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2008年4月30日 (水)

S.Pinker(2007).「Critical Discussion: Toward a Concilient Study of Literature」を読む(『Philosophy and Literature』)

論文の詳細は次の通り。

Pinker, S. (2007). Critical discussion: Toward a concilient study of literature. Philosophy and Literature, 31, 161-178.

感想:この論文は、近年Literary UniversalsまたはDarwinian lit-critという名の下に研究がされている文学理論の一派に対するスティーヴン・ピンカーの考えです。なぜ、ピンカーかと言うと、彼自身がLiterary Universalsという考え自体に興味と課題を持っており、しばしば論文で論争がなされているためです。彼は特に、The Literary Animal: Evolution and the Nature of Narrativeという本に注目して論考しているようです。

彼が言うには、一連の研究は次のような実証的な仮説をもたらしたと述べます。 "And it frames a family of empirical hypotheses, namely whether each of these faculties is an adaptation (a product of Darwinian natural selection), a by-product of adaptations (sometimes called "spandrels"), or the result of genetic drift or other random evolutionary processes." (p. 163) そして、特にフィクションはDarwinian lit-critにとってとても面白い例となるだろうと述べています。その理由は、"the people and events on display in fictive worlds presumably reflect our species' obsessions, and provide an ecologically valid source of data about what matters us." (p. 163)

しかし、ピンカーは、一連の研究に対して、次のような問題点があり、それらはおそらく正しくないと考えています。それは、芸術は適応の1つであるということを示すことが重要であるという考え、芸術が適応の1つであるということを示す証拠がたくさんあるという指摘、芸術の機能は共同体を一つにまとめることであるという考え、です。実際、こういった考えがはびこっている結果として、研究の進展が妨げられていると著者は考えています。ピンカーは、Darwinian lit-critと違って、基本的には芸術は進化の上での副産物と考えています(p. 170)。それに、Darwinian lit-critの研究方法にも問題があり、彼はengineering approachを取る必要があると考えています。これは、私達の知識や経験に頼らずに、科学的な事実に基づいて対象Xについて証明を行なうアプローチです(p. 170)。

しかし、基本的にはやはり芸術は進化上の副産物とピンカーは考えており、それは主に二つの要因の副産物であろうと推測しています。二つの要因というのは、"motivational systems that give us pleasure when we experience signals that correlate with adaptive outcomes ..., and the technological know-how to create purified and concentrated doses of these signals" (p. 171)です。そして、フィクションも基本的には副産物とみなした方がよいような特徴を多く備えています(具体的な議論はp. 171を参照)。

しかし、人口知能の研究などを鑑みると、フィクションを適応の1つと見なしてもいいような側面もあるというのは彼にとっては事実だそうです。人口知能で明らかになってきているように、人間が世界で生きていくためには社会のルールなどを学ばなければなりませんが、その学習はしばしばgeneric strategies for successといった抽象的なものではなく、case-based reasoningといった具体的なケースの学習が必要となります。こういったものが人間の学習に重要なものなのであれば、当然具体的なケースを与えるという意味でフィクションは適応の1つの見なしてもいいかもしれないというわけです。

そこで、ピンカーはフィクションは副産物的な側面と適応的な側面があるという考えを示します(しかし、彼はやはり基本的にはフィクションは二次的な産物であると考えている方が色が強く、これから新事実が研究で明らかになるかもしれないという意味で適応的な側面を認めているような気が私にはしました)。しかし、フィクションにこのように二つの側面を認めるのは特に新しいことではなく、昔から言われてきたことです"it is implicit in the old saying that the purpose of literature is "to delight and instruct." (p. 173)。彼は、副産物的な側面を"Delight"と名づけ、その下位項目として、virtual realityとsimulated gossip(これらについてはp. 171参照)というものを示しています。また、適応的側面を"Instruct"と名づけ、その下位項目としてcase-based reasoning about local sociocultural normsとthought experiments about combinatorial game-theoretic interactionsを設けています。

