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2008年9月24日 (水)

M.Riffaterre(1990).「Compulsory Reader Response: The Intertextual Drive」を読む(M.Worton&J.Still(編),), 『Intertextuality: Theories and Practices』,Manchester University Press)

本論文の詳細。

Riffaterre, M. (1990). Compulsory reader response: The intertextual drive. In M. Worton & J. Still (Eds.), Intertextuality: Theories and practices (pp. 56-78). Manchester, England: Manchester University Press.

感想:まず、著者は文学性の正体は間テクスト性であると主張します。次に、"the actual knowledge of the form and content of that intertext" (p. 56)と"a mere awareness that such an intertext exists and can eventually be found somewhere" (p. 56)を区別し、後者だけでも読者は十分に文学性を経験することができると述べます。また、intertextとintertextualityについても区別します。後者は、"the web of functions that constitute and regulate the relationship between text and intertext" (p. 57)と定義されています。また、intertextが読みに機能してもテクスト自体の同一性は保持されると主張し、脱構築とは違う態度を示しています。また、テクストとintertextをつないでいるものをconnective(連結詞)と呼び、連結詞となることができるのは特定の特別な記号のみであると主張しています。

次にフランスのシュールレアリシスムの作家であるアンドレ・ブレトンの作品(『溶ける魚』)の一節を取り上げ、その作品内に見られる連結詞とintertextを探っていきます。そして、この作品は実に多くのintertextから構成され、それらが交じり合い、時にはもとのintertextとは違う働きをする要素が出てきたりすることもあるということが示されています。この分析はかなり詳細にわたっています。読んでいてとても面白かったです。

次に、議論を一般化していきます。まず、反復されている(表層?)情報それ自体はintertextではないということが指摘されます。そして、"For the intertext to play its role as a supplement to the text, it need not be more than a structural referent, a model authorising certain verbal connections which are unacceptable in usage." (p. 70)そして、連結詞には、"predications, syntagms, or fragments thereof" (p. 70)、"mere juxtaposition" (p. 70)といったものを挙げていました。そして、反復されているものそれ自体については、"The refrain is not, therefore, involved in its entirety.  It only provides an abstract frame endowed with the power to give authority to whatever fits into it." (p. 70)と述べられています。intertextとは、テクストのある要素(連結詞)を解釈する祭に用いられる枠組みと言うか、システムといったものと考えられています。そして、おそらく反復そのものは連結詞の1種として考えられていると思われます。

次に、連結詞の分類を行なっていきます。著者は2種類の連結詞を見出しています(そして、これら以外には他の連結詞はないと述べています)。その中の一種である兼用法(syllepsis)について次のように説明しています。"It could not therefore depend on a connective whose own meaning might differ from and obscure the aim of the overall transformation.  This is why the connective for an interpretant intertext must be a syllepsis - that is, a word that has two mutually incompatible meanings, one acceptable in the context in whoch the word appears, the other valid only in the intertext to which the word also belongs and that it represents at the surface of the text, as the tip of an iceberg.  As a word, the syllepsis has two meanings, each of which generates its own derivation in its separate text; yet as a conncetive, it has no meaning of its own.  The connective is therefore empty, since it is a mere phonetic shape which can be filled in turn by two otherwise alien universes of representation.  As such it is vastly more powerful than a metaphor, which needs some semes common to both its tenor and its vehicle for the tropological substitution to work.  The syllepsis, on the contrary, resting as it does on homophony, is a connective in the abstract, a mere sign of equivalency." (p. 71)兼用法はテクストとintertextをつなぐという役割がある一方で、両者の違いをも表わすという相反する役割を担っています。 もう一種のものは、兼用法と違って次のような特徴があると著者は述べます。"the connective carries a double semantic load" (p. 71)、"a puzzling substitute for the term that should have been lifted from the intertext in order for the text to produce significance" (p. 71)これは、descriptive systemと著者が呼ぶものに関係しています。私の理解ですと、もう一方の連結詞は、コアとなる要素を敢えてintertextからテクストに入れずに、その要素と関連した周囲的なものをテクストに混入させることで、コアの要素を思い浮かべさせるもの、となります。著者は"the momentary opaqueness of a substitution" (p. 75)と呼んでいます。

著者は、非文法性という曖昧性に読者が注目しその部分を綿密に探ることが必要となります。また、非文法性はテクストの文法性に依存しており、その文法性は構造化された結合軸の一塊(文から語りの構造まで幅広い意味で)の形を取るか、descriptive systemの形を取るか、の2つの可能性が認められています。これらは、"either in a text signed by an author, or in the potential, inchoate or fragmentary narrative and descriptive sequences floating in the limbo of the corpus of myths, stories, exempla, etc. of which a sociolect is comprised" (p. 72)とあらゆるところに具現するそうです。また、intertextはあまりにも明示的であり、基本的な言語能力があれば見逃すことはないとして、intertextへの到達は次の2段階によって成されると主張します。"At the heuristic stage, readers instantly notice the substitution of a connective because it disturbs an expected verbal sequence.  At the interpretive stage, they easily recover the substituted component because anything missing can be deduced from the extant components." (p. 73)

次に、読者が関連したintertextを知らなかった場合、間テクスト性は機能しなくなるのかどうかという点について考えていきます。著者は、知らなかったとしても、そのintertextには様々な変種があり、結局何らかの形で間テクスト性は機能するはずだと考えているようです(少なくとも1つぐらいはその変種を知っているはずだとの考えから)。また、seme(起源的テクスト)について触れ、それは意味素の中に含まれていて、ナラティヴへと発展させることができるといいます。テクストがsemeを失っていたとしても、semanalysisによってsemeを復元することもできるわけです。

また、intertextとtheme/motifとの違いについても説明しています。内容および形式的な観点から見れば、両者は偶然一致することもありますが、読者へのインパクトの与え方という点では異なっていると述べられています。テーマの理解はテクストの構造などに依存し、その他の変種について知っている必要などはありません。しかし、間テクスト性は二つのテクストが相互作用する場合に現れます(テーマに関して相互作用していようがそうでなかろうが関係なく)。この意識が働いてintertextがあらわになるわけです。このとき、この間テクスト性の意識は兼用法かthe momentary opaqueness of a substitutionという形を取ります。またこれら連結詞の特性もintertextとテーマの違いを表わしています。連結詞はテーマの変種の間に見られる類似性や反意性については全く関与しません。むしろ連結詞は二つの要素("the substitute in the text, and its corollary or correspondent, the item substituted for, that remains praesens in absentia in the intertext, displaced or repressed, but in no way suppressed, inactive, or dormant" (p. 75, emphasis in original))があるという特徴があります。兼用法については"the rule or programme for the interpretation of the text" (p. 75)をもたらす形で、もう一方の連結詞については抑圧している要素のミメーシスと抑圧されている要素のミメーシスの融合をはかることで読者の想像の中で両者を同一化する、という形で間テクスト性をもたらします。

最後に連結詞という考えには間テクスト性について3つの側面を説明すると述べています。それらは、(1)間テクスト性は相対する二つのテクストの対立(慣習対違反、伝統対革新、sociolect対ideolect、先立つテクスト対その否定や変形)をあるテクストに表現させること、(2)テクストはテクストをメタファー的なものではなく、句の連続したものとみなさせる一種の文彩であること、(3)文学、そしてその解釈にとってもっとも重要なのはそのテクストの外部にあること、の3点でした。

間テクスト性の議論は精神分析における意識と無意識の議論とも通じるところがあると認めた上で、間テクスト性はやはり文彩の問題として捉えるべきだと主張し、本論文を終えています。"we must recognise that what impels the reader to pursue the search for the intertext, to experience the intertextual drive, as it were, is above all not just the material fact of the binary structure of the connective, but ists being consistent with, or a variant of, the ubiquitous mechanism of tropes.  In a response rendered compulsive, and facilitated by this familiar model, as soon as the reader notices a possible substitutability, s/he automatically yields to the temptation to actualise it.  The intertextual drive, therefore, is tropological rather than psychoanalytical, a reader response dictated by the tantalising combination within each connective3 of the enigma and the answer, of the text as Sphinx and the intertext as Oedipus." (p. 77)

ちなみに、著者が言うdescriptive systemとは、"a network of words associated with one another around a kernel word, in accordance with syntactic relationships between the semes of that nucleus' sememe.  Each lexical component of the system functions as a metonym of that nucleus" (p. 77)だそうです。とても難解な論文でしたが、著者の考えを理解することができたかと思います。勉強になりました。

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2008年9月23日 (火)

J.デリダ(1968/1984).「ラ・ディフェランス」を読む(『理想』)

本論文の詳細は次の通り。

デリダ,J.(1984).「ラ・ディフェランス」(高橋允昭(訳)).『理想』,61867-101.(原著は1968年出版)

感想:差延は語でも概念でもありません。「差延は、現前的-存在者の現前化を可能ならしめる...とはいえ、決してそのものとしておのれを現前化させない。差延は決して現前者においておのれを与えはしない。決してなんびとに対しても。おのれを留保し、おのれを表にさらさない差延は、まさしくこの点で、しかも規則的な仕方で、真理の範疇を超過する。もっともだからといって差延は、なんらかの非-知といった玄妙不可解のなかへとか、縁どりの確定可能な...なんらかの穴のなかへ、何ものかとして、なにか神秘的な存在者として身をかくしてしまうわけではない。差延をすっかり表にさらしてしまったら、それは消失としては消失しまう危険にされされる破目になるだろう。そんなことをしたら、差延は現出してしまう危険に、つまり消失してしまう危険におちいるだろう。」(p. 71)とその特徴づけをはかっています。

次に、差延には、「待機(時間的な遅れ)としての差延」と「間隔化(同一でないこと)としての差延」があると述べます。そして、両者の結びつきについて、著者は次のように述べます。少し長い引用ですが、分かりやすいので、全て引用しておきます。「差延とは次のような事態を生じさせるものの謂である。すなわち、記号作用の運動が可能なのは、現前性の場面に現れる「現在的」〔現前的〕と言われる各要素が、その要素それ自身より以外の他のものに関連をもち、おのれのうちに過去的要素のしるしを保蔵し、未来的要素へのおのれの関連のしるしによってすでにうがたれるにまかせている、といった場合に限られる、という事態がそれである。そしてなぜそういう事態になるかと言えば、痕跡なるものは、過去と呼ばれるものに関連をもつばかりでなく、未来と呼ばれるものにも同様に関連をもち、そして、おのれでないものへのまさにこのような関連によって、現在と呼ばれるものを構成するからである。おのれでないもの、と言ったが、それは絶対的におのれではないのであって、言いかえれば、変容された現在としての過去や未来でさえもないのである。言外が現在それ自身であるためには、或る間隔が現在を現在でないものから分離するのでなければならない。けれども、現在を現在として構成するこの間隔は、同時にまた、現在を現在それ自体において分割するのでなければならず、こうしてこの間隔は、人が現在から出発して思考しうるすべてのものを、すなわちわれわれの形而上学的言語におけるすべての存在者を、特には実体ないし主観を、現在とともに分有するのでなければならない。力動的におのれを構成し、おのれを分割するこの間隔、これがつまり、間隔化、すなわち時間が空間となること、ないしは空間が時間になること(待機)と呼びうるものなのである。そして、ほかならぬこのような<現在の構成>、すなわち...もろもろの過去把持および未来志向のしるしたちの、痕跡たちの、「始原的な」、手の施しようもなく非-単一的な、したがって厳密な意味では非-始原的な綜合としてのこのような<現在の構成>、これをこそ私は、原-エクリチュール、原-痕跡、ないしは差延と呼ぶことを提案しているのである。差延は(同時に)間隔化(および)待機で(ある)。」(pp. 80-81)

次は、何が(誰が)差延するのか、という問題について述べていきます。このことに関して、次のように述べられています。「したがって、われわれはこのようにして、現前性を-そして特殊的には意識...を-もはや存在の絶対的な母体としてではなく、一つの「限定」、一つの「効果」〔結果〕として措定するにいたったことになる。限定ないし効果と言っても、それは、もはや現前性のシステムではなく差延のシステムであるようなシステムの内部でのことである。そしてこのシステムはもはや能動性と受動性との対立を許容せず、同様にまた原因と結果、無限定と限定、等々といった対立をも許容しない。したがって、意識を一つの効果〔結果〕ないしは限定として指示することによって人は、多かれ少なかれ明晰に熟考可能な、そしてシステマティックに計算可能な戦略的諸理由から、自分が制限画定〔制限除去〕しているmささに当のものの用語群に即して作業を続けるのである。」(pp. 85-86)と述べています。こういった考えは、ハイデッガーだけでなく、ニーチェ、フロイト、レヴィナス、などにも見られ、それらを指摘していきます。特にハイデッガーの議論を参照しながら、存在論的差異といったものの可能性について考えていきます。しかし、存在論的差異という考え方自体、差延の形而上学的効果に過ぎないと著者は考えています。また、現在は「差延」という名前を用いているが、差延とは名づけえぬものであることには変わりはありません。名づけてしまった時点で、まさに差延的作用により、「差延」という語は分解してしまいます。

最後はまとめです。「この名づけえぬものは次のような戯れなのである。すなわち、名称的諸効果が、つまり名称と呼ばれる相対的に単一的な、ないしは相対的に原始的な諸構造が、言いかえれば諸名称の諸置換の諸連鎖が、存在するようにさせている戯れなのである。そして、こうした諸置換の諸連鎖のなかへ、例えば「差延」という名称的効果そのものも引きずり込まれ、運び去られ、書き込み直されてしまう-ちょうど見せかけの参加や見せ掛けの退出もやはりゲーム〔戯れ〕の一部であり、システムの機能であるのと同じように。」(pp. 97-98)差延の研究とは、「固有な語および唯一無比の名称の探索である」(p. 98)と著者は述べます。最後はハイデッガーの言葉が引用してありましたが、内容は著者によるこのまとめと同じです。

この論文では、ソシュールが述べた差異と差延の違いなども明確化されているので、とても分かりやすいと思います。論文自体が古いので、あまり目新しいことはないかもしれませんが、差延とはどういった概念なのかを復習するのにはとてもいい論文だと思いました。

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S.Bremner(2008).「Intertextuality and Business Communication Textbooks: Why Students Need More Textual Support」を読む(『English for Specific Purposes』)

この論文の詳細は次の通り。

Bremner, S. (2008). Intertextuality and business communication textbooks: Why students need more textual support. English for Specific Purposes, 27 (3), 306-321.

