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2007年4月30日 (月)

2007年4月29日日曜日

朝7時帰宅。それから、寝て午後2時ごろから活動開始。

今日の読み物:

ライアン,M.(2006).『可能世界・人工知能・物語理論』(岩松正洋(訳)).水声社.(原著は1991年出版)第11章(ストーリー自動生成の発見学)

感想:この章では、普遍的ストーリー自動生成プログラムについて概観していきます。まず、異なるプログラムを評価する基準として創造性、美意識、理解力の3つを打ちたて(それぞれの基準の本節での操作化はここでは省略します)、とくに最初の2つの基準を基にしてこれまで提案されているプログラムを評価していきます。扱われていたものは、遷移網状組織(マランダがプロップの試みをもとに提案したもの)、文法主導型モデル(コレイラによるTELLTALEというプログラム)、シミュレーション型アルゴリズム(Kleinによるオートマティック・ノベル・ライター)、問題解決アルゴリズム(ミーハンのTALE-SPIN)、作品の作者の視座から物語内容を生成する試み(レボウィツのUNIVERSE)、そして本書の著者による提案です。著者による提案は、これまでのプログラムよりも美意識などで特に優れているものとされていますが、著者によりますとこれはまだ構想の段階に過ぎず、完成品としては考えないでほしいとのことでした。「赤頭巾」をどのように生成するかということを具体例としてみながら、そのプログラムの機能性を示そうとしていました。この章の内容は、僕にとっては今までほとんど勉強したことがなかったことですので、とても斬新でした。物語を産出するプログラム、とても壮大な考えだと思います。この本の原著は1991年に出版ですので、現在ではもっとこの領域は進んでいることでしょうね。ただ、このようなプログラムに関しては、賛否両論があるでしょう。人によっては物語といったものをコンピュータープログラムに侵されたくないと考える人もいるでしょうから。

Harder, P. (2003). Mental spaces: Exactly when do we need them? Cognitive Linguistics, 14 (1), 91-96.

感想:この論文では、融合理論へのいくつかの疑問が提示されています。それらは、融合理論は複雑なもののみのための理論として、単純なものには必要がないのではないか、融合プロセスが生じるためには、必ずしも別々のメンタル・スペースを準備する必要がないのではないか、ということです。1点目に対しては、子供はnaive realismを備えて生まれてきて、必要が応じたときに初めて融合理論が主張するような処理を必要とすると考えた方が合理的であるということが述べられていました。確かに、融合理論は単純な例にその理論を応用しようとすると、説明がとても分かりづらくなってしまうことが多いです。この論文が提示している融合理論への批判の1点目はちょくちょく言われていることです。この論文の批判を重視するとすれば、自分が修士論文でやろうとしている現象が融合プロセスを使うに足るほど複雑な現象かどうか見極めることが必要になります。重要な論点だと思いました。

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2007年4月29日 (日)

2007年4月28日土曜日

今日は、お昼からキャンパス内をうろうろ。知っている人にたくさんあって、長い立ち話もしたりしました。

今日の読み物:

Allen, G. (2000). Intertextuality. London: Routledge. Chapter 3 (Structuralist approaches: Genette and Riffaterre)

