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2008年3月31日 (月)

鹿内信善(1989).『[創造的読み]への手引き-詩の授業理論へ』を読む(勁草書房)

本書の詳しい情報は次の通り。

鹿内信善(1989).『[創造的読み]への手引き-詩の授業理論へ』.勁草書房.

感想:本書では、まず創造的読みを「テキスト情報と読者の既有知識を再統一することによって、新しい意味を構成すること」(p. 30)と定義し、詩に対して創造的読みができるような指導法を考案し、実践されています。このために考案されているのが、オリエンテーション設定法です。「オリエンテーション」とは、「人間が世界(環境)を理解するために採用する方向や方針」(p. 11)という意味です。しかし、自分でオリエンテーションを探すというのはかなり難しいようです。そこで、オリエンテーション発見を助けるものとして、フォーカシング法が提案されます。「フォーカシング」とは悩みを読み解くために臨床心理学で用いられる技法です。これを詩の読解(詩でオリエンテーションが見つからないのは一種の悩みであるため)に応用したのが、フォーカシング法です。もう1つ、オリエンテーションを自分で発見するための方法として提案されているのが物語法です。これは、プロップやバルトの物語の行為項という考えを応用したもので、詩句を物語構造(行為項)に当てはめていくというものです。最後に、内的動機づけ技法というものについて考察されています。これは、学習者に詩を読みたいという内的動機づけを湧かせるための方法で、実際に一定の効果を得ることができ(p. 206)、個人だけでなく集団に対しても利用することが可能であるという結果が得られています(物語法も集団に対して適用可能です。フォーカシング法とオリエンテーション設定法では、集団に対する適用は課題のひとつとして指摘されていましたが、学習者は他者が発見したオリエンテーションを積極的に取り入れて解釈を行なっていくということが内的動機づけ技法で示されたため、その可能性については応用が可能であるという推論が成り立ちそうではあります)。

著者は具体的な指導プログラムを提案し、その始動プログラムを実践している際のやり取りも載せているので、非常に分かり易いと思います。著者は、読者反応理論などは、読者の積極的な読みを強調するという役割は果たすが、具体的にどのようにすれば読者の積極的な読みを指導できるのかという点については何も策を与えないと述べており、だからこそ著者が本書で様々な指導法を提案したとしていました。最後に、なぜ創造的読みが必要なのかという問題に対して、著者は「生きるため」とします。人間は苦境に追いやられることはよくありますが、その苦境はその状況の一側面に過ぎず、そこに別の意味を見出せること、これが大切なのだと考えます。本書は出版されて随分と時間が経っていますが、今読んでも十分に面白いものであり、いまだに古さを感じさせませんでした。

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2008年3月26日 (水)

W.van Peer(1993).「Typographic Foregrounding」を読む(『Language and Literature』)

本論文の詳細は次の通り。

van Peer, W. (1993). Typographic foregrounding. Language and Literature, 2 (1), 49-61.

感想:とても面白い論文でした。van Peerさんは僕が好きな文体論学者の1人です。この論文では、特にタイポグラフィーにおける前景化について議論がなされていました。このレベルでの前景化は、実は西洋詩では普遍的なものであるにもかかわらず、これまであまり注目がされてこなかったようです。そもそも、詩に見るverse line、スタンザ、余白、行を大文字で始めること、などは、それ自体が日常言語のテクストと比べると前景化されていると言え、それらが今度は詩の伝統ともなっています。ダダイズム、シュールレアリスム、未来主義、コンクリートポエトリーなどは前衛的な文学運動とされていますが、タイポグラフィー的要素に関してはそれらの運動でさえしばしば保守的となり、こういったタイポグラフィー的要素がいかに詩の中に強固に根付いているかが分かります。

こういったタイポグラフィー的要素は、口頭文学における記憶の助長という要素を引き継いでいるものと考えることができるようです。書記文学が優勢である現在でも依然として、歩格、脚韻、頭韻など、口頭文学における記憶補助の技術は、優勢的に用いられていますが、視覚的観点からそういった記憶補助を行なうものとして、タイポグラフィー的な要素による前景化が現れたと考えることができるようです(p. 51)。タイポグラフィー的要素は読者に、このテクストは詩であるということを示す記号として機能することになります。

コンクリートポエトリーの登場によってタイポグラフィー的要素の前景化が議論されることが多いのですが、実際はその伝統は古く、紀元前4世紀や紀元前3世紀のギリシャの牧歌詩にその起源を見ることができます。アルファベットは意味とは恣意的な関係にあるということは頻繁に指摘されることですが、詩人はタイポグラフィー的要素に細工をすることで、意味との間に有契的な関係を作り出そうとしているようです。具体的な詩の例も幾つも挙げられています。Rabelaisの作品、Simias of Rhodesの作品、Mellin de Saint-Gelaisのwing poem、Goerge Herbertの"Easter Wings"、です。イギリスでは、古代ギリシャやローマの文学の再発見により、タイポグラフィー的要素を利用した作品が16世紀に流行しました。ドイツでも同じことが起ったようで、ドイツバロック文学ではタイポグラフィー的要素の活用がかなりなされたそうです。しかし、英独ともに1700年以降、タイポグラフィー的要素を用いた文学作品は公の場から姿を消していったそうです。

しかし、タイポグラフィー的要素を使った文学作品群の中にも評価が高いものと低いものがあります。文体論的に言えば、Mellin de Saint-GelaisもGeorge Herbertも同じ翼の形をした詩を残していますが、前者は詩の主題をタイポグラフィー的な要素で描いたのに過ぎないのに対し、後者は細部で様々な有契的関係を意味と結ばせており、とても優れた作品となっています。しかし、いずれにせよタイポグラフィー的要素は確かに詩の質を向上させるのに貢献するということが言えそうです。

TynyanovやMartindaleは、文学史とは次々と新しい技巧を生み出すという形で進んでいくというモデルを提案しており、実際に後者はメタファーがどんどんと大胆なものになってきているということを示しています。しかし、タイポグラフィー的要素については少し状況が違っているようです。これは文学史の中に不連続に現れ、流行ったり廃れたりということを繰り返しています(古典時代に生まれ、16世紀に栄え、17世紀末に廃れ、19世紀の終わりから20世紀の始めにかけて再登場しています)。こういった状況を受けて、著者はタイポグラフィー的要素に関する研究の今後の課題をいくつか提案しています。

1点目は、タイポグラフィーの文学史における不連続性をどのように説明するかということです。著者は、"the general increase in seriousness of the culture" (p. 58) と、メディアの発達によるコミュニケーション媒体の変化、の2つをその糸口として提案しています(しかし、まだ提案の段階にとどまっており、これらがこの不連続性を本当に説明することができるかどうかは今後の研究で検証されるべきだとも述べています)。特に後者の仮説に関しては面白く、古典時代は口頭文化から書記文化への移行期であり、16~17世紀は印刷術が開発された時であり、19世紀末はリテラシーが一般大衆に普及した時期です。この仮説が正しいとすれば、コンピューターが大きな役割を担い始めた現代では、近いうちにタイポグラフィー的要素を活用した詩に何か動きがあるのではないか、と著者は考えているようです。このことに関して、僕はアスキーアートのことを思い浮かべました。

2点目は、タイポグラフィー的要素を活用した作品のいくつかは忘却され、いくつかは文学史の中に根付いていますが、この両者を分けるものは何か、という問題です。著者は、タイポグラフィー的要素とテクストの意味(主題)構造を上手く結びつけることが大切なのではないかと考えています。しかし、これも今後検証されるべきことであり、この論文が執筆された時点では確固たることは言えないとのことです。

この論文はタイポグラフィー的要素が軽視されているということを出発点に議論がなされているのですが、現在でもそうではないでしょうか。この論文で述べられていることは、10年以上たった現在でもまだとても斬新な内容だと思いました。

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2008年3月24日 (月)

J.C.Alderson&M.Short(1989).「Reading Literature」を読む(M.Short(編),『Reading, Analysing & Teaching Literature』,Longman)

この論文の詳細は次の通り。

Alderson, J. C., & Short, M. (1989). Reading literature. In M. Short (Ed.), Reading, analysing & teaching literature (pp. 72-119). London: Longman.

