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2009年7月28日 (火)

斎藤兆史(2009).「文体論の歴史と展望」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

本章の詳細は次の通り。

斎藤兆史(2009).「文体論の歴史と展望」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 201-235).朝倉書店.

感想:いつもお世話になっている先生が書かれた章でした。この章は、まさに「20世紀文体論史」とでもいうべき章で、なかなかその発展の流れが捉えにくい文体論の歴史が包括的に記述されていました。著者は冒頭で「文体の研究、あるいは言語と文学をつなぐ分野の研究が、20世紀に入って言語研究と文学研究が発展した結果として生まれたものではないことは、はじめに確認しておきたい」(p. 201)と述べることからこの章を始めます。文体論の歴史というと、ついついプラーグ学派とイギリスの実践批評だけをレビューしがちなのですが、著者はフランスの文体論とドイツの文体論もカバーしてあり、非常に広い視野を持つことができます(実際、フランス文体論とドイツ文体論はあまり文献がなく、私も院生の頃はとてもマニアックな文献にどんどんと入っていくことでしかあまり勉強することができなかったように記憶しています)。

フランス文体論に関しては、それがstyleという語を初めて学問の名前につけたこと、及びそれがあくまでもラングのレベルでの文体論であったこと、ヤコブソンとレヴィ=ストロースによる研究を契機として「文学言語の特徴を科学的に記述すること」(p. 203)が始まったこと(しかしこういった分析は当時のフランスでは詩学や記号論と呼ばれた)、バルトによって「文学を動的な言説の場と捉える」(p. 204)視点が現われたこと、が指摘されていました(しかし、フランスでの「文体論」という語の意味合いは注意が必要なようです)。フランスで起こった研究のうち、伝統的なフランス文体論は「伝統的なテクスト解釈学(explication de texte)の流れを汲みつつ、文学的言説の修辞構造を再び関心の中心に据えるようにな」(p. 205)り、構造主義的なアプローチは文学批評と合流したと述べられていました。

次はロシア・フォルマリズムからプラーグ学派へと続く流れについてです。この流れについては、様々な文献でよく解説される箇所ですが、著者によるこの流れの説明は非常に丁寧で分りやすいと思いました。

次はドイツの文体論です。フォスラー、シュピッツァー、アウエルバッハ、について説明されていました。著者はドイツ文体論の特徴として、「ドイツの文体論は、一群のテクストの中に一貫した精神性や思考パターンを探ろうとする」(p. 209)、「ドイツ文体論は、最初のテクスト読解に当たっての直観主義、分析に当たっての精神主義あるいは観念論的アプローチ、さらにテクストを言語共同体と文化的伝統の中に位置づける集団主義的解釈に特徴がある」(p. 209)といった点を指摘していました。

そして、いよいよイギリス文体論です。ここでは、なかなか議論が整理されることがない、リチャーズから文体論が登場するまでの動き、及び初期の文体論の特徴、がまとめてあり、とても貴重な記述がたくさんありました。まず、リチャーズの実践批評が扱われ、文体論にとって両義的(文体論にとって肯定的な側面と相反するような側面)にその発展に一役買ったことが指摘されます。リチャーズは実践批評というものを生み出した点では文体論にとって肯定的な貢献をしたのですが(ただし、彼はあくまでも理論的な手引きを生み出したのであり、具体的な分析の手続きに応用したのは彼の弟子になるリーヴィスやエンプソンになるそうです)、「詩がもっとも高い倫理的価値を有するとの信仰」についてはアンチテーゼとなりました。リチャーズに関して、「文学」の脱神秘化を目指したこと、テクストそのものに注目を払うこと、読解や創作の心理的過程を重視すること、などが文体論との関係での意義として指摘してありました。また著者は、1958年の文体学会でのリチャーズによる文体論の基本理念についての引用を行い、これをもってしてイギリス文体論の出発点としたいと述べていました(p. 213)。

次にリーヴィスについて説明されます。彼は決して文体論学者ではないそうですが、文体論に対してアンチテーゼを提供したという点で文体論史において避けては通れない人物であると著者は述べています(p. 213)。リーヴィスはリチャーズから文学に倫理的価値があるという考え方を引き継ぎ、実践批評的な分析方法は「批評的感性を鍛えるための精読へと形を変えた」(p. 213)と著者は指摘しています。また、彼は英文学研究の地位を高め、「人文教育の中心に据えた」という貢献をした人物でもあるそうです。リーヴィスに関する確認事項として、著者は、(1)(リチャーズは詩の質よりも感性を育てる読みの過程を重視したが)文学作品自体の倫理性を重視したこと、(2)言語に興味は持っていたものの文学を言語的に分析することには不賛成の立場であったこと(彼は実践批評をかなり偏った形で引き継いだそうで、言語分析を重視したエンプソンに対しては批判的だそうです)、(3)彼はある基準にしたがって教材となる文学教材を選びましたが、その基準が直観主義的であったこと、が指摘されていました。そして、Carterらの実践文体論の格好の標的となったそうです(ただし、その批判の対象は技術的な問題というよりも、リーヴィスが確立した英文学の正統性というイデオロギーに向けられていたそうです)。

