« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »

2009年11月30日 (月)

R.Beach(1987).「Strategic Teaching in Literature」を読む(B.F.Jones,A.S.Palincsar,D.S.Ogle,&E.G.Carr(編),『Strategic Teaching and Learning: Cognitive Instruction in the Content Area』,ASCD)

この論文の詳細は次の通り。

Beach, R. (1987). Strategic teaching in literature. In B. F. Jones, A. S. Palincsar, D. S. Ogle, & E. G. Carr (Eds.), Strategic teaching and learning: Cognitive instruction in the content area (pp. 135-159). Alexandria, VA: ASCD.

感想:この論文の目的として、著者は次のように述べます。"In this chapter, I describe a strategically oriented approach to teaching literature through the use of guided response activities in which students respond to a literary text according to a series of sequential activities. These activities are based on using a range of different response strategies - engaging, connecting, describing/exploring, interpreting, and judging. (p. 136, emphasis in original)

そして、このような読解方略中心の指導法について論じる背景として次のように述べています。"Simply asking students to "just respond" to texts is, ... insufficient. In order to interpret a text, most students may need more guidence or scaffolding (Applebee and Langer 1984) for generating and extending their responses. The describe/connect/interpret heuristic serves as a scaffold for enhancing interpretation. Or, students could think about a key event in a text - the breakup of a marriage - in terms of characters' knowledge or beliefs about each other, their goals or motives, and their own personality attributes. Once students become accustomed to explaining characters' acts in terms of knowledge, beliefs, goals/motives. and attributs/categories, they may automatically apply these perspectives to any explanation, possibly enhancing the depth of that explanation. And, as students learn to apply the structure provided by the guided activity intuitively, teachers can encourage more autonomous responses in students' writing, journals, small-group discussions, or extended essays." (pp. 136-137, emphasis in original)

そして、結論として、"To summarize, this chapter describes a particular approach to instruction that is highly consistent with the concept of strategic teaching. This approach elaborates ways in which the teacher may mediate learning by helping the learner construct meaning from text. Specifically, these activities guide students (1) to link new information to prior knowledge, (2) to use organizational patterns (frames, logical plans, and text structure) to direct and extend their thinking, and (3) to develop a repertoire of inference and response strategies. Further, theachers continually alter their instruction based on diagnosis of student performance. These themes are applied in an extended example showing the decision-making processes involved in applying this aproach to a specific sequence of instruction. By acquiring the strategies discussed (and listed in Figure 7.2), students should enhance their un derstanding of literature." (p. 155)

このように、著者は文学読解に必要な読解方略を列挙し、それを体系的に指導に組み込んでいくことを提案しています。説明文の読解指導では、こういった方略の整理はかなりなされていて、教材もたくさん出版されていますが、文学読解に関してはまだあまり整理がなされていません。こういった研究を参考にして、文学教材読解について考えていくことが必要なのではないでしょうか。著者は、文学読解方略の一覧表を論文末に示しているので、教育的な価値もとても高い論文だと思いました。

また、学習者は文学教材読解においてshort-answer questionsを与えられると、テクストの理解が断片的になる危険性もあるというMarshall (1984)の研究(学会発表資料)への言及は興味深かったです。

| | コメント (0)

2009年11月24日 (火)

斎藤理恵子(1997).「精神疾患と詩的言語」を読む(『社会科学研究科紀要 別冊』)

この論文の詳細は次の通り。

斎藤理恵子(1997).「精神疾患と詩的言語」.『社会科学研究科紀要 別冊』,1,209-218,早稲田大学大学院.

感想:この論文では、分裂症を患っている人の言語と詩的言語の共通性と違いについて論じてありました。これらの言語について、「文化における規範的秩序が認めるところの現実的妥当性および価値を持たない言語、言語的規則の周縁にある言語」(p. 209)と著者は述べています。そして、これらの言語では、言語化される以前の経験や世界を表現しています(この論文で言うところの「言語」とは、社会的なものとして考えられています)。著者は、これらの言語を「語りえぬことを語ろうとする意志によってつらぬかれている」(p. 214)と述べています。ただし、詩人は(日常)言語を一方で意識しながら、それと格闘してそういった語りえぬことを語ろうとする点で、策略的であり、この点が精神疾患を患っている人の言語と異なっているとしています。かつては、精神疾患を患っている人々の言葉は予言など、その共同体の中で特別な存在として位置づけられていました。しかし、近代以降は、そういった言語は隠蔽されるべきものとみなされるようになったと著者は指摘しています。著者は、近代以降の時代にあっては、こういった言語に再び耳を傾けることが必要ではないかと述べています。大変面白い論文でした。

| | コメント (0)