感想:この論文は言語テストで有名なAlderson先生と文体論で有名なShort先生のコラボの論文です。両方の先生ともに、ランカスター大学でお世話になったので、とても身近な気持ちで読むことができました。

この論文は、著者二人自身がある小説の冒頭を読み、その読みのプロセスについてのデータを発話思考法で収集し、著者自身が分析したものです。実際のプロトコルもかなりの量が掲載されていました。この論文の目的として、(1)テクストの意味についての意見の一致と相違を見るための二つのリーディング研究アプローチ(文体論と心理言語学)を吟味すること、(2)どんな意味がテクストに賦与されるかということに加えて、どのようにそういった意味が賦与されるかを見ること(文学テクストを読んでいる際に読者がどのような方略を用いるかを調べること)、(3)文学テクストの処理は非文学テクストの処理と異なるかどうか調べること、という3点が示されています。しかしながら、本論文は、2点目の目的についてのみ考察がなされていたように思います。しかも、テクストの意味に関して二人の間で意見が一致した点のみを扱うという点でも、当初設定した目的よりはかなり狭い考察がなされていました。

考察でなされていたのは、(1)二人の読者の読解方略の記述(とくに驚くような内容のものではなく、きわめて常識的な内容のものです)、(2)発話思考法の中で観察された疑問とコメントはテクストの意味の創造の上で重要な役割を果たすということ、(3)推論の種類、でした。(3)推論の種類については、読者がどのような知識を元に意味を推論しているかという観点から、推論の種類が分類されていました。挙げられていたのは、(i)世界についての知識に基づくもの、(ii)動作に関する知識に基づくもの、(iii)特定の状況に関する知識に基づくもの、(iv)言語知識に基づくもの、(v)複数の知識に基づくもの、です。更に、(iv)に関しては下位分類がなされていて、それらは、(a)語の意味を推論するもの、(b)語の意味から事実を推論するもの、(c)会話の公理を通した推論、(d)発語行為に基づいた推論、(e)談話構造に基づいた推論、(f)パラレリズムの結果としての推論、(g)言語的選択(linguistic choice)の結果としての推論、(h)作者がある(ぎこちない)語り方をしているという事実に基づいた推論、です。

また、本論文は文学テクストの意味は読者によって異なるというような主張に対しては反対しています。2人の読者がテクストの意味で意見の一致をしている部分があるということを根拠に、テクストは読みを制限する枠組みとして機能するという立場を主張していました。

2人の有名な研究者がどのように文学作品を読んだのかを知ることができるという点でも面白かったです。

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2008年3月19日 (水)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第8章を読む(Niemeyer)

タイトル:Macrostructure skills: Idiom look-up operations

感想:イディオムの分類や辞書でのイディオムの扱われ方についての研究は多くなされてきたようですが、実際に学習者がどのようにイディオムを辞書で調べているのかという点はあまり研究されてこなかったようです(例外として、Bejoint (1981))。

一般に、英語専攻の学習者と他専攻の学習者との間には、イディオムでどの語を見出しとして調べるかということについては一致を見ているようです。しかし、細かく見ていくといくつか違いが見つかりました。まず、英語専攻の学習者は他専攻の学習者よりも、名詞句と前置詞句のイディオムで、名詞を見出し語として選ぶことが多いという点です(そしてこの名詞重視の傾向は辞書編纂者の実践とも一致します)。もう一点は、他専攻の学習者は、イディオム内に動詞が含まれている場合は、名詞が含まれていたとしても、直ちに動詞を見出し語とするという点です(通常、辞書編纂ではmakeなどのように意味の範囲が広い言葉は見出し語にはしないそうなのですが、他専攻の学習者は意味の範囲といった問題はあまり考慮に入れていないようです。実際、辞書では意味の範囲の広さは見出し語の決定に大きく関わっています。)。

また、学習者内で見出し語の選択があまりぶれがないイディオムに関しては、辞書使用者(学習者)の見出し語の選び方は、辞書編纂者の記述とかなり一致していることが明らかとなりました(しかし、そうでないイディオムに関しては、辞書は学習者の助けになっているとは言い難く、辞書編纂者は実証的なデータを収集し、そのデータをもとに辞書をよりよいものにしていく必要があると著者は述べています(p. 139))。また、advancedな辞書では、イディオムを例文の中で示す傾向があるということも明らかとなりました(辞書編纂者は、辞書使用者が満遍なく例文を見てくれ、結果としてイディオムについても情報を得ることができるということを期待しているかのようです)。

最後に、イディオム検索の際の学習者の方略を図式化しています。その図式の中では、"a) to avoid function words and choose content words; b) tp choose the elements which have more restricted combinability; c) to choose more unfamiliar elements" (p. 139)といった方略が反映されています。しかし、イディオム内に、結合性の範囲が等しいような語が複数含まれていたり、結合性が非常に限られた語と共に未知語が含まれていたりすると、学習者は辞書を引くのに困難を覚えるようです。

辞書使用についてよりよい状況にしていくためには、学習者に辞書使用について指導していくと同時に、辞書編纂者は実証的なデータを収集し、その結果を辞書に反映させていくことが必要だと著者は述べています(p. 142)。

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2008年3月11日 (火)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第7章を読む(Niemeyer)

タイトル:A good dictionary user: What makes the difference?

感想:この章では、よい辞書使用者の特徴を調べた研究結果が報告されていました。ここで示されていたことを簡単に列挙していきます。(1)よい辞書使用者はgood thinkerであり、辞書で調べる前に、どこでどのように所定の情報を探すかを考えている。(2)辞書のマクロ構造に関しては辞書使用の優劣とはそれほど関係がないようだが、ミクロ構造に関しては、よい辞書使用者はそうでない学習者よりもよく知っている。(3)辞書使用の側面によっては、言語熟達度と関係のある辞書使用技能もあればそうでないものもある。(4)よい辞書使用者は情報のアクセシビリティーに応じて意図的に字引の方略を変えている。(5)例文の利用の上手さは、言語技能と辞書の慣習への慣れ両方と綿密に関係している。(6)辞書の慣習への過剰な依存は、上級辞書使用者であっても単純なミスを招く。(7)上級辞書使用者は、字引をする前に計画を立て、どの語を調べれば簡単に問題を解決できるかについて仮説を立てているが、そうでない学習者はそのような仮説は立てない。(8)言語熟達度が高いと翻訳タスク(英語→日本語)での辞書使用の回数が少なくなる。(9)自然な状況であれば、辞書使用と言語熟達度の関係は強くなる。(10)翻訳タスクにおいて、上級学習者は実際の字引よりもテクストを翻訳することに時間を費やすのに対し、そうでない学習者は辞書で意味を探すことに多くの時間を費やし、実際の翻訳活動にはあまり時間をかけない。(11)どの語を字引きすればよいかを選ぶ能力は辞書使用技能の重要な要素である。以上、まとめでした。

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J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第2章を読む(Yale University Press)

タイトル:The diphone and the mannequin

感想:まず、イポグラムとアナグラムの違いが指摘されていました(前章では、ほぼ同じことを指しているのかなあと思ったのですが、全く同じというわけではないようですね)。アナグラムは基本的には単音のみが関わるようで、イポグラムでは二重音(riとかitなど2つの音素の連なり)が関わるそうです。イポグラムは、時間軸に沿って継起しますが、イポグラムを見抜く際の読みは、その継起性を逸脱するものとなります。ソシュールは二重音を最小単位と見なしており、三重音は最初の複合単位と考えていました。三重音は、「二重音+その勢力圏内にある単音」という形で考えられており、そこに結合の規則があるとみなしていました。実際、ソシュールは主に5つのケース(パターン)を見出しています。

また、マヌカンという言語現象を詩的なディスクールの中に見出しています。マヌカンとは、特定の語のことを指し、その語の最初と最後の音素がイポグラムの最初と最後の音素に対応しています。最初は主座という語を与えたようなのですが、そのうちマヌカンという語でこの語が呼ばれるようになりました。そして、マヌカンとイポグラムの間の関係について主に4つのパターンを見つけています。

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2008年3月10日 (月)

J.Starobinski(1971/1979).『Words upon Words: The Anagrams of Ferdinand de Saussure』第1章を読む(Yale University Press)