彼は、Darwinian lit-critには問題もあるが、新たな知の創造を可能とする学問分野としてその意義は認めています。論文の最後の部分で、Darwinian lit-critが今後努力すべき研究の方向性を示しています。それらは、(1)いわゆる文学批評(具体的な作品の批評)にこのアプローチがどのような利点を加えることができるかを示すこと、(2)人口知能などの研究を参考にしながら、engeneering approachを実践すること、(3)進化心理学以外の知見(人工知能、認知心理学、心の理論、言語使用に関する言語学、行動遺伝学など)も参考にすること、(4)異なるレベルの文化現象(ハイカルチャーから大衆文化)を作り出す要因にも焦点を当てること、(5)登場人物の葛藤にも焦点を当てること、(6)group cohesionが人間の基本的な動機であり、それはgroup selectionによって説明されるという考えについて懐疑的になること、です。とても面白い論文でした。

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2008年4月28日 (月)

R.バルト(1967/1971).「記号学の研究法」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

タイトル:記号学の研究法

感想:ここでは、特に記号学に限らず他の学問分野に関しても述べられる、研究アプローチの方法について述べてありました。主に述べられていたのは、有用性の原理(まずはただ1つの見地からのみ分析し、その見地に関係有る特徴だけを引き出し、その他はさしあたり無視すること)とコーパスの作成方法(母集団を移し出していると考えることができる程度のサイズと時間的均質性)についてでした。

本書は、初心者にはかなり難しいかもしれないのですが、構造言語学になじみのある人にとってはとてもいい覚書のような本ではないでしょうか。僕自身、構造主義について新たな発見もありましたし、これまでぼんやりとしか整理していなかったことを明確にすることができたのは収穫でした。

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R.バルト(1967/1971).「デノテーションとコノテーション」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

タイトル:デノテーションとコノテーション

感想:本書で一番読みたかった部分です。既にこの章で述べられている内容については一まで何度も勉強したことがあったのですが、オリジナルを読むという作業を行なっていなかったので、今回読んでみました。ここでは、デノテーションを利用して、どのようにコノテーションとメタ言語が構成されていくか、そのプロセスが図示してあります。デノテーションは、二次的体系の能記(コノテーター)がデノテーションによって入れ子的に構成されています。一方、メタ言語は、二次的体系の所記が入れ子構造となったものと考えられています。バルトはコノテーションの言語学に重要な意義を見出しています。また、コノテーションとデノテーションは同じサイズを持つわけではない、コノテーションには常にデノテーション成分が残る、という重要な点も指摘されていました。

メタ言語については、人間の諸科学の歴史は結局は高次言語の通時論となるであろうと述べています。というのは、常に新たな科学が新たな言葉でそれ以前の科学を語るためです。また、メタ言語とコノテーションが複合的に用いられている場合についても述べてありました。

とても面白い章でした。何度も読み直されるべき章ではないでしょうか。

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R.バルト(1967/1971).「統合と体系」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

タイトル:統合と体系

感想:この章では、主に連合と統合という言語及び記号の2軸について議論されています。連合はラングに密接につながっており、統合はパロールに近い(ただし、パロールそのものではありません)と言うことができます。これらの軸に対しては、様々な語が提案されています(連合軸:相関(イェルムスレウ)、類似(ヤコブソン)、対立(マルティネ)、結合軸:関係(イェルムスレウ)、隣接(ヤコブソン)、対比(マルティネ))。これら2軸に関して、ヤコブソンの失語症の研究がありますが、これはすでに言語学の領域から足を踏み出した試みだと述べています。また、メタファー型のディスクールとメトニミー型のディスクールの例が羅列してありました(p. 160)。一般にメタファー型の方がよく研究されているのですが、そのひとつの理由は、高次言語で何かを語るという行為自体が既にメタファー的であるからと述べています。

次に、パロールと統合の違いについて述べられています(ソシュールが述べたものです)。両者には自由度の違いとパロールの中には依然として規則的な形式が認められるという点が指摘されていました。しかし、やはり結合とパロールは近い関係にあるということは著者は認めています。

