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2007年12月25日 (火)

下條信輔(1999).『<意識>とは何だろうか:脳の来歴、知覚の錯誤』第2章を読む(筑摩書房)

タイトル:脳の「来歴」―錯誤から浮き彫りにされるもの

感想:ミクロな視点になればなるほど、正常と錯誤の境界線はないということが明らかにされていきます。また、ここでは脳の来歴(生得説と経験説を超えたダイナミックな考え方で、神経学的基盤が記憶を可能にし、またその記憶が神経的基盤を作っていくという考え)という考えが紹介され、記憶は環境を脳化することであるということが指摘されていました。記憶はある一部分に局在的に存在しているのではないわけです。結局、脳と環境は相互依存という関係にあるということになります。そして、環境の激変によって脳の来歴との間にズレが生じるときに、錯誤という現象が起るということが結論として挙げてありました。

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下條信輔(1999).『<意識>とは何だろうか:脳の来歴、知覚の錯誤』第1章を読む(筑摩書房)

本書の詳細な情報は次の通り。

下條信輔(1999).『<意識>とは何だろうか:脳の来歴、知覚の錯誤』.筑摩書房.

タイトル:錯誤とは何か

感想:本章では、イリュージョンであるとか、錯誤という現象について様々な事例を挙げながら考察していきます。そして、「知覚・認知の錯誤は、ヒトの生理・心理過程の異常であるよりは、むしろ正常な機能の反映である。したがってまた、錯誤は、正常な精神機能と特殊な環境状況との相互作用の結果と捉えるべきである」(p. 62)という言葉に尽きると思います。結局、正解と錯誤は明確な線引きができず、両者とも同じ過程の結果とみなすことができます。そして、ある事柄が錯誤になるかどうかはその時の環境との関係によるということになります。また、錯誤は人間の環境適応能力の反映であるということも述べてありました。特に最後の点は面白いものの見方だと思いました。

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R.C.ホルブ(1984/1986).『「空白」を読む 受容理論の現在』第2章を読む④(勁草書房)

感想:次はガーダマーについてです。彼は科学的・理論的な方法論に限定された地平に対して批判を試みます。この科学的考えの覇権はデカルト以降特に顕著になったものですが、彼は古代ギリシアに回帰する必要があるとします。世界ー内ー存在としてのわれわれを中心に据えて議論がなされなければならず、歴史性というものが理解を可能たらしめる要因として考えられる必要があります(ガーダマーはハイデガーの議論にかなり影響を受けています。ちなみに、フッサールは超越性や無時間的主体などを議論の中心に据えたため、ガーダマーからは批判されます。)。そして、解釈は先入主と予断(これらは歴史的事実に属しています)なくしては成立しないとします。これらはあらゆる解釈学的状況の基礎をなしており、理解そのものにおける歴史性を考慮するときのみ、解釈学は妥当な解釈学(別名、効果の歴史ないし作用史)となります(したがって、それまでの解釈学とガーダマーの言う解釈学は異なったものです)。しかし、ガーダマーは新たな方法論の確立といったことには関心がなく、理解における歴史性を認識せよという意識を高めようとしているようです。ガーダマーはフッサールの「地平」という概念を借用し、理解という行為は個人の地平と歴史の地平(われわれが立ち入り、われわれとともに動くこと)の融合として記述されます。ガーダマーは受容という行為に関しては「応用」という言葉を使っています。これは、インガルデンの「実体化」(解釈者による具現化もしくは現前化)に類似した概念だそうです。ガーダマーにとって、テクストとの遭遇は過去との対話へと入ってゆくことであり、「他者に向けて開かれた、ことばのやり取り、質疑応答が、理解へ導いていくことにな」(p. 74)ります。応用は、「あの時といま、『汝』と『我』を媒介すること」と言えるそうです。

ガーダマー自身は方法論の確立といったことに関しては拒んでいるのですが、受容理論の研究者(特にヤウスとその弟子たち)は方法論の確立に「期待の地平」や「効果の歴史」といった概念を用いています。しかし、これは受容理論の研究者の誤解であり、本来がーダマーの概念はもっと抽象的で哲学的なものであるということを認識しておく必要があります。

また、ガーダマーは古典をモデルの規範と考えますが、社会的交換に内在する権力関係や社会関係を無視しているという問題があります。また、彼の対話的モデル(ふたりの話者のあいだの会話として理想化された過去と現在のコミュニケーション)は、現実に生じている理解過程を歪曲してしまっているという問題点もあります。また、歴史性を抽象的な理論でしか認めることができていないという限界点もあります。著者は、結局ガーダマーの理論は、皮肉にも反歴史的な新批評に近い哲学的な批評を生み出しているに過ぎないと指摘しています。手厳しいですね。。。

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2007年12月19日 (水)

富田恭彦(2002).『科学哲学者柏木達彦の番外編【翔と詩織、あるいは、自然主義と基礎づけ主義をめぐって、の巻】』を読む(ナカニシヤ出版)

本書の詳細な情報は次の通り。

富田恭彦(2002).『科学哲学者柏木達彦の番外編【翔と詩織、あるいは、自然主義と基礎づけ主義をめぐって、の巻】』.ナカニシヤ出版.

