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2008年11月26日 (水)

S.Zyngier,O.Fialho,&P.A.do Prado Rios(2007).「Revisiting Literary Awareness」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Zyngier, S., Fialho, O., & do Prado Rios, P. A. (2007). Revisiting literary awareness. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 194-209). New York: Palgrave Macmillan.

感想:文学の授業は事実や年代の記憶のテストになってしまって、学習者はテストが終るとそれらの事柄を忘れてしまいます。結果として、学習者は言語パタンの意識や、読者への効果、魅力、読書経験による自己変革、といったことは授業から追いやられてしまっているようです。こういった状況の中で、批判的で自律性のある読者を育てるために、Literary Awareness(LitAw)が提案されました。意識は、脳内で生じる高速の処理プロセスの速度をゆるめ、回顧的に機能し、思考回路を評価することを可能にします(メタ認知とも言われます)。また、文学の授業は文学能力の習得を目指していますが、テクスト処理というレベルが暗黙の前提とされています。どのような読者であってもテクスト処理行なわなければならないわけですから、このレベルに着目することは大切です。

著者はまず、language awareness(CarterやSinclairによるもの)について説明します。LitAwは、language awarenessの発達に依存すると著者は考えています。language awarenessの要素には、properties of language、embedding of language within culture、forms of the language we use、close relationship between language and ideologyの4つの要素が含まれていました。各要素の説明は本論文を参照下さい。

次にLitAwの要素の説明です。これは5つの要素からなり、それぞれの要素が更に下位要素を含むとされています。それらは、Exposure(setting、duration、intensity、type)、Cross-linking(projection、inference、intentionality)、Reference build-up(defference in background、integration and sequentiality)、Adjustment、Productivity、です。各要素の説明は本論文を参照下さい。

調査参加者は、27名のブラジル人大学生英語学習者です。彼らは著者らが考案したLitAwプログラム(22時間、全11回のコース)に参加しました。彼らはlow-intermediateレベルの英語力であり、言語学や文学理論の授業には1セメスターしか参加していないという状況でこの調査に参加しています。

この調査は、LitAwプログラム参加過程でLitAwが発達するかどうかを調べるという調査です。学習者が付けている授業に関する日記のようなものをデータとしてそのプログラムの効果が調べられていました。

著者らはデータをもとにawarenessのレベルと各レベル内で見られる現象の分類を作成し、同時にそれらを分類していました。それらは、Absense of awareness(description of activities and texts produced、Explanations presented by the reacher、students' reactions)、Signal of awareness(point-driven evaluation、reflective evaluation)、Presence of awareness(internal correlations、external correlations、generalizations、suggestions)でした。各レベル及びカテゴリーの説明は本論文を参照下さい。また、本論文の分析対象外ではあるのですが、学習者が授業を振り返りながら産出した詩も紹介されていました。2例紹介されていましたが、いずれも面白い(技巧的にも内容的にも)詩に仕上がっていました。

本調査の結果としては、学習者は徐々にAbsense of awarenessのレベルから抜け出し、Signal of awareness、Presence of awarenessのレベルへと移行していったという結果でした。しかし、急激な変化というわけでもありませんし、授業ごとに各レベルの生起率は不規則に上下しています。しかし、授業全体を通して、全体的にはLitAwを学習者に生じさせることができたと著者らは述べています。また、レベルの移行様式が一定ではなかったことについて、各授業の困難度及びクラスの雰囲気(宿題を忘れて怒られた授業があったこと)が影響しているのではないかと推察されています。しかし、いずれにせよ、今回の効果はこのクラス独特のものか、もっと一般的なものなのかといったことも含めて、更なる調査が必要とのことでした。

この論文で、本書は終了となりました。やはり、ほとんどが大学生レベルですね。もちろん、日本の高校や中学でも使えると著者らは言うのかもしれませんが、日本の中・高校での文学教材の活用方法については更なる研究が必要だと思いました。

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2008年11月21日 (金)

W.van Peer&A.Nousi(2007).「What Reading Does to Readers: Stereotypes, Foregrounding and Language Learning」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

van Peer, W., & Nousi, A. (2007). What reading does to readers: Stereotypes, foregrounding and language learning. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 181-193). New York: Palgrave Macmillan.

感想:文学は社会と密接に関係したもの(自由、多様性、政治、教育に関わるもの)であるにもかかわらず、応用言語学にはあまり取り込まれてきていません。しかしながら、文学読解の実証的な研究が徐々に現れており、それらは応用言語学への影響を与え始めていると著者は述べます。それらは、psychonarratology、the theory of foregrounding(文学の経験的研究によるもの)、文学の効果の研究(Hakemulderなどによるもので、文学の読解は読者のcognitive viewやmoral attitudeに影響を与えるかどうかの研究。ちなみに、outsidersとsex-rolesに対する見方に影響を与えることがこれまでの研究で明らかにされているそうです)。

この研究は、文学の読解及び、文学の読解+ディスカッション、というものが外国人ドイツ語学習者のドイツ人及びドイツに対するステレオタイプ的な見方を改善することができるかどうか、ということを調査した研究です。また、この研究は、文学の読解というものとディスカッションを分けて、それぞれの効果について検証するという点でオリジナリティーがあるとしています(これまでは、特にこれら2つを分けるようなことはしなかったようで、しかも暗黙の内にディスカッションは効果があるというように考えられてきたそうです。反対に、明示的な指導は、学習者の自律性を損なう、専門家の意味理解をコピーさせることになる、自律的学習を妨げるという理由で一方的に根拠もなく批判されてきたそうです。しかし、これは(ディスカッションはよいはずで、明示的指導は悪いはずだという)イデオロギーに基づいた判断でしかなく、実証的な研究に基づいたものではありません。しかし、Hanauerはある論文で明示的指導の方がディスカッションよりも利点があるということを実証的に示したそうです。それに、ディスカッションはテクストに基づくわけですから、基本的に何か新しいものが加わるものではないので、この結果は当然であるとHanauer自身は考えているそうです。)。本研究は、マイノリティーのマジョリティーに対する偏見を扱うという点でもオリジナリティーがあるとも述べていました(普通はマジョリティーのマイノリティーに対する偏見)。ドイツ及びドイツ人へ偏見はドイツ語学習者(本研究の調査参加者)の言語学習を妨げることが予想されるため、それを打開しようとするこの研究は教育的にも価値があります。この研究は、統制群(何もしない)、読解群、読解+ディスカッション群、の3群にドイツ及びドイツ人に対する偏見の質問紙を介入前後に回答してもらい、介入前後の変化を見ようとするデザインになっています(介入前は3群とも偏見に対して統計的な差はなし)。