次に結合とは、不連続的なものが連続しているという点が述べられていました。そして、こういった不連続の単位を見つけ出すのが代換テストです。これはイェルムスレウとウルダルが1936年の第五回国際音声学会議で用語として確立させたものです(それ以前にトルベツコイが既にこのテストの方法に則った分析を行なってはいますが)。このテストにおいて、意味の変化を起こすものを代換、変化を起こさないものを置換と呼ばれます(イェルムスレウ)。このテストで大事なのは意味の差(形式面)であり、意味そのもの(質料面)ではありません(ベレヴィッチ)。記号学では、所記の区別をはっきりつけることが言語学よりも困難であることが予想されるため、中継となるような制度や高次言語を利用して、そこから代換に必要な所記を得るといった作業が必要になるだろうと著者は述べています。

さて、構造言語学が結合面において分析すべき単位には有意単位(記号素、語(語彙素と形態素))と弁別的単位があるわけですが、記号学ではどのような結合単位が得られるかは予想することが困難であると著者は述べます。その理由としては、複合体系の存在、記号性機能体の存在、散らばった体系(「材料の不活性の空間が、不連続なだけでなく実際に離散した記号をここかしこで支えている体系」(p. 170))、という点を挙げています。

次に結合上の強制についてです。ここで再びシンタグム(結合)(ラングによって定められた強制)とシンタクス(パロールによるシンタグムの充足)を混同してはならないと著者は述べています(構造言語学のシンタクスという語の用い方は今の言語学のそれとは違うみたいですね。現代言語学のシンタクスはむしろ、構造言語学のシンタグム的な意味で使われていると考えるべきでしょう)。結合の強制として、連帯(お互いが強制し合う)、単純連繋(一方が片方を強制するがその逆はない)、組み合わせ(共に強制し合わない)という3つのものを指摘しています(p. 170)。ヤコブソンによると、音素から文へ移るにつれて、話し手の自由度が増加します。また、記号の繰り返しと同一単位間の距離は統計言語学(元はソシュールの語ですが、現代で言うならコーパス言語学に近いもの)、文体論あるいはコノテーションの言語学の研究テーマとなります。

次は体系についてです。ブルームフィールド学派はこの軸の関係を研究テーマに入れることを嫌っていますが、マルティネなど他の言語学者はとても積極的です。この軸においては、辞項は類似性と相違性を同時に持っています。また、あるパラディグム内で共通な要素と見えるものは、他のパラディグムとは示差的なものとなります。しかし、こういった体系の考えを記号学に拡張すると、二次的体系などでは積極的な関係を辞項が含むこともありえると考えられます。次に、対立の類別を行なったカンティノーの研究が紹介されていました。これは必ずしも記号学にそのまま使えるものではありませんが、一見の価値があるということで紹介されています(pp. 177-185)。この中で、「ゼロ度」という考えが示されるのですが(pp. 180-181)、これは「無いことが意味を持つ」ということを意味します。例えば、修辞的能記がない文学作品などはその一例です。

また、対立という考えを支配している二進原理という考え(a vs. b)が普遍的なものなのかどうかということについてもコメントがされています。著者としてははっきりとはしないし、二進原理以外のものがあっても不思議ではないという立場です(ソシュールは体系を二進的なものと考えたことはなかったし、マルティネは二進原理の普遍性には批判的である一方、音韻論でこの考えに多くの研究者に注意を向けさせたヤコブソンは肯定的です)。

次に、中和という考えについてです。これは記号作用を中止する現象を指します。「一般的に言えば、ある体系の中で存在する対立の中和は、コンテクスト(前後の環境)の力によって生ずる。だからいわば、結合が体系を「無効にする」のである」(p. 188)と著者や説明しています。無効になった対立は、原音素というひとつの音の中へ収束されることになります。意味面については、まだ体系の整理がなされていないので、中和の現象については手探り状態ですが、音韻面では研究が進められています。また、この中和によって、拡散領域または安全性の境界(ある単位が実現されるときに、意味の変化を伴わずに取りうる変化の範囲)の分析と、個人的変異形または任意変異形といったコノテーションで重要となる変異形をラングのレベルで扱える(これはそれまではパロールの次元のものと考えられていた)、という利点があると著者は述べています。

