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2009年2月27日 (金)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第9章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:A guide to resources for research in LLE

感想:この章では、文学を使った言語教育研究についての情報を得られる学術雑誌、ウェブサイト、学会などについてリスト化してありました。ウェブサイトについては既にアクセス切れになっているものもあるようですが、豊富な情報源だと思います。これからこの分野を始める人にとってはとても有益ではないでしょうか。私が現在の研究分野を始めた時にこういったリストがあればどんなに楽だったことでしょう。。。

さて、これで本書は読み終わりました。この分野についての唯一とも言える概論書で、とても貴重な文献だと思いました。研究方法について熟知されている方には、最後の3章は必要ないかもしれません。とても興味深い文献が多く引用してありますので、一読の価値は十分にある本でした。

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G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第8章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Carrying out your own research project in LLE

感想:ここでは、主に質的な研究をメインに、文学を使った外国語教育の研究用のリサーチ・クエスチョンやその実施方法などが書いてありました。また、アクション・リサーチについても説明がありました。この分野で研究をしたいのだけども、何から始めていいのか分からないという人にはうってつけの章ではないかと思いました。この章で書いてあったことで、私が特に気になったのは(本章の趣旨とは少しずれるのですが)、"In any case, experience suggests that texts will have been chosen and specified before language aims, except perhaps impressionistically, and that any specified language aims have arisen retrospectively from texts being used, rather than being specified as desirable before texts were selected and activities developed" (p. 222)という言葉でした。提案されている研究プロジェクトはいずれも面白いものだと思いました。この分野でネタ切れになっている人にとっては新たな刺激を受けるチャンスになると思いました。

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2009年2月26日 (木)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第7章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Research methods for LLE, with examples

感想:この章では、研究に使うことができる調査方法についてまとめてありました。私個人的には、ここで紹介されていた調査法は全て知っていたので、新出事項はありませんでしたが、各調査法の例として紹介されていた研究の要約は、いずれも面白いものでした。ここで、扱われていた調査方法は、experimental research、protocol、survey research(質問項目による調査法)、case studies、ethnographic study、の五種類でした。survey researchの例で示されていた研究で、"a hypothesis that students' 'pragmatic' interest in oral proficiency for travel or casual conversation makes much literature work (written text) seem of secondary importance to them" (p. 199)を検証した研究と、ethnographic researchの例で示されていた研究で、パキスタンの女子学生に自らの女性としてのアイデンティティーを考えさせるためにキャノンの英文学作品を使った研究はとても印象に残りました。

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G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第6章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Readers reading literature

感想:この章では、著者は文学読者の研究を紹介していました。エキスパートの読者を扱ったKintgen (1983)、普通の読者を扱ったde Beaugrande (1985)、第2言語読者を扱ったHanauer (2001)が紹介してありました。著者は最初の2つの研究を比較する中で、(1)普通の読者は語彙のレベルでしか言語に言及しない(形式、韻、音韻システム、統語には言及しない)、(2)普通の読者は詩を日常語に翻訳することで満足してしまう傾向が見られる(形式に注目し、その意味について考えることはあまりしない)、(3)普通の読者は詩の読解でぶつかる困難点を注意を払うべきものと捉えてはいるものの、詩読経験の文学的な側面を過小評価する傾向があり、不安や不確かさを表明する、という点を指摘していました。また、Hanauerの研究に言及する中で、(1)気づきの対象になるのは文学的な特徴や書記素論的形式ではなくて語彙である、(2)全体的な解釈は局所的な解釈を統合することによってなされる、(3)collecting data(テキストから解釈に使う材料を集める)、proposing interpretative hypotheses、developing these interpretative hypothesesという3つの操作が(ペアによる)読解の大半を示す、(4)少なくとも敷居レベル以上の第二言語学習者は第一言語読者とほぼ同じ行動様式を示す、といった点が指摘されていました。

次はHunt and Vipondの研究が紹介されていました。彼らは、PolanyiやLabovのoral narrativeの研究を参考にして、文学読解に必要なのはpoint-driven readingであるとしました。具体的にはcoherence(一貫性を求めるためには、時として判断や評価を遅らせることも必要です)、narratve surface markers(表層情報は重要です)、transaction(語り手を意識したりすることも必要です)を探求する読みであると述べています。もちろん、聴解と読解は違います。それに、私たちは普通はcompetent listeners of storiesです。それに比べて、文学の読解は難しいですし、文脈もありません。創造力も必要です。しかし、彼らはoral narrativeの研究は文学読解の研究の有用なキーとなると考えています。Hunt and Vipondの研究と道を同じくするものとして、文学コミュニケーションを語り手と読者の会話と捉えるBortolussi and Dixonも紹介してありました。

次は第二言語に特化した研究として、Goh (1991)が紹介してありました。この研究のまとめとして、"What this discussion should indicate is the relevance of Hunt and Vipond's work to second language story readers..., but also that linguistic matters are not easily distinguished from wider cultural and cognitive issues in investigating literary incomprehension." (p. 174)と述べられていました。

最後は文学読解における情意面についての研究について言及してありました。Mattixらによる、文学の読解を"task"や"work"といった「仕事」の観点から議論するのには問題があるという主張が紹介されていました。この分野も研究不足であり、これから研究が重ねられていく必要があると著者は述べています。この節では、(1)前景化された言語表現は読者に感情を引き起こす(Miall)、(2)第一言語の読者は文学テクストに感情を伴って反応しようとするが、第二言語学習者はこういった文学読解の重要な要素を落としてしまっているおそれがある(Miall)、(3)ArnoldやByramらの研究(異文化間コミュニケーションについての研究)との連携が望まれる、といった点が指摘されていました。

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G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第5章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Educational perspectives

感想:文学教材を第二言語教育で用いる場合、"the desire to provide motivating material for an individual lesson (the 'springboard' cliche) often seems to override longer-term curricular views, oe text following another with possibly thematic coherence, but little obvious or thought through justification in terms of developing language proficiency and / or literary competence" (p. 141)という傾向があり、問題になっていると著者は指摘し、本章を始めていました。文学は"the forming of better citizens and subjects" (p. 141)といった道徳的ないし人間的な観点から、その使用を正当化してきましたが、こういったことはニーズ・アナリシスで言及されることがほとんどなかったため、CLTでは冷遇されるに至ったと著者は指摘します。

次に著者は、具体的なシラバスでの文学の扱いについて紹介していました。England and Wales National Curriculum (1995)では、文学を個人的な成長を促すもの及び文化的遺産という観点から見ていることを紹介し、古典的な作品が強調されていたそうです。一方、オーストラリアのカリキュラムでは、他者への思いやりを学ぶためにポストコロニアル文学を用いることが主張されていました。このようなトップダウンなものに対して、Huntは文学とはどのようなものであるか、その特徴を列挙し、そのリストから指導について考えていこうとする動きも紹介されていました。一方、第2言語でのシラバスについては、Malaysiaのシラバスが紹介されていました。第二言語では、エリートや上級学習者用の教材として文学が扱われがちで、言語教育と文学教育が分裂している傾向があるそうです。また、文学を通して言語能力を伸ばすという考えは薄く、むしろ十分な言語能力が文学教育に前提とされていると著者は指摘していました。また、カリキュラムでの文言も曖昧であったり、保守的でキャノンに属する作品の読解に特化し過ぎていたりする傾向がある一方で、文学の教育的価値が当然のこととされたり、実証的な証拠のない断定を軽率に行なったりしていると述べていました。

次は評価についてです。Carter and Long (1990)は、文学テストにはまだ機械的な内容理解問題が横行していると指摘しました。しかし、Nattallが述べるように、設問とは議論を閉じるのではなく開くようなものである必要があります。また、個人的な知識や文化的知識を応用したり推論したりといった、ディスコースのレベルへも設問を展開させたいという指摘もあります(Carter and Long (1990))。現在、文学テストは極めて研究不足な分野であり、第二言語教育においては1冊しか本が出ていません(Brumfit (1991)によるもの)。一方、Spiroはイギリスにおける典型的な質問項目を調査し、オープン・エンドの何かについて"Discuss"せよというタイプが横行していることを示しました。この質問項目は、解答する際に、読者の実際の読みの経験をほとんど使う必要がないという問題点があります。また、UCLESのテストにおいては、質問項目が曖昧であり、言語的側面はほとんど無関係になっていると著者は指摘していました。著者は、文学能力の測定を目指す必要があると述べ、McRae (1996)による文学能力の構成要素の議論を紹介し、最終的にはprogressive forms of literature assessmentを提案していました(これはポートフォリオや日記などを利用するものですが、私個人としては実施可能性に課題が残るように思いました)。

