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2008年8月30日 (土)

M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第3章を読む(Peter Lang)

タイトル:Polyphony and ‘Pre-modernism’? A stylistic analysis of Middlemarch

まずは、pre-modernismの作品と言われてきた、Middlemarchの分析です。ここでは、focalizationという観点からどのようなポリフォニーが創造されているか、multiple focalizerの融合を行なうためにどのような技巧が使われているかを明らかにすることです。そして、語り手の二重の役割(storytellerhistorian)、covert FID(バフチンなどのようなDirect DiscourseIndirect Discourseの統合的融合としてのprototypicalなものではなくて)、communis opinoなどに注目するそうです。そして、この作品の中では語り手が伝統的な語りのモードで話しているにも拘らず、ポリフォニーが見られるという点が示されていくこととなります。ここでは、Dorothea BrookeMr Arthur BrookeReverend Edward CasaubonTertius Lydgateという4人の登場人物のcharacterizationに注目し、それらの中にどのようにポリフォニーが具現化しているかが分析されていきます。典型的な箇所がいくつも抜粋され、丁寧な分析が示されていて、読んでいてとても面白いです。詳細はここでは述べませんが、とても説得力のある分析で、ポリフォニーがいたるところで確認できるということを理解することができます。

この章全体を通して示されたこととしてConclusionのセクションで著者が挙げている中で、私が特に面白いと思ったことを列挙させてもらいます。それらは、語り手が登場人物の知覚、信念、世界観を提示するときにポリフォニーが顕著になりやすいこと、語り手はhistorianとしての軸と特定の登場人物に文字通りあるいは皮肉的に共感するemotional storytellerとしての軸の間で揺れていること、語り手の声が特定の登場人物の支持と作品が書かれた当時の社会のイデオロギーの反映(それによって読者に特定の登場人物に批判的な態度を向けさせることを促す)を同時に行なっていることから語り手の登場人物への態度が曖昧になる場合があること(ただし、一般的には、Brookeには皮肉が、DorotheaLygateには共感が比較的はっきりと示されることが多い)、伝統的な全知全能の語り的による語りを逸脱することなくpoly-focalizationが具現されていること、ポリフォニーの度合が登場人物によって異なっていること、語り手や登場人物意外に物理的には作品内に出てこないMiddlemarchersfocalizerとして機能して社会や人々を評価していること、ポリフォニーが語り手を一時的に肩代わりした登場人物の観点からだけでなく語り手自身の複数の自己(impersonal historianevaluative storyteller)の葛藤によっても引き起こされていること、でした。

ここでは書ききることはしませんが、各登場人物の分析はとても面白いですので、一読をオススメします。

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M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第2章を読む(Peter Lang)

タイトル:Descriptive framework: The relation between polyphony and focalization

感想:今度は分析方法について整理がされます。最初にポリフォニーと焦点化の接点について議論されます。ポリフォニーを分析するためには、作者や登場人物の視点がどのように作品内で提示されているかを分析することがどうしても必要になります。結果として、誰が見たり、考えたり、感じたりしているか、つまり焦点化を考えざるを得なくなるわけです。次に作者が作品内でなることができるfocalizerとして、Real AuthorImplied ReaderNarratorCharacterという4つの概念が説明されます。ここでは、implied authorcharacternarratorが取ることができる立ち位置の極として捉えるという考え方や、narratorcharacterimplied authoragentとして考える考え方、implied authornarratorの距離によって語り手の信頼性が決まるといった面白い考え方が紹介されています。また、語り手の信頼度はポリフォニーにも大きく関わってくることとなります。

次に、point of viewと言わずにfocalizationと考える方法の有用性について触れてありました。前者は、見る、聞く、感じるといった問題をすべて一緒くたにしていたのですが、後者の考え方を取ることによって、それらをより詳しく考えることができます。こういった考え方はGenetteなどの考え方に基づいているとのことです。そして、Balによってfocalizerfocalizedという概念が提案されることとなります(ただし、GenetteBalも視覚情報のみ扱ったそうです)。また、Rimmon-KenanToolanによって提案されたfocalizerの果たす役割の議論も紹介されています。しかし、これらの研究はembedded focalizerembedded focalizedといった概念を捉え損なっていると著者は指摘します。それは、focalizerfocalizedの役割を同時に果たしている存在です。

次はfocalizationという概念に関する先行研究がまとめられます。Focalizationの種類について扱った先行研究を見ていきます。そして、それらはテクストの中で最も優勢なfocalizerにばかり注意を払ってきたという問題点を指摘します。優勢でなくても作品の解釈に大きな影響を与えるfocalizerもあるというわけです。それにfocalizerfocalizedも文毎にあるいは単語毎に変化することもよくあることです。したがって、テクストの詳しい分析が必要になるわけです。次にfocalizerspeech presentationの関係について説明されます。そして、speech presentationを紹介する中で、特にポリフォニーの関係で議論されてきた自由間接話法について説明がなされます。この話法には視点の提示に貢献する要素と貢献しない要素(speech and thought modeexpressive elementscontext)があるそうです(pp. 65-66)。しかしながら、こういった研究はmultiple voicesmultiple focalizerという現象を見落としてきたという問題があります。著者はpoly-focalizationあるいはpoly-subjectivizationとこの現象を呼び、こういった観点の分析が不可欠であるということを強調しています。そして、これらを見つけるためには言語学的な特徴とそれらが用いられている文脈両方に着目する必要があります。次にfocalizationthought presentationの関係についてです。ここでもこれまでの先行研究が紹介されていました。次にfocalizercontextの関係について議論が移されます。ここでは、framecoloured narrativecommunis opinioといった面白い概念が紹介されいます。これらは後の分析でも重要な役割を担うことになります。