感想:本論文の目的として、著者は次のように述べます。"This paper argues that a richer discursive environment, and one which would give students the opportunity to make more authontic rhetorical responses to different situations, could be achieved with the provision of more complex sets of intertextuality linked texts for them to draw on.  It discusses the importance of intertextuality as an aspect of workplace writing, examines the extent to which it features in business communication textbooks, and looks at ways in which it can help in teaching writing." (p. 307)間テクスト性に関しては、分野によっては重要な指導項目とされたり、そうでなかったりとするようです。次に、著者はビジネスの世界では間テクスト性がありふれていると述べます。詳細は省略しますが、クレームへの返事であるとか、テンプレートを使って作文をするといったこと、他人の意見や文書を自分の文書に取り入れること(著者によるとビジネスではアカデミックな世界ほどはplagiarismは悪いことだとは考えられていないようです)、などです。そこで、この論文ではビジネスコミュニケーションの教科書を8冊選び、それらの中で間テクスト性がどのように扱われているかが調査されています。具体的には、(1)the planning process(どの程度他のテクストを文書作成のこの段階で取り入れたり言及したりすることが述べられているか)、(2)the collaborative nature of writing、(3)referring and responding to other documents、(4)templates, layouts, organizational conventions、(5)plagiarism、(6)writing as a dynamic, dialogic process、(7)intertextuality situated taskの7項目について調査されました。(1)については、"Yet although there is a clear sense of writers needing recourse to other texts in order to plan and write new ones, there is no indication as to how these texts might help shape the resulting documents" (p. 311)と述べています。(2)については、"there is ... no explicit mention of how texts written by other colleagues might be incorporated into new texts" (p. 312)、(3)に関しては、"while intertextual links are often implied or acknowkedged, and in one of two cases mentioned more specifically, there is no explicit discussion of how these links might influence the shape of new texts." (p. 313)、(4)に関しては、満足のいく結果が、(5)に関しては、ソースを言及することなく用いることができるという点が述べてあるという結果が、(6)に関しては、"The recognition that communication is a dynamic process implies that any communicative act is the consequence of, or a reaction to a previous act, but the question of where this idea comes from, or what has prompted it, is not considered. " (p. 314)という結果が、(7)に関しては、"Overall, then, while the existence of other texts is acknowledged to varying degrees inh the different textbooks as part of the context for writing, there is little if any discussion of the ways in which there might shape the texts that result of will result from these contexts.  Similarly the tasks that require students to produce their own texts have little in the way of "intertextual surround" as context for writing" (p. 314)と述べられていました。

次に、著者は具体的なタスクを提案しています。このタスクでは先立つテクストが明示されていますし(書き手など具体的な情報も明示されています)、テクスト情報を学生に評価、選択させた上で英作文をさせるなでお、かなり職場に近いタスクが提案されています(pp. 315-318)。そして、更に次のように述べています。"The task for the teacher would be to develop in the student an awareness of what is generic, and of what requires creativity on their part, and to demonstrate when it is appropriate to diverge from the previous text.  The task ofor the writer would be to create a text that wasw an appropriate blend of the generic and the specific.  The generic might consist of the formulae that help to achieve a tone consonant with other organizational documets, such as opening and closing a letter, or the standard ways of granting or rejecting a claim ...; the specific would be what pertains to ... [the specific] claim." (p. 317)。そして、こういったタスクを与えることの利点として、(1)コンテクストを職場に近づけることができる、(2)職場の書類のダイアローグ的性質を理解できる、(3)実際に近い形で書類が書ける、(4)書類を書く上での抑圧(何をしてよくて何をしてはいけないか)が理解できる、(5)どの情報が必要か、その情報をどのように配列するかといったことについて学習者に自己決定させる、ということが挙げてありました。もうひとつ他の方法として、自分の書いたものを貯蓄させ、それを使って間テクスト性を理解させるという方法(Ober (2003)と近い方法)にも言及してありました。

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C.Hill&K.Parry(1992).「The Test at the Gate: Models of Literacy in Reading Assessment」を読む(『TESOL Quarterly』)

この論文の詳細は次の通り。

Hill, C., & Parry, K. (1992). The test at the gate: Models of literacy in reading assessment. TESOL Quarterly, 26 (3), 433-461.

感想:本論文の最初の部分ではイギリスとアメリカそれぞれでの典型的なリーディングテストのフォーマットが比較されます。確かに、設問の仕方(記述式vs.多肢選択式)には違いがありますが、両者の根底にはテクストの種類や受験者に何を求めているのかという点でかなり類似していることが指摘されます。前者に関しては、テクスト内の情報提示の方法、詳細情報が多く含まれている点、設問の順序がテクストの展開の順序と合致していない点(受験者に局所情報のみを求め全体的な理解は阻害しているように思える)、が指摘されます。そして、更に、もっと根本的なところで、テクストとは何か、どのように読むべきかといった前提が存在していると述べます。この前提に関しては西洋ではあまりにも溶け込んでいて、これまであまり省みることをされなかったようだと著者は述べています。

著者はこの前提を"the autonomous model of literacy" (p. 438)と述べます。これはBrian Streetという研究者が使った用語で、Street自身は、このモデルに対抗するものとしてideologicalなリテラシーを提唱しているそうです。the autonomous model of literacyのもとでは、読みは言語的てがかりのみに依存し、テクストで示されている意図以外のものは存在しない(存在しないように読むべきだ)、パッセージの意味は文の意味によって表わされている、といった考えです。テストを人々の相互作用の一環であると捉える学習者は、その能力とは裏腹に、多肢選択式問題では間違いの選択肢を選んでしまうこともあるそうです。この前提には、autonomy of institution and individuals、autonomy of skillが想定されています。読者は孤独に1人で読み、そして読みの技能は他の技能(ライティングなど)とは独立していて、読解テストは、テクストの内容に影響されない(背景知識の影響を無くすために学習者にはなじみのないトピックがテクストに選ばれるようです(p. 443))純粋な読みを測定することに興味があるわけです。"To sum up, the autonomous model of literacy suggests not only that text is autonomous, but that it confers autonomy on both institutions and individuals.  It also treats reading as an autonomous skill that is independent of other factors and transferable across all kinds of texts." (p. 444)

さて、先ほど、Streetがこういった立場に意義を唱えたと述べましたが、著者はこの論文でThe pragmatic model of literacyを提案します。このモデルは、Text as communication、Communication between readers and writers、Literacy skills and communicationという3つのセクションを設けて説明がなされています。また、このモデルの根本にはWiddowsonの1978年のモデルがあり、それを著者らは修正ないし発展させています。1点目(Text as communication)に関しては、作者は1人で書いているとしてもラングを用いる、テクストを(ゴミ箱に捨てるのではなく)残すという時点でそのテクストには社会的な価値があると判断している、テクストはコンテクストの中に置かれないと理解することができない、という3点をその根拠としています。読解テストには、様々な意図を持って書かれたテクストが混在している、パッセージが本来書かれたコンテクストとは違うコンテクストで利用されている、印刷フォーマットなどがすべてある様式に統一されている(もともとは違うはずなのに)、という点で非常に複雑です。しかし、このことが逆にリーディング(テスト)はこういったコンテクストの中で生じているということを示しており、the autonomous model of literacyを自ら批判していると考えることができます。2点目(communication between readers and writers)に関しては、実際の作者と読者の相互作用(external reciprocityと呼ばれ、Widdowson自身が想定していたもの)と作者が読者のことを考えたり、読者が作者について思いをめぐらすといった相互作用(internal reciprocity)両方が読解に関わると著者は述べます。後者は前者を内在化させたものと著者は考えています(p. 452)。著者の修正版のモデルは本論文の453ページに掲載されています。読解テストでもこれら2つの相互作用を考える必要があります。まず、そのテスト形式から明らかなように、external reciprocityは非常に限られたものになります。また、internal reciprocityにおいては、受験者が相互作用しなければならないのは個別のテクストの作者ではなく、テストの作成者となります(経験の少ない受験者によっては、個別のテクストの作者と相互作用してしまい、答えを誤ることもあるそうです)。したがって、テストではテスト作成者がフーコーの言うauthorとなり、優れた読者とはテスト作成者が半ば一方的に押し付ける読者像に合致する読者となります。テスト作成者は受験者の言語や思考、経験などの社会文化的側面は(受験者が不愉快な思いをするテクストを避けるということ程度以外には)考慮していません。3点目(Literacy skills and communication)について、まずリーディングの三大要素として、"First is knowing a writing system and understanding the linguistic forms used in a text; second is possessing appropriate background knowledge and knowing how to apply it; and third is being able to engage in a reciprocal exchange that is appropriate to the text being read" (p. 456)を指摘します。そして、従来の読解テストは最初の1つしか考慮していないと批判しています。しかし、他の2つの要素も取り入れたテスト開発が望まれます。

著者はこの論文内では具体的なテスト開発を行なっていませんが、いくつかの示唆を残しています。それらは、テスト一辺倒の評価はやめて、他の方法と併用して学習者の読解能力を測ること、ポートフォリオによって読解能力を評価すること、学習者が自分の書いたものの評価に対してもっと責任を持たせるようにすること、の3点です。同著者らの他の論文(Hill, C. and Parry, K. (1994). Models of literacy: The nature of reading tests. In C. Hill & K. Parry (Eds.), From testing to assessment: English as an international language (pp.7-34). London: Longman.)を読んだことが随分前にあるのですが、本論文がそのベースとなっているようです。昔の論文ですので、かなり今では常識となってしまっている議論もありますが、それでもthe autonomy model of literacyはいまだに読解テストに協力に作用しているのではないでしょうか。また、同時期の文学テストの論文とは少し違った側面も見え隠れしており、とても面白かったです。

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D.I.Hanauer(2001).「Focus-on-cultural Understanding: Literary Reading in the Second Language Classroom」を読む(『CAUCE: Revista de Filologìa y su Didáctica』)

この論文の詳細は次の通り。

Hanauer, D. I. (2001). Focus-on-cultural understanding: Literary reading in the second language classroom. CAUCE: Revista de Filologìa y su Didáctica, 24, 389-404.

感想:本論文では、まず外国語教育における文学利用の利点として指摘されている、動機づけ、言語習得プロセス、文化理解、への貢献が述べられ、この論文では文化理解に大きく関わると述べます。外国語教育で文化知識を習得するのは重要なことであると著者は考えており、"Cultural knowledge is important in that it provides a basis through which understanding is achieved" (p. 392)と述べています。また、宣言的な文化知識も重要ですが、さらに重要なものとして"an issue of how this knowledge is used in the construction and production of meaning in interaction with members or artifacts from the target culture" (p. 392)を挙げています。簡単に言うと、目標言語を母国語とする人々がどのような意味構築プロセスをしているのか("designs of meaning making" (p. 393)と著者は述べています)を理解することが大事だと著者は考えています。この意味プロセスは、その文化に存在する談話ジャンルの構造にも大きく影響を与えているものであり、重視されるべきものです。ここには、学習者の価値観などと衝突することも出てくるかもしれませんが、"cultural leaning has to include a central emphasis on learning culturally specific ways of making and producing meaning" (p. 393)と述べています。

また、最近の読者反応理論などによれば、批評家などプロフェッショナルの作品解釈は学習者の個人的な解釈を抑圧してしまうとして、批評家などの作品解釈はあまり重視されません。しかし、そういったプロの作品解釈は学習者の作品解釈を促進し、自由な読みを妨げることもないということが調査で明らかになっています。そこで、"it will be argued that expert interpretations of literary texts are important for the student of a foreign culture and that these interpretations can present a real insight into the way individual meanings are constructed within the target culture" (p. 394)と著者は述べています。また、どのような教材を用いるかということについても著者は触れています。著者、聖書に関する作品などをはじめとした所謂キャノンの使用を主張します。そういったテクストは目標文化の中で重要な間テクスト的役割を果たしており、その文化自身が行なってきたテクスト的選択の結果であると考えられるためです。そして、"literary texts and culturally specific interpretations of these texts should be presented and analyzed within the language classroom" (p. 395)と述べています。

