語学サークルが成立すると、新批評と関係が近いウェレックがこの学派から輩出されたことが触れてありました)。

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N.Nasr(2001).「The Use of Poetry in TEFL: Literature in the New Lebanese Curriculum」を読む(『CAUCE: Revista de Filologìa y su Didáctica』)

この論文の詳細は以下の通り。

Nasr, N. (2001). The use of poetry in TEFL: Literature in the new Lebanese curriculum. CAUCE: Revista de Filologìa y su Didáctica, 24, 345-363.

感想:この論文はレバノンで1998-1999年に起こった国家カリキュラムの変化にともなって、その変化に対応すべく文学教材(ここでは英語詩)の新たな指導法について著者が論じています。

この分野の論文ではお決まりではありますが、著者は、まず文学教材の効果について列挙していきます。指摘されていたことを列挙していきますと、"The literary selections give the students the opportunity to find out how the same theme could be handled in different types of texts and literary genres; and hence, they are able to copare styles and techniques." (p. 347)、語彙を豊かにし4技能を向上させる、文学は"help promote reading comprehension by presenting special challenges to readers which demand that they lear to put into practice specific reading strategies" (p. 347)、"literary selections provide the subject matter, the context, and the inspiration for numerous written and oral activities so that a single literary work becomes the central focus of a study unit." (p. 347)、動機づけを高めて教室内外での読書習慣を身につけさせる、"literature provides the opportunity for the students to get acquainted with universal human experience through the heritage of a particular nation, and hopefully, learn to become more tolerant." (p. 348)、"help the learners appreciate the aesthetics of artistic creation" (p. 348)、などがありました。

このように文学教材は潜在的に豊かなものと考えられていますが、これを活かすにはプレ・リーディング活動やエクササイズがカギを握ると著者は考えています。また、文学教材を選択する際には反復や逸脱などとても有効なのですが、"We have to keep in mind, however, that modern poetry, with its variety of deviation from the conventions, offer major problems in TEFL; however, such selections should be delayed until the students are advanced enough to be able to handle them" (p. 350)という注意もしていました。また、文学教材には意味の多様性を意識させることが必要で"it is encourating for students to know that their teacher's response is not necessarily the one and only acceptable rendition of the text; they will be encouraged to come up with their own." (p. 350)とも述べてありました。また、文学にはテーマの一貫性と言語的整合性があり、お互いに文脈のないバラバラの文を使わなくてもすむと述べています。さらに、McRaeの考えに則って、文学教材はrepresentational materialsである(日常言語はreferential materials)と述べた上で、"the use of referential material should preced and form the background for the use of the representational one" (p. 352)と述べられていました。

著者はMcRaeの考え方(言語の意識の高揚→テクストの意識の高揚→文化意識の高揚)に大部分則った上で、授業の組み立てを次のように段階付けています。"1. Create awareness of vocabulary, and poetic structures and patterns. 2. Train identification of similar instances. 3. Train production. 4. Test knowledge using similar authentic texts." (p. 352)ただし、この論文では、主に最初の2段階についてタスクが例示されていました。

この論文で使われていたのは、A. RihaniのA Chant of MysticsとG. K. GibranのThe Prophetの一部の作品です。両者はレバノン系アメリカ人作家だそうです。これらの作品のある一部において散見される言語構造や語彙パターンを見つけさせ、それを同じ作品の別の箇所でも見られるか(あるいは新たなパターンが見られるか)を探させるという活動が提案されていました。ただし、著者が指摘するように、"All these activities do not only aim to accoomplish linguistic competence or appreciation of the aesthetic elements, but also to create cultural awareness on the part of the students. Therefore, the literature text is not to be used exclusively as a source for teaching a language; so after careful study of its linguistic structures, vocabulary, etc., due attention should be given to a text's 'literary' characteristics. This aesthetic dimension of the literary work would certainly, as hoped for, become a source of joyful activity after its linguistic obstacles have been surpassed." (p. 359)と注意書きがあります(だだし、文化意識に関することについてはこの論文ではあまり触れられてはいません)。

