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2009年1月27日 (火)

G.Hall(2005).『Literature in Language Education』第1章を読む(Palgrave Macmillan)

タイトル:Literary language and ordinary language

感想:本章では、literary languageというものを追求してきた研究が整理されていました。アングロ=サクソンのコンテクストでは、この考えは、Matthew Arnoldの"the best that is known and thought in the world" (p. 11)という定式化に由来していると著者は指摘しています。しかし、著者は形式主義にはかなり懐疑的です。むしろそういった形式の社会における機能こそが重要なのだと考えているようでした。確かに、Jakobsonなどは機能的側面も考慮したのですが(例えば、"What distinguishes literature from advertising in such a view is the 'function', what it is designed to do, rather than specific linguistic features." (p. 16)といった考え)、それでは不十分であると述べています。著者はparallelismや、sound symbolism (iconicity)などに触れながら、それらは文学テクストに限定された特性ではなく、もっと語用論的ないしはディスコース的、社会文化的な観点から議論すべきだとしています。

次に、著者は「文学」の定義の流れを見て行きます。18世紀は「書かれたテクスト」であり、サミュエル・ジョンソンにとっては、"Acquaintance with "letters" or books; polite or humane learning; literary culture"(p. 18)であり、19世紀は価値があるとされた演劇と詩とフィクションであり(小説や大衆文学の台頭にもかかわらず)、更に文学はnationalist ideologyと見なされるようになったそうです。現在は電子情報の発達などで、もはやnationalist ideologyという考えは維持できない状態になっています(英語で書かれていても様々な背景の人々の作品が存在しているから)。そこで、著者は"We will need to return to the vexed question of literature as writing, and the relation of this kind of writing to the wider spoken language and to cultural contexts.  Certainly, literature understood as 'verbal art' (now usually written) evolved from and remains intimately related to oral forms of verbal art." (p. 18)と述べ、文学の中に見られるスピーチ的特徴を考察していく必要があると主張しています。実際、WordsworthやEliotなどは、詩作において発話への回帰を主張しています。実際、発話で用いるような口語やインフォーマルな言語表現は19世紀以降文学に用いられてきたし、日常言語を文学で再現する傾向が大昔にはあり、それが近代の規範として成立していたと著者は指摘します。著者はAdamsonの研究に言及しながら、彼女のconversationalisationという考えを紹介しています。これは、ここ2世紀の間に発話に見られるような特徴がどのように文学の中に入り込んできたのかを記述する中で提案された概念です。Wordsworthの試みから、現代のLarkinのような試みまでが簡単に説明されています(pp. 20-21)。ただし、重要なのは言語的に理解するということではなくて、それが何のためにそのコンテクストの中で用いられているかということであるという点は重要です(p. 21)。著者は、スピーチ的特徴が文学に入ってきたことに加えて、English Literatureというものの成立も見逃してはならないと指摘します。もはや、英語は英米だけのものではないため、文学テクストの中には様々な方言や言い回しなどが入り込んできています。

次に、著者はliterature/oralの区別を明確に行なうことはできないことを示す証拠として、Biberのコーパスの研究(18世紀より20世紀の方がフィクションはless colloquialであり、結局"Genres are real, ..., but only to be characterised linguistically in terms of clusters of tendencies, rather than required features" (p. 24, emphasis in original)であること)、文学におけるspeech representation(自由間接話法など)、が指摘されていました。それぞれ、研究が丁寧にまとめてあるので、この区別がいかに幻想的かがよく分かります。

今度は、反対に日常言語に見られる文学性ないし創造性を見て行きます。具体的に扱われていたのは、コーパスなど(CarterらのCANCODE)で明らかにされた会話におけるformulaicityの形成について、概念メタファー、ナラティヴ、についての発見が紹介されていました。これらは、かつては文学の特性と考えられたものでありますが、調べてみると日常言語でもこれらの特性は散見します。

最後は、文学をディスコースとみなすという考えが紹介されています。主にバフチンのダイアローグという考えに言及がなされていました。

本章のまとめとして、次のような言葉を引用しておきたいと思います。"If the language of literature is in any way distinct, as has been argued, it is distinct for such a torelation of a greater variety than is found in any other kind of language use.  It can include spoken and written features, diverse levels of formality, social, professional styles, dialects, sociolects and ideolects: a range of the language necessary of interest - if undoubtedly challenging - to the language student." (p. 26) "... it has been established in this chapter that what may be linguistically distinct about the languages of literaturek is that there is nothing particularly distinct about them.  At best clines of dimensions of literariness can be traced, but no clear breaks or divisions.  Literary language is often surprisingly ordinary, as ordinary language is often surprisingly poetic (Carter 1999; Hall 2001).  If language found in literary texts is difficult, this may often be because of its sheer range.  Literature (or a component, like Narrative or Metaphor) is a kind of super-genre which can demand more of its readers than more predictable genres like the b usiness letter or a medical report.  Hence linguistically, paradoxically, literature is central of at least special because it is not special: 'all life is there'!" (p. 37)

著者は文学をdiscourseとみなすという考え方によって、教育においては読書によるこれまで以上の積極的な介入、変形、書き換えがなされるようになってきたと指摘していました(p. 37)(つまり作品を作者に帰すということが廃れてきたということです)。

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2009年1月21日 (水)

H.G.Widdowson(2008).「Language Creativity and the Poetic Function. A Response to Swann and Maybin (2007)」を読む(『Applied Linguistics』)

本論文の詳細は次の通り。

Widdowson, H. G. (2008). Language creativity and the poetic function. A response to Swann and Maybin (2007). Applied Linguistics, 29 (3), 503-508.