次はempathyとポリフォニーの関係についてです。語り手は特定の登場人物に対して共感することも皮肉的な態度を取ることもできます。たとえポリフォニーとしての条件を満たしていたとしても、empathyの中身やその明示性の程度によって、ポリフォニー的に読むことができなかったりするということがあるという点が指摘されていました。したがって、surface polyphony(複数の視点が存在する状態)とthorough polyphony(異なる視点がお互いに競合しているもの)を区別する必要があります。

最後に、実際の分析に先立ち、次のような側面に注目して分析を行なうと著者は述べます。それらは、”(1) whether there are multiple focalizers or subjectivities in a text; (2) whether the focalizer functions as evaluator; (3) how far the focalizer is situated from the source of the story (Implied Author), and (4) how cogent his/her perspective is” (p. 82)という点です。この章は、focalizationといった概念がなどがごちゃ混ぜになっている人でも理解しやすいように書いてあり、とても勉強になると思います。

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M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』第1章を読む(Peter Lang)

タイトル:‘Pre-modernist’, ‘Moderninst’ and ‘Postmodernist’? Critical Reviews of Middlemarch, Nostromo and Herzog

感想:まずこの章では、文体分析の対象となる作品についての先行研究がまとめられ、それらがどのように批評され、どのような研究課題を残してきたかが扱われます。

最初にPre-modernismModernismPostmodernismという3つの概念について説明がなされます。様々な特徴が指摘されていますが、これら3つの概念の最も重要な違いは真実(truth)の扱い方にあるようです。そして、それに基づいて様々な言語的(構造的)特徴が選択されるに至っていると考えることができます(それぞれの言語的特徴についてはここでは割愛します)。Pre-modernismは、真実が全知全能の語り手から客観的なものとして外的に提示されます。Modernismでは、真実は内的で主観的なものと考えられるようになり、意識の流れなど不安定な用法によってのみ具現されるものと考えられるようになります。これら2つは真実の提示の仕方についての考えが異なっていたと言うことができます。一方、Post-modernismでは、そもそも真実なるものは小説では提示できるのかということが問われるようになります。また、Modernismの反動でPre-modernism的な考えに戻ろうとするAnti-modernismという概念にも触れてあります。

次に、本書で取り上げる3作品の文学批評がレビューされています。それぞれがPre-modernismModernismPostmodernismの作品であると満場一致で考えられているわけではないようです。実際、注目する特徴によっては、例えばMiddlemarchにもModernism的な特徴は認められるし、NostromoにもPre-modernism的な特徴を確認することができます。それぞれの作品のこれまでの批評をレビューした後で、著者はこれまでの研究には不十分な点が多分にあると指摘しています。これまでの批評家は、声や視点の比較的明示的な融合については指摘してきました(モノローグ的と考えられがちなMiddlemarchでもこのような点は指摘されてきています)。しかし、どのようにポリフォニーが具現化されているかという点の考察は先行研究は不十分です。また、ポリフォニーは非明示的にも起っており、一見単一の声かと思っていたところにもポリフォニーが存在しているということを見逃してきています。著者はpoly-focalizationpoly-subjectivizationという概念の観点からこれらの問いについて考察していくことになります。

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M.Teranish(2008).『Polyphony in Fiction: A Stylistic Analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog』序章を読む(Peter Lang)

本書の詳細は次の通り。

Teranishi, M. (2008). Polyphony in fiction: A stylistic analysis of Middlemarch, Nostromo, and Herzog. Bern, Switzerland: Peter Lang.

タイトル:Introduction

感想:ご丁寧に著者から頂きました。具体的な作品がどのように文体論的に分析されるのか、とても楽しみです。本書全体の目的は“to apply stylistic and narratological theories and frameworks to literary texts for a deeper level of interpretation” (p. 13)と述べられています。そして、MiddlemarchGeorge Eliot作)、NostromoJoseph Conrad作)、HerzogSaul Bellow作)という、それぞれ前モダニズム、モダニズム、ポストモダニズムに属するという3作品が取り上げられます。また文体論の意義としては、”to clarify the process of how I reach my interpretation of a literary work” (p. 14)と著者は捉えています。さらに、文体論には教育的効用もあり、文学初級学習者が文学作品を読んでいくための取っ掛かりと彼らの解釈を他の学習者と共有するための技術を与えるというものが指摘されていました。また、最近の文体論の流れとしてコーパス文体論、認知文体論、教育学的文体論が紹介されています。また、著者は本書で文体論を文学批評の方法として採用するわけですが、実証主義的研究に対する本書の立場も述べられています(実証主義的な証拠は重要ではあるが、それだけでは文学解釈の研究は成立しない)。本書は、焦点化(focalization)に注目し、登場人物や語り手の発話や思考の中にどのように「真実(truth)」が表現されているかという点が分析されることになります。さらに、ポリフォニーに注目し、作品中の発話や思考の中に見られるポリフォニーが記述されることになります。とても楽しみです。

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2008年8月25日 (月)

R.Wellek(1969).『The Literary Theory and Aesthetics of the Prague School』を読む(Department of Slavic Languages and Literature, The University of Michigan)

本書の詳細は次の通り。

Wellek, R. (1969). The literary theory and aesthetics of the Prague School. Ann Arbor, MI: Department of Slavic Languages and Literature, The University of Michigan.

