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2008年9月 4日 (木)

土田知則(2000).『間テクスト性の戦略』を読む(夏目書房)

本書の詳細は次の通り。

土田知則(2000).『間テクスト性の戦略』.夏目書房.

感想:本書は、間テクスト性を読むことに接続することを最大の課題として書かれています。語り口は明快で、とても理解しやすい本でした。一気に読んでしまいました。

1章(「間テクスト性とは何か」)では、間テクスト性という概念がどのような文脈で提案され、それがどのように発展していったかということが扱われていました。それ以前のロマン派的な考え方では、「個人的な詩的霊感とでも呼ぶべきものが、天才作家の独創性・唯一性を保障し、それを啓示する」(p. 23)と考えられていたのですが、この考え方に対抗するものとして間テクスト性が提案されました。この章の最初の部分では、KristevaBakhtinde SaussureFreudの考えから影響を受け、間テクスト性という概念を提案するに至った経緯が示されています。しかし、Kristeva2つのテクストの間の関係というものにとらわれていたきらいがあり、後にGennette3つ以上の関係について議論することとなりました。作者はこれらを相互外的な間テクスト性と呼んでいます。更に、DerridaJohnsonに至っては、テクスト内のずれ(自己からのずれ)といった側面を議論するようになり、相互内的な間テクスト性が扱われるようになったとしています。また、間テクスト性の議論の中ではクロノロジカルな関係、影響や源泉といったもの(そもそも間テクスト性はこういったものに対抗するために提案された概念です)は二次的な関心となることが述べられていました。

2章(「「読むこと」の問題に向けて」)では、間テクスト性が読みの問題へと接続されます。最初は「間読み性」という言葉でこのことを表現していますが、最後はブルームのインターリーディングという概念へと収斂していきました。この章はイェール学派第一世代ビッグ・フォーの1人、ハロルド・ブルームの議論を素地として進んでいきます。間テクスト性の中では、もはや主体といったものは存在せず、したがって、書く人も読む人も主体などはなく、ただ他者の存在に堂段されたテクストのようなものと考えられるようになります。ブルームは一連の議論を誤読と呼び、カラーはapplicationと読んでいます。これらの概念が意味することは、「同一のレヴェルに置かれた複数のテクストが互いの内に浸透し合い、対話的な交差・交通を実現する時、そこにいかなる「読み」の可能性が立ち現れるのかを検討しようとする試み」(p. 77)です。これは、伝統的な比較・影響研究とは真っ向から対立することになります。多くの研究者はこういった発想の転換をエディプス・コンプレックスの図式に当てはめて考えており、「父」たる先行者の権威を奪う行為と考えています。XYとの間の時間的な順序はもはやそれほど問題ではなく、両者の間に双方向的な関係を開いてやることが重要なポイントとなります(XYに影響を与えたということだけでなく、Yを通してしかXを考えることができない、といったことのように)。

3章(「T. S. エリオット-H. ブルーム、この間テクスト的なる関係」)では、ブルームとT.S.エリオットの違いと共通点が議論されます。しかし、本章の最後で示されることですが、両者は実はかなり近いところにいて、ブルーム自身も最初は敵愾心を燃やしていたものの、次第にそのことに気がつき、エリオットの批判を避けたのではないかと著者は述べています。まず、エリオットは、ロマン派的な個性主義の批評態度を批判します。そして、「伝統」(ホメロスに端を発するヨーロッパ全体の文学の総体)という概念を提示し、われわれはその伝統から逃れることはできないという点を述べています。この点はブルームの影響という概念と酷似しています。しかし、両者は伝統を静観するか(エリオット)、その影響に怯えながらも闘争するのか(ブルーム)という点で異なっていると著者は述べています。しかしながら、作者や主体の中心性を守ろうとしたブルームに比べて、エリオットにはブルームよりも現代的(デリダやフーコーバルトに近い部分)な部分(自己の徹底的な粛正)もあります。また、ソシュールに似ている部分もあり(共時的ではなく通時的であるという点はあるものの)、間テクスト性という視点(語は用いていないが)に立ち、実体論的な思考から関係論的な思考へとシフトしている点では、エリオットはブルームに接近していると言えます。さらに、ブルームよりもエリオットが現代的であるもう1つの点として、ブルームが「影響」をテクスト対テクストという二社対立の図式で考えてしまっていたのに対し、エリオットは個別のテクストを超えた柔軟な発想をしているという点が指摘されていました。しかし、時代的な制約もあったからか、エリオットは伝統の中で古典主義を絶対的に優位なものと考えており、ロマン主義との間に交差不可能性を想定しているという問題点があります。つまり、「父親→息子という一方的で抑圧的な支配関係をそのまま精確に反映するもの」(p. 146)と考えることができるわけです。しかし、一方でエリオットは、伝統の重視を盲目的な服従とは考えておらず、伝統からの逸脱の必要性も示唆している部分があり(つまり、エリオットは決して伝統を静観しているだけではないということでしょうか)、やはり両者はかなり近いところにあったと考えることができるというのが本章の結論でした。

