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2008年6月30日 (月)

伊東只正(1983).「善魔か、悪魔か、翻訳者の律義性」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

伊東只正(1983).「善魔か、悪魔か、翻訳者の律義性」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 35-46).開拓社.

感想:ヴァージニア・ウルフの『燈台へ』の抜粋をもとに、翻訳の難しさが議論されていました。意識の流れを持ったテクストの翻訳は難しいということが示されています。特に、主文脈と挿入部をいかに翻訳すればいのか、色々と考えさせられました。原文に忠実であると言っても、その言語に忠実であっただけではダメで、その言語が作り出す世界に対して忠実であることが、翻訳者にとっては必要な律義性と述べられていました。翻訳者は律義性(何に対して忠実であるのかということ)を取り違えないように気をつけなければならないというのが本論文の結論と僕は読みました。原文の尊重とはどういうことなのか、この点を色々と考えることができ、面白かったです。

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2008年6月27日 (金)

都留信夫(1983).「文字は人を殺し……-D.H.ロレンスとイエス」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

都留信夫(1983).「文字は人を殺し……-D.H.ロレンスとイエス」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 22-34).開拓社.

感想:言葉というのは意思疎通の便利な媒体なのですが、一度成立してしまうと、言葉は独り歩きをし、逆に人々を縛り付けてしまうということがあります。本論文では、言葉にとらわれてしまっている人と、その言葉から逃れようとしている人とのやりとりについて述べられていました。扱われていたのは、ロレンスの『大尉の人形』の中のハンネレとヘバン、聖書の中の律法学者たちとイエス、でした。前者たちは言葉の定義というものにこだわり、そこから抜け出すことが出来ないのに対し、後者たちは言葉を重視する姿勢をやめて、人と人との直接的な交わりといったものものを強調しています。とても面白い論文でした。

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郡司利男(1983).「トリヴィア・イン・トリヴィウム」を読む(郡司利男(編),『悪魔の言語学』,開拓社)

本論文の詳細は次の通り。

郡司利男(1983).「トリヴィア・イン・トリヴィウム」.In 郡司利男(編),『悪魔の言語学』(pp. 11-21).開拓社.

感想:本論文では、「~もどき」ないしノンセンスの研究の重要性が指摘されています。こういったものをがらくたとして捨象するのではなく、正面から向かいあって研究することの必要性が指摘されていました。「ということは、もどきというかノンセンスでしか表現できない世界があるということである。有限の記号をもって無限の世界を相手にしなくてはならぬ言葉の、限界を超える働きを約束する鍵の一つが、もどきでありノンセンスである。」(p. 19)。『悪魔の辞典』などもかなり引き合いに出されており、とても面白く読むことができました。言語教育でもこういった点を少しでも取り入れることができると、深みというかアクセントというか、そういったことをつけることができると思うのですが、まだまだ研究が必要ですね。

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2008年6月25日 (水)

佐々木真(2006).「ことばを教える 英語教育への応用」を読む(龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』,くろしお出版)

佐々木真(2006).「ことばを教える 英語教育への応用」.In龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』(pp. 135-154).くろしお出版.

感想:これまでの理論的な話を英語教育という場に応用しようという試みです。英語教育内容学を専攻する人にとってはとても興味深い章ではないでしょうか。著者が言うには、これまでの英語教育は文の正しさに重きが置かれたり、コミュニケーションといっても表現を羅列して覚えさせるといった試みが中心であったそうです。しかし、選択体系機能文法を使えば、そのテクストが何を目的としているのか(ジャンル)、どのような場面でどのような人々の間で使われるのか(言語使用域)といった点を取り入れることになります。さらには、ジャンルの構造-談話-語彙文法-音声または書記、といったように一貫した形で指導ができます。これまでの英語教育がhow to say/writeであったのに対し、このアプローチではhow to meanが主眼となります(p. 138)。そして、「社会の中でやりとりされる意味を理解したり作り出す力を育てること」が言語教育の目的と考えられています(p. 139)。更に、文法的比喩なども重要な要素となるようで、名詞構文の説明などに役に立ちそうです。最後には、実際の授業の流れについて説明してあり、選択体系機能文法を使った英語の授業がどのようなものであるのかを、具体的に示してある点がとてもリーダーフレンドリーだと思いました。授業案の中にはすぐにでも使えそうなことも書いてあり、とても面白く読みました。

