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2010年1月29日 (金)

C.Kramsch&O.Kramsch(2000).「The Avatars of Literature in Language Study」を読む(『The Modern Language Journal』)

この論文の詳細は次の通り。

Kramsch, C., & Kramsch, O. (2000). The avatars of literature in language study. The Modern Language Journal, 84 (4), 553-573.

感想:かなり難解な論文でした。著者は、MLJ誌上での議論を中心にして、外国語教育における文学教材の役割の変遷を議論しています。著者らによると、”Literature has been used for the aesthetic education of the few (1910s), for the literacy of the many (1920s), for moral and vocational uplift (1930s-1940s), for ideational content (1950s), for humanistic inspiration (1960s-1979s), and for providing an “authentic” experience of the target culture (1980s-1990s).” (p. 553) と総括できるそうです。この論文が出版された当時は、文学を使った外国語教育研究はMLJ誌上ではほとんど見られなくなってしまったようですが、 “”literariness” in language acquisition research is far from dead” (p. 553)と著者らは考えているそうです。

著者らは文学が外国語教育から消えていった外的な要因として、次のようにまとめています。”The two world conflicts among warring nations have problematized the role that literature, as the cultural heritage of nation-states, has played in the teaching of foreign languages in the United States. The slow but ineluctable demise of philology since the late 1910s, the rise of the social sciences in the 1920s, the triumph of the sciences of education in the 1930s, and the overwhelming influence of linguistics since the 1950s have gradually made literature obsolete as the major discipline associated with language study.” (p. 553) 著者らは、文学がどのように外国語教育から消えていったかを、5つの段階から説明するとしています。その点に関して、”Although literature had played a preeminent role in the teaching of foreign languages until World War I, its ascendancy through the life of the MLJ waned in five successive stages, related to give particular historical events that crystallized the ongoing trends. The first stage began with the end of WWI with its social revolution and the democratic demands of mass education. The second stage began with the Coleman report of 1929 that officially replaced literature with reading education as the primary objective of language teaching. The third phase began with the end of World War II that shifted the focus from reading to speaking and the audiolingual drill. The fourth stage began with the issuance in 1958 of the National Defense Education Act that served to consolidate the split between the teaching of language for defense purposes and that of literature and to replace literature with linguistics as the source discipline for language teaching. The fifth and last period was ushered in by President Carter’s Commission Report in 1979, which led to an emphasis on linguistic and cultural proficiency in which literature qua literature played only a marginal role.” (p. 554)

さて、その第一段階ですが、著者らは1916年から1929年の間に文学からリテラシーに焦点が移ったとしています。この時代、最も多く言及された文学ジャンルは詩だったそうです。著者らは最初に19161918年の間について整理します。1916年は、MLJ誌が発行開始となった年ですが、当時は言語学習と言えば文学学習を意味していました。この当時、アメリカでは、フランス文学とドイツ文学が言語教育という場に大きく幅をきかせていたそうです。フランス文学側は、フランス文学を使えば(フランス流の)道徳観と論理的明晰性をアメリカ人学習者に植え付けることができると考えていたようで、芸術的に優れた作品(言語形式面や文体的に優れているもの)を精読することが役に立つと考えられていました。これに対して、ドイツ文学側は、内容的に優れた文学作品を用いることを強調していました。例えばJulius Sachsは、ダイレクト・メソッドと文法訳読式教授法を批判し、reading approachを提唱しました。Sachsは形式や文体よりも内容や意味を重視したわけです。Sachsは、言語と文学の関係について次のような考えを持っていたそうです。”(a) Mastery of linguistic structures forms the building blocks that pave the way to the reading of literature; (b) literature is the gateway to understanding nations; (c) literature is more than words, it is ideational content; (d) literary content is educationally more important than linguistic form; and (e) literature should be used for moral, not aesthetic education.” (p. 555) 著者らは、19161918年の間に関して、次のようにまとめています。”Up to 1918, literature was viewed as having moral value, but the various national literatures disagreed on the way this value was transmitted. French scholars said it was inherent in the clarity of form and logic of expression of the French language; German scholars saw it enclosed in the edifying content of literary texts. French and German national educational values were seen as heritage values transplanted to America to counteract American materialism and pragmatism.” (p. 555) そして、この2年間の間に既にその後現われる様々な考えの芽が見られるとしています。”In sum, we find in the MLJ of the last 2 years of WWI the opening chords of many of the themes that will be associated with the teaching literature throughout the 20th century: reading for content versus reading for form and style, the moral value of literature, the cognitive and cultural benefits of a literary education, and literature as the embodiment of national pride.” (p. 556)

次に第一段階内の2つめの時期である19181929年の間についてです。著者は第一段階よりも前の時代に提案されたダイレクト・メソッドが、第一次世界大戦中に兵士にあまり役立たなかった(兵士のスピーキング能力が向上しなかった)ために、その人気が低迷したと述べています。この時代、文学(または読む能力)は口頭での外国語能力よりも大衆に重要視され、”Literature was seen as a ticket to lifelong pleasure, moral edification, and commerce with the language ant its best thinkers.” (p. 556)と指摘されています。また、貧しい人たちには翻訳式の教授法が随分と人気があったそうです。当時、フランス文学は人気が低迷していたそうですが、依然として文体といった要素を重視した主張がされていたそうです。ドイツ文学は、第一次世界大戦の影響でアメリカでは悪いイメージとなっていたので、ドイツ文学とゲルマンのルーツの結びつきを強調することでイメージ回復をはかりました。ドイツ文学側はこのような感情的側面を強調する一方で、フランス文学側よりも熱心にアメリカに対する愛国心が強かったそうです。ドイツ文学は相変わらず内容面を重視していましたが、この時代、新しい方法が必要であると考え、直観を最重要視する文学批評アプローチが提唱されました(このアプローチがきっかけとなり、フィロロジストと文学批評家が対立することになったそうです)。また、この時代の大きな特徴の1つとして、文学作品と国家が強く結び付けられて考えられたということがあったそうです(たとえば、フランス文学はフランスという国家と強く結び付けられて考えられたということです)。そして、MLJ誌上で国家別に文学特集が組まれ、どのような作家の作品を用いればよいのかというような外国語教育における一種のキャノンが出来上がりました。この時代、フランス文学は詩を重視し、精読を最良の指導法と考えていました。ドイツ文学は経験と感情的側面を最重要視していました。詩だけでなく散文も有用と考えていたようです。また、この時代、スペイン文学(スペイン語)への関心の高まりもあったそうです。ただし、スペイン文学の場合は、スペイン語とスペインが強く結びついていたというわけではなく、単純にアメリカ国内における経済的、実際的(melting pot)な理由から台頭したきたというもので、フランス文学やドイツ文学のようにリーディングと強く結びついているわけではなく、むしろスピーキングやリスニングと結びついていたようです。なちなみにスペイン文学のテストとして、1930年に多肢選択式のテスト方法が始めてMLJ誌上で提案されたそうです(それより以前はエッセーを書くというテスト方法が一般的)。スペイン文学はドラマを重視し、形式よりも内容を重んじていたそうです。そして、わかりやすいユーモアや、誠実的で健全な内容の教材を用いるべきと考えていたようです。この時期に、他に特質すべきこととして、実証的なリーディング研究と文化(small c culture)指導(文学への言及はなし)が出てきたことも挙げられていました。この時代のまとめとして、著者は2つの陣営が現われたとしています。1方の陣営は、”closely linked to the nation-state that engendered it, with its emphasis on the philological and aesthetic value of literary texts, its European orientation, its elite education, and the multilingual cosmopolitanism of that elite.” (p. 559) であり、他方の陣営は、”closely linked to the demands of the American melting pot, its ethical and social imperatives, its Anglo-American orientation, its response to the demands of mass education, and its isolationist tendencies.” (p. 559) 後者は、当時優勢な立場であり、著者らは、”Within this literacy orientation, foreign languages slowly became detached from their national and often nationalistic underpinnings. The trend would become particularly noticeable in Spanish, which, unlike French or German, came onto the scene primarily for its practical, not for its cultural or literary, value” (p. 559) と締めくくっていました。この立場は、さらに議論が推し進められて、学習者が既に知っているストーリーを目標外国語で読ませればよいのではないかという考えも出ていたようです。

さて、次は第2段階(1929-1945)です。この時代、文学はモラル教育や社会教育の教材として捉えなおされるようになったそうです。この時代、リーディングそのものが外国語教育の目的となり、文学とセットで論じられることが少なくなりました。そして、文学はモラル教育や社会教育の道具として捉え直されることとなり、文章の内容、歴史的文脈が重視され、結果として古典的作品の縮約版や簡約版が多く出回ることとなりました(言語そのものではなく、内容面や文脈が重視されていたので、難しくてしかも長い原作を使わなくてもよいということなのでしょう)。また、文学作品の翻訳活動にも注目が集まったそうです。