S.Lee&H.Huan(2008).「Visual Input Enhancement and Grammar Learning: A Meta-analytic Review」を読む(『Studies in Second Language Acquisition』)

この論文の詳細は次の通り。

Lee, S., & Huan, H. (2008). Visual input enhancement and grammar learning: A meta-analytic review. Studies in Second Language Acquisition, 30 (3), 307-331.

感想:この論文は、インプットを視覚的に強調すること(visual input enhancement: VIE)は文法学習にどのように貢献しているのかということについて扱った論文をメタ分析した貴重な研究でした。文献研究とメタ分析による効果量の検討などによって、この研究分野に関して次のような現状が明らかとなりました。まず、VIEの文法学習における効果についてですが、"leaners exposed to enhanced texts outperformed learners who read unenhanced texts by a very small-sized effect (d =0.22)" (pp. 322-323)(また、VIEは実験ではinput floodとその効果が比較されることが多いそうです)という結果となりました。また、意味理解への影響についてですが、"VIE might have had negative effects on learners' meaning prcessing, as shown by thesmall but negative effect size value yielded by the reading comprehension measures (d = -0.26)." (p. 323)という結果となりました。また、VIE研究は非常にこじんまりと進められてきたようです(この結果は私には意外で、もっとたくさん盛んに研究がされているのかと思っていました)"only four unpublished dissertations and 12 articles published in refereed journals have appeared in the last 15 years or so. Given that several of these studies were produced by the same researches, it also appears that VIE research has mainly been un dertaken within a relatively small research community to date." (p. 325)。

VIE研究は、その効果が異なる研究間で一致していないという現状があります。そこで、VIEの第2言語習得への本当の効果を明らかにしていくために、今後の研究への提案として次のようなものを行なっています。まず、先行研究では調査参加者の言語能力の測定がずさんであるということから、"future studies should deliberately employ additional measures of indexes to accurately gauge the participants' level of proficiency." (p. 325)と述べてありました。このことと関連して、学習者が目標言語形式についてどの程度の知識を持っているのかということも詳細に調べた上で実験を行なう必要があると指摘していました"Future investigations should be designed to address the interplay between learners' prior knowledge and the nature of target forms, so as to gain answers to the question of appropriate knowledge prio to VIE interventions. Additionally, researchers as well as teachers might need to consider whether L2 readers are developmentally ready to acquire particular target forms" (p. 326)。また、調査方法については、"Future studies to investigate questions surrounding the appropriate intensity of VI treatments and durability of VIE benefits would be a welcome addition to the research domain." (p. 326)と提案しています。また、"publication bias" (p. 326)が観察されたことから、"the caution should be exercised in interpreting findings reported by a number of studies published in refereed journals, in that they might not be representative of the true effects of VIE across educational contexts." (p. 326)と述べてありました。

また、論文中に言及してある文献の中で個人的に面白いと思ったのは、Thomas (2006)の"four-way classification for proficiency assessment measures" (p. 312)で、"(a) impressionistic judgment, (b) institutional status, (c) in-house assessment, and (d) standardized tests" (p. 312)という4つの観点から学習者の言語熟達度を記述するという方法でした。今度読んでみたいと思います。

| | コメント (0)

2009年11月20日 (金)

外山滋比古(1970).「二重文学性の問題」を読む(『英語青年』)

この論文の詳細は次の通り。

外山滋比古(1970).「二重文学性の問題」.『英語青年』,116 (2),62-63.