感想:すっかりCDAの方へ行ってしまったのかと思っていましたが、健在です。この論文は、Jakobsonの詩的機能(poetic function)の理論を'seminal starting point' (p. 505)とみなし、それに語用論的な側面を導入することを目的として書かれています。これは、J. MaybinとJ. Swannが編集した『Applied Linguistics』、28 (4)号、の「Language Creativity in Everyday Context」という特別号に対して寄せられた論文です。僕自身、その号の論文を読んでいないのですが、Widdowsonのこの論文自体は、どちらかというとレビュー論文というよりは、詩的機能という概念を発展させるための理論研究といった感じです。ですので、この論文からいきなり読んでも、簡単に理解することができました。

著者はJakobsonの議論は反復が中心であり、その反復に関係する言語要素はあるレベルでは等価ですが、別のレベルでは等価ではない、と指摘しています。また、"it is based on the assumption that the normal, unmarked combination consists of one filler per slot as formally required, and no more." (p. 505)という前提があると指摘しています。しかし、言語の創造性は何も反復に限った話ではありません。著者は"unusual, unexpected collocation" (p. 505)も言語の創造性に貢献すると述べています。逆に、1つのスロットにたくさんの語が挿入されていたとしても、それがコロケーション的に普通であれば、言語の創造性に貢献することができません。以上の議論を受けて、"Jakobson's definition, for he is only concerned with the formal properties of the language code and not with how these are realized in actual co-textual usage." (p. 505)と議論をまとめていました。

著者は、詩的機能はco-textもcontextも考慮していないため、言語の創造性の説明としては不満足であると述べます。そして、"The essential point here is that when language is put to contextual use, the message form is not focused on formally for its own sake, but pragmatically for the sake of the message as a contextually dependent formulation of communicative intent." (p. 506, emphasis in original)と述べています。そこで、詩的機能をどのようにして語用論的に規定するか(どのようにして詩の効果を扱えるようにするか)という点が重要になります。"So what we need is some way of accounting for how message form relates to other factors in particular speech events." (p. 506)そして、詩的機能を、コード以外に、送信者、受信者、コンテクスト、接触などの要因とどのように関連づけるかが重要になります。

著者はまず、Searleの発語行為論と関係づけて、次のように述べます。"In other words, we transfer the notion of canonical norm from sentence constituents to speech act conditions and suggest that attention is drawn to message form when the wording of a communication goes beyond what is needed to satisfy minimal referential and illocutionary requirement." (p. 507)次に、Griceのマナーの公理に言及し、"If you violate the maxim by being abnormally obscure, ambiguous, prolix (for example, by being repetitive), or disorderly you focus on the form not for its own sake but to create an implicature." (p. 508)と述べていました。

以上の議論のまとめとして、著者は次のように述べています。"It seems to me that creativity is best understood as a motivated violation of the manner maxim which focuses on the message form factor in the realization of speech act conditions in a way that disrupts normal expectations, creates implicatures of one kind or another and thereby brings about, in speech act terms, a particular perlocutionary effect." (p. 508)詩的機能という、どちらかというと形式的な概念を語用論的な概念に発展させたという意味で非常に意義深い論文だと思います。

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2009年1月19日 (月)

A.C.Purves(1992).「Testing Literature」を読む(J.A.Langer(編),『Literature Instruction: A Focus on Student Response』,NCTE)

この論文の詳細は次の通り。

Purves, A. C. (1992). Testing literature. In J. A. Langer (Ed.), Literature instruction: A focus on student response (pp. 19-34). Urbana, IL: NCTE.

感想:著者は文学のテストの現状について次のように述べています。"... our team found that the tests focus student attention on text comprehension at a relatively low level of understanding.  They do so without a clear differentiation between reading a literary selection and reading a nonliterary one; any text is viewed as having a content that can be easily summarized into a single main idea, point, gist, or theme." (p. 20) また、こういった傾向は教師や学習者の信念や態度にも悪影響を与えると危惧しています(p. 19)。アメリカの国家テストプログラムは、読み書きは重視しているものの、文学や文化的な観点は扱い損ねているようです。テストは散文的なフィクションに集中し、詩やドラマは除外され、文化的リテラシーと批評方法などは無視されています。典型的なテストとは、小説などから2段落の抜粋がなされ、それの下に3、4問の問いが設けられているというものだそうです。設問例として、次のようなものが挙げられていました。

In line 10, the word rogue means: (a) stranger, (b) out of control, (c) colored with red, (d) falling apart.

The two people are: (a) father and son, (b) brothers, (c) husband and wife, (d) strangers

This selection is about: (a) the end of an adventure, (b) the relationship between people and animals, (c) the climax of a journey, (d) the break-up of a family. (p. 20)

しかし、こういった状況は著者に言わせれば非常に問題があります。著者は教育における文学のあり方について次のように述べています。"Literature and its teaching should offer our students intellectual challenges such as how they should interpret and evaluate words and language and poetry.  Literature and its teaching should bring out students the pleasures of emotion and of the mind.  Literature and its teaching should open our students to the beauty of words and expressions and ideas." (p. 20)

実際、学習者は文学について、そのテクストのフォーマット、綴り、文法、その他の表層情報に注目しがちであり、学業や成績などと関連したものとしてしかみなしていないようです。したがって、カリキュラムで設定されている目標と学習者の文学の捉え方が随分と乖離してしまっている状況にあるということが指摘さていました。

また、文学教育に関してはこれまで主に3つの考えが示されてきたと著者は述べます。"... there were three complementary or competing views: that literature is an adjunct of the language atrs, that it comprises a distinct body of knowledge, and that it is an aspect of aesthetic perception.  Thus literature is seen alternatively as a stimulus for reading and writing, as an asoect of the humanities, and as one of the arts." (p. 23)著者は、それぞれの側面を、Practice(テクストを分析したり、解釈したり、テクストについて書いたりすることを指導する側面)、Knowledge(作品に関する知識や批評理論の知識などを指導する側面)、Preference(テクストを文学として処理する読みを指導する側面)と名づけ、"A model of the domain of school literature" (p. 25)を提案しています。著者は、これら3つの側面はお互いに関連しており、いずれも重要であると考えています。

