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2010年2月27日 (土)

Y.Shen(2007).「Foregrounding in Poetic Discourse: Between Deviation and Cognitive Constraints」を読む(『Language and Literature』)

この論文の詳細は次の通り。

Shen, Y. (2007). Foregrounding in poetic discourse: Between deviation and cognitive constraints. Language and Literature, 16 (2), 169-181.

感想:この論文で著者が示そうとしていることは次の二点です。"(1) certein layers of poetic texts selectively use certain deviations (foregrounding devices) by favoring certain types of deviations rather than others; (2) thise selective use is determined by cognitive constraints - that is, the options that are selected more often than not are cognitively simpler than those that are less frequently used." (p. 170)著者は、直喩と撞着語法を例にこのことを示していきます。これによって、(通常の)コミュニケーションを阻害する前景化であっても、認知的な抑制が昨日しており、言語処理的にはより容易であるものの方を好むということを示そうとしています。一般に、前景化理論は処理がより難しいものを好む傾向がありますが、事実はそうではないということを明らかにしようとしています。ただし、前景化理論に対して反旗を翻そうというのではなく、あくまでも前景化理論を補足することが著者の狙いです。"a comprehensive foregrounding theory should take into consideration both the 'violence against cognitive processes' (to paraphrase the Russian Formalist view; see Tsur, 1992) and the notion that this violence is itself limited by cognitive constraints." (p. 180)

まず直喩についてですが、著者は直喩を2種類に分類します。それらはcanonical simileとnon-canonical simileです。前者は、"mapping more accessible (salient, typical, concrete) concepts into less accessible ones" (p. 171)という形の直喩で、Education is like a ladderがその例文になります。後者は、その逆のプロセスでドメイン間の投射が起こるもので、A ladder is like educationがその例文です。そこで、実際にこれら2種類の直喩の使用状況を実際の詩から例文を収集し、分析がされていました。その結果、"In sum, there is a robust pattern found in various poetic corpora, according to which canonical similes are much more frequently used than non-canonical ones, across languages, historical periods, genres and poetic schools." (p. 172)前景化理論であれば、canonical simileの方がnon-canonical simileよりも難しいと予想するでしょうが、実際は逆であると著者は述べます。そこで、直喩の処理を調べた研究を引用し、前者の方が後者よりも処理が簡単であるということを導き出しています。(読者は前者の方をより自然で意味深いと感じる、前者の方が解釈に時間がかからないし解釈が容易である、前者の方が再生率も高い、前者の方がソース間の類似性が高く感じられる、といった結果が報告されていました)。

次は撞着語法です。ここでも著者は2種類の撞着語法を導入します。それらはdirect oxymoronとindirect oxymoronです。前者はwet drynessのように、"the head noun and the modifier represent direct antonyms" (p. 174)といったタイプのもので、まさに両単語が正反対の意味を同じ抽象度でもって表しているタイプの表現です。後者は、"an oxymoron in which one of its terms represents the hyponym of the antonym of the other term" (p. 174, emphasis in original)と定義され、whistling silenceといった表現がその例となります。著者は、詩において両者がどのように使用されているかを調べました。その結果、"The indirect oxymoron was much more frequently usedthan the direct one" (p. 175)という結果になりました。前景化理論であれば、indirect oxymoronの方が処理が難しいと予想すると考えられますが、著者はここでも実はindirect oxymoronの方が処理が容易であるということを示していきます。direct oxymoronの処理について、wet drynessという表現を例に著者は次のように述べていました。"only onecandidate, namely, the opposite value on the dimension along which the two terms differ (e.g. wetness). It would, then, seem quite difficult to generate a sensible meaning to the oxymoron in question given the poverty of candidates for attribution" (p. 176, emphasis in original)反対にindirect oxymoronについては次のように述べていました。"the modifier of the indirect oxymoron provides several features that, in principle, can be attributed to the head noun" (p. 176)そして、著者は次のように結論付けます。"The argument then, is that, all things being equal, the indirect oxymoron is easier to assign meaning to than its direct counterpart, because the modifier of theindirect oxymoron is richer in features that can be considered for attribution." (p. 177)著者は、さらにこのことを裏付けるために、心理言語学的な研究を引用します。そして、indirect oxymoronはdirect oxymoronよりも読解時間が短く、される連想の数が多いことが示されていました。また、internal responseとexternal responseという読者反応分析用のカテゴリーの見地からも著者の主張がサポートされていました。internal responseとは、"responses that consisted of referent(s) belonging to the same (literal) domain to which (at least) one of the oxymoron's terms belong"という反応であり、external responseとは、"those that did not contain any literal reference to any of the oxymoron's terms. They include: (1) Metaphorical interpretations of the oxymoron's two terms. Those were cases where both concepts comprising the oxymoron were represented metaphorically in the subjects' response, as in 'an interesting remark of a boring person' as a response to the oxymoron - wet dryness. (2) Meta-theoretical comments; typical examples are 'This is an oxymoron', and 'These are two contradictory terms'. (3) The third type of external responses reflected difficulty in assigning meaning to the oxymoron, as in 'It's too difficult an expression', and 'no such thing'." (p. 178, emphasis in original)と説明されていました。著者によるとinternal responseはより特定の表現が簡単であることを示す反応であり、external responseはその表現が難しいことを表す指標となるとされています。そして、実際に調査してみたところ、"indirect oxymora will generate more internal and fewer external responses than direct ones." (p. 179)という結果となりました。

このように、著者は特定の言語表現でも、詩でより好まれるタイプがあるということを示しただけではなく(この点では前景化理論との見解の不一致は見られないでしょう)、好まれるタイプは認知的な観点からはより単純な形式であるということを示しました(この点では前景化理論と意見が異なります)。著者は、従来の前景化理論を認知的観点から補足したいと考えており、とても有意義な議論がされていたと思いました。とても面白かったです。

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2010年2月25日 (木)

水野忠夫(1975).「スターリン時代下のソヴェト文学」を読む(『国文学』)

この論文の詳細は次の通り。

水野忠夫(1975).「スターリン時代下のソヴェト文学」.『国文学』,20 (9),43-48.

感想:ロシア・フォルマリズム以降の社会主義リアリズム下でのソヴィエトの文学研究の様子が生々しく書かれていました。政治が文学をコントロールし始めると、非常におそろしいことが起こるということをまざまざと理解させられました。議論は1935年6月にパリで開催された文化擁護国際作家会議の結果を中心に議論されており、その会議では、「会議全体の流れが、ファシズムの文化破壊を告発しつつ、反戦反ファシズムの人民統一戦線を確立してドイツに対抗し、「平和の砦」としてのソ連を全面的に擁護しようとする雰囲気に支配されていた」(pp. 43-44)そうで、その時のソ連代表作家団(トルストイ、コリツォフ、エレンブルグ、チーホノフ、キルション、パステルナーク、バーベリら)は「嵐のような拍手で迎えられ、ソ連の社会主義建設の勝利と社会主義リアリズムの成果を誇らしげに語り、ファシズムの文化にたいする社会主義の文化の優位性を強調していた」(p. 44)と述べられていました。中には、スターリン体制に批判的な声もあったそうですが、そのような声は圧倒的多数によってかき消されたそうです。

スターリン体制化では、「『文学』と『政治』との緊迫した関係は熾烈な闘争を経たのち、『政治』の完全な勝利によって両者の対応関係に終止符が打たれ、『文学』はみずから死を選ぶか、『政治』に順応するか、あるいは沈黙を守るか、それ以外にはいかなる道も残されていなかった」(p. 47)そうです。著者は続けます。「ロシア革命後、マヤコフスキイを中心とするロシア・アヴァンギャルド芸術の運動は、詩学、言語学を含めた文学、絵画、演劇、映画といったジャンルを越えた芸術革命を志向し、インターナショナルな革命精神に燃え、世界感覚や意識、魂の変革を敢行することで人間の全的な解放を目ざしたが、革命の後退期に入り、高揚した民衆のエネルギーの拡散、政治におけるスターリン主義の勝利とともに、アヴァンギャルド芸術の流れは「形式主義」として弾圧されはじめた。」(p. 47)作家たちは、(仕方なく)「スターリン体制を支持し、仲間の作家たちを告発してい」(p. 46)たそうです。本当に恐ろしいと思いました。論文の最後では、演劇の十月を唱えたメイエルホリドが、スターリン主義に屈しなかったがために粛清されてしまった話が紹介されていました。