感想:この論文では、バイリンガリズムという考えを参考にして、二重文学性(biliterarism)という考えが提案してありました。著者は、「文学でも言語と同じように、具体的な広義の文学的表現に接している間に、文学性が抽出され、深層化されれ個人的神話を形成していくと想像される。これが無自覚的な文学感覚の原型的体系である。文学の想像と理解は、ともにこの個人的神話を基準として行なわれることになる。」(p. 62)と述べており、二重文学ではこの神話体系が2つ存在することになるとしています。著者はこういった二重文学人は周辺的な存在であるとしながらも、その周辺性は「創造的活動の原動力としてきわめて有効だ」(p. 63)と述べています。実際「、明治以来、多くの作家は外国文学畑の出身であ」(p. 63)ることが指摘されており、二重文学は創造性を高めるのではないかと指摘してありました。biliterarismという考え方はとても面白いと思いました。

| | コメント (0)

2009年11月16日 (月)

V.Pineda(1995).「Speaking About Genre: The Case of Concrete Poetry」を読む(『New Literary History』)

この論文の詳細は次の通り。

Pineda, V. (1995). Speaking about genre: The case of concrete poetry. New Literary History, 26 (2), 379-393.

感想:本論文は、ジャンルという概念について具体的な例を元に考察することを目的としており、具象詩がその例として選択されています。論文中では、具象詩が実際にジャンルとして社会の中で認識されている様子を多角的な観点から示していました。

まず、ジャンルの誕生という観点から議論がされていました。具象詩は、単独の作家によるものではなく、Eugen Gomringer(@スイス)という作家とNoigandres(@ブラジル)という作家のグループをその出発点として指摘することができるそうです。そして、彼らはその先駆者としてそれぞれマラルメとパウンドを挙げています。ちなみに、concrete poetryという語はKandinskyという人物が使ったのが最初のようで、それをNoigandresが採用し、さらにNoigandresと出会ったGomringerが使用したとのことでした。

次に、他のシステムの干渉という観点から議論されていました。特に詩と絵画という2つのシステムの間で揺れ動いているようです。しかしながら、所定のテクストは1つの統一体として存在しており、そこには言語と絵画が共存しているという考えを指摘する研究者もいます。また、そもそも文学と絵画が伝統的にお互いに関連していると考えられてきたこと、このジャンルを作ってきた人々の言葉、いくつかのメタテクストの中にも、具象詩が1つのジャンルとして人々に捉えられている様子を観察することができるとしています。紀元前3世紀には見られるとするこのタイプの詩ですが、モダニズムにおいては詩の意味へのアクセスを難解にするという一連の動きの中の1つの例として位置づけることができるといいます。そもそも、詩とはすべてが機能的でなければならないと考えられています(Augusto de Campos).

次は、作品の出版段階と伝播段階における考察です。この段階でも、具象詩が1つのジャンルとして成立している様子が伺えると著者は指摘します。まず、このジャンルでは、作者と出版社のグラフィック専門家がお互いに相談をする中でテクストを出版しなければなりません(具象詩では、書記素論的特徴が大きく意味に関わるため)。また、伝播の段階においては、具象詩は詩である以上は何度も暗唱などをされる必要があります。この段階でよくなされることとして、"What is usually done then is to adapt the poems to music, so that in exchange for the loss of cisual force, oral / auditive expresion is very much reinforced." (p. 386)と述べられていました。しかしながら、当然、毎回その再現に大きな違いを生じてしまします。この点に関しては、"The role not only of the performer or the adapter, but also of the receptor of concrete poetry, becomes fundamental, as explained by Claus Cluver: "Construction of variants is an operation many concrete texts invite the reader to perform." (p. 387)

最後は具象詩に関するメタテクストの観点から議論がされています。具象詩の読み方については様々な主張がなされています。中には、"the abandonment of what is usually taken as "interpretation," and its substitution by a more more useful activity: perception" (p. 387)というようなかなりラディカルな意見がある一方(NadinとWeaver)で、やはり具象詩において解釈というものに対してその余地を認める議論もあるようです(Augusto de Campos)。こういったメタテクストは、様々な要素を考慮に入れながら、そのジャンルの規定を図っているようです。"metatexts analyze texts and the circumstances that surroundb them, or that arise from them, and with all this material, they come to general conclusions about the inclusion or exclusion of a text in a genre, about "the literary," about "lables," and so forth." (p. 389)