この一方で、Edmondsonが行なったように、文学は文化の個人的な観点を表わすだけであり、けっして文化そのものを表象していないという批判があります。この点に関しては、確かに指摘の通りであるが、逆に歴史の本(これらも決して文化そのものを表わしているわけではありません)を元にして文化の一般化をはかろうとすることにも問題があると述べ、"Rather than avoiding individuals I am suggesting that we embrace the individual viewpoint while recognizing that it is an individual viewpoint" (p. 396)と指摘します。少し長いですが、更に引用を続けますと、"It this individual viewpoint is augmented by different culturally specific interpretations of the same piece of literature, then the language learner has a much better chance of constructing a deep understanding of the complex nature of the foreign culture.  Rather than stereotypical cultural knowledge based on generalizations or a false generalization based on an individual viewpoint expressed in a specific literary work, the language learner is exposed to the literary work and the different ways members of the target culture understand this piece.  The individual viewpoint must be presented within a context of multiple viewpoints so as to avoid false generalization and to enabale the construction of a multifaceted view of the foreign culture. (pp. 396-397)と述べられていました。また、これと同時に、"Among the multiple view points that need to be presented in the language classroom, the teacher should also include the student's own culturally specific view of the foreign culture.  Essentially, the language teacher needs to view the students own culturally speficig meaning construction and a good tool for comparison with other culturally specific ways of constructing meaning." (p. 397)としています。目標言語でのキャノン的要素のあるテクストに対する、目標文化のエキスパート的解釈と学習者達の典型的な読みを比較することで、各文化に特徴的な意味構築プロセスに学習者の焦点を当てさせることを大きな目標としています。この論文では、The Parable of the Ten Virginsという話に対する、ユダヤ系イスラエル英語学習者(学習者達と同じ文化共同体に属する学習者)の解釈とキリスト系イスラエル学習者の解釈が提示され、両者が違う解釈(前者は計画の大事さを伝える教訓物語として、後者は神の愛に常に感謝するように伝えるアレゴリー的物語として解釈していた)を行なっていることが示されています。このfocus-on-cultural understandingタスクは、どちらの読みが優れているのかということではなく、違いを認識させることが目的となります。

最後に、このタスクを行なう上でのポイントを著者が挙げています。それらは、Respecting the languag elearner's understanding、Choosing culturally embedded literary texts、focus on socially embedded multiple meanings、Constructing a supportive environment、の4点です。

以前、私も外国語教育における文化教授の論文を書いたことがあるのですが、文化教授について久々に色々と考えさせられました。とても面白かったです。

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2008年9月19日 (金)

R.Carter&M.Long(1990).「Testing Literature in EFL Classes: Tradition and Innovation」を読む(『ELT Journal』)

この論文の詳細は次の通り。

Carter, R., & Long, M. (1990). Testing literature in EFL classes: Tradition and innovation. ELT Journal, 44 (3), 215-221.

感想:文学テスト関係の論文ではおそらく最も有名な論文です。まず、当時巷でよく見られた文学テストの形式を紹介しています。それらは、paraphrase and context、discribe and discuss、evaluate and criticize(詳細は割愛)です。しかし、これらの設問形式では、テクストを原作で読まなくても、ある種の問題集や他人の解釈などを覚えていれば答えられてしまうという問題点があります。また、テクストをじっくり読まなくてもよい、テクストの翻訳や簡略版を読んだことがあれば正解できる、エッセー形式が多いのでプロットや他者の考えをそのまま流用できてしまう、という問題点も指摘されていました。そこで、著者らは、language-based approachを提案します。具体的な設問形式として提案されていたものは、general comprehension、text focus、personal response and impactでした(具体例は割愛)。テクストの社会的な側面など考慮していない面もありますが、著者らやこれらを軽視しているわけではないようです。しかし、language-based approachにはいくつか利点があります。それらは、段階を追って学習者のテクスト理解などを発展へと導ける、自由な反応やテクストを受験者の経験に関係づけるような側面も扱える、文学の理解で言語が中心的な役割を果たすことを示すことができる(言語に注目することで文学の理解が促進され、さらに言語発達も促すことができる)、という3点です。とても面白い論文でした。

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2008年9月18日 (木)

R.Protherough(1991).「Assessing Response to Literature」を読む(『Review of English Language Teaching,』)

本論文の詳細は次の通り。

Protherough, R. (1991). Assessing response to literature. Review of English Language Teaching, 3 (1), 9-15.

感想:著者はまず、文学教授法の変遷について述べます。それは、事実の源泉としてのテクストの強調→作者中心の指導→テクストベースの指導→読者の反応の強調、といった流れだそうです。また、これに伴って教師と評価者も変わってきました。教師に関しては、学習すべき内容を列挙する教師→作者の解釈者→引用をもとにプロットを要約したり登場人物を記述する教師→様々な創造的な反応のfacilitatorという流れです。評価者については、事実の採点者→生徒の考えを評価者のそれや権威のある読みと比較する採点者→何らかの内容を議論する際の学習者の意欲を測定する評価者→テクストへの従事の様子を測定する採点者といった流れです。

著者は読者反応は作者、テクスト、読者の間のバランス(あるいはAlan Purvesの言うところのimitative、analytic、generativeという3つの構造のバランス)が取れた優れたアプローチであると考えています。しかし、測定はできるのか、するべきなのか、という問題が残っています。著者は、これまでなされてきた学習者の反応を測定する方法について6つ紹介しています。学習者の反応のサイン(注意の量など)を解釈するもの、小集団でのディスカッションでの参加度を観察するもの、反応を促進するために読解行為に介入するもの、読むテクストを操作するもの、テクストの特定の側面に関して多肢選択肢などを与える中で反応させるもの(アメリカを始め多くの国で使われている)、テクストを読ませて学習者自身に何らかのテクストを産出させるもの、の6つが紹介されていました。それぞれ具体例が示されていますが、ここでは割愛します。しかし、これらの方法では、多かれ少なかれ、学習者の本当の反応を測定することはできていません。そこで、著者はまだ最初の段階であるということを認めつつも、3つの有望な測定方法を紹介しています。それらは、Purves & Rippereによるcontent analysis、著者自身がかつて開発したNotional levels or stages of response(ThompsonとAtkinsonも同様な枠組みを提案しているそうです)、著者自身が開発した学習者の反応を判定・評価するための基準、です。いずれも論文中には詳しい説明がありますが、ここでは割愛します。当時の新しいNational Curriculumのために測定方法を開発しようとしていたイギリスのグループは、これらの枠組みに沿った形で研究を進めていたそうです。しかし、個人的な反応というのは、他者と合意することによって初めて妥当と判断されるというパラドックスがあります。やはり、自由で純粋な反応を測定するということはかなり難しいようです。それに、測定方法はどうしても学習者の読解方法や指導法に影響を与えてしまうという問題点も指摘されていました。

この論文では、この論文が書かれる以前の関連した文献について色々と先行研究が引用してあり、勉強を進めていくのにとても有用です。また、色々な具体例もあり、とても面白く読みました。

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J.Spiro(1991).「Assessing Literature: Four Papers」を読む(『Review of English Language Teaching』)

Spiro, J. (1991). Assessing literature: Four papers. Review of English Language Teaching, 3 (1), 16-83.

感想:この論文は4つの部分に分かれています。まず、最初の部分は、Language teaching and the literature test: Laying the foundationsというタイトルになっています。ここでは、テストの一般論を文学テストの場に導入するという作業が行なわれています。具体的には、目標能力を詳細に記述する(ここでは、competencemodelcomponentstestable chunksという4層からなる方法が提案されています)方法、知識対技能(それぞれの状況で両者に重み付けを行なうことが必要と述べる一方で、タスクベースで測定するとバランスが取れるということが述べられています。)、知識の測定についてのチェックリスト、技能の測定についてのチェックリスト、が述べられていました。目標言語の測定方法については、discrete literary skillを測定する際のチェックリスト、global skillを測定する際のチェックリスト、が述べられていました。更に、測定結果の比較による伸びの観察、テクストとテストの関係、テストと指導の関係、有益な文学テストを作るためのポイントの箇条書き(ただし、これはテスト一般の話のような感じがしました)、が書かれていました。

2部は、Defining literary skillsというタイトルとなっていました。個人的には私が一番面白いと思ったのはこの部分です。ここでは、文学能力に関して、”the competent reader of literature will appreciate not only known texts and received systems, he/she will be able to transfer and generalize information, from one context and text to another; to respond to variations of, departures from and experiments with known patterns, just as he/she might in spoken discourse.” (pp. 32-33)”The possibility of varying the roles of archetypal ‘hero/heroine/villain’ and creating an individualized type … ; the possibility of breaking expectations set up by the genre … ; the possibility of adapting and reshaping literary forms … ; or the possibility of experimenting with perspective and sequencing” (p. 33)と述べています。具体的に産出面に関しては、”This competence enables the writer to (a) Generalise from a pattern … (b) ‘Break’ a pattern … (c) Create a unique utterance which alludes to or experiments with a familiar one …’ (p. 33)と述べています。具体的に受容面に関しては、”This competence enables the reader to recognize these patterns and appreciate their purpose and effect, and to generalize knowledge of these patterns to ‘unseen’ texts” (p. 33)”the ability to recognize and identify literary patterns and expectations; the ability to respond to texts that use these patterns in new and experimental ways; the ability to appreciate both the uniqueness of a text, and its connection to other texts; and the ability to apply this knowledge to both known and ‘unseen’ texts. (p. 33)と述べています。また、有能な言語話者はコンテクストの期待に応じて相互作用をしたり、適切なパターンを欠いたりするとその状況を修復する方略を持っています。それに対して、有能な(文学)読者は、パターンの破綻を解釈する(その破綻に正当な理由を与える)ための方略を用いることができます。また、有能な読者は、top-down processingbottom-up processingによって情報を集めたり、知らない語句によって全体的な意味理解が妨げられることもありません(むしろ、co-textを使ってこれらの語句を推測することができます)。また、非言語的知識や経験を読解に持ち込むことができたり、読解中に疑問点とそれらへの答えを考えながら読むことができたりします。次に、難しいテクスト(Milton)であっても、その設問によっては、言語知識が乏しい学習者に対するテストの問題として使うことができるということが示してありました。次に、文学能力を下位項目に分けることができるとする立場と分けられないという立場について議論されます。後者の悪い点としては、能力の概念が個人で異なっている点(定義では意見が一致していても、その解釈が異なっていたり、その能力がどのように機能するかという点について意見が異なっている場合があります)、具体的な指導プロセスを考えるには定義が大きすぎたり一般的過ぎる点、特に外国語教育の場合は文学能力内の言語能力についての情報が乏しい点、が挙げられていました。いい点(細分化の悪い点)としては、能力の細分化によって零れ落ちてしまう要素がある点、教師や学習者の様々な考えを包み込むだけのスコープがある点、能力があまりにもprescriptiveになってしまう点、が挙げられていました。この2つのアプローチには森を見れば木が見えにくくなり、木を見れば森が見えにくくなるというジレンマがあります。しかし、外国語教育という場合には細分化するアプローチの方が好まれるようです。ただし、細分化するアプローチで、テクスト内の規則的な側面やパターンだけに注目するのには問題があり、様々な技能を測定する必要があります(p. 43にはその能力の一覧があります)。最後に、文学能力のモデルが提案されます。このモデルは6つのレベルに分かれており、学習者が初級外国語学習者の場合から、文学専門の学習者に至るまで、それぞれのレベルに応じて適切なバージョンを選択することができるようになっています。私が知っている中では、もっとも機能的な文学能力のモデルではないでしょうか。

3つ目は、Measuring literary skillsです。最初に、1985年から1989年にかけてのイギリス、スイス、エジプト、インド、西アフリカの文学テストの論文から収集された人気のある質問タイプが紹介されていきます。そして、テクストと合わさっていない質問タイプとテクストと合わさった質問タイプに分類され、それぞれでどのような質問タイプがあるかが具体的に示されていました(詳細は省略)。次に、1980年から1984年の間の6つのイギリスのテスト委員会での報告書が取り上げられ、テストについてどのような問題が生じたのかがまとめられていました。そこでの問題を総括して、”Many of the problems that emerged in the GCE papers arise from inexplicit or unclear goals and expectations, and from broken lines of communication between examiner, teacher and student.  The literary competence declared as an overall aim – enjoyment, appreciation and personal response – is too imprecise to be workable.  … every participant … has a personal interpretation of this competence; and each, as a result, is failing the other’s expectations” (p. 55)と述べています。そして、よりよいテスト開発の際のアドバイスとして、学生のレベルに合わせること、テスト項目はコントロールの効いたものにすること、実際のテクストとともに出題すること、抽象的な概念に具体性を与えること、言語的なサポートを与えること、技能や原理の適用をさせる質問項目を作ること、1つの質問項目で1つないしは1まとまりの技能を測定すること、技能を知っているテクストから新しいテクストへと応用させることを促す質問項目にすること、テクストを受験者が自分の状況に置き換えられるような質問項目を作ること、教室で学習者を動機づけているようなタスクを若干の変更を加えてテストへ組み込むこと、学習者のプロファイリングができるようにバランスの取れたテストとすること、が挙げられていました。次に質問形式の一覧とその形式が測定している技能の対応表が示してありました。第3部はかなり具体例が豊富でとてもよかったです。

最後はWriting the literature testという章です。これまでの内容を応用して、実際にテストを作成する際の手順を示すことが目的となっています。仮想的ではありますが、具体的な状況の中でどのようにテストが作成されるかがストーリー仕立てで説明されます。具体的にどのような技能を測定し、そのためにどのような質問形式を使うかといったことが具体的な質問項目とともに示してあるので、とても面白かったです。

これまで、文学テストの論文を色々と読んできましたが、僕の中ではこの論文が今まで最高傑作だと思いました。特に第2部以降はとても有用だと思いました。とにかく具体的な質問項目や文学能力の構成要素が充実しています。何度も読み返すべき論文だと思いました。