本書の詳しい情報は次の通り。

Starobinski, J. (1979). Words upon words: The anagrams of Ferdinand de Saussure. New Haven, CT: Yale University Press. (Original work published in 1971)

タイトル:Concern for Repetition

感想:ソシュールはラングを第一質料とし、その実働化をなす諸法則(ラングがディスクールとなるその法則)を明らかにすることが大事だと考えていました。ソシュールは、伝説の変遷について考察するときも、この思考パターンを適用し、第一資料として象徴というものが存在し、実際に社会の中で使われる中で、変容していくと考えていました。内的(象徴と資材の関係)な変化は、外的な関係の変化によってもたらされるとするのは、彼が後に一般言語学講義の中で述べていたことと酷似していますね(ソシュールは、意味は実働化によって変化する所産であると考える必要があるとしています)。

以下、本章では対化の法則(音素の数の勘定の研究)とアナグラム研究について説明がなされていました。まず、対化の法則ですが、ソシュールは各詩行の中で母音と子音が偶数回反復されており、奇数になった場合は次の詩行ですぐに補填されるということを発見しました。また、アナグラムは1つの語(固有名詞、主人公の名、神の名)に対応するように音素を1つないし複数の詩行にばらまき、その語を複製ないし再現する方法を指しますが、特にその完全な形式をアナグラム、不完全な形式を意味するアナフォニーとしました。また、1つの語に集約しないような音素的構造を音的調和(頭韻、脚韻、アソナンスなどが含まれます)と呼びました(テクストの中で自由に(アナグラムのような規則なしに)発生する音的模倣とも区別されているようです)。本来、アナグラム研究とは書記素を対象としたものですが、ソシュールの場合は音素がその対象となっています(さらに、ここでも偶数というものが重要な役割を果たしているようです)。また、アナグラムという語は、ソシュールのノートの中では様々な語で置きかえられたりしています(イポグラム、パラグラムなど)。

アナグラムという枠組みでは、詩(つまり言説)は、所定の名の第二の存在様式にすぎなくなってしまいます。いくつかのヒントとなる音素が歴然として現前していることを読者に知らせる変異体としてのテクストとでも言うことができるでしょう。

ソシュールによれば、詩作は内的構造(対化の法則)と外的な配慮(アナグラム)に着想を得ているということであり、それまで重要視されてきた頭韻や脚韻といった韻律的形式は装飾的な役割に過ぎないということでした。

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Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第6章を読む(Niemeyer)

タイトル:How to assess dictionary using skills for language learning

感想:この章では、Atkins et al. (1987)とOkayama (1985)の研究(辞書使用技術を調査した研究)をレビューし、Okayama (1985)の結果と著者自身が行なった追調査の結果を分析しています。基本的には、Okayama (1985)と著者自身の研究の結果に大きな違いはなかったそうです。また、辞書使用技術を下位技能に分類し、それぞれの技能をテストで調べたのですが、それぞれの下位技能間には強い相関は見られないとのことでした。まだ構成概念がしっかりしていない上に、調査方法にも数点限界があるとのことですが、仮に今回の結果を適切なものとするならば、辞書使用技能は、お互いに独立した技能から構成されており、個別に指導することの可能性が示唆されるとのことでした。

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2008年3月 7日 (金)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第5章を読む(Niemeyer)

タイトル:The effect of long-term dictionary use on reading comprehension

感想:本章では、著者自身が行なった調査の結果が報告されていました。その調査とは、辞書使用の訓練を受けた学習者における辞書使用の技能と読解力の関係を調べるというものでした。調査方法には問題点があると著者自身が認めながらも、次のようなことが示されたようです。(1)辞書使用のよい指導と十分な経験は、学習者の読解に貢献する、(2)辞書使用の具体的な技能(The Dictionary Reference Skills Test Battery(著者が開発)により測定)のサブ・スキルと読解の関係については不明瞭、(3)辞書使用が上手な人ほど、読解が上手になる、というものでした。辞書使用は読解にとっては邪魔なものと考えられがちですが、この結果はそういった考えを考え直させられますね。

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R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第5章を読む(勁草書房)

タイトル:さまざまな問題とパースペクティヴ

感想:受容理論は本書が出版された当時、ほとんど理論的発展がみられなかったようです。それは、いくつかの重要な問題が表れたからであり、その問題を整理するために、本書はテクスト、読者、解釈、文学史という4つのテーマにもとづいて、受容理論とその他の潮流(主にポスト構造主義)の考えを比較するという作業がなされていました。

テクストに関しては、受容理論以前は文学は言語的芸術作品とみなされ、「特有の構造を持ち、単一の確定的な意味を有する客観的かつ恒久的な芸術作品という概念」(p. 225)が優勢でしたが、受容理論は「作品の本質とはその効果の歴史の決して完成されることのない展開であり、その意味はテク外と読者の相互作用によってかたちづくられる」(p. 225)と考えました。つまり、テクストは文学研究の中心の座を追われ、「単に、読者および読者とテクストのかかわりを通して残存するにすぎなくなった」(p. 226)とされています。しかし一方で、「解釈の重点の見かけ上の移行」(p. 226)とみなすこともできます。というのは、受容理論がテクストの確定性に結局依存してしまっているからであり、「受容理論によって変化させられてきたのは、批評の語彙のみであって、われわれが文学を分析するほうほうではないのではないかという疑念」(p. 227)が生じてしまうといいます。フィッシュのようにテクストを完全に消失させようとしても、確定性というものは別の形でどうしても現れてしまうということが述べられていました。

次は読者についてです。最初に、エルヴィーン・ヴォルフとイーザーの読者モデルの比較がなされます。彼らを比較する中で、「ヴォルフが心惹かれているのは、歴史的な展開のなかでとらえられた読者の理念なのである。それに対して、イーザーが関心をいだいているのは、特定のテクストと円滑に相互作用を行なう能力を有する読者のみなのだ。」(p. 231)と述べています(ヴォルフのモデルの詳細は本書p. 231を参考のこと)。しかし、最近は最近は読者の瑣末な区分を行なうことに研究者が専念してしまっているそうです(ドイツ国外の他の例としては、超読者(リファテール)、精通した読者(フィッシュ)、語られる者(プリンス)があり、これらはいずれも「「作品それ自体」に対する弾よけとしての機能」(p. 232)を有しているとしています)。しかし、受容理論の試みは、バルトの読者モデルに比べるとあまり前衛的とは言えないようです。というのは、受容理論では客体と主体という二分法そのものが導入されたままであるためです(この点で受容理論は「慣習的な解釈作業の枠組みに立ち返る」(p. 233)と言えます)。バルトは主体の脱中心化を図っており、読者は無数のコードやテクストによって構成されていると考えられています。「受容理論の提唱者たちが、解釈の重点をテクストから読者へ移し換えたのに対して、ポスト-構造主義者たちは、読者をテクスト化することによりあらゆる中心点を転位させたのである」(p. 234)と著者は述べていました。

次は、解釈についてです。受容理論は一見伝統的な見方に対立するかのように見えるのですが、どうしても確定性という問題を伴ってしまうため、見た目ほど過激なものとはいえないと著者は述べています。結局、「批評の主眼を他の要因に移し換えることによりテクストを回避しようとすることは、ただ単に、確定性との対決を遅延させる結果にしかならない」(p. 238)と著者は述べます。一方、ポスト構造主義は解釈そのものを全く別の枠組みに入れています。受容理論は、解釈とは一次的テクストの意味を平明な論証的散文で説明する二次的テクストの生産であり、その位置づけは派生的、周辺的なものと考えられていました。しかし、ポスト構造主義では、解釈とは新しい別のテクストの創造であり、一次的な要素に接近することなどではないとしています。ブルームは、解釈とは誤解釈であり、想像的なテクストが形作られることに他ならないと考えました。