このように、ジャンルというものについて考察する場合には、テクストの内的特徴だけでなく、起源、他のシステムとの関係、出版や伝播、メタテクストでの扱い、など様々な観点から考察する必要があるのだなと思いました。この論文では具象詩は、ジャンル研究の一般理論を述べるための具体例として扱われていましたが、色々と興味深い記述もあり、大変面白く読みました(私自身は、ジャンル研究それ自体というよりも、具象詩という現象に興味があってこの論文を読んだので、著者が本論文を執筆した趣旨とは少し異なった立場で読みました)。

| | コメント (0)

2009年11月13日 (金)

窪薗晴夫(2008).『ネーミングの言語学 ハリーポッターからドラゴンボールまで』を読む(開拓社)

本書の詳細は以下の通り。

窪薗晴夫(2008).『ネーミングの言語学 ハリーポッターからドラゴンボールまで』.開拓社.

感想:本書は、特に音韻構造という観点から、ネーミングにどのような原理が働いているのかを示した良書です。具体例も豊富で、授業などで使えるネタも満載でした。日本語と英語が比較されている点も本書の魅力の1つです。

第1章:ハリー・ポッターと命名

人々は交換エラーや吃音など、語頭では音を間違えがちです。そこで、頭韻を用いることで、そういったエラーを防ぎやすく、かつ聞き手にとっても予測がたてやすくすることができると述べられていました(早口言葉はその逆で、わざと間違えやすく音を配列したものです)。この章では映画や文学作品の登場人物の名前に頭韻が使われている例も多く紹介してありました。また、この章の最後に、日本の苗字と英語の苗字で、どのような違いと類似点があるかがコラムの形で書かれていました。この部分も大変面白かったです。

第2章:英語の頭韻文化

ここでは、英語で頭韻が様々な場面で用いられていることが紹介してありました。名前、作品のタイトル、諺・格言、慣用表現、広告・標語、詩、クイズ、という分野から豊富な例が引用されていました。これだけ提示されると、英語は頭韻文化であるということを納得させられます。また、個人的に面白いと思ったのは、Money makes the mare to go. という諺には、リズムをそろえるためにtoが文中に挿入されていることと、as blind as batというように、名詞と形容詞の間に意味的な関連性が薄いにもかかわらず頭韻を踏ませるために作られた直喩表現が英語には多くあること、を挙げておきたいと思います。本章の最後には、日本の会社名には漢字からカタカナに表記変更をしたものが多いことが指摘されていました。

第3章:頭韻の謎

本章では、最初に日本語と英語の頭韻の違いについて指摘されます。それを一言で言うならば、「英語の頭韻は語頭子音の同一性だけが問題になるが、日本語の頭韻は語頭位置の[子音+母音]が繰り返し現れることが要求される」(p. 50)ということになります。日本語と英語のこういった違いは頭韻だけに具現しているのではなく、その他多くの側面で観察することができると著者は指摘しています。著者が挙げているのは、交換エラー(あるいはメタセシス)、混成エラー、混成語実験、吃音、言葉遊び(しりとりなど)、です。日本語は、音を母音の後(子音の前)に区切りますが、英語は母音の前(子音の後)に音を区切るため、その基本とする単位が両言語で異なっており、頭韻も含めこれら様々な領域にその違いが生じていると著者は指摘します。著者は、両言語を比べ、「母音を含めた部分が繰り返すパターンが基本であること、つまり日本語のように[子音+母音]の繰り返しを求めるパターンが頭韻の基本形である」(p. 78)と指摘する一方で、英語は母音の数が多く、「語頭子音に加えて母音の同一性も要求すれば、頭韻を踏ませることがきわめて困難になってしまう」(p. 77)と指摘しています。日本語については、「子音連続を持たず、母音の数も比較的少ない日本語では、語頭の[子音+母音]が繰り返すことを要求しても(その部分が共通する語の数が多いため)何も問題ない」(p. 77)と述べています。章末のコラムには、様々な社名の名前の由来が紹介してありました。