感想:1926年に発足したプラーグ学派ですが、言語学としての側面に注目が集まりがちで、構造主義(1934年になるまでは使われていないようです)と呼ばれる文学ないし美学に関わる側面(1934年には確立しています)はあまり扱われてきていません。本書では、全くの直接的な関係がないにもかかわらず、西洋の様々な理論(新批評、モリスの意味論、style as meaninngというウィムザットの考え)と平行的な関係をもつムカロフスキーの考えが詳しく紹介されます。

彼の理論の来歴については、チェコの先人に負っている部分も多いようです(具体的な人物は本書参照)。しかし、その先人の研究の違いも明確に打ち出しています(formmaterialの関係と見る考え方、音楽や音楽の美学への関心の無さ、妥当な文学研究の方法として心理学を採用しなかった点など)。やはり、ムカロフスキー独自の部分というのも多いようです。

ムカロフスキーは、ヤコブソンを通してロシア・フォルマリズムから多くを得ました。しかし、厳密なformalismを放棄し、structuralismを好んだり、このことと関連してテクストの全体性といったものに着目するという特徴がありました。また、多くの様々な研究者の理論を参考にしたということも指摘されています(ソシュール、ビューラー、フッサール、インガルデン、DessoirUtitzm、Christiansen、カッシーラー(ただし、彼の新カント主義的前提には賛成しなかったそうですが))。

次にムカロフスキーのオリジナルな部分について議論が移されます。彼は2つ目の作品(1つ目の作品は以外にも心理学的な研究でした。2つ目の作品は彼の業績の中で最も広大なものだそうです)で、Májという詩に基づいています。その中で、美学的に機能する特性の発見、作品外のものと作品の構造との関係は研究対象外、一般的な形式対内容という図式は維持できないものであること、を考えとして明確に打ち出しています。

彼は、美学的に重要でない要素をmaterialと呼び、それらが作品中で美学的な機能を持つにいたる様式をformと呼んでいます。また、materialの中にはthemeimagesideasfeelingsを含む)と言語が含まれます。また、formという側面にはdeformation(作り変えること)とorganization(体系的であること)という2つの側面が指摘されています。また、ロシア・フォルマリストの考えに基づいて、技巧(device)がどのようにautomatizedされ、更に他の技巧がactualizedされるかも議論されています。また、音的パターン、韻律、言葉遣い、構成などがどのように全体性をなし、そして美学的に効果的となるかを示そうとしています。そして、テクストは音と意味の層化した階層構造と考えられるようになったそうです。また、ロシア・フォルマリズムが未来派と連繋したように、ムカロフスキーはチェコ・アヴァンギャルド(NezvalVančura)と連繋し、その流れと反するような芸術派に関しては距離をとっていたそうです(ただし、批判などはしませんでした)。彼は、そういった一連のモダニズムの芸術の中に相反する点を感じ取っていたし、そういった運動が文明と社会の危機を反映しているということも気づいていましたが、彼はモダンアートの価値世界を再構築したいという願望やカオスの中に秩序を作り出すためにもがいている姿に強く共感しようだとのことです。

一方で、彼はhistorical poeticsの構築に従事することにもなります。彼は文のイントネーションパターンとverseとしてのイントネーションパターンを区別し、両者の関係を図式化して分析し、更には統計的に計算するといった方法を考え出しました(しかし、この方法には幾つか問題点があります)。こうすることで、歴史的に相反する文学運動の作品を比較分析することが可能となると考えました(”The new generation reacts against the conventions of the preceding school by systematically violating its conventions and then establishes a new convention which, in turn, will be broken by a new revolt” (p. 14))。こういった分析には常に歴史的な順序というものが認められているわけですが、この歴史は作品外で平行して存在している他の活動(哲学、宗教、他の芸術、社会一般)から影響を受けて変化する(ムカロフスキーはself-motionと呼んでいるそうです)と考えられています。そして、文学史家のタスクは文学作品の進化の流れを構築することであり、全ての作品はその進化に照らし合わせて評価されます(よい作品は前段階の構造を作り変えるものであり、悪い作品はただ慣習を受け継ぐだけで何も変化を起こさない作品となります)。しかし、著者はこういったアプローチ(”stylistic, metrical and semantic analyses of single works” (p. 18)”placing them in an evolutionary series” (p. 18))の問題点を指摘しています。

しかし、彼はこういった問題を乗り越えようとして、記号の一般理論に基づいた議論を始めます。このときのスローガンとしては、”A work of art is not in direct relation to reality; words in poetry have no documentary value; they function only as intermediaries between the members of the “collective,” i.e., the society experiencing the work of art” (p. 18)といったものでした。こうすることであらゆる芸術を統一して考えることが可能となりました。記号は機能することが可能であり、規則に規範を押し付け、価値を具現化することができ、それらはすべての文化へと浸透していきます。これはカッシーラーが考えた試みと非常に似ていると著者は述べています。そして、1936年のAesthetic Function, Norm and Value as Social Factsで、彼の構造主義は最盛期となります。この論文の中では、重要な指摘が多くなされていて、一般にムカロフスキーの文学理論における貢献が議論される際に最も引用される考えがなされます(具体的な考えは詳細は本書p. 19参照)。しかし、彼がanthropological core(様々な美的価値を判断する際に常に機能している共通の前提のようなもの)を議論に持ち出すようになってから、彼の構造主義は衰退の一途を辿ることとなります。彼は構造主義の限界について次のように述べています("the single-minded concentration on relational factors within a single work conceived as a hierarchy of signs, placed within an evolutionary series, in purely external relations to the other activities or man does not fully take care of the facts” (p. 20))。更に、彼は美的価値という概念自体も捨ててしまうに至ります。彼にとって、構造主義はモダニズムの弁護として役に立たないものと考えられるようになってしまいました。最後には芸術とは、単に非芸術の配列ないし組み合わせに過ぎないとまで述べてしまうに至ったそうです。