また、面白いと思ったのは、著者がこの方法は逆に母国語教育にも適用できるといことでした。"Sensitivity to the language of poetry" (p. 359)ということを育てていくことは対象言語をどのような形態(外国語、第二言語、母国語)で学習しているかに関係なく、有用なことであると著者は考えています。しかし、教材を選択する際には、文学教材は言語的価値だけで判断することはあまりよくなく、文化的価値や倫理的価値なども考慮に入れた上で選択すべきであると述べられていました。

この論文では、比較的長さのある作品を小分けにし、ある箇所で教師主導型の指導を行い、それを別の箇所で学生主導で実践させるという方式で活動が提案してあり、とても面白く思いました。このようにすれば、ある程度長さのある詩であっても授業で扱うことができ、効果的な指導をするないしは学習を惹き起こすことができるのでなあと思いました。以後、参考にさせてもらおうと思います。

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2010年3月 2日 (火)

小林孝夫(1981).「ヤン・ムカジョフスキーの軌跡(下)」を読む(『北九州大学外国語学部紀要』)

この論文の詳細は以下の通り。

小林孝夫(1981).「ヤン・ムカジョフスキーの軌跡(下)」.『北九州大学外国語学部紀要』,43,185-194.

感想:この論文では、1932年以降の構造主義者としてのムカジョフスキーの考えがレビューされていました。著者はまず価値、機能、規範、という3つの考えについて整理しています。

「価値(Wert)は評価を下す受容の対象物と解されている。その際、具体的価値規範は情況(時代及び評価を下す者の社会的・文化的前提条件)に拘束されている。」(p. 185)、と説明されていました。ムカジョフスキーはこのような相対的価値を重視する一方で、実はシェイクスピアやモリエールなどについては永久的価値というものを認めているそうです。また、芸術には美的価値が不可欠であり、芸術作品の中には実存的価値、知性的価値、倫理的価値、社会的価値、宗教的価値などの様々な火美的価値も含んでいますが、美的価値がそれらよりも上位におかれていると考えていたようです。逆に非美的価値が美的価値よりも上位に置かれる場合は、我々は芸術の外に立つことになると考えていたようです。

次は機能です。機能は「「一つの定まった価値を基に目標方針を持った社会」(KP 39)を基盤とした一つの客体の「作用」」(p. 186)と定義されていました。つまり、機能は価値に応じて分類されることになるわけですが、「美的機能は社会生活に対し、直接実践的関係は持たない」(p. 186)と考えられています。ただし、あくまでも相対的な問題になりますので、「美的機能が少なくとも潜在しないような人間的活動の領域は皆無であ」(p. 186)りますし、時間が経てばかつては実践的であったものが美的機能が優勢になることも多くあります。

次は規範です。美的規範とは「美的機能の規定」(p. 186)であると説明され、「芸術作品は、規範に基づくこの不断の相反する配慮により支配されている」(pp. 186-187)と述べられていました。この考えは、トゥイニャーノフなどの考えを知っていれば特に新しいことではないのですが、ムカジョフスキーは、トゥイヤーノフの研究を体系的に広げた(芸術の変遷をこのように社会的次元において捉えた考えを発展させた)と著者は考えているようです。ただし、著者も述べていますが、「確固たる輪郭を持つ規範の厳守が、その破壊よりも明らかに優位を占める時代がある。(擬古典主義)そして一つの革命的立場が保持に対し、現存するものの破壊を強調する時代もある。(未来派)」(p. 188)とあるように、規範に対するアプローチに対しても一方的に破壊の方向に進むというわけではないということを留保しておくことが必要です。