第4章:語順とリズム

著者は、まずTom and JerryがなぜJerry and Tomではないかという点に注目し、「英語は弱強格(iamb)ではなく強弱格(trochee)を好む言語であり、2音節名詞の大半は強弱というアクセント構造を持つ」(p. 85)という点を指摘します。英語は強勢拍リズムであり(ちなみに日本語は音節拍リズムですよね)、強弱ないし強弱弱という強勢パターンを繰り返す中で強勢の衝突を避けています。また、強勢が衝突しないように様々な方略が用いられているとも指摘されています。そのような方略の1つに、語順を変えるというものがあります。その具体例としては、(1) a half hourではなくhalf an hourと言わなければならないこと、(2) suchとquiteとveryは意味的には類似しているにもかかわらず、前者2つはveryと違って冠詞の前に置かれること、(3) enoughも同様な意味を持っているが名詞の後ろに置かれること、が挙げられていました。2つ目の方略として、余剰語を入れるというものがあります。挙げられていた具体例には、(1) make / letが受身で使われるときに、後続動詞との間にtoが挿入されること、(2) これらの動詞は能動態であってもリズムを合わせるためにtoが挿入されることがあること(Money makes the mare to go)、がありました。3つ目の方略としては、余剰語の脱落を防ぐというものがあります。具体例としては、(1) a bit ofとa little ofは意味は類似しているが、強勢のバランスの関係でa bitにはofを省略して使うことができないこと(a little ofはofの省略は可能)、(2) a dozen ofとa gross ofも同様に意味が類似しているが後者はofの脱落を許容しないこと、が挙げられていました。4つ目には、語の選択を工夫するという方略があります。例として、(1) alike、alive、ablazeは限定用法では用いることができないこと(後続の名詞と強勢の衝突を起こしてしまう)、(2) big、small、old、youngなどの1音節形容詞は比較級や最上級でmoreやmostを伴わず、英語本来の形態(bigger、smallerなど)を強固に保持していること(ちなみに、moreとmostはその勢力を次々と拡大しており、かつては-er、-est形が使われていたcommonやfriendlyに対しても現在はmoreやmostが適用されている。ただし、1音節語だけはこういった勢力に屈していない)、が指摘されていました。5つ目の方法は、強勢を移動するというものがあります。例えば、thirteenは単独で発音されるときはeeの部分に強勢が置かれますが、thirteen menといった表現になると、iの箇所に強勢が置かれます。このように、英語は様々な方略で強勢の衝突を避けています。

このように考えると、英語が強弱という2音節語しか持たない言語であれば、理想的な状態であると言えるかもしれません。そうすれば絶対に強勢の衝突は生じません。しかしながら、英語にはたくさんの1音節語が含まれていますし、割合は少ないながらも弱強の構造を持つ語もあります。では、英語は理想的な状態を追い求めるような動きは見られないのでしょうか。この点に関して、著者は幼児語にそういった傾向を確認することができると指摘します。ここで挙げられていた幼児語に見られるそういった傾向としては、(1) bananaのような語は、baが欠落し、nanaと発音される傾向があること、(2) 1音節語は2音節でかつ強弱という形で発音する傾向があること(bird→birdie)、が指摘されていました。このように、「強弱」の2音節語を好む傾向は、大人の愛称表現にも確認されます(William→Will、Billなど)。愛称表現では、もともと1音節語だった名前にはiをつけてわざわざ2音節にする場合も観察されます(Jane→Jennyなど)。このように、英語にはその理想形を追い求めようとする傾向を確認することができます。

