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2009年12月22日 (火)

植田康成(2003).「アメリカにおけるビューラー」を読む(『ニダバ』)

この論文の詳細は以下の通り。

植田康成(2003).「アメリカにおけるビューラー」.『ニダバ』,32,1-9.

感想:大学院生時代に、一度文学の経験的研究に関して色々とご指導いただいたことがある先生が書かれた論文です。ビューラーの考え方がアメリカでどのように受容されたのか、ということについて整理されていました。私自身も、ビューラーの言語観は、詩的言語の関する一連の研究の関係で引用を行なうことが多いのですが、文献の数も少なく、なかなかその全体像をつかむことに苦労しています。

ビューラーはもともとは心理学者として思考に関する研究を行なっていたそうですが、「正常心理学の立場からの言語理解について」という論文を1909年に出版し、それ以降、彼は言語を軸として研究を行なっていくことになったそうです。

著者は、ビューラーの言語研究の発展を3つの時期に分けて考えています。生成期では、音声学と音韻論の区別がなされ、体系期では『言語理論』において4つの公理が示され、そして拡張期では言語の表出機能を発展させて言語作品に関する考察がなされた時期であるとされています。拡張期については、ビューラーの遺稿の整理がなされておらず、2003年の段階ではその時期のビューラーの研究の全体像が示されていなかったようです(現在の時点でどうなっているのかということは私には分かりませんが、直感的にまだ研究の整理がなされているのではないかと思われます)。この論文の以下では、この拡張期についての考察がなされています。

ビューラーの遺稿の研究はなかなか進んでいないようで、著者自身もかなり苦労されているようでした(著者自身も遺稿の整理に携わっておられます)。その中でアメリカでのビューラーの講義に関する遺稿を基にして、彼がアメリカに与えた影響が考察されています。

著者はその影響として3つの点を上げています。1つ目は、公理(C)の展開で、ビューラーは第4の機能として詩的機能を考えていたようであるということが述べられていました。しかし、ビューラーはいわゆるプラーグ学派とは違って、詩的機能を言語に内在するものとして考えておらず、言語の使用法の1つとして考えていたようです。ちなみに、ムカジョフスキーは、「詩的機能を、叙述的機能の弁証法的否定として捉え」(p. 5)ていることは有名です。2つ目は、メタファーの考察で、新しい認識の獲得など、その意義を認める主張が展開されています(ちなみに、ビューラーはスペインの哲学者オルテガ・イ・ガセットのイメージ破壊論(「曖昧な言葉遣い、感化的な言葉遣いを避け、事実に即した表現を用いることの重要性を唱え」(p. 6)たもの))。3点目は、実用意味論の展開です。ビューラーは、一般意味論の展開に自らも加わろうとしていたそうで、特に気象現象、医学、法廷における審理、という3つの領域でその貢献をしようとしていたことが伺えるそうです。ちなみに、アメリカの一般意味論は政治的な言説を扱うことが多かったのに対して、ビューラーの実用意味論は日常的かつ非政治的な領域を扱っており、対照的であると著者は述べています。ビューラーが政治的言説をあまり扱わなかった理由として、ナチス体験などが原因となってビューラー自身が政治的にナイーブであったことがあるのではないか、と著者は述べていました。また、彼の「日常生活において価値あることを証明するという問題意識が、実用意味論の展開につながっていると言えるだろう」(p. 8)とも述べられていました。

さて、最後の箇所ですが、ビューラーの実用意味論がなぜアメリカで受け容れられなかったのかということについて意見が述べられていました。「ビューラーが展開した一般意味論的考察が、多くの人々の受け容れるところとならなかったのは、残念ながら歴史的事実である。その理由はいくつかある。一番多いな理由は、ヨーロッパの学問的伝統で育ち、ヨーロッパの心理学をリードしてきたビューラーにとって、アメリカの学問を支配していた行動主義心理学は、批判的統合の対象であり、馴染みのあるものではなかった。それ故にビューラーは、アメリカの学問世界にとけ込むことができなかったのである」(p. 8)。また、ビューラーの見解が認知意味論との関係で評価されつつあるという点も指摘してあり、大変興味深く感じました。

ビューラーに関する文献は少ないので、このような文献は大変勉強になります。

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2009年12月21日 (月)

M.Sharwood Smith(1972).「Some Insights on the Place of Literature in a Practical Syllabus」を読む(『English Language Teaching Journal』)

この論文の詳細は以下の通り。

Sharwood Smith, M. (1972). Some insights on the place of literature in a practical syllabus. English Language Teaching Journal, 26 (3), 274-278.