感想:この章では、構造主義的な立場からの間テクスト性へのアプローチとして、ジュネットとリファテールの研究を見ていきます。ジュネットは、レヴィ=ストロースからbricoleur(ブリコラージュ)という概念を借り、批評とは作品をモチーフやテーマなどといったものに分解し、それを配列し直し、文学作品を生み出すことを可能とする文学システムと所定の作品との関係を明示化(復活)させることにあるという特徴づけを行います。また、文学作品とは決して単一でオリジナルなものなのではなく、閉じた体系からの特定の具現化であると考えます。彼にとっては、文学産出はパロールであり、社会における文学消化はラングとなるそうです。作家は文学システムから様々なものを配列しなおすことで文学作品を産出し、しばしばその作品と体系の間の関係を曖昧にします。一方、批評家はその作品を再び分解し、文学システムに位置づけなおす作業を行うことになります。ポスト構造主義と違って、構造主義の試みでは、間テクスト性を扱っていたとしても、“Structuralists retain a belief in criticism’s ability to locate, describe and thus stabilize a text’s significance, even if that significance concerns an intertextual relation between a text and other texts” (p. 97)と考えるそうです。更に、Morganによる、間テクスト性に対するポスト構造主義と構造主義のアプローチの違いの特徴づけが紹介されており、この記述はかなり明確に両陣営の違いを描き出していました。さて、ここまでがイントロで、第1節では、ジュネットの研究を見ていきます。まず、ジュネットの研究対象は個別の作品ではなく、文学システムであるということが確認されます。彼の研究では、例えば悲劇小説において、悲劇と小説はどのように関わるのか、それらはジャンルとモードとどのように関わることによって意味することを可能とするのか、といったことが研究テーマとなります。ただ、この章で面白いのは、通常レビューがなされる『物語の構造分析』や『フィギュール』以外の研究が見ていかれることです。日本の文学理論ではまだ入ってきて新しい分野になると思います。ジュネットは、『アルシテクスト』の中で、プラトンやアリストテレス以来の詩学の問題点に触れます。それは、ジャンル、テーマ、モードをごちゃ混ぜにしてきてしまったことです。ジュネットはこれら3つのものを扱う安定した(stable)詩学のためには、アルシテクストという概念が必要になると考えます。アルシテクストとは、“basic, unchanging (or at least slowly evolving) building blocks which underpin the entire literary system” (p. 100)というものです。しかし、彼はこのようなアルシテクストなるものを明確に捉えることはできないという結論に至ってしまいます。ポスト構造主義者であれば、そこで記号の不安定性といった方向に議論が進むところですが、ジュネットはtranstextualityという観点から詩学全体を見直すという方向へ進みます。ジュネットは『パランプセスト』の中で、an open structuralismというものを展開します。これは、“a poetics which gives up on the idea of establishing a stable, ahistorical, irrefutable map or division of literary elements, but which instead studies the relationships (sometimes fluid, never unchanging) which link the text with the architextual network out of which it produces its meaning” (p. 100)と特徴付けられていました。この試みの中ではアルシテクストは偏在し、研究対象はアルシテクストとなります。Transtextualityは、ジュネット版intertextualityになります。わざわざ新しい語を作ったのは、ポスト構造主義と混同視されないためです。しかし、彼自身もintertextualityという語を使っていて、その用法は具体的な複数のテクスト間の関係という意味合いで用いています。ポスト構造主義の間テクスト性はdisseminationであるのに対し、ジュネットのそれはrearrangementになります。次に著者はジュネットのtranstextualityについて本格的な説明に入ります。この概念にはintertextuality以外に4つのタイプがあるといいます。それらは、metatextualityacrhitextualityparatextualityperitext & epitext)、hypettextualityです。Paratextualityに関しては、テクストの内と外の境界(内でもあり外でもあるという位置づけ)に存在することになり、読みのプロセスにも大きな影響を与えることになります。また、paratextualityにはauthorial intentionの問題も絡んできて、とて興味深いものとして記述されていました。Hypertextualityhypertexthypotextから成ります。Hypetextualityは意図的に間テクスト的になっている文学作品を指します。また、あるテクストがhypertextとして機能するかどうかは、読者の背景知識によるそうです。つまり、場合によってはただのテクストとして読まれるということもあるということになります。Hypertextualityにはいくつかのタイプがあるようで、本節では簡単にそれらが説明されていました(self-expurgationexcisionreductionamplification)。また、hypertextualityに関してその他興味深い事柄として、transmotivizationも挙げられていました。しかし、hypertextualityには、hypotextが既に現代の読者(学者も含む)に完全に忘れられてしまったものもあります。この問題に対するジュネットの解決法は、既に触れたように、テクストはそれ自体としてもhypotextとの関係の中ででも読むことができるということを提案することでした。彼は特定のテクストには関心がなく、一般的な議論に関心があったので、このことをもって解決法としたのでしょう。その後、ジュネットのアプローチの問題点に簡単に触れられ(p. 112)、次にJennyによる議論を提示します。この論文では、ジュネットの間テクスト性からクリステヴァやバルトの言う間テクスト性へ議論を戻そうとしているようです。この論文はジュネットの試みとは相補的な関係をなすものと本書の著者は考えているようです。本節の最後では、探求されるべきは、間テクスト性を探そうとする解釈プロセスの理論ではないのだろうか、ということを述べ、リファテールの議論に入っていきます。第2節は、リファテールの議論の整理です。リファテールも意味や間テクスト性を安定したものと考えています。リファテールは、読者はまずテクストを世界との対応(referential structures)を考えていきます(seeking for a textual mimesis)。そして、それが意味をなさないことに気づき(ungramatticalityの発見)、テクストのより根底にあるものについて考え始めます(a deeper examination of the text’s non-referential structures)。彼は、曖昧性(sylleptic)は、より一貫した構造の中で解消させることができる(interpretant, borrowed from Pierce)と考えるわけです。彼によれば、リファテールによると、テクストの意味はsociolectidiolectへの変換によると考えられます。読者はテクストに明示的にしめされていないmatrixを探さなければならず、テクストはそのmatrixの変形された姿(model)を伝えようとしていることになります。リファテールにとって、間テクスト性とは、テクストと間テクスト(inter-text)の関係になります。また、inter-textとは具体的なテクストのことではなく、文学の中で培われてきたテクスト総体の断片になります。したがって、具体的なテクストを見つけることではなく、むしろ所定のテクストをinter-textが変形された姿とみなすことが重要となります。読者が想定するinter-textのことはhypogramと呼ばれています。このようなコードを特定しようという試みは、ポスト構造主義の間テクスト性の議論とは一線を画すものとなります。リファテールの間テクスト性の議論は、テクストがそういったinter-textのヒントを与えることだけでなく、読者にもそういったinter-textを読み解く能力ないし知識が求められることになります。これが文学能力です。そして、次に文学能力についてのサブセクションが設けられています。しかし、このセクションでは、文学能力の説明というよりは、リファテールの問題が列挙されていました。まず、文学能力の概念の狭さ(読者間に単一のsociolectの所有のみを求めている点)、彼の分析の甘さ、テキスト間のジャンル的および形式的違いへの注目の欠如、彼が提案したaleatory intertextuality(テクストの背後に多くの潜在的inter-textが存在しているもの)とdeterminate intertextuality(テクストの背後に具体的なinter-textが存在しているもの)において前者をどう扱うかが不明確な点、間テクスト性はdeterminateなのかrandomなのかがはっきり決めることができていない点、テクストに読者が持ち込む前提の多様性を無視している点(単一のsociolectしか考慮していない)、the hermeneutic circleへの焦点の欠如、などが挙げられていました。この章はとても面白かったです。文体論などで言う間テクスト性はこれらの研究から来ているのだろうなと思いました。

ライアン,M.(2006).『可能世界・人工知能・物語理論』(岩松正洋(訳)).水声社.(原著は1991年出版)第10章(筋の形態表示)

感想:この章では、物語の筋の表示方法について考えていきます。まず、いい図式の基準を掲げ、さらに筋が効率的に答えられるべき問題や要約の問題などを機軸にして、マンドラーとジョンスンによる物語文法とレーナートによるプロット単位モデルを評価していきます。しかし、これら2つのモデルはモデル評価の基準などを十分に満たすことができていないことを示します。そして、著者はプロット単位モデルを発展させた再帰図表モデルを提案します。このモデルは、先の二つのモデルよりもよりよく基準を満たしています。さらに、これまでのモデルではできなかった、テクスト内の騙しといったものも扱うことができるようになりました。しかし、要約という点に関しては発展させることができなかったとします。そして、著者は要約は図式の問題というよりも、物語価値性の理論で導かれるべきであろうという見解を下します。この章では、比較的単純な物語を例として、その物語に対して3つの異なった図表を作り、その性能を比較してきました。しかし、より複雑な物語になれば、とても紙面に印刷できないような膨大で複雑なものとなってしまうことが考えられます。著者は、ここで扱ったものはコンピューター・シュミレーションができるようなものを作るための議論であったとの旨を明らかにします。著者は本書を通じて、物語を記述することができたり、最終的にはおそらく予測することができるような、コンピューター・モデルを構築することに最終的な目標を置いているようですね。

今日のエンターテイメント:

●今日は日本人の友人同士でお酒を飲みました。朝まで飲んで、色々と話もできてとても楽しかったです。

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2007年4月27日 (金)

2007年4月27日金曜日

今日は、図書館と学部へ論文のコピーをしたりしに行きました。

今日の読み物:

Hamilton, C. (2002). Conceptual integration in Christine de Pizan's City of Ladies. In E. Semino & J. Culpeper (Eds.), Cognitive poetics: Language and cognition in text analysis (pp. 1-22). Amsterdam: John Benjamins.