次に、何を持って生徒が伸びたと考えるのか、という点について議論されています。Knowledgeの側面については、知識が増えれば、生徒は伸びたということができます(p. 27)。Practiceの側面については、より難しいテクストを理解できるようになること、だそうです(p. 27)。Preferenceの側面については、ある共同体で古典と呼ばれているような作品に対して徐々に適切な価値判断ができるようになること、だそうです(p. 27)。最後に、「難しさ」とは何かということも議論されていました。"I would argue that the nature of difficulty is a combination of the complexity and detail of (1) the requisite knowledge to be a member of the community, (2) the use of that knowledge in responding and articulating, and (3) the use of that knowledge in making appropriate aesthetic judgments and distinctions between personal and communal standards in the exercise of preferences and habitual behaviors with respect to texts." (p. 28)

著者は、文学教育は共同体の中においても役割があると述べます。"This view suggests the importance of literature learning as related to the idea of community, where the literature curriculum serves the function of bringing the individual into the community.  That is, it provides the student with the requisite knowledge of the communal canon as well as the ways of reading that preserve the appropriate view of the functions of texts in the community.  From this experience, the student also acquires a communal set of values concerning literature and, perhaps, values arising from the conteng of the literature that was read." (p. 28)また、テクストの難しさについてもこの観点から説明されていました。"Thus, no text is easy or difficult outside of the norms and standards of the community that determines (1) what is necessary and sufficient knowledge, (2) what is an adequately framed discussion of that text or generalization about the text within a larger discussion of literature, and (3) what is an appropriate aesthetic disposition toward the text.  The more deeply an individual becomes a member of that community, the easier any text becomes for that individual.  Testing, therefore, needs to account for the manifold standards of the community that detemine the criteria for success." (p. 29)

テストは、既に述べた3つの領域(Practice, Knowledge、Preference)を扱う必要があります。教師は、生徒が読むテクストの難しさを定義したり、必要とされる知識を決定したり、どんな態度や関心、習慣を測定するかを決めなければなりません。これまでの調査で明らかになっていることについて著者は次のようにまとめています。"The principle behind the testing is that knowledge, practice, and preference are related but not highly interrelated aspects of the construct of literature learning.  A comprehensive measure of student performance, therefore, should address each of the three areas.  From the pilot tests we found that within the knowledge domain, textual knowledge and knowledge of critical terms are distinct, particularly in theire relationship to the practice of reading and responding.  Within the domain of practice, more than one passage is needed to get some estimate of a student's performance across text types.  It seems to make little difference whether one uses open-ended or multi-choice questions probably present somewhat more of a challenge to students than multiple-choice questions (Hansson, 1990), and would therefore be a more exacting measure of the ability to read and shape a response to what is read." (p. 30)さらに、多肢選択式とエッセーライティングを併用すること、学習者がテクストの判断に用いた基準と、学習者の判断そのものを別に扱うこと、学習者の文学一般への態度の記述も必要であること、などが述べられてきました。以上のことを踏まえて、著者は3つの領域の測定に関して次のようにまとめています。

1. Measures of background knowledge - terminology and cultural information: these may include meatching, and supplying or generating items.

2. Measures of the ability to read and to articulate a written response to at least two texts that differ in genre, the measures to include both supplying and constructing items, with the latter taking the form of extended discourse.

3. Measures of preference including aesthetic judgment of specific texts, and general habits and beliefs concerning literature and its place in the world. (p. 31)

また、よい文学の生徒の定義も示しています。"A good literature student is clever, articulate, knowledgeable, and committed to literature and the biterary experience.  Such a student can read a text and answer specific questions concerning its content, structure, and form; can write an extended response to a text; knows something of the cultural matrix of literature and of the nature of the language used in discussing literature.  And such a student is a reader who becomes involved in the text, likes to read, and respects literature enough to be chary of the cnesor's red pen" (p. 31)しかしながら、実際にテストを行なってみると、なかなか理想的な学習者はいないようです。実情はもっと複雑で、ある領域に優れている学習者が別の領域ではそれほどでもないといったケースが多く見受けられるようです。

結論部分で、著者は本論文が示したようなモデルのテストにおける有用性について次のように述べていました。"It is my belief that such profiles present teachers with a better way of seeing what sort of students of literature their students are than is provided by a single score on a reading test." (p. 32)

文学テストの論文を久しぶりに読みました。この論文はアメリカの国語教育を念頭に置いていますので、そのまま外国語教育に応用できるとは思いませんが、文学テストの測定対象を3つの領域に分けるという考えは面白いと思いました。また、この論文が書かれている背景(この論文で問題点として指摘されている事柄)は、外国語教育における文学の扱いとも事情はほとんど同じだなぁと思いました。

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G.Hall(2005).『Literature in Language Education』序章を読む(Palgrave Macmillan)

本書の詳細は次の通り。

Hall, G. (2005). Literature in language education. New York: Palgrave Macmillan.