この論文では、社会主義リアリズム下の文学活動がいかなるものであったかを生々と示しており、非常に貴重な論文だと思いました。また、ロシア・フォルマリズムがなぜ消滅したのかということも(論文の中では明確には記述はされていませんが)、行間から理解することができます。勉強になりました。

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J.Littlemore&G.Low(2006).「Metaphoric Competence, Second Language Learning, and Communicative Language Ability」を読む(『Applied Linguistics』)

本論文の詳細は以下の通り。

Littlemore, J., & Low, G. (2006). Metaphoric competence, second language learning, and communicative language ability. Applied Linguistics, 27 (2), 268-294.

感想:前から気になっていた論文です。著者はまず、メタファー能力を次のように定義しています。"We use the term 'metaphoric competence' in a fairly broad sense, to include both knowledge of, and ability to use, metaphor, as well as Low's (1988) 'skills needed to work effectively with metaphor'" (p. 269)。著者らは、メタファー表現と概念メタファーの両方を扱っており、それぞれに学習者を注目させることで利益があると考えています。前者に関しては、例えば言語知識の深さと語彙の保持が向上すると述べており、後者については学習者の言語学習と言語使用を促すと考えています。また、メタファーは第2言語学習者に母国語話者とやり取りをする上で非常に重要な要素であるとも指摘されています。著者らの指摘が次のようにまとめられていました。"both the conceptual and the linguistic are needed iof language learners are to acquire more than minimal communicative competence in the L2. We also argue that learners are likely to engage in metaphoric thinking more frequently than native speakers and that this active mental and social engagement can be harnessed to facilitate both understanding and learning. Somehow learners have to acquire two seemingly opposed skills; they need rapid access to a standard sense in order to maintain fluency in reading/listening, but at the same time they need to be able to recover, or hypotheseize, metaphoric detail in order to interpret accurately and appropriately." (p. 273)

そして、以下ではBachman (1990)のcommunicative language abilityのモデルにメタファー能力がどのように関わるかということが議論されていました。本来、Bachmanのモデルにはsociolinguistic comptenceに関してしか言及がありませんでしたが、著者らはそのモデルの他の能力にもすべてメタファーが関わっていると述べ、能力別にメタファーの関わりを例示しながら説明されていました。私自身が一番面白いと思ったのは、文法能力に関する箇所で、著者は文字通りの意味と拡張された意味を並べるだけでは不十分であり、3つか4つの文を使って文字通りの意味から拡張された意味へと徐々に移行していく様子を学習者に示すことが有用である(ここでは前置詞について述べられていました)という指摘でした。著者はbeyondという前置詞を例に説明していました。文法能力に関してはその他にも指示詞と時制/相が取り上げられていました。いずれも面白い例でした。

著者らによると、語彙指導ということに関してはかなりメタファーを意識した指導が研究されてきているようです。ですが、談話レベルでのメタファーなども今後は研究されていく必要があるとのことでした。著者らは、"control over metaphor is one of the essential tools for empowering learners to cope successfully with native speakers" (p. 290)と述べて本論文を締めくくっていました。

各能力への比喩の関与に関する記述は本論文を直接ご参照下さい。色々な例があって、とても面白いです。

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氷川雅則(1996).「プラグマティズムにおける言葉の意味について-マリノフスキーによる言語の原始的な用法の分析を手掛かりにして-」を読む(『論集』)

この論文の詳細は以下の通り。

氷川雅則(1996).「プラグマティズムにおける言葉の意味について-マリノフスキーによる言語の原始的な用法の分析を手掛かりにして-」.『論集』,14,126-137,東京大学大学院人文社会系研究科哲学研究室.

感想:著者はまず、パースの著作を引用し、プラグマティズムにおける言葉の意味に関して、「「語や句の持つ理性的な意味」とは、「その概念が人間の行動に対して与える理性的な影響の中にだけ存在する」というようにとるべきではないだろうか」(p. 127)と指摘します。そして、マリノフスキーの原始言語からその議論の肉付けが行なわれていました。

著者はマリノフスキーの研究を詳細に見て行きますが、著者のレビューのまとめが簡潔になされていました。「原始的な用法における言葉は「場の文脈」においてでしか捉えられないこと、ある行為や活動の目的と結びつけて捉えられるべきこと。しかも、しばしば、特に幼い子供にとっては言葉を発すること自体が一つの行為となっていることが明らかになったと言えよう。」(p. 131)詳細は本論文をご参照下さい。また、場の文脈とはcontext of situationの日本語訳ですが、この概念に関して、「言葉を理解するためには、その言葉が発せられた文脈をまず理解していなければならないが、それだけでは不十分で、その言葉が発せられた状況をも理解していなければならない。しかも、【場の文脈】という言葉は、ある短い時間の中に起こった出来事にとどまらない。むしろ、慣習や文化などのさらに長い時間をかけて育まれるものをを意味するのである。」(p. 129)と述べられていました。さらに、マリノフスキーにとっては論文などに典型的に見られる反省的、認識的な言語は言語の本質からは離れた副次的な言語機能と見なされ、原始言語のように行動様式そのものであるような言語こそがその本質であるとみなされています。

ここまでの議論を受けて、著者は言葉の意味について定義を提案しています。「個別的な言葉の意味は行為や活動によって確定されるのだが、もし、一般的に言葉の意味というものを定義するとすれば、その定義は、「言葉の意味とはその言葉を用いることによってどのような目的を達成できるかである」ということが明らかになるのではないだろうか。」(p. 131)

最後に語根と意味、品詞(名詞と動詞)について簡単に触れられていました。マリノフスキーは、原始言語においては意味と語根が密接に結びついており、その意味を特定の活動から切り離して抽象的な言葉の意味を求めたり、比喩などによって語根を品詞間で移動させることについて批判しています。実際、マリノフスキーは名詞を意味の抽象化の結果として捉えている記述があります。しかしながら、著者はこの辺りの議論にはマリノフスキーの混乱が見られるとし、著者なりに議論を修正しています。著者が指摘していますが、マリノフスキーにとっても、もともと名詞は動作や行為と深く関わっていたものです。著者によると、例えば「窓」という名詞は、状況に応じて「窓を閉めなさい」とか「窓を拭いて」といった意味であり、決して「窓を閉めなさい」といった文の省略形ではないと述べています。著者は次のように述べています。「省略ではなくて、むしろ、例えば「窓」の意味であった「窓を閉めなさい」を「窓」という言葉の他の意味、「窓を割る」や「窓から外に出なさい」などの意味から浮き上がらせる(区別する)ために「閉める」という動作だけを表す言葉が付け加えられたと考えるべきだろう。また、「窓」という言葉の対象とは、「窓」という名詞にそのような対象が二項的に結びついていると考えるべきではなく、「窓」という言葉が結びついている行為の対象だと考えるべきだろう。」(p. 133)

この論文では、マリノフスキーを初め、多くの機能主義言語学者が言う、言葉の意味とはその語が用いられたコンテクストであるという命題を非常に明確に理解させてくれます。とても面白い論文で、私は特に最後の箇所に大変興味を持ちました。

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2010年2月24日 (水)

石川有香(1997).「リーディング指導の新視点-改作と原作の対照による精読の指導-」を読む(江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸效教授退官記念論文集:英語科授業学の今日的課題』,金星堂)

この論文の詳細は以下の通り。

石川有香(1997).「リーディング指導の新視点-改作と原作の対照による精読の指導-」In 江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸教授退官記念論文集 英語科授業学の今日的課題』(pp. 157-168).金星堂.