これで、本書は全ての章を読んだのですが、色々と勉強になりました。これからもちょくちょく選択体系機能文法の文献を読んでいけたらなあと思います。

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2008年6月24日 (火)

小林一郎(2006).「ことばを作る コンピューターによるテクスト生成」を読む(龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』,くろしお出版)

小林一郎(2006).「ことばを作る コンピューターによるテクスト生成」.In龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』(pp. 119-134).くろしお出版.

感想:この章では、主にPenman Systemを例としながら、どのようにしてコンピューターにテクストを生成させているかが説明されていました。ただ、この章は、これまで本書で説明されてきた選択体系機能文法のことをおさらいする上でもとてもいい章だと思っています。

選択体系機能文法はいくつかの層からなり、意味層と語彙文法層には資源があり、それらは具現規則によって、層間を越えて関係づけられます。こういった考えをもとに、1980年代初頭から本格的にコンピューターにテクストを作らせる試みが進められてきたそうです。

コンピューターで必要となるのは、修辞構造、観念構成的機能、対人的機能、に関する情報です。修辞構造は、どのようなメッセージをもった拓ストを作り出すかというプランです。観念構成的機能では、意味層の資源の中から選ばれて具現され、更に語彙文法層でそれを表現するものが関係します。対人的機能に関しては、意味層における発話機能の資源が関係してきます。また語彙文法層では、叙法や丁寧語などの語彙を資源とし、役割関係に即した表現形式を作ろうとします。テクスト形成的機能に関しては、意味層では情報の新旧、焦点、情報の結束性などを特定する資源を、語彙文法層では、意味層での選択に基づいた主題や結束構造が選択され、伝達様式に即した表現形式を作り出そうとします。

3つのメタ機能に基づいた意味情報はローカルプランと呼ばれ、Penman Systemでは、システムの根幹をなすようです。3つのメタ機能の処理過程は同時に行なわれます。これはそもそもテクストが3つの機能を同時に有し、かつ合わせ持っている(「融合」と呼ぶそうです)ことを意味しています。

僕は本章で示されていたような試みがなされていることを知りませんでした。前章のこととも合わせて、やはり、色々な言語学の本を読むことは大切だということを改めて認識しました。

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角岡賢一(2006).「ことばをあやつる 音調と意味の関係」を読む(龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』,くろしお出版)

角岡賢一(2006).「ことばをあやつる 音調と意味の関係」.In龍城正明(編),『ことばは生きている 選択体系機能言語学序説』(pp. 99-118).くろしお出版.

感想:ここでは、選択体系機能文法における音調の研究が紹介されていました。この文法理論では、基本的に音調は5つの単音と2つの混合音調(単音が結合したもので、第1+第3、第5+第3というものがあります)が認められ、それらがどのような意味(心的姿勢)を作り出すかが記述されます。107ページには、心的姿勢と音調の関係図が示されており、とても興味深いです。

次に脚列配分(音調域を区切ること)について説明され、これは意味の区切りとは必ずしも一致しないこと、しかし5つの単音のどれか1つが必ず含まれていること、が確認されます。

次はメタ機能と音調の関係について。観念構成的機能にはそれほど大きな関係はないようです。しかし、対人機能については、下降調や上昇調が叙法と関わります。また、テクスト形成的機能では、音調一致と音調連続といったことが関わります。音調一致とは、同格のものを同じ音調で示すことであり、音調連続とは、音調の組み合わせによって様々な機能を具現することです。音調連続には、結束性(第1+第1)、並列結合(第3+第1)、従属結合(第4+第1)があります。

最後に、主音調が置かれる脚は新情報であるという点も確認されます。

僕はこれまで選択体系機能言語学がここまで音声面について包括的な研究をしていることを知りませんでした。まだまだ勉強不足です。色々と新しいことを学べてよかったです。

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2008年6月20日 (金)

E.Vos(1987).「The Visual Turn in Poetry: Nominalistic Contributions to Literary Semiotics, Exemplified by the Case of Concrete Poetry」を読む(『New Literary History』)

本論文の詳細は次の通り。

Vos, E. (1987). The visual turn in poetry: Nominalistic contributions to literary semiotics, exemplified by the case of concrete poetry. New Literary History, 18 (3), 559-581.

