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2007年10月26日 (金)

P.ギロー(1976/1988).『言葉遊び』(第3版)第3章を読む(白水社)

タイトル:挿入

感想:この章では、特に音節や文字の配列を通じて形態の操作を行う言葉遊びについて概説されます。まず、一つ目は転換と呼ばれる操作を通して生じる言葉遊びについて。これは、「1語あるいは1文の内部で、2個ないし数個の音節(あるいは文字)の場所を交替させる遊び」(p. 66)を指すそうです。中心的に扱われているのは、アナグラム(「1語あるいは1文中の数語の文字の配置を変えて、その文字が全く違う意味を持った他の1語または数語を構成するようにする」(p. 67)ことで、当該語の全ての文字を使うもの、当該語の一部のみを使うもの、文全体に及ぶものがあるそうです)でした。アナグラムは固有名詞語源論とかなり似ているところがあるそうなのですが(双方とも、「名詞の形態が命名された事物の固有性を反映しているという前提に立っている」(p. 67))、固有名詞語源論は同音関係が明白であり、アナグラムは一種のコード化によってそれが隠されているという点で、異なっているようです。アナグラムは占いや秘儀、阿諛や風刺の手段として使われてきたそうです。古典主義者は地口に対してと同様に、アナグラムを無益で幼稚な遊戯として見下したということも書いてありました。次に字なぞが紹介してあります。これはアナグラムの変種のようで、文字の配置がえや削除によってアナグラムを引出す言葉遊びになります。第3に、換字地口が説明されます。もどり歌という名前もあるそうなのですが、これは「1語ないし数語の文字の配置転換を行なって、その語尾同音consonanceは変えずに意味を変えるという一種のアナグラム」(p. 73)です。これは、左右対称性、首尾一貫性、配置転換が語の頭部のみで行なわれる、音節を交換した2項は論理的な関係にあり状況に相応している、という特徴がある一方、みだらなものを表現するのに使われる傾向もあり、しばしば首尾一貫性を損なったものもあるそうです。また、諷刺的名もじりやおどけた歪曲を表現するのにも長けているようです。第4に、語順転換と語彙転換が説明されます。これは、転換の対象が語である言葉遊びです。次に回文。これは「「左から右へ読んでも、右から左へ読んでも一向にかまわない詩句または語句」」(p. 82)です。最後は逆さ言葉です。これは、「一字毎に、あるいは一音節毎に語をひっくり返して読む」(p. 83)、隠語で使うコードを指します。

次は、編入という操作に基づいた言葉遊びです。これは、「原文に遊戯的なメッセージを書き込むという方式」(p. 83)を指します。1つ目は、折句という、「詩の各行、またはそのうちの数行(中略)の冒頭の文字が折句の言葉を構成しているという詩形」(p. 84)です。ここで取り上げられていた魔術の方陣(あるいは魔術の言葉)は、この極みということができると思います。文学はこの技法を重宝してきたそうで、シェイクスピアやヴィヨンが利用したそうです。ソシュールはこの技法をパラグラムと呼び、秘儀的修辞法の基礎と考えたそうです。2つ目は、紀年文字です。これは「M.D.C.L.V.I.という文字を用いるラテンの記数法が出発点となって、これらの文字をメッセージの文字として使用すると同時に、そのメッセージの中に含まれている数を示す数字として使用するという暗号的方法」(p. 89)です。最後は、分詩節です。これは「各行の半句を左右それぞれ独立して読み続けることのできるような詩」(p. 92)を指す、大押韻派の用語です。これはもっと細かく折半することも可能だそうです。文または文の構成要素についての転換と言うことも可能とのことです。これは一見賛辞のように見える詩であっても、実は折半によって批判とすることができたりと、かなり面白い言葉遊びです。