感想:この論文は融合理論を文学作品の分析に応用した初期の研究です。なので、分析自体には少し納得しきれないところもありました。この論文では、de Pizanの作品の中の、擬人化、アナロジー(concise & extended)、アレゴリーを概念融合とみなしてconceptual integration networkで記述していました。融合のタイプはmultiple blendとsimplexになると思います。興味深い点として、認知メタファー論と融合理論はある現象を分析するための相補的な理論であるという立場を表明していることと(どっちがより本質かということについては曖昧)、融合理論は歴史といった問題は扱わないこと(昨日読んだ論文でBrandtが言っていたように、意味構築のコンテクストというのは融合理論ではどうしても少し焦点から外れてしまうようですね)、フェミニズム批評などは認知科学的な根拠に基づいておらず問題があるという主張、でした。

ライアン,M.(2006).『可能世界・人工知能・物語理論』(岩松正洋(訳)).水声社.(原著は1991年出版)第9章(累積・枠・境界、あるいはコンピュータ言語としての物語)

感想:この章では、物語世界内の入れ子構造に関する新たな知見を提案します。まず、物語は同心構造をしていて、一つの話の中に他の話が入り、そしてそれが続いていくという形を取るということを確認します。次に、この物語構造をモデル化しようとしてきた、枠づけ/入れ子モデルを説明します。しかし、このモデルにはいくつかの短所があります。そこで、代替案として累積モデルを提示します。そして、このモデルの方が枠づけモデル/入れ子モデルよりもはるかに性能がよいことを示していきます。この説明の中で物語をコンピューター言語と類推しながら議論を進めていくので、少し僕には読みにくかったです。最後は、様々な小説の物語世界における様々な前衛的な試みを累積モデルの観点から説明し、そのモデルの有効性を示していきます。モデルの有効性の説明の中で、小説における様々な試みが取り上げられており、とても読んでいて面白かったです。分析に使われていた小説も色々あり、そのどれもが技巧がこらしてあるようなので、読んでみたいと思いました。

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2007年4月26日木曜日

今日は今年になって一番か二番くらいにいい天気でした。今日は特別の授業があったので、それに出席しました。

今日の授業:

●Library sessions

今日の読み物:

ライアン,M.(2006).『可能世界・人工知能・物語理論』(岩松正洋(訳)).水声社.(原著は1991年出版)第8章(仮想性と物語価値性)

感想:この章では、物語を語るに足ることにしているのは何か、という問題について考えていきます。著者によると、「よい筋とは葛藤とそれを解決しようとする最低ひとつの試みとを提示しなければならない」(p.264)そうです。著者は、物語価値性は筋の中にあるという立場で議論を進めていきます。そして、物語要点について説明していきます。ワイレンスキーによる分類に依拠しながら、外的要点、内的要点(動的要点(戦略要点)と静的要点(実質要点)から構成される)という観点から本章の問いを考えます。しかし、満足のいく答えを得ることができず、次に物語の形式面の指針(意味の対置、意味の並行・対照、機能多価)から考えるのですが、それでもうまくいきません。そして、最後に多様化の法則という概念を提案し、この観点から議論を進めていきます。そうして、いくつか事例をみながら話を進めていくのですが、その中で仮想物語というものを発見します。これは意味の多様化を大きく進めるものとして提示されています。そして、本章の最後では、この概念を、プリンスによる非実現物語内容とエーコによる幻の章という概念と比較しながら、より明確に特徴づけをなされていきます。

Brandt, P. A. (2005). Mental spaces and cognitive semantics: A critical comment. Journal of Pragmatics, 37, 1578-1594.

感想:この論文では、本来メンタル・スペース理論はスピノザ的な分析観点に立っており、実際のオンラインの意味構築プロセスを捉えることができていないと批判しています。そして、実際の状況であるとかそういったものを捉えることができていないとしています。例えば、メンタル・スペース理論(融合理論も含んでの話です)では、 形式と意味を独立的なものとしているが、これは観察に基づいたものではなく、理論の制約からの帰結であるとしています。そして、次に著者は、メンタル・スペース理論を文脈なども考慮した実際の意味構築プロセスを扱うことができるようにするために、いくつか提案をしています。この提案は、Aarhus research groupによってすすめられているものだそうです。まず、メンタル・スペースが意味構築のどのレベルの話をしているのかを整理します。そして、更に人の認知プロセスを方向付けるものとしてsemantic domainの存在の理論への組み込みを提案します。最後は、material anchorを例として、新たなメンタル・スペースのネットワークを提案しています。これは、"stable semiotic syntax of spaces and space types" (p. 1589, emphasis in original)と形容されていました。このネットワーク内には、Reference spaceであるとか、Presentation space、Relevance spaceといった新たなメンタル・スペースが組み込まれていました。この論文での、筆者の批判の論点は明確に理解することができました。しかし、提案されている案に関しては、まだ十分な発達をしていないからだと思うのですが、少し荒削りな感じがして、分かりにくかったです。しかし、この試みは大いに評価されるべきものであると思います。勉強になりました。

Allen, G. (2000). Intertextuality. London: Routledge. Chapter 2 (The text unbound: Barthes)