最後は文学史についてです。受容理論は、それに専攻する進化論的な文学史(「観察する主体とは別箇に客観的な事実が存在すると主張する、十九世紀における歴史的客観主義の伝統」(p. 241))への批判を行ないました、従来の文学史では、「文化史の各分枝は、より包括的な歴史の過程からの派生物であるとされていた。随伴現象として理解される文化は、政治的・経済的・社会的基礎に依存する領域であるとされていた。」(p. 241)そうです。一方、ヤウスは、「芸術史は、過去と現在の芸術を絶えず媒介することによって、『この現在の生成』を認識可能とする歴史のパラダイム」(p. 241)と考えていたそうで、「文化現象(芸術、文学、音楽など)の歴史と実際の歴史との関係の逆転」(p. 241)を狙っていたようです。しかし、デリダのように、「過去における理解への接近の方法ではなく、歴史的思考の概念そのものが疑問視され」(pp. 241-242)るような立場に比べるとその前衛性は下がってしまいます。両者に対して、「ヤウスが文学研究を挑発するために歴史をあらためて浮上させることを目ざしたのに対して、デリダは、ロゴス中心主義的なテクストをより正確に読むために歴史を放逐しようとする。ヤウスは文化史と一般史の関係の逆転をもくろむのだが、デリダはその両者を、より大きな哲学的問題の徴候であり残存物であると見なしているのだ。」(pp. 243)と著者は述べています。また、伝統的歴史記述を行なった他の研究者と比較しても、やはりヤウスはそれほど革命的ではなかったといえるかもしれません。著者はヘイドゥン・ホワイトと比較しています。ホワイトは、「歴史と文学の近接性」(p. 244)を明確にしようとしました。「歴史を読み書く行為が本質的に物語を書く行為と類推関係にあるということ」(p. 244)が彼の主要なポイントだったそうです。ホワイトは、詩学の用語や修辞学の文彩を使って詳細な分類を行ないました。著者は、「手短にいうならば、ヤウスの企図は、文学研究の中心に歴史を据えることを希求するものである。それとは対照的に、ホワイトの場合は、歴史記述の中心に文学研究を据えることにより歴史そのものを疑問に付す」(p. 244)としています。

以上で本書は終わりです。随分読みきるまでに時間がかかってしまいましたが、受容理論の中身だけでなく、文学理論の中における位置づけや問題点(課題点)もはっきりすることができ、とても有益でした。

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2008年3月 6日 (木)

R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第4章を読む③(勁草書房)

感想:この部分は「経験主義的受容理論:テクストへの実際的な反応」という副題がつけられています。まずは東独の経験主義的文学理論について紹介されていました。ディートリヒ・ゾンマー、ディートリヒ・レーフラー、アーヒム・ヴァルター、エヴァ・マーリア・シェルフらの研究です。彼らは反映という東独の文学理論にとっては神聖な概念に、文学の機能的な側面を組み入れたようです。それと同時に、「読者の社会学上の資格をより精密に描き出すことへの関心をもともなっていた」(p. 206)そうです。

次は西独の経験主義的文学理論です。僕自身が専門としているものでもあります。このような理論が出てきたのは、コンスタンツ学派の理論に欠陥があることが明らかとなったためであり、「この欠陥を是正する方法のひとつは「現実の」読者の分析に取り組むことである」(p. 207)と考えられたためであると著者は述べています。こうすることで、例えば「内容された読者」や「期待の地平」といった抽象概念が回避されると考えられたのでした。ここで扱われていた研究者は、ラインホルト・フィーホフ、ノルベルト・グレーベン、ハインツ・ヒルマン、ヴェルナー・ファウルシュティヒ、パウル・チェラン、です。フィーホフは、ヤウスの期待の地平という概念を実証し、ヤウスの言うところの期待の地平は実際に読者が持っているものとは異なっているということを示しました。グレーベンは、パラダイムの転換が生じているとすれば、内在的モデルから機能と効果をめぐる受容理論への以降ではなく、「解釈学的な図式から経験主義にもとづく研究への転換」(p. 209)であると考えたそうです。また、グレーベンは、従来の方法は主体と客体の区別に失敗しており、「受容者の行なう具体化からデータを収集することによりテクスト理解を解明するものである」(p. 210)と考えていたそうです。「こうして受容者は、この過程のなかで、研究者が個々の具体化を客観的に観察し間主観的に妥当性を有する理論に到達するための、単なる媒介として機能するするにすぎなくなる」(p. 210)としています。どのように研究をすすめていくべきか(仮説検証のプロセス)ということに関してはp. 211にまとめてありました。著者が言うには、「この手続きの意図するところは、可能な限りもっとも客観的な結果を確たるものとすることにある。このような方式で絶えず仮説を展開させ検証することにより、研究者たちは、コミュニケイション的な家庭としての文学に関する知識を蓄積し洗練することができるわけである」(p. 212)とのことです。そして、グレーベンの現代詩の方が古典詩よりもコミュニケーション成立可能性が低い」ということを調べた研究を紹介しています。

しかし、著者は経験主義的文学理論に対してはかなり懐疑的なようです。指摘されていた問題点を列挙していくと、(1)問いの操作化によって現実世界の問題とかけ離れてしまうこと(結局何一つ証明できないこと)、(2)証明された事柄はたいてい他の方法でもっと簡単に結論が得られてしまうこと(調査や統計を使う労力がその結果に見合っていない)、(3)「文学的テクストとしてのテクストに対する読者の関係についてほとんどなにも教えてくれないばかりでなく、読者の見かけ上の偏見に本気で対処しようとするものでもない」(p. 217)こと、(4)証明されなければならない理由がはっきりしないような事柄を扱っていること、(5)結論が証明方法の中に入り込んでしまっていること、でした。

受容理論と経験主義的文学理論はあまりお互いにコミュニケーションを持たなかったようです。それは、それぞれが研究に限定的な価値しかなかったことと、お互いに誤解し合っていたこと(「経験主義学派は、単に発見的な価値のみを解釈学派に対して認めているにすぎず、それに対するヤウス一派は、疑いの余地なく、経験主義的な方法を時代遅れの科学主義の名残と見なしている」(p. 221))によるようです。経験主義文学理論に対して著者は先に列挙したような問題点を指摘していますが、「経験主義が根底において、経験や感覚印象により知識の獲得を定義づける認識論的な理論であるととらえるならば、それに依存しないですませるとはとても思えない。テクストを読む行為そのものが、ある種の感覚的入力を含んでいるからである」(p. 221)という点では意義を認めているようです。しかし、「極端な会議にふさわしいのは、哲学的な出発点ではなく、それのみが心理に接近し得るとする独断的な方法に変じる場合の、その誤用なのだ」(p. 221)とも述べており、もっと控えめな態度で補助的な機能を文学研究の中で担うべきだと考えているようでした。

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Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第4章を読む(Niemeyer)

タイトル:Research on dictionary use: Methodological considerations

感想:Hartmann (1989) やHulstijn & Atkins (1998) に指摘されてきたように、辞書使用研究には、より洗練されたリサーチデザインが求められているようです。本章では、著者がより厳密な研究とはどのようなものであるのか、簡単に説明がされています。統計的な話や実験計画法の話も出てきました。特に統計の知識があまりない人にとってはとても丁寧に情報が整理されていますので、有用な章だと思いました。本章の内容は、特に辞書使用研究に限った話ではありませんので、もしこの辺りに詳しい人であれば、確認程度で済ましてもいいのかもしれません。本章では、実証主義的な考え方と、解釈学的な考え方が両方取り上げられており、かつそれぞれを目的に応じて使い分けることが大切だということが述べられていました。これはとても大切な指摘だと思います。

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R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第4章を読む②(勁草書房)

感想:ここでは、「マルクス主義的受容理論:東西間の論争」という副題がついています。この箇所では、主にドイツ連邦共和国側で提出されてきた受容理論に対して向けられたドイツ民主共和国側のマルクス主義文学理論の研究者の批判及びその批判へのヤウスとイーザーの反論がまとめられていました。東独側の研究者としては、主にローベルト・ヴァイマン、クラウス・トレーガー、マンフレート・ナウマンが取り上げられていました。彼らによると、西独の「受容理論への方向転換は、反歴史的なフォルマリスムと、マルクス主義に対抗するブルジョワ的な代用的方法の破綻を示す兆候であった」(p. 187)そうです。ヤウスは、特に受容と文学史(つまり歴史)との関係を論じたために、イーザーよりも多く批判されたそうです。著者によれば、ヤウスの理論は、「よりいっそう興味と脅威を感じさせる存在になった」(p. 188)そうです。