4章(「テクストの中のユダヤ性」)では、現代のテクスト理論には常に「死」、特に父親の死というモチーフが立ち現れるというところから議論がスタートします。しかし、気をつけないと、父親の死が新たな父親を誕生させてしまうことになってしまい、結果として間テクスト性が打ち砕こうとしたロマン派的な考えへと反転してしまう危険性があります。そもそも、間テクスト性はフロイトのオイディプス・コンプレックスに喩えて議論されることが多いのですが、このオイディプスの神話は父親殺し以外にも真実としての始原に固執した物語なのです。しかし、間テクスト性の理論は、父の死以外にも子の死も意味します。つまり、書く主体だけでなく読む主体も他者に横断されており、間テクスト性発生の場として考える必要があるわけです(p. 174)。つまり、いかに作者の絶対的な意図を求めないとしても、これまで誰も発見していない解釈を読者が提示するといったような読みの独創性を求める行為は、間テクスト性という概念にとっては本末転倒になってしまいます。ただし、この点については少し注意する必要があります。というのは、この論理を突き詰めていけば、生産性といったものが抹消されてしまうためです。本当のところ、間テクスト性が抹消しようとしているのは、テクスト内に唯一の統一的中心を借定することを批判しているのであって、中心をおくこと自体は否定していません。つまり、「「間テクスト性」の議論は中心の不在性(死)を執拗に主張しようとするものではなく、いわば同列的(水平的。換喩的)に並置されうる複数無限の中心を同時的に認め、引き受けようとするものなので」(p. 178)す。そして、こういった考え方は非常にラビ的ないしユダヤ的(間テクスト性の研究者がユダヤ人であるという意味ではありません)であると考えられています。つまり、間テクスト性という概念に見られる、位階的なイデオロギーを拒絶し、先行性を破壊し、すべてのものを水平に並べ置き(換喩的)、差異ないし他者性を消去しないという点が非常にユダヤ的だというわけです。一方、ユダヤ的という考えに対立するギリシア的な考えとは、直線的(クロノス的、系譜的)な時間秩序を重視し、代置の関係を重視し(隠喩的)、意味の一義性を目ざすこととなります。間テクスト性では、意味作用を常に開かれたものと考えます。このことと関連してか、換喩的な関係が徐々に研究者の間で意識されるようになってきており、ヤコブソンによる言語の2軸の関係では、隠喩と換喩が同じウェイトで扱われてます。他にも、ジュネットがプルーストの隠喩生成の中に換喩的な思考が強く作用していることを示したり、ラカンが換喩を重視するような議論を見せています。

5章(「リゾームとテクスト理論-樹木と書物の解体をめぐって」)では、間テクスト性という概念とリゾームという概念の間テクスト的読み、あるいはドゥルーズ&ガタリ、バルト、クリステヴァ、バーバラ・ジョンソンを換喩的に並置する、という作業が行なわれていました。まず、「AB」という言い方は、一件、両者を並列的に扱っているように見えて、どちらか一方を特権視し、「両者の双方向的、対話的な「遭遇」の可能性を逸してしまうような危険性にされされているということを常に意識しておく必要がある」(p. 200)という指摘がなされます。そして、ドゥルーズとガタリによるリゾームという考え方の説明がなされます。リゾームとは「換喩的な結びつきのなかに脱位階的な関係を探ること」(p. 201)を指します。また、彼らが書物の問題、ひいては西洋前全体の問題をなぜ樹木という観点から考えるのかも説明してありました。西洋の文化、つまりキリスト教は本(聖書)の宗教であり、書物は昔は樹木(ぶな)から作られており、キリスト教、書物、樹木は語源的にも同じものであると考えられるというのがその理由でした。キリスト教は樹木的な学の体系であり、系譜や血縁を特権視する類似的、隠喩的な思考です。それに対してリゾームという考えをぶつけているわけです。また、バルトとの接点が説明されるところで、バルトのシニフィエとドゥルーズのシニフィアンは同質のものであるので注意が必要であるということも指摘されていました(単なる用語上の差異でしかなく、意味するところはともに意味の固定化に対抗するための概念です)。次に、ドゥルーズやガタリは間テクスト性という語は使わないのですが、実際は間テクスト性とほぼ同じ考え方をリゾームという概念によって行なっているという点が説明されていきます。それらは、源泉のようにふるまわないこと、「民衆的な」という語、書物ないし読むことに関する問題を扱っていること、「間(inter-)」という問題を扱っていること、循環という語を扱っていること、です。リゾームも間テクスト性も「決して双方の影響関係を云々する体のものではない。双方の提示している相同的な主張を遭遇させ、衝突させることによって、そこに新たな交通の可能性を確認すること、ただそれだけが狙い」(p. 219)となります。ちなみに、リゾーム的な理想の書物とは、「上下も中心もなく、無限に増殖するたった一枚の水平的な頁」(pp. 215-216)になるそうです。また、『千のプラトー』の「プラトー」とは、「一つのリゾームを作り拡張しようとして、表層的地下茎によって他の多様体と連結しうるような多様体のすべて」(p. 217)を指すそうです。次に、ドゥルーズが述べる「N」と「N-1」という考えが説明されます。「N」とは、「多様体へと変じる可能性を内在させたもの」(p. 221)、「-1」は「そうした多様体化を始動させる内的なファクター」(p. 221)と説明されています。多様体には常に内側に空隙があり、Nを常にN-1の観点から考えること、両者を等価として捉えることが大切だと述べられていました(詳しくは本書を参照下さい。とてもわかりやすい説明がなされています。)。こうした考えは、バーバラ・ジョンソンの内的差異の考え、バルトのエクリチュールの考え、彼の作品とテクスト、そして書きうるテクストと読みうるテクストの問題と根底でつながっていると考えることができます。これらはいずれもドゥルーズのリゾームないしN-1という考えと同質のものと考えることができます。最後に、注意すべき点として、リゾームと樹木を二項対立的に捉えないようにとの指摘がありました。両者は一元的に捉えられなければなりません。つまり一見樹木であっても、そこにはつねにリゾームが隠れているとでも言いましょうか。

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