感想:この章では、バルトの間テクスト性の議論を追っておきます。第1節は、彼の作品とテクストの区別の解説に主眼が置かれていました。この節では、その他、デリダのエクリチュールや差延の議論、signifianceの議論、などがありました。バルトは、テクストという語によって読者あるいは読むという行為の重要性を明示的に示したことがもっとも重要な点として評価されています。最後に読者の分類についても簡単に触れられていました。それは安定した意味を読もうとする消費者とテクストの意味を産出しようとする読者(バルトの語で言えば作者)です。そして、後者の読者が行うことはテクスト分析と呼ばれ、伝統的な批評と区別されます。彼にとってテクスト分析とは多重的なものになります。第2節は作者の死に焦点が当てられます。Modern scriptorとしての作者やdejaといった事柄が説明されます。また重要な点として、間テクスト性は決してテクストの出所を突き止めることができるといったものではなく、テクストは永遠に差延していくことになるということが指摘されていました。また注意書きとして、バルトはマラルメの作品を引用していますが、それはテクストの始まりを意味するのではなく、作者自身が始めてテクストというものを意識して書いた例として引用しているのであるということが述べられていました。第3節では、readerly textwriterly textの議論を掘り下げていきます。この節で述べられていたことは、バルトの構造分析は構造主義に密接に関わっていると同時に語りを開かれたものと考えている点(ポスト構造主義の色合いもかなり強い)、readerly textdoxaに支配されているという点、モダニズム以前の19世紀のリアリズム小説は概してreaderly textの傾向が強いが、それでもその中に間テクスト性を見ることができる点、純粋なwriterly textはユートピアに過ぎないこと、バルトが構造分析で用いたlexiaという単位の意味合い、connotationdennotation5つのコード、などです。第4節では、最初に間テクスト性とはそれ自体がテクストの快楽を生み出すのではなく、退屈さやdoxaの源にもなるということが強調されます。これは大事な点だと思いました。その後は、快楽と悦楽、doxapre-doxaの違いなどについて説明されます。この章は結構知っていることが多くて、それほど新しいことがあったわけではありませんが、バルトは好きな学者なのでとても楽しく読みました。

今日のエンターテイメント:

●今日は昼に穏やかな陽射しの中、コースメートと昼食を食べました。

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2007年4月25日 (水)

2007年4月25日水曜日

今日は近いうちにタウンからGraduate Collegeへ引越しをしてくるコースメートが、部屋を見せて欲しいということで、いきなりやってくるという、バタバタしまくりな感じでスタートした一日でした。

今日の読み物:

Widdowson, H. G. (1974). Stylistics. In J. P. B. Allen & P. Corder (Eds.), The Edinburgh course in applied linguistics, vol. 3: Techniques in applied linguistics (pp. 202-231). London: Oxford University Press.

感想:全体的な感想として、この論文で示されている考えは現在のウィドソンの考えとほとんど違わないということでした。まず、文体論の目的として、 "to investigate how the resources of a language code are put to use in the production of actual messages. It is concerned with patterns of use in given texts" (p. 202)ということが述べられます。そして、言語使用者にはknowledge of rules of the codeとknowledge of the conventions which regulate the use of these rules in the production of messageを習得する必要があるということが述べられます。それらの知識に加えてcreativityがあるという側面が言語にはあるということ述べられます。その後、文体論の特徴づけが再びなされます。"its purpose is to discover what linguistic units count as in communication and how the effects of different conventions reveal  themselves in the way messages are organized in texts" (p. 202)、"Stylistics, then, is the study of the social function of language and is a branch of what has come to be called sociolinguistics. It aims to characterize texts as pieces of communication." (p. 203)。次に、文体論は文学をもっぱら扱う傾向があるが、この傾向は学問の特性というよりは、今まで単に文学が中心に研究されてきただけという見解を示します。しかし、文体論が文学を扱う傾向があるのはそれなりに理由があるとのことで、著者は2つの理由を挙げています。1つ目は、文学の言語の特殊性で、通常のコミュニケーションの様式(発信者-受信者の関係や、物がしゃべったりできること)が必ずしも通用せず、語られる内容もテクスト内で完結しているということが触れてありました。二つ目は教育学的な理由です。古来から普遍的な美があるということが信じられてきて、その美を追求する際に、批評家は感覚的な言語で語ってきました。しかし、言語学習者はそういったことは不可能です。文体論は、言語に注目させることで、言語能力が発達していない学習者でもそういった美的価値というものに近づけさせることができるとしています。また、著者がこの論文でこだわっていたこととして、ある言語単位はテクスト内の構造によって新たな意味を獲得する("change of reference" (p. 206))ということでした。したがって、文学の言語というのは決して内包や外延のどちらかにあてはまったりするものではなく、通常の意味と作品内の意味のハイブリッドを構成するとしています。この観点からdeviationの問題も語られていました。つまり、テクスト内の意味があるからこそテクスト外の構造からの逸脱が機能するという考えです。文学の言語は、内包と外延の区別だけでなく、音韻論と統語論の区別も不明瞭にするということも指摘されていました。しかし、コミュニケーションで現実世界はコード化され、われわれはそれについて認識し語ることができるのに、なぜ文学のような特殊な言語が必要なのでしょうか。この問題について、著者は、通常のコミュニケーションでは見えてこないような現実の側面を意識したり、別の現実像を表象したりするために存在しているということを、宗教や芸術一般と関連付けながら主張していました。後は、具体的な文体分析が展開されていきます。Wilfred Owenの"Futility"という作品の分析においては、テクスト内関係による言語表現の意味の多様化、類似構造による差異の表現、テクストの内的構造などが示されていました。また、文体分析を始めるときは、印象に残った異常、あるいは目を引く表現からはじめることが推奨されていました。次にPhilip Larkinの"Here"という作品をもとに、言語構造における予測の裏切り、その裏切り自体がテクスト内構造として機能している様子が示されていました。論文の最後の言葉として、"It seems reasonable to suggest that the complexity of the syntactic patterning in the text which creates bafflement in the reader reflects what the writer sees as a confused conplexity in perceptible reality." (p. 219)が述べられていました。この論文は、今説明してきた本編に加えて、この論文が世に出た当時の文体論として重要な研究がレビューされています。扱われていたのは、Halliday、Sinclair、Leech、Jakobson、Levin、Thorneの論文でした。このレビューから明らかになることは、研究者によっては作品の解釈のために文体分析を行う者もいれば、単に言語理論の応用性を示すことに興味があり作品解釈については語らないという者もいるということです。個人的にはThorneの生成文法を使った研究の試み(文学の言語は標準言語とは違った言語とみなし、その範囲内での規則を打ちたてようとすること)をとてお面白く読みました(研究方向の妥当性はひとまず置いておいての話ですが)。第3節は文体分析のエクササイズが、第4節はfurther readingが載せてありました。第4節に載っている論文は当時重要とみなされていた論文のようで、必ずしも聞いたことがない論文も複数含まれていました。当時の文体論の動きを知る上では重要な論文になると思います。まさに、教科書的な論文でした。今となってはそれほど読む必要もないかとは思われた論文ですが、これから文体論を志そうとする人にとっては、研究のいいスタートを切ることができる論文かもしれません。

