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2008年7月31日 (木)

赤祖父哲二・斎藤武生・笠井貴征(1983).「あとがき」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

赤祖父哲二・斎藤武生・笠井貴征(1983).「あとがき」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 295-296).開拓社.

感想:これで本書は読了です。時間が随分とかかってしまいましたが、とても刺激的な論文が多く収められており、とても勉強になったし、自分の言語観も拡がったように思います。本書の最後の箇所ではとても重要な指摘がなされていたので、紹介したいと思います。「人間は言語を発明しながら、みずからが言ってはならぬこともあることを悟り、神に、悪魔に、道化に、あるいは魔女に代弁させてきた歴史を持つ。」(p. 295)悪魔などの言語学的な機能としてとても重要な指摘だなぁと思いました。文体論分析で悪魔のせりふなどを扱うときは、この指摘を肝に銘じて分析したいと思います。

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小林昌夫(1983).「シェイクスピア劇の言葉」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

小林昌夫(1983).「シェイクスピア劇の言葉」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 285-294).開拓社.

感想:この論文では、まずシェイクスピア劇は詩であり、劇であり、更に物語でもあるということが明言されます。「三つの言葉が同居していると書いたが、これは平面上に並んでいるというよりは、詩的言語を最下層に置いて、その上に順次、物語言語、劇の言語を重ねるべきで、表層の劇的言語の中に時に(あるいは、しばしば)他の二つの言語が現れるのである。これは、もちろん、叙情詩、叙事詩、劇(詩)という発生を前提にした考え方である。」(p. 285)そして、劇の言語を成り立たせているものとして、著者はバンヴェニストのディスクールの概念が言及されていました。ちなみに古典的物語ではイストワールが主流となります。さて、劇をディスクールと考えたとき、興味深い問題としてダイクシスと劇場空間の問題、更に人称の問題が言及されていました。論文の後半ではダイクシスについて興味深い議論が展開されています。劇の文体論は最近段々と盛んになっているように感じますが、1983年の時点でこのような面白い議論がされていたのだなぁと思いました。僕の好きなバンヴェニストが言及してあったのとあいまって、とても面白かったです。

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栗原裕(1983).「『マクベス』門衛の場」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

栗原裕(1983).「『マクベス』門衛の場」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 271-284).開拓社.

感想:この論文では、『マクベス』の中の門衛が見せる「ノック遊び」の分析がなされていました。まず普通、室内にいるAが外のノックを聞いたとき、Aは室外にいるBに「そこにいるのは誰ですか」と問うわけですが、観念的にはAはBの傍らに影の人物Cを想定し、その人物Cに問うていると著者は述べます。すると、Bは観念的に自己分裂を起こし、一瞬Cと重なります。そして、「誰それです」と答えるということになります。これは自己紹介の観念的構造であり、人が人を第三者に紹介するときの現実のあり方を踏まえたものだと著者は述べています(p. 280)。だからこそ、AはBのことをいきなりYouと言わないし、BもIとは言わないことになります。「AはCに問い、CがAに答える。AおよびCから見れば、Bはいずれにとっても第三者だ。もし人称代名詞を用いなければならないなら、三人称代名詞を用いることになる。紹介がすんで、ようやくAとBとは一人称と二人称の関係に入る。」(p. 281)。ここまでは一般的な議論ですが、『マクベス』の門衛に話を戻しますと、彼の地獄の門番は1人で行なっており、結果、生身の人間は1人であるにもかかわらず、観念的には3人になっています。とても面白い議論で、勉強になりました。

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小野塚裕視(1983).「不定代名詞か数詞か-Any One of NPとEvery One of NPのOneについて」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

小野塚裕視(1983).「不定代名詞か数詞か-Any One of NPとEvery One of NPのOneについて」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 254-270).開拓社.

感想:これらの言語表現の中に含まれているoneについて、従来は不定代名詞のタイプ(Any one of the boys could have told you where to find him.)と数詞のタイプ(You may take any one of these apples.)があるというふうに考えられてきたそうですが、著者によれば両方ともに数詞ではないかと考えているようです。不定代名詞のoneの特徴としては、後方照応的、強勢がないこと、複数形のonesをもつこと、が挙げられてきました。しかし、著者はこのような特徴を論破していきます。実際に、oneは強勢を持っているし、照応名詞で置きかえることもできないし、複数形も持ちそうにないのだと言うのである。したがって、新たに「強勢を持つ」、「照応関係とは異なる性質の照応関係を示す」、「複数形のonesを持たない」という特徴を指摘することができます(これらの説明は本論文に詳しく論じてありますので、割愛します)。そうすると、従来は不定代名詞のタイプとされてきたoneは、数詞として扱うことが妥当となります。なぜなら、これらの特徴は従来数詞として扱われてきたoneが持つ特徴と一致するためです。