最後は内挿と呼ばれる操作による言葉遊びです。最初に扱われていたのは、隠語的コードで、「隠語使用者たちが、欺かれている第三者や看視人に気づかれないようにお互いに交信することを可能にする秘密の言葉」(p. 97)を作り出します。これは、自分の所属や所定の集団に対する自分の好意を表わすこともできます。同音語や同義語を利用したり、語の形態に直接作用することによって成立します。具体例としてラルゴンジ、ルーシェバン、ジャヴァネというコード化法が示されていました。ラルゴンジ(もとはjargonという語を元に作られていることに注目)は、各語の頭文字を語尾に移し、かわりにl(エル)を置く方法(他の文字を入れることもある)、あるいは頭文字を語尾に移動し、その前にduを挿入する方式、です。ルーシェバンは、ラルゴンジの変種で、各語の頭文字を語尾に移動させた後にそれにemをつける方式です。これらが起点となって多くの変種が出来たそうです。一方、ジャヴァネというのは、「語の各音節間にavを挿入する型」(p. 98)です。av以外のものが挿入された例も示されています。もう1つ、サンドイッチ語というものが紹介されています。これはイギリスのスラングでよく使われるものだそうで、当時のフランス語では盛んではなかったものだそうです。これは、1語を2つに切断し、そこにfucking、bloody、goddamなどの卑猥で侮辱的な語を挿入した表現だそうです(例えば、absolu-bloody-telyなど)。隠語的コードと並んで、もう1つの内挿の形としてかばん語が扱われています。これはルイス・キャロルなどが多用したものだそうで、2つの語を形態的にミックスし、1語に異なる2つの意味を持たせた語のことを指しています。

この章は、斬新な技法が多く、とても面白かったです。言語に関する僕の考えが多少なりとも豊かになったことを期待したいと思います。

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2007年10月25日 (木)

P.ギロー(1976/1988).『言葉遊び』(第3版)第2章を読む(白水社)

タイトル:連鎖

感想:この章では、連辞軸を中心に起る言葉遊びについて扱われています。この軸に関わる文彩には、修辞学に積み重ね、漸新、列挙、連結などがあります。これらは、首尾一貫性及び統辞法上の関係形式と意味上の関係形式に間の機能的な対応関係を作り出す論理的規則によって保障されているそうなのですが、これらが損なわれるときに言葉遊びが現れるそうです。

まず、最初に扱われていたのは「いつわりの等位関係」で、くびき語法(異なる意味分類に属する2項を従属語として主部につなぐこと)が取り上げられます。意味上のものが中心となるのですが、語形や統辞にも及ぶことがあるそうです。こういった語法は、連辞軸の機能(言連鎖を構成する各項の間に等位あるいは従属の論理関係をうちたてる機能)を破壊するそうです。

次は、同音による連鎖です。これは代入と組み合わさって起るもののようです。これは、統辞法上の隣接性によって結ばれている2つの項の間に類縁関係を打ち立てることだそうです。既に等位関係にある項にも韻を加えることで、そこに更なる文体上の光彩を加えることができるようになります。ここでは、大押韻派が用いた韻について紹介してありました(漕舟韻、追加韻、連鎖韻、掛け言葉、同胞韻、共鳴韻、分節詩)。韻はその文体上の機能を正当化しうるような意味上の関連を見出すことは難しく、遊戯性が強いものとして紹介されています。

第3に反響が扱われます。これは、ある質問や決まり文句にそれと脚韻をふむ語または言いまわしをからませることとして定義されていました。

次は「自己運動による連鎖」というものです。これは記憶の中で、ある語に対してわれわれが持っている連想を利用したもののようです。色々な言葉遊びが紹介されています。

次は引き出しなぞ遊び。前章で扱ったものと似ているのですが、定義が連鎖状に作られる点で異なっているとのことです。

そして、最後は偶然の連鎖が取り上げられていました。この本では、言葉遊びとは「結果として言葉遊び」になったもの全てを考察の対象にしているようですね。つまり、言語発信者には言葉遊びをする意志の有無は問題とはならないようです。でも、構造主義というものが仮にこの考察の背後にあるとするならば、これはこれで問題はないのでしょうね。

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2007年10月24日 (水)

P.ギロー(1976/1988).『言葉遊び』(第3版)第1章を読む(白水社)

タイトル:代入

感想:この章では、主に範列軸の操作を中心にして起る言葉遊びについて説明がされていました。著者らは、言葉遊びは両義性に還元することはできないものの、音声と語彙から生じる両義性はその本質的な位置にあると認めているようです。そして、基本的には同音語と同義語が中心的な役割を果たすと考えているようです。