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2008年9月17日 (水)

J.Culler(1981/2001).『The Pursuit of Signs: Semiotics, Literature, Deconstruction』第5章を読む(Routledge)

本書の詳細は次の通り。

Culler, J. (2001). The pursuit of signs: Semiotics, literature, deconstruction. London: Routledge. (Original work published 1981)

タイトル:Presupposition and intertextuality

感想:名著の中の1章を読んでみました。この章では、間テクスト性の研究に付きまとう問題点とその対策が講じられています。著者は、著者は間テクスト性を慣習と考えており、次のように述べています。"It is not that each convention or moment of a code had a determinate origin which the accidents of history have obscured.  Rather, it is part of the structure of discursive conventions to be cut off from origins." (p. 113)。そして、間テクスト性の特徴として次のように述べています。"'Inter textuality' thus has a double focus.  On the one hand, it calls our attention to the importance of prior texts, insisting that the autonomy of texts is a misleading notion and that a work has the meaning it does only because certain things have previously been written.  Yet in so far as it focuses on intelligibility, on meaning, 'intertextuality' leads us to consider prior texts as contributions to a code which makes possible the various effects of signification.  Intertextuality thus becomes less a name for a work's relation to particular prior texts than a designation of its participation in the discursive space of a culture: the relationship between a text and the various languages or sifnifying practices of a culture and its relation to those texs which articulate for it the posibilities of that culture. The study of intertextuality is thus not the investigation of sources and influences as traditionally conceived; it casts its net wider to include anonymous discursive practices, codes whose origins are lost, that meke possible the signifying practices of later texts."  (p. 114)しかし、間テクスト性はその議論を具体的な話にしようとすると、固有名や所定のテクストを列挙せざるを得なくなってしまいます(具体例として、KristevaやBloomが挙げられていました)。これは、間テクスト性の研究のジレンマです。その打開策として、著者は、Riffaterreの方法("to reconstruct the clives and descriptive systems that underlie particular uses of poetic language")と言語学のpresuppositionの考えを文学へと応用するという方法です。本論文では、後者が議論されます。

この分析に関して、著者はまずlogical presuppositionに基づいた間テクスト性の分析について議論(詳しくは本書pp. 123-126参照)し、"We may or may not find in earlier poems sentences similar to those presupposed; that is in no way crucial.  They function as already read; they present themselves as already read by virtue of the simple fact that they are presupposed" (p. 126)と述べています。しかし、logical presuppositionがない文であっても、強力な間テクスト性を示すことができます。例えば、rhetorical presuppositionなどがその例です。このpresuppositionなどは、logical presuppositionとは全く違った形で機能しています。rhetorical presuppositionやliterary presupposition(これについては詳細に議論されていません)の記述は、言語学におけるpragmatic presuppositionの記述の作業と非常に似たものだそうです。しかし、pragmatic presuppositionを文学に応用することで得るものはあまりないと著者は考えています("The analogies with the case of literature are not very rich, except in this respect: we take literary uttereance as a special kind of speech act, detached from a particuar temporal context and placed in a discursive series fromed by other members of a literary genre, so that a sentence in a tragedy, fopr example, is appropriately read according to conventions which are different from those which would apply in comedy" (pp. 128-129))。また、詩学が行なわなければいけない研究として、次のように著者は述べます。"Focusing on the conditions of meaning in literature, it relates a literary work to a whole series of othe works, treating them not as sources but as constituents of a genre, for example, whose conventions one attempts to infer.  One is interested in conventions which covern the production and interpretation of character, of plot structure, or thematic synthesis, of symbolic condensation, and displacement.  In all these cases there are no moments of authority and points of origin except those which are retrospectively designated as origins and which, therefore, can be shown to derive from the series for which they are constituted as origin." (pp. 129-130)起源とされているものも、結局は間テクスト性という空間の一つの要素に過ぎず、それがたまたま起源と呼ばれているに過ぎないということになるわけです。

以上、著者は、言語学との類推によって、間テクスト性への2つの(限界はあるとは言え)アプローチを提案しました。著者は次のようにまとめています。"The first is to look at the specific presuppositions of a given text, the way in which it produces a pre-text, an intertextual space whose occupants may or may not correspond to other actual texts.  The goal of this project would be an account of how texts create presuppositions and hence pre-texts for themselves and how the ways of producing these presuppositions relate to ways of treating them.  The second enterprise, the study of rhetorical or pragmatic presuppositions, leads to a poetics which is less interested in the occupants of that intertextual space which makes a work intelligible than in the conventions which underlie that discursive activity or space." (p. 130)。

この著者の他の著作(Stcuturalist Poetics)同様、慣習というのが一つのキーワードになっていました。また、間テクスト性の中から表層的な反復などを排除したいという研究者(Laurent Jeremy)が指摘されていましたが、間テクスト性はこういった表層的な反復も(いくらつまらないものに見えても)間テクスト性の一部として考えるべきだと述べられています(p. 116)。

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2008年9月15日 (月)

V.カルブスィツキー(1973/1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』第4章を読む(梓出版社)

タイトル:芸術と科学の関係

感想:マルクス・レーニン主義は、芸術と科学をともに世界を正確に反映するものとみなし、両者の間の違いをほとんど見えなくしてしまいました(そうすることで、芸術創作による社会批判を統制していました。批判的な作品は世界を正しく反映していないと述べればよいことになります。)。しかし、両者はやはり違います。著者は、両者の違いについて述べています。指摘されてたのは、(1)伝達コードの違い(科学は閉じられた一義的な認識行為の報告であるのに対し、芸術は意味論的拡散、無規定性と無拘束性が認められる)、(2)認識行為の性質の違い(科学は1回的(閉鎖的認識)なのに対し、芸術は繰り返し的であり、同じ対象であったとしてもその新しい側面を受容者に提供し、受容者はそれを自分の経験の内容と結合させる(開かれた認識))、(3)素材の意義(科学では、どのような素材(文章か図か)で報告しようが何の違いも生じませんが、芸術では素材が違えば新しい現実の獲得、新しい記号を意味する。芸術で素材が違えは、芸術家は現実に対して別様に反応していることを意味する)、の3点です。そこで、今度は科学の相互作用の場のモデルが提供されます。科学は素材が関わらないので、そのモデルは3つの項(主体、客体、社会)から構成されます。著者は、このモデルに基づいて、経験、理論、イデオロギーを図式化しています。

マルクス・レーニン主義は、科学と芸術を同一的に扱い、芸術の場から素材という要素を追い払っていることになります。また、マルクス・レーニン主義の下では、認識主義を唱えてはいるものの、その認識はある一種の認識(反映)のみを強調することを意味しており、それ以外の認識は疎外されています。芸術家のインスピレーションや作品に反映させるもの、芸術家の認識の成果などはすべて前もって分かっているものになってしまいます。そして、作品の批評は、その作品が現実をどれほど忠実に映し出しているのかを考える作業となります。こうなってしまっては、「現実を独自の仕方で認識するあらゆる可能性が芸術から消えうせてしま」(p. 117)います。仮に新しい認識を示しても、芸術を操作する者によって回避され、不要なもの、社会に敵対的なものとされるわけです。さらに、この美学の元では、主体-社会という二極関係にとらわれており、客体が自由に脱出することができません。したがって、創造的芸術の創作が妨げられています(第3章参照)。著者は述べます。「むしろシステムの総体は原始文化的構成体という既に述べた一次元的な共同体へと向かう傾向がある。このような状況の下では、芸術作品はもはや承認された機能上の多元論を伴った美的形成物ではない。芸術作品はイデオロギー的な目的にかなった事物に還元されている。「認識された」現状に装飾をほどこすことが、それらの事物の存在を正当化している。この認識形式の真理と基準がそれ自身の外部に存在している場合には芸術と科学、芸術と認識、芸術と「現実の反映」との同一化(ないしは、事実上の同一化)のねらいはここにある。」。

本書はこれで終了です。著者(構造主義者)がマルクス・レーニン主義を非常に分かりやすく特徴づけており、とても勉強になりました。

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V.カルブスィツキー(1973/1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』第3章を読む(梓出版社)

タイトル:メタ分析の試みとしての「相互作用の場」の概念

感想:1920年代は創造的マルクス主義的思考の余地がまだあったそうで、様々な芸術観や美学の理論が成立することができました。ロシアには当時4つの学派(フォルマリズム学派、心理学派、社会学派、技術及び諸種の知覚)があり、芸術解釈の妥当性を巡って議論を戦わせました。その中で、各学派は接合を企てる必要に迫られ、フォルマリズム派は社会学化し、社会学派は心理学化するというような状況が起ったそうです。本章では、様々な芸術学派の特徴をメタ分析するためのモデルが提案されます。

それは、主体、客体、素材、社会という4つの項およびそれらの関係から成る、「相互作用の場」における芸術の存在論的モデルと名づけられています。これら4つの項によって主要な学派が表現できますし、それらの関係によって美的遊戯(主体-素材)、形象(主体-客体)、象徴ないし記号(主体-客体(ただし、約定化ないし機能的な代理可能性の観点から客観化される))、表現(主体-社会)も表現できます。どんな芸術作品でも、これら4つの項はすべて関与するのですが、その重み付けの違いによって、色々な学派を記述できるのではないかというのが著者の考えです。かつては、個人が社会の中に埋め込まれていたのですが(原始共同体)、個人が社会から分離して、初めて芸術的創造が可能となりました。しかし、芸術はイデオロギーを通して常に鑑賞されます。したがって、ある種の芸術作品が高く賞賛されたり、不当に低く評価されたり、一時的に評価されたり、といったことが起ります。メタ分析においては、これらのことを忘れてはいけません(おそらくモデルの中でこれらのことを反映させることが困難であるためと考えられます)。

そして、再び、今度はムカジョフスキーの書物(構造主義)とネドーシヴィンの書物(マルクス・レーニン主義)の内容分析を行い、それらが相互作用の場のモデルの中で図式化しています。この分析の結果、両者が強調している部分や軽視している部分でかなりの違いを見ることができます。そして、マルクス・レーニン主義については、「特に主観〔主体〕-客観〔客体〕の認識理論的関係によって特徴づけられている。この美学はイコン的な線(図表参照)に限られているが、主体の「認識過程」の説明に必要な芸術心理の深みには達していない。この美学は「表現」の要素にほんのわずかの関心しか払わず、社会学主義に傾いている。けれども、この社会学主義はたいてい演繹的なものにすぎず、ひんぱんに芸術と社会とを「短絡」させるのである。既存のもろもろの芸術観から、この美学は芸術を模倣とみる理解を完全に採用している(アリストテレスを証人として呼び出すことは-もっとも彼の「ミメーシス」概念は模倣に還元されるのであるが-この教科書だけでなく、この種の著作全体の存在論的な部分に欠くことのできない論証の仕方となっている)。」(pp. 105-106)と述べています。一方、構造主義については、「主としてフォルマリズム(形式主義)的、記号論的および人類学的-進化論的な諸理論を採用する。芸術の構成要素のうちで優勢なのは素材の美(学)化、構造系列の意味論的約定化、象徴や記号の構成要素ならびに客体(芸術作品を含む)の機能主義的形態化およびそれと結びついた諸見解」(p. 106)と述べています。また、図によって、構造主義の方がマルクス・レーニン主義よりも広範囲な相互作用を持っているということが示されています。ただし、構造主義があまり力を入れていない主体などをマルクス・レーニン主義(主体を強調)で補えば、よりよい理論が構築されるというわけではないということには注意が必要です。また、マルクス・レーニン主義では、美的遊戯、形象、象徴(記号)、表現の中で、形象だけが絶対化されたのですが、本来、それぞれの間に優劣はなく、ただ、その時その時で一時的に支配的な地位を得ているにすぎないということは忘れてはいけません。

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2008年9月14日 (日)

W.Delanoy(1991).「Assessing Textual Understanding and Literature Learning in ESL」を読む(『Review of English Language Teaching』)

本論文の詳細は次の通り。

Delanoy, W. (1991). Assessing textual understanding and literature learning in ESL. Review of English Language Teaching, 3 (1), 106-113.

感想:頑張ってテクストを読んでも、その内容が分からないと学習者の動機づけは下がり、結果としてのテクスト理解が粗末なものとなってしまいます。そこで、著者は読解プロセスをオープンにすることが有用と考えています。読解過程がオープンになれば、教師は学習者を手助けすることができるからです。教師は読解のアドバイスをしたり、自分の読解パフォーマンスを自己評価させる能力を発達させることができます。この論文で特に重視されているのは、後者の方でした。この論文では、ケース・スタディーがなされていて、1人の学習者の文学テクストの読解に焦点がしぼられます。彼女は、4つの項目((a)面白さ、(b)内容理解度、(c)言語理解度、(d)テクストへ引き込まれた程度)について自己評価することが求められます。(a)と(d)は動機づけ、(b)と(c)はテクスト理解に関係した項目です。この学習者は、テクストを2回読むように指示され、1回読み終わるごとに4つの観点について自己評価することが求められました。この学習者は、1回目の結果はあまり芳しくなかったのですが、彼女自身の努力によって2回目には随分と読解が向上したそうです。この結果を受けて、教師が学習者に何ができるのか、といったことが議論されています。ケース・スタディーですから、一般的な議論はされませんし、特に斬新なことは書かれてはいません。また、quality circleという考え("a form of organization in which all the parties concerned are actively involved in working towards the best possible achievement of a particular aim" (p. 111))が議論に出され、テクスト理解という共通の目的に向かって、教師と学習者がそれぞれの役割(両者はお互いにパートナーとみなされます)を果たしていく必要があるということが主張されていました。ちなみに、著者が考える、優れた文学読者とは、"competent readers can self-assess their textual understanding on the basis of criteria which justly address the text and which respect the limitations of the readers' textual understanding " (p. 111)だそうです。また、quality circleという枠組みの中では、最終的なテクスト理解の質だけでなく、その学習者がどの程度成長したのかという点も考慮に入れる必要性を強調するそうです。この「伸び」の評価についてはついつい忘れがちなので、注意したいと思います。論文の最後には、(少し突然な感じもするのですが)著者が考えた設問が載せられています。

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M.Hawkey&L.G.Rezk(1991).「Developing Literary Competence: A 'Skills' Approach to Teaching and Testing Literature」を読む(『Review of English Language Teaching』)

この論文の詳細は次の通り。

Hawkey, M., & Rezk, L. G. (1991). Developing literary competence: A 'skills' approach to teaching and testing literature. Review of English Language Teaching, 3 (1), 84-92.