次は、実際の授業で文学教材がどのように扱われているかという点が議論されていました。著者はKim (2004)の研究成果を中心に、この節をまとめていました。その結果、"Learners collaborated actively to clarify meanings both at literaru and more interpretative levels (Vygotsky's ZPD).  They focused on particular forms and practised them even as they discussed them, but also inferenced and made judgements collaboratively." (p. 153)、"Learners took expressions from the text and appropriated them for their own expressive purposes." (p. 153)、"Extensive discussions of the culturally exotic (e.g., kissing on a first date) were particularly engaged, with unusually extended turns (for a classroom), and meaningful interactions." (p. 153)、と3点にまとめていました。以上の結果から、Kimは議論を活発にするし、focus on formも可能にするので、文学教材は第二言語教育にとって良い教材であると結論付けたそうです。

最後は、文学とintercultural educationについてです。ここでは、文学教材によって学習者がアイデンティティーや感情などが「作り上げられたもの」であることを気づかせてくれるといった報告を行なった研究が紹介されていました。しかし、こういった実践に常に付きまとう不安としては、所定の実践が自分の中にある既存の枠組みや態度を懐疑するレベルまで至らず、むしろそういった態度を改めて肯定したり深めてしまわないかということがあると、Naidoo (1992)に言及しながら著者は指摘していました。

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2009年2月18日 (水)

S.ピンカー(1994/1995).『言語を生みだす本能(下)』を読む(椋田直子(訳),日本放送出版協会)

本書の詳細は次の通り。

ピンカー,S.(1995).『言語を生みだす本能(下)』(椋田直子(訳)).日本放送出版協会.(原著は1994年出版)

感想:引き続き下巻です。

8章:バベルの塔‐言語の系図

本章は比較言語学について紹介されていました。言語の系図を遡る研究の成果が紹介してあったり、一方で多様化した言語が消えつつあるという状況があるという指摘、があったりととてもスケールの大きな話が展開されていました。また、言語が多様化する理由などについても議論されていました。面白いと思ったところは、次の通りです。

1)著者が、英語の中に屈折言語的特徴、自由語順言語的特徴、能格言語的特徴、トピック顕在言語的特徴、SOV言語的特徴、分類言語的特徴、が指摘されていた点(pp. 20-22

2)複数の言語が存在する理由として、①学習(遺伝子に六万もの単語を格納したりすることは困難だし、新しい語彙も次々と増えるということと、「文法をそっくり生得のものにして、他人と共有できなくなる危険をおかすより、言語の変化しうる部分を学習する能力を子どもに与えて、自分の文法を共同体のそれと同調させるチャンスとするほうを進化は選んだのかもしれない。」ということ(p. 26))、②言語そのものに変化の源があること(異分析(an orangeの例など(p. 27))、vfに見る音韻の分化(p. 28)、音韻の変化が引き起こす語形態ルールの再分析(goose-geeseの例など(p. 29))、「一つの単語に語形変化のルールが適用されて、変化形ができたのを再解析し、その二つを特別な単語扱いするようになる場合」((brotherbrethrenなど(p. 29)、「ある単語がべつのある単語とつながることが多く、のちにうしろの単語が磨耗すると、またべつの語形態ルールができる場合」(did-edになったかもしれないこと(p. 30))、「単に好ましいとされていた語順が再解析されて強制的になり、新しい構文が生まれる場合」(SVOO構文や完了構文(p. 30)))、③話しての集団の分断(p. 31)、が挙げられていました。

3)標準アメリカ方言を持ち込んだのは、英国南東部出身の、邸中流階層であり、18世紀にはアメリカでアメリカなまりが形成されていたそうです。また、アメリカ南部の発音はアルスターから移住したスコットランド人の影響が大きいそうです(p. 31)。

4)「移住に加えて、交通手段が進歩し、識字率が高まり、マスコミまで登場したために、現代のアメリカ英語は、世界の同程度の広さの地域に見られる言語よりはるかに均質である。この均質化の過程を「バベルの逆行」という。」(p. 32

5)「いわゆる「アメリカニズム」のなかには、英国から渡ってきたものが多い。その後、英国では消えてしまっただけなのだ。たとえば、過去分詞のgottenpath(小道)やbath(風呂)のaの発音(口の奥で発音する「ah」ではなく、口の前方で発音する「a」)、fallが秋(autumn)を、sickが病気であること(ill)を意味するなどの語法、等々を英国人は、いかにもアメリカ的と受け取るが、じつは、アメリカが殖民された当時の英国で使われていた英語の名残である。」(p. 32

6)ノルマンディー公ウィリアムがブリテンを制圧した際にもたらされたノルマン方言の名残の特徴が挙げられていました。「この種の「ラテン語に由来する」単語は、統語工の制約が大きい。」(give vs. donateなど、p. 34)、「多音節語が多く、第二音節にアクセントがある」(p. 34)、「electric – electricityのように、英語の語形態や綴りを独特なものにしている音変化の多くは、ラテン語に由来する単語がひきおこした」(p. 34)、「使いすぎると文章が堅苦しくなる」(p. 34

7)中世の最終音節の変化が引き起こした英語の構造変化の説明。「中英語の時代になると最終音節が、現代英語の発音を例にとればallowの「a」のように、アクセントのない曖昧母音(シュワー)になり、さらに、大半がまったく発音されなくなった。最終音節は格標識を含んでいたので、最終音節が消えるとともに、明瞭な格標識も消え、その結果生じる二義牲を解消するために、語順が固定されるようになった。同じく発音変化が原因で、前置詞のofや助動詞のdowillhaveが固有の意味を失い、かわりに文法的に重要な役割を担うようになった。つまり、現代英語の、統語上の特徴の多くは、ある一つの発音変化がおきたことからつぎつぎに効果が波及した結果、生じたものである。」(p. 35

8)大母音推移の説明が分かりやすかったです(pp. 35-36.

9)ジョーゼフ・グリーンバーグの比較言語研究は「似ているという直感的な感覚に頼っている」(p. 43)という問題がある。

10)言語の再構築という試みにおいて、祖祖語であるノストラティックや更には祖祖祖語なども考案され、中には世界祖語を構築しようという研究もあるそうです(著者自身はノストラティックぐらいのレベルであればいいが、それ以上の試みについては懐疑的です)。(pp. 36-48

11)「生殖腺と脳はいずれも人体の一部だから、からだが移動すれば、遺伝子と文法も一緒に移動する」(p. 47)ため、「言語の系図と遺伝子に基づく分類が相似している」(p. 46)といっても別に驚くことではないという指摘(pp. 46-48)。

12)「言語学者の大方は、一万年が言語の痕跡が残る限度だと考えている。いまあるすべての言語の祖語の痕跡を発見するとか、その祖語が、二〇万年以前に登場したヒトの言語の痕跡をとどめているとかいうことは、とうていありそうにない。」(p. 48

9章:しゃべりながら生まれた赤ちゃん、天国を語る‐母語を習得するプロセス

この章は、タイトルにある通り、第一言語習得についてです。面白いと思ったところを挙げていきます。

1)「赤ん坊が音節を生の音として聞いているのではなく、音声知覚という六番目の感覚を働かせていることもわかった」(p. 55

2)「母親の話す言葉の抑揚は、からだを伝わって子宮にも届いている。これを赤ん坊が聞いていることも、実験で確かめられた。」(p. 56

3)「フランスの赤ん坊は胎内で、あるいは生まれて数日のうつに、フランス語の韻律(抑揚、強弱、タイミングなど)をある程度覚えるのである」(p. 56

4)音素の区別(生後6ヶ月頃)などから機能語の登場(3歳頃)までの言語発達プロセスのまとめ(pp. 57-71

5)音声分析モジュールは、タントや文法を覚えていくシステムと外界をつなぐインターフェイスとして機能することになる(p. 57

6)第一言語習得の過程で、子どもは動詞の不規則形や使役動詞ルールなどの適用範囲を拡大解釈した誤りを犯す。(pp. 72-74

7)子どもが文法を身につけることができるのは、子どもらが洞察力が鋭いであるとか、母親語の働き(ある社会では母親が子共に話しかけない文化もあるため)によるとかいった理由によるのではない。(pp. 75-78