次は文学的文体論についてです。これは1930年代から1960年代までの文体研究と1970年代の文学研究志向の文体論を指しています。著者は総じて、「この時期の文体研究の業績はほとんど単発で発表されており、イデオロギー的な共闘関係で結ばれたものではないが、全体に共通する傾向を見出すのはさほど難しいことではない。①まず、文体学者たちはみな多かれ少なかれ実践批評を意識しており、自分たちの文体分析の工夫をその理論との比較において論じようとしていること、②分析の手続きが実験的で、多くの場合、その場限りのものであること、③関心の対象が詩から散文に移り、同時に分析の枠組みがより複雑で全体論的になっていること、などである。」(p. 216)としています。ここでは多様な研究者に言及がされていて、Empson、Davie、Brooke-Rose、Nowottny、Lubbock、Watt、Lodge、Page、Pascal、Holloway、が扱われていました。それぞれ丁寧に解説がしてあります。私個人としては、話法の研究の発展に貢献したPageの研究には大変関心を持ちました。なお、1960年代後期からは、文体論とは何かを論じる研究が増加したことも触れてありました。

次は言語学的文体論についてです。イギリスで最初の一般言語学の講座をもったファースが言語の文体的側面について研究して以来、彼の状況的脈絡という概念とあいまって、文体論発展の基礎が作られました。「イギリスの言語学と文体論は、言説が発生する状況やその文脈的な意味を中心的な関心事としてきた」(p. 222)と著者は評しています。そして、ハリデーやカーターによる文体論が展開されることになりました。しかし、「二人の研究には、議論の方向性、分析の目的において決定的な違いがある。ハリデイは、まず言語学的な道具をずらりと並べてから分析を始め、もっぱらテクストの言語的特徴の記述に集中するが、カーターはまずテクストへの直観的な反応から議論を始め、その反応がテクストの細部の言語事実によって裏づけられるかどうか、物語の解釈という形で敷衍できるかどうかを関心の中心に据えて分析を行なっている」(p. 223)と指摘してありました。これは、ハリデーが言語学者として、カーターが文体論者として知られているという点と関係があるのだと思いました。その他、昨年お亡くなりになったシンクレア、クワーク、ファウラーに言及がしてありました。ファウラーの研究の変遷(生成文法を使ったアプローチ、言語的批評、など)が簡単に示してあり、個人的にとても面白く読みました。

次は教育的/実践的文体論です。ここではウィドソンの有名な研究についての簡単な説明がなされ、リーチ、私のランカスター大学大学院時代の指導教官だったショート、カーター、などに言及されていました。この学派の特徴として、「まさに「学派」と呼ぶにふさわしい集団を形成し、共通の方法論、イデオロギーの下に多くの共(編)著書を世に送り出しているということ」(p. 226)が指摘してありました。その中で、リチャーズ流の心理主義やシュピッツァー流の直観主義に再び注目することになったそうです(文体論の原点回帰(ただし、単純な古い文体論への回帰というわけではなく、フィッシュによって批判された言語学的文体論の過度の科学的思考への反動と捉えるべきだと著者は指摘しています(p. 227)))。1990年代に入ると、教育的/実践的文体論は2つの方向に進んでいくことになりました。1つは学理の理論的な整理であり、もう1つは実践用の教材作成という方向だそうです。

最後は最新の文体論事情についてで、認知文体論とコーパス文体論について触れてありました。

この章は、あまり描かれることのない文体論の歴史を、包括的かつ詳細に描いており、とても貴重だと思いました。特に、フランスとドイツの文体論について触れていること、イギリスにおけるリチャーズから古い文体研究への流れについても詳しく説明してあること、古い文体研究について整理がされていること、言語学的文体論や教育/実践的文体論について詳しい説明がなされていること、など、いずれも詳しい文献があまりない事柄について詳細に記述してあり、とても勉強になりました。文体論という分野について、その全体像をつかめるという点で非常に重要ですし、文体論をこれから志す人たちにとってはとても有用な文献だと思いました。

なお、この章をもって、本書を読み終えました。とても面白く、一気に読み終えてしまいました。いずれも非常に貴重な文献であり、これが日本語で出されたこと、言語学のシリーズ本の1冊であること、など、今後の文体論発展においてとても意義深い本であると思いました。何度も読み返したい本です。

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大堀壽夫(2009).「日常言語の詩学」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

本章の詳細は次の通り。

大堀壽夫(2009).「日常言語の詩学」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 172-200).朝倉書店.