マルクス主義は、文学の生産という側面に重きを置いています。マルクスは、「すべての文化を、経済的な基礎によって決定づけられる上部構造のなかに位置させ」(p. 188)、文学は「社会的諸力による生産物であって、社会変化を遂行するものではない」(p. 188)と考えていたようです。ですが、受容に対してはそもそも曖昧な位置づけを与えてきたと著者は指摘しています。重要なのは、「マルクスが、過去の芸術的達成の流用ならびに影響作用に関する問題の正当性を認めている点」(p. 189)で、こういった対立しあう2つの姿勢は「その後のマルクス主義批評の両義性の根源となっている」(p. 189)と述べられていました。マルクス主義批評圏の中では、ジェダーノフにより提唱され、ルカーチによって洗練された「記述的」美学がある一方で、レーニンの言う「国民的遺産」という概念もあります。著者に言わせれば、「遺産の問題を論じることは、受容を指向する問題意識を暗に受け容れることを含んでいる」(p. 190)と言えるそうです。このことと関連してヨハーネス・R・ベッカーの「文学的社会」という概念が紹介されていました(しかし、僕にはこの概念がどのようにここで論じられている問題と関わるのかを理解することはできませんでした。。。)

先ほど、マルクス主義は受容と生産を実は両方認めている曖昧な姿勢をとっているというように述べましたが、マルクスに言わせれば受容と生産は弁証法的な関係にあるそうです。しかしながら、両者の関係は対等なものではなく、生産が「現実化の出発点」である以上、全体的な過程における支配的な要因になります。消費(受容)は生産活動の内的要因とみなされているそうです。ナウマンは、文学の生産を経済学的な考えにそのまま類推するのは危険と考え、芸術の生産(「物質的な製品、市場で売買される商品の生産者としての芸術家の活動を指す」(p. 194))と芸術的な生産(「芸術作品を創造するという芸術家の特殊な活動、生産過程のこの分野への非-物質的な寄与を指している」(p. 194))を分けて考えてはいるものの、この枠組みの中でも、受容は二次的な役割にとどまっているとのことです。

東独の研究者にとって、ヤウスの立場の最も重要な問題点は、歴史の主観化(「歴史を完全に個人の知覚に依存させてしまうこと」(p. 195))、「文学的現象を相対化する傾向」(p. 196)があること(過去の判断を排除したりすることができないこと)だそうです。また、「社会学的な基盤が欠落している点」(p. 197)(「個人主義的な読書観」(p. 198)にすぎず、文学的テクストにかかわっている限りは能動的でいられるのだが、歴史を作り上げるという行為に参加できない)、文学史を研究しようとしているのに社会的媒介を扱えないで居る点、なども問題点として指摘されていたようです。

一方、イーザーとヤウスは、マルクス主義の「反映」という概念に対して批判し返そうとしました。ただし、彼らは反映という考えそのものに対して批判しようとしたのではなく、東独の批評家の曖昧な姿勢(受容と反映を両方認めているという立場)の批判、反映があまりにも機械主義的なもの(「物質的現実を正確に「模倣する」こと」)と捉えられている点を指摘しました。しかし、これらの批判は著者に言わせればあまり当を得たものではないようで(特に、後者の点は言いすぎではないかと著者は考えています)、批判の論点だけを見れば、東独の研究者に軍配を挙げています。しかし、反映という概念は非常に強力なものだそうで、いくら批判しようとしても、結局この概念なしでは、文学を語ることは難しいようです(p. 202)。もう1つのイーザーとヤウスの東独の研究者への批判点としては、読者に賦与される自由に関わるものです。マルクス主義は、読者に規制ばかりを与え、「文学の純粋に解放的な役割を結果的に否定するような順応的な読書のモデルを広めようとしている」(p. 203)と考えたようです。しかし、イーザー自体、テクストを読みを条件付けるものとして考えているわけですから、この批判もあまり効果的なものではありません。

結論として、著者は「どのような型の受容理論にしても、ある種の歴史的前提に基礎をおくことなくしては機能することがないという点」(p. 205)を受容理論は認識する必要があると考えており、ヤウスもイーザーもこの点には本気で取り組まなかったようだと述べていました。

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2008年3月 5日 (水)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第3章を読む(Niemeyer)

タイトル:Needs and skills analysis of L2 dictionary users

感想:辞書というのはやはり読者があれこれ言えるものではなく、辞書編纂者にその構成の絶対的な権限が与えられてきました。そして、このことは長い間誰も疑いもしなかったことです。本章では、まずネイティヴが使う一般的な目的用の辞書の用途を調べた研究の結果が紹介してありました。この問題に関する一連の研究は特に目新しいことは発見していませんし、出版社自身も辞書の変革にそれほど躍起になっているわけではなさそうです。ネイティヴは、主に意味やつづりを調べたり、ワードゲームをするために辞書を用いるようで、ライティングなどをする場合によく使うという報告がなされていました。また、同じネイティヴでも、アメリカとイギリスでは随分と辞書使用の様子が異なっているそうです(p. 42)。さらに、辞書の使用方法を知らないという人が多く、研究結果に絶対的な信頼を置くことは難しいという点も指摘されていました。また、辞書で不満に思うのは、定義が不十分であったり、語の登録が少ないことなどだそうです。

次は英語学習者の辞書使用のニーズ分析に関する研究結果がまとめられていました。ネイティヴの場合と違って、学習者の辞書使用を調べる際は、辞書の種類(モノリンガルかバイリンガルか)や言語活動の種類の違いがとても重要になってきます。一般に学習者はバイリンガル辞書を好むようで(ただし上級学習者になるほどモノリンガル辞書に意義を見出す傾向があるようです)、リーディングなどの活動(ライティングよりも)でよく使われるそうです。また、意味を調べるために辞書を引くことがたいていの場合だそうです(ただし、熟達度が変われば辞書で活用する情報に違いが出てくるそうです)。また、あまり語源に関する情報や辞書の記号の説明といったことは活用しないようです。また、辞書で不満に思う点に関しては、かなり色々な点があるようですが、概してこれまでの研究はあまりにも悲観的に過ぎる結果を報告していると著者は述べています。

次は、skills analysis(実際に辞書使用者の字引の様子を分析すること)に関する研究についてです。これまでに、様々な辞書使用活動のskill analysisがなされてきたようですが、特に、multi-word units(熟語や複合語)の意味をどうやって調べているかを分析したものが数が多いようです(しかし、そもそもskill analysisはneeds analysisに比べるとまだ数は少ないそうです)。

最後に、著者はこれまでのneeds analysisやskills analysisは十分な研究の枠組みではないとして、新たな枠組みを提案しています。この枠組みについて、著者は"The systematic approach toward target situation and present situation analyses, together with strategy and means analyses will shed more light on the true needs of dictionary users.  It should be also noted that needs analysis should integrate skills analysis as an indispensable component for the identification of deficiency. "(pp. 57-58)と述べています。まず、目標言語使用領域を明確にし、その上で辞書使用に関わる様々な要因(学習者内の要因やコンテクスト)を考慮に入れた上で、ニーズと技能を両方調査することが、これからの辞書使用研究に求められているようです。

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R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第4章を読む①(勁草書房)

タイトル:代案的なモデルと論争

感想:本章では、ヤウスとイーザーの枠組みに代わるような研究を見ていきます。最初に扱われているのは、コミュニケイション・モデルに基づいたものです。そもそも、アペル、ルーマン、ハーバーマスらが、社会そのものがコミュニケーションであるということを示してきました。そんな中、ヤウスとイーザーも文学はコミュニケーションの一貫であり、最終的には文学理論はコミュニケーション理論の一領野になるだろうと考えていたそうです。

次に様々な研究者が紹介されていきます。まずは、ハンス・ウルリヒ・グンプレヒト。彼はヤウスの弟子だそうです。彼はパラダイム変換さえもコミュニケーションの観点から考えられるとしていたそうです。グンプレヒトは、できる限り正確に作者の意図を再構築することを重要と考えており、その際に記述的な方法(発見的にとらえられたテクストの1つの意味にもとづいて機能させる方法)を用いています。そして、歴史的・社会的構造の次元を扱おうとしています。