8)「子どもは、概して保守的に行動するように設計されていて然るべきだろう。親の言葉と矛盾しない仮説から出発し、新しい証拠が手に入るにつれて、仮説を拡張していくのである。」(pp. 83-84

9)子どもは句に注目して言語習得を行なう。その際、「親の言葉も句構造の基本的設定に則っているだろう、という前提をたてるかもしれない。・・・第二に、親の発話する分の意味は、文脈から推測できる場合が多いから、意味が、句構造を正しく組み立てる手がかりになる」(p. 88

10)「Xバー理論は生得のものだと考えられる」(p. 88

11)「句の少数のタイプのみを見つけ出すようにできているからこそ、子どもは自動的に、無限個の文を作り出す能力を獲得する」(pp. 90-91

12)子どもがしゃべりながら生まれてこない理由。「赤ん坊は、発声器官をうまく動かすために自分の声を聞く必要があり、言語共同体に共通の音素、単語、句順を知るために年長者の話すのを聞く必要がある。文の獲得は言語の獲得に、単語の獲得は音素の獲得に依存するから、言語発達は順序を踏んで進行する。」(p. 92

13)「おそらく、喃語、単語発達、文法獲得などの言語発達段階がうまく機能するためには、脳の大きさ、遠距離伝達をするための神経繊維、および、シナプスの追加分などについて、最低限の必要量が決まっているものと思われる。」(p. 93

14)「六歳までは確実に言語が獲得できるが、それ以後は確実性が徐々に薄れ、思春期を過ぎると完璧にマスターする例はごくまれになる。学齢に達することから脳の代謝活動やニューロンの数が衰退するとか、代謝活動やシナプスの数が思春期前後に最低レベルに達して以後横ばいになるといった成熟に伴う変化が、原因として考えられる。」(p. 98

15)臨界期が存在するのは生命上矛盾しているように見えるが、必要に応じて様々な装置が作り出される必要があるということを考えれば、それほど不可解なことではないようだ(p. 99

16)ウィリアムとメダウォーの生物学の理論「すべての条件が平等だとすれば、若い人間のほうが年配の人間よりも生きのびる確率が高い。かくして、老いた生命体を犠牲にしても若い生命体を強めるような遺伝子は、自然淘汰を生きのびる可能性が高く、進化の過程で蓄積されて、自己補給、自己修復するはずの体系にも老化現象が訪れる」(p. 102

10章:言語器官と文法遺伝子‐脳のなかにさぐる

この章では、神経言語学的な議論が整理されていました。面白いと思ったのは、以下の箇所です。

1)手話であろうが普通の言語であろうが、言語は左半球に制御されているというベルージの発見(p. 110

2)「からだが左右対称になっていることの利点は、対称性に無頓着な外界を知覚し、そうした外界のなかで動くことと関連しているに違いない。外界と直接に相互関係を持たない器官については、左右対称の設計図が捨てられるからであす。心臓、肝臓、胃などの臓器がいい例だ。外界の事物の配置に関係のないこうした内臓器は、対称系からはほど遠い。脳中の微少な回路にも、規模が小さいながら同じことがいえる。」(p. 114)だから、手足などは左右対称になっている。

3)言語を処理する部位が左右対称になっていない理由として、神経組織が一定量しかないということを考えると、「対称性にこだわって左右の脳に半分ずつ置き、ノイズが多くて時間のかかる伝達経路を経由するよりも、一ヵ所にまとめておくほうが筋が通る」(p. 115)。というのは、外界の出来事は左右どちらで起こるか分からないし、時間軸に沿って広がる情報をも処理しなければならないからである。「人間の言語制御部位が脳の片側に偏しているのも、言語が周囲の空間ではなく、時間に同調するものだからかもしれない。単語は時間軸に沿って順序よく並べなければならないが、さまざまな方向を目指す必要はない」(p. 115

4)「左脳のシルヴィウス裂溝隣接部位が、言語器官と考えられる」(p. 117

5)「ブローカ野は、顎。唇、舌の運動を制御する部位と隣接しているので、以前は、発語に関与すると考えられていた(といっても、ブローカ失語症は漢字や手話にも影響が及ぶから、発語だけに関与するはずはない)。しかし、この部位は文法処理一般に関与するように見える。」(p. 118

6)ブローカ野=文法器官と考えることはできない。これまでのデータを総合すると「ブローカ野の役割は腹がたつほど不明瞭なのだ。大脳基底核を経由し、抽象的な推論屋知識を支える前頭葉前部と連絡をとりながら、心的言語のメッセージを文法構造に、文法構造を心的言語のメッセージに変換している、と考えてもいいかもしれない」。(pp. 120-121

7)ウェルニッケ失語症の症状:全体として意味をなさない発話を流暢に行なう、新造語を多用する、単語の置き換えをする、物を名指すのに苦労する(関連のある物の名をいったり、本来の名の発音を取り違える)、周囲の話し言葉を理解する様子がない、耳で聞いた文が繰り返せない(ウェルニッケやとブローカ野のつながりが損傷を受けた場合)、耳から聞いた文を全く理解しないまま完璧に繰り返が自分からはほとんど発話しない(ブローカ野、ウェルニッケ野、両者のつながりは正常だが、これらがそれ以外の大脳皮質から切り離されている場合)

8)「かつては、ウェルニッケ野は言語理解に関与すると考えられていた。しかし、それでは、このタイプの患者の発語が異常に感じられることの説明がつかない。ウェルニッケ野は、心的辞書から単語を探し出して、ブローカ野など、統語ルールに則って単語を組み立てたり文を理解したりする部位に送り出しているのかもしれない。ウェルニッケ失語症の患者の発語が奇妙に聞こえるのは、通常ならウェルニッケ野から送られてくるはずの単語が届かず、いいたい文や単語がないままに、ブローカ野が空疎な句を吐き出しつづけているからかもしれない。しかし、正直にいうと、ブローカ野やウェルニッケ野がどんな役割を担っているのかは、誰にも正確にわかっていない。」(pp. 122-123

9)ウェルニッケ野と、それに隣接する周縁上方回と角回が損傷を受けると、名称失語症という症状が発症することがある。(p. 123)「名称失語症患者の場合、動詞はあまり苦労せずに使えるようだ。ブローカ失語症患者は逆に動詞に苦労するが、それは、動詞のほうが統語ルールと密接に関係しているからかもしれない。」(p. 124

10)「シルヴィウス裂溝周辺の、言語に関与する下位器官の構造は大ざっぱにいうと、つぎのようになる。裂溝前方(ブローカ野を含む)が文法処理に、裂溝後方(ウェルニッケ野、および、三葉連結部位を含む)が単語(とくに、名詞)の音、および、意味の一部局面に関与する。さらにズームインして、これらの部位のある部分が、言語にかかわる特定の作業に関与すると確認することは可能だろうか。答はイエスでもノーでもある。」(p. 125

11)「赤ん坊の脳回路では、ある群のすべてのニューロンから、べつの群のすべてのニューロンに矢印が伸びていると考えられる。つまり、赤ん坊は生まれつき、たとえば、人称、数、時制、相などの接尾辞と、それらの組み合わせに対応する不規則動詞があることを「予期」しているが、自分の母語でどの組み合わせ、どの接尾辞、どの不規則形が使われるかはわかっていない、と考えられる。どれが使えるかを習得することは、矢印の先のシナプスのいずれか…を強化し、それ以外を衰退させていくことに相当する」(pp. 134-135