Introduction: Literature as Discourse

感想:文学を使った外国語教育の研究としては私が知る限り、唯一の概論書になります。著者には昨年5月にお会いし、色々とお話をさせていただいて、本にサインまで頂いてしまいました。文学は言語教育の中ではかなり苦難の時代を経験してきました(”Literature – particularly English literature – traditionally held a central and privileged place in language teaching, now often viewed as a kind of ‘Inner Circle’ attempt by Englandand the USA to dominate norms and values… In some quarters this has resulted in a permanent suspicion towards literature as communicative language teaching syllabuses were elaborated, with stress on practical oral communication rather than reading and grammar translation.” (p. 2))。しかし、ポスト・コロニアル文学を扱うなど多元的な観点が現れたり、従来よりも広いタイプのテクストが扱われるようになったり、”foreign language teaching is coming to see more clearly the need for learners to engage meaningfully with demanding and relevant extended texts, and the inseparability of language and cultural issues.” (p. 2)という考えなどによって、かなり状況が変化してきたようです。

本書では、文学をdiscourseと考えることによって("Literature into cultural studies”という考えに基づいているようです(p. 1))、文学vs. 言語学という対立や、文学vs. 教育(文学研究は教育法についてあまり考えず、教育研究は文学を教育という視点から捉えることをほとんど行なわないという状況)を乗り越えることを目指しています。また、著者は特に外国語教育における文学の扱いについて中心的に見ていくようです(p. 1)。著者は本書の狙いとして次のように述べています。”The key terms of this larger claim, as the following chapters argue, are Language, Literature, Readers and Culture, to be explored through the prism of Discourse. The study of pragmatics, intertextuality, representation and the like … are now thriving. Sociolinguistics, corpus studies and discourse analysis have added significantly to our understanding of actual language use. More specifically still, Todorov and others have made available to use the works of Bakhtin and the Bakhtin circle on language and literary pragmatics … In just such a spirit, this book aims to contribute to and extend an ongoing dialogue of literature, language, adeucators and students.” (pp. 4-5)

各論ではどのような議論が展開されるのか、楽しみです。

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2009年1月17日 (土)

D.H.Hymes(1962/1968)「The Ethnography of Speaking」を読む(J.A.Fishman(編),『Readings in the Sociology of Language』,Mouton)

この論文の詳細は次の通り。

Hymes, D. H. (1968). The ethnography of speaking. In J. A. Fishman (Ed.), Readings in the sociology of language (pp. 99-138). The Hague: Mouton Publishers. (Original work published 1962)

感想:前々から気になっていた論文だったのですが、やっとその気になって読みました。この論文の目的は、著者がタイトルにつけているThe ethnography of speakingを確立するための序章的なものを示すということにあるようです。研究の背景としては、「one language = one culture」というような幻想が蔓延している言語学的なアプローチでは、言語のみが研究対象とされ、スピーキングが扱われたとしても、そういった幻想のもとでは十分な研究がなされていないという思いがあるようです(pp. 132-133)。ただし、著者は言語学を否定しているわけではなく、言語学の知見を大いに活用した上でエスノグラフィーを実践すべきだと考えています(p. 133)。現に、著者に言わせれば、Malinowskiは言語学の知見が不十分だったが故に、その研究成果は失敗に終ったと指摘しています(p. 133)。

本論文は大きく3つの部分に分かれていました。最初の部分は、これまでのスピーチの扱われ方についての整理です。著者によると、スピーチは非言語行動様式の一部と見なされているという点と、伝達様式(mode)と相互影響(reciprocal influence)こそが研究対象とされるべきであるというのが、研究者の中での一致した見解のようです。しかし、著者はエスノグラフィーの一部として意味論的な分析が必要であると主張します。著者はparadigmatic approachを持ってして研究することが重要だと述べ、その研究対象はparadigmatic approachの言語学が当時成功を収めていた音韻や文法レベル、部分的な成功を見せていた語彙レベル、だけでなく、語用論的なレベルも扱うことが必要だと指摘します。言語学では言理学がcontent-structureの分析を提案していますが、限界があると著者は指摘しています(やはり、エスノグラフィーによる分析が必要ということでしょう)。また、著者が目指す研究においては、普遍的な研究を目指すのではなく、研究対象となっている言語話者の具体的な行動状況の中での記述を目指すことが必要だとも指摘されていました。というのは、言語形式は一連の意味の幅を持っていますが、コンテクストによって、関係ないものは除外されるためです。また、"Important also is the point that the cognitive role of speech is not all-or-nothing, but a matter of what, where, an when." (p. 105)という考えもその根拠となっています。著者はこれまでの議論を次のようにまとめています。"In sum, description of semantic habits depends upon contexts of use to define relevant frames, sets of items, and dimensions of contrast.  Moreover, persons and groups may differ in the behavior that is mediated by speech.  Thus analysis of the role of speech in cognitive behavior leads into analysis of the ethnographic context of speech." (p. 105)しかし、著者は、認知的な側面だけの分析では不十分であり、感情的な(expressive)側面や教育プログラム(リテラシー教育や多言語主義)などによる文化変容(culture change)の側面も扱うべきだと考えています。