2段階の最初の10年である、1929-1939年の間について最初に整理されていました。1930年代は、文学は基本的な読み書き能力の習得のための教材の1つと見なされるようになりました。この時代(1929年)、Algernon ColemanによるColeman reportThe Teaching of Modern Languages in the USA)が出版されたそうで、最良の外国語学習法はリーディング習得であると考えられるようになりました。そして、リーディングを鍛えるにあたって、翻訳、スピーキング、読解方略など読みの方法そのものの指導で、どの方法が一番効率的かが議論されたそうです。しかし、翻訳を推し進めるべき立場であるフィロロジーが既に力を失っていたので、結局後者の2つの間で議論が交わされたそうです。結果、スピーキングを推進する音声学者と読解そのものの指導を推進する教育心理学者と真理測定学者との間での議論となったそうです。また、その当時文学研究者はこの議論には参加しなかったそうです。どうやら、この時代、文学研究者と言語教師の間の隙間がそれ以前にないほど拡がってしまっていたようです。著者は結果として読解指導は次のように変化したと述べています。”By dissociating literacy from the study of literature, the reading method for teaching foreign languages switched the focus of reading from philological exegeses to the process of retrieving information or content from texts.” (p. 560)。また、キャノンが教育現場から姿を消し、興味、社会的メッセージ、登場人物の価値などに応じて、現代作家の作品から教材が選択されたそうです。とにかくテクストの内容面が重視され、学生の文学の知識を測定するための科学的な測定方法についても研究がされたそうです。文学の教育は、文学批評ではなく、読み書き能力の指導のためのものとなり、アメリカ人外国語学習者は、文学研究ではなく、外国人の精神を学習するために海外へ渡航したそうです(また、この時代のMLJ誌には、外国語が翻訳されないままたくさん論文中に使われていたという特徴があるそうです)。さて、かつてはアメリカの中で大きな力を持っていたドイツ語ですが、依然として外国語のモデルと見なされてはいたそうですが、教育というよりは政治的な理由で重要視されていたそうです。また、ドイツ語はアメリカの中でかつては国際語としての役割も期待されていましたが、その役割はエスペラントに委ねられることとなり、さらにはドイツ語教師がのんびりとしている間に英語が国際語として台頭してしまったと述べられていました。また、当時のMLJ誌には2つの派閥があったそうです。一方は、ヒューマニストで、有名作家の生誕~百周年などを祝っていたそうです。もう一方は、教育心理学者で読解、カリキュラム開発、テストなどの科学的な研究を発表していました。当時のMLJ誌での状況について、”Although the former weemed concerned about the cultural legitimacy of teaching national foreign languages in the United States, the latter seemed intent on giving the teaching of these languages scientific validity.” (p. 561)と整理していました。さらに、この時代には、文学について色々な観点や扱い方が提案されました。いずれも、当時の社会科学の台頭に影響を受けているそうです。例えば、文学は書かれた当時の時代精神を反映しているという考え、文学テクストとそのテクストが書かれた背景を生徒が結びつけることができるように教師が手助けをする必要があるという考え、(依然として精読も有用とされていたが、それ以外に)テクストの内容面を重視した活動の提案(授業の最初に黒板に作品に関する自由英作文や要約を書かせる、文学テクストの内容の小テストを行なう、読みを手助けするような設問をまとめたプリントを配布する)、といったものが出てきたようです。また、この当時、extensive readingが上級学習者の文学授業では有用と考えられました(1時間につき40ページ、2単位の授業であれば合計880ページ程度のextensive reading)。また、名作(特に話の筋に依存した作品)の縮刷版や簡約版の利用の提案がなされました。また、文学の翻訳も重視され、言語と文化と文学を同時に教えることが可能であるとされました。このことに関して、”As a kind of artistic rewrite of the original text, literary translation requires that the students attend to the linguistic and aesthetic features of the text as well as to its cultural connotations. Besides its academic benefits, given the increasing demand for translators in the 1930s, translation was seen as enhancing “the professional and commercial value of foreign language study” (Palfrey, 1933, p. 413)” (p. 562)と述べられていました。

次は第2段階の後半で、19391945年の間についてです。第二次世界大戦の影響で、国内ではドイツ語への風当たりが強くなったそうですが、それでもドイツ語教師は、ドイツ語はアメリカの文化と生活様式を豊かにするという立場を崩しませんでした(第一次世界大戦の時の二の舞は避けたいということです)。そして、戦時中は、文学は慰めやモラルの拠り所として機能し、戦争によって惹き起こされた幻覚から逃れさせるものとしても考えられていたそうです。文学はアメリカナイゼーションの確立にも一役買ったそうで、ファシズムや共産主義からの逃避や人民の啓蒙などに役立ったそうです。他には、文学作品の分析(作者の視点、比喩の選択、主観的バイアスの分析)を通して批判的な判断力を養うことができるとも考えられていたとのことです(これにより他のイデオロギーに染まることを避けることができたと考えられていました)。また、文学は商品の流通を促し、経済的にも役立つと考えられていたそうです。また、徐々にドイツ語と距離をおき始め、ラテンアメリカの文学を読むことが強調されたそうです。ラテンアメリカ文学を読めば、国内の他の人種の人たちをよく理解することができ、アメリカ国内が平和的になると考えられました。文学を読む目的は、この時代、とても実用的なものであったと著者は指摘していました。しかしながら、それにもかかわらず、文学の立場は厳しいものでした。というのは、第二次世界大戦中の軍での外国語教育(ASTP)が言語学に基づいてなされることが決定したためです。第一次世界大戦のときもそうだったのですが、文学の感覚的側面が外国語教育にとってはあまり重視されず、むしろ言語学のような科学的な基盤が大切にされたようです。また、この当時心理学の台頭が大きく、文学も心理学の影響を受けるようになったと言います。当時、文学は他の民族の精神や文化を映す鏡であり、文学を読むことで、その作品が書かれた文化と時代をよく理解することができると考えられていました。さて、戦後になりますと、MLJ誌では外国語教育の価値について活発な議論がなされるようになりました。結果としては、世界の中の1市民として、外国語学習は重要であるという結論に至ったそうです。また、文学については、”Literature and culture were recognized as essential components of foreign language education with its goals of making foreign languages more intelligent, hence more respectable, as academic subjects, not, as in earlier times, of learning and benefiting from other peoples’ achievements.” (p. 563) と考えられるようになりました。ちなみに、MLJ誌ではそれまでの国際的な雰囲気はなくなり、アメリカ国内の教育研究や教育実践が中心となったそうです。

次は第3段階です。この時代は1945年から1957年にかけてで、文学は内容科目ないしは授業の中でのおまけのような扱いになったとされています。著者はこの時代を次のようにまとめています。”The swing back to the oral and the success of the audiolingual method, together with the rising influence of linguistics on the acquisition of foreign languages at the lowest levels, pushed literature more and more out of the lower division programs and associated it with the advanced levels of language instruction. Literature became the ideational content to which one acceded only after one had mastered the linguistic structures. The ability to read literary texts was seen as following from the ability to speak the language. If used at the lower levels, literature was taught neither for its cultural nor even for its functional value but as entertaining supplement to audiolingual drills. In the pedagogy of literature this supplement took the form of a renewed attention to the wording of texts, and, in the face of declining enrollments at the upper levels, a turn toward teaching foreign literatures in translation.” (p. 563) 文学教材の周辺的な扱いは、どうやらこの時代にほぼ現在の形になったようですね。この時代、ASTPの影響で言語学習はスピーキングによって進むという考えが現れたこと、実生活(real-life)を重視する教育観が高まる中でスピーキングが注目されたこと、などが原因となり、文学はかなり立ち位置が厳しくなったそうです。それでも、文学は「文化」という観点から何とか生き残り、 “world literature” という考えも提唱される中で、フランス語やイタリア語、ドイツ語に加えて様々な言語の文学が読まれ、MLJ誌上にも様々な言語の文学作品のレビューが掲載されることとなりました。しかし、やはり1950年代になると文学に関わるような記事はMLJ誌からは姿を消し、小学校外国語教育、会話クラス、外国語教授法、といった内容に関する事柄が誌上をにぎわすことになりました。また、Coleman report以来重視されてきたリーディングに対しても批判されるようになり、外国語学習はスピーキングとの関係で語られることになりました。この当時は、文学指導法には統一した考えはなく、韻律やライムなどテクスト分析を重視する研究(ただし、従来と違ってこれら言語構造に関する多くのQ&Aの問題が出題され、学習者はその設問に答えていく中でテクストの構造を理解するという形式)、外国文学を通して外国の精神を学習するという文化的アプローチ、文学を歴史や地域的なコンテクストの観点から扱う研究、自由に解釈を考えさせるような研究、がなされたそうです。また、文学を専攻する学習者を増やすために、翻訳の活用ということについても多くの研究がなされたそうです。文学は、この時代には再び内容面が特に注目されたようです。

4段階は、19571979年の期間です。この時代は、文学は人間学的な実践(humanistic practice)と捉えられたようです。著者は次のようにまとめています。”Fictional canonical literature might have been perceived as irrelevant to the arms race at the height of the Cold War, but it was still respected as humanistic practice. Nonfictional literature and cultural readings of various sorts (including noncanonical Chicano literature) were seen as important motivating complements to foreign language instruction. … The pedagogy of foreign literatures in this period drew insights from various other disciplines, including humanistic psychology, and was the focus of creative ideas and innovative practices.” (p. 565) この時代の文学の扱い方は、第3段階の時期とそれほど大きくは変わらなかったそうです。文学者は、歴史的ないし神話的思考の価値や永遠の真理の表現としての文学の価値を言語教師に思い出させようとしたのですが、アメリカ人学生にとっては社会との関係で文学のそのような価値を見出すことは難しく、また実際に文学作品を読もうとしても多くの背景的知識が必要となったため、なかなか定着しなかったそうです(このことには、the National Defense Education ACT (NDEA) が大きく関わっていると著者らは考えています)。また、この時代、extensive readingが翻訳に取って変わったそうなのですが、授業におけるその扱いが十分に確立できず、あまり効果的な指導はなされなかったようです。この時代は、The American Council on the Teaching of Foreign Languages (ACTFL) が設立した年でもあります。ACTFLの設立によって、外国語学習と文学が完全に分離し、その分離が今日まで続いていると述べられていました。1970年代には、生成文法や多文化教育などの影響で外国語教育研究は専門化していき(皮肉なことに日常的なコミュニケーションとの関わりは薄くなっていきましたが)、その分離は一層強固なものとなりました。この時代に、外国文学者は外国文学教育を真剣に考え直そうとしました。実際に、MLJ誌には、19301970年の間に文学教育の論文が28本しか発表されておらず、飛行に研究不足の状態に陥っていると考えられたようです。そして、講義型でなく活動中心の指導方法、文法とテーマを結びつける指導、文学以外の様々なメディアの芸術の利用、など多様な指導法が模索されたそうです。また、1970年代は人間中心的なアプローチの教育実践がなされたそうです。

