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2008年1月 7日 (月)

下條信輔(1999).『<意識>とは何だろうか:脳の来歴、知覚の錯誤』第3章を読む(筑摩書房)

タイトル:心とからだと他者―連動する脳と世界

感想:この章で再三主張されていたことは、脳(または脳の所定の部分)は、他の部位、身体、環境世界との関係の中に埋め込まれ、しかるべき来歴を経ることで所定の機能を発揮するようになるということでした。また、人間を主体的な存在へとしている脳を神経科学的に調べていくと、脳が受動的なものという結論になってしまうというパラドックスについても原級がありました。

認知科学は、機能主義、コネクショニスト、エマージェンティストという形で発達してきているようですが(p. 156)、本書は身体や環境世界が知性の創発を可能にするという最後の立場(エマーヘンティスト)に立っているそうです。この立場では、結局外部と内部の明確な境界線はなくなり、人間は外部装置に記憶をとどめることになります。また、自分の心や意識も、自己の内側に存在しているものではなく、他者の存在を含めた環境世界との相互作用を通して生まれてくるものとなります(p. 168)。

最後に、著者は「意識とは何か」という問いに対して、次のように述べていました。

「他者の心は「実在」するから学ばれるのではなくて、あるものとして学ばれるから結果として「実在」するのです。同じように、自分の心もまた、「あるもの」として学ばれることによって、「意識される」ようになるのではないでしょうか。」(p. 175)

やはり、意識というものを考える際は、他者の存在が大きく関わっているようですね。著者は「他人の心」というものは人間にとって究極の錯誤かもしれないと述べています(p. 175)。

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