今まで文学史に重きを置いていたムカロフスキーですが、こういった考えに至り、徐々に批評という研究スタイルを取るようになります。この立場では、芸術家の個性の問題(これは彼の文学史では研究対象外の要因とされていました)や芸術作品の中に暗示されている世界観の問題を扱うようになります。しかし、彼の変貌はこれに留まりません。彼は1945年から次第に構造主義の考え方をマルクス主義の考え方に譲歩するようになります。そして、1948年に構造主義は誤った考えであり、マルクス主義で考えなければならないと述べ、構造主義を放棄してしまいます(マルクス主義における彼の研究は特にあまり面白みのないもののようです)。マルクス主義こそがモダニズムを担保するものであると考えるに至ったそうです。この時代、チェコ文学研究は共産主義的なものとなっていきます。1966年に彼の論文を集めた書物が出版されましたが、その中身にもそういった影響は出ていて、新たな構造主義の論文が収められているわけでもありませんし、編者たちもあまり構造主義の彼の作品を評価していないようです。

彼はチェコ語の作品しか取り上げなかったという問題もあったし、一般議論ばかり行なって、理論と実践(具体的な作品の詳細な分析)をつなぎ合わせようとはしなかった(彼にとって具体的な作品の詳細は分析は決して成功しないものと考えていたようです)という問題は確かにあります。それに、それ以前の文学研究が重視していた「芸術の楽しみ」といった側面に全く関心を示さなかったこと(だからこそ、これらの側面を扱おうとしてマルクス主義に傾倒していくことになるのですが)もあります。しかし、彼の構造主義の理論は非常に優れたものであったことは確かで、実際に国外の研究者にも多く影響を与えましたし、マルクス主義者の研究者ですらその価値を認めて言及しています。ただし、文献の中で批判されたり、またその理論を実践することが非常に困難であった、といったような、構造主義の普及ないし肯定的評価を妨げる要素も多分にあったとのことです。

しかし、最近(あくまでも本書が出版された当時)では、VodičkaBakošLevýDoleželによって構造主義というものが見直されつつあります。彼らの最新の研究が紹介され、その貢献がまとめられていました。ただし、段階としてはまだまだのようで、特に著者はDoleželの研究に対してはとても批判的です(たくさんの努力をして、当たり前のことしか証明していないという点)。

今回も僕の勉強不足から、ムカロフスキーについて新たな発見(マルクス主義への傾倒)をしてしまいました。お恥ずかしい限りです。とても面白い本でした。

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2008年8月22日 (金)

上野俊哉・毛利嘉孝(2000).『カルチュラル・スタディーズ入門』を読む(筑摩書房)

本書の詳細は次の通り。

上野俊哉・毛利嘉孝(2000).『カルチュラル・スタディーズ入門』.筑摩書房.

感想:とても勉強になりました。僕自身が言語という現象に注目しがちで、僕はあまりカルチュラル・スタディーズが扱うような現象の側面を普段は扱わないので、とても勉強になりました。この本のタイトルからでは、カルチュラル・スタディーズが様々にある「理論」の1つという印象を受けてしまうかもしれませんが、著者らが繰り返し述べているように、カルチュラル・スタディーズとは従来の理論/実践という対立を超えたもの、または両方にまたがるものであります。この本では、そういったカルチュラル・スタディーズのどちらかというと理論的な側面とどちらかというと実践的な側面、そして両者の横断または相互作用とでもいいますか、そういった側面が丁寧に説明してあります。第1章では、カルチュラル・スタディーズの成立に大きく関与した背景の説明(イギリスの前史、フランクフルト学派、フランス構造主義)とその黎明期の話(バーミンガム現代文化研究センター、サッチャリズム、教育の再構築)などが扱われています。特にフランクフルト学派とカルチュラル・スタディーズの似ている点と違う点がはっきりと扱われていたのは僕にとってとても勉強になりました。第2章はカルチュラル・スタディーズの中身です。メディア研究、サブカルチャー論、フェミニズムの問題、人種主義、本質主義、警察的管理、ポストコロニアリズム、ニューエスニティーズ、「新しい社会運動」、アクティヴィズム、ディアスポラ、が扱われていました。僕自身、カルチュラル・スタディーズが最初からフェミニズムなどといった側面を扱ってきたと勘違いしていました。僕は批評理論のこの辺りの部分を少し誤解して理解していたのでなぁと反省しました。この辺りは、カルチュラル・スタディーズの研究の射程の広さというかその性質というか、そういった点を理解することができるのと同時に、とかく一緒くたにしてしまいがちなこれらの観点を整理することができたと思います。第3章では、現在のカルチュラル・スタディーズがどのような方向へと進んでいるのかが述べられていました。ここでは、面白いことに日本でカルチュラル・スタディーズ的なことをしてきた人々の紹介がなされると同時に、都市研究や空間論的展開といった重要な研究テーマについて詳しく論じてありました。最後の部分では、カルチュラル・スタディーズは今後どのような方向へと進んでいかなければならないのかが論じてありました。カルチュラル・スタディーズは日本では研究者やいわゆるアカデミズムの中でのみ扱われる傾向がありますが、もっと大衆化していく、あるいはアカデミズムという枠を超えたところで展開していく必要があるとのことでした。とても勉強になりましたし、カルチュラル・スタディーズを勉強したいという人には是非オススメの1冊です。