さて、いよいよ最終段階(1979-1999)です。この時期について、著者らは次のようにまとめています。”The report of the President’s Commission on Foreign Languages and International Studies once again awakened the American public to the importance of foreign languages for national security (Perkins, 1980). From 1979 to 1989, the concepts of “usable skill” and of “communicative proficiency” superseded all other concerns in FL education in this country. Literary text were associated with lowercase culture; they fell under the rubric “authentic texts,” whose meaning could be retrieved with the appropriate skimming and scanning techniques, advance organizers, and information-processing strategies. The proficiency movement saw in literature the opportunity for vocabulary acquisition, the development of reading strategies, and the training of critical thinking, that is, reasoning skills. The few articles devoted to the teaching of literary texts qua literature were based on contemporary research in psycholinguistics and discourse analysis.” (p. 567) この時代は、外国語の必要性が高まり、再びリーディングが重要視された時代です。また、私自身面白いと思ったのは、この時代に色々な概念が提出されましたが(target languagereadability formulasreading strategiestacticsinformation-processing techniquestexts as comprehensible inputcoherent programmingteaching routines)、軍事用語(冷戦の影響)やコンピューター関係の語(科学技術発達の影響)が多く使われているという指摘でした。さて、本題に戻ります。この時代、リーディングが再度重視されるようになりましたが、1920年代にようにキャノンを読ませることでアメリカ人の読み書き能力を向上させるということを目的にしているわけではありませんでした。この時代には、リーディングはコミュニケーション能力の1要素と考えられ、文学は “culturally authentic artifacts” (p. 567) とみなされたそうです。また、この時代には読者の能力、興味、背景知識などを指導の中で重要視し(テクストを改作したり、タスクを学習者のレベルに合わせて調整したりするという試みが多くなされたようです)、さらに学習者が文学テクストを効果的に読むための技能を指導しようという試みがなされたそうです。スキーマ理論や談話分析の知見が大いに活用されたとのことです。当時の研究者は、”All saw “reading for meaning” as relating text to the student’s experience and to cognitive processes in the reader, not to reading and writing conventions in the foreign culture” (p. 568) というような考えを持っていたそうです。この時代は、文学理論ではポスト構造主義が流行りましたが、作者、読者、解釈などの実在性を前提としている外国語教育には有益な示唆をもたらすことができなかったそうです。また、この時代、文学教材の指導は、これまで20世紀で現われた様々な文学教材に対するアプローチが競合する場となったそうです。“At the end of the Cold War, the teaching of literature was the site of “competing paradigms” (Swaffar, 1989) that summarized its role throughout the century: (a) national cultural canon to be upheld with respect, (b) cognitive content to be processed with the appropriate reading strategies, (c) stylistic form with communicative function, and (d) thematic illustration of social and political issues such as ethnicity or gender. At the end of the century, literature in language teaching served many causes but it was used mostly as an authentic window on a foreign culture and society, not as the unique expression of an artist’s vision of the world.” (p. 568) さらに、この時代は、ベルリンの壁崩壊を契機として、アメリカ国内の言語多様化と文化多様化が進んだそうですが、MLJ誌で優勢であったのは心理学と心理言語学であり、文学と文化的人類学ではなかったそうです。”In the last decade of the 20th century, literary research and the pedagogy of literature were conspicuously absent from the pages of the Journal. References were made to cultural studies (Rampton, 1997), film studies, gender studies (Bugel & Buunk, 1996) and everyone was keen on “bridging the gap” between language and literature in foreign language departments (Shanahan, 1997).” (p. 568)

最後に著者らは、未来の展望について述べます。この箇所で、最初にこれまでの議論の層まとめがなされます。非常に優れたまとめでしたので、少し長いですがここに引用しておきます。”Throughout the 20th century, literature has been given many purposes in language study. It has been used for the aesthetic education of the few (1910s), for the literacy of the many (1920s), for moral and vocational uplift (1930s-1940s), for ideational content (1950s), for humanistic inspiration (1960s-1970s), and finally for providing an “authentic” experience of the target culture (1980s-1990s). These changes in the use of foreign literatures are not gratuitous; they have been driven to a large extent by the U.S. domestic and international commitments and responsibilities during and after two World Wars and during and after the Cold War. Nor are they unique to the teaching of literature. What has been at stake since the early part of the 20th century is the future of liberal humanistic education, the relative value of nomothetic (experimental positivistic) versus hermeneutic (interpretive) forms of knowledge, and the tectonic shifts in the disciplines – that is, the rise of the social sciences, and the linguistic turn in the humanities. The split between the study of language and that of literature and the association of language study with the social sciences in the last 30 years – for example, psycho- and sociolinguistics, second language acquisition, and applied linguistics research (see Byrnes, 1998; Kramsch, 2000) – have kept language study insulated from the poststructuralist trends in literature and from the larger epistemological debates surrounding postmodernism that were paradoxically brought about by the linguistic turn in the humanities (Berman, 1994). (改行)During the life span of the MLJ, literature has consistently provided the cultural backbone and, very often, the intellectual legitimation for the teaching of foreign languages. It has served as the scholarly basis for the creation of foreign language and literature departments at academic institutions (e.g., Rudolph, 1977). Yet coexistence of the two activities in the same department has not in itself established a link between them. Although the teaching of foreign literatures in translation has been co-opted by English departments and departments of Comparative Literature, the teaching of foreign literatures in the original has been more vulnerable to geopolitical swings of fortune than other aspects of language study. It has remained fragmented into national language groups and professional bodies, where language teachers and literature scholars occupy distinct positions in the academic hierarchy. Literary scholarship has forged alliances with history, political science, sociology, critical theory, and anthropology and found an enriched raison d’être in Cultural Studies (e.g., Berman, 1994; Daniel & Peck, 1996). But its link to the study of language itself has gradually waned since the demise of philology and the onset of the communicative turn in language learning and teaching.” (pp. 568-569) さて、著者は外国語教育学が専門化するにつれて、MLJ誌に掲載される論文の分野がかなり限定されてしまったと指摘します(SLAがほとんど)。そして、MLJ誌以外の雑誌で、詩学、文体論、記号論、言葉遊びなどが取り上げられるようになったと述べています。Jakobson (1960) のモデルで言えば、もはやreferential functionmetalinguistic functionしかMLJ誌では扱うことがなくなってしまったと述べます。しかしながら、その他の言語機能についても扱っていくことの必要性を強調していました。”The MLJ, as the organ of language teachers and learners, should feature research on the acquisition of the representational, poetic functions of language as well.” (p. 569) また、著者は文学性という言語の内在的一側面は決して見捨てられたわけではなく、(広い意味での)応用言語学では盛んに研究がんされるようになってきています(例えば、認知言語学や文体論など)。また、インターネットの発達により、”a renaissance of the literary as the multimodal creation of virtual worlds” (p. 569) という側面への可能性も開けてきました。まさに、文学性とはMLJ誌が今後本格的に扱っていかなければならない必要性が出てきていると著者らは述べています。以下の言葉が、この論文の結論と言えるでしょう。”Literature has appeared throughout the century in many avatars – as the god of national greatness, as the patron of the written word, as the guide to moral conduct, and as the warrant of cultural authenticity. But the poetic function of language that undergirds these various manifestations of the literary – namely, its literariness – has remained largely invisible up to now. The time has come for the MLJ to show how crucial this poetic dimension is to language learners, to language teachers, and to the linguistic individuals (Johnstone, 1996) that we all are.” (pp. 569-570)

非常に情報量が多く、かつ凝縮して書かれていましたので、読破するのに大変苦労しました。時間的に余裕のない方は、最後のセクションだけでも十分に読む価値があると思います。大変勉強になりました。

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2010年1月27日 (水)

浅野敏夫・伊東正男(2009).「映画を効果的に利用する英語の指導」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

この論文の詳細は次の通り。

浅野敏夫・伊東正男(2009).「映画を効果的に利用する英語の指導」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 102-135).音羽書房鶴見書店.

感想:この章は、イギリス文学作品編とアメリカ文学作品編の2つの部分に分かれています。それぞれの編で、文学史を概説し、その中で特定の作品の原作と映画版を比較するということがなされていました。指導法そのものというよりは、映画を効果的に利用するために、英語教師が備えておくべき英米文学の知識を整理したもの、及びどのような作品が映画化されているのかという情報を整理したもの、といった形が強いのではないかなと個人的に思いました。

イギリス文学作品編では、Geoffrey Chaucer、William Shakespeare、ヴィクトリア朝の小説からCharles Dickens、戦争と平和という観点からWilfred OwenとT. S. Eliotに言及がなされていました。そして、代表的な作品の映画版の情報が示されていました。

アメリカ文学作品編では、最初にアメリカの社会・政治的事象の簡単な年代記が示されます。そして、アメリカ文学の特徴が列挙されます。それらは、「1 puritanism的なromanticismの傾向が強い。2 堅忍不抜の意志、現実肯定の楽観主義(optimism)を見せる。3 対ヨーロッパ意識を捨てきれない。4 社会批判意識が強い。→realism 5 pioneer spirit、frontier spirit. 6 人種や文化の雑居性:melting-pot theoryからsalad-bolw theoryへ。7 国土が広いため、local color literatureが生れた。」(p. 120)というものでした。そして、著者は具体的な作家とその代表作品を紹介していきます。まず、植民地時代から19世紀前半までが1つの段階として整理されていました。植民地時代(17世紀初頭から18世紀後半の独立戦争まで)に関しては、「宗教関係の書物、日記、実用書などがあるのみ」(p. 120)とことわりが入れられた後、Jonathan Edwards、Benjamin Franklinが紹介してありました。Romanticismの時代(独立から19世紀前半まで)に関しては、Washington Irving(ゴシック小説を書いたCharles Brockden Brownを別にすれば、アメリカ最初の職業作家と紹介されていました)、James Fenimore Cooper、Henry David Thoreau、Edgar Allan Poe、Nathaniel Hawthorne、Louisa May Alcott、Herman Melville、Walt Whitman、Emily Dickinson、が紹介されていました。次に、著者は2つ目の段階として、南北戦争から20世紀の初頭までを扱っていきます。この時代は、Charles Darwinの進化論やHerbert Spencerの社会進化論の影響で「自然主義・写実主義(naturalism)が生れることになった」(p. 123)と述べられていました。具体的には、Mark Twain、Lyman Frank Baum、Theodore Dreiserが紹介されていました。3つ目の段階は、20世紀前半までです。いわゆる失われた世代の時代なわけですが、社会主義的作品が多く書かれたと著者は述べています。F. Scott Fitzgerald、Ernest Hemingway、John Steinbeck、が紹介されていました。最後は、第二次世界大戦から現代までです。文学では、戦争文学、黒人文学、ユダヤ系文学、ビート・ジェネレーション文学、戯曲などが登場した時代と述べられていました。Saul Bellow、Bernard Malamud、J. D. Salinger、Arthur Millerに言及がありました。最後は、文学作品と映画化作品の比較鑑賞の見本として、Louisa May AlcottのLittle Womenと、Lyman Frank BaumのThe Wonderful Wizard of Ozが扱われ、比較鑑賞のポイントが示してありました。いずれも興味深い指摘で、面白かったです。