12)文法遺伝子の正体:「ある種のDNA鎖が、特定のタンパク質の遺伝暗号を持つか、または、発達の特定の段階で脳の特定の部位においてタンパク質形成遺伝子の転写を作動する。こうしてできたタンパク質がニューロンを導き、惹きつけ、結合して回路を形成する。この回路が、学習によって強化されたシナプス群と組み合わされて、ある種の文法的課題(たとえば接辞や単語の選択)を演算によって解決するために必要な言語回路を形成する。この現象の出発点になったDNA鎖が文法遺伝子である。」(p. 137

13)「子どもは卵子と精子が結合することによって生まれるわけだが、その卵子と精子のなかに、言語能力に影響を及ぼすなにかが存在することまではわかっている。吃音症状、読書障害(頭のなかで、音節を音素に分割することに問題がある場合が多い)、特定言語障害(SLI)はいずれも、ある家系に集中して現れる。」(p. 138

14)言語に関わる遺伝子は、X染色体ではなく、常染色体上にあると考えられる。しかし、「遺伝子の働きがわかっているいま、単一の遺伝子が単一の機能に結びつかない」(p. 141)ということも同時に明らかになっている。「というわけで、いまのところは、複数の文法遺伝子が存在することを示唆する事実が見つかった、という段階にとどまっている。ここでいう文法遺伝子とは、文法のさまざまな部分を支える回路の発達に、もっとも特定的に影響を及ぼすと見られる遺伝子群、という意味である。この存在すると推定される遺伝子群が、染色体上のどこに座を占めるかはまったくわからないし、脳の構造にどんな影響を持つのかもわかっていない。」(p. 142

15)遺伝子にも個体差がある。しかし、「遺伝学者のいう差異は、微少な単位での差異である。タンパク質の分子配列がわずかに異なっても、全体としての形や機能は基本的に同一で、差異の程度は自然淘汰によって一定の範囲内にとどまっている。微少な差異があるには理由がある。寄生体は宿主の化学的環境に侵入するために、自らを微調整する。世代ごとに遺伝子をかき混ぜることによって生命体は、これまた急速に進化する寄生体の一歩先をいくことができるのだ。しかし、寄生体のミクロの視点では大きな差異であっても、解剖学者や心理学者がマクロの視点で見る差異は、わずかな量的違いに過ぎない。自然淘汰のおかげで、通常の人間はすべて、質的には同一なのだ。」(p. 144)「しかし、だからといって、個体差などはつまらない問題だということにはならない。」(p. 144)言語に関して言えば、「話の上手な人、駄じゃれ好き、口のうまい人、ウィットに富んだ人、多音節語を多用する人、言葉遊びの好きな人、おしゃべり、口をすべらしてばかりいる人、等々はそれぞれ、遺伝子が独特に組み合わされているに違いない(べつべつに育った一卵性双生児の場合は、こうした組み合わせが共通の特徴として現れる)。文を逆にしゃべれる人もこの仲間だろう。」(p. 147

11章:ビッグバン‐言語本能の進化

この章では、言語はダーウィンの言う自然淘汰によって進化してきたものであるということが主張されていました(つまり、ビッグバンのような突然変異によるものではないということ)。

1)「現代の進化理論では、生命体の複雑な体系は、遺伝子のランダムな突然変異のうち、個体の再生産に利する変異が何世代もかけて徐々に積み重なった結果として生じる、と考える。…ほかの複雑な本能や器官と同様に言語本能も、ダーウィンのいう自然淘汰が主として働いた結果だと考えても少しもさしつかえないのである。」(p. 153

2)言語は大脳皮質のシルヴィウス裂溝周辺に位置するのに対し、「霊長類の叫び声は、大脳皮質ではなく、系統発生的にはそれよりも古い神経構造である脳幹と大脳辺縁系(おもに情動に関与する)が制御している。」(p. 154

3)チンパンジーなどに言語を覚えさせようという試みがあるが、著者は全くナンセンスだと考えている。なぜなら、ホモサピエンスの直属の種(言語に近いものを持っていたかもしれないし、もっていなかったかもしれない)が既に絶滅しており、系統的にもっとも近いのがチンパンジーであるに過ぎないからだ。もし、猿や様々な他の哺乳類が生き残っていなかったら、人間は例えばヒトデに言語を覚えさせるのだろうか。

4)原言語能力がホモサピエンスの祖先に生じてから、普遍文法まで磨きがかかるのに35万世代あったと考えられる。「つまり、すでに絶滅した先祖に言語能力がなく、現存するもっとも近い親戚のチンパンジーが言語を持っていなくても、言語は徐々に進化するだけの時間があったのだ。中間的な言語能力を持つ生命体はたくさんあっただろうが、それらはすべて絶滅してしまった。」(p. 169

5)生物学における相似(「進化の木のべつべつの枝で発生する器官が機能を共通にすることをいう」(pp. 172-173)例えば、ハエの羽と鳥の羽の関係)と、相同(「機能が共通しているか否かに関係なく、共通の先祖を持ち、したがって「同じ」器官であることを示す共通の構造を持っている」(p. 173)こと)。「チンパンジーのなかのどれかが、本物の手話動作なりシンボルなりを覚え、一貫したやり方で順序良く並べて意味を伝え、自発的に文を発して出来事を描写したりするようになったとする。これで、人間の言語習得能力は、チンパンジーの人工記号システムを習得する能力から進化したことが証明された、といえるだろうか。いえない。カモメの羽根が蚊の羽根から進化したといえないのと同様である。」(p. 174

6)言語の進化に関しては、「霊長類の、それまでは音声伝達に関与していなかった脳回路が改造され、新しい回路がいくらか追加されたのではなかろうか。」(p. 176)遺伝子レベルで1%でも変化があれば、かなりの変化を脳にもたらすことができる。

7)「化石で残ったもっとも古いヒトの先祖は、アウストラロピテクス・アファレンシス(最初に発見されたのが、有名な「ルーシー」)で、四〇〇万年ほどまえに生存していたとされるが、このころにはすでに原言語らしきものが発生していたと思われる。」(p. 180

8)「自然淘汰は、「増殖」、「変異」、「遺伝」の三つの特質を備える、あらゆる個体集団に適用される。増殖とは、その個体が自らをコピーし、コピーもまた自らをコピーする能力を持つ、ということを意味する。変異とは、コピーが完璧ではなく、ときどき、エラーが生じることを意味する。この種のエラーによって、個体が自らをコピーする速度を他の個体より速くしたり、遅くしたりするような特徴が、個体に与えられることがある。遺伝とは、コピーのエラーによって生じた変異的特徴が、その後のコピーで再現され、固体に与えられた特徴がその個体の系統に定着するこを意味する。自然淘汰とは、他より優れた増殖を促進するような特徴は長い世代交代が続くなかで集団全体に広がりやすい、という数学的に当然の結果を意味する。その結果、その集団に属する個体は、効果的な増殖を目的として設計されたごとくに見える特徴を備えるようになる。この特徴には、周囲の環境からエネルギーや物質を採集する能力や、集めたものを競争相手から守る能力などの、効果的増殖の手段となる特徴も含まれる。これらの増殖する個体が「生命体」であり、自然淘汰の過程で個体が蓄積した、増殖を助ける特徴が「適応」である。」(pp. 184-185

9)「適応によって複雑な器官ができるという考え方は、複雑な器官の進化に概して時間がかかり、徐々にしか進行しないことの証明にもなる。一大変異や急速な変化が進化の法則に反するという意味ではない。ただ、複雑な装置を作るには、きゃしゃな部品を精密に配列する必要があり。ランダムな変化の積み重ねによってこの作業が進行するとしたら、個々の変化は小さいほうが賢明だ、ということである。時計職人が大ハンマーを使わず、外科医が肉切り包丁を使わないのと同じ理由で、複雑な器官もわずかな変化を一歩ずつ積み重ねて進化する。」(pp. 192-193)そして、「言語本能が適応による複雑さを備えていることは、本書のどの考察によっても裏付けられている。」(p. 193