感想:この本は主に、デカルトとロックの考えの中に自然主義的な要素を見出していくという作業がなされていました。第一話は、デカルトの議論をブーバーの「我‐それ」と「我‐汝」という視点から考察しなおすというものでした。僕自身はブーバーを勉強したことがありませんでしたので、正直第一話はあまり理解できなかったように思います。まだまだ勉強不足です。第二話は、ロックの知覚表象説が直接実在論的立場を抜きにしては成立しないということが指摘されます。第三話は自然主義について。ここではクワインの議論について説明がなされ、さらに自然主義の妥当性を主張するためにローティの議論が説明されていました。第四話は、フロムやウェーバーの議論を紹介しながら、人は絶対的なものを求める傾向にあるということを説明します。その後、そういった態度の問題点をローティーの立場から解説されます。第五話は、バークリーのロック批判が主なテーマとなります。そして、そこではバークリーの批判が少し的外れ的なことがあること(「概念」というものが指すものが異なるため)や、バークリーも自然主義的な色合いを持っていること、バークリーは神の存在証明は理性的思考を通してなされているが、物の存在証明は心象論的概念理解によって存在が証明されていないという矛盾点、が指摘されます。第六話は、まとめとなります。この本はこのシリーズの中で、僕の中では最も難解でした。それは、僕があまりよく知らない思想家の議論がかなり出てきたためで、僕の勉強不足に起因しているのではありますが。でも、自然主義という本書の最も重要なテーマについては理解できたので、よかったです。

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2007年12月 4日 (火)

富田恭彦(1998).『科学哲学者柏木達彦の秋物語【事象・対象・言葉をめぐる四つの話、の巻】』を読む(ナカニシヤ出版)

本書の詳しい情報は次の通り。

富田恭彦(1998).『科学哲学者柏木達彦の秋物語【事象・対象・言葉をめぐる四つの話、の巻】』.ナカニシヤ出版.

感想:第一話目では、第一話目は観察の理論負荷性に関する問題で、歴史理解や志向性といったことが取り上げられています。面白かったのは、「これは何か」という問いが、「何が正しい知識なのか」という問いに簡単に移行してしまい、両者を混同してしまうことがあるということでした(p. 21)。また、スコラ哲学の第一志向(何らかの対象に直接向かう意識の在り方)と第二志向(何らかの対象に直接向かう意識それ自体を対象として、それに意識を向ける意識の在り方)の話であるとか、当事者の視点と第三者の視点(これにからめて相対主義)が扱われていました。後者に関しては、絶対主義と相対主義は同じ程度に危険であるということが指摘されていました。また、前者に関してはフッサールやその師のブレンターノらが盛んに議論したことであるようなのですが、既に17世紀にデカルトも形相的実在性と表現的実在性という言葉で議論していたことが紹介されていました。この章はなかなか興味深く読み、デイヴィドソンやクワインの議論と平行して読むと面白いのではないかと思います。

第2話は、指示理論についてです。パトナムのメタ機能(過去に使われた言葉同様、現在の言葉も実際には存在していないものを指し示しているのではないかという推論)を手始めとして、指示ということについて考えていきます。まず、ミルの議論(固有名詞には意味はなく、ただ何かを指し示すのみという考え)とフレーゲの議論(「意味」も存在し、これが指示対象の与えられ方を示すという考え)が確認されます。次に、特に存在文などにおけるフレーゲの議論の問題を指摘します。その問題点というのは、例えば意味(記述内容)が間違っている可能性です。フレーゲの議論では、記述内容に誤りが含まれていれば、対象を指示することに失敗してしまいます。そこで、サールの群概念説を導入し、記述内容の中で大体のものが合っていれば指示することができるという、伝統的指示理論の集大成の議論を紹介しています。こういった議論は固有名のみに当てはまるだけでなく、記述句や直示語、さらにこれらの組み合わせの表現にも適用されます。著者は伝統的指示理論の一連の議論の要点として、「伝統的指示理論の一番の特徴は、指示にはどんな場合でも記述内容が関わっていて、その記述内容があてはまる対象があれば、それがまさしく指示対象なんだということ」と述べています。次に伝統的指示理論を批判するものとして登場する指示の因果説(因果論的指示理論)が紹介されます。ドネランやクリプキがその代表的人物のようです。彼らの説では、名前は次々と受け渡されていく物理的な過程の中にあり、この過程があるからこそ指示は機能すると考えていたようで、伝統的な考えのような固定記述は必要ないと考えていたようです。しかし、この考えは、逆に「固定記述」の重要性を露呈することとなり、例えばサールの反論などが紹介されていました。最後に、存在ということはいつも二値的に判断できることではなく、言葉が実際に存在するものを正しく指示しているかどうかを主張することで科学の信頼性を保証しようという考えに懐疑的な意見が述べられていました。科学の保証という観点から指示理論をあまり考えたことがなかったので、とても面白く読めました。

第3話はとても短かったのですが、サールの間接発語行為の分析を通じて、彼の議論が実は先入見や解釈学的循環について議論した大陸系の解釈学的伝統に共通する部分があるということが指摘されています。

第4話は、アトランティス大陸の話です。これは、アトランティスを巡る様々な議論を見たり、アトランティス大陸はプラトンの著作の中でどのように扱われているのかを確認した後、ライヘの議論を取り上げます。ライヘの議論では、アトランティスは牡牛座の話と解釈されており、アトランティス大陸とは天文学的な話であると考えられています。これは、観察の理論負荷性の議論の具体例として提示されており、先入見が異なれば、同じ書き物から違うものが考えられるということを実例として示しています。

この本もとても楽しく読めました。特に最後の話は謎解きのようで、科学哲学の話を抜きにして、とても楽しく読めます。また、指示理論の流れも簡潔にまとめてあって、とてもよかったです。とても有意義でした。

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