2つ目の部分はthe ethnography of speakingを行なう上での記述用の枠組みの提案です。著者は、paradigmatic approachを推奨しているだけあって、彼自身の枠組みを"contrast-within-a-frame technique" (p. 115)と呼んでいます。著者は、スピーチないしスピーキングの背後にシステム的な構造を想定して研究することを考えており、ここではその分析の際の鍵となる3つの側面について述べられています。1つ目はspeech eventです。speech eventを分類する際には、辞書で名前がつけられているもの(salestalkやchatなど)を使ってもいいですし、日常語の中で名詞や動詞、句や文によって呼ばれているもの("Nice talk"や"Couldn't get a word in edge-wise"といった表現)を使ってもよいと述べていました。2つ目は、speech eventに関わる要因です。全部で7つ挙げられていました。それらは、"1. a Sender(Addresser); 2. a Receiver(Addressee); 3. a Message Form; 4. a Channel; 5. a Code; 6. a Topic; and 7. Setting (Scene. Situation)" (p. 110)です。しかし、これらはあくまでも"an initial ("etic") framework" (p. 111, emphasis in original)だと著者は述べています(ある集団などによってはもっと他の要因が絡んでくることも考えられると著者は考えています)。著者は、個別の要因について調べ、今度は要因同士が形成するパターンの分析を行なうことを提案しています。著者はこういったパターンがシステム構造を形成すると考えていて、構造主義的なアプローチが役立つと考えています("One way that patterns of speaking constitute a system is in virtue of restrictions on the co-occurrence of elements" (p. 114, emphasis in original))。3つ目は、Functions in speech eventsです。著者は、合計で7つの発話機能を挙げています。それらは、"1. Expressive (Emotive); 2. Directive (Conative, Pragmatic, Rhetorical, Persuasive); 3. Poetic; 4. Contact; 5. Metalinguistic; 6. Referential; 7. Contextual" (p. 117)でした。そして、Jakobson同様、dominanceという考えを継承しています("All features of the speech event, including all features of the linguistic code, may participate in all of the functions.  This point must be made, because certain features are often treated exclusively in terms of a single funcion." (p. 117))。その他、(1)すべての機能は、あらゆる言語学的レベル(音韻レベルから語用論的なレベルまで)の観点から分析する必要があること、(2)referential functionは研究の手始めとして注目するのはよいが、それ以外の機能面についても考えることが不可欠であること、が指摘されていました。また、機能面の分析の課題として、特定の機能と特定のspeech eventの結びつけ方、特定の機能と特定の要素(2つ目に提案されたもの)の結び付け方、が挙げられていました。しかし、これらの課題はdominanceという考え方とcontext of useで判断するという方法によって乗り越えることができるのではないかというのが著者の見解のようです(実際に、speech eventでは、特定の言語表現についてそれに賦与する機能が話者間で異なっている際は、その調節を行なっているわけですし(p. 123))。

最後にethnography of speakingの研究対象として、「話者がある共同体の中で社会化していく過程でのspeech発達」が示されていました。著者は、"The role of speech in socialization, the context of its acquisition, may vary in every aspect of the patterning of speech events, factors, and functions." (p. 126)と述べています。この節で面白いと思った指摘は、"the three most promine types of function (referential, expressive, directive) appear to develop in childhood in partial independence of each other and in varying relation to the process of maturation." (p. 125)と、"Values and beliefs regarding speaking, or a language, may be interwoven with major institutions, and much elaborated, or periperal and sketchy." (p. 129)でした。

この論文はもはや古典となっており、特にエスノグラフィー的言語(発話)研究にとっては、現在では目新しいものはあまりありません。私がこの論文を読みたいと思っていたのは、むしろ著者がethnography of speakingの記述の枠組みとして提出した7つの要因と7つの言語機能です。Jakobsonの6言語機能の発展的な枠組みであり、とても面白く思いました。

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2009年1月14日 (水)

S.ピンカー(1994/1995).『言語を生みだす本能(上)』を読む(椋田直子(訳),日本放送出版協会)

本書の詳細は次の通り。

ピンカー,S.(1995).『言語を生みだす本能(上)』(椋田直子(訳)).日本放送出版協会.(原著は1994年出版)

感想:まだ読んでなかったこと自体、とても恥ずかしいことなのですが、本格的に読み始めてみました。

第1章:技能を獲得する本能‐言語本能

著者は、言語に対する間違った先入観として、「言語とは人類のもっとも重要な文化的発明品である。言語は記号を使う能力が顕在化したものである。言語を獲得するという生物学的に前例を見ない出来事によって人類はその他の動物と永遠に袂を分かった。」(p. 19)を挙げ、本書を通してこれらの誤解を問いていくことを約束しています。著者にとっては言語は「本能」であり、文化的人工物などではありません。言語は本能であるという考えを最初に示したのはダーウィンだそうです。また、著者はチョムスキーからの影響を多分に認めながらも、その違いについても明言しています。「チョムスキーは言語を器官と見るにもかかわらず、その起源がダーウィン流の自然淘汰説で説明できるかどうかに懐疑的で、多くの読者の首をひねらせている。一方、私は、言語も目と同様に適応発達し、主要な部分が重要な機能を受け持てるような形になってきた、とするのが実り多いと思う。」(p. 28)という言葉や、チョムスキーの議論を観念的であると指摘している点などが両者の違いを示していると思いました。また、本書の趣旨全体とはあまり関係はありませんが、文学理論に興味がある私としましては、「文字というのは視覚に訴えるいわば包装紙にすぎない。」(p. 16)という著者の言葉がとても印象に残りました。

第2章:おしゃべり‐ヒトのあるところ、必ず複雑な文法あり

著者はまず、言語は普遍的に存在し(どの部族も言語を持っている)、黒人日常英語(BEV)などを例に挙げながら、それらの言語はとても複雑な構造をしていることを指摘します。しかし、このことだけではヒトには生得の言語本能があるということを示す証拠とはなりません。そこで、ピジンのクレオール化(しかも、各地で様々な言語が混成して出来上がったクレオールがお互いにかなりの類似点を示すこと)、ピジン手話のクレオール化について説明がなされます。クレオール化のプロセスなどを見ると、「どんな言語も、文法的ルールに制約されている」(p. 55)ということがはっきりと分かります。次に、知能と言語は別のものであるということを示すために、著者は言語能力障害の事例を見ていきます。著者は、ブローカ失語症と特定言語障害(SLI)の事例を詳しく紹介していくのですが、著者に言わせると、これらの例ではまだ言語を本能によるものと見なすには不十分な証拠だと述べています(言語能力と知能の違いを明確に示すことができないため)。そこで更に、おしゃべり症候群、ウィリアムズ症候群といった、「認知能力は万全ではないが、言葉を話すにはなんの支障もない、という事例」(p. 66)を示し、著者は言語と知能は別物であるということを示そうとしていました。