感想:著者はこの章で、文学への言語的アプローチについて概観し、次に詩的機能の日常言語における広がりについて紹介していました。文学への言語的アプローチに関しては、逸脱ないし偏差として文学の言語を捉えるという考え方、構造言語学のモデルに基づいて文学の言語を研究したもの(ヤコブソンによるモデルや二次的記号体系という考え)、が紹介されてありました。また、詩的機能の日常言語における広がりについては、最初にヤコブソンの6機能モデルおよびムカジョフスキーが説明した前景化という概念を紹介することで、まずその基礎(詩的機能に関する基本的な研究)を整理し、次に認知意味論による比喩の研究(イメージスキーマ自体は形を変えずに投射される場合と、XYZ構文のように複数の概念構造から部分的な抽出を行い新たな概念を想像する場合の両方)と社会言語学や文化人類学的言語学による談話構造の研究が紹介され、日常言語とされるものにも文学の言語に通ずるような特性が確認され、かつそれが日々の言語使用の中でかなり重要な働きをしていることが指摘されていました。

とても面白い章でした。古典的な研究から融合理論などのような最新の理論までを網羅的に紹介してあり、頭の整理を行なうことができると思います。また、概念メタファーと融合理論はしばしば敵対しがちですが、著者は後者の方が射程が広く、前者を後者の1つのサブケースであるとする立場を取っていました(p. 188)。両者の関係については、私がランカスターで融合理論について勉強していたときも、本当に分からなくて悩んだものですが、その頃のことを少し思い出したりもしました。この章は様々な理論が扱われていますが、それぞれの理論が豊富な例をもとにして丁寧に説明してありますので、各理論になじみのない人でも、見識を深めることができると思います。

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高橋和子(2009).「文学と言語教育-英語教育の事例を中心に-」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

この章の詳細は次の通り。

高橋和子(2009).「文学と言語教育-英語教育の事例を中心に-」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 148-171).朝倉書店.

感想:今年(2009年)の日本英文学会で学会発表を聞かせていただいた先生が執筆された章で、私の研究テーマにも大きく関係のある章でした。著者は、特に過去20年、学習指導要領や大学の教育体制の事情で、文学教材が教室から減ってきたことをまず確認します。次に海外での動きを整理し、文学教材排除とその再評価という流れを説明します。そして、日本と海外で認識がズレていること(日本では依然として排除の流れが強い)が指摘されていました。そして、そのズレの原因として、まず、(1) オーセンティックという概念の誤解、(2) 文学的言語が特殊であるという強い認識、(3) 文学教材=文法訳読式教授法という定式化(コミュニケーション能力の育成には向かないという考え)という点についてその誤解を解いていく作業がされていました。(1)に関しては、「オーセンティック」という概念を正確に理解することを促すことで、(2)に関してはCarter & Nasuのliterarinessの概念、文学作品には様々な日常風景が取り込まれている点を理解すること、Widdowsonによる言語用法と言語使用という2つの尺度、を指摘することで、(3)に関しては実際に様々な実践研究に言及することで、この間違いを正そうとされていました。また、海外と日本のズレの4点目として、(4)海外のL1研究やESL環境の研究をそのまま取り入れてきており(日本はEFL環境)、日本の状況に即した教育を行なうという視点が欠けていたという点について詳しく議論が展開されていきました。著者は国語教育の研究に目を向け、国語教育での文学教材指導について様々な点が説明されてありました。しかし、国語教育自体も文学教材を敬遠する動きは起こっており、現在は文学教材反対派と擁護派それぞれで、様々な動き及び主張がなされている最中のようです。

本章は、特に英語教育における文学教材のあり方や指導法について国語教育から学べるところがあるのではないかということが大きな主張として提示されていたように思います。私自身、あまり国語教育についての研究にはそれほど詳しくないため、その動向について色々と勉強することができました。また、この章の中では、著者は社会の動向ということから文学教材を取りまく動きについて整理がされることが多いのですが、その整理のされ方がとても丁寧であり、その議論にはとても説得力がありました。とても面白かったです。また、英語教育における文学教材のあり方に関する議論が、言語学のシリーズ本の中にそのひとつの章としておさめられたという点も非常に大きなことであると考えています。今後、この章がきっかけとなって、活発な議論が様々な学会で繰り広げられるといいなぁと、この分野に関心を持つ1人の研究者として思ったりもしました。

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奥聡一郎(2009).「文学言語の計量化とその展望」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

奥聡一郎(2009).「文学言語の計量化とその展望」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 118-147).朝倉書店.