しかし、それでもoneが二つに分けられてきたのはそれなりに意味があることで、全く同一のものと見なすことは難しいようです。両者には強勢の種類(二重強勢か単一の強勢か)、他の数詞との交代可能性、などです。前者については今後の課題とされています。後者については、anyの意味(「大きさに対する無関心」byヴェンドラー)と語用論的要因が関わっているのではないかと指摘されています(詳しくは本論文参照)。

また、Every one of NPの構文では、oneは代名詞として扱われてきたのが主流なようで、数詞として述べたのはイェスペルセンだけのようです。しかし、このoneも、強勢を持つ、照応関係の特徴、複数形のonesを持たないという特徴から、数詞と扱うのが妥当であると著者は述べています。また、最後に、他の数詞と交代できないという特徴がeveryの構造の場合はありますが、これについてはeveryの意味特性が影響しているのではないかと著者は述べています。

僕自身、このoneという特徴について恥ずかしながらあまり考えたことがありませんでした。とてもいい勉強になりました。

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安井泉(1983).「ことばのどこに文化を見るか」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

安井泉(1983).「ことばのどこに文化を見るか」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 238-253).開拓社.

感想:ことばのどこに文化を見るかということですが、著者は論理的には曖昧であるはずなのに、言語がその中の意味候補の1つしか意味しないという点に文化を見ています。まず最初に、文脈には大きく3つのものがあるということを指摘します。1つはある語が用いられている文のことをその語の文脈と言います。2つ目は、文が用いられている談話(言語表現の場合も言語表現という形を取っていない場合もあります)、そして最後が文化ということになります。著者はほめ言葉やけなし言葉などを中心に、その事例を拾っていきます。著者は最後のこう述べます。「論理的に可能な意味のうち一方が消し去れらてしまう場合、そこに働いているメカニズムは、そのことばを支えている文化が、そのことばに何を託しているのかということと深くかかわってくることになるであろう。文化がなにをそのことばに託しているのかと言えば、その文化にとって何が問題とされるのかということになる。」(p. 249)付け加えですが、著者は言語相対仮説を全面的に支持しているというわけではありません。ただ、文化によって影響を受ける側面が確かに言語には存在するということを指摘しているだけに過ぎないことに注意してください。

さて、最後に重要な指摘として、文化が託されたことばが、内に秘めている力によって、こんどは文化を作ることになること、時が変われば文化にとって問題とされることも変わり、同じ表現でも意図される意味内容が変化するということ、がありました(p. 251)。事例がとても面白くて、勉強になりました。

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2008年7月28日 (月)

日浅和枝(1983).「フォルスタフ哄笑す」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

日浅和枝(1983).「フォルスタフ哄笑す」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 226-237).開拓社.

感想:この論文では、『ヘンリー四世』に登場するフォルスタフの作品内での機能について考察されます。フォルスタフはハルが放蕩から正当な君主になるという枠の中で生きている人物で、放蕩時代はハルのよい仲間であったのに、ハルが君主になると、冷たい扱いをされてしまいます。ハルが王になったときには、フォルスタフはすでに一時の喜劇ないし夢として扱われ、現実の中では排除されるものとなってしまったわけです(p. 213)。

しかし、フォルスタフ自身はとても魅力的な登場人物であり、ロマン派全盛の批評の中では、ハルを冷酷な人物と考えさせたり、フォルスタフ自身に同情が集まったりしました。彼は、笑うと同時に人を笑わす存在であり、タブーとされているものを、既知を交えて臆することなく発します。当時のタブーとは、エリザベス朝が中世から引き継いだ、名誉、法、義務、勇気、宗教、死、真理、戦争、愛国心、などで、これらの裏の面を哄笑しました。こういったところが人々の同情を集めたと考えられるし、同時に彼自身を人間界を超越したもの(妖精や魔女たち)に近づけていると著者は述べています(p. 235)。美徳の裏の面について語る登場人物について、とても面白い考察でした。

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鈴木英一(1983).「副詞の意味と機能の多様性」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

鈴木英一(1983).「副詞の意味と機能の多様性」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 204-225).開拓社.