感想:著者によると、改作は多読指導のために用いられてきたものですが、「原文の文体特徴を浮かび上がらせる比較基準として、精読指導にも十分応用が可能なものである」(p. 157)と指摘されています。ここでいう精読とは、文法訳読式ではなく、「文体の細かな特徴に注目しつつ、書き手の息遣いや、時には文章の表面と微妙にずれた書き手の真意を掴み取ってゆく精読法の一種である「文体論的読解法(stylistic intensive reading)」」(p. 157)を指しています。著者は原作と改作にはそれぞれ長所があると述べます。「文学の薫りを残した原作は、近年の英語教育が強調する教材のauthenticityや、他文化の尊重を謳う異文化理解の点ですぐれたものであるが、一方、改作は、長編の読了によってのみ得られる読書の喜びを容易に与えることができる点ですぐれたものである。」(p. 158)著者によると、日本では改作は剽窃と同一視され、あまり文化内で根付いてきませんでしたが、英米では原作と共存するものとして文化的に認知されてきたそうです。そして、著者は原作と改作を使ったリーディング指導を提案します。「我々も日本の英語教育において、改作と原作の共存という方向を模索する必要があるのではないだろうか。そのことは同時に、教育現場において、精読と多読という二つのリーディング技術の指導を共存・融合させることにも繋がるはずである。その具体的な方向としては、従来の原作精読方指導に軸足を置きながら、改作を通した多読的アプローチを少しずつ取り入れていく方法と、逆に、改作多読型指導に重点を置きつつ、必要に応じて原作の精読を取り入れていく方法との二種類が考えられるが、本稿ではとくに後者の指導法について考えてゆきたい。」(p. 158)

著者はまず改作の種類として、簡易化、抄略、書き換えの3つを説明し、簡易化に着目します。また、各出版社が示しているグレイディングのレベルの曖昧性についても指摘し、教師は授業でそのようなリーダーを用いる場合は自ら検討しておくことが必要であると注意を促していました。そして、具体的な指導例が紹介されています。著者は、「原作と改作の対比による微妙な文体の差異を指導するのが授業の具体的目標であるから、原作と改作の内容上の差異は少ないほど望ましい。したがって、内容そのものにまで書き替えが及んでいる等級の低いものではなく、内容が比較的よく保存されており、改作が言語表現に限定されている等級の高いものを選ぶべきであることになる。」(pp. 160-161)と述べられていました。著者はJane Eyreを題材とした文体論的精読指導で、作品中の人構文と物(虚辞)構文、動詞による表現と名詞による表現、イディオム表現、に着目させ、原作と改作がそれぞれどのように異なっており、それによってどのような効果が生じているのかを考えさせる活動が例示してありました。ここで、著者は「どのような効果をもたらすか」といった漠然とした質問は学生自身なじみがないため、避けるべきであると述べています。代わりに、「例えば「人間が主語になっているか否か」「(助)動詞を使っているか名詞を使っているか」「afternoonが示す範囲とdayが示す範囲の時間的差はあるか」など、具体的に差異を強調することで、考える手掛かりを与えてやりながら答えさせることが肝要である。」(p. 162)というアドバイスが述べられていました。

この指導は大学生英語学習者に対するものですが、著者も述べているとおり、高校レベルでも可能です。具体例が豊富ですので、読んでいてとても面白かったです。

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音在謙介(1997).「教材としてのヘミングウェイ試論-自己のアイデンティティーから捉え直す英語教材-」を読む(江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸效教授退官記念論文集:英語科授業学の今日的課題』,金星堂)

この論文の詳細は以下の通り。

音在謙介(1997).「教材としてのヘミングウェイ試論-自己のアイデンティティーから捉え直す英語教材-」.In 江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸教授退官記念論文集 英語科授業学の今日的課題』(pp. 85-98).金星堂.

感想:非常に斬新な語り口の論文で、色々と考えさせられました。著者は、「印欧語族に属さない日本語という言語を母語とする私たちにとって、知的充実と学習の動機づけという両面において、私たち自身の文化の側から英語を引き寄せた教材を開拓してみることも大事なのではなかろうか」(p. 86)と述べ、俳句という日本独自の観点から英語文学教材を捉え直すという作業が行なわれていました。著者は、その意義として、「俳句を原点とした一連の教材群を掘り起こして私たちの英語習得の動機づけの一つとし、合わせて世界の英語学習者とのコミュニケーションの手段とするという作業は、日本人として試みる価値が十分ある筈である」(p. 86)と述べられていました。そして、著者は、まず俳句イマジズムに影響を与え、イマジズムの中でEzra Poundが俳句の影響を受け("In a Station of the Metro"など)、Poundを通してHemingwayに俳句の影響が伝わったということを示していきます。そして、高等学校の英語教科書に実際に収められた、"In Another Country"という短編の文の中の俳句的要素を指摘し、文を徐々に俳句的に改作していくという作業が行なわれていました。一見、散文内の文なのですが、著者によってそれらの文が俳句的に書き換えられて(著者の立場で言えば、Hemingwayが本当に伝えたかった本来の形に直されて)いました。一連の議論を終えて、著者は、「以上のような作業によって、私たちは俳句というわが国固有の文化から、それにまつわる英語教材の一グループを開拓してゆくことができるのである」(p. 95)と述べ、さらにビート派詩人もこのような教材群に入れることができると指摘されていました。私にとっては非常に斬新な教材論で、とても面白かったです。

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E.Spolsky(2002).「Darwin and Derrida: Cognitive Literary Theory as a Species of Post-Structuralism」を読む(『Poetics Today』)

この論文の詳細は次の通り。

Spolsky, E. (2002). Darwin and Derrida: Cognitive literary theory as a species of post-structuralism. Poetics Today, 23 (1), 43-62.

感想:著者は、徐々に現われてきているcognitive litearary theoryは、ポスト構造主義的思想の延長線上に構築されてこそ役立つと述べています。著者が言うポスト構造主義的思想とは、システムないし構造は、当座の目的を満足のいく程度に果す恒常性と何か変化が起こったときに対処するための変容性(不安定性)を兼ね備えているという考え方です。"My understanding of the usefulness of the cognitive way of talking about the cultural production of human minds and brains is, thus, based on an analogy between some elementary facts about the human evolved brain and the post-structuralist view of the situatedness of meaning and of its consequent vulnerability to the displacements and reversals that deconstructionist criticism reveals." (p. 44)そして実際、ニューラルネットワークに関する研究などは、システムの恒常性とその変容性を同時に認めるような機能を明らかにしてきていると著者は述べています。

コミュニケーションや言語といった事柄に関して、著者は次のように述べていました。"While human communication surely depends on the relative stability of word meaning and its iterability across contexts, theu maintenance of the rich cultural life of human societies probably depends as fully on our ability to trope or to distort the probable or conventional meaning of a word and to be understood when we do so." (p. 50)、"The result of several decades of post-structuralist artument has been to allow the emergence of an important insight: the functioning of human language depends on both its iterability and its instability. The combination is more than just a paradox of simultaneous transcendence and limitation. It also allows a glimpse at how woeds that are vulnerable in their instability are also usable for the propagation of new meanings." (p. 50, emphasis in original)

そして、進化が可能であったのも、情報というものがこれらの相反する2側面を持っていたからこそであると著者は述べます。"Thus one could hypothesize that the human representational system evolved in response to a tension between two needs, the need for good enough (reliable enough) representation and the need for a flexible representational system. Evolution in that area would slow down when the lines of the two curves intersected, and thus we live with a system that is a gradint version of the deconstructive hypotheses: the system is notentirely stable; it is always open to catachresis, that is, to deliberate rhetorical hijacking or troping. And that vulnerability is just what allows creative innovation, keeping the species  going at the two jobs that never get done, survival and adaptation." (pp. 52-53)