今回、この章を読んで、私自身、アメリカ文学史はもう一度勉強しなおさなければならないなと反省しました。そのうち時間をしっかりと取って、アメリカ文学史を整理したいと思います。また、ここに示されている文学史の知識は、英語教師が備えておくべき最低限の知識として示されているのかなと思いました。確かに、こういった知識があれば、指導の幅も広がるでしょうし、内容にも深みがでるのではないかと思いました(特に、文学教材を扱う場合がそうかなと思いました)。

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2010年1月25日 (月)

S.A.Schwenter&E.C.Traugott(1995).「The Semantic and Pragmatic Development of Substitutive Complex Prepositions in English」を読む(A.H.Jucker(編),『Historicl Pragmatics: Pragmatic Developments in the History of English』,John Benjamins)

この論文の詳細は以下の通り。

Schwenter, S. A., & Traugott, E. C. (1995). The semantic and pragmatic development of substitutive complex prepositions in English. In A. H. Jucker (Ed.), Historicl pragmatics: Pragmatic developments in the history of English (pp. 243-273). Amsterdam: John Benjamins.

感想:文法化現象についての代表的な論文の1つです。以前からこの論文には興味があったのですが、卒業論文指導の関係で読んでみました。著者らによると、アメリカの歴史語用論は、機能主義的枠組みにおける歴史統語論及び形態論、そして認知言語学の研究を基盤として進んできたとのことです。前者はメトニミーが、後者はメタファーが大きく関わってくる学問です。著者らは、歴史語用論を行なう上での注意事項についてまとめていきます。それほど目新しい指摘は多くはなかったのですが、私が大変重要だと思った指摘の中に 言語的伝統とテクスト的伝統の区別がありました。古い言語を研究する上では、所定の現象が言語そのものの現象なのか、そのジャンルにおける習慣なのかを見極めることは大変重要になってきます。

さて、著者らは、この論文の中でsubstitutionの機能を持つ、instead of、in place of、in lieu of、の3つの熟語の文法化の過程を記述していきます。これらは、いずれも(NP1+) P+NP2 + P (+ NP3)という形で使用されます。著者らは、次のような点から、これら3つの熟語は文法化の事例として考えることができると考えています。それらは、これら3つの熟語は固定化しておりNP2に冠詞をつけることができない点、英語の中に現われた順に文法化の度合が進んでいる点、具体物の抽象化という意味変化を遂げている点("a concrete locative expression has given rise to a more abstract meaning based on concepts of similarity" (p. 246))、語用論的主観化のプロセスを経ている点(""Meanings tend to become increasingly based in the speaker's subjective belief state/attitude toward the proposition". The classes of lexical referents that can be treated as instances of substitution require pragmatic access to assessments of appropriateness of fit between referents, as well as attitudes based in experience, expectation, and other types of temporarl distance" (p. 246 )、という点です。

それぞれの熟語の文法化プロセスの分析は本論文をご参照下さい。私が面白いと思ったのは、instead ofは最も文法化のプロセスが進んだものであること(結果として、その用法がかなり柔軟であること(instead ofは主節の統語にあまりしばられずに用いることができますし、ofのあとに定性のある動詞が来ることもできます。さらに談話標識としても使えます。))、in place ofはplaceの場所を表す意味が未だに残っている関係で同一場所という意味が残っていること、in lieu ofは、他の2つの熟語が既に存在した関係で意味が限定的になっていること("jail time for criminals, taxes for citizens, capital gains cuts for tax payers in an election year, flowers at funerals, and the substituted elements are frequently sanctioned by the community (or a part of it)" (p. 262))、でした。

著者らは、この3つの熟語にはthe pragmatics of expectationが機能していると述べています。"In a situation where "S in place of Y", or "X rather than Y", X is often an object or entity that is unexpected, while Y represents the expected case." (p. 260)

また、著者らはメタファーとメトニミーの言語変化における役割について述べています。著者らによると、メタファーはあくまでも意味変化に、そしてメトニミーは文法的変化に関係していると考えているようです。

また、文法化の中には一方向性という仮説がありますが、in place ofはその枠組みに当てはまらないとしています。一般に、文法化においては意味が徐々に抽象化に向かうとされていますが、in place ofでは文法的な機能は獲得したものの意味の抽象化は予測されるほどは起こっていない(instead ofなどと違って、いまだにlocativeの意味が残っている)と述べます。そして、時としては抽象化と逆の方向への変化(つまり、具体化)も起こるということを考えなければならないであろうとしています。

最後に、著者らは熟語の変化を研究する場合は、その熟語に含まれる語彙自体の変化だけでなく、その熟語全体の変化を考慮することが必要で、その熟語の果す機能や、前後にどのような語が来るのかといったことを考えながら研究を行なう必要があると述べられていました。

なかなか読み応えのある論文です。そして、分析が非常に丁寧なので、読んでいてとても面白かったです。instead of、in place of、in lieu ofの3つの熟語の微妙な違いも非常に明確に分かり、そのような違いがなぜ現われたのかという点もわかります。英語史の授業などで文法化について扱う場合に生徒の興味をひくような、とてもよい事例を提供してくれたと思いました。

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2010年1月21日 (木)

M.レパヴー(2009).「語彙習得のプロセスとその指導」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

本論文の詳細は次の通り。

レパヴー,M.(2009).「語彙習得のプロセスとその指導」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 85-101).音羽書房鶴見書店.

感想:プロトタイプ理論に基づいた議論がされています。著者は、大人の英語母国語話者の平均語数が2万語であるとした上で、日本の英語教育では、たいていの英文で使用される語彙の8割を理解できる2千語、あるいは未知語の意味を推論できるには英文の中の95%の語彙を知っておく必要があるという考えからそれを達成できる3~5千語、という目標が適切ではないかと述べています。ちなみに、日本の航行英語のテキストの英文を辞書なしで理解するためには、5千語以上の語彙を知っている必要があるとのことです。しかも、その5千語の語彙は、用法やコロケーション、核となる意味、派生的な意味まで、深く学ぶ必要があると指摘されています(よく使われる語彙ほどその用法が多様化される傾向があるため)。

著者は、語彙の知識には色々なものが含まれる(語彙内構造、語彙間構造、音韻、文法、コロケーション、使用域、フォーマリティー、など)ということをまず指摘します。そして、語彙内における意味の構造をプロトタイプ理論に基づいて解説していきます(対比するために、意味の成分分析にも言及がされていました)。私自身、著者のここでのプロトタイプ理論の説明は非常に分かりやすく、かつ例が豊富ですので、それらの情報を授業で学習者に与えることで学習者の興味関心を挙げることができるのではないかと思いました。具体的には、意味構造、語彙習得プロセス、外国語学習への応用、について論じてありました。私が英語教育にとって一番重要だと思った指摘は、著者が先行研究に基づいて紹介している「母語でプロトタイプに近い概念ほどL2に転移されやすいということと、逆に、プロトタイプかrあは成れた語義ほど転移されにくいという」(p. 95)考えだと思いました。著者が示しているbigとeyeに関する具体例は大変面白かったです。

次は語彙間の意味構造についてです。ここでは、具体的な名前は出てきませんでしたが、いわゆる場の理論に基づき、それをプロトタイプ理論で補強したような議論であったように思います。ここでも非常に具体例が豊富で、私自身もとても楽しく読みました。ここでも、再度プロトタイプが外国語学習における母語の転移に影響をしている点が指摘されています(「引く」という語のpullという動詞の習得への影響)。また、ここで著者は上位語と下位語に言及し、「中学生以上の英語学習の場合、既に日本語ですべてのレベルの語彙を習得してしまっているため、どうしても上位レベルの語彙に意識が向かいがちになります。しかし、これまで述べてきたように、語義のまとめかたは言語により異なるので、結局は遠回りな学習法になってしまいます。それよりも、基本レベルの語彙をしっかりと身につけ、そこを出発点として上位レベル語、下位レベル語の学習をした方が結果的にはより高い語彙力を身につけることができるのです。」(p. 100)という考えが主張されていました。

最後に、語彙の学習と記憶について簡単に触れてありました。まず、英作文など処理深度の深い学習法が有効であること、「3日間、3週間、3か月間と感覚を開けて3回以上繰り返して学ぶと、短期記憶から長期記憶へ移動し、その語派かなり長期間記憶が保持されると言われてます」(p. 100)という点が指摘してありました。

プロトタイプ理論について勉強するのにも有用ですし、授業で使えるような英単語についての話題も多く示されているので、とても貴重な文献だと思います。

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2010年1月19日 (火)

東海林宏司(2009).「データ収集・プレゼン技術を生かした指導-ビジネスプレゼンの手法を教室に-」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

本論文の詳細は以下の通り。

東海林宏司(2009).「データ収集・プレゼン技術を生かした指導-ビジネスプレゼンの手法を教室に-」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 72-84).音羽書房鶴見書店.