感想:いつもお世話になっている先生の執筆された章でした。この章は著者はまず、「文学言語を数えることへの関心は、このように著者推定(authorship)に始まるといってよい」(p. 118)と指摘し、どういった特徴がその役に立つと考えられたのかということの紹介がされていました。語の平均長、「語のスペクトル」という考えが紹介されていました。また、プラトンの『対話集』の執筆年代決定に触れ、稀出語、語の生起頻度、不変化詞、文の長さ、に触れてありました。文の長さに関連して四分位範囲とK特性値、語の生起頻度に関して識別指標、といった考えも紹介されていました。また、日本の計量分析の歴史についてもかなり包括的に言及がなされており、海外の動向だけでなく、日本での古典文学の研究についても知ることができました。さらに、リーダビリティーについても整理されており、これまで提案された様々な公式が紹介されています。しかし、その問題点も指摘されており、「公式では数値化しやすい要素、すなわち先にあげた、基準となる難易語の設定とそこからの逸脱の程度、音節、語や文の長さという基準が主となっていた。その形式的な要素に依存してきている点で数多くの批判がなされてきた」(p. 132)と述べられていました。そして、「読み手の理解度も視野に入れた「わかりやすさ」(comprehensibility)の形で今後は公式化されることが望ましい」(p. 133)と指摘されていました。

次に計量文体論について整理されていました。文学言語についての考察は以前は修辞学がその枠組みとして機能していましたが、18世紀頃には書き方の処方程度にしか用いられなくなってしまい(p. 134)、20世紀に入って、バイイの「文体論」とシュピッツァーの「環的解釈」を経て、文体論において「計量的な基盤が議論可能に」(p. 135)なったそうです。それは、「言語的な偏差へのアプローチの仕方」(p. 135)であり、ギロー(1959)による研究から有名な引用がなされていました。著者は、計量文体論の理論的基盤(及びその基盤に存在する課題点)に触れ、分や語の長さや頻度以外の計量分析として韻律分析を詳しく紹介されていました。さらに、電子化されたテクストを用いた先駆的な研究としてMilicによる研究を紹介し、その問題点を指摘した後(データの量が小さいこと、統計的な検証がなされていないこと、分析結果と解釈が乖離していること)、コーパスについて説明がなされていました。

この章は、計量文体論概説といった印象を受けました。文学言語を計量的に測定しようとしてきた先人達の研究成果の大きな流れを知ることができ、それが現在のコーパス研究につなげられているので、非常に広範に学ぶことができました。この分野はあまり私は勉強していないこともあり、とても勉強になりました。コーパスを用いた文学作品分析を行なう際に最初に読むと、コーパスというツールはどういった流れの中で出てきたものかを知ることができ、とてもよいのではないでしょうか。大変有用な情報が詰まっていた章で、とても面白かったです。

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2009年7月23日 (木)

北和丈(2009).「ユーモアの言語」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

この論文の詳細は次の通り。

北和丈(2009).「ユーモアの言語」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 92-117).朝倉書店.

感想:いつもお世話になっている先生の論文を拝読しました。私自身、ユーモアの言語研究についてあまり知らなかったので、大変勉強になりました。そして、同時に、ユーモアの言語野分析の難しさも知ることができました。著者は、この分野の研究の流れをとてもコンパクトにまとめてくれているので、門外漢の私のような者にはとてもありがたかったです。著者は、これまでの大きな理論として、優越の理論(または敵意の理論)、解放の理論、不調和の理論(ズレの理論)の3つを紹介してくれていました。そして、それぞれの問題点も簡潔にまとめてあります。そして、不調和の理論は文体論と出会うこととなり、Nashによる研究、Raskinによる研究(スクリプト意味論的ユーモア理論)、ラスキンとアッタルドによる研究(汎用型言語ユーモア理論)が紹介されていました。前者2つの研究は偶然に1985年に発表されたもので、ユーモアの言語研究にとっては1985年は非常に重要な年なのだそうです。最後は、汎用型言語ユーモア理論(あるいは現在のユーモアの言語研究)の課題が指摘されていました。それらは、研究対象の「狭さ」と「甘さ」という言葉で表現されていました。また、ユーモア研究は常に英語のユーモアを対象としているため、日本語のユーモア研究の確立も重要であるという点が指摘されていました。

私にとっては全く新しい分野の研究だったので、とてもたくさんのことを学ぶことができました。また、本章の文章自体にも著者のユーモアを感じ取ることができ、とても楽しく読むことができました。特にこれからユーモアの言語研究をしようと考えている人にとっては、とても貴重な論文になると思いました。

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青山英正(2009).「幕末志士の歌における忠誠の表現と古典和歌-言葉からのアプローチ」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

青山英正(2009).「幕末志士の歌における忠誠の表現と古典和歌-言葉からのアプローチ」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 65-91).朝倉書店.