この研究の仮説は次のようなものです。"Reading literary texts AND subsequently discussing them in group decreases the amount of prejudice against a group MORE than merely reading these texts" "Reading literaryt texts decreases the amount of prejudice against a group" (p. 185, emphasis in original) 調査参加者は、ミュンヘンに住む80名のintermediate levelのドイツ語学習者で、彼らはいずれもドイツに18ヶ月以上住んでおり、ドイツの生活には慣れているとのことです。しかし、性別の統制が取れていない、2名だけドイツの高校の修了証書を持っていない。大半が読解に興味がある、調査参加者の文化的背景(4、5カ国程度)がかなり限られている、という限界もあるとしています。

第二次世界大戦中のナチスドイツのことはとても有名で、ドイツの偏見にも影響を与えていると考えられるとのことで、ナチスドイツというトピックに関連したテクストを用いることにしたそうです。テクストは詩が一篇と散文からの抜粋の2種類です。

調査結果としては、文学の読解はドイツへの偏見を減らした、ディスカッション自体(90分を2セットもやったにもかかわらず)はドイツへ偏見を減らすことに貢献していない、ということが得られました。つまり、これまでの先行研究で指摘されてきた、偏見に対する文学の効果は、文学の読解そのものに帰するべきであり、ディスカッションに帰するものではないと考えることが可能だとしています(同じ結果はHanauerの研究でも得られているそうです)。しかしながら、あらゆる偏見に対する改善が見られたわけではなく、非常に限られた点しか改善が見られませんでした。その理由として、著者らはfloor effect(調査参加者の偏見が元々低い)、学習者はドイツ語学習が好きであること、彼らのドイツの滞在期間が長くて既に表面的な偏見にはとらわれていない、ということが指摘されていました。つまり、もっと経験の少ない学習者であればその効果はもっと広範に及んでいると著者らは考えています。

次に、テクストの何が調査参加者の偏見改善に効果を与えたのかが議論されています。テクストはシンプルでしたし、学習者はテクストの詳しい背景的な知識も持っていません。著者らの見解としては、"the combination of narrative perspective and strong foregrounding devices" (p. 191)がその効果の源ではないかと述べています(ただし、このことについては実証的な証拠はありません)。

最後に、著者らは"some doubt on the 'surplus value' added by the discussion of the texts after they had been read" (p. 191)という結果を受けて、授業で文学テクストを扱う場合のディスカッションの時間を短縮することの意義を教育的示唆として導いています(実際、この実験で学習者は文学作品を読むのに費やした時間は短く、もっと多くの時間(180分)を費やしたディスカッションは偏見改善への効果を示さなかったから)。

とても面白い調査結果でした。文学教材を扱う際のディスカッションの意義について色々と考えることができました。

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2008年11月19日 (水)

J.Zerkowitz(2007).「Language Teaching Through Gricean Glasses」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Zerkowitz, J. (2007). Language teaching through Gricean glasses. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 155-165). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者は外国語学習者は文学の読者と似ていて、曖昧な意味を解釈したりするために、想像力や創造力を用いなければならないと述べています。しかし、昨今の外国語教育では、そういった曖昧な意味といった側面はあまり扱わずに、むしろ明示的で曖昧性の全くないような意味の側面ばかりを扱ってきたように思えると指摘されていました。そこで、著者は"a kind of imaginative/creative openness for reinterpretation" (p. 156)を扱っていく必要があると主張していました(意味を固定したものと見るのではなく、何度も考え直すこと)。著者はMcRaeやWiddowsonの議論に言及しながら、この重要性を強調していました。

著者は英語の授業の中で文学テクストを扱う際(つまりteaching language through literature)、グライスの公理を用いることは推論技術を練習することにもなり、非常に有益であると述べます。また、グライスのモデルないしは関連性理論に基づいて考えてみると、referential clarityとrepresentational creativityは程度の問題と考えることができるという点も説明されていました。グライスのモデルは文学テクストに対してもうまく機能するのですが、重要なことは、そのテクストの中でどのような公理(またはその違反)が見られるのか、ということだとも指摘されていました。また、コミュニケーションのレベル(登場人物同士のコミュニケーションであるとか作者と読者のコミュニケーション)によっても、同じ表現が曖昧(よりrepresentationalになる)になったり、その反対(Referentialになる)になったりするということも指摘されていました。最後にグライスのそれぞれの公理に基づいたタスクが列挙してありました。タスクはOrkenyのOne Minute Storiesの一節に基づいたものとなっていますが、他のテクストにも容易に応用することができます。

著者は、最初は将来英語の教員になることを目指しているハンガリーの大学生英語学習者に対する指導法として議論をスタートさせましたが、この指導法は13-14歳の中等教育の学習者に対しても上手く機能し、さらに学習者の興味をひきつけることができたということが報告されていました。日本人英語学習者に対して文学教材の内容理解を行なうときに、是非活用してみたいなぁと思いました。

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2008年11月17日 (月)

P.Simpson(2007).「Non-standard Grammar in the Teaching of Langauge and Style」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Simpson, P. (2007). Non-standard grammar in the teaching of langauge and style. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 140-154). New York: Palgrave Macmillan.

感想:大学生英語母語話者に文法を教える(意識させる)ために、非標準英語の文法規則及びその規則に基づいたタスクを与えるという趣旨の論文でした。ここで注目されている文法は主語と定性です(この論文は選択体系機能文法の文法記述に基づいた議論となっています)。そして、用いるものはHiberno-English(Irish-English)でよく見られるHiberno-English Emphatic Tag(HEET)です。著者は文法指導だけでなく、テクスト分析の技能をも向上させることを目指しているとのことですが、テクスト分析に関しては論文の最後に少しだけ出てくるだけで、この論文での主眼は文法指導にあるようです(ただし、著者は言語の創造性に関する他の文体論の研究と違って、非標準的英語(実際はこっちの方が標準英語よりも話者の数が多い)に着目している点が一歩進んでいるとしています)。著者は"That there grammar's wile hard(= The grammar is very hard), so it is" (p. 140)という例文を引用していますが、HEETは"so it is"という部分のことを指しています。HEETについて、著者は"this tag is a mini-clause which is appended to a declarative sentence and which functions in discourse both as an emphatic device and, to a lesser extent, as a filler or continuative particle." (p. 140)

しかし、標準英語には付加疑問文がありますし、わざわざ主語と定性を教えるのにHEETを用いなくてもよいのではないかと考えてしまうのでしまうのではないでしょうか。しかし、著者は付加疑問文の利用には問題があるとしています。"However, the problem with this type of tag-test, as the previous example shows, is that it alters mood-type and (normally) polarity in the course of its application, while also reversing the original Subject^Finite sequence in the matrix clause.  Because its central grammatical operation involves these major structural and sequential changes, the usefulness of the tag-test as a tool for grammar teaching is, in my experience, rather limited." (p. 143)一方、HEETについては、"Crucially for pedagogical purposes, the HEET replicates the Finite alongside the pronominal Subject not only in the exact sequence in which these elements occur in the matrix clause but irrespectively of how complex either individual phrase in the original clause may have been." (p. 143)