感想:この論文では、特に-ly副詞について議論されています。著者が述べているように、一般に-ly副詞は、英語の辞書ではあまり説明されることがなく、むしろ形容詞の説明の後に付け足し的に辞書に載っていることがほとんどです。この論文が書かれて20年以上経った今でも状況はあまり変わっていないのではないでしょうか。しかし、形容詞の説明だけでは副詞の中に見られる多様性を十分に汲み尽くすことはできないというのが著者の主張です。

著者は様々な副詞を見ながら、その意味範疇の種類を明らかにしていきます。p. 216には10種類の意味範疇が紹介されています。そして、副詞全体としては様々な意味範疇を持つことができるが、特定の副詞に関しては一定の意味しか持つことが出来ないということも主張されていました(p. 217)。

次に、副詞の意味範疇を統語的に考えた場合、修飾語、節内副詞、節外副詞、の3つに分類して考えることが可能となります。更に修飾語は非独立構成素と考えられるのに対し、他の2つは独立構成素と見なされます。p. 220には-ly副詞の意味論的範疇が統語論的特徴の観点から分類され、かつその包摂関係が明らかにされています。僕は恥ずかしながら、これまであまり真剣に-ly副詞について考えたことがありませんでした。しかし、この論文で、-ly副詞の多機能性ということについて認識することができました。とても勉強になってよかったです。

本論文の結論としては、-ly副詞は、それが対応する形容詞とは別箇に辞書で扱う必要があるというものでした。とても重要な示唆だと思います。

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原口庄輔(1983).「イワザルの研究序説」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

原口庄輔(1983).「イワザルの研究序説」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 185-203).開拓社.

感想:この論文で言うイワザルの研究とは、「広範囲な無と否定の研究」(p. 185)を指しています。この研究分野には「何をイワザルか」と「どうイワザルか」という2つの観点があります。私たちは思ったことをそのまま述べることはありません。そこで、思ったことと実際に話されたことの間のプロセスに対してもイワザルの研究は大きく貢献することになるようです。この論文では、「自分に都合の悪いことは言わない」、「事実を述べてあやまるメカニズム」、「あられもないことは言わない」、「謎をかける」、「言わないで言うこと」、「命名」、など、現代の語用論であってもとても興味深い事柄について議論されています。論調はとてもソフトで読みやすく、面白かったです。また、アメリカでは男性が女性にトイレの場所を聞いたり、女性の前で下半身の話をしてはいけない、といったことが紹介されていました。僕は渡米経験はないのですが、イギリスとは随分と状況が違うのだなぁと感じました。

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神尾昭雄(1983).「<親>と<疎>-ある対立的意味関係と統語構造」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

神尾昭雄(1983).「<親>と<疎>-ある対立的意味関係と統語構造」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 170-184).開拓社.

感想:本論文は内的な意味関係(もの自体の内在的な性質を表わす関係)と外的な意味関係(もの自体にとっては偶然的な性質を現す関係)を中心に据えて、日本語に見られる様々な言語的特性の対立が観察されていました。前者や親なる関係、後者は疎なる関係と読みかえることが可能です。ここで観察されていた言語的特性には、数量詞句、関係節、「に」と「で」という位置表現、「~て」をとる二種類の述語形、で、内的関係と外的関係は、これら4種類の異なった構造に一貫している一般的な意味論的原理とされています。しかも、「に」と「で」という位置表現以外は、統語構造とも結びついているということが示されていました。一方、「に」と「で」の意味論的対立は統語構造というよりも語彙項目の性質に帰すことができるようです。ここから、著者は<親>対<疎>という対立概念を最も抽象的な原理として意味解釈部門に規定し、これが語彙項目内の意味表示に対して働く場合と統語部門の構造に働く場合があると考えるのが妥当ではないかと結論付けています。この論文は生成文法の影響をかなり強く受けているようです。僕はあまり日本語の文法は詳しくないのですが、とても分かりやすい説明がしてあり、とても勉強になりました。

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2008年7月25日 (金)

塚本明子(1983).「女はみんなそうしたもの?」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

塚本明子(1983).「女はみんなそうしたもの?」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 154-169).開拓社.