今日のエンターテイメント

●台湾の友達に夕食をごちそうになりました。どうもごちそうさまでした。

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2007年4月24日 (火)

2007年4月24日火曜日

今日は、昨日飲んだ白ビールのおかげもあってか、とっても快眠できました。

今日の読み物:

ライアン,M.(2006).『可能世界・人工知能・物語理論』(岩松正洋(訳)).水声社.(原著は1991年出版)第7章(筋の力学-目標・行動・計画・私秘的物語)

感想:久々にこの本を読むことを再開しました。この章では、物語の筋を登場人物たちの意図世界の構造によって説明しようとされていました。特に、現状、避けられるべき状態、結果状態、目標状態、の間の関係に基づいて議論が展開され、更には他の登場人物のそれらの構造や副作用的状態などとも絡めながらの話でした。とても面白く読みました。これらの葛藤やその葛藤を乗り越えることなどにうよって、物語の筋は進んでいくことになるそうです。

Allen, G. (2000). Intertextuality. London: Routledge. Chapter 1 (Origines: Saussure, Bakhtin, Kristeva)

感想:主に、間テクスト性という概念が出来上がるまでと、その概念のクリステヴァによる発展がまとめられていました。第一節でソシュールによる差異の体系としての言語体系とバルトによる作者の死について簡単に説明した後、第2節と3節でバフチンの議論を見ていきます。発話は全て過去の発話に依存しているというダイアローグに注目していきます。ダイアローグが、小説内の登場人物間の談話のみでなく、特定の登場人物の発話自身にも適用されていきます(double-voiced discourseheteloglossia)。発話には必ず他者性が混在しているということが指摘されていました。バフチンの間テクスト性の議論は社会的であり、その原因を人間の作者に関係づけるのが特徴です(ポスト構造主義は言語自体にその原因を求めた)。クリステヴァは、こういったバフチンの社会的な議論をベースにして彼女自身の研究を進めていくことになります。第4節ではテル・ケル誌について説明がなされます。基本的にはクリステヴァが現れた背景の説明です。彼女は、神や正義など超越したシニフィエへの挑戦をすべく、産出あるいはシニフィアンスの学(semianalysis)を展開していくことになります。第5節では、クリステヴァの間テクスト性の議論の中に見られるダイアローグの遺産を見ていきます。この節で議論されていたことは次のような事柄でした。(1)テクストは過去のテクスト(discourse)の配列のし直しに過ぎず、意味はテクストの中身と同時に外部に存在している(ideologeme)、(2)テクストにおいては、主体は喪失している(subject of enunciation)、(3)詩的言語はAであると同時に非Aである存在で、神といったモノローグ(西洋形而上学の根本)と戦うことになる(ソシュールのアナグラム研究などもバフチンのダイアローグの議論に加えながらの議論)、(4)ヘーゲルの弁証法をバフチンは援用はしているが、それはバフチン議論とヘーゲルの弁証法を混同してはならない(バフチンによるアウフヘーベンは、決してモノローグの復活を意味しない)。第6節では、クリステヴァがラカンやフロイトなどの議論をもとに発展させていった事柄に触れられていました。Desireという考え、thetic phase、セミオティックvs. サンボリック、choraphenotext vs. genotext19世紀後半から興ったモダニズムの作品を基盤とした議論の展開、Freudcondensationdisplacementを元にintertextualityという考えを発展させたtranspositionという概念、悦楽、などが扱われていました。また、第7節では、クリステヴァはバフチンが持っていた社会的な側面や、文学における規範の存在といった点を十分に捉えていないという批判からスタートして、間テクスト性という概念自体が間テクスト的であるのだということを認識する必要があるということを主張していました。間テクスト性のどの概念が正しいのかということ議論するよりも、その概念の多様性を認識することの方が重要とのことでした。こういった点を誰よりも強く認識しながら研究を行った人としてバルトが挙げられています。次章ではバルトが議論されます。

●今日のエンターテイメント

White Crossのパブ・クイズ:今日は参加者は僕を含めて三人でしたが、とても楽しく参加することができました。入賞とかは全然できなかったんですけど、面白かったです。

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2007年4月23日月曜日

今日から三学期(Summer Term)がスタートです。スタートとは行っても、これまでの学期とは違って授業はありません。基本的にはディサテーションのための自主学習がメインとなります。また、今日はアサインメントの提出日でしたので、昼ごろに滞りなく提出することができました。家へ帰るとドバッと疲れが出て、お昼寝をしました。

今日のエンターテイメント:

●『Notes on a Scandal』をコースメートと見に行き、そのシネマで一杯だけお酒を飲んで帰ってきました。映画はとても面白くて、大満足です。ちなみに、ものすごい雨が降っていました。傘をさしてもあまり意味はなかったように思います。

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2007年4月23日 (月)

2007年4月22日日曜日

今日はいよいよコースワークの最終ドラフトを完成させ、プリントアウトすることができました。後は明日提出するだけです。イースター休暇最後の日だったので、残りの時間はのんびりしました。

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2007年4月22日 (日)

2007年4月21日土曜日

今日は、Research Issues in Applied Linguisticsのアサインメントの修正及び、昨日から読み続けている論文を読んだりして過ごしました。また、長い間祖国へ帰っていたフラットメイトと久々に再会し、話をしたりしました。

今日の読み物:

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 17 (Form and meaning)