次に著者は実験を行なっています。36名の文学部英語母語話者学習者(ほとんどが文学専攻で英文法を勉強した経験はない)に8つの文を見せ、その文の主語に下線を引くように指示しました。学習者は"any noun will do"といったストラテジーを持っているようで、主語としていくつもの語に下線を引いたり、主語の1部分だけしか線を引いていなかったりと、かなり低い正答率を示したそうです。"In all, the results suggested the students were confused by the relationship between the interpersonal dynamic of Subject and the presence of nominal elements inn a clause, so the preferred gambit was to underline anything that might in some context constitute a grammatical Subject.  This resulted in up to five Subjects being attributed to a single clause in some cases, such that there was little consistency of accuracy across the set of results as a whole." (p. 147, emphasis in original)

次に、著者は学習者に新たに8つの文を与え、今度はHEETを導入します。そして、その後でHEETをそれら8つの文に付け加え、更に主語に下線を引くように指示しました。すると、学習者は正しく主語を判断することが飛躍的にできるようになったということが示されていました。学習者はHEETにおける定性の部分に残余部を含めるといったことも行なわず、正しくHEETを作ることができたそうです。

また、著者は最後に2つの興味深い点が現れてきたとしています。1つはNorthern Subject Ruleについてです。これは、スコットランドや北イングランドの方言に見られるもので、"the rule specifies that 'singular concord' is activated in the environment of a third person plural lexical Subject" (p. 149)という言語規則です。しかし、代名詞に-sをつけることができないことから、"Them boys was crossing the road, so they was"とせずに、学習者はHEETを"so they were"としたことが指摘されていました。もう1点は、"I think she tore up her contract"という文において、学習者はI thinkをモダリティーを表わす文法的比喩として捉えており、HEETを"so she did"にしていたという点でした。

最後に、結論部分では、著者はLabovのAfrican American Vernacular Englishのcopular verbの主節での削除に関する研究(しかし、copular verbは付加疑問文では現れる)を引用しながら、非標準的英語は標準英語同様に一貫性があり規則から構成されているという点を強調しています。また、英文法を英語母語話者が学習する際は、テクスト分析で役立つような文法モデルが必要と述べており、HEETといったものはその役割を果たすことができるとしています(この場合は"Subject dictator" (p. 151)としての役割)。特に文法パターンが前景化されているようなテクストを分析する際にはそういったモデルが強力に機能すると著者は述べます。ここでは、HEETとの関係で、Theodore Roethkeの"Child on Top of a Greenhouse"という作品の冒頭が引用されていました。この詩には定性が欠如しており、時制やモダリティーを担う情報がありません。HEETなどがあれば、このことに気づきやすくなるというわけです。ちなみに、この詩について、著者は"The sense that elliptical structure engenders could be read as one intimating urgent action and vigorous movement, but at the same time cutting this action and movement adrift from an anchor in time or temporal 'finiteness'." (p. 152)と論じています。

著者はCarterらと違って、非標準的なcommon talkにおける言語の創造性に着目をしました。文体研究のリソースとしての文法(モデル)開発は教育文体論が抱える大きな課題の1つであると述べて著者は本論を締めくくっていました。とても面白い論文で、勉強になりました。

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D.L.Gugin(2007).「From Syntax to Schema: Teaching Flannery O'Connor in the Persian Gulf」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Gugin, D. L. (2007). From syntax to schema: Teaching Flannery O'Connor in the Persian Gulf. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 129-139). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者はVerdonkが、文体論を"the main (perhaps only) rationale for stylistics is its ability to provide greater linguistic precision to existing literary descriptions of individual texts or authors" (p. 129)として定義していることに対して"far too timid"と述べるところから議論を始めています。次にもっと積極的に文体論を定義づけている研究者としてStubbsを引用しています。Stubbsは、"a 'systematic stylistic analysis not only describes new things, but also helps to explain readers' reactions to the text [by] relating those reactions to unconscious linguistic knowledge'" (p. 130)と文体論を定義づけたそうです。しかし、Stubbsが指摘した2つの点(新たな発見と読者の反応の説明)は更に発展させられなければならないと述べます。そして、本論文の目的について次のように述べます。少し長いですが、引用しておきます。"... the two arguments suggest an understanding of stylistics as not just an end in itself, but as a means to an end.  Such an understanding, in turn, demands a method and a location for transforming what is basically still a theretical position (an abstration) into a much more concrete reality which resides in the EFL applications of analysis and schema theory.  That, then, is the purpose of this chapter - to demonstrate a strategy for teaching reading in which the analysis of a particular grammatical structure in a given author's work is used successfully to expand the unconscious linguistic and cultural knowledge (the schema) of university students in the Persian Gulf." (p. 130)

著者はFlannery O'Connorが作品内で用いている擬似分裂文に着目します。"What I need is a long cool drink"が基本形であり、"A long cool drink is what I need."がその倒置形となります(著者のここでの議論は擬似分裂文について異なる見解を持つ言語学者であっても最低限共有している程度の文法記述に基づいているそうです)。whatを含む部分は背景知識を表わし、もう1つの方は前景化ないし新情報を表わします。Birnerによると擬似分裂文には"exhaustiveness and exclusiveness" (p. 131)という含みがあるそうです。そして、擬似分裂文の文学的機能及び、O'Connorの擬似分裂文に注目する理由について次のように述べています。この部分もとても面白いと思ったので、少し長いですが、引用しておきます。"Because it is an identifying construction, and because it does have this exclusiveness property, the pseudo-cleft renforces O'Connor's characteristic insistence on, and preoccupation with, linkages and correct vision.  Moreover, its role in information structuring allows her to manipulate given and new information and thus to generate the simultaneity of expectation and counterexpectation that defines her work.  And since it is so important to an understanding of O'Connor, a stylistic investigation of the peudo-cleft provides an excellent opportunity to answer Stubb's call for explanation as well as description - a stylistics that teaches." (p. 131)

次に、著者はO'Connorの擬似分裂文を6つのタイプに分類しています。この分類方法については、"In my own study, I used Hardy's TexTANT text analysis and statistical program ... to collect all of O'Connor's basic and reversed pseudo-clefts.  I analysed those tokens in terms of the syntactic class and function of their foregrounded elements, the length in words of their precopular and postcopular constituents, the antecedents of their headless relative clauses(Rel-clause:whatを含んだ部分のこと)... and the information status of their Rel-clauses and foregrounded elements." (p. 131)と述べています。著者は79の擬似分裂文から、obsessive(暴力や悲劇的な死に関連)、echoing(他の擬似分裂文を反復及び強調)、contrastive(聞き手(話し相手)が話者と対照的な信念(しかも強い)を持っている場合に用いられるもの)、predictive(先の展開を指し示し、語りを前に進めるもの)、linking(対照的なもの(近vs遠)を結びつけて空間および時間的な距離を克服し、「真実」を同定させるもの)、anagogic(linkingの1種であるが、特に物質世界と精神世界を結びつけ、有限の人間世界と神や「永遠」といった際限ない世界を結びつけるもの)という6つのカテゴリーを抽出しました。