10)言語の中間形態について(3つの課題):①言語が進化するためにはもう1人相手が必要であるが、その相手は誰で、どのように言語は進化したのか?「新変異した回路を持っていなくても、一般的知能を総動員すれば、変異者のいうことが部分的にせよ理解できたはずである。」(p. 197)、「文法変異人間が重要な区別ができるようになり、近所の人たちが首をひねってもおぼろげにしか推測できないとなると、それがプレッシャーとなって、彼らの体系も同様に変異し、無意識の自動的解剖によって重要な区別ができるようになっていくかもしれない。…努力と模索によって後天的に獲得した技能が、自然淘汰によって、脳の回路に組み込まれることもありうる。各世代で、聞き手が最善の形で理解できるような話し手と、話し手を最善の形で理解する聞き手が選ばれて、言語がわずかずつ進化したのかもしれない。」(p. 198)、②文法の中間段階はどんな状態か?「中間的な複雑さを持つ文法なら、容易に想像できる。シンボルの種類が少なく、ルールの信憑性が低く、あるモジュールに属するルールの数が少ない、等々。」(pp. 198-199)、③言語本能の中間段階は増殖を促進するものでなければならないが、そういった特質はあるのか「第一に、自然淘汰を生き延びるためには、問題の特徴にさほど大きな利点がある必要はない。進化には膨大な時がかかるのだから、わずかの利点があればいいのである。」(p. 200)、「第二に、現代の狩猟採集部族を手がかりとするなら、人間の先祖たちは、どのマストドンを避ければいいか、などの話題しか持たない穴居人ではなかったはずだ。狩猟採集部族はたくみに道具を作るし、生活を支える植物や動物については、それぞれの生活史から生態、行動様式まで詳細に知り尽くした優秀な博物学者でもある。そんな暮らしをする人々に、言語が役に立たなかったとは思えない。」(p. 200)、「また、時間、空間、対象物や、誰が誰になにをしたか、などを正確に伝えられるように設計された文法体系は、原始人にとっても有用だったはずである。」(p. 201)、「第三に、人間は協力し合って生き延びようとする。同盟関係を結んで情報を交換し、約束を交わし合う。この場合も、強力な文法体系が力を発揮する。」(p. 201

11)敵同士の軍拡競争は言語進化に貢献したと考えられる。「自分と同程度の心的能力を持ち、自分と利害がやや対立したり、自分に悪意を持ったりしている生命体を相手に回して、裏をかいたり、逆を読んだりするには、相当の認知能力が必要だし、もっと能力をという要求はエスカレートして止まないだろう。」(p. 202

12章:言語指南役たち-規範的ルールの誤り

この章では規範的ルールや、「正しい英語」を主張する人々が、その意図とは裏腹に言語的に間違った主張を行なってしまっているという現状が豊富な事例とともに解説してありました。

1)規範文法の起源:「言語指南役が登場したのは一八世紀のことだった。ロンドンが英国の政治経済の中心地になり、英国が強大な帝国の中心になった当時のことである。ロンドン方言がある日突然、重要な世界語になり、学者が言語に批判的な目を向けるようになる。学者というものは、宮廷や貴族(つまり権威)のしきたりを批判する意味もあって、芸術的、文化的慣習に批判の目を向けるが、言語もその対象になったのだ。当時はまだラテン語が、(広大な帝国の言語とはいわないまでも)啓蒙と学問の言語とみなされていたから、英語もラテン語のような精密さと論理性を目指すべきだと考えられた。この時代はまた、社会の流動性がそれまでになく高まった時代でもあった。そのなかで、教育のある文化人だと思われたければ、もっとも正しい英語を見につける必要がある。手引き書や文章読本の需要が生まれ、市場の論理に従って供給が始まった。英語文法をラテン語文法の鋳型にはめれば、ラテン語を勉強している学生にも約に立つ。供給が続いて競争が激しくなると、手引き書は少しでもたくさんのルールを掲載してライバルを出し抜こうとしはじめ、ルールの内容はどんどん細かくなっていった。しかし、教養人と思われるには、そんなルールでも無視するわけにいかない。現在の規範文法の化けものルールの大半(不定詞を分離するな、文を前置詞で終わらせるな、等々)は、一八世紀のこの風潮にさかのぼることができる。」(p. 210

2)英語とラテン語はそれぞれ言語のタイプが違っている。英語では単語は配列しなおすことが可能であるため、そもそも補文標識toと動詞の間に副詞を入れてはならない理由は存在しない。

3)「文を前置詞で終わらせてはいけないというルールにしても、ラテン語の格標識体系ではこれができない立派な理由があるが、格に乏しい英語にはその理由が通用しない。そんなルールに縛られる必要など少しもないだろう。」(p. 211

4)「規範的ルールは心理的にいかにも不自然なので、ある種の教育を受けた人しか守ろうという気になれない。したがって、規範的ルールはエリートをその他大勢から選別する「シボレース(ためし言葉)」の役を果たしているのかもしれない。」(p. 212

5)アメリカでも規範文法が強固に作用し(エリートでありたいという気持ち)、実際に話されていたいわゆる「アメリカ語」は政治の標準語とはならずに、教育のカリキュラムからも外され、非文法的で洗練されていないしゃべり方という烙印をおされてしまった。

6)規範文法の「二重否定の禁止」というルールをよく見てみると、結局は標準語がanyを選択し、非標準後がnoを選択したという程度の違いに過ぎず(I didn’t bought any / no tickets)、実際に大差はない。それに、標準英語で二重否定を使ったとしても、それは否定の否定(つまり肯定)になるわけでもない(つまり、二重否定はそれなりに言語において重要な役割を果たしているということを言語指南役は見落としている)。

7I could care lessという表現(「知っちゃいないよ」)という表現はおかしいと指南役は述べるが、抑揚や強勢が特徴的であり、皮肉の意味が込められるなど、やはり言語の中で重要な役割を果たしていることを、言語指南役は見落としている(彼らは抑揚や強勢には注意を払わないし、他の正しい表現(I couldn’t care lessなど)を使うべきだと主張している)。

8everyoneなどの語を代名詞で受ける場合、言語指南役はtheyなどではなくheを使うように主張する。しかし、こういった場合、theyは複数を意味しているわけではなく、変項の役割をしている。したがって、数の一致なども必要ないのだが、言語指南役はこの点を見落としている。

9)言語指南役は、英語の話し手が名詞を無造作に動詞化する傾向があると指摘してきたが、「じつは、名詞が動詞化しやすいことは、何百年もまえから英語文法の特徴になってきた。英語を英語にするプロセスの一つなのだ。私の推定では、英語の動詞の約五分の一は元来は名詞だった。」ということを見落としている。言語指南役は、話し手が名詞と動詞の区別をなくしてしまうことを危惧しているのだが、「フライでアウトになる(to fly out)」が名詞「フライ(fly)」に由来していることを知っているが故に、話し手はflew outのような不規則変化をさせずに、fliedと規則変化をさせている(「不規則変化のルールは動詞語根にしか適用されないから、野球英語のto flyは不規則変化できない」(p. 220))。「このことから見て、話し手が名詞を動詞化すると、心的辞書はそれまでより複雑になると思われる。名詞と動詞の区別がなくなるどころか、動詞と名詞に加えて名詞に基づく動詞という範疇があり、心的辞書にはそれぞれ別個の標識がついて格納されるのである。」(p. 220)「名詞起源の動詞が特別扱いされるという現象でもっとも驚異的なのは、誰もが無意識にこの扱い方を守っているということである。これも第Ⅴ章で見たように、動詞のもとになる名詞が、たとえば人名などで、既存の不規則動詞と同じ形をしているときでさえ、新しい同士は不規則活用をしない。」(p. 220

10hopefullyという表現(Hopefully, the treaty will pass.)という語は重大な間違いを犯している(文副詞として使うのは間違いだという主張)と言語指南役は述べるが、彼らは、(1)英語の副詞には二種類(動作主が動作をするやり方を表現するものに加えて、文副詞)あることを見落としている(hopefullyの文副詞の用法はOEDによると1930年には登場している)、(2)彼らが示す代案はあまり優れたものではない、(3)彼らが示した代案はhopefullyと同義のものではない、(4)彼らが動詞句副詞として示している「正しい」hopefullyの用法は著者にとっては英語とはとても思えない代物である、と述べられていました。