感想:著者らは、communicative competenceの中に、linguistic competence、literary competence、cultural competenceを下位能力として設定し、学部生レベルの学習者にこれら3つの能力を統合させようと考えています。しかし、本論文での主眼はliterary competenceにあります。著者は、literary competenceを発達させ、それを他の2つの能力と統合するために、skills syllabusを作成しました。これは、文学のジャンル(小説/散文、詩、劇、及びそれらの批評)ごとに、その読みや評価に必要となる読解技能をリスト化したものです。その技能は、literary competenceに特化したものもあれば、linguistic competenceとの間にまたがったものもあります。小説/散文と詩のシラバスで記載されている技能の一部が紹介されていました。また、1985年に著者の1人であるHawkeyが作った、教育学部の学生用文学テストのための構成概念が紹介されていました。これまでのテストでは、知識を問う問題が多かったようです。しかし、能力を問う問題が必要であり、著者らは、短編小説の試験問題を例示しています。そして、そこに設定された設問のspecification及び、その問題が示されています。また、その試験をカイロとカイロ周辺地域の大学1年生受験させた結果も報告されています。その分析結果から導き出された最大の課題として、cultural competenceを育成が挙げられていました。

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2008年9月13日 (土)

V.カルブスィツキー(1973/1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』第2章を読む(梓出版社)

タイトル:認識論主義のプラグマティックでイデオロギー的な展開

感想:この章では、レーニンが言うところの反映とはどのようなものであったのか、芸術の反映論がどのような過程で成立に至ったのか、といった点が分析されています。まず、本章の最初で著者は次のように言い切ります。「「芸術におけるレーニン的反映論」とはイデオロギーの必要に応じて生まれたテーゼの徐々に生じた寄せ集めである」(p. 57)。そもそも、マルクス自体は反映とか映像という言葉の中に、現実の歪曲という意味を込めており、正確なもの・法則的なもの・客観的な絶対的真理のための認識の源泉、といった意味はありませんでした。しかし、エンゲルスはマルクスの反映観について両義的であり、マルクスに忠実な反映を議論する一方で、「数学的抽象、物理法則および弁証法的思考一般、いやそれどころか科学の諸部門さえも特徴づけている」(p. 58)場合もあったそうです。そして、レーニンは、エンゲルスの後者の解釈に従ってしまいました。本来のマルクスの考えの中には、「現実への反応の過程における人間の意識の能動的発展」(p. 58)というものもあったのですが、エンゲルス-レーニンという過程の中でこの意味合いは失われてしまいました。彼は、「反映」という語に機械的な印象を与えてしまうような使い方をし、しかもその用法は不整合(日常語の一つとして用い、他の様々な語と同義的に用いた)でした。ここに、レーニンの「反映」が芸術に応用されてしまった原因の1つがあると著者は考えています。このような過程を考えますと、反映論とはエンゲルス的反映論と言うのが本来は正しいのでしょう(p. 59)。また、「美学におけるマルクス主義は芸術的資料の科学的認識によってではなく、「古典的理論家」のさまざまな言明の中からの熱心な証拠さがしに基づいて形成され」(pp. 60-61)ています。

著者は、反映論が芸術に応用される決定的な契機となった書物として、『唯物論と経験批判論』を挙げています。この書物は、レーニンが「半年で書いた政治的な時事問題の書」(p. 62)だったのですが、彼にとっては思いがけず、その中の命題が認識論および哲学一般の言葉として聖典化され、芸術に応用されてしまいました。このことに関しては、著者はレーニンに責任はないと述べています。

次に、レーニンのこの著書の内容分析がなされます。この書の中で、「反映」と「反映する」がどのような意味で用いられているかが検討されています。そして、分析結果として、(1)この述語はレーニンにとっては定義の言明において重要なものと全然考えられていないこと(反映は総括概念ではなく、コピーや像、鏡といった同義語と同レベルの語であり、特に何の違いもなく代替的に使われている)、(2)たいていは、単に感覚ということを論じるために使われているに過ぎないこと、が指摘されています。結論として、「すなわち、レーニンのテクストから個々の言明を引用して、そのようなばらばらにされた言明の意味から一義的で、認識理論上高速的な結論を引き出したり、あるいは「学説」さえ取り出したりすることは不可能であるという結論が出てくる。まして、試みが行なわれているように、不整合に使用された「反映」という述語に依拠してその中にある認識理論上の概括を求めたり、またはひょっとしたらマルクス主義の存在論全体をこの上に建設したりするようなことはなおさら不可能である。むしろ我々はこの本を著者が当時言おうとしていたような単純な意味に理解しなければならない。そして、我々はこの本が当時の科学的な認識の水準に依存していたことも認めなければならない。」(p. 71)と著者は述べています。

次に、反映論の欠点をまとめています。それらは、(1)人間の近くや意識における能動性に注意を払わないこと、(2)実在に対する主体の反応において意識や心理が発達するということも認めない点、(3)レーニンの認識論的な言明は、結局のところ芸術や美学の領域と何の共通性もないこと、(4)反映は、観念論的二元論(神-人間、精神-物質、絶対的観念-人間の意識)を唯物論的一元論(人間は精神的な結合を失い、自然と同一となる)によって克服したことで生じたにもかかわらず、今度は精神のない二元論(物質-人間)を生み出していること、です。特に4点目について、「人間は神-人間という本源的な両極対立の中では、精神の倫理的使命にしたがって自分自身と環境を変革することができたのに、物質-人間という新しい両極対立の中では彼はたんに物質の形成対象として存在するのであり、彼自身は物質に影響を及ぼすことも環境を変革することもできない。人間とその意識は人間より優位にある物質的実体の外部にあり、その際に物質的実態は人間にとって何の意味ももたず、人間は物質的実態にとって何の意味ももっていない。」と述べています。どうやら、1点目と2点目の根源に4点目があるようですね。

次に、著者は二元論的な実体モデルが芸術の領域において精力的に建設されたのには、何か社会的にプラグマティックな動機があるのではないかと考えます。そして、その根拠を列挙していく作業が行なわれています。根拠として挙げられていたのは、(1)19世紀のロシア革命的民主主義者のテクストには反映や鏡といった言葉を伴った決まり文句が寓意的・比喩的に使われていたという伝統があったこと、(2)権威を持つに至ったレーニンの本の中で、「反映」という言葉が何度も様々な認識論的な言明の中で使われていたこと、(3)ロシアでは身近であったという理由から、伝統的にリアリズムあるいは実用的な芸術観を求める欲求があったこと(教育的な観点から模倣的あるいはイコン的要素が有しされ、芸術の定義も「忠実な描写」、実在の「正しい反映」というものが求められた)、(4)革命後の社会的矛盾の暴露を抑圧するために、芸術家の社会的批判の領域を制限したいという欲求があったこと、(5)マルクスの見解、プレハーノフの見解、レーニンの見解がその違いを省みられることなく混同されたこと、(6)芸術と社会の間を短絡させたいという欲求(「不可解な前衛芸術=ブルジョワジー、帝国主義、没落した階級、等々の腐敗の反映)、でした。次に、これら6点を足台にして、マルクス・レーニン反映論が成立する過程が社会学的に分析されています。当初は、反映という言葉を用いなかったり、マルクス本来の考えに忠実になろうとしたりした試みもあったようですが、タマルチェンコの業績(?)によって、「芸術=反映」という公理が作られ、その典拠としてレーニンの本が用いられました。そして、第1章で言及されていた、ソボレフのパンフレットにつながっていくというわけです。

本章の結論です。「いわゆる「芸術におけるレーニン的反映論」はレーニンの理論ではない。それは芸術のマルクス主義的分析に基づいて成立したのではなく、別な状況で述べられ、しかも芸術に関して述べられたわけではない言明と引用文のスコラ的組み合わせに基づいて成立したのである。それは反省されない、典型的にイデオロギー的な過程において構成された。その発達の主な推進力は30年代の教条化した政治体制のイデオロギー的要求であった。」(p. 88)

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B.Parkinson&H.R.Thomas(2004).『Teaching Literature in a Second Language』第8章を読む(Edinburgh University Press)

本書の詳細は次の通り。

Parkinson, B., & Thomas, H. R. (2004). Teaching literature in a second language. Edinburgh, Scotland: Edinburgh University Press.

タイトル:Assessment and evaluation in literature lessons and courses

感想:著者らは、必ずしも測定が必要とは考えていないようで、本章の最初の箇所で測定を必要としない場合について論じています。次に、測定にはどのようなタイプのものがあるのかが、簡単に整理されています。また、測定対象となることができるものについても議論しており、その内容として、affective outcomes、how to learn、literature-related knowledge and skills (factual knowledge、delicate sensibility、the skills of literary criticism)が挙げられていました。ただし、最後のものについては、著者はdelicate sensibilityを測定する意味(測定可能性も含めて)について懐疑的です。また、知識よりも技能の方を重視しているようです。次に、文学を通した言語学習によって育成させることが可能と考えられる言語能力について列挙されています。挙げられていたのは、一般的な能力(Recognising the norm and the deviant、Recognising polysemy、Recognising cohesion, especially lexical cohesion)、読解スキル(ただし、説明文用の読解スキルとは違うもの)、相互作用的なスピーキング・リスニングの技能(ディスカッションを通して)、様々な機能の発話(質問や例示など)の練習(ディスカッションを通して)、です。次に、著者が測定の際に教師が意識しておくべきこととが箇条書きで列挙されていました。それらは、(1)測定は短いものを高頻度で行なうべし、(2)生徒間で測定の結果を比較しない、(3)測定のマークは肯定的にすべし、(4)測定はクラス内の活動、伝統的な試験、課外のアサインメントをミックスして行なうべし、(5)教科書のテクスト(あるいは読んだことがあるテクスト)と新しいテクストを両方使うべし、(6)重要と思われる項目はすべてテストするべし、(7)リーディング、ライティング、スピーキングを特に重視して測定し、測定する場合は1つの技能に絞って測定すべし(複数の技能にまたがるような測定は避けるべし)、(8)技能統合的なテストは学習者のやる気を損ねる場合があるので、段階的に導入すべし、(9)測定のタスクには選択肢を与えるべし(テクストを選ばせる、注目する側面を選ばせるなど)、(10)測定は学習者のfactual knowledgeや他人の意見の学習、自分自身の考えを産出する能力をバランスよく測定すべし、(11)測定は楽しくあるべし、というものです。本章の最後には、著者らが考えるタスクの例が掲げてあります。いずれも面白いタスクなのですが、中にはとても高度なものも含まれています。

著者らは、学習者に測定とばれないようにしなければならないであるとか、楽しくあるべきであるとか、本質的に文学のテストないし測定にはあまり積極的ではないようですね。確かに、文学の解釈は個人的なものですから、そういった点は納得できないわけではありませんが、やはり、いざ測定するとなるとどうすればよいか、といった点は考えていく必要があるのではないかなと思いました。ちなみに、著者のBrian Parkinson先生には、Edinburgh大学留学中にお世話になりました。とてもやさしい先生です。彼が教えるTeaching Literature in EFLというコースはとても役に立っています。

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2008年9月12日 (金)

G.P.O'Neil(1987).「Literature」を読む(『American Association of Teachers of French National Bulletin』)

本論文の詳細は次の通り。

O'Neil, G. P. (1987). Literature. American Association of Teachers of French National Bulletin, 13 (Special Issue), 16-17.