感想:この論文では、コーパス(Collins Wordbanks Online English corpus)とPower Point(またはImpress)を使った文法指導(ここでは動詞finishの用法の指導)について提案してありました。まず、コーパスを使ってfinishがどのような語と共起するのかを調べ、かつその例文を収集し、finishの用法についてPower Point(またはImpress)を使ってパソコン環境のある教室で学習者に指導(説明)をするというものです。ただし、「プレゼン」を行なう場合は、教師が一方的に話すのではなく生徒とのやり取りを重視し、小刻みに質問を投げかけていくことで、生徒に気づきを促すことが重要であるということが指摘してありました。私もPower Pointを使って授業をすることがありますが、参考にさせてもらいたいと思います。無料で利用できるコンテンツのみを使った指導が提案されていて、とても有益だと思いました。

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菅原光穂(1969).「意味解釈の能力をめぐって」を読む(『人文研究』)

この論文の詳細は以下の通り。

菅原光穂(1969).「意味解釈の能力をめぐって」.『人文研究』,39,77-94,小樽商科大学.

感想:いわゆる解釈意味論の論文です。随分と古い論文で、生成文法の枠組みも標準理論となっていますので、現在の生成文法の議論には適合しない箇所が多いかとは思いますが、生成文法が意味的変則文をどのように捉えていたのかを知ることができる大変興味深い論文でした。著者は、選択制限という観点を中心に吸えて、通時的観点から隠喩文(特に通常の隠喩文と死んだ比喩(dead metaphor))を、共示的観点から辞書における単語の多義性について議論し、それらを理解ないし産出する意味能力をどのように位置づけるべきかということについて述べられていました。後者については、特に中心義を設定すると、それ以外の関連した意味は一種の隠喩と捉えられることとなります。著者の結論ですが、「私の見解では、変則文を受容性のある隠喩表現であるとする解釈は、言語内情報ではなく言語外の実在の世界からの情報に基礎を置くものとみなすことができるから、その解釈はいわゆる運用能力(performance)の一部となる」(p. 88)と述べ、「意味上良型性と変則性を区別する能力は同一で、これを今「意味能力」(semantic competence)とする」(p. 88)としています。つまり、John plays golfという文が良型であると判断する能力と、Golf plays Johnという文(この文はplayの主語に関する+Humanという選択制限が緩められ、-Humanの特性を持つgolfという語に、+Humanの特性を持たせる擬人化が起きています)は意味的に変則であるとする能力は、共に意味能力であり、Golf plays Johnという文を比喩として理解する能力は言語運用の範疇となるというわけです。また、死んだ比喩は、かつては言語運用の範疇で処理されていたものですが、それが辞書項目内に1つの要素として取り込まれた結果、意味能力の範疇で処理されるようになったものであるという点も指摘してありました。現在では、それほど目新しい議論ではないかもしれませんが、生成文法が隠喩などのいわゆる修辞的な言語表現をどのように位置づけたのかを知ることが出来るとても面白い論文だと思いました。議論の整理をするのに大変有用な論文だと思います。

合わせて、

Chomsky, N. (1961). Some methodological remarks on generative grammar. Word, 17 (2), 219-239.

Katz, J. J., & Fordor, J. A. (1963). The structure of a semantic theory. Language, 39 (2), 170-210.

も読むとより面白いかもしれませんね。

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2010年1月18日 (月)

森住史(2009).「通訳訓練法を取り入れた指導」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

この文献の詳細は以下の通り。

森住史(2009).「通訳訓練法を取り入れた指導」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 53-71).音羽書房鶴見書店.

感想:通訳訓練法の中で、シャドーイング、ディクテーション、パラフレージング、の3つの訓練を一般的な外国語教育の中に取り入れることについて提案がされていました。いずれも具体的なタスクが提案してあり、説得力があります。シャドーイングについては、リスニングとスピーキングの両技能に向上が期待でき、その教材としては、「あまりスピードが速すぎず、内容もあまり専門的ではなく、難しすぎないもの」(p. 54)や「自分がよく知っているトピック」(p. 54)が推奨されていました。具体例として、オバマ大統領のスピーチが挙げてありました(付属のCDにも入っています)。ディクテーションについては、あまり詳しくは論じてありませんでしたが、細部まで正確に聞き取ることが重要であるということが指摘してありました。またパラフレージングについては、日本語と英語両方のパターンについて議論されています。まず、日本語のパラフレージングについては、和文英訳などの日本語文の意味を自分で考える姿勢が身につき、「一見、とても難しそうな日本語の文章も、なんとか英語に訳せるようになってきたり、日本語独特の言い回しやことわざなども、「要するにこういうこと」という理解のもと、なんとか英語で原意に近い表現が探せるようになってきたりします」(pp. 60-61)と述べられていました。英語のパラフレージングについては、「自分がもともと言いたかったことを、より簡単でより単純な英語で表現をするための第一歩にな」(p. 61)ると述べられていました。私が一番面白いと思ったのは、逐次通訳の演習で、3人組みになり、仮の日本語話者と仮の英語話者の間に通訳が入り、両者の橋渡しをするというロールプレイの提案です。タスクの具体例も示してあるので、非常に明快ですし、授業でうまく取り入れることができないかなと思いました。ちなみに、著者は本章で述べたような通訳訓練を大学で通年行なったところ、TOEICの点数など英語力に大きな伸びが見られたそうです。大変面白い章でした。

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R.Beach&D.Appleman(1984).「Reading Strategies for Expository and Liteary Text Types」を読む(A.C.Purves&O.Niles(編),『Becoming Readers in a Complex Society』,The University of Chicago Press)

本論文の詳細は次の通り。

Beach, R., & Appleman, D. (1984). Reading strategies for expository and liteary text types. In A. C. Purves and O. Niles (Eds.), Becoming readers in a complex society (pp. 115-143). Chicago: The University of Chicago Press.

感想:このブログでレビューするのは始めてですが、実は私にとっては再読になります(博士課程の頃に1度読んだように記憶しています)。この論文は第1言語語教育についての論文で、現在では少し古すぎる記述もあるのですが、その言わんとするところは現在の英語教育にとって重要だと私は考えています。

著者らはまず、この論文で述べるところの「文学テクスト」と「説明文テクスト」を次のように規定します。"For the purpose of our discussion, we will consider literary texts as including genres such as the novel, short story, poetry, and autobiography/biography. Expository texts include such tyles as description, opinion/example, problem/solution, cause/effect, persuation." (p. 115)そして、学習者は異なるテクストタイプに対して異なる読解方略を学習する必要があり、作者は読者に特定の読解方略を用いてそのテクストを読むことを求めている(誘っている)(p. 116)と述べていました。117ページには、説明文と文学テクストの典型的なテクスト構造、読解方略が一覧にしてあります。また、特定のテクスト構造に対して特定の読解方略を適用することに影響を与えると考えられる読者の特性についても一覧表にしてありました。著者らは、テクスト構造と読解方略、テクスト理解の間の関係性を強調し、"Different structures, therefore, not only help a reader organize information, but also invite a reader to organize the information in a certain manner" (p. 118)と述べていました。

次に著者らは説明文について述べています。ここではMeyerによる古典的な分類に基づいて議論が構成され、各テクストタイプにどのような特徴があるのか、リーダビリティーにはどのような要素が関わるのか、説明文の評価にはどのような観点が必要なのか、が説明されていました。ここでの議論は次の言葉に集約されていました。"In summary, expository text structures such as cause/effect or problem/solution are organized primarily according to logical relationships. In reading their social studies, science, or mathematics textbooks, students therefore need to be able to infer the particular logical relationship represented in their text. Expository texts also vary according to the order of information presented and the extent to which necessary background information is used to prepare readers for new or unfamiliar information. Students learn to link this initial background information with subsequent information automatically. In reading expository texts, students also learn to judge their validity, the sufficiency of information presented, the objectivity, and the concreteness and clarity of language based on tacit knowledge of criteria appropriate for making theuse judgments. While students certainly learn the requisite skills necesary for comprehending different types of expository text simply from extensive reading, it may also be necessary for subject-matter teachers to provide instruction in those skills most pertinent to the textbooks employed in their classes". (pp. 127-128)

次は文学テクストについてです。テクスト構造については物語り文法の知見に大きく基づいていたと思います。また、文学読解の特徴として、作者や語り手などによる主観的な観点が多用されること、物語世界の時間の推移に伴って登場人物の観点が変容すること、読者に作者の感情を共有することを求めてくること、他の(現実)世界の提示、読者は自分の生活の意味に対して新たな洞察を持つこと、世界を修辞的ないしは比喩的なフレームによって経験すること、修辞的な言語使用に出会うこと、が指摘されていました。また、文学を読むことが読者に与える影響に関しては、現実世界の出来事を「悲劇」、「喜劇」、「皮肉的」と捉えるようになること(文学における原型の現実世界への適用)があるとし、更には、"Learning to adapt to these different fictional worlds helps readers learn to adapt to their own different social contexts. Literature can also help readers acquire historical knowledge. Some literature portrays historical events with a vivid immediacy. Because of the empathy required in recreating events, people and places can be more easily internalized and thus better understood." (p. 131)とも述べられていました。また、明確な結論は出ていないとしながらも、テクストの構造が読者の文学反応に影響を与えるという点、adolescent novelへの言及(学習者が子どもから大人へと変わっていく際に橋渡しをするものとして言及されていました)もされていました。私自身一番面白いと思ったのは、やはりPurvesによる文学反応の4分類です(読者反応批評的な1980年代の第一言語文学教育論文ではよく言及される分類です)。それらを要約して、著者らは次のように説明します。"Engagement responses include emotional reactions, expressions of identification or empathy with chacarters or place, conjecture about characters, autobiographical associations or the processes of involvement with a text. Description includes responses that describe, define, or sort out the nature or content of the text. In interpretations, a reader goes beyond describing a text to explain characters' acts or infer symbolic or thematic meanings. Evaluation refers to judgments about the quality of the characterization, story-development, or style." (p. 133)。このように、engagement、description、interpratation、evaluationと4つの反応があるとし、engagementが最も広く見られる反応で、evaluationが最も高度な反応であるとしています。

最後は、読者の特性についてです。著者らは、認知的発達、個性、ジャンルやテクスト構造の慣習についての知識、社会的慣習や発語行為の知識、がテクストを読む際に読者の読みの質に影響を与えるとしています。ここで面白いと思ったのは、次の言葉です。"Readers vary in their knowledge of these different genre conventions, suggesting that rather than an overall "literary competence," readers acquire particular "genre cometences."" (p. 140)

文学教材を指導する際には、登場人物の行動(その行動の目的)や言葉、語り手による記述などに着目させ、それらを結びつけることができるような隠れた意味を読者に探させ、更にその隠れた意味を伝達する方法として所定のテクストは妥当であるのか、ということを考えさせるような指導ができればなと思います。もちろん、engagementやdescriptionの段階も十分に扱った上での話しですが。

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上野尚美,M.パトリック・スティーブンス,ローリーS.バスキン,&リンジーJ.ロバートソン益子(2009).「小学校英語活動における指導」を読む(上野尚美(編),『英語教育にスパイスを!:教員免許更新講習に向けて』,音羽書房鶴見書店)

本論文の詳細は次の通り。

上野尚美,M.パトリック・スティーブンス,ローリーS.バスキン,リンジーJ.ロバートソン益子(2009).「小学校英語活動における指導」.In上野尚美(編),『英語教育にスパイスを! 教員免許更新講習に向けて』(pp. 7-52).音羽書房鶴見書店.