感想:僕は日本語の研究になるととかくダメダメになるのですが、非常に面白く拝読しました。志士の歌は類型性や表現の拙さが指摘され、あまりこれまで本格的に研究されてこなかったそうです。そして、その言葉についてあまり分析されることはなく、単に愛国心などといった概念で一括される傾向がありました。著者は、先行研究を引用しながら、志士の歌におけるこういった研究の風潮を示していました。そして、「やまとだましひ」と「かばね」という語を中心に、それが元々はどういう意味であり、どのように、そして何がきっかけとなって、変化したのか、ということについて丁寧に文献をあらいながらしめしてありました。私自身、「やまとだましひ」という語がもともとは、実務的能力や女心を指していたということを知ってとても驚きました。実際に様々な歌を引き合いに出しながら、著者は次のように志士の歌を評しています。

「分析の結果浮かび上がってきたのは、哀傷歌などに用いられてきた常套的な歌語と、幕末思想語や万葉語などとを雑多に混在させた、伝統的な和歌表現から見れば明らかに異質と言える彼らの歌の姿である。もちろん、歌に新味をもたらすための俗語の大胆な使用は古くから多くの歌人が試みてきた(中略)。しかし志士の歌の場合、それらの使用がたいていの場合類型的であるのみならず、しばしば意味上の、あるいは文法上の無理を犯してまでなされていた点に特徴があった。」(p. 85)

「このような特徴は、一つには言うまでもなく志士たちの詠歌技術の未熟さに由来するが、もう一つには彼らの表現しようとした内容が、自ら死に赴こうとしていること、その死が主君への忠誠心ゆえであることといった、それまでの和歌にあまり詠まれなかった主題にまつわるものであった点にも由来すると思われる。」(pp. 85-86)

著者は、最後に2点今後の研究の展望について示し、研究の意義についても述べています。著者は、言語に注目することで、「従来の文学研究においてはほとんど無視されていたか、あるいは愛国心といった観点からのみ評価されていた志士たちの歌から、そこに込められていたであろう彼らの思想や歴史認識、さらには彼らの希望や祈りをも、より豊かに浮かび上がらせることができるのではないか」(p. 90)と述べています。著者のこの主張は、まさにこの論文の面白さに証明されていると思いました。

あまり日本語学の研究を読むことはないのですが、読んでいてとても刺激を受けました。フィロロジーの論文を読むと、いつもとても勉強になります。また、志士の歌というトピックが私にとってはとても斬新で、とても面白かったです。

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2009年7月13日 (月)

李絳.(2009).「文体分析の概観と実践-ヘミングウェイ、ダフィ、コープの作品を中心に-」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

この論文の詳細は次の通り。

絳.(2009).「文体分析の概観と実践-ヘミングウェイ、ダフィ、コープの作品を中心に-」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 31-64).朝倉書店.

感想:この論文では、Hemingwayの"Hills Like White Elephants"を例として、様々な批評方法が紹介されていました。具体的には伝記批評、新批評、元型批評、新歴史主義批評、フェミニズム批評、が紹介されていました。そして、どの批評方法も絶対的なものではないということが指摘されます。次に文体論によってこの短編小説が分析され、その特徴が示されます(p. 40)。著者は、「文体論は社会学的イデオロギーを持たないが、方法論的イデオロギーを持っている」(p. 49)と指摘しています(しかし、この主張は議論の余地があるのではないかと私は思いました)。具体的には視点と焦点化を例とした分析を通して、文体論の紹介がなされていました(この分析自体とても面白かったです)。しかし、文体論とて絶対的な分析方法ではありません。著者は、「研究者の主管に影響される方法論であると自覚し、その局限性を十分に認識(ときには言及)した上で研究を進める前提があれば、文体論研究がテクスト分析において有益な示唆を与えてくれるはずである」(p. 50)と指摘しています。

次にDuffyの'Words, Wide Night'とCopeの'An Attempt at Unrhymed Verse'を例にcontextualized stylisticsの実践がなされ、教育への示唆も与えてありました。分析自体とても面白く、まさに文体論によってむしろ解釈が豊かになるということを実感することができました。著者は最後に「文体論という学問の今後の発展については予測できないが、その可能性は一言で言えばやはり「結合」、つまり他の分野との結合にあると思う。文体論の原点の一つが言語学であるので、言語学が学問として発展すれば、文体論もその知識や手法を吸収するであろう。」(p. 62)と述べてありました。

著者は、何か一つの主張をする際に、必ず事例となるような分析を示しており、非常に説得力がある章となっていたと思います。著者の分析もとても面白く読みました。とても勉強になりました。

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2009年7月10日 (金)

プラトン(??/1967).『パイドロス』を読む(藤沢令夫(訳),岩波書店)

本書の詳細は次の通り。

プラトン(??/1967).『パイドロス』(藤沢令夫(訳)).岩波書店.