この章ではまず、地口が扱われていました。多義性を利用したもの(固有の意味と比喩的意味を掛けたり、比喩的意味を封じて言葉を字義通りに使う)、同音声を利用したもの(ただし、同音語間に意味関係がないため遊びは比較的難しくなる。押韻はこの部類。)、同義性を利用したもの、複合地口(上記3つのものの合わせ技)、について具体例が示してあります。

次に異義復言。これは、「ひとつの文の中である語を異なった意味に再び使用することで成り立つひとつの修辞上の彩」(p. 26)と定義されています。形式的には掛け言葉になるのだそうですが、これは2つの語を並置するという点で掛け言葉と異なっているといいます(掛け言葉では同音語だけを1つ置くのみ)。また、異義復言には、同音語だけでなく、意味上同じ部類に属する2つの反意語を並置することもあるとのことです。

第3にもじりが扱われています。一般的に、もじりは音声を利用したものが中心になるようです。しかし、意味上のもじりも可能で、そのときは「状況となんの関係もなく、漠然とした意味しか持たない。さらに言えば、もはやなんらの論理的な意味もなく、しばしばなんらの統辞も存在しない」(p. 35)ということになるようですが。また、意図しないもじりとして勘違いも扱われています。次に外国語もじり(外国語的な発音に掛けて両義語を作ること)とすりかえ語(「ある語に代入するために、その語とは多かれ少なかれ関連のうすい語を、超現実主義は潜勢文学の言語操作のように機械的な方法によって創り出したり、獲得したりする遊び」(p. 40))がもじりのサブ・カテゴリーとして紹介されていました。

第4になぞ遊び。この言葉遊びでは、遊戯が二重に成立しているとします。「一方では、答えるべき語とその構成要素全体との間に第一次の等価関係が存在する。他方では、各構成要素とその定義との間に等価関係がある。別の言葉で言えば、音声上と語義上の二重の代入がここに見られるのである」(p. 43)。

また、註に興味深い専門用語として、「大押韻派」と「第二修辞学」がありました。前者は「15世紀においてブルゴーニュ宮廷のお抱え詩人たちがそう自称していた名称」(p. 175)、後者は「ギリシア・ラテンの雄弁術の伝統を受けて修辞学が本質的に散文の文彩や構文法を問題にしていたのに対して、韻律の規則を中心とする作詞法」(p. 175)と定義してありました。

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2007年10月23日 (火)

P.ギロー(1976/1988).『言葉遊び』(第3版)序章を読む(白水社)

この書籍の情報は、

ギロー,P.(1988).『言葉遊び』(第3版,中村栄子(訳)).白水社.(原著は1976年出版)

になります。

タイトル:《言葉遊び》とは何か

感想:フランス語で言葉遊びとはjeux de motsと言うそうです。この章では、本書における言葉遊びの分類方法について説明がしてあります。本書では、連鎖‐代入‐挿入という軸と音声的‐語彙的‐絵文字という軸からなる表で言葉遊びを分類し、それぞれについて論じていくというスタンスを取るそうです。Jakobsonの考えに則った分類方法になっています。また、その他重要なこととして、言葉について遊ぶことvs. 観念について遊ぶこと、言葉について遊ぶことvs.言語娯楽vs. 言葉を用いて遊ぶ集団遊戯、といった分類も重要になってくるようです(しかし、究極的にはそれぞれの限界を見定めることは不可能であるということも認めています)。今後が楽しみです。

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2007年10月22日 (月)

M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第10章を読む(工作舎)

タイトル:相反力の戯れ:自然言語に内在する均衡状態

感想:ここでは、どのような人工言語であっても、自然言語の宿命(同義性と多様性)を免れることができず、むしろそういった特徴を備えたエスペラント語はかなり自然言語に近いものとなったということが述べてありました。これは人工言語の宿命なのでしょうね。多くの人工言語は、十分な話者を獲得することができず、結果として私的言語のレベルにとどまってしまったものが多かったようです。しかし、話者を獲得するとその同義性は徐々に多様性に侵食されるようになるということです。この章は、本書の結論部分としてとても面白く読みました。

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M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第9章を読む(工作舎)