感想:先日読んだHenningの論文で言及されていたAATFの枠組みが気になったので読んでみました。これは、測定というよりは、教員養成のことを問題にしているようで、その中でアメリカ人フランス語教師が備えておくべき能力(Basic levelとSuperior Level)が議論されています。

著者は、文学の言語に関して、"Good literature is appealing, informative, and tought-provoking in a timeless context.  Through literature a student can learn not only linguistic patterns typical of an epoch but also cultural referents of that time.  Moreover, the skills developed in literary appreciation can be applied to any work regardless of language" (p. 16)とその価値を認めています。しかし、アメリカの中等教育では、文学はあまり扱われておらず、ほとんどの学生が到達することが困難であるようなレベルまでお預けとなっているようです。そして、学習者は説明文ばかりを読むことになります。しかし、文学を理解せずして、学習者はフランス人を理解することができるのだろうかと著者は危惧しています。

文学がアメリカの中等教育で重要な要素だとすれば、それは当然教員養成にも関わってきます。そこで、著者は文学に関して教員が持つべきBasic Levelの能力が議論されます。まとめると、各世紀の代表的な作品を最低4つ(この中にはあらゆるジャンルを含むこと)読んだことがあること、が挙げてありました。この能力によって、教員は"can enrich a beginning class by using reading selections which reinforce linguistic objectives through humanistic material.  At the very least, such knowledge makes manifest the intimate relationship between culture and literature" (p. 16)ということが可能になるとしています。また、散文だけでなく、詩を扱うことに対しても積極的です。"Poetry defies trranslation and forces the reader to make the language of the poem a part of himself, thereby internalizing language as a basis for appropriate spontaneous use at any time.  It also provides the pleasant repetition that "tends to stick in our minds" (Billow)" (p. 16)。したがって、このレベルの教師は"might create a stimulating cultural, literary, or even phonetic lesson in the presentation of simple poems" (p. 16)といった指導ができることが期待されるようです。

次はSuperior levelです(Basic levelとこのレベルの中間については議論されていませんでした)。このレベルの教員の能力(?)として考えられているものを挙げると、(1)各文学期の作品とアフリカ・カナダ・カリブなどフランス語を話す地域の作品を読んでフランス文学の広い知識を持っていること、(2)重要な作家や文学運動について深く知っていること、(3)自分自身および学習者の文学の理解を豊かにするためのテクスト分析あるいは文体論分析の技能についての知識を持っていること、(4)Probstが言うところの"three relations in the teaching of literature"によって優れたクリティカル・シンキングを行なうために文学作品を使うことができること、です。ちなみに、"three relations in the teaching of literatureとは、読者とテクスト(説明、批評)、読者と読者(討論)、テクストとテクスト(所定のテーマについて複数のテクストの間で比較検討する)、だそうです。このレベルの教員は、"plan an environment in which linguistic, cultural, and cognitive (critical thinking) goals can be achieved indirectly via encounters with literary texts" (p. 16)が出来ることが期待されています。

では、こういった教員を育成するためにはどうすればよいか、という問題が出てきます。著者は、学習者に将来やらせるような活動を養成期間中に体験させることが有効であると考えています。そして、(1)読解技能を指導するためのテクニックの意識化、(2)学習者のレベルに応じて適切な文学作品を選択するための方法の習得、(3)学習者の文学作品の内容理解やその内容がどのように生活や世界に関係しているかの理解を測定するためのテスト方法の訓練、(4)オールフレンチで授業ができるだけのフランス語能力、が必要になるとのことでした。また、文学を文学として教えることもできるし、文学を通して言語を指導することもできると著者は考えています。

また、この著者らが考えているAdvanced Placement programというもでは(本論文は、その一部だと思います)、中等教育の学習者が大学三年生と同レベルのフランス文学能力(?)を習得することが求められているようです。

最後にSuperior Literary Skillsについて、著者が考えを述べています。その内容として挙げられているのは、(1)聖書、神話、そして歴史的なアリュージョンなどの背景的知識、(2)様々な批評アプローチを使うことができること、(3)作品内に様々なレベル(actions and acting forces、psychological dimensions、sociological dimensions、structural dimensions、stylistic dimensions)の意味を認識できること、が挙げられています。そして、Superior Levelの教師は、(1)イストワールとディスクール、コノテーションとデノテーション、形式と実質、それぞれの間で区別ができること、(2)(1)で示された区別をクリエイティブライティングや指導に役立てることができること、が指摘され、先に示したSuperior Levelの教師の能力のリストに加えることができると思います。

この論文は1987年のものですので、かなり古いですが、そこで述べられている多くの点は、いまだに解決されていません。また、議論の内容も20年経った現在とほとんど変わっていません。文学を使った外国語教育の分野の発展は滞ってしまっているのでしょうか。。。

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C.Brumfit(1991).「Testing Literature」を読む(『Review of English Language Teaching』)

本論文の詳細は次の通り。

Brumfit, C. (1991). Testing literature. Review of English Language Teaching, 3 (1), 1-8.

感想:この論文は、文学のテストそのものを論じるというよりは、文学のテストを作成する上で知っておくべきテスト理論の基礎概念の紹介といった感じでした。著者は文学のテストであっても、一般的なテスト理論の考えに基づかなければならないという立場です(p. 1)。

扱われていたのは、テストの種類ないし機能(performance test、prediction test、gatekeeping test、diagnostic test、accountability or of individual teacher appraisal)5種類と、妥当性・信頼性です。

最後のセクションでは、accountabilityを除いた4種類のテストの機能の観点から文学テストについて考察されています。しかし、具体的な話というよりは、方針が述べられており、やはり、根本的には文学が読めるとはどういうことか(技能、知識、態度、反応)ということを整理し、その記述によって優れた読者とそうでない読者を分ける作業が必要になるとのことでした。この整理がなされた上で、初めて文学テストの研究が進展すると考えられています。

テストは指導そのものではありませんが、大きい意味での指導ないし学習という観点では、その一部として考えられるべきです。テストは文学にとっては不自然なことかもしれないし、測れないもの中にも価値のあるものもあります。テストと指導は複雑な関係にありますが、教師は何らかのテストはされるべきであり、同時にテストをすることで生じる問題点も知っておく必要がある、と著者は結んでいました。

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2008年9月11日 (木)

V.カルブスィツキー(1973/1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』第1章を読む(梓出版社)

タイトル:マルクス・レーニン主義美学の認識論主義の諸形態

感想:「芸術は現実の芸術的反映である」というテーゼは、あらゆる社会主義国で変種の形で現れているようです。しかし、このテーゼはトートロジーであると著者は述べます。また、反映説の定義は一面的にイコン的なもののみを扱い、美的遊戯や象徴といった他の要素は一切考慮されていません。著者は、この章では、3つの著作を取り上げて、その中で反映説がどのように貫徹されているかを内容分析しています。取り上げられたのは、ゲ・ア・ネドーシィヴィンの『マルクス・レーニン主義美学の基礎』という教科書、ナテフの『芸術と社会』というマルクス・レーニン主義美学に若干の批判を加えようとする本、ラヂスラフ・シュトルの『文芸における形態と構造』という構造主義批判の本(彼はムカロフスキーの後任でチェコ科学アカデミーの任に就くことになり、自分を正当化するためにこの本を書いたそうです(p. 121))、です。特にナテフの本は、一見マルクス・レーニン主義美学を乗り越えようとするものに思えるのですが、結局その根底には反映論的芸術観があり、この芸術観に若干の改良をしたに過ぎず(いろいろなジャンルの芸術を扱うことを主張したこと)、根本的な解決にはなっていません。また、これらの本には矛盾が多かったり、創造主体の能動性を認めなかったり、この芸術認識論における矛盾を覆い隠すような操作が行なわれていたりします。著者が多くの例文を引っ張っており、それらを体系化しているので、その様子がとてもよく分かりました。

次に、こういったマルクス・レーニン主義美学がどのように生まれたのかが議論されます。しかし、面白いことに、レーニン自体はそうった芸術の定義を述べていないし、反映という概念は単に認識論に対してしか用いていません。著者は、レーニンを反映的芸術観に結びつけた起源として、1947年にソ連で出版されたア・イ・ソボレフの「レーニン的反映論と芸術」というパンフレットを挙げています。これは、もともとは民衆啓蒙のための通俗的な講義の出版物の1つだそうです。しかし、出版後まもなくすると、このテクストの諸公式が公理とみなされるようになったそうです。このパンフレットには、科学と芸術を同一視して両者が認識過程の同じ価値をもつ構成部分とみなしたり、(その結果として)世界とその法則は認識可能であるというスターリンの言明を芸術に結びつけたり(ここから、芸術は客観的真理の意義をもつ信頼すべきデータとなります)する飛躍がありますが、それが暗黙の了解とされてしまいました。また、芸術を絶対的真理と定義する一方で、真ではない反映も存在しているとった矛盾も、公理化しているが故に、特に問題とされることはありませんでした。著者は、レーニンを芸術反映論に結びつけた箇所を引用しながら、その論理展開を分析し、あたかもレーニンが芸術反映論を作ったかのような外観が作られている様を説明しています。「芸術=反映」は強く浸透したため、このテーゼに基づいて膨大な書き物がなされました。そして、チェコスロヴァキアでは、1966年になるまではこの定義に原理的な異論を唱えた著作は現れなかったそうです。

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S.D.Henning(1992).「Assessing Literary Interpretation Skills」を読む(『Foreign Language Annals』)

この論文の詳細は次の通り。

Henning, S. D. (1992). Assessing literary interpretation skills. Foreign Language Annals, 25 (4), 339-355.

感想:本論文はComprehensive Assessment in Disciplinesというプロジェクトの中で、ACTFLのリーディングの枠組みを発展させる形で開発された文学解釈技能測定のための評価尺度の説明です。ちなみに、このプロジェクトの目的は、"to "devise assessment atrategies that identify comprehensive learning and development" for students majoring in foreign languages ant that could serve as "alternatives to existing nnationally standardized tests"" (p. 339)だそうです。このプロジェクトでは外国語学習には6つの基本的技能(oral proficiency、writing、reading comprehension、listening comprehension、cultural awareness、literary interpretation)があり、内容(content)は技能(skill)を通して測定されるという立場だそうです。そして4技能(最初の4つの基本的技能)測定の枠組みを文学解釈に応用しようとしています。また、ACTFLでは、文学解釈はかなりの読解力が必要と考えており、通常のリーディングの枠組みでは、上級者のみが散文(長編と短編)の内容理解が可能とされています。また、言語や文体の美的特性を意識することは、内容理解の後に来るものと考えられています。したがって、文学解釈技能の評定尺度における初心者とは、既に普通の読解でintermediate-high levelに到達していることを前提としているそうです。また、通常の読解の評定尺度を元にしているとは言え、文学解釈技能には独特の要素も組み込んでいます。

次に、著者は、Murphyを中心にして研究されているAATFの枠組みと本論文での枠組みを比較対象しています。私はAATFについて読んだことがないのですが(本論文でも少し説明はあるのですが、よく分かりませんでした)、著者が挙げている強みとしては、(1)テクストへの馴染み(読んだことがあるかどうかにかかわりなく)に関わりなく、文学テクストの解釈能力を測定することができる点、(2)特定の解釈方法を特権化することがない点(学習者が目的や状況にあわせて適切な解釈方法を採用することが目ざされます)、が挙げられていました。

次に開発された評定尺度の説明です。これはアクティヴィティーを配列したもので(この亜たちはとてもACTFLらしいです)、それぞれのアクティヴィティーにはaction、textual component、contextual componentが含まれています(詳細は割愛)。また、学習者は、7ないし8のレベルに分けられています(Novice、Novice high、Intermediate、Intermediate high、Advanced、Advanced high、Superior、Superior high)。著者はそれぞれのレベルの学習者は何ができるのかを記述しています。また、Intermediate highとAdvancedはACTFLの読解におけるAdvanced highを分けたものになります。更に、Advanced highとSuperiorはACTFLの読解におけるSuperiorを分けたものです。

この枠組みを使うことで、各組織が現実的な目的を設定することが可能となり、外国語を専門とするすべての大学生学習者は卒業までにIntermediateレベルに到達することを目ざすそうです。次に、実際にこの枠組みが機能するかどうかが調査されています。その調査方法と内容(p. 342~)については本論文を参照下さい。なかなか面白い調査方法が取られています。また、この結果を受けて、Henningの作った枠組みの修正版としてTaylorが提出したものも論文の付録に載っています。僕としてはHenningのものよりもTaylorのものの方が実用的なのではないかなぁと思ったりしました。

更に、学生にポートフォリオを作らせることにしたそうで、その中に入れるものとして様々なものが挙げられています。中でも面白いと思ったのは、文学史の内容をまとめたり、自分で読んだものを文学史に書き込むことができる文学史チェックシートです。この文学史のチェックシートは、技能ばかりで内容をおろそかにすることがないようにするための策のようです(既に述べたように、この論文で提案されている評定尺度は技能を通して内容を見るというものでした)。とても面白かったです。

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A.C.Purves(1990).「Testing Literature: The Current State of Affairs」を読む(Office of Educational Research and Improvement(編),『Testing and Assessment, Special Collection 1』,ERIC Clearinghouse on Reading and Communication Skill)

本論文の詳細は次の通り。

Purves, A. C. (1990). Testing literature: The current state of affairs. In Office of Educational Research and Improvement (Ed.), Testing and assessment, special collection 1 (pp. 1-2). Bloomington, IN: ERIC Clearinghouse on Reading and Communication Skills.