感想:久しぶりに英語教育の本を読んでいます。第1章は小学校英語教育についてです。本章では、あまり英語と関わりを持ってこなかった小学校の先生を対象として、3つの指導案が載せてありました。著者らは、「小学校での英語活動のねらいとしては、「言語習得を主な目的とするのではなく、興味・関心や意欲の育成をねらう」」(p. 7)としながらも、「それに加えて「英語活動を通して何かを学んでほしい」(p. 7)とも述べており、このような考えに基づいて3つの指導案が作成されているようです。具体的には、友達の紹介、世界の天気、将来の仕事、という3つの授業の指導案があります。いわゆる細案のようなものが書いてありますので、実際にこの指導案に基づいた授業を展開することが容易となっています。また、授業で用いる教材もすべて収めてありました。さらに、CDが付いていますので、そのCDで教師の台詞などを確認することができます。各レッスンの最後には、各レッスンで学習したキーフレーズを、学習者が知っている音楽に乗せて歌うという活動が提案してありました。音符や歌詞などもついているので、これもすぐに実践することができます。いずれもパタン・プラクティスを重視した活動となっていますが、機械的にならないように活動が工夫されていて、とても面白く読みました。

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2010年1月14日 (木)

L.オブラー&K.ジュァロー(1999/2002).『言語と脳:神経言語学入門』を読む(若林茂則・割田杏子(訳),新曜社)

本書の詳細は次の通り。

オブラー,LK.,& ジュァロー,K.(2002).『言語と脳 神経言語学入門』(若林茂則・割田杏子(訳)).新曜社.(原著は1999年出版)

1章:神経言語学

著者らは神経言語学とは、「脳が、どのようにして私たちが言葉をもつことを可能にしているかを研究する」(p. 2)分野であり、「脳が言語のためにどのように組織されているか」(p. 19)を問う学問であると述べています。そして、心理言語学、発話言語病理学、認知科学など様々な分野の知見が応用される学際的な分野であると述べていました。著者らは、この領域の始まりは19世紀のポール・ブローカによるブローカ野に関する研究であるとしています。また、研究対象の分類方法も様々であり、忠実に言語学に依拠した分類方法(音韻論、形態論、統語論、語用論など)に依拠した方法がある一方で、「十九世紀および二〇世紀のある期間では、神経学の研究対象は、脳組織の中の大きな領域であった。初期区分の一つは、言語に最も関係があると思われる外側の表層(皮質)と、言語との関わりがずっと少ないと思われる、より大きな内側の部分(皮質下領域)との区分であ」(pp. 12-13)ったとしています。また、神経言語学のアプローチの方法には2つあるそうです。一つは局所主義です。著者は、「十九世紀に、ブローカらの局所主義者は二つの大脳半球のうち、片方が言語をつかさどっており、多くの場合それは左半球であることを見つけ出した。また、局所主義者は左半球全体のうちで外側表面の中央部分が言語とのつながりでは最も重要な働きをするらしいという解釈をした。それは、左半球のそれ以外の部分に損傷を受けても、言語能力にはほとんど影響が出ないと思われたからである。そのうえ、失語症にもいろいろなパターンが見られたことから、たとえば、頭部前方に近い、一つの領野が言語産出をつかさどっており、ずっと後ろの別の領域が言語理解をつかさどっているというふうに、左半球大脳皮質の言語野に含まれる領域が、局所主義者によって区分けされた。」(pp. 13-14)として、その研究アプローチを紹介しています。ちなみに、ボストン学派と呼ばれる局所主義的発話言語病理学者は、発話が一見流暢に見える失語症と流暢さを欠いた失語症を区別したそうです。もう一つのアプローチは全体主義で、現在はコネクショニズムとも呼ばれます。著者は、「全体主義学派は、局所主義は言語能力の区分としては誤っており、言語能力は実際には言語のより大きな部分によって行なわれていると主張してきた。(中略)彼らが(は)、脳の領野が脳内部でどのように結びついているかに研究の焦点を当てていた(中略)。全体主義者は、言語が記憶・抽象的思考・注意などの認知能力にどのような形で依存しているかにより多くの焦点を当てており、より限定された言語現象や言語野に研究対象を制限することを好まなかった」(p. 15、( )内は私による補足です)、と述べていました。全体主義的アプローチの1つとして、並列分散処理モデルが紹介してありました。このモデルについて、「彼らのコンピュータ・モデルは、言語が果すのと同じ機能を果すように見えるし、失語症と同じように崩壊してしまったり、あるいは、普通の人間と同じように誤りを犯しながら言語を学んだりすることができる。彼らの理論の最も極端なものでは、言語の中心そのものは存在せず、刺激を受ける「ネットワーク節点」が存在することになる。最終的には、ネットワーク節点の一つが十分な刺激を受けると、それがある限界点を越え、その節点が-話し言葉に現れる単語、のような形で-「具現化」する」(p. 16)と述べていました。なお、著者らは全体主義者にコネクショニストという言葉を使うことに消極的です。というのは、十九世紀及び二十世紀初期には、コネクショニストとは局所主義者に対して使われていた言葉だからです(想定された複数の中枢の間にコネクションがあるという意味でのコネクショニズム)。実際、本書が執筆された当時は、全体主義者を表わすのに、「インタラクショニスト」という語が使われ始めていたようです。最後に著者らの立場が明確化されていました。「広い意味でのインタラクショニストと自称する私たちのような研究者は、脳における言語現象の局所をはっきりさせることは神経言語学の最終目標ではあるが、言語に対してすべての「責任を負っている」言語野があるとか、さらに言えば、言語とはまったく無関係な領野と対照を成すような形で、言語に対して「優位な」領野が存在するということすら、予想していない。むしろ、私たちが実際に信じているのは、広い意味での言語能力に対して、脳全体が貢献しており、それを神経言語学者が研究すべきだということである。私たちは、言語行動においてより重要な貢献をしているこれらの領野とその処理、および、非言語行為においてより重要な貢献をしている領野とその処理の間に、インタラクションがあると仮定したい。」(pp. 17-18

2章:脳

「この章の目的は、中枢神経系の構成部分-特に、言語のために働くもの-について情報を提供し、それと末梢神経系とのつながり一般を示すことにある」(p. 22)と述べられています。ここでは、神経細胞、中枢神経系、脳の両半球、脳発達の個人差、大脳皮質領域について簡単な説明がなされていました。結論の部分では、「脳の両半球の大脳皮質表面および大脳皮質下の神経細胞は、いずれも、言語の産出と理解の両方に関わっている。左半球内では、「言語野」は、脳の一次運動野および一次感覚野に隣接した領野、および、そのずっと後方にあって視覚または聴覚に示された情報の取り入れに関わる領野を含む部分に限定することができる。」(pp. 37-38)と述べられていました。ここで面白いと思ったのは、脳の領域を区分する方法についてで、回と溝を使う方法と脳の各部分の細胞のタイプを調べる方法が紹介してあった点でした。後者の方法については、19世紀に神経病理学者コルビニアン・ブロードマンが行なったものがその例として引き合いに出されていました。僕のような素人には、回と溝によって4つの葉に分けるという方法の方が分かりやすいと思いました。また、ゲシュヴィント/ガラブルダ仮説が紹介してありました(pp. 32-33)。

3章:言語のための脳のしくみを知る方法

言語機能を司る脳の領野を特定しようとした研究の起源は19世紀の骨相学者だそうで、「特別な才能や個性の特徴そのものが特別な大脳の領野の発達の増加を引き起こし、さらにそれは頭蓋骨の形に目に見える影響を与えると信じていた。彼らが信じていたのは、頭蓋骨を詳細に調べれば、人間の内面を理解することが可能だということである」(p. 39)と述べてありました。骨相学者たちの間でも局在説と遍在説で意見が分かれていたそうです。ここでは、脳の仕組みを調べるための方法が紹介してありますが、紹介してあったのは、脳損傷からのデータ(19世紀のマルク・ダクスやブローカの研究)、一方の半球に麻酔をかけることで得られるデータ(ワダ・テスト)、タキストスコープによる刺激提示、両耳分離聴、分離脳の患者からのデータ、が紹介してありました。また、左半球における言語の位置についての研究の歴史的なレビューもされており、大脳皮質刺激と画像診断技術(CTスキャン、PETMRIERPfMRI)が紹介してありました。本章の結論部分では、「「言語野」が左脳のシルヴィウス溝周辺内にあるというところまで限定することが可能である」(p. 52)と述べてありました。なお、面白いと思ったのは、「より最近の研究では、人類全体のおよそ九七%で言語が左半球に非常に優勢な(支配的な)形で存在すると言われている。残り三%のほとんどが左利きである。全体の約一〇%が左利きであると推定されることから、左利きの人たちの大部分も、言語が左脳に存在するということになる。」(p. 41)という箇所でした。また、脳梁についても説明がされていたのですが、約二億の神経線維からなる束なのだと知り、すごいなと思いました。