これら6つのタイプの擬似分裂文は彼女の作品を特徴づけています。したがって、擬似分裂文に着目することは外国語教育(少なくとも大学生英語学習者に対するO'Connorの作品の指導)に有益であると述べます。更に、著者は擬似分裂文をより広くスキーマの構築という観点から考えるともっと有益であると述べています(そう言えば、偶然にもスキーマも擬似分裂文も共に旧情報に基づいて新情報を理解するものですね。でもここでの「スキーマ」は、擬似分裂文及びその分類という構造的かつ意味論的情報を元にテクストという新情報を理解するという意味で使われています。)。また、著者はSeminoのmind styleという概念とBoase-Beirの「作者のworldview再構築における読者の役割」の研究に言及し、"this chapter can rightfully be seen as a pedagogical synthesis of Semino's cognitive and stylistic explorations of the writer's articulation of a worldview and Boase-Beir's later argument about the reader's equally important role in responding to and reshaping that worldview into one of his or her own." (p. 135)と述べていました。この中で、著者はstylistic mappingというプレ・リーディング活動を提案しています。テクストを読む前に、新出語彙を指導するということはよくあるのですが、著者は擬似分裂文及びその分類について指導し、生徒により深い読みをさせることを目的とした活動です。著者はこの手法は擬似分裂文以外でも色々と使えると述べています。

以上のような指導例を示したところで、著者は最初の論点に戻ります。つまり文体論の定義です。著者は本論文を通して、文体論は言語学と文学を同時に教えることを可能にする(また、そういったことを可能にするようなテクスト記述をもたらす)、教育的にも非常に柔軟な方法論であると述べています。また、言語学(ディスコース)から文学(テーマや文化的スキーマ)への移行もスムーズにやってのけることもできます。また、今回提示した指導によって、学習者は自分たちの考え方とO'Connorの考え方の共通点を発見することもでき、異文化理解という上でも有益であるとしています(確かに、異文化理解というと文化差ばかりが強調されますが、私たちは文化差を知るということと同等に、いやむしろそれ以上に、共通点を見つけたときに嬉しく感じるのではないでしょうか)。

"Incorporating the peudo-cleft into schema-building activities is therefore a most effective way of encourating those students to discover what they have in common with O'Connor and what they can learn from O'Connor.  It renders her fiction less 'foreign' and thus easier to understand.  It also demonstrates the ultimate value of a classroom pedagogy rooted in stylistics." (p. 138)

SLAでのFocus on Formの考え方などには、先に文法的なことを簡単に説明しておいて、それからインプットを与えて、その意味理解に学習者を従事させるという考え方もあります。SLAとの関係で文体論を考えていくという方向にこういった研究を発展させれば、実証的な研究も可能だと思いました。

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2008年11月16日 (日)

M.Short,B.Busse,&P.Plummer(2007).「Investigating Student Reactions to a Web-based Stylistics Course in Different National and Educational Settings」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave)

Short, M<., Busse, B., & Plummer, P. (2007). Investigating student reactions to a web-based stylistics course in different national and educational settings. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 106-125). New York: Palgrave Macmillan.

感想:文体論教育の方法論についての論文です。第一著者の先生には私がランカスター大学在学中にはお世話になりました。この論文では従来教室で行なっていた文体論の授業をウェブで行なった場合の効果について調査がなされていました。3つの大学(Lancaster、Mainz、Munster)で実施し、その効果についての検討が行なわれていました。いずれも大学生レベルでの試みであり、英語学や文学を専攻している学生がその接点として文体論を初めて学ぶという状況のようです。

まず、学習効果については、教授法による統計的な違いは見られず、従来どおりウェブの授業でも学習者は授業の最後には文体分析を行なうことができるようになったそうです。また、授業形式に対する反応については、学習者は伝統的なものの方をウェブによる授業スタイルよりも好んでいるようです。しかし、ウェブによる授業形式にはいくつも利点もあり(自分のペースで勉強できる、何度も繰り返すことができる、いつでも勉強できる)、徐々にウェブ形式に対する学習者の反応はよくなりつつあるようです。この論文の元となっているデータから判断する限りでは、学習者が最も好む授業スタイルは伝統形式とウェブ形式を折半したもののようです(トピックによって授業形式が変わることになります)。また、文体論のeラーニングを通して、学習者は自分の学習スタイルについて自覚的になることもできたようです(グループ学習と個人学習どちらが自分の性に合っているか)。学習者は概して、この授業を面白く、将来役に立つとも考えており、適度な難しさも感じているようです。

ここでは、3つの教育機関におけるアンケート調査から抽出された共通点を主にピックアップして話しましたが、論文中にはそれぞれの教育機関(Lancaster大学とMainz・Munster大学)での調査が詳しく議論されています。しかし、著者らはこれらの大学での調査結果に顕著な違いは見られなかったと述べていました。より詳しい情報は本論文をご参照下さい。

それにしても、ショート先生の論文の中で統計が出てきたのにはかなり驚きました。あまり好きではないとおっしゃっていたので。ですが、カイ2乗検定(p. 112)は誤用と言えるかもしれません。セルに「0」が含まれているので、そこに関してはフィッシャーの正確確率計算を行なうべきかと思いました。小さいことですが。

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2008年11月14日 (金)

B.Louw(2007).「Literary Worlds as Collocation」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Louw, B. (2007). Literary worlds as collocation. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 91-105). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者はコロケーションという考え方は重要であり、こういったものがなければsemantic prosody(著者自身が他の論文で深く研究をしており、私自身この著者の他の論文を読んだことがないので、明確にどのような概念なのかは分かりませんでした。ですので、この概念それ自体に興味のある方はこの論文に引用されている他の論文を参照下さい。)、アイロニー、insincerityについて議論することができないと述べ、コーパス言語学の発達により、コロケーション研究が飛躍的に進展したと指摘します。著者はDickensのGreat Expectationsの中からcommonという語のコロケーションに注目していました。しかし、単に最も頻度が多い組み合わせがキーワードだと考えるのは楽観的過ぎ、そのレマ内のコロケーションのヴァリエーションに注目したり、他のコーパスと比較すること(当時はcommonは人と頻繁に共起したことが指摘されていました)などが必要であると指摘していました。また、KWIC形式を利用し、キーワードの前後を見る中で、そのキーワードがどのようにポーズ("a full stop after the node" (p. 98))を作り出しているのかということなどを調べることが出来るとし、MarloweのDr Faustus内のsoulという語をキーワードとしたデータが示されていました(残念ながら著者による分析自体は示されていませんでした)。次にcontext of situationというFirthの概念に依拠しながらsemantic prosodyについての分析方法例が示されていました。著者によるとsemantic prosodyはcontext of situationから逸脱が生じたときに生まれるとしています。著者はHopkinsの"My own heart"という作品と、BNCコーパスを使い、そのselfという語の使われ方を比べています。そして、例えばselfという語が通常のcontext of situationを破っているかといったことを考えることができるとしています。このようにコーパスは文学批評を行なう上で、その語が通常はどのように使われているのかといった情報を提供するため、議論を基礎づけたり、仮説を強化したりすることを助けます。