感想:この論文では、オペラ『コシ・ファン・トゥッテ』の芸術的真について議論がされていました。このオペラでは、特にリブレットの表面的な筋と音楽の複雑な相互関係によってアイロニーが構成されていると著者は述べます。筋のレベルでは、18世紀の心理学に基づく典型的なメッセージ(すべての人間は結局1つの型に支配されていて、女もまた然りというメッセージ)が表現されており、音楽は愛とは私たちの願望を裏切るものであるといったようなメッセージが表現されていると著者は述べています。この音楽のレベルにこそ、芸術的な真を見出すことができ、これはビアスの『悪魔の辞典』にある、一見とんちんかんではあるけれども、人生の真を得たような定義と同じものであるとされています。そして、リブレットの内容と少しはずれたような音楽を流すことで、アイロニーが誕生するという訳です。

また、著者はアイロニーとシニズムの違いについても語っています。シニズムと違って、アイロニーには人生の肯定のし直しがあり、人間や社会をシニズムから守っていると著者は述べていました。

さて、次に『アンナ・カレニーナ』と『コシ・ファン・トゥッテ』の比較がなされます。前者の登場人物は生きた、リアルの人間であり、実に多元的であると著者は評しています(p. 168)。一方、後者の登場人物は、やはり18世紀の典型的な人間観を強く表現しており、登場人物はあくまでも型として登場する(p. 168)。リーヴィスは、「芸術の目的は人生の可能性をあらわにするところにある」(p. 168)と述べているそうですが、『コシ・ファン・トゥッテ』はどうでしょうか。著者によれば、「写実的な小説がそうするように、私達にリアルな感情や反応を惹きおこすというよりは、もっと抽象的な形で、つまり登場人物がいろいろな感情をもつ人間としてよりも、むしろ人物が擬人化された形での感情のパターンとして、とらえられているとみてよいのいではないだろうか」(p. 169)と述べています。この作品は、ちょうど18世紀の人間観が古臭くなった頃に世に出たものだそうで、あまり正当な評価がなされてこなかったそうです。しかし、こうして捉えなおしてみると、その作品は大変面白いものであり、モーツァルトの作品としても大変秀でたものであると言うことができるというのが著者の結論でした。

僕はオペラの言語研究の論文は初めて読んだのですが、とても面白かったです。言語に音楽という要素が加わると、非常に多層的に考えなければならないのだなと感じました。また、キーツの「美は真であり、真は美だ」という言葉が紹介されていたのですが、重要な主張として銘記しておきたいと思います。

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2008年7月18日 (金)

宮畑一郎(1983).「ことばの奥行き-庶民の笑い」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

宮畑一郎(1983).「ことばの奥行き-庶民の笑い」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 140-153).開拓社.

感想:この論文では、特に和歌などに潜む庶民の笑いの根源として、性的な意味(この論文で言うところの悪魔)に注目し、分析がされていました。僕自身、こういった笑いは結構好きな方なので、とても面白く読みました。一件何でもないテクストであっても、そこに様々な意味を読み込んでいけるし、意味してしまう、というところに、ポスト構造主義的な考えを垣間見た論文でした。

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玉井東助(1983).「イギリスのユーモア-ゴールドスミスの『お人よし』覚書」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

玉井東助(1983).「イギリスのユーモア-ゴールドスミスの『お人よし』覚書」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 125-139).開拓社.

感想:この論文では、ゴールドスミスの著作に見られる、「仁に過ぎる」人物の分析がなされていました。また、書物から得た知識のみで物事を理解するということに対するゴールドスミスの批判的な態度が見られる箇所も分析されていました。僕はこの論文は、言語学的にも面白いと思ったし、また言語学を離れたところでも面白い文章だなあと思いました。著者の分析の結論としては、仁に過ぎる人物は劇にはあまり向いておらず、随筆や小説の素材としての方がよいのではないかという考えが提示されていました。

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2008年7月16日 (水)

新富英雄(1983).「『悪魔の辞典』管見」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

新富英雄(1983).「『悪魔の辞典』管見」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 108-122).開拓社.

感想:この論文では、まず最初に『悪魔の辞典』の中の「辞書」の定義が紹介されています。とても面白いです。著者は特に、『悪魔の辞典』の中で、ビアスが異分析とパン(掛け言葉)を利用しながら、様々な定義を示していることに注目し、幾つかの例が取り上げられ、解説されていました。とても面白かったです。異分析と言うと、ついつい英語史の内容を思い出してしまうのですが、ここでは作家個人が展開した面白い異分析が紹介してあり、とても楽しく読みました。

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笠井貴征(1983).「ホワットとハウ-日本語訳「ビアスの悪魔の辞典」を読んで」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

笠井貴征(1983).「ホワットとハウ-日本語訳「ビアスの悪魔の辞典」を読んで」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 97-107).開拓社.