タイトル:眠り続ける森の美女:精神の牢獄としての人工言語

感想:この章では、現代言語学と言語哲学の言語へのアプローチを比較するなかで、普遍言語の思想の特徴を更に浮き彫りにしてありました。著者は、言語はやはり文化的なものであり、そういったものを一切排除したアダムの言語の発見にはあまり大きな意義を見出していないようです。著者にとって、「言語活動の本来の働きは世界を規定したり説明したりすることではありません。自らに固有の世界をうまずたゆまず崩してはまた築き続けること」(p. 196)なのだそうです。しかし、超言語の概念成立を断念する必要はないとも述べています。しかし、そこには必ず特定の文化的な要素が入り込んでいるということを忘れてはいけないということが述べてありました。普遍言語の思想は、言語哲学の真理条件意味論にもかなり関係しているということも述べてあり、勉強になりました。

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2007年10月18日 (木)

M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第8章を読む(工作舎)

タイトル:夜の帝王:異言における無意識と言語活動

感想:この章では、エレーヌ・スミスの交霊術における火星語の研究及びその特徴を中心にまとめられていました。これはソシュールもかかわった話です。僕自身、この火星語の話に彼がかかわったということ自体は知っていたのですが、実際に火星語の研究とはどのようなものであったのかは知りませんでしたので、とても興味深く読みました。しかし、火星語の研究に積極的に拘わったのは、ソシュールではなくて、むしろフロイトの精神分析を基盤とする研究者(テオドール・フルールノワ)やヴィクトール・アンリという人物だったようですが。科学の発達と同時に異言は大流行したそうです(中世以来初めて、公式教会がこういった運動を弾圧しなかったため)が、1920年を過ぎると下火になったそうです。著者は、その他の異言の例として、ペンテコステ派やクリスチ派のザウーム(ヤコブソンが興味を持った)にも言及していました。

異言を研究する際、観察者には異言と外国語がかりを分類することは非常に重要になるそうです(交霊者たちにとってはこの区別は不要なものとなるそうですが)。興味深いことに、中世ではこれらは区別されており、前者は捉えどころのない不安定な現象とみなされたのに対し、後者は使徒行録によって正当とされていたそうです。著者は、「奇蹟」は発話する側よりも聞き手の方で起っているという興味深い主張をしています。

さて、アンリの火星語研究はソシュールにとってはガラクタ同然なのですが、著者は評価すべき点もあるとしています。当時、言語学界では、言語の個体発生と系統発生との並行論(幼稚な言葉は人類最初の言語の特徴であるという考え)は広く受け入れられていたそうで、火星語に見られる換喩や隠喩、反語法による意味のズレ、語尾音消失や音位転換、誤った音節分割や俗流語源、音の重複による語形変化、意味の改ざんや逆転などは普遍言語について考察するのに非常に役に立つと考えられたそうです。

さて、この火星語の特徴として、Hapax legomena(テキストに一度しか出現しない語の割合)がピジン語のそれに近いこと、文法がフランス語(エレーヌのしゃべる言葉)と酷似していること、音韻面の乏しさ(音韻構造と音節の区切り方)、ヤコブソンが定義した極小構造へと向かう音韻論的特性を備えている点、ヤコブソンが言うところの母音の最小三角構造が現れずに一時的線形構造に向かう点、を挙げていました。途中、著者はエレーヌのウルトラ火星語と天王星語についても言及しています。著者曰く、エレーヌの宇宙語は、幼児的でありながら、音韻論的には言語の普遍的な特質を持っているということを認めています。また、異言はたとえ個人的でその場限りであったとしても、自分の母国語で一番癖になっている音や音の組み合わせを捨てる、幼児期最初に獲得して失語症で最後に失われる音だけが保たれる、世界中で最も広範に用いられている音が残る、という一般的法則を持っているそうです。

また、異言は、意味論的には意味作用を持ちながら、記号論的に意味を喪失しているとします。なぜならコード系としてもはや成立していないためだそうです。異言とはコードなきメッセージと言えると述べてありました。少し長いですが引用しておきます。