感想:本書は、まさに訳者が述べているように、「哲学のすすめ」といった感じの本でした。恋(エロース)についての部分と弁論術についての部分に分かれていますが、その内容が行き着くところは同じで、真実の追求の重要性が説かれていたと思います。

恋の部分については、リュシアスの「自分のことを恋している人よりも恋していない人の方を大切にするべきである」という主張をベースにして展開します。登場人物のソクラテスは、リュシアスとは逆の主張「自分のことを恋している人の方を大切にするべきだ」という考えを展開します。そして、なぜそのように主張するのかということを根源的に魂(プシュケー)のレベルから考えていきます。本書では、p. 52からp. 85までの範囲でこのことが詳しく議論されていました。恋とは狂気であり、これは神から授けられたものであるとソクラテスは述べます。そして、魂は不死であり、自らを動かすという性質(本質)を持っていると彼は主張します。そして、魂は善悪2頭の馬とその手綱をもっている御者というイメージで捉えられていて、生えた翼をもってしてイデアへと帰ろうとします。しかし、何かのきっかけで真実性を見そこない、地上に落ちる魂もあり、その魂がこの世で生を送る中で美しい人に出会い、そのことをきっかけとして美のイデアを思い出し、イデアへと帰るための翼が再び生えてくること、それを「恋」と呼ぶのであると主張してありました。美は視覚に訴えるので、他の真実性に比べるとイデアを想起しやすいと考えられていたようです。

次に弁論術についてです。多くの弁論家は、真実そのものを把握するということはあまりせずに、手本の暗記、弁論のための弁論、といったことを行なっていたようで、そういった風潮を是正しようとされていました。当時の弁論家は、真実そのものよりも、真実らしく見せようとすることを重視していたそうです。ソクラテスはディアレクティケーという概念を提示し、そこには分割と綜合という方法を組み込んでいます。この方法を駆使して真実を追究することが必要だということです。しかし、その形式的な面だけを重視すればよいというのではなく、その内容的な面と不離の状態で真実の追究に臨むことが必要だと述べていました。

まさに、哲学の語源、知への愛、ということを髣髴とさせる本でした。以前、『メノン』を読んだことがあるので、この本での魂の議論は比較的すんなりと理解することができました。ここでは魂の議論のほんの一部しか紹介していませんが、かなり系統だって述べられていますし、注釈も充実していますので、詳しくは本書をご覧下さい。また、ディアレクティケーについても、ソクラテスがうまくまとめをしてくれていますので(pp. 141-142)、詳しくは該当箇所をご参照下さい。また機会があれば、プラトンの他の著作も読んでみたいと思います。なお、訳者の解説は本書の内容を整理するのにとても役立つと思いました。

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寺澤盾(2009).「中世の英詩を読む-定型性と創造性-」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

本章の詳細は次の通り。

寺澤盾(2009).「中世の英詩を読む-定型性と創造性-」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 7-30).朝倉書店.

感想:この章では、特に『ベーオウルフ』など古英語で書かれた作品を中心に、議論が展開されていました。古い時代のテクストには定型句が多く用いられるそうですが、その理由としてMagounによる口承定型句理論(パリー・ロード理論)がまず言及され、その限界点も指摘してありました。この理論は、テクストを口承詩と見なし、「口頭による即興的な作詞を容易にするために定型句が用いられた」(p. 10)という仮説ですが、著者は書記詩にも定型句が多く用いられていることから、この仮説には限界があるとしています。「口承文化時代の遺産が非口承文化においても受け継がれたものである」(p. 11)というのが現在の主流の考えのようです。

しかし、定型句が多いからといって決して古英語詩が独創性を欠くわけではありません。著者はこのことを指摘していきます。まず、定型表現は定型組織(「1つの鋳型から潜在的に生み出される可能性のある多様な定型表現群」(p. 12))であり、「詩人は韻律的な要請や修辞的効果のためにそれに変化を加えることで、新たな表現を生み出」(p. 13)していたことが指摘されていました(例えばメタファーの産出や頭韻の要請)。また、戦の場面に大鴉、鷲、狼が現われるという常套的描写(定型主題)や、それらが登場する前に喚声が描写されることなどについても指摘されており、それが作品の中で極めて柔軟かつ独創的に用いられていることが指摘されていました(交差配列やアイロニーなど)。