また、ポスト構造主義は単に不安定性を提案しただけでなく、その不安定性が構造化する際に誰かにその構造化の方向性がコントロールされることがあるということをFoucaultを引用しながら指摘していました。"if the representational center is indeed movable, as it is now understood to be, then it is probably manipulable. It does not just change, it is changed byu someone or some group." (p. 53)しかし、この点については論文中ではあまり議論が深められておらず、指摘にとどめられていたように思いました。

また、著者は自分の立場について、"I remain a structuralist, I am also a post-structuralist because I believe both that structures are describable simultaneously in more than one way and that they are permanently open to revision." (p. 55)と表明しています。そして、ポスト構造主義とダーウィニズムの関係について、"The general shape of my claim is that nothing could be more adaptionist, more Darwinian than deconstruction and post-structuralism, since both understand structuration - the production of structures (and this is the same thing as the production of theories of structures ad infinitum) - as an activity that happens within and in response to a specific environment. It is an activity that is always already designed for cultural use but also always ready to be reused or redesigned as needed." (p. 56)と述べています。同様に、"Indeed, I see the value of Darwin's theory as a description and not as an explanation of change, adaptation, and recategorization. On these grounds it is attractive to literary theory because the processes it hypothesizes for the natural world of plants and animals, that is, spontaneous change/variation, followed by survival and loss and temporarily stable subspeciation, are consistent with many of the most interesting recent theories of mind, knowledge, meaning, and interpretation. Insofar as it can be argued that an evolutionary theory of how living creatures in the natural world adapt and survive is also a theory of mind, that is, a theory of the way the human mind/brain adapts and learns (I am assuming these are not two different things), then both theories are strengthened." (pp. 57-58)とも述べており、これが本論文で最も伝えたかったことではないかなと思いました。

著者の論文や著作は他にいくつも読んでいたので、私にとってはかなり読みやすく感じたのですが、構造主義からポスト構造主義の辺りの流れなどを把握していないとかなり難解な論文になってしまうと思います。私は著者は、安定性と不安定性を共存するものとする考えがかなり好きで、他の著作も読んでいます。著者のこのような考えは、文学に関しては、なぜ斬新な技巧を使っている(不安定性)にもかかわらず読者に理解されうるのか(安定性)ということに対する著者の答えとなるわけですが、そういった考えが文学能力モデルとして示されているものに以下のものがありますので、興味のある方は一読されると面白いと思います。文学の経験的研究の論文では頻繁に引用される書です。

Schauber, E., & Spolsky, E. (1986). The bounds of interpretation: Linguistic theory and literary text. Stanford.CA: Stanford University Press.

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2010年2月23日 (火)

白畑知彦・若林茂則・須田孝司(2004).『英語習得の「常識」「非常識」:第二言語習得研究からの検証』を読む(大修館書店)

本書の詳細は次の通り。

白畑知彦・若林茂則・須田孝司(2004).『英語習得の「常識」「非常識」:第二言語習得研究からの検証』.大修館書店.

感想:今更ながら読んでみました。とても読みやすく、面白い内容でした。どちらかというと入門的な書ですので、第二言語習得研究に詳しい人であればそれほど新しい事柄は出てこないかもしれませんが、巷に流布している俗説に対して第二言語習得研究の観点からその問題点を指摘していくというスタイルは大変面白く、一気に読み終えてしまいました。

本書では、母語習得過程、英語の習得順序(外国語学習法がその順序に与える影響)、学習者の誤り、学習者要因が第二言語習得に与える影響、臨界期仮説、脳科学から見た第二言語習得、というトピックが扱われており、関連した俗説が各説で扱われています。まず、俗説に関連した第二言語習得研究の内容を明確に示し、それに基づいて俗説の問題点が指摘されるという形で論が進められていました。事例がとても豊富で、知っている理論であってもとても面白く読むことができると思います。

また、著者は本書の所々で言語習得研究と言語教育研究を区別しなければならないということを述べています。この区別は大切で、よく誤解をされてしまいます。私が専門としている英語教育学ではこの両者を含んでいますので、しばしば学会でどちらの立場の英語教育学研究を行なっているかで食い違いが生じることが多いです。

本書は、第二言語習得研究の面白さをとてもうまく伝えてくれる良書です。あまりこの分野に詳しくない人であっても、とても楽しむことができると思います。本書で示されている細かい内容については、本書をご覧下さい。著者らは必ず最後に要点をリストアップしてくれますので、とても読者にやさしい書き方がされています。

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W.van Peer,J.Hakemulder&S.Zyngier(2007).「Lines on Feeling: Foregrounding, Aesthetics and Meaning」を読む(『Language and Literature』)

この論文の詳細は以下の通り。

van Peer, W., Hakemulder, J., & Zyngier, S. (2007). Lines on feeling: Foregrounding, aesthetics and meaning. Language and Literature, 16 (2), 197-213.

感想:この論文では、ポルトガル人のポストロマン派詩人Antero de Quentalの "Espectros" という作品の1行が調査材料として使われています(ポルトガル語による実験)。著者らは、コーパス言語学の知見を使いながら、オリジナルよりも前景化(逸脱性)の度合が徐々に劣る文を5つ作成しました。したがって、6つの文が用いられることになります(「6」はオリジナル、「1」は最も前景化の度合が低い)。そして、前景化が読者の反応にどのような影響を与えるかを調査しています。具体的には、読者の反応のうち6つの側面に注目して実験がなされていました。それらの側面は、リカートスケールによる質問項目で調べられています。研究の目的に関する著者らの大まかな説明を載せておきます。"In sum, our discussion of theory and the relevant research leads us to expect that different degrees of deviation cause effects on six aspects: on aesthetic appreciation, aesthetic structiore, cognition, emotion, attitudes and on awareness of the social context of liuterature." (p. 201)

調査方法などはここでは省略し、この調査で明らかになったことを列挙していきます。 (1)aesthetic structure、cognitive aspects、attitudinal changeに関しては前景化の度合とその反応が関連しているという結果が得られた(他の3つの側面(どちらかというと情意的側面)ではなく、認知的な側面のみにそのようか関連性が見られたのは、調査方法(読んだ後に多くの質問文に答えてもらうというデータ収集方法と1文のみを扱うという方法)が影響しているのかもしれないとのことでした)、(2)しかしながら、それら3つの文学反応の側面と前景化の度合の間にはきれいな比例関係があるわけではなかった(しかし、前景化の度合というもの自体は読者に知覚され、表層構造がほのめかすよりも深い意味があるかもしれないとして読者の更なる情報処理を促すことはあるようだ)、(3)ただし、前景化の度合が高くなれば、それらの側面も高まる傾向は見られた(ただし、attitudinal changeはオリジナルの文においてその反応が一気に否定的になってしまっていた。これはオリジナルの文が難しすぎたことに起因するのではないかというのが著者らの見解であったが、他の2つの側面に関してはそのようなことは見られないということも指摘されており、分からないというのが本当のところではないでしょうか)、(4)日頃の読書量と前景化の知覚の間には関連性が見られなかった(つまり、どのような読者に対しても前景化は同様に知覚される傾向がある)、(5)ある文をより前景化の度合が高い文と比べた時のほうが、より前景化の度合が低い文と比べたときよりも前景化を強く意識する傾向が見られた、(6)前景化は読者の個人的要因とは独立して読者に影響を与える傾向があるようだ(ただし、今回の調査ではそのことが示唆されたに過ぎないので、注意が必要)、といったことが示されていました。

著者ら自身が期待していた結果がほとんど得られなかったこの論文の原因として、やはり1文だけでの実験というのは難しかったのかもしれないと述べています。しかしながら、方法論上、今回の措置は必要不可欠であったということも指摘しており、今後の更なる研究の必要性を訴えていました。私自身、この論文は大変面白く読みました。文学とその調査における操作化というものの間には大変大きなギャップがあり、とても悩ましい問題です。文学について調べるために操作化を行なったはいいものの、その操作化された構成概念はもはや文学とはあまりにもかけ離れてしまう、ということは文学の経験的研究を初めとした多くの実験系の研究に常に向けられる批判です。

少し統計に関する記述で疑問点が残ってしまう点が数箇所ありましたが、この論文は大変内容が刺激的で、色々と考えさせられる、とてもよい論文だと思いました。あまり実験系の文学理論研究に馴染みのない人でも、新たな研究方法を知ることができると思いますので、一読をお薦めします。

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2010年2月22日 (月)

神尾昭雄(1968).「「変形文法対成層文法」論をめぐって」を読む(『英語青年』)

この記事の詳細は次の通り。

神尾昭雄(1968).「「変形文法対成層文法」論をめぐって」.『英語青年』,114 (9),593-594.