さて、それ以外のムカジョフスキーの考えとして、読者ないしは受容という側面に触れています。読者については、各芸術が読者を社会のどの階層に求めるかはその芸術の代表者層が決定するということ、低い社会階層の人々には古い美的規範を持っている傾向があること、が指摘されていました。読者についての議論のまとめとして、「標準が古ければ古いほどそれは手に入れやすく、観察者の邪魔を増々しなくなる。最高の状態は、最も若く、最も自動化(automatisieren)されていない規範を受け入れ、最低の状態は、最も自動化された規範を受け入れる。こうして美的規範と社会階級との相互対応が明白となる。もちろんこの対応は決定論ではない。何故なら構造は進化論的固有運動を持つからである。その際非美的系列が絶えず干渉はするが、その運動自体-立場を維持しようとする志向に於ても-この干渉を寄せつけないのである。」(pp. 188-189)と述べられていました。

受容という側面についても、著者はムカジョフスキーの寄与を認めるべきだと主張しています。そもそも、芸術は受容を通して現実化されるわけで、「作品に於ける芸術家同様、観察者も作品の美的現実化の際に、絶えず基準を志している」(p. 189)からだと著者は述べます。ただし、ムカジョフスキーもその弟子達もこの辺りのことを体系的に扱うことはしなかったそうです。

さて、一連の議論のまとめとして、「ヤン・ムカジョフスキーの構造主義は、芸術のいかなる面をも芥視しようとはしなかった。そしてムカジョフスキーの統合された精神は、芸術作品は内在的構造としてのみならず、非美的要因への種々の関係の交点としても評価され得る、ということに貢献をしたのであった。」(p. 190)と述べられていました。

非常に難解な論文でした。ムカジョフスキーの知識がないと読みこなすのはなかなか至難の業かもしれません。ですが、(上)と同様に、構造主義者としてのムカジョフスキーの考えの要点が整理してあるので、彼の理論についてその全体像を把握するのにはとても便利な論文ではないでしょうか。俗物マルクス主義文学理論者としてのムカジョフスキーの考えも出てくるかと思ったのですが、あくまでも研究対象は構造主義の段階に限定されていました。また、論文の最後に、解題として、Leechの文体論などに言及しながら、逸脱と規範について簡単なメモがあり、規範は変容するものであるということが改めて強調されていました。

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I.Yaron(2008).「What Is a "Difficult Poem"?: Toward a Definition」を読む(『Journal of Literary Semantics』)

この論文の詳細は以下の通り。

Yaron, I. (2008). What is a "difficult poem"?: Toward a definition. Journal of Literary Semantics, 37 (2), 129-150.

感想:この論文では、従来の作家やテクストという観点からではなく、読者の視点から、困難度(詩における困難度)を規定しようとされていました。そもそも、困難度は特に19世紀以降から詩の重要な要素と考えられてきました。そして、面白いことに、これまでの実験で、他のジャンルでは困難度に関して読者は否定的な態度を取るが、詩においては好意的な態度を取ることが明らかにされてきています。"readers of a difficult text can be persuated to accept difficulty within the poetic framework, while rejecting it elsewhere. It is evident then that genre plays a rol in the reception of difficult texts." (p. 132)また、困難度は読者に生起して初めて困難度となります。そして、その困難度は作家によって意図されたものもあればそうでないもの(18世紀の詩が現代人に難しいのは別に作家によって意図された困難度ではありません)もあるわけです。"what can determine which factors, among all the potential causes of difficulty in the text, are in fact those that disrupted the reader's process of understanding; that is, which of them changed from being potential to being real or effective for the reader." (p. 134, emphasis in original)そして、著者は読者にテクスト読解中に困難度を惹き起こしうる"comprehension obstacle" (p. 136)として、language、coherence、the world referred toという3つの要素について説明をします。ただし、これらはお互いに明確に分離できるものではないとのことです。また、これら3つの中で言語が中心的な位置づけにあるとのことです。coherenceに関しては、global coherenceとlocal coherenceの両方、またexplicit coherenceだけでなく、implicit coherence("the reader's imposing of a relationship on elements which lack explicit connection" (p. 138))を考える必要があると述べます。さらに、the world referred toに関しては、allusions、ambiguity、themes、figuresという4つに下位分類して議論がなされていました。ここまでの議論を著者は次のようにまとめていました。"To conclude, this discussion shows that the Reception Approach presents considerable advantages by comparison with the Textual Approach. The Reception Approach addresses a gap totally neglected by the supporters of the Textual Approach: the possibility that factors of difficulty intended by the poet might not in fact generate difficulty. The Reception Approach is broader than the "Textual Approach" first and foremost because its point of departure is the efect generated within the reader and not its textual causes. It thus includes within its scope factors of difficulty discussed by the supporters of the "Textual Approach". The principal advantage of the REception Approach in contrast with the opposite approach lies then in the fact that it leaves doors open for a non-realization of the textual diffuculty on the one hand and for the presentation of difficulty due to the reader alone, on the other." (p. 142)