最後に、著者は認知人類学、心理学、新しい言語学、人工知能などで生み出された新概念よりも、コーパスの簡単な3つの道具(タグ付けされたテクスト、コーパス、コンコーダンス・ソフトウェア)だけで教師と学習者は共に"the scientifically respectable pursuit of meaning by ant through the nascent discipline of collocation as instrumentation for language" (p. 104, emphasis in original)を追い求める探究者となることができるとし、その教育的及び研究的価値を大いに主張していました。

確かに、コーパス文体論というのは、文学の指導と研究両方に大きな可能性を秘めているのだなぁと感じました。

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2008年11月13日 (木)

D.E.Hardy(2007).「Corpus Stylistics as a Discovery Procedure」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Hardy, D. E. (2007). Corpus stylistics as a discovery procedure. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 79-90). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者は、frequency counts、keyword indexing、collocations、contextualized searchesといったコーパスの分析方法を使って、Flannery O'Connorの文体の特徴を浮かび上がらせることを例として、コーパス文体論の教育上(おそらく言語学ないし文学を専門とする学習者に対する教育)の価値を議論していました。著者は比較の対象として、Flannery O'Connorの執筆時期と比較的近い時期のコーパスである、Brown Corpusのgeneral fiction、mystery、science fiction、westerns、romanceのサブ・コーパスを用いていました。まず、著者はキーワード分析によってbegan、nigger、Negroという語がBrownのサブコーパスよりも優位に多く用いられていることを示します。そして、beganに対しては、コロケーション分析(コンコーダンス分析)によって、起動相(began to do)の形で用いられていることを明らかにし、その効果について次のように述べています。"The unboundedness of the ingressive allows the narrator to bring together not only events but also focalized observations in the time that the complement event occurs."(p. 83)つまり、beganという動作は完了しているのに対して、その不定詞として用いられた動詞は進行中となり、物事の描写を複雑化しているというわけです。このことは、O'Connorが多層的な語りの構造を用いるのに貢献していると著者は指摘しています(しかし、実際に語りを複雑にしているのはbegan to doという構造それ自体ではなく、不定詞として用いられている動詞であるとも著者は述べていました(p. 84))。

次に、niggerとNegroという語のcontextualized searchを通して、labels of primary potency(="words that sometimes prevent us from recognizing the multifaceted complexity of individuals and their identities" (p. 85))とspeech/thought presentationを学習者に意識させる方法が例示されていました。著者は、引用符にくくられている部分をdialogue、そうでない部分をnarrationとタグ付けし、これら2つの部分の間でniggerとNegroという語の使われる頻度が異なることを示しています。しかし、著者も認めている通り、この分類方法は粗雑過ぎ、考察を深めるためにはもっと細かなタグ付けが必要となると述べられていました。例えば、narrationの部分に分類されていても、登場人物と語り手が融合しており、その融合において優勢にある者がその語彙選択をコントロールしているようです(登場人物がコントロールしている場合は、より差別的なniggerが用いられ、語り手が支配している場合はniggerよりは差別的でないNegroが使われているなど)。

著者はコンコーダンス分析によって、教師の直感をデータで補強したり、優勢的な構造の中のヴァリエーションを分析したりすることができ、その教育的価値は大きいと考えています。しかし、パソコンが苦手な学習者に対しては、それなりのケアが必要という点も指摘されていました。

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2008年11月12日 (水)

U.Clark(2007).「Discourse Stylistics and Detective Fiction: A Case Study」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Clark, U. (2007). Discourse stylistics and detective fiction: A case study. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 60-75). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者は探偵小説を使って、学習者に文体論の重要な概念(genre、narrative structure、point of view、characterization)を指導し、かつそれぞれの概念を実際のテクストに適用させる中でテクストの言語学的側面、心理学的側面、社会文化的側面に注意を向けさせることを提案しています。この論文は文体論初心者用の学部生用授業のために著者が考案した指導法の報告です。テクストは、Dorothy L. SayersのGaudy Night(1936)とP. D. JamesのThe Murder Room(2003)でした。時代が異なる二つのテクストを使うことで、学習者に階級や人種、ジェンダーといった社会文化的変化(テクスト内に反映されている社会的変化)に注目させることを意図しているあたりから、著者がタイトルにdiscourse stylisticsという言葉を入れているのがよく分かりました。概念別に授業が組み立てられていて、授業の前半は概念の説明及びその概念が関わるテクストの側面の解説がなされます。後半はワークショップで、学習者はグループで教師が与えた質問(授業内容に関する質問と、その概念を実際のテクストに応用するというタスク)に答える時間となっています。授業内容とその質問は詳しく記述されていますので、著者がどのような授業をやったのかはっきりと理解することができます。詳細はここでは割愛しますが、理論をテクスト読解という実践にどのように結びつければいいのか、文体論の授業を行なう際には大いに参考になるのではないでしょうか。

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2008年11月11日 (火)

R.Montoro(2007).「Analysing Literature Through Films」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Montoro, R. (2007). Analysing literature through films. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 48-59). New York: Palgrave Macmillan.

感想:小説を元にした映画というのは原作への忠実性に関して、原作の方が優れていて、原作の変更は悪しきものと考えられがちです。同時に、文学作品の中で映画を扱うことは批判されがちです。こういった問題は、"a hierarchical treatment of literature and cinema as representatives of a high/low culture dichotomy" (p. 49)に由来していると著者は考えています。そこで、こういった問題を乗り越えるために、文学も映画も共にディスコースと見なすことが重要であると著者は指摘し、以下、映画(Possession)を1つの文学作品として分析していく方法が提案されています。こういった立場に立つことで"I would like to argue that studying literature and cinema as discourse can overcome the need for such a priotization, since good cinematic versions can not only replicate but also enhance and enrich the intrinsic worth exhibited in the novel." (p. 53)と述べています。

具体的には、著者は学習者にliterary adaptation、technical film procedure(カメラワークなど)、semiotic and semantic analysis、metaficional analysis、その他映画の内容(テーマ)に関する質問、などを考えさせることを提案し、学習者に分析に際してクリティカルなスタンスを取れるうようになってほしいと考えているようです。著者はスペイン人英語学習者が英語フィロロジーの学位を取る際の授業の一環としてこの授業実践を考えているようですが、日本の大学で用いるには、かなりの英語力を学習者に必要とするでしょうね。

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J.McRae(2007).「'The Shudder of the Dying Day in Every Blade of Grass': Whose Words? Voice, Veracity and Representation of Memory」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

McRae, J. (2007). 'The shudder of the dying day in every blade of grass': Whose words? voice, veracity and representation of memory. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 37-47). New York: Palgrave Macmillan.