第3章:思考の言葉‐心的言語

この章では、言語決定論(サピア=ウォーフの仮説)の強いバージョンの考え(言語が思考を支配するという考え)を批判していきます。著者に言わせればこのような考えは全く根拠がないとします。その根拠としては、(1)ウォーフの議論自体に問題点がかなりあること、(2)言語決定論でよく引用されるイヌイットの雪の語彙が膨大であるということも都市伝説に過ぎなかったこと(憶測が憶測を呼んだに過ぎないこと)、実験や経験によって非言語的思考の存在が確かめられていること(赤ん坊やサルを使った実験や、優れた考えが浮かぶときは言葉を解していないと主張する人々の存在)、(4)思考の仕組みについての理論(チューリング・マシン。言語なしで思考が可能であることを示している。)、(5)そもそも言語は思考を決定するには向いていない特徴を備えていること(曖昧さ、論理的明快さの欠如、同一指示、会話や文章の文脈でしか解釈できない言い回し、同意表現)、が示されていました。著者は、「人間は、英語や中国語やアパッチ語で考えているのではない。思考の言語で考えている。思考の言語は、これらすべての言語に多少似ている」(p. 109)可能性は残されてはいるが、と考えています。著者は心的言語を言語差に左右されない普遍的なものと考えており、「ある言語を知っているというのは、心的言語を単語の列に、単語の列を心的言語に翻訳するすべを知っている」(p. 110)と考えるのが正しいと主張していました。

第4章:言語の仕組み‐生得のスーパールール

本章は大きく2つの部分から構成されていました。それらは、文法が「非連続要素の結合体系」(p. 115)ということを説明する部分と、生成文法の基本的な統語論の考え方の紹介です。前者の箇所については、「言語の膨大さ」(p. 116)と「文法は認知に依存せずに自律した規則として存在する」(p. 118)ことの2点を帰結として導いていました。一方、言語連鎖装置(言語は連続的な結合であるという考え)といった対立する考えにも触れられ、その考えが間違っていることを論証していました。生成文法の基本的な考えの紹介の箇所では、句構造文法、品詞(名詞と動詞)、ヘッド、項、修飾詞、主語(SPEC)、Xバー理論、原理とパラメータ、心的辞書、格標識、機能語、d構造、痕跡、s構造、です。いずれも基本的な事項ですが、その説明の中で特にメモ書きしておきたいと思ったところを列挙していきたいと思います。 (1)「品詞は意味の一種ではない。…一定の形式的ルールに則って機能するトークンの一種である。…品詞の範疇と概念は無関係ではないが、その関係は精妙、かつ抽象的である。」(p. 144)(2)句構造規則の左辺から右辺へと伸びる「→」を削除すればパラメータから原理の規則を手にすることができる(p. 151)(3)「動詞と前置詞は隣のNPに格標識をつけることができるが、名詞と形容詞にはそれができない。「governor California」や「afraid the wolf」は、意味が推測できるものの、文法的ではない。英語では、格標識をつけるために必要だというだけの理由で、意味のない前置詞の「of」を名詞に先行させなければならない。英語の話し手が口にする文は、動詞と前置詞に厳格に管理されている。」(p. 160)(4)「文の意味は、名詞や動詞が明示する意味からストレートに導き出すことができない。文全体にかかって、文を真偽の判定対象になりうる「命題」に変身させる意味要素が存在するはずである。…助動詞は通常、文のツリーの周辺部に位置するが、これは、助動詞がそれ以外の文全体についてなんらかの属性を表現する、という事実を反映している。名詞が名詞句のヘッドであるのとまったく同じ意味で、助動詞は文のヘッドである。助動詞は「インフレクション」、略してINFLともいうので、文をIP(INFL句、助動詞句)という記号で表わすこともできよう。IPの主語の位置には、文全体の主語が置かれる。文とは、その主語について、述語(VP)が真であることを明言するものである、という事実がここに反映されている。」(pp. 161-162)(5)性別のない三人称代名詞を新たな機能語に導入しようという試みがなされてきたが、機能語とは文の骨格を作るものであり、その導入はことごとく失敗している。「また、脳の言語領域に損傷を受けた患者は、「オールoar」や「蜂bee」のような内容語は使えるが、機能語のorやbeは発音が同じなのに、うまく使いこなせない。」(p. 162)(6)「…句構造は、スーパールールによって定義されるもので、これを深層構造とする。深層構造は、心的辞書と句構造の仲立ちをするインターフェイスである。深層構造のレベルでは、putの要求する役割の担い手がすべて、期待どおりに位置している。この深層構造に変形操作を加え、ツリーのなかの、それまで空席だったスロットに句を「移動」させる。こうしてできる新しいツリーが「表層構造」である。」(p. 167)(7)「言語はなぜ、深層構造と表層構造を使い分けるような面倒なことをするのだろうか。それは、使いものになる分を作るには、動詞の要求を満足させる(これも深層構造がすることではあるが)だけでは足りないからだ。一つの概念が同時に二つの役割を担う場合がある。動詞句の同士に割りふられた役割と、動詞とは無関係に、ツリーのべつのレベルから割りふられる役割を、同時に担うのである。…誰が誰になにをしたかという動詞句のレベルでは、いずれの文でも名詞が同じ役割を担っている。しかし、文(IP)のレベル―なにが真だと語られているかを示す、主語・述語関係のレベル―では、担う役割が異なっている。」(pp. 168-169)(8)「文法は、耳と口と脳というまったく異なる三つの装置を相互に結びつける仲介者なのだ。どれか一つだけを反映するのではなく、独自の抽象的論理を持っているに違いない。」(p. 171)いずれも基本的な事柄であり、特に新しく学んだことはなかったのですが、その説明の簡潔さはとても勉強になりました。