「異言に普遍的なのはその非-意味論的な特徴なのです。異言は個人と社会の両方を一挙に超越します。異言が伝達するのは個人の経験ではなく自然そのものなのです。こうして異言は言語(ラング)のあらゆる制約をすり抜けてゆきます。つまり私達のものとは別な言語活動、言語(ラング)に還元されることのない言語活動として立ち現われるのです。それは、社会という媒介を経ない、個としての存在の生な発露でありながら、しかし同時に個を超越するものです。異言発信者は確かにコミュニケーションの形をとっていますが、厳密に言えば、言語によるコミュニケーションとはなっていません。なぜなら意味論そして統辞論にのっとって成立する言語活動は、必ず、原始的感受性や感情のストレートな表出から人間を遮断してしまうものだからです。音楽とまったく同じで、異言は言葉で表わせないことを伝えています。そして音楽とまったく同じように、「何も意味しないがゆえに、すべてを意味する」ことができ、やはり音楽と同様、「意味をやり取りする談話としてのコミュニケーションなどではなく、言語では言い表わせない共感による直な一体化のみを認める」のです」(pp. 178-179)

この引用は、異言の特徴をかなり的確に捉えているように僕には思えました。このような特質は「異言のパラドックス」(p. 179)をもたらします(「「神からの贈り物」として万人にもたらされながら、受け手としてのさまざまに異なる個々人同士ではお互いに理解することができないというパラドックス」(p. 179))。また、しゃべっているのは自分ではないという自覚(「私」の不在)も異言の意味論的特徴として挙げられていました。著者曰く、「異言発信者は、一切の責任を回避しながら、自分だけの世界を築き上げようとします。ですからこそ、過ぎ去った時へも、来るべき時へも自由自在、そして思うがままの世界へ赴くことができるのです」(p. 180)。

僕はこの章を読んで、やっと異言とはどのようなものであり、それが神話時代の普遍言語への憧れを残しているということを理解することができたと思います。僕自身、言語のこういった側面はあまり勉強してきていませんで、とても勉強になりました。

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2007年10月17日 (水)

M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第7章を読む(工作舎)

タイトル:裸の王様:ニコライ・マールの奇想言語理論

感想:この章では、20世紀の言語狂的言語理論としてマールの言語理論、つまりヤフェティード言語学またはマール主義が解説されています。理論のキーワードを挙げて、完結にその考えが説明されていました。僕が今まで読んだ文献の中でマールの言語理論についてここまで丁寧に説明してあったのは初めてです。また、それ以前のロシア言語学や言語学者戦線との関係など、マールとその周辺の関係についても説明してあります。マール主義の内容やその周辺との関係については本の中で要約してあるため、ここでは述べませんが、とても貴重な章だと思います(日本の言語学の本でマール主義の辺りの話を詳しくしてあるものは稀であるため)。また、スターリンとの関係についても述べてあり、そして、彼が最初は興味を示したマール主義に対して、なぜスターリン自らその言語理論に三行半を突きつけたのかも分かりました。この辺りの話は僕は長年ずっと分からないままで、疑問に思っていた点でしたので、はっきりとしてよかったです。田中克彦(2000)『「スターリン言語学」精読』岩波書店と合わせて読むと面白いかもしれません。また、マール主義の評価するべき点も最後に挙げられていました。この姿勢にはとても感心しました。とても勉強になった章でした。

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2007年10月15日 (月)

M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第6章を読む(工作舎)