感想:この章では、言語形式自体も融合の作用を受けることが示されていました。また、一つの言語形式とその背後の融合プロセスは一対一で対応しない点も改めて強調されていました。ここでは、Noun-Noun、Adjective-Noun、Caused motionといった言語構造が取り上げられ、それらの背後でどのような概念融合が生じているかが示されていました。また、純粋に言語形式上の融合も存在することも指摘してありました。さらに、emergent syntaxという面白い現象についても簡単に触れてありました。いろいろと修士論文で考える材料が示されていたので、ためになりました。特にtemplateという概念がたびたび用いられていたのですが、結構使えそうです。また、recursionという概念も紹介されており、この概念との関連で変化であるとかchunkingというものが融合理論の観点から捉えなおされていました。また、言語変化についても議論されていました。著者としては、言語の共時次元での使用が変化を引き起こすと考えているようです。ただ、文法的な側面にフォーカスを当てても、根本的なhuman-scaleという原則が大きく機能しているそうです。品詞は既にhuman-scaleとなっており、それゆえに別の品詞が生まれることはないとされていました。少し難しめの章だったんですけど、とても重要な示唆がちりばめられていたので、時間を置いてもう一度読み直す必要があるかなあとも思っています。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 18 (The way we live)

感想:これでこの本をやっと読み終わりました。最後の章は、あとがきといった感じだったでしょうか。融合スペースは、歴史的(時間的)に到達するのに時間がかかったとしても、一度マスターすると、とても簡単で、むしろ今度はその融合から逃れることの方が大変になります。人類はdouble-scope capacityとそれに基づいた生物学的な融合を与えられて生まれてきて、そして3歳までに文化の基本的な融合をマスターし、今度はそれらを土台にして新たな融合を繰り返していきます。また、同時に融合の分解も行い、融合とその分解を繰り返す中で知識を吸収するなど発達をしていくそうです。こういった考えは、nativistとnon-nativistの言語習得観とは相容れないものです。融合理論の中では、世界は融合に溢れており、そして融合の中でしか人は生きていけません。融合とは人の生き方そのものなのです。まさに壮大な最終章でした。

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2007年4月20日金曜日

今日は、Corpus Linguisticsのアサインメントの見直しをしました。まだちょくちょく直さなければならないところが見つかってしまうのが何とも言いがたいところではあります。あとは、長い論文の半分を読んだり、そんな感じの一日でした。

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2007年4月20日 (金)

2007年4月19日木曜日

今日は、Research Issues in Applied Linguisticsのアサインメントの見直しです。先日のCorpus Linguisticsの時と同様に、随分と時間短縮ができました。一安心といったところでしょうか。

今日のエンターテイメント:

●コースメートと昼ごはんを控え室で食べました。皆、アサインメントに関して最後の追い込みです。

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2007年4月19日 (木)

2007年4月18日水曜日

今日はタウンへ買い物へ行きました。しばらく行っていなかったので、色々と買うものがあり、少し大変でした。また、タウンでは友達にもばったり何人か会い、お互いのアサインメントの進み具合などについて話したりしました。さて、ただ、今回タウンへ行った本当の目的は散発です。前回の散発は1月の最初の方だったと思うのですが、髪の毛が伸び散らかっていたので、さっぱりさせました。結構時間は待たされたんですけど、それでは頭がすっきりして、よかったです。家に帰ると、なんだかものすごい疲労におそわれ、そのままベッドへ。起きたらもう夜の12時になっていたので、勉強は諦めて、そのまま再びベッドへ。意志の弱さを感じます。。。

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2007年4月18日 (水)

2007年4月17日火曜日

今日は、Corpus Linguisticsのアサインメントの2回目の修正をしました。一回目よりは随分とマシな格好になっていたようで、修正する時間も随分と短くなりました。

今日の読み物:

Flowers, B. S. Introduction. In C. Rossetti, The complete poems (pp. xxxviii-xlvii). London: Penguin.

感想:Christina Rossettiの伝記的な情報と、彼女の作品への批評についてコメントがされていました。彼女の伝記的な重要情報として、英国国教会へのコミットメント、彼女の詩はすべて母親にささげられたこと、愛や死を扱った短い叙情詩が多い、彼女が好きだったゴシック小説家Charles Maturinの小説の登場人物を基にしたモノローグの作品、聖書へのアルージョン、欽定英訳聖書に影響を受けたリズムや韻、単純で明快な作風、物事の表層の重視、他の作家と同様に当時の文学的あるいは政治的な影響を受けていること、前ラファエロ前派へのコミットメント、もともと児童詩や児童小説に関心が強かったこと、同じ女流作家としてBrowningを意識していたこと、作品から彼女の宗教的側面を読み取ることは精読や精神分析学的伝記批評では困難であること、彼女は読者に宗教的知識を期待して作品を書いていたこと、が述べられていました。その他、彼女の家族構成や生活スタイルなどもたくさん書かれていましたが、ここでは割愛します。また、彼女の作品に対する批評にかんしては、以前は彼女の作品はもっぱら成就しない愛という観点から語られることが多かったそうですが、70年代にフェミニズム批評が現れてからは、彼女のGoblin Marketへの批評を走りとして、どんどんとその権威への挑戦という観点から語られることが増えていったそうです。1830年12月5日誕生、1894年12月29日没。

Kristeva, J. (1980). The bounded text. In J. Kristeva, Desire in language: A semiotic approach to literature and art (T. Gora, A. Jardine, & Roudiz Trans., pp. 36-63). Oxford: Blackwell. (Original work published 1969)

感想:さすがに相当の難易度です。この論文は、intertextualityという語が初めて造られた論文として有名で、その関係で読みました。ここで言うintertextualityとは、所定のテクストの外のものがあるテクスト内で価値を持つこと、を意味しています。本論文の主眼は、小説がいかに束縛されたものであるのか、ということを示していくことにあります。この現象はideologemeという語でも呼ばれています。その前準備として、中世のsymbolからsignへの以降が簡単に触れられ、それぞれの特徴がまとめられます。そして、signの特徴をよく具現しているものとして、La SaleのJehan de Saintreを見ていきます。その中で、まず比較的低次元なものとなるdisjunctionを指摘します。これは、対立項が対立したままで、お互いに相容れず、両者の間に大きな隙間がある関係のことです。しかし、小説にとって真に重要なのはdisjunctionではなく、nondisjunctionなものだと指摘します。それは、両者が他者であると同時に同じものであるという関係で、disjunctionのような対立項間の隙間はありません。disjunctionでは、それぞれの項がお互いを否定すると同時に、肯定されなければなりません。この議論の中で、性別のことを引き合いに出して、フェミニズムの議論の片鱗を垣間見ることもできました。対立項が連結されることを、著者はagreement of deviationという言葉で呼んでいました。それでは、テクストを閉じたものにしているのは何でしょうか。著者は、それはideologeme(彼女が言う意味でのintertextuality)であるとします。この問題は、エクリチュールの虐げにも大きく関与しているとのことです。難しいですね、やっぱり。

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2007年4月17日 (火)

2007年4月16日月曜日

今日の読み物:

Ritchie, L. D. (2004). Lost in "conceptual space": Metaphors of conceptual integration. Metaphor and Symbol, 19 (1), 31-50.