著者は次に、「強弱」の2音節形を作り出そうとする傾向は英語固有の問題なのか、それとももっと言語に普遍的な傾向なのだろうかという点を問います。そこで日本語の幼児語が考察されています。著者によると、日本語の幼児語は、オノマトペ(おもに擬音語)から派生したものと大人の語彙が語形変化を起こしたものに大別できると指摘しています(p. 109)。そして、これらの幼児語を言語学的に分析すると、「(a) 2音節語が多い、(b) 3~4モーラの長さが多い、(c) 反復形が多い、(d) 語頭にアクセントがくる(高低...となる)」(p. 109)という特徴があると述べています。ちなみに、(b)の点については、大人の語彙の6割以上が3~4モーラの語であること、ズージャ語(マネージャー→ジャーマネという語のこと)はもとの語が何モーラであれ3~4モーラの語となること、が大人の語彙特性と一致していると述べてありました。さて、日本語の幼児語の特徴ですが、その音節構造としては長母音の多様が観察され、特に撥音便「ん」や促音便「っ」が多様される傾向があるそうです、。「サチコ→サッちゃん」、年齢の数え方が「ひとつ」ではなく「いっちゃい」が好まれる点など、幼児は特に「長長」という形の2音節語を好むようです。また、「単音節・長音節」という構造は幼児には見られません。したがって、「ばあば」は幼児語ですが、「ばばあ」はそうではありません(子供はこの形式を音節的特性上の問題から発音しないようです)。実は大人も、なるべく短長を避け、長短という音節構造を作り出す傾向があるようで、ズージャ語にそういった点が確認されていました。大人は、どうしても短長となりそうなときは、短短という形に収めるようです。その他、野球の応援「かっとばせー、XXXX、ピッチャーを倒せよ」という形式にもこの傾向が見られることが指摘されていました。ちなみに、長短という構造は英語の「強弱」と同じタイプのリズムに所属するそうです。また、幼児語のアクセント構造にも触れてありました。日本語には単語全体を平坦なピッチで発音する平板型と語末から3モーラ目にアクセントを置くマイナス3型があるといいます。そして、幼児はマイナス3型を使うそうです(平板型は嫌うそうです)。幼児語の大半は2音節語ですが、語末から3~4モーラ目というと語頭の音節になります。アクセントの質が日本語と英語では異なりますが、最初の音節にアクセントを置くという点では共通点が見られるようです。著者はここでの一連の議論を次のようにまとめています。「日本語と英語は「高さアクセント/強さアクセント」というアクセントの性質の違いや、「モーラ拍リズム/強勢拍リズム」というリズムの違いを持っている。ところが、このような言語類型の違いを超えて、日英語の幼児語は音節構造(2音節)やアクセント構造(強弱)においてきわめてよく似た構造を示す。このことは、音韻構造の普遍性を考える上できわめて示唆的である。」(p. 119)と述べています。この章の最後の箇所では、地名に由来する社名が紹介してあります。