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2008年8月19日 (火)

J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第6章を読む(Yale University Press)

タイトル:Echoes

感想:メイエとバイイはソシュールのアナグラム研究について理解を示し、色々とやりとりがあったということが紹介されていました。また、著者はなぜソシュールはラテン詩にこだわったのかという疑問を投げかけています。実際、著者はフランス詩でもアナグラムの抽出は可能であることを示しています。ソシュールは古典詩は基本的な要素の結合であり、あらゆる言葉と同じであると考えていました。しかし、著者に言わせればその結合にはその結合を実践しようと言った意図が介入することはないと考えています。そして、どのような者であってもテクストの背後に何かの秘密を見出すことは可能であり、もし見つけられなくても、見つけられるまで迷い続けるだけであると考えているようです。著者は、やはりソシュールの問いの立て方を誤りと考えているようです。

これでこの本は読了です。かなり時間がかかってしまいましたが、とても面白い内容でした。

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J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第5章を読む(Yale University Press)

タイトル:In pursuit of the proof

感想:ここでは、ソシュールがアナグラムを偶然ではなく列記とした事実として提示しようとして色々と苦心していたことが示されていて、読んでいてとても面白かったです。ソシュールはアナグラムを偶然の結果と考えるか作家による意識的な技法と考えるかという二者択一の問いを立て、後者であるということを示すために詩人に証言を求めたりしていたようです。ですが、不思議なことに詩人がそのことを明言しているような資料というのはなく、ソシュールはなぜこのようにラテン語詩に広範に見られる技法(ただし、この技法というのは作者が満たすのみ苦心したものというわけではなく、差し障りもなく豊かな詩作へと彼を導く類のものと考えられていたようです)について沈黙され続けているのか、困っていたようです。結局、ソシュールは、アナグラムを偶然の所産と作家による意識的な技法の両天秤にかけたまま、研究を中断してしまいました(資料的には、むしろ偶然の所産と考えざるを得ないのではないかという諦めの立場を持って研究を中断したようです)。

著者によれば、結局ソシュールは次のようなことを認めざるを得なかったのではないかと述べています。それは、"the words of a work are rooted in other, antecedent words, and that they are not directly chosen by the formative consciousness" (p. 121)という点です。結局、言語の背後には言語しかないといういかにも構造主義的な考えですね。それ自体はパロールである詩的なメッセージは、ラングから借用した語とその背後にある語(アナグラム)両方から構築され、そこにはまさに言語しかありません。そして、著者は詩を次のように特徴づけています。"The poem is only the developed potential of a single vocable - a vocative which, to be sure, is chosen by the poet, but chosen as an ensemble of united capacities and obligations" (p. 121)。心理学意図を問うことは間違いであると著者は考えています。そして、1つの真理として、著者は次のような点を指摘しています。"the simple truth that language is an infinite resource, and that behind each phrase lies hidden the multiple clamor from which it has detached itself to appear before us in its isolated individuality" (p.122)。この英訳が出版された当時の流行を受けての言葉なのかなぁという気がしました。著者によれば、ソシュールはアナグラムに偶然でも意識でもないプロセスを見るべきであったと評しています。

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池上嘉彦(2002).『自然と文化の記号論』を読む③(放送大学教育振興会)

感想:

11.記号現象としての文化(4):広告・宣伝

まず、広告における異化の在り方について説明されています。対象を実物以上によいものとして見せる必要がある広告は、対象を非日常的な形で提示する詩のことばと通じるところがあるという点を指摘する一方、広告のことばは対象がよく売れるようにという実利的な目的がつきまとっています(詩は自己目的的に対象そのものの本質を追求することができます)。S. I. ハヤカワは広告のことばを「スポンサーつきの詩」と呼んでいるそうです。また、広告でよく用いられる技巧として、共感覚的比喩、コロケーションからの逸脱、言語音の有意味化(特に語義や文意が弱いときは力を発揮し、語義などと絡めたものから、語呂合わせ、パロディー的なものなど様々なものがあります)、が挙げられていました。また、商品と言うのは内容で差をつけるのが難しくなってきています。そこで、ことばの詩的機能を利用し、広告の言葉によって差異を生み出す操作が必要になり、実際にそういった操作がなされています。まさに、現代は「人は(製品を買うのではなくて)記号を買う」(p. 158)と言えるようです。また、広告や宣伝は各文化圏で色々な違いが見られます。アメリカでは製品の情報を提供することが基本となるが、日本では感性に訴えることが必要となるようです。

12.記号現象としての生命(1):<動物記号論>

まず、フリッシュが発見した蜜蜂のダンスについて説明されます。そして、動物が関わる記号表現の様々な例(フェロモン、グルーミング、ドラミング)が紹介されています。そして、記号内容に関しては、人間は推論に頼ることしかできず、ある種の曖昧さが常に付きまとうという点が指摘されていました。さらに、動物が示す記号は指標記号であることが多いこと、機能の特定化がしばしば困難であること、も述べられていました。

13.記号現象としての生命(2):<生物から見た世界>

ユクスキュルの議論などに基づきながら、説明が進められていました。そして、環境世界、機能的サイクル、共進化という概念が紹介されていました。また、植物記号論についても簡単に触れてありました。