感想:本論文は、P. Brody, C. Demilo, & A. C. Purves (1989). The current state of assessment in literature Report Series 3.1. Albany, NY: Center for the Learning and Teaching of Literature. の簡略版です。アメリカでの読解テストにおける文学の扱われ方について調査した報告です。調査結果としては、国家は読解やライティングの養成にかなりのエネルギーをつぎこんで、そのテストは学習者の進路において重視されていますが、文学や文化リテラシーの扱い方に失敗しているということが述べられています。結果、学校でも文学の扱いは無視されつつあるようです。テストは文字通りの意味の理解や散文のフィクションの読解に限られ、詩や劇はほとんど扱われていません。また、多くの州で文学は読解の中の1つの側面としての扱い(独立した一つの科目としてではなく)を受けています。まさに、"Reading is important in state assessment or competence tests, but literature plays a minor role" (p. 1)というわけです。テスト問題はたいていは内容理解であり、大学のプレイスメントテストは例外で文学に関する知識が問われるそうです。テクストの内容以外の芸術的な側面(言語、構造、視点)はほとんど扱われていないそうです。著者は、文学の読解テストに見られる典型的な項目(p. 2)を挙げていますが、その内容はTOEICなどと代わり映えがしないものでした。また、形式が多肢選択式なので、低い時限の内容理解しか測定できていないようです。つまり、文学と非文学の違いがテストで表現されていないと言えます(p. 2)。テストには、"any text is viewed as having content that can be easily summarized into a single main idea, point, gist, or theme" (p. 2)という考えが強く影響しているようです。また、サマリーや批判的なコメントをさせる質問項目を加えるとテストの難易度は高くなりますが、形式や美的評価はほとんど強調されていないようです。国家は文学の読みを高めようという考えがあるのですが、テストが国家の考えとかみ合っていないようです。"The power of literature to capture the imagination of the reader remains unexplored in most assessments, which treat the texts as if they were no different from articles in encyclopedias or research reports. "(p. 9)。

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2008年9月10日 (水)

J.P.Boyle(1986).「Testing Language with Students of Literature in ESL Situations」を読む(C.Brumfit&R.Carter(編),『Literature and Language Teaching』,Oxford University Press)

詳細は次の通り。

Boyle, J. P. (1986). Testing language with students of literature in ESL situations. In C. Brumfit & R. Carter (Eds.), Literature and language teaching (pp. 199-207). Oxford: Oxford University Press.

感想:相当久しぶりに英語教育系の論文(しかもSLAとかではなく、文学を使った英語教育の論文)を読みました。著者は、よいテストには一般的な内容と詳細な内容を問うテストが必要であると考えています。そして、文学専攻の学生にとってのテストもそうあるべきだと考えているようです。また、このテストで主に想定されているのは、コモンウェルス文化圏の高等教育で文学専攻の学生のようです(しかし、こういった学生に限られた話ではないようですが)。ここでは、4技能のテストについて、そのテスト形式が列挙されていきます。リーディングについては、(1)短編小説を読ませて内容理解を問う形式や特定の箇所を引用して、その箇所の作品内での意味を尋ねるもの、(2)作品にとって非本質的な箇所と重要な象徴的意味を担っている箇所を区別させるもの(特定の出来事の重要性を評価する能力を測定するため)、(3)小説家のインタビューのクローズテストないしは擬似クローズテスト、が挙げられていました。ライティングについては、(1)大まかには同じ感情を表わす6つの語句を答えさせたり、1文に6つの感情を表わす語を使って作文させたり、複雑な感情を表わす顔の絵(モナリザとか)を見せてその表情を説明させるというもの、(2)直喩や比喩などの一部を空所補充させるもの(正しさよりも創造力を測定)、(3)言語使用域として適切なものを選択肢から選ばせたり、言語使用域をミックスさせることでユーモアを出すことを目的とした作文をさせるというもの、(4)テクストやテープ、映画などの反応について作文すること(controlledとfree両方)、が挙げられていました。リスニングについては、(1)劇を聞かせた後に話の全体的な内容を問うもの(その劇は何についてでしょう?)や劇中の登場人物を表わす相応しい言葉(形容詞)を多肢選択式で選ばせるというもの、(2)ストーリーを聞かせて、要点を踏まえた上でその内容を語りなおしたり、その内容に相応しいタイトルを多肢選択式で選ばせたりするというもの、(3)詩を聞かせて特定の表現がその作中では何を意味しているのかを答えさせるというもの(これはリーディングでも使えますが、詩は本来は暗唱されるものであるという点からリスニングに入れられています。ただし、著者は詩を使ってこういったタイプのテストを行なうことは限られた価値しかないと考えているようです。)、(4)エッセーをディクテーションさせたり、劇を聞かせて、その内容を覚えさせ、テクストの空所に適切な文を復元させるというもの、が挙げられていました。スピーキングに関しては、(1)暗唱(この場合、テクストの感情がどの程度表現されているかも採点の対象とされなければなりません)、(2)ビデオで短い劇を見させた後に、学生同士で会話をさせ、その会話を評価者が採点する(採点者と受験者の会話になると、自然な会話とはならないので、採点者はその会話に入らないようにすることが大切だと著者は考えています)、(3)作品や文学作家の時代についてのスピーチをさせるというもの(この場合、絵やスライドなども使ってよく、そのプロジェクト全体として評価されるべき)、が紹介されていました。かなり高度なテスト形式が言及されている一方で、実際に使えそうな部分も多いと思いました。

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V.カルブスィツキー(1973/1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』序論&問題設定を読む(梓出版社)

本書の詳細は次の通り。

カルブスィツキー,V.(1991).『反映論と構造主義-「プラハの春」の美学-』(志田昇・吉田正岳(訳)).梓出版社.(原著は1973年出版)

感想:マルクス主義的文学理論についてあまり勉強していませんので、その一環として読むことにしました。本書はチェコのイデオロギーと化していた、マルクス・レーニン主義における反映論(「芸術は現実の反映である」というテーゼ)の公理化の過程の分析(どのように発生し、それがどのように支配的なイデオロギーとなったのか)がなされます。時代的に、反映論を批判することはできないので、著者はこのような内在的な研究をすることにしたそうです。時代を感じますね。。。古典的なマルクス主義者の言明が、もはや疑うことができないほどの影響力を持ち、そういった言明の真偽は問われぬまま、あらゆる実践がその言明の上に積み重ねられていくという状態にチェコはあったそうです。実際、この本の原稿は政府に没収されているらしいです。

この反映論について、著者は次のように述べています。「芸術家は-あらゆる人間と同様に-現実を感覚と知覚を通じて「認識する」。そして芸術家の感覚器官はそのことによって「相対的真理と絶対的真理」を模写する。そこから生じる理念は芸術作品において具象化され、「物質化」される。芸術作品は、このようにして多かれすくなかれ、現実を正しく反映するのである。以上のことを通じて「主体と客体の弁証法的統一」が獲得される。」(p. 4)。マルクスはヘーゲルの枠組みから精神というものを取り去ったのですが、弁証法というメカニズムはマルクス主義の中で中心的な役割を果たしています。しかしながら、この枠組みでのヘーゲル的三段階図式においては、弁証法的統一は永久に達成されてしまっていることになり、更なる変化はその調査を乱すこととされるので、認められないことになってしまいます(つまり、本来の弁証法とちがって、統一が行なわれた時点で硬直するというわけです)。だからこそ、イデオロギー、あるいは宗教として機能しているわけです。また、この反映論は芸術のみならず人間それ自体にも関係してきます。そして、反映論を突き詰めていけば、人間観にもなります。したがって、反映論の理論家や党幹部も何かを反映している存在となるわけですが、彼らは「物質の一般的性質としての反映からは除外される」(p. 18)ことになります。

著者はマックスウェルの場の理論を引き合いに出し、芸術作品は硬直した主体と客体の弁証法的統一として立ち現れるのではなく、無数の弁証法的統一の総和であり、物質的な実体(文字など)は非物質的な場(読書など)を換気するための記号の潜在的エネルギーであると考えています。つまり、反映論のような硬直した考えではなく、もっと動的な考えを持っているようです。しかしながら、この主張を展開すると、政府から処罰を受けてしまいますので、あまり立ち入って議論がされていませんでした(しかし、著者はチェコ構造主義美学者ですので、マルクス・レーニン主義とは相容れない立場です)。

重々しい論調の本なのですが、反映論についてこれからどんなことが議論されるのか、楽しみです。

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2008年9月 9日 (火)

M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第6章を読む(Peter Lang)

タイトル:Conclusion: Modes of polyphony in Middlemarch, Nostromo, and Herzog

感想:しばらく分析の章が続きましたので、著者が何をしようとしていたのか、少し見失ってしまう読者の方もおられるかもしれません。しかし、この章で、再び著者がしようとしていたこと、そのためにどのような方法論を使ったのか、その結果としてどのような結論を見たのか、が簡潔にまとめてあります。

これまでの研究では、これらの3作品において、語り手がいるかどうか、語り手が量的に最も優勢であるかどうか、といった点を述べることで満足していました。しかしながら、focalizer自体にもっと質的に迫ってみる必要があります。また、ポリフォニー自体は3作品ともに見られるので、ポリフォニーがあるかどうかではなく、どのようにポリフォニーが立ち現れているのか、という点を分析することが必要になります。

分析の枠組みについてもコンパクトにまとめられています。ポリフォニー自体にはこれまでの研究よりも分析的な態度が採られています。本書では、2種類のポリフォニーを分類しているのと、ポリフォニーに2つのレベルを認めているという点で、従来のバフチンらの研究よりももっと進んだものであると言えます(詳しくはp. 285)。ポリフォニーに関する本書の考えに基づいて、評価者の信頼性や視点の共存といった点に分析の焦点が置かれることになります。実はこの部分は、私は第2章を読んだ時点ではあまりよく分かっていなかったのですが、本章をずっと読んできて、はじめて明確な理解を得ることができました(自分の理解力の無さを痛感します)。その他、本書で用いた枠組みについてまとめがなされています。本書の全体像を思い出す上でとても有用です。

次は、分析についてのまとめです。著者はFree Indirect Discourseが分析の鍵だと考えていましたが、これは3作品いずれにも確認されます。したがって、Free Indirect Discourseの有無だけで、各作品のポリフォニーを議論することはできません。もっと質的に見ていく必要があるわけです。本書は、各作品に基づいて、プリモダン的ポリフォニー、モダン的ポリフォニー、ポストモダン的ポリフォニーそれぞれがどのようなものであるのかを明らかにしようとした試みです(ある作品が本当にモダニズムと言えるかどうかといった点を立証しようとした試みではないことに注意下さい)。本書での結論とも言えると思いますが、各ポリフォニーが簡潔にまとめてあります。プリモダン的ポリフォニーは"unreliable, peudo-omniscient nature of narrator"(p. 290)、モダン的ポリフォニーは"representing disbelief in the truth and highlighting a dialectic world-view" (p. 291)、ポストモダン的ポリフォニーは、1人の人物の中に合い対立する複数の自己を認め、その分裂が言語的に明確に具現されていること、と述べられています。主体の対立ということに関して言えば、Herzog以外の2作品にも確認することはできるのですが、Herzogが群を抜いて、その分裂が明確であり、そのことが言語的にも具現化されているという点で異なっているということです。

最後は、残された課題です。まず、(1)真理の概念で文学の潮流を分ける考えの妥当性を更に考えること、(2)ポリフォニーの形態の違いは文学潮流の違いではなくて作家個人のスタイルの違いである可能性があり、この点を議論する必要があること、(3)「潮流」というものそのものの妥当性の(そういったものを認めることが妥当かどうか)考察、が挙げられていました。

本書はこれで終わりです。とても面白い本でした。本書の内容そのものも当然ですが、文体論によって個別の作品から一般的な現象を考えていく手順も勉強することもできました。本書の最後には用語集もあるので、専門書ではありますが、とても読者に優しい本です。是非一読下さい。

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M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第5章を読む(Peter Lang)

タイトル:A stylistic analysis of Herzog: A mode of 'postmodernist polyophony'

感想:ここでは、Herzogの特徴づけに関する抜粋の文体分析がなされます。具体的には、語り手がHerzogの性格を真実として記述している部分、Herzog自身が自分を評価している部分、他者や外部の世界へのHerzogの反応の中に彼自身の性格が現れている部分、Herzogの内面の変化している可能性を示している部分、の分析がなされていました。ポストモダンでは、真理の存在や主体の信頼性などが疑われるわけですが、こういった点がどのように作品内に言語的に具現しているかが分析されています。これまでの批評家も、この作品はポリフォニー的であるということは述べてきているのですが、その分析が少し大雑把であり、Herzogの単独の声の中にも複数の視点が入り込んでいるということおり、そのことが真理に対するポストモダンの姿勢を表現している点を見落としてきています。また、この作品の視点の問題などを扱った先行研究があるのですが、それらは、視点のシフトとポリフォニーとの関連性やHerzogの意識の表現のされ方、視点における技法などがどの程度ポストモダン的なのか、といった点の考察は不十分でした。そこで、本章で、焦点化の問題を中心にして、先行研究で足らなかった点を解決しようとしています。

分析の詳細はここでも割愛しますが、結論部分で特に重要なこととして示されている点としては、(1)Herzogの多重的な主体化を明るみに出すような語りの技法によってポリフォニーが具現化されていること、(2)主人公であるHerzogの中の2つの自己が、それぞれ個別の真実を持ち合わせていること(他の作品よりも内面の分裂がはっきりしており、それが作品内で重要な役割を果たしています)、(3)複数のfocalizerの観点が、様々な言語的特徴によって表現されていること(代名詞など。詳しくは分析を参照)、があります。これらの点はHerzogのポストモダン的特徴を現しており、実際の分析でもこのことが支持されています。文体論的特徴は単なる飾りではなく、作品の内容そのものであるという点をはっきりと認識することができる章でした。とても面白かったです。

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2008年9月 4日 (木)

土田知則(2000).『間テクスト性の戦略』を読む(夏目書房)

本書の詳細は次の通り。

土田知則(2000).『間テクスト性の戦略』.夏目書房.