感想:現在はJackendoffのモデルなどを基にして第2言語習得モデル(MOGUL solutionなど)を提案されていますが、その著者が文学について語っていたのでとても興味を持ち、読みました。時代は随分と古い論文ですが。。。ちなみに、著者はconsciousness raisingやその後のinput ehnancementという概念について理論的な考察をした人としても有名ですね。

この論文の目的ですが、文学作品をベースとして外国語学習者のための実用的な英語コースをデザインすること、とありました。著者によりますと、文学作品とは文法訳読式教授法の時代には大変重宝されましたが、CLTの時代になるとその使用が避けられる傾向になったと述べられていました。しかしながら、著者は、文学作品にはメリットがあるとします。著者は、「豊かな」言語、英語の想像的(imaginative)使用、その時代の書かれた英語、英語母国語話者の物の見方や習慣を学習者に触れさせる機会を提供すると述べています。しかしながら、文学作品の利用には困難点が伴うことも著者は十分に承知しており、作品の抜粋を使うことでテクストが脱文脈化してしまうこと、学習者にとっての重要語句がテクスト内で反復されないこと、などが指摘してありました。このような問題点を解決すべく、著者は論文の最後の箇所で、文学作品をベースとした実用的な英語のコースを組み立てるための3つのポイントを挙げていました。それらは、コースのベースとして一冊のフィクションを利用すること、作品内で構築される虚構世界に学習者の意識を向けさせること、テクストの虚構世界に基づいて言語エクササイズを作成すること、でした。こうすることで、コースの一貫性が担保でき、学習者に外の世界の眼識を涵養し、機械的なエクササイズを避けて、意味のある(meaningful)エクササイズを行なうことができる、とされていました。

現在では、若干古くなってしまった議論もありますが、CLTが出始めの頃、CLTの中で文学をどう使っていけばよいかという点がどのように考えられていたのかということを示す貴重な文献ではないかと思いました。

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2009年12月20日 (日)

A.Shukman(1978).「The Moscow–Tartu Semiotic School: A Bibliography of Works and Comments in English」を読む(『PTL: A Journal of Descriptive Poetics and Theory of Literature』)

この論文の詳細は以下の通り。

Shukman, A. (1978). The Moscow–Tartu Semiotic School: A bibliography of works and comments in English. PTL: A Journal of Descriptive Poetics and Theory of Literature, 3, 593-601.

感想:ロシア・フォルマリズムがスターリン指揮下のソビエト連邦作家同盟によって解散され、その多くの学者はマルクス主義文学理論に方向転換をしたり、あるいはプラハへと亡命してプラーグ学派を形成したという事実は、文学理論に政治が介入した例として有名です。この参考文献リストでは、1960年代にロシア・フォルマリズムの考えをベースとして発展したタルトゥ学派の文献が集められていました。Lotmanはその学派の代表人物であり、最近ちょくちょく名前を見聞きします。1978年時点でのこの学派に関連した文献が整理してあり、この学派について勉強する上ではとても貴重なリストだと思いました。

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J.R.Bennett,B.Brigham,S.Carson,J.Fleischauer,T.Kobler,F.Park&A.Thies(1977).「Typography and Style: An Annotated Bibliography」を読む(『Style』)

この論文の詳細は以下の通り。

Bennett, J. R., Brigham, B., Carson, S., Fleischauer, J., Kobler, T., Park, F., & Thies, A. (1977). Typography and style: An annotated bibliography. Style, 11 (4), 446-451.