感想:前から気になっていた記事でしたので、読んでみました。今は亡き成層文法ですが、1960年代には(変形)生成文法とかなり比較されることが多かったようです。著者は、2つの言語理論を、(1)言語理論の抽象性、(2)意味と統語構造の関係、(3)記号体系の理論と自然言語の理論の関係、という3つの観点で比較していました。生成文法に関しては書物も多いですので、ここでは特に成層文法の特徴に焦点を絞ってまとめたいと思います。

まず、(1)言語理論の抽象性ですが、成層文法においては、「文法の中に発話と了解の基本的過程(encodingとdecoding)が組み込まれており、これによって文法と言語運用との関連が容易に説明できる」(p. 593)と参考文献に基づいて述べ、成層文法の方が変形生成文法よりも「抽象度が低い次元に設定された理論である」(p. 593)と述べられていました。著者は、成層文法は「より具体的な発話と了解の過程を説明することに重きを置く傾向が」(p. 593)あると指摘されていました。

次に、(2)意味と統語構造の関係、についてです。生成文法の枠組みでは、意味部門への出力がどこで行なわれるかは時代ごとでかなり異なっているので一概には言えないのですが、この論文では「深層における統語表記から意味表記へ機械的な写像(mapping)を行」(p. 593)うという標準理論の考えに基づいて議論がなされています(生成文法の枠組みの変遷については、Jackenoff (2002) のFoundations of Language: Brain, Meaning, Grammar, Evolutionなどが参考になるでしょう)。これに対して、成層文法では次のようにまとめられていました。「自然言語の意味構造と統語構造とは基本的に独立であるとする仮説が前提され、記述の上では、統語上の情報をまったく用いることなく意味表記を作り出すことができると想定されている。これに従って、SG【=Stratificational Grammarのことです】では(encodingの場合)まず、意味表記と統語表記とがふたつの生成体系、すなわちsemotacticsとlexotacticsとによってそれぞれ独立に生成され、次に、これらが具現化規則(realization rule)をとおして結合されるが、注目すべきことは、具現化規則が各意味要素(sememe)を対応する(必ずしも一対一対応ではない)各統語要素(lexeme)に結合するきわめて個別的な、一般性の乏しい規則である点であり、ここに、SGが意味構造と統語構造とを基本的に独立とみなし、両者の間に個別要素間の関連しか認めていないことが明確に示されている。」(pp. 593-594、【 】内はこのブログを書いている本人による)とされています。

最後に、(3)記号体系の理論と自然言語の理論の関係、についてです。これについては、成層文法は言語とその他の記号体系には共通点があり、成層文法の理論はその他の記号現象の研究にも応用できると積極的に認めているようです。しかし、著者は変形生成文法もこういったことは可能であるということを指摘した上で、この点では両者はあまり違いはないようだと考えているようでした。

さて、成層文法については、部分的に読んだだけで、LambやLockwood、Makkai & Lockwoodなどを一冊通して読んだわけではないので、ここでの指摘について私自身がevaluationを与えることはできません(それに、本論文での生成文法の説明も幾つか疑問点を持つ人がいることも予想されます)。しかし、生成文法は今も昔も、常に他の言語理論の評価を行なう場合の試金石の役割をしているのだなということが分かり、私はとても楽しく読むことができました。成層文法はなぜ途絶えてしまったのかといった点を含めて、機会があれば成層文法について本を一冊通して読んでみたいと思いました。

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C.Kinginger(2001).「i + 1 ≠ ZPD」を読む(『Foreign Language Annals』)

この論文の詳細は次の通り。

Kinginger, C. (2001). i + 1 ≠ ZPD. Foreign Language Annals, 34 (5), 417-425.

感想:現在、Sociocultural Theoryが第2言語習得論で流行っていますが、2000年頃(この理論が流行るきっかけとなった時期)には、ZPDをインプット仮説のi + 1を基準にして考える論考スタイルが多かったそうで、多くの誤解が生じたそうです。そこで、著者は両者の違いを明確にする必要があると考え、i + 1とZPDという2つの概念がそれぞれ前提とする考えを明示することでその目的を達成しようとしていました。これらの概念に詳しい人であれば特に目新しい事柄は出てこないと思いますが、確認程度に読んでみるのはいいかもしれません。

著者はインプット仮説を始め多くの従来的な第2言語習得論は"The image of the autonomous human thinking machine" (p. 419)に基づいていると述べています。そして、competenceは個人の内側にあると考えます。これに対し、Socioculrural Theoryでは人間は様々な目的を持った活動において他者と協働し、competenceは個人の外側、個人間に存在すると考えます。こういった考えを初めとして、両者に関して多くの違いが明確に述べられています。著者は、次のようにまとめています。"Thus, the IH focuses on a universal, internal, mind-as-processor that functions from the inside out. There is an element of mechanistic determinism to the approach. Approaches based on SCT, by contrast, consider human cognition to be sociall determined and generated, context-specific, goal-oriented in nature, and developed from the outside in. There is no prima facie dichotomy between the human mind and its environment; there is no assumption that the mind is functionally or metaphysically independent of its surroundings. The mind exists in society, as Wertsch (1991) asserts; and society exists in the mind." (p. 422)

教師の立場については次のように両者を対照させていました。インプット仮説においては、"The teacher's role is somewhat limited: The natural, universal, and predictable processes of language acquisition are assumed to function on the inside of the mind, with or without pedagogical intervention." (p. 422)と述べられています。これに対して、Sociocultural Theoryでは、"One implied role of teachers, then, is to provide access to language for such use and assistance(ここでは、 "cultural change" などのことを指しています)in using it as a tool for change. In the broader sense, the ZPD construct suggests an activist stance for educators, who must not only assist in students' development, but also recognize that language teaching is not a socially neutral activity, and that it has both cognitive and political consequences, for the better and also for the worse." (p. 423)と述べられていました。

私も大学院生時代にWertsch (1991) のVoices of the mind: A sociocultural practice and theory of educationなどを読みましたが、最近多く出版されている第2言語習得論に特化したSociocultural theoryはほとんど勉強していません。機会を見て勉強してみたいと思います。

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2010年2月19日 (金)

S.McKay(1982).「Literature in the ESL Classroom」を読む(『TESOL Quarterly』)

この論文の詳細は次の通り。

McKay, S. (1982). Literature in the ESL classroom. TESOL Quarterly, 16 (4), 529-536.