最後は、逸脱についてです。創造の舞台となるのは常に言語の2軸の境界だと著者は考えています。逸脱について今後調査を進めるべき方向として。対立の現れ方の対立(並べ方の対立)の研究、韻、修辞学全体、を分析していく重要性を指摘しています。

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2008年4月25日 (金)

R.バルト(1967/1971).「所記と能記」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

タイトル:所記と能記

感想:このセクションでは、まず記号、信号、指標、像、象徴、寓意といった概念が、著名な研究者によってどのように用いられてきたかが整理されていました。ワロン、パース、ヘーゲル、ユングが扱われていました。それによると、各研究者はそれぞれの語を様々な意味で用いているが、その矛盾は各人が他の語で補っているということが示されていました。

次に言語記号の能記に関して、これが記号の一部をなすがゆえに言語学の範疇に含める研究者(ソシュール、イェルムスレウ、フレー)もいれば、記号=能記と考えられがちな傾向があることから、所記を研究対象から外す研究者(アメリカ構造言語学)もあるという点が指摘されていました。また、言語記号には二重分節という重要な特徴があることも挙げられていました(マルティネが特にその重要性を指摘しています)。

次に、形式と質料の関係についてです。イェルムスレウの考えを元にして、能記の形式と質料、所記の形式と質料がそれぞれどのようなものであるのかが分かりやすく示されていました(p. 133)。この形式対質料という考えは記号学を進める上でもかなり役に立つものであると著者は考えています。

次は、記号学的記号という概念についての説明です。まず、著者は実用的、機能的な性質から出た記号学的記号を「記号性機能体」と名づけます。しかし、機能はその内意味を帯び、「使用」が今度はその使用自体の記号となります(レインコートは雨の記号になります)。このように、記号が作られると社会はそれを再機能化し、コノテーションの次元に属すようなものが作られることになります。

次は、所記の意味するところについて整理していきます。ストア派の「言い表わせるもの」という概念を参考にしながら、「記号の使用者がそれによって了解する「何か」」(p. 137)、「記号の二つの「関係物」の一方」(p. 137)と定義します。このこと自体は言語学だけでなく記号学の領域でも同様です。しかし、記号学では言語記号によってその所記が面倒を見てもらえるという点が異なっていると著者は述べます。また、所記と能記が切り離せない状態にあることを同合性、そうでないものを非同合性と名づけています。次に問題になるのは、所記の体系を記述する際にどのように記述するかということです。1つには、積極的な内容に頼るもので、ハリッヒ、ワルトブルク、トリヤ、マトレなどの研究があります。しかし、これらは所記の質料に頼りすぎているという問題があるそうです。もう1つの方法は、所記の対立関係を組み立てなおし、その各々の関係の中で有用な特徴を分離していく方法です。これには、プリエート、グレマス、イェルムスレウ、ゼーレンセンなどの研究があります。しかし、これら構造言語学の意味面におけるアプローチの発達は遅れており、記号学での応用もまだ難しいようです。それに、記号学的所記は、同合的にも非同合的にも表出する点、記号体系間が部分的に重なり合っている点、体系の消費者の知識の差に影響を受ける点、など難しい点があります。

能記については、同じような考えができるようです。これも関係物の一項と定義されています。しかし、所記と違って有形素材が必要だそうです。また、記号学では様々な有形素材が同時に使われている記号を扱うため、単一の記号で表わされているものを特に典型記号と呼ぶことにしています。能記の区別は、代換テストなどで最小単位を獲得し、それをパラディグム上の類にまとめ、さらに、単位間のシンタグム上の関係を整理することで可能となると著者は述べています。