感想:1977年の時点での具象詩関係の文献が整理されています。英語以外の文献も紹介してあります。また、著者らが、各文献について短いコメントをつけているものもありました。なお、この文献は論文という形ではなく、参考文献リストです。

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2009年12月 2日 (水)

藤井和子(1977).「ヤン・ムカジョフスキーの言語美学について」を読む(『人文論究』)

この論文の詳細は次の通り。

藤井和子(1977).「ヤン・ムカジョフスキーの言語美学について」.『人文論究』,26 (4),53-65,関西学院大学.

感想:著者は、まずプラーグ学派の説明をします。「プラーグ学派は今から五十年前の一九二六年に、マテジウス、ヤーコブソン、ハヴラーネク、トゥルンカ、そしてムカジョフスキーらを中心にして結成された言語学サークルで、その名のとおり、活動はプラハにおいて成された。政治上の関係などから、実際に活動したのはわずか十年程度に過ぎないが、このグループは他のコペンハーゲン学派、ジュネーブ学派と同様、ボドウェン・ド・クルトウネ、フェルディナン・ド・ソシュールの言語観を受け継ぎ、それを発展させて今日の言語学に大きな足跡を残している。」(p. 53)特に、その後加わったトゥルベツコイらの貢献もあって、音韻論の研究が盛んになされ、プラハ音韻論学派とも呼ばれます。しかし、いわゆる「テーゼ」の第3条「多様な機能をもつ言語の研究-その諸問題」において、項目cはムカジョフスキーが執筆しており、詩的言語の研究の必要性が述べられています。

その後、著者はムカジョフスキーの詩的言語観について説明をしています。ムカジョフスキーは、機能、規範、価値という3つの側面から美の本質について説明します。「美的機能とは何だろう。これは対象・ものを美的事実にする作用のことで、動的な性質をもっている。そしてその目的は美的満足(愉快)を作り出すことにある。この機能は個人の感情に拠るところ大であるから、どちらかというと個人的な性質をもつが、これに対して美的規範とは、人のものに対する美的態度を規定する力のことで、社会的な要素が大きくはたらく。これら両者は二律背反の関係にあって、美の両極を形成している。・・・従って、美的価値とは、これら美の両極を成す機能と規範を弁証法的アンチノミーとみなして全体的な統一体と考えたものなのである。」(p. 55)また、美的機能は詩に限られたものではないという立場についても次のように説明してありました。「詩は美的価値の昇華したものといえる。ただ、美的観点からみると、言語における美は詩にのみ存在するのではない。詩において言語の美は卓越した状態をとるが、美的機能、規範の観点からみると、詩のような芸術に限らず、日常の実際的行為の中にも美は存在している。従って、我々が言語における美を考察する際に、それが卓越して存在している詩や文学作品のみを想起することは間違いであって、すべての言語反応の中にそれを見出すべきなのである。」(p. 56)また、ムカジョフスキーは、美的機能のような動的・個人的性質を言語における非構造化の美と呼び、一般性・組織性・社会性をもつ美的規範を構造化の美と呼んでいるそうです(p. 56)。こうしたムカジョフスキーの試みについて、著者は次のように述べています。「以上のように、美をいくつかの面から捉えて、それらを構造化した美と、そうでない規定されえない非構造の美に大きく分類し、言語の中には構造化されえない面のあることを指摘しそれらを実証しようとしたことは、ムカジョフスキーのひとつの大きな試みであるといえる。」(p. 57)

次に、非構造化美はどのような場面に現われるかについて整理してありました。取り上げられていたのは、ことば遊び、擬声語、日常会話における比喩、命名行為(語選択行為)、外国語の流入、広告文、流行語、でした。また、非構造化美は文体とも大きく関係しているようです。ムカジョフスキーは、個人の生み出す個々のスタイルをpersonal styleと呼び、一個人の中で体系化したいわゆるA氏の文体といった集合体としてのスタイルをindividual styleと呼んでいますが、これらは両方とも非構造化美の範疇に入ると考えられています。非構造化美について、次のように述べられていました。「非構造化美は、前にも述べたように、意外性や新奇性を有するが、これは言いかえれば、言語行為の自動化を妨げる性質であるともいえる。つまり、言語行為の自動化を妨げることによって、言語形式と事実の関係だけでなく、個人とその人の使った言語形式の関係を確立もしくは再新させるのに役立っているわけである。この点で非構造化美はスタイルの問題と密接な関わりをもち、スタイルを論ずる際に、この言語の非構造化美の概念を適用することができるのである。