次は、カールハインツ・シュティアレです。彼もヤウスの弟子なんだそうです。彼は、グンプレヒトと違って、イーザーのように、コミュニケーション過程の形式面の検討に重きを置いているそうです。彼は虚構テクストの擬似-指示性(「指示的な形式を装った自己言及性」(p. 174))に注目し、これを解明することにかかわる高次の受容形態を扱わなければならないとしています。ここで言う高次の受容形態とは、「最初に幻影を生み出し、次に構成そのものを主題化する」(p. 175)に面的な読書過程です(ちなみに、イーザーは幻影を生み出すということこそが擬似-プラグマティックな読みだと考えました)。これは、一般読者の読み(前半)と文学研究者の分析(後半)を組み合わせたものと考えることができます。さらに、シュティアレは、発語行為論と記号論を援用することで、「作者と読者のあいだを媒介する客観的な構造を探求する途を選」(p. 176)びました。文学研究は行為の研究であり、彼にとっては行為の科学の1ヴァリアントだったのでした。これにより、彼は演劇の研究、範例と物語/歴史の関係の考察、虚構テクストにおける否定の用法の研究など、興味深いものを多数残しています。しかし、彼が目指したような体系的な研究になることはなかったと著者は述べています。

また、コンスタンツ学派以外の研究者として、ロルフ・グリミンガーが取り上げられています。彼は「ふたつの主体間でメッセージを媒介するものとしての、発話の生起」(p. 179)を関心の的としています。文学的コミュニケーションにおいては、「この発話の生起が、直接的な相互作用の裂開を明示するようなテクストの形式を取る」(p. 179)としています。そして、「作者としてであれ読者としてであれ、関与者は、社会的行為とは縁が薄く、それどころかそれに対立しさえする、精神的・独白的な過程に携わる」(p. 180)ことになるのだそうです。この考えの中では、コミュニケーションの断絶と、それに伴う作者と読者の孤独が漂っていますね(特に、作者にとってテクストは自分のものではなく、強いて言えば、自分の考えを伝える協力者に過ぎないとも述べられていました)。

最後は、ギュンター・ヴァルトマンです。彼は、サルトルの実存主義、フッサールの現象学、ソシュールやモリスの記号論を援用する傍ら、特に、ルーマンとハーバーマスの議論にかなり強く影響されています。この枠組みでは、コミュニケーションとは意味の具現化を指すのですが、彼はより具体的なものにしなければならないとして、コミュニケーションの過程におけるイデオロギー的な側面を含めようとします。そして、文学的テクストの分析では、イデオロギーが転倒される過程を研究しようとしています。このことを行なうために、彼はS. J. Schmidtのテクスト理論(「社会的・コミュニケイション的行為へ移行させる普遍的な形式として、テクストを定義している」(p. 182))に基づきながら、「テクストを通じたコミュニケイションの体系」(p. 182)の考察を行なおうとします。ヴァルトマンのコミュニケーションモデルは、4つの段階からなります(p. 184にその図式が載せてありました)。第1段階はプラグマティックなコミュニケーション(実際の人)、第2段階は文学的コミュニケーション(実際の作者と読者)、第3段階はテクスト内在的コミュニケーション(テクストに内在する作者と読者)、第4段階は虚構コミュニケーション(登場人物)、です。最初の2段階はテクスト外のコミュニケーションであり、最後の2段階はテクスト内のコミュニケーションです。このモデルはとても面白いものであると著者は評価する一方で、人工的で違和感を抱かしてしまうものでもあると述べています。このように批判的な見解を述べるのは、「必ずしも、われわれがテクストを通じたコミュニケイション-あるいはイデオロギーとしての文学-についてより多くのことを学びとれるという保証をあたえてくれるものではない」(p. 185)ためです。実際、「このように理論が実践に適合しない点は、野心的な文学のコミュニケイション理論家たちが直面する主要な難点を指し示している」(p. 185)そうです。

しかし、コミュニケーション・モデルの理論を総括して、著者は次のように述べます。「コミュニケイション理論は、既成の学問研究の害悪に対する特効薬たることをいまだ立証してはいない。しかしながら、それは、テクストの生産と記述の研究を文学史の掃きだめに捨て去る傾向のあるドイツの受容理論家たちに、受容とはより複合的・包括的な過程の一側面にすぎないことを思い出させる契機となったのだ。」(p. 186

それにしても、ヴァルトマンのモデルは、Leech & Short (1981) のモデルとよく似ていますね。ひょっとしたら、Leech & Short (1981) は、このヴァルトマンのモデルに基づいているんでしょうか。今度確認してみたいと思います。

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2008年3月 4日 (火)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第2章を読む(Niemeyer)

タイトル:Research on dictionary use in language learning

感想:この章では、辞書使用と語彙学習の関係、辞書使用と読解の関係、辞書使用とライティングの関係、に関する先行研究のレビューがなされています。先行研究の要点を一覧表にして提示してあるので、とても理解しやすいです。語彙学習との関係の箇所では、アメリカ式の研究とヨーロッパ式の研究の違いも指摘してありました(アメリカ:辞書の定義vs.文脈からの推測という図式、実験的であること、辞書の定義にしか注目をしない、大学用の辞書かポケット辞書のみを扱う、ヨーロッパ式:定義以外に様々な情報が納められている教育用辞書を扱う)。一般には、語彙学習における辞書使用の有効性が様々な研究で報告されてきているようです。読解に関しても、報告は辞書使用にとっては良好なようです(ただし、調査方法の違いから一見矛盾するような結果が出ることがあるので、注意が必要と著者は呼びかけています)。また、辞書使用は読解プロセスを妨げるという主張がされることがありますが(Hosenfeld (1977) など)、字引の回数は熟達度や辞書の種類によっても変わりますし、文脈からの推測と辞書使用は相反するものではありませんので、注意が必要です。最後に、ライティングについてですが、辞書使用が原因となって学習者が誤りを犯すという結果がかなり多く報告されているようです(英語教師や辞書編纂者としては残念な結果だと思います)。また、辞書のextra column(用法など所定の語に関する様々な情報が述べてある欄)はあまり活用されていないという結果もほうこくされていました。ライティングにおける辞書使用の研究はまだ数が少ないようですが、本書が出版された辞典ではこのような結果が報告されていたようです。

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R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第3章を読む②(勁草書房)

感想:次はコンスタンツ学派を代表するもう1人の研究者、ヴォルフガング=イーザーです。ヤウス同様に、テクストと読者の間の関係に関心を向けることで文学理論を再構築しようとしました。しかし、ヤウスとの違いもあります。それらは、(1)出発点の違い(ヤウス:文学理論全体への関心、イーザー:新批評による解釈の方向付けと説話理論への反論)、(2)依拠する理論の違い(ヤウス:ガーダマーの解釈学、イーザー:インガルデンらの現象学)、(3)研究対象の違い(ヤウス:広範な歴史的・社会的問題といった受容という行為そのもの、イーザー:個々のテクストと読者の関係そのもの、つまり反応(ただし、イーザーが社会的・歴史的要因を除外しているというわけではない))、(4)理論の首尾一貫性(ヤウス:初期の理論を後に放棄、イーザー:初期の理論を推敲・拡張し続けた)といったことです。

イーザーが興味の対象としていたのは、「テクストが読者に対して意味を有するのはいかにして、いかなる状況のものでなのかという問題」(p. 130)です。イーザーは、意味をテクストと読者の相互作用の帰結として「経験される効果」として考えようとしています(p. 131)。イーザーの関心の中心は、対象としてのテクストではなく、過程としての読書となりました(この点に関して、イーザーはインガルデンの文学的芸術作品の概念を基盤にしているようです)。

また、イーザーにとって文学作品とは完全にテクストであるわけでも、完全に読者の主観性に還元できるものでもありません。むしろ、両者の集合体と考えています。そして、探求すべき三つの領域を示しています。それらは、(1)「読者によって具現化ないしは実体化されるべき「図式化された見解」の枠組みとして」(p. 131)のテクスト(「意味の生産を可能にし操作する潜在的な状態にあるテクスト」(p. 131))、(2)読書によるテクストの加工(特に美的対象を構成しようとする際に形作られる心的イメージ)、(3)文学の伝達的な構造(これによりテクストと読者の相互作用を可能にし、同時に支配する諸条件を検討しようとしている)、です。これら3つの領域の検討により、「いかにして意味が生産されるかばかりでなく、文学がその読者にどのような効果を及ぼすかを明確化しようとしている」(p. 131)と著者は述べています。