14.記号現象としての生命(3):<生命記号論>

生命記号論では、「生体内でのさまざまな生命過程に関係しているサイバネティックなシステムを<解釈者>として指定することによって、そこで発生する生命過程を記号過程として解釈することが出来る」(p. 183)ことになります。そして、類比性(実質に関しての類似)と相同性(項間の相互関係の仕方(形式)の類似ないし平行性)という概念が紹介されています。生命記号論では、これらの概念は共時的な意味合いで使われます。また、生命記号論のような内部記号論もウチとソトのような外部記号論同様に、解釈者が自己と他者を区別するという様子が見られると述べられていました(例えば免疫システム)。また、個体発生の過程にはコードの二重性が確認され、デジタル的メッセージがアナログ的メッセージに変換されるという過程が確認されるということも指摘されています。著者の最後の言葉がとても重要と考えたので抜き出しておきます。「<主体性>(subjectivity)は、実は生命の全領域に滲透しているものである。遡って考えてみるならば、もともと均質な<無>の世界に始めて<差異>を感知し、そしてその感知した<差異>を自らにとって<意味>あるものとして認識する<主体>が出現した瞬間こそ、<記号論的な主体>の出現の瞬間である。これはまさに<生命>というものの誕生の瞬間に他ならないということである。」(p. 187

15.<記号>の進化

主体と記号は共進化していっているようです。言語の進化に関しては、文法化という概念に触れながら、極めて長いサイクルで孤立語→膠着語→屈折語→孤立語…というサイクルを繰り返していると考えられているようです。また、言語が誕生する以前であっても、人間の環境世界の認識を反映するような記号体系を持っていたということが推測されるということも指摘されていました。こういった支えの上に言語が誕生したと著者は考えています。また、コミュニケーションの段階としてモノローグとダイアローグが紹介されていました。これは動物や植物にも見られますし、人間のコミュニケーションでは文化的な差を示すことがあります。例えば、アメリカでは発信者が、日本では受信者の責任が大きいという傾向があります。日本はモノローグ的な特徴が多く残っているようです。また、進化の程度が高いほど記号論的自由という特徴を持つということも指摘されていました。コンテクスト次第で反応が左右されるということを指しています。この特徴は人間では目立ったものと言えます。

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池上嘉彦(2002).『自然と文化の記号論』を読む②(放送大学教育振興会)

感想:

6.記号の諸相(3):<テクスト>

テクストには線条的テクストと現示的テクストがあります。前者は言語の線条性を反映した通常のテクストで、後者は全体として一度に提示され、全体として把握されるようなテクストのことで絵や写真などが典型例です。しかし、いくら現示的テクストとは言っても、実際には線条的に処理されたり、テクストの中で注視されるものには優先順位があること、には注意しておく必要があります。後者の点に関しては、顕著性であるとか話題性といった用語が使われることがあります。面白い例としてperiodic sentenceが挙げられていました。また、具象詩を取り上げて、類像性を持ったテクストについて議論がされたり、テクストにおける記号の問題について論じてあったりしました。視点については、主客合体と主客対立という視点が紹介されていました。

7.記号の諸相(4):<機能>

ここでは、ヤコブソンの議論に基づいて、機能の分類について紹介されていました。ヤコブソンのモデルの注意事項として、コンテクストは通常であれば記号内容とか言われるものも含んでいるという点が指摘されていました。また、興味深いものとしてイデオロギー的機能がありました。これは、「<発信者>が自分に都合のよいような考え方をさりげない形で<受信者>に押し付ける試みで、特に政治的なイデオロギーの絡んだ形でよく見られる」(p. 96)と説明されていました。そして、このイデオロギー的機能は、語義の中でも特に共示義のレベルで機能するということも説明されていました。次に詩的機能と美的機能の説明です。通常と違って、これらの機能では、まずことばがあって、それがもて遊ばれることを通して新しい内容が生み出されることになります。また、われわれは語形が似ている単語同士は語義も似ているのではないかというふうに考えがちであるということも指摘されていました。また、ことばそのものへの注目を集めたいのであれば、メッセージは容易な解読を拒むほどに難解である必要があります。それはコードを超えて、更にコードを組み変えるようなものでなければならないと著者は述べます。この過程で、ことはば曖昧なものとなり、「新しい視点からの把握の試みと取り組む過程を通じて、その対象について表現主体が本質的と把握している側面を認識し、十分な共感を覚えることができるならば、私たちの方も表現主体が自己表出という形で演じてみせた新しい価値の創造の営みに参与できたことにな」(p. 102)ります。

8.記号現象としての文化(1):<詩学>

ここでは、まずコードに支配された創造性とコードを変える創造性を議論していきます。前者は口誦伝承です。ここでは、子守唄からわらべ唄に至るまで、力のあるものが無力なものへと指示をするという構造が確認されていました。わらべ歌の場合は、相手が動物などになるため指示を理解することができません。そこで呪いと呼ばれる行為がなされることになります。次にコードを変える創造性についてです。まず、言語への依存度が最も大きな文学のジャンルとして詩が確認されます。また、しばしば詩的テクストの特徴として表出的機能が挙げられることがありますが、このことは感嘆詞を列挙したテクストが詩として機能しないということを根拠として、間違いであるという点も指摘されていました。最後に芥川竜之介と夏目漱石の文学論が紹介されていました。芥川竜之介はヤコブソンと似ていて、形式をどのような技巧で伝えるかという点が重要であるという文学論を残しています。一方、夏目漱石は文学的内容を認識的内容と情緒的内容に分け、特に後者が文学にとって示差的であるという文学論を残しています。夏目漱石が残した情緒的内容のみに極点的に残した彼の作品を示しながら、日本語ではことばとこころを連続したものと考え、西欧語ではことばとものを対比させようとするという立場の違いを指摘していました。