次に構造化美についてもまとめてありました。「では、構造化美とはどのようなものだろうか。これは「美」として構造を成し、美的規範を形成しているわけであるが、だからといって、個々の美的規範を取り出して成文化できる種類のものではない。美的規範は確固として安定したものではなく、時や場所によって異なるかもしれない性質のものである。・・・つまり、美的規範(構造化美)は一般的に合意されたもの、特定の共同体におけるメンバーによってほとんど無意識に一致したもの、それをさすのである。又、その規範は言語機能が異なればそれも異なる。」(p. 61)この構造化美は、それぞれの言語機能によって異なり、「説教語に特有な語が必ずしも日常語に適さないことがあるように、言語の機能の違いによって、言葉の美しさは異なる」(p. 62)と述べられています。また、「美的規範は決して単一ではありえないし、一定しているわけでもないことがわかる。又、美的規範を歴史的に眺めると、それが一定しておらず、時代によって変化することがわかる。」(p. 63)と述べられ、「規範」と言えどもそれが絶対的なものでないという点も指摘されていました。

著者はムカジョフスキーについて次のように評価していました。「以上みてきたように、ムカジョフスキーは言語における美を一面的に捉えるのではなく、その多様性を考慮に入れて、できるだけ多面的に考察することを試みている。そして、構造化美と非構造化美は、互いに排他的な範ちゅうに属するものとして扱うのではなく、言語という記号体系に対する人間の態度の二つの相反するアスペクト(相)として両者を扱っていることは注目に値する。非構造化美それ自体の中に、規範を発展させる傾向は少なくとも可能性として有しているし、又反対に、構造化美の方にも、非構造化美特有の無拘束の美を完全に抑制してしまう力はないのである。これら両者は、二つの互いに相反した力として言語現象にあらわれ、どちらか一方だけが完全に優位にたってしまうということはなく、互いに優位な立場に出ようと闘争し合う。この相互関係を両極性(polarity)と呼び、両者は弁証法的な二律背反の関係にあるのである。」(p. 64)大変分かりやすいまとめであると同時に、著者はムカジョフスキーの考えを高く評価しているように思えました。著者は、弁証法的アプローチを取った点がプラハ学派の他の研究者と比べて、ムカジョフスキーの最も特徴的な点であったのではないかと述べていました。読みやすく、大変面白い論文でした。

この論文はムカジョフスキーの"Esthetics of language"という論文を基にして書かれています。手元にはあるのですが、まだ読んだことがないので、今度じっくり腰を落ち着けて読んでみたいとおもいます。ちなみに、"Esthetics of Language"という論文の詳しい情報は以下の通りです。

Mukarovsky, J. (1964). The esthetics of language. In P. L. Garvin (Ed. & Trans.), A Prague School reader on esthetics, literary structure, and style (pp. 31-69). Washington, DC: Georgetown University Press. (Original work published 1940)

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2009年12月 1日 (火)

笠松幸一(1995).「プラグマティクスの新展開-J.L.オースティンの言語行為論からJ.ハーバーマスの普遍的語用論へ-」を読む(『精神科学』)

この論文の詳細は次の通り。

笠松幸一(1995).「プラグマティクスの新展開-J.L.オースティンの言語行為論からJ.ハーバーマスの普遍的語用論へ-」.『精神科学』,34,1-11.