イーザーは、テクストと読者の相互作用を叙述するために、他の研究者から様々な概念を借用しています。その1つが「内包的な読者」というもので、ウェイン・ブースから借用したようだと著者は述べています。しかし、この概念は実際の読者というわけではなく(というよりは、「超越論的なモデル」です)、むしろ「テクスト構造」という意味で使われており、厳密性に欠けるものであると著者は指摘しています(この概念が持っている二重性ゆえにイーザーはテクストと読者の間を行き来できるということはできますが、やはりこの概念には問題があると著者は考えています)。

イーザーは、文学(イーザーは文学を小説と同一視しています)を「「現実についてなにかをわれわれに伝達する」手立て」(p. 134)と考えています(現実の対立物とみなすようなものではないとしています)。そして、発語行為論の発語内の力との類推で議論を進めています。両者とも、聞き手(読み手)にある種の行動を促す潜在性を備えているという点にイーザーは着目したようです。しかし、慣習の扱い方については違いがみられるようで、発語行為では慣習が準拠枠となってコミュニケーションを成立させるのに対し、虚構テクストでは慣習が疑問に付されることで読者に現実についての何かを伝達することになります。イーザーは慣習をテクストのレペルトワール(「テクストと読者が親密なコミュニケーションを行なう「なじみ深い領野」」(p. 135))とみなしています。「文学テクストは、文学的伝統と、並びに社会的・文化的規範を再組織化し、現実世界におけるその機能に読者が評価しなおす機会を与える」(p. 135)とイーザーは考えていました。そして、テクストとは、「それが選び取りレペルトワールのなかに組み入れている思考体系への反作用」(p. 135)とみなされなければならないと考えていました。しかし、こういった彼の一連の議論にはいくつかの問題点がありました。それらは、(1)ヤウスの初期の受容美学に接近し、期待の地平といった概念を援用することで、否定性の美学の犠牲になっている点(中世の肯定的な文学を扱うことができない点)、(2)「現代の読者が過去の作品に興味を覚えるのはなぜか、彼らはそこからなにを抽き出すのか」(pp. 136-137)を扱えない点(彼の言う、レペルトワールやテクストは作品と同時代の読者を中心とした概念です)、です。

また、レペルトワールという概念は、従来「内容」とされてきた要素が多く含まれており、その表出を組織化するための構造が必要とされます。イーザーはその構造を「戦略」と呼んでいます。これはテクスト全体の構成といったものと考えてはいけません。これは、テクストと読者両方に関わっていて、「テクストの内在的構造と、それによって読者のうちで触発される了解行為」(p. 137)と考える必要があります。言い換えると、「表面的な技巧の根底にあって、それらが有効に働くことを可能ならしめる構造」(p. 138)となります。戦略の主な機能は、既知のものを異化することです。そして、この「戦略」という概念を念頭に置きながら、前景vs.背景、主題vs.地平(アルフレート・シュッツの現象学の理論から借用している)という対立およびそれらのアウフヘーベンを描いていくことになります。特に後者の対立に関しては、両者の配列の上にパースペクティヴ配置の類型論が可能ではないかと考えていたようです(実際に、イーザーは実践しています)

また、「レペルトワール」と「戦略」という概念を補うために、イーザーは「読書の現象学」というものを展開しています。本書で紹介されていたのは、主に「視点の移動」、「イメージを作り出す読者の働き」、「主体に及ぼす効果」、という点についてのものでした。「視点の移動」は、時間性をめぐるフッサールの議論から借用されたもので、読者がテクストを読む際に絶えず期待を変形し(「修正された期待」)、既に発生した事柄に対して賦与した異義を解釈し直す(「変形された記憶」)という様子を記述する手立てを指しています。また、こういった読書過程の背後には「一貫性希求型」という前提が読者にあるとされ、なるべくテクストを一貫したものとして解釈しようという傾向があると考えられています(一貫性を拒否するような現代小説であっても、読者が一貫性希求型という前提があればこそ、最終的に一貫性を拒否するという結論へいたることができると考えられています)。また、「イメージを作り出す読者の働き」という観点については、読者は常に「受動的綜合」という過程を通じてイメージを構築していると考えられています。イーザーは読書は「知覚」(対象が現前する場合の概念化を指す)ではなく、「表象行為」(対象の欠如や非在の場合の概念化)であると主張します。読者は「テクストの「図式化された見解」によって示唆された世界との連関でふつう考えられる「対象」を現前化あるいは表象化しなければならない」(p. 141)とされています。イメージは、修正を繰り返すこととなり、正確なものは決して有り得ないとイーザーは考えています。最後の「主体に及ぼす効果」については、プーレの「意識の実体論説」(主体―客体の区別に依拠する)とは対照的に、主体の分岐を主張します。テクストは他者の意識と同一視され、読書は他者を同化することと考えられているためです。しかし、同時に、今まで気づかなかった自分の意識の一部の発見とも考えられるため、「読書の過程で展開してゆく自意識の昂進」(p. 142)とも考えることができると、著者もイーザー自身も考えています。

また、イーザーは文学テクストのコミュニケーションの状況を素描する上で、「テクストと読者の不均衡」というものを定義しようとしています。具体的には、「読者は彼/彼女の理解が正しいか否かを判断することができない」(p. 143)ことと、「テクストと読者のあいだには意志を疎通させ得る規制的なコンテクストが存在しない」(p. 143)(コンテクストは読者がテクストの痕跡から自分で作り上げなければならない)を挙げています。文学のコミュニケーションも、通常のコミュニケーション同様に、「相互作用的な交換を通して調整あるいは再調整される不均衡のモデル」に基づいて考えることができるのですが、独特の性格を帯びているとイーザーは考えます。その1つが「空所」です。これは、テクストがいかなる形で読者を制御しているかを説明するための概念の1つです。この概念は、インガルデンの「不確定箇所」同様に、「図式化された見解のはざまにある「不確定性という中間領域」として定義されてい」(p. 144)たのですが、その意味は明確にはされていません(しかし、著者は不確定性というものを明確化した時点で、不確定性の説明ではなくなると考えたため、わざと明確化を避けたのではないかと著者は考えているようですが)。しかし、イーザーは主に、空所に統合軸と連合軸に関わるものを挙げています。前者は、「テクスト内で保留されている結合可能性」を指すもの(これに対し、「移動できる視点の参照の場のうちにある非-主題的なセグメント」(p. 146)は「空白」と呼ばれる)で、後者は前者の空所の補充によってそれまで容認されていた規範が時代遅れであったり効果を持たないもののように思われること(別名、「否定」)、です。後者の空所は、イーザーの文学的評価の理論と文学史の考えに大きく関わっており、否定が読者の期待を超えないようなものは「軽い読み物」と見なされています。イーザーにとって、「否定の質は、文学的価値を決定する要因」(p. 147)となります。イーザーはこの否定を「第一の否定」と考え、更に「第二の否定」というものを議論しています。これは、「読書の過程で構築されるすべてのイメージを全面的に無効にする」(p. 147)否定のことです。第一の否定は18世紀の小説に多く見られ、第二の否定は20世紀の小説に多く見られるそうです。空所は「「定式化されたテクスト」の「定式化されていない片割れ」」(p. 147)と考えられ、これを「否定性」と呼んでいます。このように呼ばれている理由は、空所とは、形式的には定義されることも確定されることもなく、内容的にはテキストの描き出す裏側に注意するように読者に呼びかけ、受容的には一時的に自らの生から離脱できるもの、であるためです。

しかし、イーザーの否定性は、他の研究者と違って、とても教育的な扱いがされています。虚構テクストは、既知の規範の有効性を疑問視するものであり、読者はリベラルになることが求められています(イデオロギー的な偏見から自由になろうと努め、空所に立って読むことを求める)。同時に、彼の立場は慣習的な側面(文学の啓蒙主義的な側面)を扱うこともでき、適切に読めば、それがモダニズムであろうと、伝統的な立場であろうと、それ相応の結論へ至ることができるということを認めています。