9.記号現象としての文化(2):<イメージ>的なもの

ここでは、まずデジタルとアナログという概念を紹介します。しかし両者は対立的なものではなく、特に言語では両者は共存しています。デジタル的なものとして成分分析が、アナログ的なものとしてプロトタイプとイメージ・スキーマ(多義性)が触れてありました。また、言語におけるイメージ的な特徴が議論されていました。ある語の表わす内容をコンテクスト化する手段として固有名詞、指示詞、時制、法などがあります。また、脱コンテクスト化する(ある記号にある程度の一般性を担保する、デザイン化する)手段としては、内容そのものの性質とコードによる取り決めが必要になってくるそうです。次に、絵や写真は時間が捨象されてしまうが、継起的に連続した写真を提示することで時間を導入することができる点と日本の絵巻物にある異時同図という技法が紹介されていました。最後に、コード性の高いイメージとしてイコンの特徴が紹介されていました。視点の取り方、見えなくても見るものが知っていると考えられるものは描き出されること、重要度によって対象が描かれる大きさが決定すること、が挙げられていました。こういったことは言語で喩えれば統語論の特徴に該当するとのことです。また、イコンに見られる対象が持つ象徴性は、言語で言えば意味論的特徴に該当し、言語の表示義と共示義が関係してくると述べられていました。

10.記号現象としての文化(3):衣・食・住

ここでは、まず最初に自然と文化の違いは絶対的なものではないということが確認されます。文化的なものが自然化することもあるし、自然だと思っていたことが文化であるということを悟ることもあるためです。両者は相互に入り組んでおり、関係し合っているわけです。そういった前提の中で、文化を考える際、まず1つ言えるのは、文化は自然に手が加えられたものであるという点です。そして、どのような手の加えられ方がされているかということについてはコードが関係してきます。このコードは学習の対象となります。このコードには意味論的なものと統語論的なものがあります。また、自然と文化の絡み合いは異なった文化圏でその様子が違うようで、自然的なものをどの程度とどめておくかという点に関して異なっているようです。日本では、両者を区別するのではなく、つながりを保ち、融合し、一体化させようとする傾向があるようです(p. 139)。次に、衣食住において発生するウチ対ソトという対立構造に着目がなされます。衣食に関しては基本的に個人レベルでこの対立が発生し、住については集団レベルでこの対立が発生します。しかし、当然衣食でのこの対立が集団レベルで機能することもあるし、住のそれが個人レベルで機能する場合もあります。次に、自然のものに手が加えられたとき、その対象の名称が変化するかどうかという点が見られていました。名称が変わるということは、その文化の成員にとっては価値が違うものとして認識されていると言えると著者は述べます。そして、この名称の変化の仕方には段階性があるということが指摘されていました(詳細はp. 143-145)。それと、調理における熱の加え方を表わす動詞を取り上げて、手の加え方が色々と盛り込まれた動詞は語尾が長くなる傾向があるということが確認されていました。この調理の動詞の表はとても面白いもので、補足として、調理の対象によっても動詞が使い分けられることがあったり、文化によって語彙の構成が変化することなども指摘されていました。

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池上嘉彦(2002).『自然と文化の記号論』を読む①(放送大学教育振興会)

本書の詳細は次の通り。

池上嘉彦(2002).『自然と文化の記号論』.放送大学教育振興会.

感想:読んでいて、特に面白いと思ったところをピックアップしていきたいと思います。

1.<ことば>と<ことばらしいもの>

記号論は、既成の諸学問を横断する学問です。記号学という呼び方もあるんですが、人によっては、「~学」というと特定の学問分野を指すような感じがしてしまうので、あえて記号論という名を用いる人も増えているようです。また、自然と文化(語源はギリシア語の<耕作>に由来するそうです)ということについてですが、最近は両者は連続したもの(独立していないもの)と考えられつつあり、現にそういったことを裏付けるような事柄が発見されています。また、ことばは人間にとってもっとも典型的な記号となり、その他の記号はことばらしいものであるということも指摘されています。また、記号論が最も関心を寄せるのは既成の決まりに基づいて意味が機械的に読み取られるという場合ではなく、自らが主体的に意味を読み取り、それによって記号を創出する記号過程であるということも述べられていました。

2.<ことば>の再認識

ここでは、ことばの持つ特徴、しかもそれが人間のコミュニケーションを可能にさせているような特徴が列挙されていきます。1つ目は恣意性です。記号の恣意性は多かれ少なかれ言語に蔓延しており、それはオノマトペに至っても同じです。もし、恣意性がなければコミュニケーションはとても困難なものになるし、創造的な言語活動も不可能になってしまいます。2つ目は語形に関してです。ここでは、ことばには聴覚と視覚という感覚を活用していること、二重分節という構造を持っていることが指摘されていました。3つ目は、語義に関してです。ここでは、多義性及びプロトタイプが指摘されていました。プロトタイプは、「ある程度類比できるならば<同じ>(つまり<等価>である)と判断するという形で、<プロトタイプ>は<同じ>語義か、そうでないかを判定するための目安としての役割を果たしている」(p. 34)という機能主義的な説明はとても面白かったです。4つ目はコードです。ただし、言語のコードは「主体的な<解釈>を許容するという意味で…適度に柔軟な性格のものと言える」(p. 37)ということが指摘されていました。コードはコンテクストと相補的な関係を持ち、解読や解釈に貢献します(コードが強ければ、コンテクストはあまり必要ないといったような感じで)。5つ目は、テクストあるいは談話です。これらは具体的なコンテクストの中に位置づけられたものと考えられています。6つ目は構造と機能に関してです。ここまでで挙げてきた特徴がすべて構造的なものであったのに対し、機能面について論じてありました。特に伝達機能vs対人機能、実用的機能vs美的機能という対立について簡単に触れてありました。