感想:再読の論文です。自分が日本で修士課程に在籍していた頃に読みました。この論文は文学を使った英語教育の研究ではちょくちょく引用されます。

著者は、まず文学教材使用への反対論を3つ取り上げ、それぞれについて反論をしていきます。まず1点目は、文学教材は文法指導に役立たないのではないかという反論についてです。著者は、Widdowsonのusage/useの区別を紹介し、文学はusageだけでなく(この方面の研究が論文中で数点紹介してありました)、useにも大きく貢献するものであるということを述べていました。著者はuseへの貢献に関して次のように述べていました。"Whereas literature has traditionally been used to teach language usage, rarely has it been used to develop language use. Yet the advantage of using literature for this purpose is that literature presents language in discourse in which the parameters opf the setting and role relationship are defined. Language that illustrates a particular register or dialect is embedded within a social context, and thus, literature is ideal for developing an awareness of language use." (p. 530) 2点目は、生徒のacademc and/or occupational goalsに文学はあまり貢献しないのではないかという批判です。これについては、著者は文学は学習者の動機づけを刺激するということを指摘した上で"Certainly, in so far as literature can foster an overall increase in reading proficiency, it will contribute to these goals" (p. 530)と述べていました。3点目は、文学はある特定の文化的観点から書かれているので、学習者には難しいのではないかという反論です。これについては、著者は難しいということを認めた上で、"literature may work to promote a greater tolerance for cultural differences for both the teacher and the student" (p. 531)、"it may promote our students' own creativity" (p. 531)という2点に関して有益であると述べ、その反論に応えていました(つまり、困難は困難であるが、その困難は言語学習上有益な困難であるということです)。ここまで述べたところで、著者は次のように意見を要約していました。"In summary, literature offers several benefits to ESL classes. It can be useful in developing linguistic knowledge both on a usage and use level. Secondly, to the extent that students emjoy reading literature, it may increase their motivation to interact wih a text and thus, ultimately increase their reading proficiency. Finally, an examination of a foreign culture through literature may increase their understanding of that culture and perhaps spur their own creation of imaginative works." (p. 531)

次に教材選択について述べていきます。言語的あるいは文化的に難しいテクストを選ぶわけにはいきません。そこで著者はどのような方法で教材選択をすることができるか、その方法を列挙し、検討していました。1つ目はsimplificationです。しかし、"simplification tends to produce a homogenized product in which the information becomes diluted" (p. 531)という問題点があり、著者自身もあまり薦めていません。2つ目は、リーダビリティー上で簡単なテクストを選ぶという方法です。しかし、リーダビリティーと作品の難しさは必ずしも比例関係にないため、注意が必要であると述べられています。3つ目は児童文学で、学習者自身に関連するようなテーマを扱っている教材を選択することです。著者は3つ目の方法を最も好んでいるようでした。

次は教室での文学教材の扱い方についてです。著者はRosenblattのefferent readingとaesthetic readingに言及し、両者を区別した上で、文学教材においてはaesthetic readingを促すような扱いをしなければならないと述べていました。"In short, the classroom approach to efferent and aesthetic reading must of necessity be very different. Exploring the usage of a text which is being approached efferently is in keeping with the aim of using a text to gain information. On the other hand, since in aesthetic reading the experience is primary, this is where a classroom approach should begin and language usage should be explored only to the extent that it is relevant to that experience. The fact is that literary experiences outside of a classroom proceed in this manner. What is most important to a reader in aesthetic reading is the enjoyment attained by interacting with the text." (pp. 532-533)

最後は、実例です。著者はRobert LaxaltによるSweet Promised Landという作品の一節を引用し、その作品を授業で扱った場合のポスト・リーディング活動について具体的に論じていました。著者はまずcomprehension questionについて述べます。しかし、これは特定の情報をテクストから探す活動であり、efferentな読みを読者に行なわせるものであるため、推奨していません。次に文法活動についてです。例えば、学習者に動詞を探させ、その動詞を時制別に分類させたり、規則形か不規則形かで分類させたり、なぜ特定の文で現在形が使われているのか説明させる、といった活動が挙げられます。しかし、著者はこの活動もあまり推奨していません。というのは、テクストがそのような活動のために作成されたテクストではありませんし、読者とテクストの間の相互作用が文学作品にとって不適切なものとなってしまう怖れもあるためです。3つ目は、language useという観点からテクストの言語について考えるという活動です。具体的には特定の話者によって発せられた発話を列挙させ、それぞれの発話のトーンやボリュームなどについて考えさせるという活動です。このような活動は、登場人物間の関係を考えることにも自然とつながりますし、テクストの中心的テーマに迫ることも可能になります。このような活動はaesthetic readingとしても適切なものであると著者は述べます。4つ目は、テクストと読者の経験を結びつけるような活動です。登場人物についてコメントをするように促したり、もし自分が特定の登場人物であったらどのように振舞うかを考えさせるといったことがその具体的な例として紹介されていました。このような活動もaesthetic readingにとって適切であり、読者とテクストの相互作用をより活発なものとしてくれます。最後に、著者は文学教材を扱う前に、読者はそのテクストの文化的前提事項を理解して(あるいは知って)いるかどうかを確認しておかなければならないと述べてありました。このような前提が分からないままであると、テクストを読んでも理解することが非常に困難になるためです。

一連の議論を受けて、著者は結論として次のように述べていました。"Literature does indeed have a place in the ESL curriculum. For many students, literature can provide a key to motivating them to read in English. For all students, literature is an ideal vehecle for illustrating language use and for introducing cultural assumptions. Our success in using literature, of course, greatly depends upon a selection of text which will not be overly difficult on either a linguistic or conceptual level. Ultimately, however, if we wish to promote truly aesthetic reading, it is essential that literature be approached not efferently, but in a manner which establishes a personal and aesthetic interaction of a reader and a text." (p. 536)

非常にありふれた内容ではありますが、文学を使った英語教育について研究する場合には基本文献になります。この論文は随分以前に書かれた論文ではありますが、その内容については現在の応用言語学や英語教育学研究では未だに解決ないし改善されていないことがほとんどです。もちろん、現在では少し首をかしげてしまうような主張もされてはいますが、この研究分野の出発点として大切にしたい論文だと思いました。なお、この論文は以下のような形で、本の中にも納められています。この本は、この研究分野の一種のバイブルのような本で、現在でも頻繁に引用されています。

McKay, S. (1986). Literature in the ESL classroom. In C. J. Brumfit & R. A. Carter (Eds.), Literature and language teaching (pp.191-198). Oxford: Oxford University Press.

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田尻悟郎(2009).『(英語)授業改革論』を読む(教育出版)

本書の詳細は次の通り。

田尻悟郎(2009).『(英語)授業改革論』.教育出版.

感想:珍しく実践的な書を読みました。著者の豊かな経験に裏付けられた様々な大切なメッセージが込められており、読んでいて大変面白かったです。私も著者の授業実践は2回ほど見させていただいたことがあります。その緻密さに非常に驚きました。

本書では、第1章で教科書、板所、教師の説明、教室に先生がいる意義、予習などに関する英語教師の固定観念が考え直されています。個人的にはこの章が一番面白く読ませていただきました。第2章は評価、特に到達目標と年度指導計画を中心として、議論が進められていました。第3章は授業改善を行なうヒントについてで、やる気の素を生徒に与えたり、指導を線的に行なうこと、英語学習の段階、学習形態と習熟度別学習、ティームティーチング、など非常にたくさん勉強になることが書いてありました。第4章は家庭学習について、第5章は学習者の心理を考えることの必要性について、第6章は支えあう学習者集団をいかに作り上げていくかということについて、書いてありました。いずれもとても面白いトピックで、自分の授業実践などを考え直すいい機会になりました。私自身も職場が変わり、授業について色々と考えたりすることが多いので、参考にさせていただきたいと思いました。これからはこういった実践的文献も積極的に読んでいきたいと思います。

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R.Ohmann(1964).「Generative Grammars and the Concept of Literary Style」を読む(『Word』)

この論文の詳細は次の通り。

Ohmann, R. (1964). Generative grammars and the concept of literary style. Word, 20 (3), 423-439.