次に、難しいとはどういうことを指すのかを読解処理研究を引用しながら整理されていました。著者は、"the difficulty is referred to in terms of constructing a representation. If the representation constructed by the reader is partial or defective (Miller and Kintsch 1980) or it its construction totally fails, the effect of difficulty will surface. The various models of comprehension share a common view of the initial part of the process, which is that it consists in matching parts of the text with corresponding knowledge stored in long-term memory." (p. 143)と述べています。

以上の議論をうけ、著者は「難しい詩」の定義を以下のように示していました。"A poem is considered difficult if the representation constructed by the reader is defective. Such defective representation is produced when some or all of the potential obstacles in the text, intentional or unintentional, become effective obstacles in the domains of language and/or coherence and/or the world referred to. This means that they disrupt construction of the representation." (p. 146, emphasis in original)

この論文では、文学の経験的研究の立場から詩というものを考察し、その困難度を規定した大変面白い論文でした。私はこの著者の論文が好きで、以前2本ほど読んだことがあります。文学の経験的研究の立場に精通している人はすらすらと読めてしまう論文ではないかと思いました。色々と考えることができて大変面白かったです。

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2010年3月 1日 (月)

小林孝夫(1980).「ヤン・ムカジョフスキーの軌跡(上)」を読む(『北九州大学外国語学部紀要』)

この論文の詳細は次の通り。

小林孝夫(1980).「ヤン・ムカジョフスキーの軌跡(上)」.『北九州大学外国語学部紀要』,41,51-59.

感想:1975年2月8日に死去したムカジョフスキーについて、彼の人生と理論の変遷がまとめられていました。

ムカジョフスキーは、1925年にプラハへ行き、1926年に創立されたプラハ言語学サークルに発起人として参加しているそうです。ちなみに、他のメンバーには、V. マテジウス、M. S. トゥルベツコイ、B. トゥルンカ、B. ハヴラーネック、R. ヤーコブソン、R. ウェレック、D. チジェフスキイ、P. N. ボガティレフがいたそうです(いずれもプラーグ学派のビッグネームです)。ですが、この学派は1939年には、亡命によりメンバーが激減したそうです。ムカジョフスキー自身は、1948年までプラハ言語学サークルの主義を主張していたようですが、その年にクーデターが起こり、ロシアがスターリン時代に経験した俗物マルク種主義芸術理論に屈することを余儀なくされたそうです。しかし、60年代に非スターリン主義化が起こると、様々な雑誌に点散された彼の構造主義的論考が出版され、チェコスロヴァキアに構造主義の方向性が構築されたそうです。この時期には彼自身は特に新しい論考を発表したりしたことはなかったそうですが、論文編集などに大きく協力したそうです。

ムカジョフスキーは、自らを19世紀のJ. ドゥルディック、O. ホステインスキー、O. チーフ(ムカジョフスキーの師匠)らによって擁護されていたチェコ美学学派の後継者と位置づけていたそうです。そして、彼には「J. F. ヘルバルトの美的直観を有効なものとするこの伝統を通じ、プラハ言語学サークルに於けるロシア・フォルマリズム理論の受容への好意的前提条件が形成されていた」(pp. 53-54)そうです。彼の最初の論文は、チェコ・ロマン主義者K. H. マーハの詩についての分析で、「マーハの『マーイ』-美学的考察」(1928)というものだそうです。