次は意味作用または記号作用(シニフィカシオン)、つまり能記と所記を結ぶ付ける行為についてです。能記と所記の関係についての図式は、様々なものが提案されてきました。ここでは、ソシュールによるもの、イェルムスレウによるもの、ラカンによるもの、非同合的体系を記述するためのもの、の4つが簡単に列挙されていました。さて、能記と所記の関係は恣意的であるということはよく言われるわけですが、言語には擬音語、派生や合成といった部分では両者は動機性を持ってしまいます。しかし、これら以外のものに関しても、言語使用者にとってみれば能記と所記の関係は動機性があるように思えます。このことに関して、レヴィ=ストロースは、「言語記号はアプリオリには恣意的であるが、アポステリオリには恣意的ではない」と述べています(所記と能記の「契約」はアプリオリ的な恣意性を自然化することによって支えられている(p. 150))。バルトは、「一般的に言えば、言語の中で能記と所記の結合は原理において契約的であるが、この契約は集団的で、長い時間の中に刻み込まれるもの(ソスュールは「言語は常に遺産である」と言っている)であり、したがってある意味では自然化されたものである」(p. 147)と述べています。一方記号学の扱う体系の中には、恣意的かつ動機性のある体系もあれば、恣意的でなくかつ動機性を持たない体系もあるということです。というのは、無動機なものは自然化され、動機のあるものを知識化(文化化)するという二重の傾向があるためです。

最後に価値ということについて議論されています。所記と能記の関係はいわば価値の問題と言え、より経済学的な考えであると言えます。「記号が(または経済的「価値」が)存在するためには、第一に「異種のもの」(労働と賃金、能記と所記)どうしが交換でき、第二に「同種のもの」どうしが比較できることが必要」(p. 152)になります。つまり記号の価値は環境によって定まることになります。イェルムスレウの考えに基づいて述べれば、意味作用が内容の質料に関わることであるのに対し、価値は内容の形式に関わると著者は述べています。ここでソシュールの紙の切れ端の例がすごくわかりやすかったです(p. 154)。紙を切ることでできる紙片同士の関係は価値であり、各切れ端の表裏の関係が記号作用というわけです。

最後に分節ということについて述べられています。能記と所記の関係は本当は単なる相関ではなく、「二つの不定形のかたまり、ソスュールの言う二つの「浮動する王国」の領地を同時に切り分ける行為」(p.154 )だと著者は考えます。そして、「このかたまりの一部を同時に、一撃で切り取ると意味が生じ」(p. 154)てくることになります。したがって、意味とは節であると言えます。「この二つのカオスにあって、意味とはひとつの秩序であるが、しかしこの秩序は本質的に「区分」なのである。言語(ラング)とは、音と思考の間の介在物であり、その働きは、両者を同時に分解しつつ結び付けることにある」(p. 155)という著者の言葉はとても的確に構造言語学の考え方を捉えているように思えます。こので、このことをさらに補足する意味で、ソシュールの空気と水の間の関係のたとえが紹介されていました(pp. 154-155)。「言語とは分節(articulations)の領域であり、意味とは何よりもまず「切り分けること」だ」(p. 155)と言う一言もとても迫力があります。著者は将来的には、記号学も分類学も配分学とでも言うべき新科学の一分野になるのではないかという予測を立てています。

この章に関して、僕にとっては特に新しいことはなかったのですが、非常に的確な言葉で議論がまとめられており、今後色々と使いまわすことができそうだなあと思いました。

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2008年4月15日 (火)

M.Halle(1987).「A Biblical Pattern Poem」を読む(N.Fabb, D.Attridge, A.Durant&C.MacCabe(編),『The Linguistics of Writing: Arguments Between Language and Literature』,Methuen)

本論文の詳細情報は次の通り。

Halle, M. (1987). A biblical pattern poem. In N. Fabb, D. Attridge, A. Durant, & C. MacCabe (Eds.), The linguistics of writing: Arguments between language and literature (pp. 67-75). New York: Methuen.