11)言語指南役を4つのタイプ(言語ウォッチャー、エレミア、エンターテナー、賢人)に分類していました。

12whomの代わりにwhoを使うことを言語指南役たちは批判するが、この使い分けは古い英語の格体系の名残に過ぎず、名詞については何百年も前に消滅し、he/himのような代名詞にしか残っていない(代名詞の中でも主格yeと目的格youの区別は既に消滅しており、youが両方の格を担うになった)。ye自体は完全に過去の産物となっているが、whomyeより長生きしたというだけに過ぎず、消滅すべき運命にある。仮にwhomを使ったとしても、気取って聞こえるだけである。話し言葉ではwhoしか使わなくなっているのだから、whomに固執する必要性はほとんどない。

13)言語指南役はbetween you and Iは間違いであり、between you and meと言うべきだと主張するが、この主張もおかしい。彼らは、「接続詞句が全体として主格などの文法的特徴を備えている場合、句のなかのすべての単語も、その文法的特徴を備える、という前提」(p. 236)に立っているが、これは間違っている。接続詞は主要部のない構造の1つであるため、内部の代名詞の数と接続詞句全体の数が一致しなければならない理由は存在しない。「Me and Jenniferが主格を要求する主語だとしても、Meが主格を要求する主語であるということにはならない。同様に、Al Gore and Iが目的格を要求する目的語だとしても、Iが目的格を要求する目的語だとはかぎらない。文法論理から考えるかぎり、代名詞はどんな格をとってもいいのである。」(p. 237

14)言語指南役はpick-pocketという表現は間違いだと主張し、pocket-pickingと言うべきだと主張するが、それも間違っている。確かに予想に反して、pick-pocketはポケットの一種ではなく、人間の一種を意味する。しかし、この複合語にも主要部はないし(つまりpocketの素性をpick-pocket全体が受け継ぐ必要はない)、類似した複合語はたくさんあるということを彼らは見落としている。

15)言語指南役はevolvedは形容詞に変化された動詞であると主張するが、この主張も間違っている。言語指南役はinvolvedなどを引き合いに出し、話し手は韻を踏む別の単語につられて語を変化させていると思っているようであるが、人間の言語操作はそんないい加減なものではない。しかし、evolvedは能動態からの派生によって生じたものではなく、動詞から形容詞への変換の結果である。事実、「動詞が能動態から受動態に変換されても、動詞の意味はそのまま維持される。…しかし、動詞が形容詞に変化されると、形容詞は独特のニュアンスを持つことが多い。」(p. 245

16)言語指南役には共通した弱点がある。それらは、話しての言語力を過小評価しすぎるということと、言語を対象とする現代科学の成果に対して全く無知であるという点である。

17)著者の提案する慣用法への対処:「私が提案するのは簡単なことだ。言語と、私たちが言語をどう使っているかについて、もっと冷静に議論し、手に入るかぎり最善の科学的知識をもって、根拠のない民間伝承に代えようではないか、ということである。発言の真の発生源、すなわち人間の精神の精緻さを過小評価しないことが、なにより大事である。」(p. 249

18)規範的ルールの多くは無意味なものであり、用語の手引き書からは排除されるべきである。また、地方方言や黒人口語などを「非標準的」という意味で「ひどい文法」とにますのは倫理に反するばかりでなく、非科学的である。(p. 250

19)現在の言語の使い方について変える価値があるとすれば、それは口語などではなく、書き言葉の文体である。私たちはもっと明快な文章を書くことが必要である。

13章:心の構図

著者はこれまでの章で、言語本能が存在すると主張できるための証拠を様々に挙げてきました。しかし、最終章であるこの章では、なぜ本能といったものに目を向ける必要があるのかということが議論されていました。著者は、言語というトピックから少し離れて、知覚という観点から、なぜ私たちは本能といった側面に注目する必要があるのかを説明していました。そこで著者は、社会科学標準モデルと生物学的決定論という二つの考え方を共に不適切なものとして退けます。そして、進化心理学などの議論を援用しながら、一般的汎用学習装置という考えに触れます。我々は類似性に着目し、それを一般化することで様々な学習を行なっています。そして、このときの類似性の感覚は生得であると考えざるをえないと著者は述べていました。「多数の特性域があり、それぞれを定義する個別の本能なりモジュールなりがあるに違いない。こうしたモジュールがあるからこそ、物理的世界、生物世界、社会的世界などの知識領域で、正しく一般化ができる。」(p. 277)「生得の類似域設定能力は学習の論理と分かちがたく結びついている。」(p. 277)著者は、言語や知覚以外にもどんなモジュールがあると考えられるかを予想し、そのリストを挙げていました(pp. 279-281)。そして、著者はそのリストの中から民間生物学モジュールを取り上げ、それが生得のもの、つまり本能のものであるということを説明していました。生物学はそのモジュールの上に乗っかったものとして存在していると著者は指摘しています。そして、著者は次のように述べます。「生物学どころか、すべての科学と数学も、数、力学、心的地図、正義などの生得の心的モジュールがもたらす直観に突き動かされているのではなかろうか。物理的類推(熱は液体、電子は粒子になぞらえられる)、視覚的比喩(一次〔線形〕関数、方形のマトリックス)、社会学や法学の用語(魅力/引力、法則に則る)などは科学のあらゆる分野で使われている。もう一つだけ思いつきをいわせてもらえば(本当は、これだけで本が一冊書けるのだが)、人間の「文化的」慣習(競技、物語文学、景観デザイン、バレエ、等々)の大半は、いかに恣意的にできたように見えたとしても、特定の適応機能を目的として設計された心的モジュールのあれこれを使ったり刺激したりするために、人間が発明した巧妙なテクノロジーといえるのではないか。私はそうにらんでいる。」(pp. 288-289)また、生得の共通性と生得の差異が混同されるという問題点を指摘していました。両者の関係について著者は次のように述べています。「たしかに、個体間の遺伝的差異はかなり大きい。生化学的に見れば、まったく同一の人間は二人といない。しかし、自然淘汰はそうした差異を利用するプロセスである。分子の、同一の機能を持つ異体をべつにすれば、自然淘汰はある種の異体を使いつくすことによって適応性のある設計を作り上げる。…心的モジュールが自然淘汰を通じて複雑な構造を持つにいたったと考えるかぎり、遺伝的差異は、基本設計の差異ではなく、量的差異に限定されるだろう。」(p. 292

最後に著者は、世界の様々な人の言語使用の根底に同じ心、共通の心の構図を感じずにはいられないということを述べて本書を終えていました。後は用語解説と、訳者あとがき、原口庄輔先生による解説でした。時間はかなりかかってしまいましたが、とても面白い本でした。しかし、読みきるのにはなかなか根気が必要でした。

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2009年2月17日 (火)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第4章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Language in literature. Stylistics, including corpus linguistics.  Readability studies

感想:この章も私にとってはかなりなじみ深い話題が多くて面白かったです。まず、異化作用について、van PeerやMiall and Kuiken などの研究成果がまとめられていました。van Peerの研究については、(1)読者のレベルにかかわらず気づかれるnoticeable featuresが存在すること、(2)読者間の違いはテクストの何に気づくかということよりも解釈のレベルで現れること、が指摘されていました。Miallの研究については、(1)"literary reading takes place under certain constraints, but is not 'determined' or fully predictable from any purely textual linguistic analysis."、(2)"longer reading times for foregrounded segments (suggesting more careful processing) and greater strikingness ratings and greater affect raitings."、(3)"feelings and thought develop through defamilialisation"、"more experienced readers more successful at integrating them into a coherent or satisfying model of the meaning of the text."(いずれもp. 133)、という点が挙げられていました。しかし、著者は更に、"we might wish to argue that they are detemined by larger social and cultural foces rather than somehow innate or natural responses of a human organism" (p. 133)と述べており、やはりディスコースという視点を重視していました。

次はコーパス言語学についてです。まず、Biberの研究におけるdimensionsという考え方が紹介されていました(involved vs. informational、narrativity、explicit vs. situation dependent reference、overt expressions of persuation、abstract vs. non-abstract persuation)。そして、Partingtonの研究成果が紹介されていました。(1)スポーツのジャーナリズムはスポーツを魔法やおとぎ話という観点から報告する、(2)スポーツと芸術は共に<ENTERTAINMENT IS MAGIC>というroot metaphorを共有している、(3)ビジネスに関するテクストではupは多くの場合はmoreを意味するが"up is bad"というように使われることもある、(4)ビジネスの言語ではsoft / hardという対立がある、(5)ビジネスの言語では人称代名詞の頻度が少ない、という点が紹介してありました。また、Louwの研究を取り上げ、コーパスを使ってpoetic divianceについて考えさせるという指導法も紹介してありました。Louwの考えの背後には、"The argument is that native speaker intuitions can be checked against the corpus, and second language speakers can be compensated for the lack of this native speaker intuition in investigating deviance." (p. 137)という思惑があるそうです。