3.<意味>の意味

人間は単なる物を記号に変える能力を持っています。そして、「私たちは自分の回りにそれぞれ自分なりに意味づけた世界を創り出しているのであり、そこでそれぞれの人なりに意味ある記号に囲まれての生活を送っている」(p. 44)ことになります。このことは心理学ではアフォーダンスと呼ばれます。アフォーダンスを重視する心理学者によれば、人間はそれぞれのアフォーダンスを身に着けており、事物の差異が認識できているからこそ、スピーディーに言語習得ができるそうです。また、意味を読み取るプロセスについて二項関係のモデルと三項関係のモデルがあり、解釈者という項を含んでいる三項関係のモデルの方が適切であるということが指摘されていました。更に、コードと解釈者の関係について論じた後、意味の定義として「その当事者にとって何らかの違い-いくらか述語的な言い方をすると、<差異>(difference)-をもたらしうるということ、自らの存在にとって、そうでない場合とは違う何らかの形で関わりを生む可能性をはらんでいるということ」(p. 49)というものが提示されていました。

4.記号の諸相(1):<有契性>と<無契性>

ここでは、有契性と無契性について大まかに論じた後、有契性の様々な形が紹介され、更に類似性と近接性、類像記号と指標記号と象徴記号について説明されています。3種類の記号については、お互いに独立的ではなく、むしろ各記号が様々な程度で持つ特徴、つまり「~性」(指標性とか)と考えた方がよいということが述べられていました。また、ある記号が有契的か無契的かということは歴史的に変化することです。いくつかの語源論を展開してこのことが説明してありましたが、その内容がとても面白かったです。また、ある素振りなどが形骸化(形だけ残ること)する現象は、コードの移り変わりを表わしているということも説明されていました。

5.記号の諸相(2):<記号表現>と<記号内容>

記号表現に関しては、ゼロ(または無)が記号表現として機能する例と解釈項(ある記号表現に対して読み込まれた記号内容それ自体が更なる記号表現となるもの)の説明がなされていました。後者に関しては、まさに記号論が関心を寄せる記号過程を如実に表わしたものであり、とても重要な概念のようです。ただし、この解釈項という用語には注意が必要で、ここで述べた意味で用いられることもあれば、解釈者という意味でも使われることがあるので、混同しないように気をつけなければなりません。更に、人間の言語は視覚と聴覚に依存していること、そして二十分節によって、有限個の要素から無限の識別可能な記号表現を生み出すことができること、が指摘されていました。次に記号内容についてです。ここでは、プロトタイプ効果、表示義と共示義が取り上げられていました。表示義と共示義は固定したものではなく、ある共示義が固定化すればコードの中に取り入れられ、それは表示義として機能するようになります。

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J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第4章を読む(Yale University Press)

タイトル:Proliferation

感想:アナグラムはラテン文学の中に確認することができ、それが時代を経て伝承されたということ、そして多くの作家が試行に形を与えるための1つの道具として詩作に常に随伴するものとなったこと、が指摘ないし確認されていました。ソシュールはアナグラムの存在を決して偶然の産物とは考えず、ひとつの列記とした詩的技巧と考えていたようですね。

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J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第3章を読む(Yale University Press)

タイトル:The question of origin

感想:途中で止まっていたんですが、再び読み始めました。ソシュールはアナグラムの起源についての考察は行ないませんでした。ソシュールの関心事は、アナグラムという形式が時代を超えて存続することを証明すること(示すこと)で満足していました。実際、アナグラムは昔は宗教的な色合いが強く、神の名前しか使うことができなかったそうですが、時代が変わるにつれて、人名、付加形容詞、地名、普通名詞が後の時代では使われることも増えたことをソシュールは示しました。

読者によっては、アナグラムを持ったテクストに流出説的構想を見たくなる場合もありますが、ソシュール自身はそのような気はほとんどなかったようです。ここで言っている、流出説的構想とは、文学作品はテクストの中にあらかじめ存在していた別のテクストが拡散したとする考え方です。つまり、この考え方では、テクストの2層の間に関係性を強調し、イポグラムがそのテクストの根源として位置づけられることになります。しかし、ソシュールにとってはイポグラムなどは資材という立場に過ぎず、テクストはその上に書かれるに過ぎないということになります。アナグラムとは作家にとって、詩行の可能性を開くと同時に制限する道具の一つということになるわけです。アナグラムはそのテクストのテーマであり、そのテーマを表わした語に過ぎません。そして、その上に展開されるテクストはそのテーマを引き伸ばしたものであり、それ以上のことはソシュールは考えていなかったようです。

ソシュールのアナグラム研究を引き合いに出す研究は、比較的、流出説的構想との兼ね合いで、芸術の創造性を批判することが多いのですが、僕自身、この章を読んで、気をつけなければいけないな(ソシュール自身は流出説的構想は持っていなかったということ)と感じました。勉強になりました。

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