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2008年1月17日 (木)

山田雄一郎(2005).『英語教育はなぜ間違うのか』を読む(筑摩書房)

本書の詳しい情報は次の通り。

山田雄一郎(2005).『英語教育はなぜ間違うのか』.筑摩書房.

感想:この本は、僕の近辺ではかなり反響を呼んだ本で、ずっと読んでいなかったのですが、今回拝読させてもらいました。序章は、「ことばは武器か」というタイトルです。まずグローバル・リテラシーという概念が導入され、この概念が英語と結び付けられてきたということが指摘されます。

第1章は、「「国際化」=「英語化」?」というタイトルです。internationalizationという言葉が「何かを多国間の共通の土台に上げること」という意味しかないのに、日本では国際化という言葉が意味が曖昧なまま一人歩きしているという状況を指摘します。その中で国際人という言葉も考案されてきました。しかし、この語は「教養」と「語学力」を身につけているというニュアンスがあり、英語のcosmopolitanとは意味が違っています。日本は、国際化、国際理解、国際人など、何かにつけて物事を英語と結びつけて考える滑稽な傾向があるということが指摘されていました。また、特に国際理解に関しては、本来は学習の結果としてなされるものであるはずなのに、無理やりに教材化し(国際理解を特定の習慣の単なる束にしてしまうこと)、しかもそれを英語と結び付けている点は非常におかしいと著者は指摘しています(著者は国際理解という授業はあまり意味がないと考えています)。国際化はものの見方や認識の問題だと著者は考えています。

第2章は「バイリンガルになりたい!」というタイトルです。著者はCumins and Swain (1986)の共通基底能力モデル(Common Underlying Proficiency)を下にして、バイリンガルの言語能力をモデル化します。そこで述べられていたのは、人のパフォーマンス(表層)は目に見えない様々な言語知識(深層)に支えられていること、表層と深層が合わさったものが言語能力であるということ、でした。著者は表層の部分だけに的を絞った英語教育ではいけないと考えています。人は言語を直接経験と間接経験を通して獲得し、言語知識には世界認識が広がっています(著者は特に間接経験を重要なものと考えています)。そして、外国語学習の最も大事なことは、他言語に触れることで、その言語の特徴の背後にある世界観の違いに気づかせることだと著者は述べます(p. 83)。そして、バイリンガルは両方の文化の違いを共通基底能力内に内蔵し、共通基底能力自体を変容させていくと著者は考えています。

第3章は「英語公用語論と日本人」です。英語公用語論は、かつて世間を席捲しましたが、この論には決定的な問題がいくつかあったと著者は述べています。その一つが、英語が日本国内で果たす役割について明確化されなかったことだと述べています。著者は、様々な国の事情と比較しながらに本の英語公用語論がかなりつめが甘かったものであることを論証していきます。

第4章は「小学校に英語を!」です。ここではヨーロッパ言語年(European Year of Languages)の話も出てきて(p. 128)、とても興味深い議論が展開されていました。他の国の他言語政策は必然性があるもので、常に近隣の言語を対象としていますが、日本の多言語主義はアジア近隣の言語のことはほとんど考慮せず、西欧の言語のみを対象にしているという点(p. 136)を著者は問題視しています。また、小学校の英語教育を実施するのであれば、中学校の英語の前倒しでなければならず、国際理解教育などというようなものであってはならない、つまり授業の目的が英語の力をつけることでなければならない、と考えています(国際理解は授業の結果として付いてくるものです)(p. 147)。ここでは、著者の考える小学校英語教育の在り方について議論されており、著者自身の考えも提示されており興味深いです。

第5章は、「熱烈歓迎!ネイティブ・スピーカー」です。JETプログラムの話を中心としながら、日本人の「ネイティブ・スピーカー」(とりわけ白人)信仰の滑稽さと、ETプログラム自体の募集条件自体の問題から起因する学校英語教育の問題が議論されていました。また、ネイティブ信仰が形成されるに至った経緯を教授法史の観点から議論されていたのがとても面白く、勉強になりました(古代からCLTの時代まで)。19世紀に文法訳読式教授法の登場により、ネイティブ・スピーカーは立場は低迷するのですが、19世紀末のナチュラル・メソッドや直接教授法(具体的にはベルリッツ式やトゥッセン・ランゲンシャイト式)によって息を吹き返します(これらの影響は現在は英会話学校に引き継がれています)。しかし、集団教育には不向きであり、その時点でネイティブ・スピーカー信仰が始まったわけではありませんでした。結局、ASTP(これは少人数制ではあるがネイティブ・スピーカーを組織的に利用した)とオーディオ・リンガル法によってネイティブの役割が明確化し(インフォーマントとしての役割(ASTP)、ネイティブ・スピーカーが話す言葉をその言語と規定する(オーディオ・リンガル法))、神話が出来上がります。チョムスキーによって言語観は変化しますが、ネイティブ・スピーカーの立場自体が低迷することはなく、今日に至っています。著者は最後に、ネイティブ・スピーカーの活用法を二点挙げています。それは、(1)すべての英語教師がネイティブ・スピーカーの利用法に関する訓練をうけること、(2)英語教師を他の国の英語教師と交換し、お互いに違う国で英語教育に従事する制度を作ること、です。

第6章は、「英語は教えられるのか」です。ここでは、英語は結局、学習者自体が獲得しなければならないものであり、教師や学校はその手助けをすることができるだけだという立場を明確化しています。また、日本は英語を必要としない社会であり、英語を生活の言語とするかどうかは個人の問題であるはずなのに、なぜか社会の問題(あるいは英語を生活の言語にしようとすること)にしてきたと指摘されています(p. 218)。最後に、著者は言語の様々な側面についてのオススメの学習法を紹介していました。著者の学習法のキーワードとしては、暗記をしないこと、短期集中を目指すこと、負荷をかけすぎないこと、が挙げられており、これらの大きな原則をもとに、発音、語彙、文法、リスニング、スピーキング、リーディング、ライティングの学習法について述べられていました。

本書は、日本の英語教育を少し距離を置いて見てみたときに見えてくる、滑稽な社会的な状況が明るみに出されており、とても面白かったです。これまで、英語教育をあまり社会的な視野から考えたことがなかったので、とても勉強になりました。

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