感想:文体論の中では有名な論文です。この論文は生成文法(当時の言い方をすれば変形生成文法)が文体論の基礎理論として大いに期待されたことを物語っていました。ちなみに、この論文中で出てくる生成文法は標準理論のごく初歩の初歩といった内容になります。

さて、著者は文体を研究するためには、「1つの事柄を複数の言い方で述べる」という言語現象をうまく扱わなければならないと述べます。つまり、複数の言語表現の間に共通部分と違う部分の両方が含まれているということについてうまく説明をしなければならないというわけです。これまでの研究方法として、著者は12のアプローチ(diachronic stylistics、synchronic stylistics、impressionism、the study of sound (rhythm)、the study of tropes、the study of imagery、the study of tone (stance, role)、the study of literary structure、teh analysis of particular and local effects、the study of special idiosyncrasies、the study of writer's lexicon、the statistical study of grammatical features)を紹介してますが、これらはいずれも十分な研究方法ではありませんでした。そこで、著者は生成文法に期待を寄せ、"It is my contention that recent developments in generative grammar, particularly on the transformational model, promise, first, to clear away a good deal of the mist from stylistic theory, and, second, to make possible a corresponding refinement in the practice of stylistic analysis" (p. 426)と述べています。著者は、この論文で実際にいくつかの文学作品を取り上げ、各作家の文体を生成文法の枠組みで記述することで、主に第1点目における生成文法の意義を示そうとしていました。

そして、生成文法の中でも特に変形に着目し、変形という観点から作家の文体を記述することができるという考え及び分析がなされていました。変形が文体論にとって有益な分析ツールとなる理由として、"a large number of transformational rules are optional" (p. 428)、"a transformation applies to opne or more strings, or elements with structure" (p. 429, emphasis in original)、"its power to explain how complex sentences are generated, and how they are related to simple sentences" (p. 430) の3点が指摘されていました。このような一連の期待は次のような一節に要約されていました。"A generative grammar with a transroamational component provides apparatus for breaking down a sentence in a stretch of discourse into underlying kernel sentences (or strings, strictly speaking) and for specifying the grammatical operations that have been performed upon them. It also permits the nalyst to construct, from the same set of kernel sentences, other non-kernel sentences. These may reasonably be thought of as alternatives to the original sentence, in that they are simply different constructs out of the identical elementary grammatical units. Thus, the idea of alternative phrasings, which is crucial to the notion of style, has a clear analogue within the framework of a transformational grammar." (pp. 430-431, emphasis in original)

具体的な分析については、William Faulkner の "The Bear"の一節が、the relative clause transformation、the conjunction transformation、the comparative transformation、で記述され、Ernest Hemingwayの"Soldier's Home"がquotation (or reported thought)、indirect discourse、deletionという操作により記述されていました。

また、生成文法のleft-branching/right-branching/self-embeddingという概念も有用であるとし、Henry Jamesの"The Bench of Desolation"をself-embeddingという観点から記述していました。さらに、addition、deletion、reordering、combinationという4つの可能性が文体論には非常に有用であると指摘し、D. H. LawrenceのStudies in Classic American Literatureの一節をdeletionという変形操作を受けたテクストであるとして分析していました。

このように、文体論では、作家による核文への変形操作の適用の結果現われた表層構造として、作家の文体を記述しようと躍起になった時期(80年代前半ごろまででしょうか)がありました。現在では、このアプローチはあまり見ることがありませんが、一つの考え方として大変面白いのではないかと思います。最近では、融合理論や概念メタファーといった認知言語学であったり、関連性理論などの観点からのアプローチを多く見かけますね。

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2010年2月18日 (木)

石川慎一郎(1997).「教室の中の詩-リーディング教材としての英詩の応用可能性-」を読む(江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸效教授退官記念論文集:英語科授業学の今日的課題』,金星堂)

この論文の詳細は次の通り。

石川慎一郎(1997).「教室の中の詩-リーディング教材としての英詩の応用可能性-」.In 江利川春雄・東川直樹・林浩士(編),『青木庸教授退官記念論文集 英語科授業学の今日的課題』(pp. 71-84).金星堂.

感想:一度メールでやり取りをさせていただいたことがあり、学会でも一度お話させていただいたことがある先生が以前に執筆された論文を読ませていただきました。この論文では、詩文学に限定して議論が進められます。著者は、「純化した言語形態である詩は、ことばそのものへの興味や関心を生み出す教材として、英語教育に大きく貢献し得るであろう」(p. 71)という立場です。しかし、英詩は、他の文学教材がそうであるように、実用対教養の議論に巻き込まれており、その応用はあまり検討されていないとのことでした。

著者は、英詩の意義を多読と精読の両方面から検討していきます。まず、多読の観点ですが、学習者が習慣化してしまった文法訳読式から学習者を切り離す手立てとしてその意義が考察されていました。新出語彙や文法事項などをすべて事前に指導した上で英詩を読ませ、文法訳読式の錯綜した前後運動の問題点を学習者に自ら気づかせ、前から順にチャンクごとに呼んでいく読解モードへと転換させる足がかりとしてThomas Hardyの "The Going" を題材として議論がなされていました。この考えはとても面白いと思いました。著者も述べていますが、教師による押し付けではなく、学習者が自ら文法訳読式読解モードの問題点を体験することが大きなポイントとなるようです。

次に精読法教材としての意義が考察されます。ここでは、Christina Rossettiの "The Wind" が題材として取り上げられていました。著者は精読と文法訳読は同一視されることが多いが両者は異なる読解であるという点を強調します。そして、精読に関して、「テクストの精緻な読みに基づいて、言語の豊かな表現力を知ることは、言語への関心を引き出し、言語を尊重する精神を涵養するという点で、本来、言語学習の基本に他ならない。そして、まさにこの点において、詩は、散文にもまして有効なのである。」(p. 75)と述べられていました。著者はNeither I nor youという文の続きを考えさせる活動や、その候補として挙げられた多くの選択肢の序列付け・決定不能性の体験・Iとyouのキャラクタライゼーションといった発展的な活動への道筋も示してくれていました。さらに、narrator/narratee/addresserの3者の関係付け、擬人法、動詞の時制や他動性と作品のトピックの関係付けなど、文体論の知見を駆使した考察がなされていました。

私もChristina Rossettiの同じ作品を使って英語教育学の論文を執筆したことがありますが、私のものよりもはるかに示唆に富んでいて、かつ文体論の知見が作品内容に関連付けられていました。色々と学ぶことができ、勉強になりました。

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D.S.Miall(2006).「Experimental Approaches to Reader Responses to Literature」を読む(P.Locher,C.Martindale&L.Dorfman(編),『New Directions in Aesthetics, Creativity and the Arts』,Baywood Publishing Company)

この論文の詳細は次の通り。

Miall, D. S. (2006). Experimental approaches to reader responses to literature. In P. Locher, C. Martindale & L. Dorfman (Eds.), New directions in aesthetics, creativity and the arts (pp. 175-188). Amityville, NY: Baywood Publishing Company.