感想:この論文ではDickensのGreat Expectations(a disillusioned, but romantic man in early middle ageの観点からの彼自身(Pip)の人生の語り)、Saro-WiwaのSozaboy: A Novel in Rotten English(直接的で知覚したままのMeneの語り)、RoyのThe God of Small Things(語り続ける中で徐々に過去や過去の現在への影響を語ることができるようになるRahelの語り)という3作品を取り上げ、その語りが分析及び比較され、語りにおける"questions of immediacy, narratorial self-awareness, innocence and experience" (p. 45)に学習者の注意を向けさせることの大切さが指摘されていました。学習者は"narrator's stance in time and place, in experience and reality"にどのように反応すればいいのかを学習する必要があり、こういった側面を意識している学習者は"can lead the reader to see levels of reality direct, less direct, and indirect, as time, place and perception become more, or less confused, and the story is seen through words the narrating voice has chosen, personal, subjective, sometimes calculated, sometimes innocent, a clear but distant mirror." (p. 45)と述べています。学習者は語彙選択や意味選択に注意し、その語り手がどの程度信頼できるのか、誰が語っているのか、といったことを理解するためのスキルを高めていく必要があると著者は述べていました。

この論文は少し読みにくく、また著者が述べたいことも少し分かりにくかったです。。。

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2008年11月10日 (月)

J.Gavins&J.Hodson(2007).「When the Students Become the Teachers: A Practical Pedagogy」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Gavins, J., & Hodson, J. (2007). When the students become the teachers: A practical pedagogy. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 27-36). New York: Palgrave Macmillan.

感想:シェフィールド大学では、BA in English Language and Literatureというコースで、文体論をコア・モジュールとして学習者に履修させ、学習者は語学と文学の関係について適切な認識を持つことができるようになってきたそうです。文体論のコースは、1、2年生の間に基本的な(あるいは実践的な)ことを学び、3年生では理論的ないし哲学的な議論へと入っていきます。しかし、この飛躍に関して、同大学は苦心しておられるようです。そもそも、このBAでは、このコースを通して学習者に"self-reflection, independent thinking, and conscientions criticality" (p. 30)を身につけて欲しいと考えているようですが、こういったことにも寄与するような上級文体論コースの構築について議論されていました。

当初は文体論の歴史や重要な議論について論文を読ませ、学習者に議論させるという形式を取っていたそうです。しかし、学習者は今まで勉強してきた文体論には多くの問題点があり、そこから先へと進めなくなってしまうという事態が起きてしまったそうです。そこで、3年生の学習者に1年生用の授業を計画させ、その実施及び反省をさせるという形式に変えたそうです(評価は授業前の計画書と授業後の報告書によって行い、授業が実際にうまくいったかどうかは評価の対象外だそうです)。この実践は成功したそうで、1年生も3年生も楽しむことができ、それぞれに貴重な経験をしたと各自が認識しているそうです。更に、教師自身も斬新なタスクや指導法を目にすることができ、自らの授業を発展させることもできたそうです。また、このタスクは先に挙げたこのコースの目標"self-reflection, independent thinking, and conscientions criticality" (p. 30)の達成にも大きく寄与したそうです。3年生の学習者は自らの文体論の理解の伸び(1年次の資料などを見直したりすることを通して)を認識することができ(self-reflection)、実践的なレベルでアカデミックな論文について考え直す(実践を通して考えが変わることもあることも含めて)ことができ(independent thinking)、(当初の計画や予想通りに事が(いい意味でも悪い意味でも)進まないことを通して)実際の読者というものを意識することが出来る(conscientious criticality)ことができたとしています。とても面白い試みだと思いました。

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2008年11月 9日 (日)

D.I.Hanauer(2007).「Attention-directed Literary Education: An Empirical Investigation」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Hanauer, D. I. (2007). Attention-directed literary education: An empirical investigation. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 169-180). New York: Palgrave Macmillan.

感想:僕の好きな研究者による、僕の好きなタイプの研究でした。文学教育については実証的な研究が少なく、またあまり好かれないという現実がありますが、著者は次のように述べています。"I contend that literary education is by definition an empirical situation and as such will benefit from utilizing both an empirical and a theoretical approach." (p. 169)まさに、至言ではないでしょうか。実証的研究は、学習者の実際の反応などに関する情報を与え、理論的に理想化された考えを修正させたり、異なる批評理論の立場を評価したりすることを可能にするという点で、とても有意義であると著者は述べています。

著者は、最初に文学教育のモデルを示します。これは認知心理学(あるいはSLA、応用言語学)の情報処理理論を元に組み立てられています。このモデルの中には、literary knowledge development、cognitive concepts of enhanced literacy ability(Bialystokによるanalysisとcontrolのこと)、understandint the system of attention(Tomlin & Villaによるalertness、oriantation、detenction)、という3つの基本的な要素があり、これらが相互に関連し合っていると著者は仮定しています。この立場では、基本的には文学テクストのパターンに対する意識が高まれば、その分テクスト解釈の能力も向上するという前提があり、そういった意識を直接的に高めると考えられるformal instructionに大きな価値を見出しています。このモデルの詳細は省きますが、著者による要約を示しておきます。"In summary, the model desrcibed here posits that awareness and the system of attention have central roles in knowledge development.  The starting point is an awareness of information within the literary text.  This can manifest itself in the form of a general alertness for patterns in the text of an orientation towards specific patterns.  Awareness can be heightened by explicit knowledge of literary patterns or by formal instruction.  This in turn influences which patterns will be detected and thus enter the individual's cognitive system for further processing.  As presented above, information that enters the cognitive system can undergo further analysis and develop the wider representation of this knowledge.  Once knowledge has been converted into a more analyzed and explicit form, the learner has more control over this information and can selectively and appropriately focus and detect this information in literary texts." (p. 173)そして、文学教育の役割については次のように述べています。"the role o literary education within this model is one which creates a framework through which students will become aware of specific components and patterns of relations withing a literary text." (p. 173)