感想:コンクリート・ポエトリーの意味作用についての論文です。コンクリート・ポエトリーの研究というのは困難が伴います。その理由としては、Dohlが言うように、地域によって様々なバージョンがある、前衛的であり扱いにくい、不確定要素や差異といったものが多重性を帯びている、といったことが挙げられます。そして、研究者はコンクリート・ポエトリーを一般的な記号論の考えから切り離して考えようとしたり、あるいはコンクリート・ポエトリーを特別な言語使用とみなして独自の理論を構築しようとしたりしてきました。しかし、作者はコンクリート・ポエトリーであっても一般的な記号論の中で扱うことが可能だし、そうあるべきだと考えています。

これまでのコンクリート・ポエトリーの扱い方は大きく2つに分けることができます。1つは、コンクリート・ポエトリー構築における原理のタイポロジーないし分類、そしてもう1つはコンクリート・ポエトリーの下敷きになっている美学的な観点の説明、です。前者に対してはSchmidtのテクスト言語学などがレビューされていました。これらの研究は、コンクリート・ポエトリーは何かの表象(representation by artistic material)なのではなく、芸術的な素材の提示(presentation of artistic material)なのだと考えられがちで、その素材がどのように有意味になるのかが考えられてきたそうです。つまり、通常の意味論というものがコンクリート・ポエトリーの分析の場から追いやられてきたわけです。Kesslerは、概念と切り離されれば離れるほど素材性が表へ出、内容に支えられるほど、その素材の大きさやレイアウトなどによって情報性が高まると考えているのですが、この考えでもやはり意味論の位置づけは付け足しのようなものになっています。

上記のように、コンクリート・ポエトリーの研究の問題点を整理した上で、著者はNelson Goodmanの理論を援用しながら、議論を進めていきます。まず、フォルマリストによる分析を批判的にレビューします。フォルマリストは、素材そのものにこだわり、通常の意味作用からコンクリート・ポエトリーを切り離して考えようとするのですが、Goodmanに言わせれば、通常の意味論なしではコンクリート・ポエトリーは成立しないことになります。

そして、コンクリート・ポエトリーの機能の分析へ入っていくのですが、コンクリート・ポエトリーも何かの表象として機能しています。そして、Goodmanのexemplificationとprojectionという考えを援用しながら具体的な作品を分析し、コンクリート・ポエトリーは通常の言語のreferential functionやsymbol schemeに依存しているということを示します。しかも、依存しているどころか、こういったものに頼らない限りは、コンクリート・ポエトリーの複雑性を説明できないということも述べています。更に、分析を進める中で、コンクリート・ポエトリー構築の原理としてmovement(movementとfixed designを両極に持つ)という原理があるのではないかということも示していました。

以上、この論文では、著者はGoodmanの議論に基づく形で、コンクリート・ポエトリーも一般的な義号論の中で扱うべきだし、扱うことが可能かつ適切であるということを示してきました。実際このようにすることで、"providing a full account of (1) the aesthetic-poetical emphasis on the material itself, (2) the verbal symbolization associated with this material, as well as (3) the relationship between these two." (p. 577, emphais in original)ということが可能になると述べていました。色々と新しい発見のある論文で、とても勉強になりました。

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2008年6月18日 (水)

B.Burton&C.Carter(2006).「Literature and the Language of Literature」を読む(K.Brown(編),『Encyclopedia of Language and Linguistics, Vol. 7』(第2版),Elsevier)

本論文の詳細は次の通り。

Burton, B., & Carter, R. (2006). Literature and the language of literature. In K. Brown (ed.), Encyclopedia of language and linguistics, Vol. 7 (2nd ed., pp. 267-274). Oxford: Elsevier.