第5章:言葉、言葉、言葉

この章では語彙について議論されていました。語彙も統語に引けをとらず、非常に複雑なものとして紹介されています(決して単なる語彙リスト的なものではありません)。著者は一般に「英語の単語創造力は、他の言語に比べてかなり貧弱である」(p. 174)と認めた上で、接尾辞や複合語などは英語の語形成を可能にする特性として指摘していました。その後、語彙の世界におけるツリーを示し、そこに見られる規則を紹介しています。「名詞は、名詞語幹と、それに続く名詞活用語尾で構成される」(p. 179)、「名詞語幹は、名詞語幹と、それに続くべつの名詞語幹から構成される」(p. 181)、「形容詞語幹は、語幹と接尾辞で構成されうる」(p. 183)、「名詞語幹は、名詞語根と接尾辞で構成されうる」(p. 185)といった規則が紹介されていました。この章は、以下の(6)にあるように、2つの単語観を中心に構成されており、前半で「統語原子」としての単語、後半で「リスト素」としての単語、それぞれについて重要な点が議論されていました。以下、面白いと思ったところをピックアップしていきたいと思います。 (1)「複合語と句を見分ける簡単な方法がある。英語の複合語は通常、最初の語にアクセントがあり、句は二番目の語にアクセントがある。」(p. 182)ここで示されていた例も面白いです。(2)「語構造の最下、語根と接辞から成る第三層では、形と意味が予見できるような真性のルールが見つからない。語根の一部は心的辞書に、それぞれ特異な意味とセットになって登録されているようだ。こうした複合語根の多くは、ルネサンス以降に作られている。学者がラテン語やフランス語の単語や接辞を、もとの言語のルールを使って英語に取り込んだ。現代の私たちは単語だけを受け継ぎ、ルールは失われてしまった。現代の英語の話し手が、この種の単語を均質な音の連なりと受け取らず、頭の中でツリーとして切り分けるのは、「electiric」と「-ity」のあいだに自然な切れ目があると感じるからだ。同時に私たちは、「electric」と「electricity」が関連することを見抜き、「-ity」で終わるからには名詞に違いないと判断する。」(pp. 186-187)この層の規則は特定の語にしか通用しない(すべての語に通用しない)という点でも、それより上位の層の規則と異なっています。複合語だけでなく、不規則動詞なども同様です。(3)「ときには、類推による変化形が面白いとか、しゃれているなどの理由で、言語共同体全体に拡がることもある。数百年前には、teach/taughtなどから類推されたcatchの過去形、caughtが定着し、現在にいたっている。」(p. 191)(4)「英語では、小さな語から大きな語ができるとき、一番右にある特別な語、つまりヘッドのすべての特性が大きな語に受け継がれる。」(p. 194)「ヘッドの持つすべての情報が、一番上の節まで浮上する、というのが肝心なところである。名詞性や、動詞性や、意味だけでなく、不規則形が格納されていれば、それも浮上する。」(p. 194)「抹消的な疑問もこれで解消できる。「fly out」や「Walkmans」は他の複合語と違って、ヘッドがない。へっどのない単語は、なんらかの理由で、右端の構成要素とは異なる特性を持つという点で、例外的な存在である。たとえば、「low-life(ろくでなし)」はlifeの一種ではなく、ろくでもない生き方をしている人間を意味する。…」(p. 195)。これらは、Walkmanの複数形がWalkmenではなく、Walkmansである理由を説明しているのですが、ここで示されている例はとても面白かったです。(5)子供の頭の中に語構造の論理が作りこまれていることを実証したゴードンの研究が紹介されていました。彼は不規則的な複数形からは複合語ができるのに、規則的な複数系からはできないという点(mice-infestedとは言えるのに、rats-infestedとは言えないという点など)に着目して実験を行なったそうです。「語構造の理論から見れば、この現象は容易に説明がつく。不規則な複数形は、特異な存在で、ルールによって生成できないから、語根または語幹として心的辞書に格納される必要がある。心的辞書に独自の項目として格納されている以上、既存の語幹と、べつの既存の語幹をつないで新しい語感を作るルールにインプットすることができる。一方、規則的な複数形は語幹ではなく、したがって、心的辞書にも格納されていない。規則形は必要が生じるごとに、語形変化のルールにしたがって作られる複合語なのだ。語根から語幹へ、語幹から語への組立ラインに乗れるのは、心的辞書に見出しとして格納されている単位だけで、規則的な複数は最初から出遅れているのである。」(p. 200)ゴードンの実験結果は、「大人が無意識のうちに持っているルールを、同じ形で子どもたちも持っていること」(p. 201)と「言語の基本的な仕組みのうち、語形態にかかわる部分もまた、生得であること」(p. 201)の2点を示していると著者は述べていました。(6)「単語」の意味(定義)として2つ述べられていました。1つは統語ルールが適用できなくなる「統語原子」(p. 202)(「統語ルールではそれ以上分割しえない言語単位」(p. 203))という意味です。もう1つは、「リスト素」(p. 203)というもので、イディオムなども1つの単語と見なす考えかたです。(7)平均的なアメリカ人は、「リスト素」という考え方で行けば、六万語は知っているそうです。(8)子供は新しい名詞を聞くと、すぐにそれを「中間サイズの範疇と見なす傾向がある」(p. 215)そうです。また、「言語がなぜ、単語をケチって、たくさんの意味を結びつけるのかは誰にもわからないが、子どもはこの事実を予期しているよう」(p. 215)です。著者はこれらのことを裏付ける実験結果を紹介しています。(9)「ここまで見てきたように、名前には重要な意味がある。語形態ルールの産物としての「名前」は、何層ものルールによって組み立てられた複雑な構成物で、一見、奇妙なものも法に則っている。リスト素としての「名前」は純粋な記号であり、子どもの精神と、大人の精神と、現実の様態が調和しているからこそ、膨大な数が素早く習得できる。」(p. 216)