しかし、このモデルについて議論しただけでは、明示的指導が学習者の文学テクスト解釈に本当に寄与するということを示すことができません。そこで、著者は次のようなリサーチ・クエスチョンを立てます。"To what extent do explicit and implicit educational methods develop readers' abilities to provide interpretive understandings of new poetry?" (p. 174)著者は40名の学習者にある作家による詩の解釈をさせ、その半数にはその詩のパターンについて明示的指導を行い、もう半数の参加者には学習者主導型の討論を行ないました(それぞれ10時間。もちろん指導前には両集団の間に有意差はなし。)。そして、そのあと同じ詩と同作家による他の詩を解釈させ、その解釈の質が向上したかどうかを2名の教師が判定しました。判定の際の評価は、Hanauer (1996)による枠組み(local pettern、linking pattern、global pattern)とその作家独特のパターンが、どの程度解釈の中に組み込まれているかを見ることで行なったそうです(評定者間信頼性は87%)。

さて、実際の結果ですが、local patternについてはあまり調査参加者に用いられていなかったそうで、分析の対象から外し、linking pattern、global pattern、作者独自のパターンの3つの観点から分析を行ないました。結果としては、両方の指導法によって学習者の詩の解釈の質は向上したそうです。しかし、明示的指導の方がその伸びは顕著であったとしています(MANOVAによって優位差も検出されています)。また、同作家による他の作品の解釈についても、明示的指導を受けた集団の方が質の高い解釈(様々なパターンを組み込んだ解釈)を産出することができたそうです(つまり"the explicit modeling of a system of interpretation increases students' abilities to independently use that system of interpretation in novel cases." (p. 180))。

こういった結果を受けて、今後の研究に対して著者は次のように述べています。"The ramifications of this are that a variety of theoretical positions can and should be modeled in the literary classroom and that this modeling should increase students' interpretive abilities.  It is important to note that in order for explicit modeling of systems of literary interpretation to work, theretical as well as empirical research needs to be conducted in forder to facilitate an understanding of how the system of interpretation functions.  In this sense, the empirical and the theoretical in combination with an explicit educational approach can enhance and widen students' interpretive abilities." (p. 180)

文学を認知的な観点から議論すると、歴史や文化的な側面を無視しているのではないかという批判が与えられることがあるのですが、学習段階にある学習者はそういった観点もすべてひっくるめた上で認知的な処理を行ない、作品の解釈を行なっているという点を忘れてはいけないと思います。あまりこういったアプローチになじみのない方にもオススメしたいところなのですが、この論文はかなり多くのことが前提とされていて、Hanauer先生の他の論文を読むことから始めないとなかなか理解しにくいかもしれません(例えば、なぜ解釈の評価をパターンという観点から行なっているのかといった点など)。興味のある方は、まずはこの論文に引用されているHanauer先生の論文を読むところから始えることをおすすめします。

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P.Stockwell(2007).「On Teaching Literature Itself」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

Stockwell, P. (2007). On teaching literature itself. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 15-24). New York: Palgrave Macmillan.

感想:the teaching of English as a Foreign Literature (EFLit)という考えが特にイギリスの大学などで発展してきてはいるものの、文体論はまだ文学教育の手段としてはあまり広く考えられていません(言語教育の一環としての価値はもうイギリスの大学では確立しているそうですが)。そこで、この論文では文学そのものを教えるための手段としての文体論の価値が議論されています。この論文では著者のワークショップで実際に行なった活動や討論を基に議論が進められています。著者はBysshe Shellyの"Ozymandias" (1818)を指示という観点(dictic dimension)から議論することを通して、言語記述に終始しない方法(読者と解釈をも議論する方法)を例示していました(shift theory、poetic register、styleについても言及あり)。著者は文体論について、"it is not good enough to leave the discussion at the level of linguistic description: that might be good linguistics b ut it is poor stylistics." (p. 22)と述べています。次に、Horace Smithによって書かれた類似した詩("On a Stupendous Leg of Granite, Discovered Standing by Itself in the Deserts of Egypt, with the Inscription Inserted Below")とSherryの詩を比較させ、テクストの語彙や手法の選択について考えさせることで、さらに豊かな議論が可能になるとしています。

著者はこういった活動の主眼として、"the point of the seminar is to enrich our understanding of the literary work in hand, to appreciate its signiricance as a moment in literary evolution, and to regenerate its texture and power" (p. 23)と述べています。文学解釈を豊かにするためならば歴史的ないし文脈的な情報も活用しますし、まず読者に与える効果という点(テクストに含まれる優勢な特徴ではなく)からスタートします。著者は文体論(歴史学、社会学、哲学、考古学ではなく)こそが文学を文学として扱うことができる方法であると自負しています。こういったアプローチは、"how the text helps the reader to generate the literary experience" (p. 23)という観点から出発することになるそうです。

ここまで文学という立場に立って文体論を論じる論文はあまり多くないと思うので、とても面白かったです。また、示してあった"Ozymandias"の分析もとても面白く読みました。

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2008年11月 5日 (水)

G.Hall(2007).「Stylistics in Second Language Contexts: A Critical Perspective」を読む(G.Watson&S.Zyngier(編),『Literature and Stylistics for Language Learners: Theory and Practice』,Palgrave Macmillan)

この論文の詳細は次の通り。

Hall, G. (2007). Stylistics in second language contexts: A critical perspective. In G. Watson & S. Zyngier (Eds.), Literature and stylistics for language learners: Theory and practice (pp. 3-14). New York: Palgrave Macmillan.

感想:著者には今年の5月頃にお会いし、とても気さくで、色々と文体論について話すことができました。著者は、この論文の中で、文学作品の理解と文体論の役割について次のように述べています。"Literature can only be understood through its complex and variable similarities and differences with other discourse types, and discourse stylistics enables the leaner to appreciate these rich data better, as meaningful choices of style, register, genre, culture and identities in varying contexts." (p. 7)そして、文体論の第2言語教育における役割については、"Thus, advocacy of discourse stylistics in second language situations is based on the idea that promoting critical learner interactions with such rich linguistic and cultural data, asking why these words were used in this way in this context, with an appreciation of other possibilities that could have occureed, will also promote literary, linguistic and cultural learning relevant to learners' own agendas." (p. 7)と述べています。そして、著者はこの中で特に文化的なアプローチの研究(Kramsch (2000)、Boyd & Maloof (2000)、Kim (2004))を取り上げ、その内容をレビューしていきます。これらの研究のレビューによって、社会文化学習の理論が第2言語教育の中で文体論を使って研究をしている人たちにとってとても関係があるということを導き出しています。

結論では、著者はByramらが提唱するintercultural competenceに言及し、学習者が異なる複数の異文化集団と相互作用する能力を養う上で、文体論は大いに役立つだろうと述べています。というのは、異なる言語や文化の意味について考えることができ、自分や他の人が言いたいことをよりうまく表わすためにはどのようにその言語(表現)を変えていけばよいかを考えることができるためです。