第5章:日本語の命名と言語構造

著者は、日本語は五七五などのリズムを使って優れた文化を生み出しているが、なぜ頭韻をあまり使わないのかという点に関して、その理由が定かではなく、文化の違いなのかもしれないと述べています。それでは、日本語の命名にはどのような技法が使われているのでしょうか。本章では、日本語の名前に使われている様々な技巧が紹介してありました。まず、その技巧の1つに類音性があります。例えば二葉亭四迷は「くたばってしめえ」との類音を利用して作られたとされています。しかし、「このような音の類似性を利用した造語以外では、音の特性が日本語の命名に用いられることは少ない。日本語の命名によく使われるのは、普通の単語を作り出すのに用いられる一般的な語形成規則である。」(p. 128)そうです。そして、その他の技巧に言及が移ります。そういったものの1つに、混成語があります(例えば、ゴリラ+くじら→ゴジラ)。混成語の特徴としては、次の3点があります。「(i) 意味のよく似た2語が混成する。(ii) 1語の前半ともう一つの語の後半が結合する。(iii) 前半を残す語からnモーラ採る場合には、もう一つの語のn+1モーラ目へと転移する」(p. 131)。次の技巧としては、短縮語があります(例えば、ストライキ→スト)。「入力の2~4モーラだけを残す形で起こる。…語頭を残すのは短縮語の基本であり、語頭部分を残したほうが元の語を想起しやすいという人間の記憶メカニズムに則っている」(p. 137)と説明されていました。さらに、「日本語では2モーラという長さが短縮語の最小条件となっている。外来語の短縮形は…2~4モーラの長さに落ち着くが、和語の短縮形はさらに制限が厳しく、語頭の2モーラを残すのが大原則である。」(p. 138)という点も指摘してありました(例えば、でん(がく)→おでん)。しかしながら、ドラゴンボールに登場するダーブラのように、例外的に語末の方を残す名前や愛称が作られることもあるそうです。ちなみに、英語でも普通名詞の短縮形は多く存在しますが、会社名など固有名詞で短縮が使われることは稀のようで、頭韻や頭文字語が多用されているそうです。音韻以外の3つ目の技巧には、複合語の短縮があります。これは主に2つのタイプに大別できます。まず1つ目のタイプは、ポケットモンスターからポケモンが生成されるタイプのように、語頭の2モーラずつを結合するものです(ただし、伊藤忠のように、必ずしも2モーラずつではないものもあります)。ちなみに、このタイプは、頭文字は別として、英語ではあまり生産的ではなく、会社名でこのタイプに所属するものは非常に少ないそうです。また、注意点として、これは混成語と明確に区別される必要があると述べられてありました。「複合語の短縮語は必ず短縮前の複合語形を有しており、たとえばポケモンにはポケットモンスターという長い形が存在する。混成語の場合には、そのような長い形は入力になく、たとえばゴジラに対して「ゴリラくじら」という複合語形はないのである。また、「ポケモン」タイプの短縮形には、意味のよく似た2語が材料となるというような入力条件もない。さらに、混成語が前半+後半という結合パターンを示すのに対し、複合語の短縮は前半+前半という形成パターンをとる。」両者は明確に区別される必要がありますね。次に、複合語の短縮の2タイプ目で、「ケータイ」という語に典型的に見られるパターンが取り上げられています。これは、「複合語句の1要素だけを残す方法」(p. 148)です。基本的には語頭要素を残しますが、中には語末要素を残す場合も見られます。次の技巧としては、頭文字語があります。例えば東芝という語は、東京芝浦という複合語の短縮と考えることもできますが、同時に漢字表記に基づく頭文字語として解釈することもできます。日本語には、ひらがな、かたかな、漢字、ローマ字など文字が豊富ですが、頭文字もこれらの文字を利用して作られています(ただし、「かな文字は1文字が表わす音が短すぎるためか、頭文字には使われないようで」(p. 150)す(例外としてフマキラー))。また、頭文字の中にはJOMOのように語頭から2文字以上をとっている例もあります。最後の技巧として、逆さ言葉があります(例えば、鳥井さん→サントリー)。これも日常語に見られる技巧です。しかしながら、「逆さ言葉自体が日本語ではあまり生産的な語形成過程ではないため、逆さにすると悪いニュアンスが付加されることが多い」(p. 159)という指摘がなされており、面白かったです(例えば、スカ、ダフ、ネタ、など)。章の最後のコラムには、ドラゴンボールで使われている命名について記述してありました。ドラゴンボールは命名法によって巧みに仲間をグループ化しています。

以上、本書で面白いと思ったことなどについて述べてきました。名前ということについては、言語学ではついつい周辺的に扱われてしまいますが、命名も当然1つの言語現象であり、そこには様々な言語学的規則が機能していることを知ることができ、大変勉強になりました。とても読みやすいので、言語学にあまり詳しくない人でも十分に楽しく読むことができると思います。

| | コメント (0)

2009年11月 9日 (月)

S.Gross(1997).「The Word Turned Image: Reading Pattern Poems」を読む(『Poetics Today』)

この論文の詳細は次の通り。

Gross, S. (1997). The word turned image: Reading pattern poems. Poetics Today, 18 (1), 15-32.

感想:この論文では、パターン詩の読解プロセスの調査に基づいて、パターン詩の読解とはどのような特徴があるのか、という点が議論されていました。

歴史的には、多くの文字がイコン性を持っており、「読者」がヨーロッパで成立した頃には、当時の読者は文字を見てイコン性を感じ取っていたと著者は述べます(当時の教科書がその証拠として示してありました)。しかし、19世紀に入り、読解教育が熱心になされるようになると、読者は文字からイコン性を感じ取ることはほとんどなくなり、シンボルとしてそれらを扱うようになったと述べてありました。逆に、文字や単語をイコンと捉えている間は、私たちはそのシニフィエについてはほとんど無視して考えがちです。"It seems, then, that symbolic and iconic signification are mutually exclusive, and reading symbolic signs depends on a suppression of iconicity." (p. 17)

一方、パターン詩の読解には次のような特徴があると著者は述べます。"Pattern poems violate this fundamental law of written language. They upset the stable hierarchy between the symbolic and iconic modes and with it the habitual economy of reading. In pattern poems, the text generates meaning through both symbolic and iconic signification, and the reader is asked to read it on both level." (p. 17)