タイトル:「科学」の中の「神話」:最近のSFに見られる現代言語学理論

感想:この章では、言語にまつわる考えがフィクションを通してどのように一般大衆に植え付けられてきたかが議論されていました。主に四つのSFが取りあげられています。最近のSFでは、地球外生命体との交信は頻繁に扱われるにも拘わらず、その言語は英語であったり、ベーシック・イングリッシュ的なもの、あるいは荘重な英語であったりと、基本的に新しい言語を作り出す話はあまりありません。それに、地球人と地球外生命体との言語の違いの問題は、万能翻訳機に任せたり、数分で異なる言語を覚える能力に言及したり、あるいはこの問題には全く入ろうとしなかったりと、その扱いはあまりなされていません。それにしても、英語が中心とされているのは、生成変形文法が普遍言語を目指しつつも、英語の研究が中心となり、結果として英語を普遍言語として扱ってしまったきらいがあるからではないかと著者は述べています。これは、ポール・ロワイヤル文法がフランス語を、比較文法学がドイツ語を規範として扱ってしまったのと同じことであると著者は言います。そんな中、20世紀のSFで、言語の位置づけに関して注目に値するものが4つあるとしています。最初の3つは、オーウェル『1984年』、ジャック・ヴァンス『パオの言葉』、サミュエル・ディレイニー『バベル‐17』で、サピア=ウォーフの仮説(アメリカインディアンの言語研究から発し、その言語を言語観の際が解消不可能であるということを示すための最後のよりどころとされた)とアメリカ構造主義言語学(ブルームフィールド学派)の考えを強く反映したものです。もう一方は、イアン・ワトソン『埋め込み』で、生成変形文法の埋め込みという考えと深層構造という考えを取り入れています。前者は超文化主義の思想を、後者は普遍主義(哲学言語)の仮説を表しています。やはり、類似した言語の幻想はまだ20世紀にいたっても強く見受けることができるようです。最後に本章を終えるにあたり、著者は言語の考え方の変遷を三つの時期に分けています。(1)神話の時代:言語の起源と単一性に関する宗教的ドグマが中心に居座った時代(ただし、一般文法と比較言語学の先駆は登場しており、徐々に科学的思考が現れてきてはいた)、(2)言語の客観的歴史が出来上がる時代:歴史文法学と比較文法学によって、神話とユートピア思想の影響から脱却した時代(神話やユートピア的思想は言語狂や言語考案者の手にゆだねられた)、(3)チョムスキー革命:言語学がその科学性を一段と強固にし、言葉の普遍相の問題が新たな基礎の上に立って再登場した時代。とても面白い章でした。

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M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第5章を読む(工作舎)

タイトル:科学対フィクション:十八~二〇世紀における言語の科学的考察

感想:この章では、アプリオリで完璧な理想言語(言葉と世界の対応関係は完璧でその根拠は自然に根ざしているという言語観)がどのように変化をしていったかがまとめてありました。十八世紀の終わりには普遍的で基本となる語根の探求がなされたり、この語根に人間が更なる創出のプロセスを加えたといった考えも出てきたようです(マールやヘルダーが例として挙げられていました)。

一方で、ポール・ロワイヤルの流れを汲んだ普遍文法思想も栄えたそうです。ジェームズ・ハリスは十八世紀にあって、すでに言語は社会的な慣習ないし取り決めであると考えていたそうです。たしかに、哲学的言語の思想というのは依然として強かったそうなのですが、より実際的で実用にかなうものが探求されるようになり、現用言語や詩語を材料として加えたもの(ライプニッツの伝統を受け継いでいる)が志向されるようになるそうです。ここにきて、キリスト教のドグマから開放された普遍言語の構想がなされるようになり、言語学との接点も増えてきたそうです(フィクションでの空想言語の流行は廃れたそうです)。一方、こういった動きに押される中で、アプリオリな哲学言語の言語構想はよりラディカルで大胆なものになっていったそうです。

また、十八世紀にはサンスクリット語が発見され、ウィリアム・ジョーンズ卿がこの言語をヨーロッパ言語学界にもたらしたのですが、植民地と被植民地が言語的に血縁関係にあることを示すことになったのと、ヘブライ語こそ祖語であるという宗教ドグマから、イギリス人ではなく、ドイツ人によって、比較文法学が推進されていくという動きが述べてありました。シュレーゲル(インド=ゲルマン語という用語を開発し、後にこれは、ケルト語を加えることでインド=ヨーロッパ語となった)、ボップ(比較文法学の基礎付け)、グリム、などの功績がたたえてありました。しかし、比較文法学は再び神話的な単一性への夢とユートピア的単一性という幻想を含んでいたという問題があったようです。事実、1866年にパリ言語学会が、「当学会は言語の起源や普遍言語考案に関するいかなる論文も受理しない」という規約を発表したそうです。そこで、言語を分類するという考え方、言語類型学が登場してきます。世界中の言語は、孤立語、膠着語、融合あるいは屈折語、分析的言語、に大別されました。また同じ時期に進化論が台頭してきます。唯一の言語への回帰は進化論と折り合いがつかなくなり、言語は進化するものであるという考えがなされはじめます。言語学の段階発展理論は生物進化論よりも古いそうなのですが、結果としてダーウィニズムの流れの中に組み込まれて発展していったようです。