僕は文体論の本ということで、あまり社会文化的なアプローチの話が出てくることは予想していなかったので、ちょっと驚きました。文体論も批判的談話分析(Critical Discourse Analysis)のことをかなり意識しているのでしょうか。また、著者はHanauerの論文に言及しながら、文体論ないし文学を使った外国語教育研究などの実証的な証拠が少ないということを何度か言及しています。やはり、文体論的な研究での実証研究は難しいのでしょう。文体論研究者的には、実証的証拠は「あるにこしたことはないが、絶対に必要とはしないもの」といった感じなのかなぁと思いました。第2言語教育における文体論の役割を考えるにあたって、その研究アプローチとしては実証的アプローチよりも社会的アプローチの方が有意義だというのが著者の隠れたメッセージではないでしょうか。

また、本書の最初にRonald Carter先生が、前書きを書かれていて、その中で文体論の苦難の歴史について触れてありました。とても面白いと思いました。

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2008年11月 3日 (月)

I.Maun(2006).「Penetrating the Surface: The Impact of Visual Format on Readers' Affective Responses to Authentic Foreign Language Texts」を読む(『Language Awareness』)

Maun, I. (2006). Penetrating the surface: The impact of visual format on readers' affective responses to authentic foreign language texts. Language Awareness, 15 (2), 110-127.

感想:外国語教育ではauthenticな教材を用いると学習者の動機づけが高まるというような考えが蔓延していますが、果たしてそうだろうかと著者は疑問を投げかけた論文で、特に書記素論的な特徴に注目した分析がなされていました。

著者はまず、外国語教育研究におけるauthenticityの定義についてまとめています。そこでは、authenticityをテクストの作者やその産出プロセスに帰する考えと学習者と所定の言語表現との関係に帰する考え(Widdowson流)が紹介されていました。しかし、テクストを外国語学習に用いるということは本来テクストの作者に意図されたことではありませんし(メニューを教材にしたところで実際に料理を注文するわけではないなど)、authenticityという概念自体に著者自身少し問題を感じているようです。そこで、著者は、naturalという語を用いることを提案しています(これはWiddowsonのgenuineに相当するそうです)。テクストは、もともとの産出意図通りに外国語教育で用いられるわけではないですが、少なくともnaturalではある(本来ある目的のために産出されたテクストである)とは言えるというわけです。

こういったnaturalなテクストは学習者の情意面に影響を与えるようです。このようなnaturalなテクストの字体や字の色などは研究者の間では重要視されていませんが、それらは特定のオーディエンスを想定している作者によってある目的のために選択されたものですので、軽視しすぎることは問題です。

調査参加者は、naturalなテクストを読み、それらの難しさを判定するように指示されます。そして、その判定をもとに、研究者とその学習者がその判定を行なった根拠などについて話合い、その際の発話をデータとして書記素論的な特徴がどのように学習者に影響を与えているかを質的に分析されています。具体的には、elements(density、illustration、font、color、highlighting)、principles(columns、textual sub-division、titling)などについての言及が分析の対象とされています。

学習者はテクストの内容ではなくその「デザイン」にまず反応を示すようです。「デザイン」に関する特性はテクスト理解の本質的な妨げとはなっていないようなのですが、いくらかの不安を学習者にあおり、内容理解に多少の影響を与えることがあるようです。elementsの側面に関しては、(1)学習者は重厚な白黒のテクストではなく、軽いレイアウトで色も入ったようなテクストを好む、(2)イラスト入りのテクストを好む(ただし、そのイラストが明確でテクストに関係している場合に限る)、(3)フォントの大きさや読みやすさは学習者に影響を与える(しかし、文化差があることが予想され、深くは立ち入られていない)、といった点が指摘されていました。principlesの側面に関しては、(1)コラム様式が好まれ、それに更に色が入るとより肯定的に受け取られる、(2)サブセクションのあるものが好まれる、(3)タイトルがあるものが好まれる、といった点が指摘されていました。著者は述べます。"If emotional barriers are (unintentionally) erected by the designer of the text, then it will be necessary to find ways to access or create the meaning of a text by avoiding or surmounting those barriers." (p. 124)

最後に、理想的なテクストの形について著者は述べています。学習者はイラストの重要性については時と場合によって意見が分かれたそうなのですが、"clear organization"と"a lack of density"という要素に関しては意見が一致していたそうです。もちろん、学習者に否定的な感情を生じさせないような理想的なテクストは存在しえませんが、彼らは非理想的なテクストに対しては明確な意見を持っているようで、そういった意見を参考にしてより理想に近い教材を作成していくことが求められるようです。

このようにnaturalなテクストというのは、学習者に否定的な感情を与えるということを教師は忘れてはいけません。著者は最後に、"authentic"の定義を拡大することを提案します。"'authentic' cannot merely mean 'photocopied' but must be interpreted as 'originally drawn from the target-language but with appropriate modifications'." (p. 126)

実際に、僕は哲学の論文などを読むときにタイトルがなかったり、びっしりと文字が詰まっていたりすると、「難しそうだなぁ」とビビッてしまうことも多々あります。行き過ぎたauthentic text信仰には注意しなければいけませんね。

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T.Lucas(2005).「Language Awareness and Comprehension Through Puns Among ESL Learners」を読む(『Language Awareness』)

この論文の詳細は次の通り。

Lucas, T. (2005). Language awareness and comprehension through puns among ESL learners. Language Awareness, 14 (4), 221-238.

感想:学習者中心の言語活動における目標言語への言語意識の向上を示した研究の一つでした。ただし、言葉遊びに注目しているという点で、かなり独創性がある研究だと思います。具体的には、コミックから抽出した語彙、音韻、形態素、統語を用いた駄洒落の二重の意味をペアにされた学習者(国籍はばらばらですがレベルはlow-advancedないしadvancedの学習者)に協同させて読み取らせるという活動によって、目標言語の言語意識を高めることができるかどうかを調査した研究です。調査結果としては、曖昧性を作り出している部分に対する学習者の意識は高めることができたこと、言語意識の向上はその駄洒落の意味理解をも促すこと、が示されていました。著者は、学習者のpun-related dialogue(PRD)の中の、特にlanguage-related episode(LRE)に注目し、彼らの発話を質的に分析することでこの結論を導き出していました。また、学習者がどうしても曖昧性の元となっている箇所に気がつけないときは、研究者がヒントを出したり、時には明示的に示したりしたこともあったそうですが、こういったことは学習者中心の言語活動を妨げるといったことはなかったそうです。とても面白い論文でした。また、外国語教育研究における言葉遊びの在り方ないし位置づけに関しての重要文献が引用されていますので、言葉遊びを使った外国語教育研究を志す人にとってはとても有益な論文だと思いました。

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