最後に中世英詩のテクストが現代に何を示唆するのかということが議論されていました。最近は印刷技術のおかげで、オリジナルというものが大きな力を持っており、著作権といった概念が生じています。しかし、写字生がオリジナルの写本を作っていた時代は、「「著者による唯一無二のテクスト」という意識、またそれを一語一句は言うまでもなく句読点の細部に至るまで尊重しようとする意識があったであろうか。また、そもそも作者自身に自らのテクストを確定させようとする意図はあったであろうか」(p. 28)というとても興味深い問題提起がなされていました。最近では写字生による加筆などを逸脱とは考えずに、パフォーマンスと考える研究の立場も増えてきているそうです。そんな中、最近のインターネット社会では誰が作者か分らないテクスト(Wikepediaなど)が多数存在し、こういいた文化におけるテクストの諸問題を考える上で、中世の時代のテクストが何か示唆することができるかもしれないと著者は締めくくっています。

フィロロジーの論文は普段はあまり読むことはないのですが、とても面白く読みました。事例も豊富で、すごく勉強になりました。また、最後の部分の指摘ですが、『電車男』の作者が結局「中野独人」とされていることなどを思い出したりして、色々と考えさせられました。

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斎藤兆史(2009).「総論」を読む(斎藤兆史(編),『言語と文学』,朝倉書店)

本章の詳細は次の通り。

斎藤兆史(2009).「総論」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 1-6).朝倉書店.

感想:いつもお世話になっている先生が編纂された本の第1章です。ここでは、言語と文学は本来表裏一体であったのが、ソシュールの登場をきっかけに分裂し、文体論や物語論などによってお互いを再発見し(ヤコブソンやリチャーズにもその歩み寄りの努力はなされました点も指摘してありました)、更に認知言語学によって遂に両者の壁が取り壊されたという経緯が示してありました。これから各論でどのような議論がなされるか、とても楽しみです。

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2009年7月 9日 (木)

S.J.Schmidt(1982).「Perspectives on the Development of Post-concrete Poetry」を読む(『Poetics』)

この論文の詳細は次の通り。

Schmidt, S. J. (1982). Perspectives on the development of post-concrete poetry. Poetics, 3 (3), 101-136.

感想:文学の経験的研究の祖の1人Schmidtによる、具象詩関連の論文です。

具象詩(concrete poetry)は、その作者達によって1960年代の終わり以来、その芸術形態の死を宣言されてきました。しかし、具象詩は学問的にも認識はされていますし、実際に作品も作られ続けています。ただし、その革新性はもはやなくなってしまっている恐れがあると著者は指摘します(著者は具象詩の革新性が基盤としていたとされる特性を列挙しています(pp. 101-102)が、もはやこれらは機能していないということです)。具象詩は芸術の媒体として言語を使うということにおいて常にジレンマに苦しんできたと著者は述べます。著者は"pre-programmed paradox"と呼んでいますが、それは次のような言語の特性に由来するそうです。"(1) its elements, whether graphic or acoustic, are connected with conventional, stereotyled meanings, and (2) language is normally used instrumentally, to fulfill primarily practical functions" (p. 102, emphasis in original)。理論的には言語を芸術に使う方法としては次の二つがあると著者は述べます。"(1) the complex artistic "language" (consisting of phonemes, graphemes, syntax and meaning) is reduced to phonemes and graphemes as materials to be used graphivally or musically (formal manipulation of a partially reduced language); and (2) language is used as a complex entity, with an invented semantics whose sole field of reference is the language itself." (p. 102)しかしながら、 具象詩は実際には1点目の方法ででしか言語を芸術に使うことができていません。実際に2つ目の方法は厳密には不可能であると著者は述べています。しいて実現することができるとすれば次のような場合だと著者は考えています。"The practice of concrete semantics is realizable, in full or in part, only if it is treated in such a manner that a general semiotic mechanism is revealed and used to advantage.  When language is used without linear text construction ..., or without narrative structures ..., this is a signal to the receiver that he should not relate this language to its conventional communicative functions or common referential frames, but rather that he should be aware of other functions, other potential referential frames, including, ultimately, the very act of using language." (p. 102, emphasis in original) それに、具象詩がその他のブルジョア文学に取って変わろうとするならば、作者と読者はかなりの努力を要することになります。"the authors must not dwell on formalistic banalities, and the receiver must be able to discern and evaluate the semiotic use of language in poetry.  Here we are confronted with the twofold problem of reception.  (1) Receivers are programmed by their social culture to have other literary expectations than those that concrete poetry fulfills.  In order to be discerned as an alternative kind of poetry, the reciever must learn to see and read precisely what is there- not, as is common in literary communication, to interpret, that is, to pretend that it is something else.  (2) If receivers are to become familiar with concrete poetry through critiques, theories, etc., then it will be necessary to rely heavily upon the very discursive language which is so whole-heartedly mistrusted by concrete poets and which they dismiss as mindless and irresponsible." (p. 106, emphasis in original)ここで指摘されている矛盾点はとても面白いと思いました。