感想:本書は、間テクスト性を読むことに接続することを最大の課題として書かれています。語り口は明快で、とても理解しやすい本でした。一気に読んでしまいました。

1章(「間テクスト性とは何か」)では、間テクスト性という概念がどのような文脈で提案され、それがどのように発展していったかということが扱われていました。それ以前のロマン派的な考え方では、「個人的な詩的霊感とでも呼ぶべきものが、天才作家の独創性・唯一性を保障し、それを啓示する」(p. 23)と考えられていたのですが、この考え方に対抗するものとして間テクスト性が提案されました。この章の最初の部分では、KristevaBakhtinde SaussureFreudの考えから影響を受け、間テクスト性という概念を提案するに至った経緯が示されています。しかし、Kristeva2つのテクストの間の関係というものにとらわれていたきらいがあり、後にGennette3つ以上の関係について議論することとなりました。作者はこれらを相互外的な間テクスト性と呼んでいます。更に、DerridaJohnsonに至っては、テクスト内のずれ(自己からのずれ)といった側面を議論するようになり、相互内的な間テクスト性が扱われるようになったとしています。また、間テクスト性の議論の中ではクロノロジカルな関係、影響や源泉といったもの(そもそも間テクスト性はこういったものに対抗するために提案された概念です)は二次的な関心となることが述べられていました。

2章(「「読むこと」の問題に向けて」)では、間テクスト性が読みの問題へと接続されます。最初は「間読み性」という言葉でこのことを表現していますが、最後はブルームのインターリーディングという概念へと収斂していきました。この章はイェール学派第一世代ビッグ・フォーの1人、ハロルド・ブルームの議論を素地として進んでいきます。間テクスト性の中では、もはや主体といったものは存在せず、したがって、書く人も読む人も主体などはなく、ただ他者の存在に堂段されたテクストのようなものと考えられるようになります。ブルームは一連の議論を誤読と呼び、カラーはapplicationと読んでいます。これらの概念が意味することは、「同一のレヴェルに置かれた複数のテクストが互いの内に浸透し合い、対話的な交差・交通を実現する時、そこにいかなる「読み」の可能性が立ち現れるのかを検討しようとする試み」(p. 77)です。これは、伝統的な比較・影響研究とは真っ向から対立することになります。多くの研究者はこういった発想の転換をエディプス・コンプレックスの図式に当てはめて考えており、「父」たる先行者の権威を奪う行為と考えています。XYとの間の時間的な順序はもはやそれほど問題ではなく、両者の間に双方向的な関係を開いてやることが重要なポイントとなります(XYに影響を与えたということだけでなく、Yを通してしかXを考えることができない、といったことのように)。

3章(「T. S. エリオット-H. ブルーム、この間テクスト的なる関係」)では、ブルームとT.S.エリオットの違いと共通点が議論されます。しかし、本章の最後で示されることですが、両者は実はかなり近いところにいて、ブルーム自身も最初は敵愾心を燃やしていたものの、次第にそのことに気がつき、エリオットの批判を避けたのではないかと著者は述べています。まず、エリオットは、ロマン派的な個性主義の批評態度を批判します。そして、「伝統」(ホメロスに端を発するヨーロッパ全体の文学の総体)という概念を提示し、われわれはその伝統から逃れることはできないという点を述べています。この点はブルームの影響という概念と酷似しています。しかし、両者は伝統を静観するか(エリオット)、その影響に怯えながらも闘争するのか(ブルーム)という点で異なっていると著者は述べています。しかしながら、作者や主体の中心性を守ろうとしたブルームに比べて、エリオットにはブルームよりも現代的(デリダやフーコーバルトに近い部分)な部分(自己の徹底的な粛正)もあります。また、ソシュールに似ている部分もあり(共時的ではなく通時的であるという点はあるものの)、間テクスト性という視点(語は用いていないが)に立ち、実体論的な思考から関係論的な思考へとシフトしている点では、エリオットはブルームに接近していると言えます。さらに、ブルームよりもエリオットが現代的であるもう1つの点として、ブルームが「影響」をテクスト対テクストという二社対立の図式で考えてしまっていたのに対し、エリオットは個別のテクストを超えた柔軟な発想をしているという点が指摘されていました。しかし、時代的な制約もあったからか、エリオットは伝統の中で古典主義を絶対的に優位なものと考えており、ロマン主義との間に交差不可能性を想定しているという問題点があります。つまり、「父親→息子という一方的で抑圧的な支配関係をそのまま精確に反映するもの」(p. 146)と考えることができるわけです。しかし、一方でエリオットは、伝統の重視を盲目的な服従とは考えておらず、伝統からの逸脱の必要性も示唆している部分があり(つまり、エリオットは決して伝統を静観しているだけではないということでしょうか)、やはり両者はかなり近いところにあったと考えることができるというのが本章の結論でした。

4章(「テクストの中のユダヤ性」)では、現代のテクスト理論には常に「死」、特に父親の死というモチーフが立ち現れるというところから議論がスタートします。しかし、気をつけないと、父親の死が新たな父親を誕生させてしまうことになってしまい、結果として間テクスト性が打ち砕こうとしたロマン派的な考えへと反転してしまう危険性があります。そもそも、間テクスト性はフロイトのオイディプス・コンプレックスに喩えて議論されることが多いのですが、このオイディプスの神話は父親殺し以外にも真実としての始原に固執した物語なのです。しかし、間テクスト性の理論は、父の死以外にも子の死も意味します。つまり、書く主体だけでなく読む主体も他者に横断されており、間テクスト性発生の場として考える必要があるわけです(p. 174)。つまり、いかに作者の絶対的な意図を求めないとしても、これまで誰も発見していない解釈を読者が提示するといったような読みの独創性を求める行為は、間テクスト性という概念にとっては本末転倒になってしまいます。ただし、この点については少し注意する必要があります。というのは、この論理を突き詰めていけば、生産性といったものが抹消されてしまうためです。本当のところ、間テクスト性が抹消しようとしているのは、テクスト内に唯一の統一的中心を借定することを批判しているのであって、中心をおくこと自体は否定していません。つまり、「「間テクスト性」の議論は中心の不在性(死)を執拗に主張しようとするものではなく、いわば同列的(水平的。換喩的)に並置されうる複数無限の中心を同時的に認め、引き受けようとするものなので」(p. 178)す。そして、こういった考え方は非常にラビ的ないしユダヤ的(間テクスト性の研究者がユダヤ人であるという意味ではありません)であると考えられています。つまり、間テクスト性という概念に見られる、位階的なイデオロギーを拒絶し、先行性を破壊し、すべてのものを水平に並べ置き(換喩的)、差異ないし他者性を消去しないという点が非常にユダヤ的だというわけです。一方、ユダヤ的という考えに対立するギリシア的な考えとは、直線的(クロノス的、系譜的)な時間秩序を重視し、代置の関係を重視し(隠喩的)、意味の一義性を目ざすこととなります。間テクスト性では、意味作用を常に開かれたものと考えます。このことと関連してか、換喩的な関係が徐々に研究者の間で意識されるようになってきており、ヤコブソンによる言語の2軸の関係では、隠喩と換喩が同じウェイトで扱われてます。他にも、ジュネットがプルーストの隠喩生成の中に換喩的な思考が強く作用していることを示したり、ラカンが換喩を重視するような議論を見せています。

5章(「リゾームとテクスト理論-樹木と書物の解体をめぐって」)では、間テクスト性という概念とリゾームという概念の間テクスト的読み、あるいはドゥルーズ&ガタリ、バルト、クリステヴァ、バーバラ・ジョンソンを換喩的に並置する、という作業が行なわれていました。まず、「AB」という言い方は、一件、両者を並列的に扱っているように見えて、どちらか一方を特権視し、「両者の双方向的、対話的な「遭遇」の可能性を逸してしまうような危険性にされされているということを常に意識しておく必要がある」(p. 200)という指摘がなされます。そして、ドゥルーズとガタリによるリゾームという考え方の説明がなされます。リゾームとは「換喩的な結びつきのなかに脱位階的な関係を探ること」(p. 201)を指します。また、彼らが書物の問題、ひいては西洋前全体の問題をなぜ樹木という観点から考えるのかも説明してありました。西洋の文化、つまりキリスト教は本(聖書)の宗教であり、書物は昔は樹木(ぶな)から作られており、キリスト教、書物、樹木は語源的にも同じものであると考えられるというのがその理由でした。キリスト教は樹木的な学の体系であり、系譜や血縁を特権視する類似的、隠喩的な思考です。それに対してリゾームという考えをぶつけているわけです。また、バルトとの接点が説明されるところで、バルトのシニフィエとドゥルーズのシニフィアンは同質のものであるので注意が必要であるということも指摘されていました(単なる用語上の差異でしかなく、意味するところはともに意味の固定化に対抗するための概念です)。次に、ドゥルーズやガタリは間テクスト性という語は使わないのですが、実際は間テクスト性とほぼ同じ考え方をリゾームという概念によって行なっているという点が説明されていきます。それらは、源泉のようにふるまわないこと、「民衆的な」という語、書物ないし読むことに関する問題を扱っていること、「間(inter-)」という問題を扱っていること、循環という語を扱っていること、です。リゾームも間テクスト性も「決して双方の影響関係を云々する体のものではない。双方の提示している相同的な主張を遭遇させ、衝突させることによって、そこに新たな交通の可能性を確認すること、ただそれだけが狙い」(p. 219)となります。ちなみに、リゾーム的な理想の書物とは、「上下も中心もなく、無限に増殖するたった一枚の水平的な頁」(pp. 215-216)になるそうです。また、『千のプラトー』の「プラトー」とは、「一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうるような多様体のすべて」(p. 217)を指すそうです。次に、ドゥルーズが述べる「N」と「N-1」という考えが説明されます。「N」とは、「多様体へと変じる可能性を内在させたもの」(p. 221)、「-1」は「そうした多様体化を始動させる内的なファクター」(p. 221)と説明されています。多様体には常に内側に空隙があり、Nを常にN-1の観点から考えること、両者を等価として捉えることが大切だと述べられていました(詳しくは本書を参照下さい。とてもわかりやすい説明がなされています。)。こうした考えは、バーバラ・ジョンソンの内的差異の考え、バルトのエクリチュールの考え、彼の作品とテクスト、そして書きうるテクストと読みうるテクストの問題と根底でつながっていると考えることができます。これらはいずれもドゥルーズのリゾームないしN-1という考えと同質のものと考えることができます。最後に、注意すべき点として、リゾームと樹木を二項対立的に捉えないようにとの指摘がありました。両者は一元的に捉えられなければなりません。つまり一見樹木であっても、そこにはつねにリゾームが隠れているとでも言いましょうか。

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2008年9月 3日 (水)

M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第4章を読む(Peter Lang)

タイトル:A mode of polyphony in Nostromo under Modernist influence

感想:Nostromoに関する先行研究は、ミクロレベルでの分析がなされていなかったり、語り手や登場人物の間で語りや焦点化の信頼性が異なるということを見過ごしてきました。本章では、こういった先行研究の問題点を出発点として始まります。本章で議論されていたのは、語り手の一般的特性、語り手によるNostromoの特徴づけ、Captain MitchelとDr MonyghamによるNostromoの特徴づけです。

この作品では、語り手は一般に全知的であり、彼が一瞬I-narratorとして現れても、それは無視できるほどの支配力を作品内で示しています。語り手はaesthetic evaluator(p. 158)としても機能しており、さらにNostromoを評価される対象から評価する主体へと変形させたりもします。そして、語り手は人間観や資本主義などといったことについて固定した考え(真実)を持っているように見えます。しかしながら、Nostoromoの特徴づけとなると語り手は一変します。Nostromoの作品内での機能を変化させたりすることによって、語り手はNostromoと融合してしまい、語り手がNostromoについて本当はどのような意見を持っているのかが判定しずらくなっています。登場人物によるNostromoの特徴づけについては、Mitchelは物質的な利益と自己賞賛に取り付かれており、Nostromoを特徴付けるにしても、その信頼性は低いものとなっています。Monyghamについても、Mitchelほどではないにしても、Mrs Gouldへの愛や他者への無慈悲などに支配されているため、Nostromoの特徴づけに関して信頼性がおけるとは言えない状態にあります。語り手、Mitchel、MonyghamのNostormoに関する特徴づけがこのような状態にあるので、結局Nostromoの本当の性格といったものはお互いに衝突してしまい、結果として不明瞭となっています。更に、語り手の登場人物に対する批判や皮肉もはっきりしておらず、こういったこと全体がポリフォニーを高めていると言えます。

Middlemarchでは、語り手は評価される対象の絶対的な唯一の解釈の困難さを示し、そのことを他の評価者とも分かち合いつつも、常にそういった解釈を求めようとしていた姿勢が見られました。一方、Nostromoは他者を理解しようとする登場人物たちの試みをくじくことによって、安定的で単一の真理などはないということを自覚しているように見えると著者は述べています。最後に、この作品について、著者は次のような結論を導き出しています。"Nostormo appears to combine Pre-modernist 'closure' with Modernist 'ambiguity'... I would conclude that creating a 'fundamentally unknowable (Said 1976:70) protagonist, Nostromo concains polyphonic aspects, but it also refuses to be a fully-developed polyphonic novel by authoratively criticizing materialism prevailing in Costaguana and those corrupted by it" (p. 223)

ここでも、私は結論のみを紹介し、具体的な文体分析については示しませんでしたが、見事にこれらの結論が文体論的分析によって示されています。読んでいてとても面白いので、是非、文体分析を見てみてください。文体論分析は自分でやることはなかなか難しいのですが、今後文学作品の文体分析をする上で大いに参考になると思います。

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