ただ、いくらリベラルな読者を目指したと言っても、イーザーもあらゆる先入主から自由であったということはありません。彼には、現象学という先入主があり、それが不当に用いられている箇所も散見されると著者は述べています(例えば、規範を疑問詞させることを文学の重要な資質としたり(大衆文学を扱えない)、読者は生産的でなければならないこと、文学は能動的に読者と関係を持たなければならないという考えなど)。さらに、自らのよりどころとしているカントやフッサール同様に、「カテゴリーそのものを歴史的媒介の生産物としてとらえることができない」(p. 155)という問題もあります。また、無意識のうちに、新批評に接近してしまっているという点も、彼が現象学を採用した結果の1つです。かれはフォルマリスムにならないようにしているのですが、作品内の機能のみに注目しており、「内包された読者」も内在的な構成概念に過ぎません。結果、「こうしてわれわれに与えられることになるのは、不確定性という観点から行なわれるテクスト分析、もしくは、理想的な読者が作家やテクストのさまざまな戦略にいかなる影響を受け、それをどのように読み、またどのように分析するかについての推測」(pp. 155-156)となります。「読者がいかなる反応を示すか観照すること、「空所」を充填することは、いうならば、テクストを解釈する以上のことをほとんど含意していないのである」(p. 156)とはなかなか手厳しい意見です。しかし、このことが原因で、イーザーはヤウスよりも英米で受け容れられたと著者は述べます。また、イーザーは様々な学問分野から多量の専門用語を導入しています(これにより新批評的な色合いはある程度覆い隠すことは成功しているそうです)。しかし、これらの用語はイーザーの体系に必ずしも適合しているとは言えないし、現象学的な企図とも対立してしまっています。さらに、ある組の用語と別の組の用語がどのように関係しているのかも明白ではなくなっています。結果、イーザーの理論は必要以上に困難なものとなってしまいました。

最後に、イーザーの議論の具体的な問題点が考察されています。「イーザーは、テクストが可能性を限定しながらもいくつかの異なった意味を生じさせ得ることを前提とすることにより」(p. 158)客観主義と主観主義の中間に立とうとし、「テクストの意味は、テクストの指示に導かれて読者によってかたちづくられるものと見なされ」(p. 158)ます(つまり、読者に自由を与えています)。しかし、そもそも、イーザーはその言葉とは裏腹に「読者の自由を保留しているように見える」(p. 158)と著者は述べます。また、フィッシュの反論として「不確定性および確定性というのは妥当を欠くカテゴリーといえよう」(p. 159)という点を述べています。「不確定性なるものは存在しない。なぜなら、了解可能性のシステムに組み込まれている可能性による高速を受けないために、読者が自らを諸前提の外におくことなど、とうていできはしないからである。同じように、確定性もまた有意義な呼称とはいえない。意味の創造なるものはことごとく、慣習の内側で活動する読者の「主観性」に依存しているのだから。」(pp. 159-160)イーザー(彼はフィッシュの批判に答えることを通して、それまでの誤解を払拭したという点でも、イーザーvs.フィッシュの議論は重要です)は、こういったフィッシュの批判に対しては同意を示しているということなのですが、それでも両者の間に大きな違いがあると著者は述べます。それは、「両者とも、すべての知覚が媒介を経由したものであるという点では意見の一致を見ているのだが、イーザーは、ある次元で「なにか」によって行なわれている統御に固執する」(p. 161)という点です。これに対して、フィッシュが言おうとしていることは、「それらの「与件」が、われわれによって「与件」としての意味を賦与されない限りは、無意味である-「与件」として「指摘する」ことさえできない-ということ」(pp. 161-162)です(フィッシュのこの反論に答える際に、イーザーは「所与の」という言葉を使っているのですが、この言葉にも2つの用法が見られ混乱を招いています(「存在を示すもの」と「存在する事物が間主観的に認識可能であること」という意味))。フィッシュのこういったメタ批評的姿勢は、同じ点が自分の理論に向けら得たとき、自分自身の理論も崩れてしまうほど、重たいものであると著者は述べます。他のイーザーの問題点としては、(1)視覚的イメージ(演劇や映画など)は表象行為の必要性を取り除くものであり、われわれを受け身の消費者の立場におくものだと述べている点、(2)読者の自由が許されているのは(つまり不確定的な要素)、末梢的で本質とかかわりのない細部のみである点、などが挙げられています。

しかし、こういった問題点があるからといって、イーザーの重要性を否定してはなりません。その意義としては、(1)「もっとも基本的なわれわれと文学との出会い、すなわち読書過程をめぐる複合的な諸要素を闡明する助けとなる」(p. 165)、(2)文学とはなにに関するものなのか理解しなければならないとすれば、われわれは、自らとテクストとのかかわりの分析を看過してすますわけにやゆかないという認識を新たにさせた点」(p. 165)、(3)「テクストが読まれるべきものとして構築されてあるということ、テクストはそれ自体の読みの可能性の条件を指示するということ、そして、それらの条件は教義的な構造よりはむしろ構成概念を可能にするものであるということ」(p. 165)、(4)今日のドイツの批評家の誰にもまして、重要なヨーロッパの理論家たちを英語圏に紹介したという」(p. 165)こと、が挙げてありました。

ポイントが押さえられた説明がなされていたので、イーザーの理解が進んだと思います。勉強になりました。

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2008年3月 3日 (月)

Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』第1章を読む(Niemeyer)

タイトル:User-oriented dictionary research: A brief history

感想:本章では、辞書使用研究の大まかな歴史が記述されていました。まず、lexicographyは、大きく2つに分かれるそうで、lexicographic practice(これが従来のものであり、辞書編纂についての分野)とlexicographic theory(辞書に関する様々な研究を行なう分野)、があるそうです。そして、辞書使用研究は、主にlexicographic theoryの分野の1つの研究テーマとなります(事実、WiegendやHartmann & Jamesといった研究が辞書使用研究をこのように位置づけています)。

また、辞書というのは権威のあるものと考えられてきたため、つい最近まで実証的な証拠を活用して辞書を作るというようなことは考えられてこなかったそうです。むしろ、lexicographerの直感などによっていたようですね。しかし、彼らは辞書についてあまりに精通しているため、辞書使用者の視点をはずしている可能性があると著者は指摘しています(実際、辞書使用者に関する情報は辞書を作る上ではとても重要であることは言うまでもないでしょう)。そんな中、Hartmannが、1983年に初めて体系的な方法による実証的な辞書使用研究の必要性を説いたと著者が述べています。この研究は、Wiegandの1977年の辞書使用の社会学的な側面を考慮しているだけでなく、辞書使用技能や字引という実際のパフォーマンスをも考慮に入れるために、その枠組みを発展させているという点で非常に重要だと著者は述べます。

また、Cowieの1983年の研究についても触れられていました。この研究は、(1) the user's linguistic difficulties、(2) the user's reference needs、(3) the user's reference skills(専門家と辞書使用者の間にあるギャップを埋めること)という3つの側面が辞書(彼の場合は特にEFLの辞書)には重要だということを述べ、使用者志向型の辞書使用研究の重要性を更に高めたと考えられています。

しかし、こういった辞書使用研究は1980年代後半になってやっと始まったようで、まだまだ歴史は浅いです。しかし、最近では様々な研究法を用いる中で研究が積み重ねられてきているということでした。

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Y.Tono(2001).『Research on Dictionary Use in the Context of Foreign Language Learning: Focus on Reading Comprehension』序章を読む(Niemeyer)

本書の詳しい情報は次の通り。

Tono, Y. (2001). Research on dictionary use in the context of foreign language learning: Focus on reading comprehension. Tubingen: Niemeyer.

感想:ここ20年、語彙学習や辞書使用への関心が高まってきたのには大きく3つの理由があるそうです。それらは、(1)言語学が言語の中で語彙を重視し始めたこと、(2)第2言語教育や第2言語学習も、言語学のこのシフトに伴って語彙を重視し始めたこと、(3)言語教育という枠内の中で、辞書のイメージを変えるようなlexicographyが急激に発達したこと、だそうです。著者は、この傾向をまとめて、"A growing interest in pedagogical lexicography and the role of such dictionaries in language learning, together with the realisation that lexical knowledge is now known to be an absolutely crucial factor across the whole spectrum of second language activities, has in recent times resulted in a number of pub lications reporting empirical studies of dictionary use" (p. 2)と述べています。

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