感想:この論文では、融合理論がかなり手厳しく批判されています。以前読んだ、Gibbsさんによる批判よりも厳しいものであるように感じました。指摘されていた問題点を列挙していきますと、融合理論の持つ複雑性を正当化できていない、競合する理論との区別化がされていない、反証可能性や現象の予測性の放棄(彼らが扱っている進化生物学などは確かに現象の予測はできないが、その下地となっている理論には反証可能性があることを忘れてはいけない)、シミュレーションはあくまでもシミュレーションであり実際の脳内の情報処理の姿ではない、人はその場の状況や関連性の原則によって情報処理を急にやめたりするが、そういった点はシミュレーションには反映されていない、単純な事例に融合理論を当てはめるとかえって物事が複雑になる、融合理論の複雑性は神経回路の反映からではなくその理論自体の帰結として生じてしまっている、融合理論は神経回路に基づくとしながらも実際の言及はほとんどなされていない、実際融合理論は神経回路の話とはつじつまが合わない点が多い、コネクショニスト・モデルの方が同じ説明理論としてははるかに効率がいい、分析の対象が文化などにも及んでおりその規模がはっきりしない、「文化のために融合を機能させる」ということがどういうことを意味しているのか分からない、文化などに対して融合理論を適用しても文化伝播については何も説明していることにはならない(類似例としてミーム学が言及されています)、事実と非事実を区別できることがそれぞれにメンタルスペースを導入することの理由にはならない、融合理論に基づいた説明は神経言語学的に不経済になることがある、ある言語表現の分析で反事実スペースを導入する意義が不明(もっとストレートな説明が他に可能であるし、神経言語学的には状況に不要な情報は抑圧される)、4つものメンタルスペースを使うことが神経言語学的に不経済になることがある、単純な事象を複雑にしてしまうことがある、といった点が指摘されていました。ただし、著者は融合理論をガラクタだと言うところまではいっていません。融合理論のおかげで、ものごとがよりうまく説明できる例も多々あることを認めています。ただし、融合理論の説明対象として向き不向きがあり、不向きなもの(たいていは単純な事例)に対してその理論が適用されると、不経済なものになってしまうということを指摘していました。また、神経言語学的基盤の問題はとても興味深く読みました。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 16 (Constitutive and governing principles)

感想:この章では、融合プロセスをコントロールする原理について整理がなされていました。まず、原理を融合である以上は全てのプロセスが従わなければならないconstitutive principlesと、「他の条件が同じならば」という状況のもとで機能するgoverning principlesに分けて考えられます。前者はこれまで見てきたような選択的投射などといったものが該当し、この章ではあまり議論がされていません。主眼は後者にあり、「人間的なスケールに到達せよ」という根本的な原理のもと、具体的な原理がいくつも提案されていました。しかし、governing principleは絶対に守られなければならないものではないので、お互いに競合したり、守られなかったりするということが事例と共に説明してありました。また、異なるタイプの融合プロセスは、どのようなgoverning principleが守られる傾向があり、どれが破棄される傾向があり、どれとどれが競合するのかといったことに関して、ある程度の特徴があることも指摘されていました。面白いと感じた点は、関連性理論との接点が指摘されていたところと、人が物事をどうやって融合であるとみなし、その融合を分解するか(unpacking)が議論されていたところ、全てのものが融合になるわけではなく、融合以外のプロセスもたくさん存在しているという指摘、でした。

Holthuis, S. (1994). Intertextuality and meaning construction: An approach to the comprehension of intertextual poetry. In J. S. Petofi & T. Olivi (Eds.), Approaches to poetry: Some aspects of textuality, intertextuality and intermediality (pp. 77-93). Berlin: Walter de Gruyter.

感想:とても多くの示唆をえることができました。この論文では、intertextualityとはあくまでも意味構築のためのテクスト処理の問題であり、intertextual semiosisはテクストのintertextual dispositionに触発された読者がテクストと相互作用を行う中で生じるという立場で議論が進められていきます。第2節では、intertextual dispositionの分類がなされていました。提案されていたものとしては、まず、typological intertextualityがあり、更にmonolingual and heterolingual intertexutualityがあるようです。また、もう一つのものとして、referential intertextualityが提案されており、discourse and meta-discourse referenceやtotal and partial referenceがあるようです。さらに、strategies of intertextual referenceとして、quotationなどに代表されるlinearized versionとallusionなどに代表されるnon-linearized versionが挙げられていました。しかし、それぞれのdispositionには、明示性の度合いがあり、またallusion markerにもlinearizedなものとnon-linearizedなものがあるということが指摘されていました。読者は意味構築プロセスの中でテクスト素性にintertextual valueを付与していくことになります。しかし、intertextuality dispositionが全てではなく、それはあくまでもintertextuality meaning constructionの媒体に過ぎず、より本質的なものとして読者のintertextual competenceがあります。第3節では、intertextualityの処理過程の問題に入っていきます。まず、intertextual competence(knowledge)について説明がされていました。この能力ないし知識は、読者の言語知識と百科事典的(世界に関する)知識に分かれて保存されています。後者は特にintertext knowledgeと呼ばれています。次にintertextualityの意味処理プロセスについて説明がされています。そのプロセスはintertextualizationと呼ばれていました。それは、analogy-construction strategiesとtransformation operationから構成され、これらが機能することでintertextual text worldが構成されることになります。また、重要な問題として、goal of interpretationが指摘されていました、intertextualityの問題は、a (mainly) text adequate、a (mainly) author-adequate、a (mainly) reader-adequate interpretationの形を取ることができます。しかし、この点に関して、どの視点を取るにせよ、いずれも読者の再構築物であることには変わりはないということが細くされていました。次に著者の用意した事例(ドイツ語の詩)を分析していきます。ただ、分析の前にいくつか重要な点が指摘されています。まず、情報処理にはfixed orderはないこととintertextual interpretationはintratextual interpretationを前提としなくてもいいことが指摘されていました。次に、intertextualityはそのテクスト内でconstructive(言及されたテクストが統合されること)かcomparative(テクスト間の比較に主眼があること)に分かれることが指摘され、更に、constructiveなものとして処理される場合、更にautonomous(引用されたもの自体)なものとsubstitutionary(他の情報のためのコードとして引用されているもの)なものに分かれることが指摘されていました。その後は、a fictitiousmphilologically trained readerの視点で、著者の事例を分析していきます。また、論文の最後の部分では、ポスト構造主義の中では読者は何が引用されているのか把握することなくconstructive-autonomousな処理を行うことができるという点が指摘され、特にポスト構造主義の場合はテクスト世界の構築というよりはテクスト構造に関するメタモデルの構築がintertextualizationの結果としてなされることが述べられていました。また、著者が用意した事例はconstructive-substitutionary functionの中で説明がなされていました。修士論文の内容について色々と考えることができ、とても有意義でした。