感想:本論文は、詩篇第137節の韻律構造についての研究です。この韻律構造は、著者にとっては偶然の産物ではなく、作者によって意図されたものであるという立場で議論が進められています(著者は、こう信じるに足るだけの証拠を示した上でこのような立場を取っています)。その韻律構造はかなり特殊なようで、韻律に寄与する母音を"x"に置きかえると、左右対称となった二枚の翼と斜めの屋根、そして1つのイェルサレムの寺が現れます。このように、第137節はパターン・ポエトリーとして考えることができるのではないかと著者は述べています。実際、この詩の中で、この寺の破壊は主たることとして述べられています。

パターン・ポエトリーは、批評家にはあまり評価されて来ませんでしたが、昔からあるものであるし、常に人気のある作風と言えます。紀元前三世紀にはギリシャ人によって作られています。著者は、おそらくはヘブライ人であるこの詩の作者は、ギリシャのモデルを真似たのではないかと推測しています。というのは、両者の間には文化的な交流があったからです。更に、パターン・ポエトリーは両者の協力の上に成立したものではないか、ということも述べられていました。

とても面白い作品が取り上げられており、楽しく読めました。文学の言語の魅力をますます高めてくれるような論文だったと思います。

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2008年4月14日 (月)

R.バルト(1967/1971).「ラングとパロール」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

タイトル:ラングとパロール

感想:ラングとパロール自体の説明は基本的なものでした。ラングとは価値の体系であり、社会制度と言え、パロールは個人による選択と現動化の行為となります。なお、パロールの結合をディスクールと呼んでいます(p. 100)。そして、ラングとパロールの関係は弁証法的であり、ラングは、パロールが生み出したものであると同時に、その道具となります(p. 101)。そして、純然たるパロールの言語学について著者はその存在を否定していました。

また、イェルムスレウによるラングとパロールの練り直しについても触れられていました。著者はかなり高く評価しているようです。イェルムスレウは、ラングとパロールを、図式(schema)と慣用(usage)という二分法に置きかえました。

さて、著者はラングとパロールの区別によって生じる問題点についてまとめています。それらは、(1)ラングをコードと同一視し、パロールをメッセージと同一視できるかどうかという点、(2)シンタグムがラングのレベルで生じてしまうことがある点(イェルムスレウは、ラングとパロールの境界の学問分野として、morpho-syntaxeを提案していますが)、(3)いくつかの変異をどうしてもラングの中に認めなければならない場合がある点、です。

また、ラングとパロールの区別に付随する概念を2つ提示しています。それらは、イディオレクトと二重構造です。イディオレクトは、ラングとパロールという考えに当てはめると幻となってしまうのですが、この概念を使うことで、失語症患者の言葉、作家の文体、すべての言語的陳述を同じ方法で解釈する人間の集まりにおける言語活動(著者がエクリチュールと呼ぶもの)、を扱うことができるようになります。このことを考えると、やはりラングとパロールの間に何らかの仲介物を設定する必要があると著者は考えています。もう一点は二重構造です。これは、コードとメッセージのことであり、コードの中にコードやメッセージが入ったり、メッセージの中にコードや別のメッセージが入ったりすることを指しています。

最後に、このようなラングとパロールの二分法を記号学の分野へと拡張しています。そもそも、ラングとパロールは社会科学などとかなり強い関係を持っています。たとえば、ラングはデュルケムに由来するものであるし、パロールはタルドの考えに由来するものです。また、メルロ=ポンティはソシュールの考えを取り上げ、話すパロール(発生段階)と話されたパロール(発生の結果) の対立を設定し、すべてのプロセスの前には体系が必要だということを主張しました。このことは、歴史学で重要な、事件と構造の対立関係を作り上げるきっかけとなっています。また、レヴィ=ストロースのソシュールへの言及も有名です。