しかし、進化論的視点が間違った形で言語学の中に入れられてしましいました。まず、言語の分類を言語の進化を考える根拠としたという点が挙げられます(文明的に発達している人々が話す言語は進化の到達点、未開文明の人々の言語はより原始的な言語、という考え)。もう一つの誤りは、言語進化は個別の言語話者の言語習得過程に見ることができるという考えです(子供の発話に見られる特徴は)。また、当時メンデルの遺伝法則が発見され、進化と同時に言語の退化を考える必要がでてきました。しかし、議論は矛盾に満ちたものになっていったそうです。

また、赤十字や国際連盟の発足といった国際関係の枠内の中で、国際共通語運動が再び盛んになってきたそうです。インド=ヨーロッパ語の共通語根を活用して国際共通語が作られようとしたようです。このことは当然アプリオリな言語観を諦めることになるのですが、当時ヨーロッパ言語は優位的言語であると考えられていたため、あまり大きな問題とはならなかったようです。中にはアマチュア的なものもあったようですが、イエスペルセン、サピア、マルティネなどが第一次世界大戦後に議論に参加するようになって、より言語学的な議論へと向かっていったそうです。こうして、語根となる語の再編がなされ始めます。「その目指すところは・・・できる限り自然なものということですが、当然そこには、異形態や不均整な語を排することで、規則性を確立しようという考え方が含まれていました(pp. 103-104)」。しかし、この国際共通語運動は国際語としての英語に押されぎみになります。英語を簡略化あるいはピジン語化しようとした動きが現れ始めるのです。結果、ベーシック・イングリッシュなどが出てきます。結果、国際共通語化運動は衰退し、エスペラントぐらいしか残らなかったということでした。

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2007年10月12日 (金)

M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第4章を読む(工作舎)

タイトル:未完の探求:十七~十八世紀における理想言語構想

感想:十九世紀まで、未知の言語の創作を含む虚構作品は、いい意味でのユートピア作品であり、その中での言語は理想社会で表現手段として用いられるにふさわしい理想言語だったそうです。十七~十八世紀は普遍的特性描写を目指した完璧な哲学言語の探求が大きな課題となっていたということです。様々な試みがなされたわけですが、一方で事物の本性をそのまま表すことができるような「アダムの言葉」の復元が夢見られたのに対し、ライプニッツの結合術やポール・ロワイヤル学派のように実用言語の構造的普遍性を重視する試みのような、20世紀の言語学に通じるような試みもなされたようです。また、『セヴェランブ族物語』に登場する言語には、理想言語は現に存在する言語から合理的な交配を経て造られるものであるという考え(それまでの無からの創造という考えと反する考え)を見せており、十九世紀的な立場であると指摘されていました。それにしても、自然言語を非常に欠陥が多いものであるとし、万人が簡単に使え、かつ事物の本質を直接捉えることができるような言語の構想というのは、かなりなされていて、またその構想の仕方にも色々とあるということが分かり、面白かったです。

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M.ヤグェーロ(1984/1990).『言語の夢想者 十七世紀普遍言語から現代SFまで』第3章を読む(工作舎)

タイトル:男と女の人工言語:ユートピア構築的言語とヒステリー症的言語

感想:この章では、歴史的に男性と女性は言語を異なった様式で理解してきたということが主張されていました。これは、次の一節につきると思います。

ひとつは知性に基づく在り方で、合理的で分析的、そして論理的に言語を理解しようとし、世界を組織化することを目指し、言い換えればユートピア構築的言語理解で、その本質は男性的と言えるでしょう。もうひとつは直感的で本能的、自然発生的で包括的、感覚的で未熟で幼稚な幻影に支配され、欲動に引きずられる言語との関係で、一言で言えばヒステリー症的言語活動であり、いま挙げた特徴はすべて女、子供、狂人にあてはまるものです(p. 58)

フェミニズム的にはこの主張には問題はあると思います。本章では、女性が言語を合理的に考えることができないということを主張しているのではなく、歴史的に各性別の言語探求には引用したような傾向があったようだと主張しているという点を踏まえた上で読む必要があるでしょう。

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