4章:失語症-症候群の分類

ここで扱われていたのは、ブローカ失語症、ウェルニッケ失語症、伝導失語症、命名不能失語症、全失語症、超皮質性運動失語症、超皮質性感覚失語症、手話話者の失語症、二言語使用者の失語症、女性の失語症でした。この章の結論部分が簡潔にこれらの内容をまとめているとともに、各失語症の症状が一覧表にしてあるので、大変分かりやすかったです。

5章:失語症-症候群の背後にあるもの

最初にこの章の結論部分を引用しておきます。「この章で扱われた現象-ブローカ失語症と関連している失文法症、ウェルニッケ失語症と関連している語彙の置き換え、伝導失語症と関連している音素の置き換え-はそれぞれ脳の特定の領野と結びつけることができ、その場所が損傷を受けると、結果として関連した欠陥が起こる。これらの領野は、もちろん、それぞれブローカ野、ウェルニッケ野、および弓状束の内部および周辺である。標準的な神経心理学の推論にのっとって、仮に、他の言語行為は保持されているのに、特定の言語行為だけが特別損なわれているものとして非常に目立つ場合、この分離状態は、問題となっている領野が、健常者の言語行為を行なう際に決定的な役割を果たすことを意味すると私たちは考える。したがって、神経言語学者の結論としては、ブローカ野は、統語上、具体的な肉づけのある文の産出にとって決定的であり、ウェルニッケ野は意味のある発話を産出するために(かつ、理解するために)決定的であり、また、弓状束(あるいは...頭頂葉)は、音素が単語を形成するときに、音素を並べるために必要なのである。」(pp. 95-96)章の内容を非常にうまく集約したまとめとなっています。他に私自身がとても面白いと感じた部分を列挙しておきますと、「ブローカ失語症の音の誤りは、発話産出の最後の(一つまたはいくつかの)段階に困難な部分があり、その結果起こるのだということで、一般的に意見が一致している」(p. 75)、「音素上の重要な区別が、患者の言語ではいくらかあいまいになってしまうことがあるかもしれない」(p. 75)、「研究の成果としては...、失文法患者においては、統語能力は保持されており、損傷の結果困難な面が現われたのは、処理あるいは産出のメカニズムのいくつかの側面のみだということになる」(p. 82)、「ウェルニッケ失語症患者の言語損失は、より語彙-意味の面に偏る傾向がある」(p. 87)、失語症患者もどうやら統語構造を構成する能力自体は保存している傾向が強いようである、「パラディグマティックなシステムの障害は言語野の中の後方領域に関係がある。左側頭葉大脳皮質に問題があると、彼が「音素的コード」と呼ぶものが崩壊してしまう。頭頂葉の問題は、調音プロセスの組織に問題をもたらす。左半球の側頭-頭頂-後頭の連結領域に問題が起こると、音素と調音のためのパラディグマティックなシステムは大丈夫だけれども、ルリアが意味システムと名づけた、語彙選択をつかさどるシステムに問題が出る。その結果として、患者は、適切な単語を別の正しくない単語で置き換えてしまう。これらのタイプの病変はどれもシンタグマティックな問題にはつながらない。シンタグマティックな問題は、より前方に病変がある場合に、その結果として生じる。脳前方の話し言葉をつかさどる領野に損傷があると、今までの場合とは対照的に、音素選択や語彙選択といったパラディグマティックな能力は比較的障害を受けないが、単語を組み立てて文にする能力が損なわれてしまう。」(pp. 92-93

6章:幼少期の失語症とその他の障害

言語を学習する前の幼児期の段階から、左半球が言語にとって優位であるということが明らかにされてきたそうです。一方で、レネバーグは、「同等潜在能力」仮説を立て、初期であれば両半球が同程度に言語を操作することができると考えていたそうです。しかしながら、幼児期であっても、右脳は言語機能を完全に引き継ぐことはできないということが示されているようです(具体例は本書のp. 104を参照)。そこで、サッツ、ストラウス、ウィトカーは、レネバーグの同等潜在能力仮説を改良し、「通常使用されている左半球に損傷を負った場合、昔から知られている左半球言語野の周辺領域、および、右半球の、左半球言語野に類似した領域が、言語機能を引き受ける潜在能力をもっている」としています。次に、思春期以降に第1言語を習得する場合の問題として、ジーニーの例が引用されていました。思春期以降の第1言語習得は右脳が大きく関与するようで、彼女が統語形態上の規則を習得することが困難であったことなどから、右半球による一般的な「全体的」思考スタイルによって言語習得がなされるのではないかと考えられているそうです(p. 108)。最後は発達神経性不全失語症です。一般には産出に問題があると考えられているようですが、音韻、形態統語などに現われることもあり、個人によってその症状が異なるようです。以上のような議論をした上で、著者は結論部分で以下のように述べていました。「幼少期失語症の研究からは、左半球が特別に扱いが得意である能力、中でも統語能力は特別であることがわかった。同時に、幼少期失語症は全部類似していることから、子どもの場合は、大人の場合よりも、少なくとも言語野内では、言語能力が拡散した形で組織されているのだということが示唆される。」(p. 114)。しかし、脳の機能不全の本質がわかっていないため、まだ全容の解明への道のりは長いとのことでした。

7章:右脳の損傷

右半球には損傷を負っても言語障害を起こす患者はほとんどいません。また、発達の早い段階で左半球に損傷を負った場合、完全ではないにせよ、かなりの部分を右半球が肩代わりすることができるということも示されてきています(ただし、両半球が潜在的に完全に同一であるとは言えないのではないかというのが当時の研究報告です)。右半球の損傷は、言語障害にはあまり関わりはないようですが、人格が変わってしまったり(左半球損傷ではそのような変化は見られない)、コミュニケーション上の問題を抱えることになってしまうことが多いようです。例えば、音調、語彙選択(特に感情との関わりが大きい語の選択)、統語の両義性、談話の感情的側面(ただし、これに反する結果も得られている)、パラ言語学的感情表現の表示、談話の語用論的適切性(ここでは、グライスの会話の公理の関係で解説がされています)、心の理論の欠如(話し相手の心の中に何があるのかを考える能力の欠如)、多義語の意味、文字通りではない意味が意図された表現の解釈(ただし、そういった知識自体が欠如しているというわけではなく、文を解釈するときにそのような知識を適用できないということが起こっているようである)、に問題が見られるようです。次に分離脳患者についてです。右半球で言語習得をした患者は、表面上は基本的な言語能力をマスターしている場合であっても、自分が知覚したものについてコメントをするということにかなりの困難を覚えるようです。

8章:痴呆

痴呆とは、「脳のはっきりと特定できる領域における明確な脳損傷という結果にはつながらない。むしろ、より一般的な荒廃となって現われる。」(p. 137)と特徴づけられています。著者らは、大脳皮質痴呆症と大脳皮質下痴呆症を区別して考えていきます。前者の中で最もよく知られているのはアルツハイマー病です。著者らは以下の4症状のうち3つを示すとしています。それらは、「(1) 言語に明らかな問題がある。(2) 記憶に問題がある。(3) 自分がすでに知っている知識を使って新しい課題を行なうことに問題がある。(例:worldという単語を後ろからつづる。)(4) 人格が変わる。」(p. 138)。これに対して、後者で最もよく見られるものとして、パーキンソン病に言及しています。それらは、歩くことが困難であること、話すことが困難であること、です。著者らは、まず大脳皮質下痴呆症の症状を整理していきます。患者は言語能力そのものよりも発話の方にはっきりとした形で現われることが多く、物の名前を言うこと、屈折語尾、新出語彙の学習、語彙選択、文処理、によく誤りを犯すそうです。文処理については、グロスマンらの「文理解のための大脳皮質回路に関わっている前頭葉の複数の領野に、ドーパミンが行き渡らないことが原因で起こる記憶力と注意力の欠如」(p. 142)が原因ではないかという意見が紹介してありました。次に大脳皮質痴呆症についてです。大脳皮質痴呆症での症状は、失語症の症状に大変似ているそうです。これは、大脳皮質痴呆症では細胞の損傷が側頭葉と前頭葉に損傷が出てくることに起因しており、特に驚く一致ではないとしています。大脳皮質痴呆症の患者は、語彙と意味に次第に問題を抱えるようになりますが、音韻、表面的なレベルでの統語など言語の自動的な面(誤使用もあるが、頻度の低い機能語でもかなり長く保持されるようです)、声に出して読むこと、語用論的能力のいくらか(ターン・テイキングする場所はどこかということやアイ・コンタクトを維持するなどの単純な語用論的能力は比較的よく保持される一方で、適切に話題を保ったり、言い誤りを修正したり、会話における適切な情報量、関連性、伝達様式について次第に適切な振る舞いを行なうことが困難になっていくそうですが)はかなり症状後期まで保持されるそうです。最近では、アルツハイマー痴呆症1つとってみても、衰退にいくつかの下位パターンが存在することが明らかにされてきているそうで、早期に発病すればするほど言語障害がひどくなる傾向があるということが明らかになってきているそうです(ただし、原因は不明)。先ほど、失語症と大脳皮質痴呆症は似ていると述べましたが、当然違う点も見られます。痴呆症患者は、失語症患者に比べて、「一般的にいって、意味の記号化能力や、認知能力と言語能力のつながりが弱い」(p. 155)傾向があるそうです。機能語に関して言えば、痴呆症患者は頻度の低い機能語の誤使用を多くしてしまう傾向がありますが、失語症患者(ウェルニッケ)は自分が利用できるものだけを使って発話をするということが明らかにされています。また、当時新しく大脳皮質痴呆症と区別されたものとして進行性失語症に言及されていましたが、まだほとんど何も分かっていないとのことでした。また、アルツハイマー病では、思い出せない名前を言う場合、その語の最初の音韻情報が与えられたとしても、正しい名前を言うことができず、その音で始まる別の語を発話してしまうという特徴があるそうです(これは加齢による言語変化とは明らかに異なる点です)。最後は、二言語使用者の痴呆についてです。一般に最初に学習された言語が保持されやすいそうです。また、コード切り替えの方法なども保持されている傾向が強いそうです。