当初、ムカジョフスキーは単なる形式主義の研究方法を採っていたそうですが、1930年頃この研究方法をやめ、個々の作品をより多くの系列(美的系列はもちろん、伝記的、心理的、宗教的、社会的、教訓的系列など)の中に位置づけ、美的なものの発達を導き出すという構造主義的な研究方法にシフトしたそうです。こういった研究は、ロシア・フォルマリズムの後期、ティニヤーノフの研究にも見られますが、彼はシクロフスキイに注目し、彼の研究の中にもすでにそのような構造主義的な萌芽を見て取っています。

ムカジョフスキーの構造ないし構造主義について、著者は次のようにまとめていました。「「構造」とは「思考の単位」(KP11)であり、総体的全体以上のものであり、蓄積により生じた累層以上のものである。各々の部分が正しくこの特定の構造を意味し、その構造が次には各々の部分を意味する。構造の更なる特徴はその動的特性にある。即ち各々の部分がこの座標系の枠内に特定の機能を持ち、これらの機能の多様性により構造が不断の変化の総体として屈服させられている。」(p. 55)美学に焦点を絞り、著者は次のようにも述べています。「美学の中でも個々の芸術作品は一つの構造を形成している。ここで「美的対象物」とも呼ばれる構造が決定する組織内で、一つの要素が現実性を得るか失うかして変化するとき、必然的に他の部分の諸関係も互いに変化する。従って構造とは決して不変量ではなく、発展の過程に拘束されている。それには上位の総体も圧倒されている。」(p. 56)また、ある系列の構造は他の系列の構造と関係を持っており、さらにそれらを統括する上位構造が存在しています。つまり、構造同士の構造関係からなる構造の総体とでもいったようなものをムカジョフスキーは構想していたようです。

その他指摘してあったこととして、「ロシア・フォルマリスト達と同じくムカジョフスキーも形式と内容という因襲的区分に反逆し、そこに素材対芸術的手法という二分法をソテイしている」(p. 56)、「ムカジョフスキーは特に芸術的手法、いかに作品が作られているかという様式、形式的・文体的層から意味の単位と実質的要素の形態の配合に至るまでのあらゆる技巧、に興味を抱いている」(p. 56)、「美的対象物は形而下の人工物と対立している」(p. 56)と考えられ「読書による受容を通して初めて人工物(印刷物)が一つの美的対象物になる」(pp. 56-57、(  )内は本ブロガーによる)、「芸術の場合にも美的対象物は大衆により定まったコード、一般に認められた美的規範に従って解読される」(p. 57)、ただし大衆の側から芸術家に要求をして芸術家がそのコードに従って書くという状況も起こること、などがありました。最後の2つの点は、芸術創造性と社会の関係について論じたものになるそうです。

この論文はかなり凝縮して書かれています。ムカジョフスキーやプラーグ学派、ロシア・フォルマリズムの知識がないと非常に読みにくいかもしれません。ですが、構造主義者としてのムカジョフスキーの要点が簡潔にまとめてあり、ムカジョフスキーという学者の考えの全体像を把握するのに便利だと思います(ムカジョフスキーの考えの全体像は、論文が単発的であったり、チェコ語で書かれていたりなど、様々な理由から、なかなか把握しにくいと言われています。)。

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白井恭弘(2008).『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』を読む(岩波書店)

本書の詳しい情報は以下の通り。

白井恭弘(2008).『外国語学習の科学-第二言語習得論とは何か』.岩波書店.

感想:本書では、第一章で第二言語習得に対する母国語の影響、第二章で臨界期仮説、第三章で、動機づけなどの個人的要員が第二言語習得に与える影響、第四章で外国語学習のメカニズムについての研究の紹介(インプット仮説と自動化モデル)、第五章でこれまでの教授法や学習法、第六章では本書で紹介した第二言語習得論の見地からの著者による外国語学習法の提言、といった構成になっていました。とても読みやすく、面白かったです。第二言語習得論がこのような形で入門書として出版されたことはとても意義深いことだと思いました。第二言語習得論について既に詳しい人でもとても楽しめる書だと思います。様々な研究が紹介してありました。詳細は本書を直接ご参照下さい。

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