本論文の以下では、このことを実証するデータが示されていました。調査方法は、コンピューターの画面上に映されたパターン詩を協力者(5名)に読ませ(調査参加を希望した者のみ)、彼らに指標追跡装置をつけることで、その読解プロセスを探るという方法でした(今からパターン詩を読んでもらうということは事前に調査参加者に知らせてある)。また、読解中に彼らが発した言葉の記録も行なっています。また、調査協力者以外(著者が選んだ)にもパターン詩を読ませ、彼らには簡単なインタビューを行なったそうです。調査で使われたテクストは、Eugen Gormringer (1967) の"silence"、Reinhard Dohl (1965) の "Apple poem"、Michael Joseph Philips (1969) の "woman poem"の三篇です。パターン詩としては、 "silence"が一番単純で、"woman poem"が最も複雑で面白い例となります。読者は各テクストを読む中で、最初はsymbolic modeを行なおうとするのですが、途中からiconic modeに変えて、両方の読みのモードを行き来しながらテクストの解釈を深めていく様子が記述されていて、大変面白かったです。研究者によっては、2つの読みのモードは結局同じ情報を与えているにすぎず、単なる情報の複製(duplication)であると考える人もいるそうですが、著者は"The two modes are not reducible to each other, and their tension is part of the process of reading visual poetry. Even if they correspond and convey the same meaning, the qualitative difference between the two modes of signification provides an excess that is a source of pleasure. This is born out by the fact that readers spend significantly more time than would be required for mere comprehension even on simple configurations that yield their meaning quickly, such as Eugen Gomringer's classic concrete poem "silence"." (p. 22)と述べています。

調査参加者による実際の読みのプロセスを調べる中で、議論の一般化が行なわれていました。"The relationship between image and text and their weighting is flexible; their interaction can be one of "conract, but also [of] playful approximation to tautology" (Gormringer 1973: 164). But the combination of symbolic and iconic levels always presents a cognitive challenge to the reader." (p. 24)、"in terms of cognitive processing - that is the hypothesis I wish to propose - the different modes of signification are in conflict with each other. Their relation should be regarded as one of inverse proportion and competition rather than duplication, much like that of the copresent but mutually exclusive images presented by figure-ground or reversible pictures." (p. 24)、"The correspondence between both levels of signification is established through a cognitive synthesis that requires an alternation between the different modes.  All pattern poems set into motion a back-and-forth movement between iconic and symbolic signification." (p. 24)

単純なパターン詩については次のように述べられています。"In simple configurations, this aternatio can take place very rapidly, in which case a stable relationship between iconic and symbolic levels is established quickly.  If the image is easily recognizable it will be processed before the reader even starts deciphering the text, and will subsequently serve as a "top-down" frame of reference that helps the reader to decode the written text." (pp. 24-25) これに対して複雑なパターン詩については次のように述べています。"poems in which the play of signification between the two levels is set in motion gradually and the mutual determination is delayed as long as possible. ... Decoding decisions that are usually made automatically and effortlessly come to the readers' attention as they realize that reading the poem like a normal witten text does not yield sufficient information." (p. 25)

本論文は次のように締めくくられていました。"Pattern poems remind us of the visual aspect of writing that we have come to suppress.  They not only restore the iconic dimension of signs and of reading but also place it in a productively contradictory, eye-opening relationship with our acquired, automatic reading practice. By defamiliarizing not only signs but also the process through which they are decoded, by calling on our resources and asking us to respond to different modes of signification, they liberate both texts and readers." (p. 31)

本論文の論旨もとても面白いのですが、実際に調査参加者がどのような点で読みのモードを転換したのかといったことなど、その記述も大変面白かったです。また、詩の読みによく見られるparallel procesingに関連するような記述もあり、一つ論文用のネタができるかもしれないなと思ったりしました。大変勉強になった論文でした。

| | コメント (0)

2009年11月 7日 (土)

HP移転のお知らせ

この度、HPのサイトを移転しました。新しいサイトは、

http://www.pu-hiroshima.ac.jp/~n_takayk/index.html

になります。

| | コメント (0)

« 2009年10月 | トップページ | 2009年12月 »