感想:この論文は特に何か新しいことを述べるというものではなく、文学の経験的研究という分野を紹介するという目的で書かれているように思いました。特に研究方法という側面に重きが置かれていたように思います。

著者は従来の文学理論(解釈を重視)を批判し、実証的な研究を行なうことの必要性を指摘します(ただし、文学の経験的研究の研究者でも、文学作品の読解においては解釈を最重要視します)。そして、実証的研究を紹介していました。ここでは、実験結果と理論の間にはギャップがあり、理論の予測どおりに読者が文学テクストを読んでいないことが示されていました。例えば、Hunt and Vipondであればpoint-driven readingを文学の読みとして規定しますが(これが作品の解釈の足がかりとなる)、実際にそのような読みをしている読者はわずかであり、多くの読者はstory-driven readingをしていたことが明らかとなっています。同様にMiall & Kuikenの研究では、読者が文学作品読解中に解釈を行なっているような証拠が乏しく、"Readers appear to be engaged in a rather different set of activities: contemplating what characters are doing, experiencing the stylistic qualities of the writing, reflecting n the feelings that the story has evoked." (p. 178)と述べています。解釈やpointに関連した反応もあるのですが、"Interestingly, though, these comments tended to refer to the personal meaning os the story for the reader, such as insights into aspects of the reader's childhood, or their enjoyment of the character." (p. 178)と述べられており、作品の解釈そのものではないようです。このように、理論とは裏腹に、実証研究では解釈の証拠を示すことができていない状況なのだそうです。個人的には、この結果は従来の文学理論(文学の経験的研究の理論も含めて)が間違っているのか、あるいは文学の経験的研究という研究アプローチが間違っているのか、結論を出すことは早計だと思います。

次に著者は、文学の経験的研究で用いられてきた研究方法を紹介していきます。英語教育学のリーディング研究や、心理言語学研究に馴染みのある人であれば、特に目新しい方法はないと思います。ですので、詳しくはここではレビューしませんが、一連の研究で示されていることだけを紹介しておきます。それは、"Readers of literary texts thus appear to draw more explicitly and frequently on thei active personal experiences, a process that might be held to distinguish literary from other kinds of texts. Rather than attempting to define wehat is literary y a text's formal feaqtures (stylistic deviations, narrative form, or generic features), this points to an interactive process underlying literariness: a liteary text is more likely to speak to the individual through its resonances with the individual's autobiographical experiences." (p. 182)という点です。また、著者は独自に開発した研究方法としてNumerically Aided Phenomenologyを紹介していますが、これはグラウンデッド・セオリーやKJ法に酷似しており、社会科学全体から見るとそれほど斬新な方法というわけではないようです。

最後は文学的読解の実証研究の今後の課題についてです。それらは、「文学的」とは何かを明らかにすること、文学とその他の言語の違いを明らかにすること、(暗黙の)前提を問い続けること、歴史的側面も考慮に入れること(ここでは「読者」の歴史と文学的ダーウィニズムに言及がなされていました)、です。著者は文学の経験的研究をとても重要であると考えており、これが文学理論の主流になることを望んでいます。また、文学教育などにも多くの示唆を与えることができると考えているようです。

文学の経験的研究を知っている人であれば特に読む必要はないかもしれません。しかし、あまり詳しくない人であれば、文学の経験的研究の立場や考えについて(部分的ではありますが)おおざっぱに理解でき、便利な論文だと思いました。

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2010年2月17日 (水)

千野栄一(1980).「翻訳できるものと翻訳できないもの-言語学的見地から-」を読む(『文学』)

この論文の詳細は次の通り。

千野栄一(1980).「翻訳できるものと翻訳できないもの-言語学的見地から-」.『文学』,48 (12),28-39.

感想:翻訳論はあまり知らないのですが、とても分かりやすく、面白い論文でした。著者は特に翻訳不可能性という観点から議論を展開しています。「言語によって言語外現実の見方が異なるということは、凡ての言語間に存在していて、むしろ、ある二つの言語間において稀に一致があるといった方がいいように思われる」(p. 31)という指摘は面白いと感じました。以下、著者は翻訳において翻訳家を悩ませる言語項目を列挙し、その困難性について論じていました。取り上げられていたのは、慣用語法、固有名詞、呼びかけ、方言、地口、でした。これらに加えて、言語間で文法カテゴリーが異なっている場合や言語間である文法項目を具現する構造が異なっている場合、なども指摘してありました。とても面白い例が多く挙げてあり、色々と考えさせられました。

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2010年2月 4日 (木)

高橋教雄(2009).「英語学習指導に必要な基礎知識」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

高橋教雄(2009).「英語学習指導に必要な基礎知識」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 136-171).音羽書房鶴見書店.

感想:本章では、英語学の観点から、「外国語としての英語学習を指導する立場にある教師や英語学習者が、より効果的に英語学習を進めるためにその基礎として求められる知識について、その概観を示すことを目的と」(p. 136)しています。非常に面白い情報がちりばめられていて、本章で扱われていた知識を英語教員が持っていたなら、文法指導や語彙指導の幅が広がるのではないかと思いました。特にここで扱われていた分野は、比較言語学、英語史、文字論、音韻論、形態論、意味論、統語論、言語相対仮説(弱い立場)、でした。以下、私が個人的に面白いと思った事柄を箇条書きで挙げていきます。

shipにsheをbabyやchildにitを使うことについて(p. 138)、ヴェルネルの法則とwasとwereの関係(p. 141)、古英語におけるケニングの頭韻に対する働き(p. 142)、古英語期における男性強変化名詞の求心力の高まりとその他の強変化名詞(例えば、中性名詞のshipなど)への影響(p. 144)、古英語期における男性強変化名詞の求心力の高まりと名詞規則形の複数語尾と所有格'sの確立の関係(p. 144)、不規則変化名詞の由来(oxen、brethren、children←弱変化名詞、deer、sheep←女性名詞と中性名詞、feet、teeth←ウムラウト)(p. 144)、古英語期の強変化動詞の過去分詞語尾enの現代英語での保存(driven、chosenなど)(p. 145)、iウムラウトによる名詞からの派生動詞である古英語期の弱変化動詞の現代英語での名残(bloodとbleed、foodとfeedなど)(p. 145)、弱変化動詞は古英語の動詞の8割を占めていたこと(p. 145)、本来強変化動詞であったものが弱変化動詞に吸収された例(help、weepなど)(pp. 145-146)、現代英語において幹母音交替によって自動詞と他動詞が分かれている例(rise-raise、sit-seat、lie-lay、fall-fellなど。しかも前者は不規則動詞であり、後者は規則動詞)(p. 146)、中期英語期にラテン語から入ってきた語のラテン語音節構造の影響の名残(family-familiar-familiarityなど。いずれも最後から3番目の音節に第1強勢がある、antepenultimateである)(p. 146)、deprive/rob A of Bやsupply A with Bの「前置詞+直接目的語」構造に見られるかつての各動詞の直接目的語の格の名残(前者は属格、後者は与格を取っていたことが分かる)(p. 147)、第母音推移による[u]の綴りの変化(love(u→o)、house(u→ou))(p. 148)、アルファベットはギリシャ語では表音文字でフェニキア語では表意文字として使われたこと(p. 151)、from alpha to omegaという表現に見るギリシャ語の影響(p. 151)、bread and butterが「パンとバター」か「バターのついたパン」という意味かによってandの発音が強形になったり弱形になったりすること(p. 152)、日本語の半濁点の存在についての解説(p. 154)、ラテン語のvia strataという表現の名残(viaは「道」という意味であり現在ではby way ofという意味で使われている。strataは「層」という意味であり現在ではstreetはroadと比べて舗装された道を表している)(p. 155)、曜日の名前の語源(p. 156)、月の名前の語源(p.. 157)、うるう年が2月である理由(p. 157)、キリストの誕生日が12月25日である理由(p. 157)、最も長い英単語の形態論的分析(p. 161)、文化の違いによる語彙化(lexicalization)の違い(p. 169)

英語学関係者であれば特に新しい例ではないのですが、非常にコンパクトにまとめられていること、例が豊富であること、の2点において、英語教育にとってはとても有益な知恵袋になると思います。また、統語論では5文型を中心に据えた伝統文法に基づいた説明がされていました。統語論というと生成文法に行ってしまいがちなので、斬新に思える人も多いのではないでしょうか。ここで説明されていた統語論は、学習者に英文法を一通り勉強させた後に体系的に復習させる際に有益な示唆を与えてくれるのではないかと思いました。

さて、これで本書は終了です。1冊読み終えたあとに感じたことなのですが、英語教育内容学が目指すべき方向性の1つは、基礎学的な内容を取捨選択して整理し、実際の教員が英語指導に深みや広がりを持たせることができるようにこういった形でまとめることにあるのかな、と思いました。勉強になりました。

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