感想:普通の辞書では見出し語の意味が分からず、その意味を定義によって知ることになります。しかし、『悪魔の辞典』では、読者は見出し語の通常の意味や連想、引用句、諺、神話、人物、出来事などを知っていることが前提となっており、それが定義の中で皮肉られています。そして、この辞書の魅力は何を言っているのかということではなく、どのように言っているのかという点にあります。そして、読者にはその前提を発見する楽しみがあると著者は述べます。言ってみれば、『悪魔の辞典』はパロディーとも言え、そのパロディーの基本とは「小さくかえて大きくかえる」(p. 103)ことにあります。様々な例が挙げられていて、とても面白かったです。

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増成隆士(1983).「反転の美学 悪の美、あるいは世界の奥行について」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

増成隆士(1983).「反転の美学 悪の美、あるいは世界の奥行について」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 86-96).開拓社.

感想:古代ギリシャ以来、美と善は根本では同じものであると考えられてきました。これはカントなど近代哲学まで同様です。これには、人々の美と善はひとつのものであってほしいという願いを反映しているのかもしれないと著者は考えています。しかし、著者が言うように、こういった願いは現実では裏切られることが多々あります。そういった中で、この論文では、芥川龍之介の『地獄変』の良秀の地獄変の屏風の製作を取り上げます。ここでは、自分の一人娘が焼け死んでいく様子を見て、恍惚状態に陥る良秀が分析されています。著者によると、そもそも美の後継と醜の後継は明確な境界線で存在しており、それが対比的に存在するとき、反転が生じると考えています。実際、良秀が最初は娘を助けようとするのですが、恍惚状態へと至った様子を、反転錯視の図を参考にしながら分析がされています。しかし、視覚そのものには善悪はありません。言語があって初めて反転する視覚情報に善悪という価値を賦与することができると考えています。とても読み応えのある論文で、面白かったです。

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斉藤武生(1983).「なぞの不気味さ」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

斉藤武生(1983).「なぞの不気味さ」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 72-85).開拓社.

感想:「なぞ」という言葉にはどことなく不気味さが伴うと著者は述べます。その理由としては、答えが隠されているためです。またこのことから、なぞは隠喩とも関係を持つと著者は考えています。バーンズによると、なぞは、儀式、求愛、教育、出会い、物語、遊び、という6つの場合があるそうです。なぞは悪魔の問題に行き着くのですが、それは、常になぞの出題者と回答者の間での生じる権力関係を意味しているとも著者は述べています。出題者は常に回答者よりも優位な立場にあるという訳です。また、「隠す」という点以外に、なぞのもう一つ重要な特徴として、それは常に問いであること(ただし、疑問文の形式を取るとは限らない)、しかも相手を脅かすことを基本的な性質としている問いであること、が挙げられています。「なぞ」=「遊び」と結び付けがちですが、この論文を読んで、ことはそう単純ではないということが分かりました。面白かったです。

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2008年7月10日 (木)

山形和美(1983).「サタン・悪魔・悪霊-その呼称をめぐって」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

山形和美(1983).「サタン・悪魔・悪霊-その呼称をめぐって」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 59-71).開拓社.

感想:よくサタンという言葉を耳にしますが、これはもともとは「敵対する者」を指しています。本論文は、サタンがどのように人間をたぶらかす蛇と重なり、そして、悪魔、悪霊という言葉で置きかえられるに至ったのかが、様々な文献に基づいて記述されています。僕自身、これらの言葉はかなり混同していたのですが、この論文を読んで、少し見通しがよくなりました。とても面白い論文で、勉強になりました。

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赤祖父哲二(1983).「事(言)霊の秘密-『言語文化辞典』の構想」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

赤祖父哲二(1983).「事(言)霊の秘密-『言語文化辞典』の構想」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 47-58).開拓社.

感想:言霊は、事物に霊が宿るというアニミズムの考え方と密接に考えられる傾向があります。結果として、言葉のイメージについて語るとき、私たちはついつい名詞的に考えてしまいがちです。しかし、イメージとはもっとダイナミックなものであり、「言霊は事霊に基づく、すなわちダイナミックな力の働く場においてこそイメージは生命を帯びるといってもよい。」(p. 51)と著者は主張しています。しかし、既存のイメージ辞典では、やはり名詞本位な編集がされており、その例外としてビアスの『悪魔の辞典』が挙げられていました。著者は、イメージを考えるためには、形容詞、副詞、動詞なども組み込む必要があると主張しています。特に著者はメタファー(特にdead metaphor)についてこういった辞典を編纂する必要性を主張していました。最後に著者が、具体的にどのような辞典を構想しているかが例示してあり、とても面白かったです。

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