感想:まず、文学という語の意味の歴史が概説されます。英語には14世紀に入ってきた用語だそうで、最初は「文字や本によって知識を持つこと」を指していました。この意味は19世紀後半まで存在したそうです。しかし、17世紀にはFrancis Baconなどによって、「本そのもの」という意味も使われたりして、その意味は変化、混合していくことになります。18世紀中盤にはそういったことが本格的に起ってきたのに加えて、その時期には、"the activity or profession of a man of letters"、"the whole body of books and writing"、"the realm of letters"といった意味も登場したそうです。特に新しい2番目の意味が引き金になって、18世紀後半から19世紀初頭にかけて、"a corpus of works produced by a particular nation or in a particular period"という意味も登場します。"English literature"という概念もここから出発しており、既にこういった用法が定着しつつあったドイツ、フランス、イタリアに倣ったようだとのことです。さらに、この概念は社会文化的、ないしは政治的な概念となり、キャノンという問題が浮上してきます。そして、何がキャノンを構成するのかというのは論争になることもあり、かつては固定的であったのですが、最近はキャノンの中身が変わっていくということもしばしば見られます。19世紀には、もう1つ重要な意味がliteratureという語に見出され始めます。それは、"literature as art, as aesthetic object, and as the product of great imagination or creative genius"という意味です。最初はどちらかというと書き物全体という意味だったのが、その意味を特定の書き物(imaginative writing)に限定してきたと言えます。以前は、imaginative writingといったものはpoetryという語によって意味されていたのですが、17世紀中盤までには、poetryはmetrical compositionまたはverseというものに意味が限定され始め、散文の重要性が高まったことと伴って、literatureが最も一般的な語として確立していきました。しかも、19世紀の段階では、poetryは"skills of writing and soeaking in the context of high imagination"という意味で使われることが多かったのに対し、literatureはskillではなく、すでに"writing"という意味で限定され始めていたようです。

次に、20世紀の話になります。最初は文学の内在的な定義について説明がされます。作者はこの定義については懐疑的です。具体的に紹介されていたのは、前景化と異化、自己言及性(言語そのものへの注意)、擬似発語行為、といった考えです。これらはこれからも研究されていく必要があるとしながらも、著者は機能主義的な考えの方がよいと考えています。

著者は、文学テクストは、コミュニケーションの目的という観点から説明される必要があると考えており、文学はもはや"A sociolinguistic fact - a set of values and functions assented to ... by members of a community" (p. 271)と考えられなければならないとしています。そして、近年、文学は二つの方法によって記述されつつあります。その二つの方法というのは、"as a cognitive and emotional process in the minds of readers, and as a socially and culturally mediated expertise with language" (p. 271)というものです。文学の受容や産出は様々な慣習との関係の中で行なわれ、その慣習というのは歴史の中で作られ、社会化されたものです(共時的に見れは"historically specific, socially situated acts" (p. 272)といえ、言語と同じですね)。

最後に、文学をディスコースとみなした上で、文学性をどのように扱うかということが示されていました。Carterが示したa 'cline' of literarinessという考えを採用する中で、文学性を高めるような特徴が列挙されています。それらは、medium dependence(テクスト外の世界とはあまり関係をもたず、テクスト内の世界でのみ機能する傾向があること)、displaced interaction(作家と読者の間の相互作用がテクスト内に深く埋め込まるか、はずされていること)、polysemy、reregistration、semantic density、dicourse patterning、なのです。これらは文学にもっぱら見られるというわけではなく、単にこられの特徴が頻繁に観察されるという意味で、論文内には紹介されていました。

最後に著者はこのように述べています。"Literary language is not special or different, in that any formal feature termed 'literary' can be found in other discourses. (改行)"Yet, literary language is different from other anguage uses in that it functions differently." (p. 273, emphasis in original)。

しかし、formal featuresも当然a 'cline' of literarinessの中に組み込むことは可能なのであり、文学の言語で頻繁に観察できる形式的特徴を整理していくことも大事なのではないかなぁと思ったりしました。とても面白い論文でした。

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2008年6月17日 (火)

高田智子(2006).「高校リーディング授業における文学作品の多角的利用」を読む(『ARELE』)

本論文の詳細は次の通り。

高田智子(2006).「高校リーディング授業における文学作品の多角的利用」.『ARELE』,17,243-252.