第6章:サウンド・オブ・サイレンス

この章は音声についてです。音声の発音メカニズムは、音声認識プログラムのことなど面白い情報がたくさん書いてありました。また、本章の最後では、文字などについても扱っていました。特に面白く感じたところをリストアップしていきます。 (1)人は映像や前もって与えられた情報によって実際とは違う音を聞き取ってしまう(pp. 218-219)。マッガーク効果、オロニムなどの例もありました。(2)人間はかなり桁違いに高速で音素を聞き取っている(p. 222)。普通の会話でも毎秒10~15音素だそうです。(3)「人間の言語は、意味のない音を組み合わせて意味を持つ形態素を作る体系と、意味を持つ形態素を組み合わせて意味を持つ単語、句、文を作る体系に二分されている。」(p. 223)。ホケットは、パターン形成の二元性と呼んでいるそうです。(4)「話し手は、非連続の信号の連なりを連続音の流れに、つまり、デジタル信号をアナログ信号に変換し、聞き手は連続した言語音声を非連続の信号に、つまり、アナログ信号をデジタル信号に変換しているのである。」(p. 224)。言語本能の音素モジュールの機能として紹介されていました。(5)「舌の位置と母音の音色が関係しているために、英語をはじめ多くの言語で、音声象徴と呼ばれる現象が発生する」(p. 228)。(6)ジグザグやディンドンなど、舌を前方の高い位置に置いて発音する母音のほうが舌を後方の低い位置に置いて発音する母音より先になる理由。「第一は、「自分・いま・ここ」を暗示する単語は、「自分」から離れていることを暗示する単語に比べて、下を前方の高い位置に置く母音が使われる傾向が強い、という現象である」(p. 229)。「第二に、「自分・いま・ここ」を暗示する単語は、「自分」(たまは、総称的な意味での話し手のプロトタイプ)から文字どおり、あるいは比喩的に距離がある単語より先になる傾向がある。「here and there」、「this and that」、「now and then」。」(pp. 229-230)(7)「現代の英語で、「bad」は「悪い」を意味し、「baaaad」と伸ばすと「パワフルな」とよい意味になる」(pp. 230-231)(8)「邪魔の程度の軽い子音で始まる単語がかならず、邪魔の程度のひどい子音で始まる単語より先になる」(p. 233)。Razzle-dazzleとは言うのに、dazzle-razzleとは言わない理由。(9)母音と子音の組み合わせや、弱と強の組み合わせにもそれらの組み合わせを生成するためのルールがある(pp. 237-238)。(10)「「形態素は、最終的に発音されるのと異なる形で心的辞書に格納される場合がある」というのは、現代言語学の大発見の一つだ」(p. 243)。(11)「音韻ルールは音素ではなく素性に注目し、音素ではなく素性を調節する。また、世界各地の言語は先に触れたように、弁別的素性をさまざまに組み合わせて音素のリストを作っている。これらの事実は、脳に格納され、操作される言語音声の「原子」が音素ではなく、素性であることを示している。音素は素性の束にすぎない。つまり、言語は弁別的素性という最小単位にまで。結合の体系を採用しているのである。」(pp. 244-245)(12)音声認識コンピュータを作れない理由。人により発音が違うし、癖もあるし、速度が違えば違って聞こえるし、すっ飛ばされる音素もある。また。同時長音という現象もコンピュータ作りを困難にしている。(13)「現在知られているあらゆる文字体系は、形態素、音節、音素のいずれか一つに対応する」(p. 258)。(14)「アルファベットは音声に対応していないし、対応すべきでもない。心的辞書で定義される音素に対応するのが限界である。」(p. 259)(15)「英語の綴りは音素にだけ対応するのではない。対応することもあるが、ある形態素に特定の文字列が対応する場合もある。」(p. 260)electricityとelectricは、文字列electricのおかげで関連している語だと読み手に知らせることができる。

第7章:トーキング・ヘッズ‐文を理解する心的プログラム

最初は文の処理の話だったのですが、本章の後半では発話の理解というような語用論の話題も取り上げられていました。生成理論系の本でこういった話題はあまり目にしないので、とても面白く思いました。 (1)「人間のパーサーを悩ませるのは記憶の量ではなく、記憶の種類なのだ」(p. 279)。(2)Buffalo buffalo Buffalo buffalo buffalo buffalo Buffalo buffalo. という文が有意味な文であるということ(pp. 283-284)(3)人間は単語レベルでは横幅優先検索(とりあえず該当するもの(しかしいずれは捨てられるもの)全てを抱え込む)を行い、句レベルでは深度優先検索(妥当な構造にだけ注目する(それが不適切だと分かると新たな構造に着目する))を行っている(p. 284)。(4)一般的知識は文の理解を助けるが、一定の限度を超えることはない(p. 292)。やはり、パーサーは独立したモジュールのようである(著者はパーサーには惰性と倹約という傾向があると述べていました)。(5)「実験手法が進歩したおかげで最近は、人間の心や脳のなかで変形処理らしきものが行なわれているのを検知した、という報告が心理言語学の関心を集めるようになってきた」(p. 296)。束縛理論も指摘されていて、聞き手は痕跡のあり方に制限を設けられることによってかなり助かるという機能主義的な指摘(p. 299)が面白いとおもいました。

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