最後はリーダビリティー研究についてです。一般にテクストの難しさは語彙の難しさに大きく影響を受けると言われているそうです(しかし、語彙の難しさということ自体まだあまり研究されていません)。また、simplificationをテクストに施すことでテクストが余計に難しくなってしまうという場合もあるということも承知しておく必要があります。また、ここでは、多読活動などで最近新たな注目を浴び始めているgraded readerに関する研究も紹介してありました。これらの研究によると、上級学習者であっても、graded readerからauthentic textへの移行は難しいということが明らかにされているとのことでした。

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2009年2月12日 (木)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第3章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Reading literature

感想:この章は、私の専門に最も関わるところでしたので、私個人としてはほとんど知っていることでした。しかし、文学読解プロセスの調査の研究などにあまりなじみのない人にとってはかなり豊富な情報量が含まれていると思われます。

著者は最初に読者反応理論の研究をレビューします。その先駆けとしてI. A. Richardsが挙げてあり、"In short, what Richards' experiment revealed, though he seems reluctant to fully accept the finding, is that meaning is context-dependent" (p. 87)と指摘していました。その後、読者反応批評でテクスト寄りの議論をしたIserと、コンテクスト寄りの議論をしたFishが紹介してありました。その他、RosenblattとCullerも紹介していました。しかし、多くの研究はideal readerあるいはsuper-readerであり、実際のreal readerの研究ではなかったと著者は指摘しています。著者曰く、理想の読者とは、"To be a successful reader in the academy, it was argued, was to learn to read as a straight white male, at the cost of didelity to one's actual experience of life; 'immasculation' is Fetterley's feminist (1978) term.  Claims to objective, impersonal or universal responses to literature to which the student should aspire came to be seen as increasingly suspicious." (p. 95)と議論されていました。このような状況にあって、私たちは実際の読者を研究する必要があると著者は指摘します。

次に第1言語での文学読解の実証研究が紹介されていました。この節は、文学の経験的研究の研究成果に多く負っていました。ここではその研究成果が色々と紹介してあります(例えば、文学においては推論は重要だが、それはテクストを読み終わるまでその生成が遅れることが多い、といった点など)。エキスパートと初心者の文学読解の違いを調べた研究は教育への示唆が期待できること、情意的な側面は作品を評価する際に避けては通れないこと、教育研究はmoral、personal、social growth的な側面、認知処理的な側面、言語的な側面(語彙の拡張や多読など。しかし、ほとんど何も明らかになっていないそうです)において文学の価値を模索してきたこと、などが紹介してありました。

最後は第2言語における文学読解に実証的な研究が整理してありました。そもそもこの分野は研究が非常に少ないのですが、著者は面白い研究を色々と取り上げていました。まず、著者はBernhardt (1995)の言葉を借りて、これまでの研究の中心は読解であり、読者ではなかったということを明言します。著者の主張としては、読者の研究こそが重要ということになります。ここで述べられていた重要な事柄としては、(1)学習者は文学の外国語学習における有用性を見出しにくいため、教師がしっかりと説明してやる必要があること、(2)文学読解において文化的側面の知識の方が言語的側面の知識よりも重要になることがあること、(3)文学は確かに読むのが難しいが、そのことを原因にして教室から遠ざけるのは間違っており、むしろ様々な視点や価値観を指導できるということを重視しなければならないこと(学習者は自分の価値観を正当化するものを読みたがる傾向があるそうです)、(4)ただし、教師が気をつけないと、多文化を扱っても無理解に終ったり、不快感が残ってしまうことがあること、といった点が面白かったです。同時に、反応重視の指導はあまりアカデミックではない学習者のための指導法である、そのテクストのジャンルを知っていればそのテクストを読むことができる、といった偏見にも立ち向かっていく必要があるということを著者は指摘していました(p. 122)。

しかし、この章で著者が最も言いたかったことは、次の事柄だと私は理解しました。"One overall conclusion from this review must be that the field has been dominated by psychology research and educational fileld studies.  What is conspicuously lacking is an approach to literature as discourse, or literature as a social practice, from an applied linguistic point of view, which would ask what learners of literature learn through the discourses in which they participate, and whether these discourses could be developed more in the favour of and interests of the learners." やはり、著者は文化的なアプローチを信条のしているようです。

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2009年2月 5日 (木)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第2章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Literature in education

感想:著者は文学テクストの言語学習における言語的な利点として、その言語の幅と創造的な方略を挙げています。その他、著者はEnglishを教える理由としてpersonal growth view、cross-curricular view、adult needs view、cultural heritate view、cultural analysis viewを紹介していますが、この章ではそれらの内、1・4・5番目のものに特に着目するようです。

著者はまず、文学教育のカリキュラムについて歴史的なレビューを行なっています。著者の先行研究のレビューによると英文学と呼ばれる学問は19世紀にインドやその他の植民地で確立され、女性や労働者階級の男性のための役に立つ読書または学習の場として機能したそうです。それは、イギリスで英文学が学問として制度化される前の話だというからとても興味深いです。イギリスでは、19世紀にキャノンという考えが成立しました。英国での英文学学習の確立について著者は次のようにまとめています。"Certainly, with a growing nationalist pride in the vernacular through the eighteenth century, along with the spectacular expansion of the British Empire, it became more respectable for gentlemen to study English, as in other European nationalistic contexts through the nineteenth century (Doyle 1989)" (p. 44)この動きを率先したのはキリスト教(教会)だったそうです。徐々に労働者階級の人々や女性へと広まっていきました。そして20世紀初頭には、女性の学習者が増えていったそうです。また、修辞学が衰退した後は、Englishの学位の言語の部分は古英語のフィロロジー研究に取って変わられ、現在の言語学と文学の対立の始まりを生み出したと述べられていました。さて、学問としての英文学の故郷の1つであるインドでは、1835年(オックスフォード大学で英文学が制度化される60年も前の話です!)に英文学は英語とイギリスの価値観を同時に教えるのによいと認識されるようになったそうです。そして、英語というものは東洋における他者に反するものという形で構築されるに至りました。Pennycookは、英語教育とは大英帝国における産物として捉える必要があると指摘しています(p. 46)

次に、第2言語教育における文学の役割についてまとめられていました。文学は活動の源となる教材としてみなされることが多いのですが、その認識では不十分であるというのが著者の主張のようです。著者は第2言語教育における文学の価値として、affective arguments、cultural arguments、psycholinguistic arguments、を紹介し、より具体的には、expands vocabulary、aids language acquisition in unspecified but general ways、'gives feel for' the language、develops more fluent reading skills、promotes interpretative and inferential skills、contributes to cultural and inter-cultural understanding、literary texts are supposedly particularly linguistically memorable、literature is claimed to be pleasurable、といったことが主張されてきたと述べています(p. 48)。近代の外国語教育及び文学教育はギリシャ語やラテン語などの教育がモデルとなっていると著者は指摘します。しかし、1980年代にCLTが始まると、文学は関係ないもの、またはせいぜい有用なリソース程度の役割しか考えられなくなったそうです。著者はここで、伝統的なアプローチ、コミュニカティブ・アプローチ、「文化」または「ディスコース」という考えを中心に据えたアプローチ、をそれぞれまとめていました。

伝統的なアプローチについては、著者は次のようにまとめています。"deriving heavily from nineteenth-century notions of the canon and a moral agenda for literature, with at best a little New Criticism or elementary sentence-based stylistics thrown in, but with linguistic dimensions opften neglected or assumed.  Typically found in 'foreign language' and higher academic contexts ('humanism')" (p. 49)。"Curricula seem largely intuitive or are justified purely on grounds of tradition with little concern of regard for educational research- or even the expressed desire of students and other stakeholders for a vocationally relevant education. ... The origines lie in the nineteenth-century UK and colonial histories" (p. 50)このアプローチの中では、作者の考えが好きだとか作者に賛成するといった意見は軽視されました。