著者はラングとパロールはすべての記号作用の体系を包括して存在するということを仮定し、衣装の体系、食品の体系、自動車の体系、家具の体系にこの枠組みを当てはめ、それぞれの体系で何がラングのレベルに相当し、何がパロールのレベルに相当するかを考察しています。しかし、当然、ソシュールの本来の意味した場合(言語を対象とした場合)とは多少の齟齬が生じます。指摘されていたのは、(1)記号学的体系では話す大衆によってではなく、特定の決定グループによってラングが作り上げられている場合がある点、ラングとパロールの間の比率(パロールの数が少なかったり、まったくないという場合さえもあること)が言語の場合と違う点、です。1点目については、これは人工言語の場合と類似していると指摘されていました。こういった体系では記号は完全に恣意的で、使用者自身も、決定グループによって決められたものを黙って受け容れていることにより、その記号体系が機能していると言えます。2点目については、このようなことが可能なのは記号体系のラングが言語のパロールに支えられているためであるとされています。更に、ラング/パロールというように二分法で考えるのではなく、素材/ラング/使用という三つの側面で考える必要があるということが述べられていました。

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R.バルト(1967/1971).「記号学の原理」を読む( 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』,みすず書房)

本書の詳しい情報は次の通り。

バルト,R.(1971).「記号学の原理」.In 『零度のエクリチュール 付・記号学の原理』.みすず書房.(原著は1967年出版)

感想:本書の「零度のエクリチュール」については、筑摩書房から出ている、森本和夫・林好雄による訳本『エクリチュールの零度』を読んだことがあるので、とりあえず「記号学の原理」の部分だけ読むことにしました。

序の部分では、ソシュールが当初、言語学は記号学の一部であると考えたのとは裏腹に、言語以上に広がりのある記号体系はなく、どのような記号の体系も必ず言語にぶつかるということを指摘しています。所記の体系とは言語の体系に他ならず、結局記号学こそが言語学に吸収される運命にあると考えられています。バルトは、ここで超言語学という学問の構想を考えているようで、これは神話や物語、新聞記事、その他社会におけるあらゆる対象を扱う学問分野だそうです。

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2008年4月10日 (木)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』結章を読む(Niemeyer)

本書の最後の章です。基本的にはこれまで調査で明らかにしてきたことのまとめと今後の展望について書かれていました。とても面白い本でした。勉強になったと思います。

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Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第13章を読む(Niemeyer)

タイトル:L2 learner corpora for pedagogical dictionaries: The case of Make

感想:この章では、makeの用法についてネイティブのコーパスと学習者コーパスで調べ、比較し、この結果を学習者用辞書に盛り込む有用性について議論されていました。まず、makeのパターン及びその頻度については基本的にはネイティヴと学習者でかなり類似しているという結果が得られました。しかし、一番多く見られた「make+名詞句」のパターンを詳しく見てみると、学習者コーパスと教科書では、「make+具体名詞」がほとんどであるのに対し、ネイティヴは「make+抽象名詞」というパターンを多く使っていることが明らかになりました。このような情報は特に中級学習者以上のレベルではかなり有益と考えられ、辞書の充実を図る上でも重要と著者は論じていました。

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2008年4月 8日 (火)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第12章を読む(Niemeyer)

タイトル:Using learners' error information for L2 lexicography

感想:この章では、学習者コーパスから抽出された間違いを取り上げ、それらが学習者用辞書の内容をより充実させるための可能性について議論されていました。そして、L1の干渉によって引き起こされる動詞の意味論的間違いやコロケーション、動詞型の間違いに関する情報を体系的に辞書に盛り込むことが主張されています。そして、可能性のある間違いだけでなく頻度の高い間違いに関する情報を盛り込むことが必要だと述べられていました。上級学習者にとっては、頻度レベルが最初の5,000語~7,000語ぐらいの名詞と動詞に関して、コロケーションの情報を辞書に盛り込むことが有益であると述べられていました。

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2008年4月 3日 (木)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第11章を読む(Niemeyer)