感想:お恥ずかしながら、オースティンからハーバーマスの理論という流れについては全く知りませんでした。自分の勉強不足を大変反省するとともに、言語研究発達の新たな流れについて知ることができ、大変有意義でした。

この論文の流れとしては、「まずモリスの語用論の限界を確認する。次に、オースティンの言語行為論からハーバーマスの普遍的語用論への理論展開を、とくに遂行動詞に着目することによって把握する。」(p. 1)というものとなっています。

まず、モリスの語用論の説明が簡潔になされます。モリスの記号論は、方法的に形式主義、経験主義、プラグマティズムを体系的に統一しようと試み、科学的経験主義を自分の立場としたそうで、記号(sign)または記号媒体(sign-vehecle)、指示対象(significatum)、解釈者(interpreter)、解釈傾向(interpretant)の4項目からなる記号過程を分析対象とします。「記号は、ある目的をもつ解釈者(人間)に、ある一定の仕方の行動傾向ないし行動しようとする傾向、つまり解釈傾向を惹き起こす故に、対象を指示する」(p. 2)と説明しうてありました(これらの概念は論文中に具体例とともに説明してありますが、ここでは割愛します)。そして、記号と指示対象の関係を扱うのが構文論(syntax)、記号と記号の関係を扱うのが意味論、更に記号と解釈者の解釈傾向の関係を扱うのが語用論とされています。語用論は記号の起源、使用そして効果を扱うとされており、コミュニケーションが不可欠な要素であるということが強調されています。こうしたモリスの研究の限界点として、モリスは解釈者を「記号(言語)を受動的に解釈する単独の解釈者(旅行者。ドライバー)のみが設定され」(p. 3)ており、「複数の解釈者が対面的に存在して聞き手にも話し手にもなって、記号(言語)をヤリトリする状況設定がない」(p. 3)としています。つまり、コミュニケーションの内実については研究がされておらず、「コミュニケーションにおける記号(言語)使用、記号(言語)効果を究明する視点が欠落」(p. 3)しているとしています。

次にオースティンの言語行為論についてです。ここでは、発語行為、発語内行為、発語媒介行為の区別と、5つの遂行動詞の分類(判定宣告型、権限行使型、行為拘束型、態度表明型、言明解説型)が解説されています。これらについては私自身なじみのあることですし、一般にもかなり知られたことであると思われますので、割愛したいと思います。

最後は、ハーバーマスについてです。著者のまとめによりますと、ハーバーマスは「普遍的語用論の課題は、「解釈者(聞き手-話し手)のコミュニケーションにおいて、相互理解が可能になるための普遍的条件を確定し、追構成すること」(p. 5)と述べてあり、「解釈者は、フェイス・トゥ・フェイスの対面的な話し手・聞き手として位置づけられる」(p. 5)とされています。そして、発語内行為に着目し、遂行動詞を4種類の遂行動詞に分類しました(対話型、確認型、表自型、規制型)。面白いのは、ハーバーマスはコミュニケーションが中断する場合に聞き手がどのような聞き返しを行なうのかということから4つの妥当要求(理解性、真理性、誠実性、正当性)を明るみにし、それらを4種類に分類した遂行動詞にそれぞれ関係づけている点でした(各概念の詳細は本論文をご参照下さい)。

本論文の最後の箇所では、オースティンの分類とハーバーマスの分類が比較対照してありました。ハーバーマスは、オースティンの権限行使型と態度表明型を、話し手中心の一方的な発言であるとして、否定します(コミュニケーションの成立を可能にしないというのがその理由です)。また、オースティンの言明解説型を対話型と確認型に下位分類します。オースティンは言明解説型を定義が困難であるとしてその扱いに少し困っていたようですが、ハーバーマスはこのカテゴリーに入っている遂行動詞をとても重視したようです。著者によれば、オースティンの研究は「一人称(私)に強く限定されて二人称(あなた)の存在が希薄である」(p. 8)としています。ちなみに、確認型は法則や定理など科学的知識を可能とさせていると考えられており、「科学的知識の客観性、価値中立性、確実性等の根拠をも、日常的コミュニケーション行為の文脈の中に位置づける」(pp. 9-10)と述べてありました。

語用論の本の中ではあまり触れていないことが多く書かれてあったので、大変勉強になりました。

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