次はコミュニカティブ・アプローチです。このアプローチは伝統的なアプローチに対して、文学の学習は全ての学習者にとって必ずしも面白く有意義なものではない、という批判を挙げます。また、伝統的なアプローチのシラバスは技能や能力の発達といった点について何も考慮していません(せいぜい特定の習得知識を挙げているだけ)。更に、文学の学習と言語習得や言語技能との関係についても何も述べていません。一般に、文学を使った英語教育は伝統的な考えから反応のようなhumanisticな考えを経て、現在の他言語ないし多エスニティー共同体における言語使用者の文化ないしアイデンティティーを扱うアプローチへと変化してきているようです(アメリカのModern Language JournalやイギリスのELT Journalではそのように変化してきているそうです)。著者はKramsch and Kramsch (2000)の研究に基づきながら、アメリカでの文学の扱いの変遷を整理していました。

1. Until roughly 1914, a traditional view of literature as the purpose and center of language teaching prevails

2. From about 1918 to 1929: literature as a source of reading potentially accessibloe to all literate Americans

3. From 1929 to 1945, literature increasingly irrelevant, at best a luxury supplementary material for the more advanced students

4. From 1939-1945, literature is offered as a sorece of solace in a troubled world

5. Roughly 1945 to 1957, sees a view of literature developing as 'content and entertainment'

6. A significant reduction in the number of articles even mentioning literature in The Modern Language Journal during the 1950s

7. A more 'Humanistic' phase from 1957 to 1979

8. From 1979 until the end of twentieth century literature comes to be valued in the context of the rise of communicative language teaching, as 'authentic text'

9. 'Literariness', linguistic creativity, play and metaphor in language use, a broad area where literature and language study most obviously come together

という形で発達してきたそうです(pp. 53-54)。イギリスも同様で1950年代は伝統的なアプローチ、1980年代からはコミュニカティブ・アプローチが登場して、"humanistic value of reading" (p. 55)や"reader response"がキーワードとなり、1990年代は「文化」という語がキーワードとなっているそうです。

最後は文化理論などに言及した現在盛んになされているアプローチについてです。humanistic approachはCLTの中で重要な働きをしてきたと提唱者らは主張してきました。それは、"taking the humanistic line, advocates the use of literature because it is intrinsically motivating to talk about death, life, love and the like, larger themes which otherwise escape (purportedly) 'communicative' syllabuses, preocupied, as they tend to be, with timetables, tourism and other exchanges and transations." (p. 57)しかしながら、そういったアプローチには重大な欠点があったと著者は指摘します。"The final failing of the humanistic approach to clt may have been a tendency to move too swiftly to content and response with insufficient attention to the discourses which enable this move - the language in short!" (p. 57)。そういった中で、現在の社会文化理論は次のような考えを示してきているそうです。"The proposal of many today, however, is that to consider literature and culture as discourse offers students more sensitive, practical and precise ways to negotiate foreign language literatures of particular relevance to the language learner, and that to learn a language is to negotiate new positions, not to risk assimilation and annihilation, or at best the devaluation of pre-existing values and skills (including your own language and culture)" (p. 57, emphasis in original)

著者は第2言語習得における文学の役割のまとめの箇所で重要な点を指摘していました。それは、学術雑誌などに載った研究は日々の実践にほとんど影響を与えることがなく、コミュニカティブ・アプローチでの指導実践は体系性に欠けているそうです。また、多くの国ではまだ新批評的な伝統的アプローチを取っている国もあるとのことでした。

著者は、次に文学読解の測定について整理していました。具体的な質問項目もたくさん列挙してあり、とても面白かったです。Indian Civil Serviceが1855年にテストを作成すると、テスト産業が発達しました。1859年にはオックスフォードとケンブリッジで試験が作られたそうです。文学知識、文学能力、読解をどうやって測定するということはいまだ決着を見ていませんが、たくさんの本が巷にはあるれています。しかし、テストでの多くの質問項目は不適切であると著者は指摘していました。

かつての試験問題は、作品を読んで作者名とその短い要約を求めるようなものであったり、さらに文法問題、曖昧な表現の翻訳、「~を説明せよ」といった形に項目が主流だったそうです。こういったテストには読書の喜びといった側面は一切排除されています。"The emphasis in questions like these is on the factual, literature as hard knowledge- much of which seems to miss the point, or the 'affordances' of literary text and possible literary reading experience." (p. 61)と著者は述べていました。最近の研究では、個人による読みの違いや批判的な読みを扱おうとしてきていますが、量的な測定というイデオロギーの枠内に留まったものになっているようです。Miallが言うように、感情面もこれからは扱っていく必要があると著者は指摘していました。

外国語教育における文学読解力の測定では、しばしばそのテストがライティングテストになってしまって、もはや外国語で文学作品を読む能力を測定することを放棄してしまっているような質問項目も散見されるそうです。著者はもっと質的なアプローチを考えていく必要があると指摘していました。

最後は文学を文化研究の中で扱おうとする試みについてまとめてありました。このアプローチでは、文化を言語プロセス(言語が文化を形作り、そして文化も言語に影響を与える)と考え、文学は文化の一部として扱われることになります。文化は自分や他者について理解するために語られるいくつもの物語(story)から構成されるとされ、主にlinguistic anthropologyで見られるアプローチを参考にしているそうです。また、バフチンの理論がかなり援用されていると著者は述べていました。近年では、いわゆる「境界の文学」を教室で扱うことも増えてきており、言語学習は"acquisition"ではなく"socialisation"という観点から考えられるようになってきたそうです。文化は決して静的なものではなく、常に言語運用と共に変化するものと考えられています。"the move away from an idea of discrete fized national or other cultures (nouns, 'things') to the idea of culture as constituted through creative (primarily linguistic) interactions in social contexts" (p. 76)

また、著者は言語習得をparticipationとみなすLantolfの考えを引いていました。"The idea is one of ongoing social interaction as opposed to connotations of accumulation and possession of language as a material object, or the human being as a computer ('input, processing, and output').  In the Vygotskian perspective, 'human social and mental activity is organized through culturally constructed artefacts' (Lantolf 2000: 1).  This is an important idea because it potentially returns literature to a central role as texts through which language learners can explore who they are and who they are not, and who they might be becoming as they participate in this new language.  Language learning is seen as the deelopment of new ideas and personality, rather than acquisition of a set of new labels for familiar objects or at most of new syntactic rules.  Thinking and languaging are effectively inseparable in practice, so that the very objects, the classifications, ideas and beliefs are no longer the same to be labelled." (p. 77)

また、Kramsch (1993)にとっては、外国語学習とは外国語によって提供され記号(semiotic choices)を意識的にコントロールすることができるようになること、と考えているそうです(p. 79)

一連の研究者は言語的あるいは文化的なプロセスの中で学習者をもっと活動的な参加者とさせることができるような指導法の確立が必要であると考えています。Kramshは文学は学習者を新たなディスコースの中で新しい文化参加者として活動させることを可能にさせる場であると述べているそうです。

現在でも、教師は古典文学を重視し、専門家の意見に尊重するといった姿勢を学習者にも植え付けようとしています。しかし、ディスコースあるいはダイアローグといった考えは代替的な方法を指導にもたらすと著者は述べていました(p. 80)。著者は最後に次のように述べていました。"The literary text should be valued, Kramsh argues, for its own extreme particularity, creativity, linguistic uniqueness.  Literary texts are the most 7double voiced" (after Bakhtin) and so best for promoting enjoyment in and reflection on linguistic form and expression (1993: 131).  Literary text also tend to promote an abbivalent response, or awareness of the complexity of moral issues... and once again interventions ... are suggested as appropriate ways for teachers to promote awareness of alternative perspectives, or (say) use of multiple translations to demonstrate the alternative perspectives that can be taken, and the final impossibility/desirability of literary translation (of all translation).  The strangeness of a poem should be faced head on rather than tidied away." (p. 81, emphasisi in original)

この章はかなり情報量が抱負で、とても勉強になりました。

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