感想:高校のリーディングの授業での文学作品の短編と長編の原著を使った実践の報告がされていました。教科書のテキストでは、どうしても内容が浅く、量も少なく、「異文化を理解し尊重する態度の育成」を行なうには不十分であるということが述べられていました。

選択した作品を使って様々な活動をする中で、学習者の異文化理解の態度について考えを深めることができており、非常によく練られた授業計画でした。私とは随分と研究スタンスは違うのですが、私も最終的には自分の理論研究をこのような実践的試みに結びつけたいと思っているので、大いに参考になりました。

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2008年6月16日 (月)

V.Herman(1983).「Introduction: Literariness and Linguistics」を読む(『Prose Studies』)

この論文の詳細は次の通り。

Herman, V. (1983). Introduction: Literariness and linguistics. Prose Studies, 6 (2), 99-122.

感想:この論文は1983年の時点での、文体論における文学性の探求について整理をした論文です。論文の最初の部分では、ロシア・フォルマリズム、プラーグ学派の文学性の議論の発展が解説されています。

概して文体論は詩的言語の文法を構築することを目指し、生成文法の文法性の度合という考えなどを参考にして色々と論考をしましたが、皮肉にもそのような試みは不可能であるという結論が出てしまいました(p. 105)。詩的言語をラングないし能力というレベルで扱おうとしたのがそもそもの間違いであり、文体論は文学/非文学という二項対立を放棄し、パロール(または、disourse in use)の多様性を認める必要が出てきました。つまり、文体論は純粋な「詩の言語」という考えを捨てなければならなくなったわけです。このことに連動して、これまで詩を定義するものとして扱われてきた、non-referentiality、metaphor、narrative technique、pleasureといったものについても考えを改め、これらは他のジャンルでも散見できることを認める必要が出てきました。著者は、これらのことをまとめて、"Thus there appear to be no principled reasons for holding on to the dichotomy and the essentialism that derive from them.  Consequently, it would be appropriate to look at literary language, as literary discourse, as one among many within the same "langue" of "competence.""(p. 108)と述べています。

次に、文学性をパロールないしパフォーマンスの次元で議論するに際し、language as variateionという考えとlanguage as actionという考えを紹介しています。前者は社会言語学などに基づくもので、特にFowlerは、社会的、歴史的、あるいはイデオロギー的な機能という観点からも文学の言語を研究することが重要であるということを述べました。後者は発語行為論に基づくものであり、文学の言語をその分野でのツールを用いて分析することの有用性が解かれていました。language as actionという枠組みでの興味深い試みとしては、Traugottの生成意味論的アプローチ(knowledge of genre)、Prattのliterary speech situation、Naomi and Asa Kasherのコンテクストの再構築といったものが紹介されていました。

これまでの文学性の言語学的アプローチは、言語の複雑性といったものもを十分に考慮に入れることができていませんでした。もちろん、language as systemという考えに基づいての研究は必須と言えます。しかし、このアプローチだけに則っていてはおのずと限界があります。研究者はlanguage as variationとlanguage as actionという視点での分析もlanguage as systemの分析に組み込んでいく必要があります。

また、文学の言語自体はとても多様なものであるのですが、その目的というのは抑制されたものと言えます。"Since language is at iots most open for literary purposes, linguistic means for literary use are limitless, but the ends, literary purposes, are constrained, and it is here that the specificities of literary production are to be sought". (p. 119)このことも重要な点として覚えておく必要があると思います。

しかし、文学の目的と言語は一対一で対応するわけではありません。言語は複雑かつ多様な様式でその目的を遂行しします。両者の間には因果関係などもありません。著者は最後に次のように述べています。"What "literary language" is, in other words, is what language used in literature does. "(p. 120)。

特に新しい情報はなかったのですが、当時の語用論や社会言語学がいかに文体論の中で期待されたツールであったのかをうかがい知ることができました。とても面白かったです。

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