9章:書き言葉にいける障害-難読症と書字障害

著者らは、最初に難読症の定義を行ないます。著者らは、読む能力の習得に問題を抱えている子どもの症状、そしてそのような子ども達が大人になったときに依然として読書障害に関連した問題が見られること、の2つを難読症と呼び、読む能力を習得した人々が脳に損傷を受けて障害が生じた場合を失読症と読んでいます(ただし、このタイプも難読症と呼ばれることがあるそうですが)。幼少期の難読症患者には、しばしば右半球の過剰な発達が見られることがあるそうです。失読症では、その症状によって様々に分類されてきたようですが、主に二つの脳の病変が関係しているそうです。「一つは左後頭葉の病変で、これにより左半球に入った書き言葉による情報を、左半球の言語野に送ることができなくなる。もう一つは、脳梁後方部分の病変で、これにより右半球に入った書き言葉による情報を左半球の言語野に送ることができなくなる。」(p. 175)そうです。現代の認知神経心理学では、書き言葉による障害は、表層難読症と深層難読症という2つのタイプに分けられているようです。前者は、「単語を音韻的に解読することはできるが、単語全体を認識することができない」(p. 176)患者の症状だそうです。後者は、「単語を音韻的に解読することはできない。…しかしながら彼らは、ある種の単語を全体として読む読み方、あるいはゲシュタルト的な読み方をすることはでき、その結果興味深い意味的間違いをしたりする。たとえば、オーケストラ(orchestra)という語を見て、それをシンフォニー(symphony)と読みあげるなどである。」(p. 177)という患者の症状を指しています。深層難読症の患者は、他にも、実質語よりも機能語を読むことに問題があったり、派生辞(nationalalなど)を不適切に省略し(あるいは置き換え)たり、具体語よりも抽象語を読むことに問題があったり、語幹は正しく読めるが屈折接尾辞を間違えて他の接尾辞に置き換えたり、といった特徴があるそうです。また、アルツハイマー病では、音素と書記素の対応が不規則であるような語は記憶から消えやすいということも示されているようです。なお、表層難読症と深層難読症は、英語とは異なる綴り字システムの言語(例えば、英語よりも規則的に音韻と文字が対応している言語)においても同様に見られるようです。また、あらゆる脳障害は書くことを難しくするようです。書くためのシステムは、多くの言で様々な崩壊にさらされやすいとのことでした。

10章:二言語使用

ここでは、外国語なまり、二言語使用者の心的辞書、コード切り替え、第二言語習得能力の個人差、第二言語学習能力とIQ、二言語使用者の失語症、言語の半球優位性、大脳皮質刺激、という項目について研究成果の報告がなされていました。外国語なまりと二言語使用者の心的辞書についてはどちらかというと心理言語学の研究成果がまとめられていたように思えました。私が面白いと思った箇所だけを抜粋的に述べさせてもらいますと、「生れて最初の一年間に、子どもたちは、自分の周りで話される特定の言語で区別するのに必要のない多くの音を区別する能力を失ってしまう」(p. 191)、二言語使用者の言語間のコードスイッチと単一言語話者の言語内のコードスイッチは、言語処理においては質的な区別はないようであること(pp. 203-204)、「過去に報告された二言語使用者の失語症のうち半数以上が、脳に総称を受けたことによって、両方の言語において同等の障害が現れ、またそれが治るときにも両言語で同じような回復を見せていることを明らかにした」(p. 209)、「失語症の原因となる事故の前の何年間かに、何が起こっていたかという点から見た、直前の脳の活動が、失語症後どのように言語が産出されるかを決定する重要な要素である」(pp. 211-212)、日によって話すことができる言語が異なるという失語症では「二つもしくはそれ以上の言語間で切り換えを繰り返し行なう能力を失ってしまったという問題があると主張されている」(p. 212)、「ある年齢に達してから第二言語を学習した二言語使用者は、言語処理における右半球の関わりがより大きいことを示す傾向がある」(p. 213)、手話言語などを調べてみると「側頭葉前方は話し言葉よりも視覚および身振りによる手話で重要な役割を果たしていると結論づけている」(p. 215)、というものがありました。大変面白かったです。

11章:言語の組織化

著者らは、まず理論言語学が研究してきた抽象的な文法や言語体系が、発話の物理的な産出や言語処理の過程と何らかの関係を持っているということを想定します。そして、その上で神経言語学的な証拠がそういった文法や言語体系の心理的実在性をサポートする例を示していきます。今までは神経言語学的現象を理解するために言語学の知見を利用していたわけですが、ここではその逆のことをやろうというわけです。具体的な議論には触れませんが、ここで扱われていたのは、音韻論(音素、弁別素性、語構造の形態音素的制約、音節、超分節音素)、形態論(単語群の分類、語の複合、接辞添加、形態と統語の関係)、統語論(階層性、複雑性、深層構造と表層構造、痕跡、意味役割)、語彙(心的辞書内の語彙項目の構、語の概念、語の形成、意味の区別、意味論的階層(上位語と下位語)、意味論的ネットワーク)、語用論(会話における規則、会話の公理、感情を表す語彙、二言語使用者によるコード選択)、書き言葉のシステム(音韻と文字の境界線、様々な綴り字における違い、日本語のように異なる文字システムを持つ言語の場合、読みと綴りの規則性に関する二重経路モデル)でした。色々な事例に触れられていて、読んでいて大変面白かったです。

12章:神経言語学研究の今後

著者は、神経言語学に有益な示唆を与えると考えられる分野として、言語学、発話言語病理学(あるいは、D. Crystal (1981) によるclinical linguistics(臨床言語学))、人工知能に触れ、どのような示唆が得られると考えられるかを具体的な研究に基づいて述べていました。また、神経言語学は今後(原著が書かれた当時における今後)、次の4つの分野で発達していくのではないかと述べられていました。それらは、言語に関する神経生理学(化学物質や神経物質が言語に与える影響など)、言語と非言語的認知の関係、構造が異なる言語における言語の崩壊に関する比較研究、脳画像診断技術の発達、の4点です。特に4番目では、しばしば神経言語学的な第2言語習得研究で言及されるN400のことについても簡単に触れてありました(p. 259)。

さて、以上で本書は終了です。神経言語学は発達が早いので、現段階ではもっと新しい知見が出ていることが予想されますが、神経言語学とはどのような学問分野であるのかということをとても分かりやすく説明してくれる良書であると感じました。本書の最後には専門用語集もあるので、一度読んだ後でも辞書として使うことも可能ですし、本書を読んでいて分からないことがあったとしても、すぐにその用語集で専門用語の意味を調べることができます。ただし、言語学の知識が前提として書かれているところもあるので、言語学者のための神経言語学入門といった形の本ではないかなと思いました。大変面白かったです。

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2010年1月12日 (火)

C.Fernández(2008).「Reexamining the Role of Explicit Information in Processing Instruction」を読む(『Studies in Second Language Acquisition』)

この論文の詳細は次の通り。

Fernández, C. (2008). Reexamining the role of explicit information in processing instruction. Studies in Second Language Acquisition, 30 (3), 277-305.

感想:これまでの研究で、Processing Instruction(以後、PI)では明示的情報(以後、EI)が重要ではないという結果が示されてきています(処理と産出両面において)。そもそも、PIの目的はというと、著者は次のようにまとめていました。"The goal of PI is to alter the nonoptimal processing strategies that lead L2 learners not to process forms or to process them incorrectly; that is accomplished in part by manipulating the input provided to learners. The modified input, called structured input (SI), pushes learners to change their default processing strategies in favor of other strategies that are more effective. A complete PI treatment promotes such a strategy change by (a) giving EI, (b) giving information about an inappropriate strategy, and (c) exposing learners to SI." (p. 278) なお、SIには、常に正解が用意されているreferential activitiesと、各学習者に当てはまるかどうかを個人で判断させる(つまり正解がない)affective activitiesと2種類があるそうです。

先行研究によると、PIにとってEIはそれほど重要ではなく、むしろSIが大きな役割を果たしているという結論が多く得られています。EIの役割を示唆する研究もありますが、ほのめかす程度であり、大半はSIこそが重要であるとみなされているようです。そこで、著者は、その真相を確かめるべく、アメリカ人スペイン語学習者を協力者とし、PIグループとSIグループ(EIはなし)の間で外国語学習について比較研究を行なうこととしました。著者は、スペイン語のOVS構文と仮定法を学習する際に、これら2つのグループの間で、以下の観点でどのように異なるかを調べることとしました。それらは、(a)習得の早さ、(b)処理時間の早さ、(c)処理の正確さ、の3点です。

結論としては、英語母国語話者にとって処理方法自体を変更しなければならないようなOVS構文では(英語母国語話者はfirst noun principleという、最初の名詞を主語と判断する方略を用いて言語を処理しがちである)、両方の処遇の間に差はなく、SIが重要であるという結論となりました。一方、余剰的でnonsalientな項目に注意を払わなければならない仮定法(ただし、意味自体はその他の語彙から判断することが可能)ではEIがSI処遇よりも有益に機能したという結果となりました。著者の結論としては、"EI seems to be beneficial when the task is to notice and process a single form, but it seems not to play any role when the task is to assign different grammatical roles in sentences." (p. 298)、"It might be that EI has no effect in building a nw processing strategy." (p. 298)、 "... the processing strategy that they are lacking, and that they need to process cprrectly, can only be built with frequent exposure to input coupled with feedback that indicates whether what was listened to was understood correctly." (pp. 298-299)、という言葉に示されています。

第2言語習得論の実験で得られた結果を一般化する際にはやはり気をつけなければならないなということを、久しぶりに強く感じました。

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