タイトル:Macrostructure revisited: The effect of signposts/ guidewords

感想:この章では、The Longman Dictionary of Contemporary English, 3rd edition (LDOCE3) で用いられているSignpostsと、The Cambridge International Dictionary of English (CIDE) で用いられているGuide Wordというシステムが学習者に対して有用に機能しているかどうか(情報を早く検索するのに役立っているか)、そのシステムで用いられている語の意味が学習者が連想するようなものとなっているかどうか、という2点が調査されていました。

結果として、(1)普通の長さの辞書項目(語の意味と例文など、その語の説明全体を指す)に関して言えば、Signpostsの方がGuide Wordよりもうまく機能しているが、長い辞書項目になると機能しないようだということ(この場合はGuide Wordの方は機能しているようだ)、(2)Signpostsで使われている語の方がGuide Wordで使われているものよりも学習者の連想に近いものが用いられている(Guide Wordは、意味が広すぎたり、抽象的すぎたり、学習者の直感に反するようなものが用いられている場合が見受けられた)、という結果が示されていました。

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2008年4月 1日 (火)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第10章を読む(Niemeyer)

タイトル:Microstructure skills: The effect of menu on the look-up process

感想:前章で辞書項目の最初の部分が非常に重要となるということが示されましたが、このことを受けて、本章では、辞書項目の最初の箇所に設けられたメニューは辞書使用において有効に機能するかどうかが調べられていました。

本章で示されたのは次の事柄です。(1)辞書使用技術の低い学習者(中学生)は、メニューがある方がない方よりも、翻訳タスクにおいて正しい意味を選択することができる。一方、辞書使用技術の高い学習者(大学生)は、メニューがある場合とない場合で特にそのような違いは見られない。(2)辞書内に文法に関する情報が与えられていたとしても、意味情報の方に強く依存する。(3)メニューは、辞書使用技術の欠落を補うことができる。(4)初級学習者用の辞書にはメニューを最初に入れた方がよい。とても面白い結果だと思いました。

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Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第9章を読む(Niemeyer)

本章のタイトル:Microstructure skills: Process of dictionary look-up in L2/L1 translation

感想:辞書は最近では、受容活動と同じくらい産出活動にも使えるようにされてきているにもかかわらず、やはり外国語学習者にとっては受容活動の方が辞書を使う機会が多いです。この章では、翻訳という活動の中でどのように辞書の情報が用いられるかが調査されていました。

著者は、(a)辞書使用者はどのように辞書を用いているか、(b)辞書使用者に辞書を有効活用させるためにはどのように指導すればよいか、(c)辞書の情報提示の方法をどのように改善すればよいか、ということに関して調査の結果から示唆を導いています、。具体的に示されたのは次のような事柄です。(a-1)辞書使用者は特にそうしない必要性がないとき(一番最初の定義が不適であるということを示すほかの情報を活用しない場合)は、一番最初に提示されている定義を選択する。言い換えると、辞書の項目全体を読むのではなく、なるべくすぐに意味の探求を止めたいと辞書使用者は思っている。(a-2)辞書で提示されている情報(調査で用いられた情報)以外の情報を活用している場合がある。(a-3)辞書使用者(特に英語専門ではない者)は複雑な辞書デザインは望んでおらず、例文なども、辞書編纂者の考えとは裏腹に、言語活動では用いない。むしろ、例文が辞書使用者が二番目の定義へ目を移すのを妨げさえしている。(b-1)項目全体に目を通すように指導する。(b-2)辞書の慣習に学習者を慣れさせる。(b-3)例文を活用できるように指導する。(b-4)英語力がある方が辞書を有効活用していることが示されたため、英語力の向上も必要である。(c-1)辞書項目の一番最初の部分がとても重要であること(辞書使用者は項目全体に目を通すのではなく、最初の部分だけに注目する傾向が見られたため)。(c-2)英語専攻ではない学習者は、辞書にある統語的情報はあまり利用せず、意味(the translation equivalents)だけに依存している傾向がある(英語専攻の学習者は両方の情報を等しく有益に使っている)。また、コロケーション、可算/不可算、動詞のパターンといった情報はほとんど使われてないことも示されていました。

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