さて、芸術界には次のような面白い動きがあったそうです。"In the late sixties and the early seventies, two tendencies converged which could be described as the conceptualization of visual poetry and the lingualization of the fine arts." (p. 113, emphasis in original)。著者はこれらの現象について、"It seems to me that developments of slightly different traditions, in expanding, discovered each other." (p. 113)と述べています。ちなみに、著者はここでvisual poetryと具象詩を区別していて、visual poetryは1963年頃に、具象詩は1953年頃に始まったというのが定説のようです。とにかく、こういった動きの中でcnceptual literature(またはconceptual art)という新たなジャンルが現われることになりました。しかし、その定義は人により様々で、実際に様々な人が様々な定義を持ち出していることを著者は示していました。結局著者は、"the term "concept," like "concrete," is much disputed, and poorly defined.  Thus, I make use of the term "concept" merely as an indication of a certain direction which could be marked by declarations of intentions and by the work of authors such as Kosuth, LeWitt, Weiner, or Naumann." とゆるい定義を示していました。そしてそういった文学作品をconcept literatureと呼ぶことにすると述べています。著者自身もconcep(conceptional) literature (poetry)を創作しているようで、論文内で幾つかを披露しています。そこで述べていることですが、"My own attempt at realizing something that I call "conceptual poetry" is the result of a critical examination of classical concrete poetry and concept art.  It is "conceotional" by contrast with classical concrete poetry, which in my opinion has failed to distinguish among the theoretical, aesthetic, linguistic and pragmatic questions it raises, and which has opften degenerated into mere decorativeness, evading problems of conception." (p. 119)では、彼の言うconceptional poetryとはどういったものなのかという点について、彼はマニフェストという文言で、その特性を列挙しています。内容はここでは省略しますが、興味のある方は論文の方を直接ご参照下さい。著者はそれらのマニフェストを総括して次のように述べています。"These attempts can be described as "visualizing intellectual efforts" (B. Naumann). My intention has been to involve the receiver in a conversation, in a reflection.  The receiver is not to be patronized by being confronted with finished stories, perfect linguistic formations, closed ideologies.  Rather, I have attempted to preserve the openness of all intellectual processes, especially artistic ones, by generating semantically and aesthetically open structures which dissolve and negate all determinations, negating again the nevation, etc." (p. 122)

そして、これからどのような方向に進むのが望ましいのかという点についても著者は考えを提示していました。著者の言葉を一言でまとめると"In short, my goal has been to work within a continuum" (p. 125, emphasis in original)分野とかジャンルにとらわれずに、すべてを連続体として捉えることが必要であるというのが著者の考えでした。

具象詩という現象ないし芸術形式は僕自身とても関心を持っているので、面白く読みました。著者が示したマニフェストもとても面白かったです。

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2009年7月 1日 (水)

佐久間淳一(編)(2008).『言語学基本問題集』を読む(研究社)

本書の詳細は次の通り。

佐久間淳一(編)(2008).『言語学基本問題集』.研究社.

感想:この本は、言語学に関する問題が分野ごとに4択問題として集録されています。扱われていた分野は、言語の特性・言語学の対象・言語の類型、音声学・音韻論、形態論、統語論、意味論、語用論、言語と社会、言語の変化、文字の体系、でした。多くの問題は日本語に関する問題で、英語を専門とする私としては分らない問題がたくさんありました。理由あって、近い内に日本語文法を少し勉強する必要があるので、しっかりと勉強したいと思いました。理論的な用語についての問題もあり、そういった問題については正解することができました。しかし、日本語学と英語学で同じ用語の訳し方などが少し異なっている面もあり、英語学を専門とする人は少し戸惑う場面も少なくないと思いました。ですが、問題の解説がしっかりと書かれているので、色々と日本語について勉強することができると思います。日本語文法に精通している人にはオススメです。日本語文法にあまり精通していない人は、基本的な日本語学ないし日本語文法を学んでから挑戦すると面白いと思います。

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