今日のエンターテイメント:

●台湾の友達から小豆スープを頂戴しました。ありがとうございました。頂きます。

●Sparへ買い物へ言ったらEAPコースで同期だった中国人と台湾人の友達2名に会いました。久々に会ったので、楽しかったです。二人の関係が気になるところです。

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2007年4月16日 (月)

2007年4月15日日曜日

今日は、Research Issues in Applied Linguisticsのアサインメントの修正を行いました。予想をはるかに上回る時間がかかってしまい、丸一日アサインメントにつきっきりになってしまいました。おかげで他には何もできず。とてもくたびれました。。。

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2007年4月15日 (日)

2007年4月14日土曜日

今日は、Corpus Linguisticsのアサインメントの読み直しをしました。やはり、一回目の修正は時間がかかってしまいます。。。

今日の読み物:

Tobin, V. (2006). Ways of reading Sherlock Holmes: The entrenchment of discourse blends. Language and Literature, 15 (1), 73-90.

感想:この論文では、シャーロック・ホームズを心から事実と信じている読者と心の中ではフィクションと分かりながらも敢えて事実として読んで楽しんでいる読者(Sherlockian)のreading stanceの違いが融合理論で記述されていました。前者は、simplex scopeで、後者はmultiple blendsで記述がなされていました。また、Sherlockianは、時代が変わるにつれて、融合をルーチン化してしまい、かつて強調されていたような皮肉性(わざとらしくアカデミックな文体を真似るとか)などは、完全に共同体内で共有されてしまったので、現在ではあまり強調されないか、すっかりと捨てられてしまったとのことです。この現象を著者は、融合のroutinization、ritualization、entrenchment、などといった用語で表現していました。僕にとって新奇な内容だったので、少し読みにくかったのですが、融合理論でこういった側面の研究もできるのだなあと、感心させられました。

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2007年4月14日 (土)

2007年4月13日金曜日

今日は、以前書き残していた、Research Issues in Applied Linguisticsのアサインメントの最後の部分を書き終えました。かなり時間がかかってしまいました。あとは、何回か読み直して、よりよいものに仕上げていく作業に任せたいと思います。

今日の読み物:

Semino, E. (2003). Possible worlds and mental spaces in Hemingway's 'A very short story'. In J. Gavins & G. Steen (Eds.), Cognitive poetics in practice (pp. 83-98). London: Routledge.

感想:融合理論のことで何か書いてないかを見るために読んだのですが、何も触れられていませんでした。むしろ、純粋に可能世界理論とメンタル・スペース理論の枠組みの中で、ヘミングウェイの短編小説の展開を分析していました。可能世界理論は、理解プロセスの産出物に対して適用されるものであり、その構築プロセスであるとか、読者のメンタルと言語表現の間の相互作用、テクスト内の言語選択などはほとんど考慮することがないと特徴づけられていました。メンタル・スペース理論では、space builderが重要となるのですが、文学テクストの場合、このspace builderが明示的に示されていない場合が多くあります。ということで、文学テクストの場合は、明示されていないspace builderを見つけだす作業が必要になります。また、可能世界理論で言うところの代替的可能世界は、メンタル・スペースのネットワークの産物とみなすことができるとの見解が示されていました。また、図式内におけるメンタル・スペースの配置については、幾通りかのやり方があるという点も指摘されていました。

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2007年4月12日木曜日

今日の読み物:

Freeman, M. H. (2005). The poem as complex blend: Conceptual mappings of metaphor in Sylvia Plath's 'The Applicant'. Language and Literature, 14 (1), 25-44.

感想:この論文では、詩における言語表現が複雑な融合プロセスの結果としてメタファーとして機能していることが示されていました。本論文で扱われている作品はとても複雑な構造をしており、multiple-blendとしてみなされています。融合理論のアドバンテージとしては、複雑な認知プロセスを語るためのメタ言語をもたらすことにあると言います(p. 28)。また、著者はあくまでも融合理論の分析は"a real-time simulation" (p. 41)であるという立場を表明していました。また、音声や脚韻構造についても簡単に触れてありました(p. 40)。

Burke, M. (2006). Cognitive stylistics. In K. Brown (Ed.), Encyclopedia of language and linguistics, Vol. 12 (2nd ed., pp. 218-221). Oxford: Elsevier.

感想:認知文体論の発達と特徴について簡単にまとめてありました。特に印象に残った指摘は、"[cognitive stylistics] attempts to describe and account for what happens in the mids of readers whrn they interface with (literary) language" (p. 218)、主な関心事は"what do people do when they read?"と"what happens to readers when they read?" (p. 218)であること、cognitiveはtop-down processingを、stylisticsはbottom-up processingを、そしてcognitive stylisticsは両プロセスの相互作用を連想させること、がありました。また、cognitive poeticsという名称との関係についても述べてありました。cognitive poeticsは、cognitive linguisticsに、cognitive stylisticsはcognitive psychologyやcognitive scienceに直接に連結しているという違いがあるが、結局cognitive linguisticsはcognitive psychologyやcognitive scienceに基づいているため、実質的に違いはないことが指摘されていました。それでもなお、分野の名称としてはcognitive stylisticsの方がcognitive poeticsよりもふさわしいと主張しています。その理由として、後者では形式的な側面の強調に欠ける点、またReuven Tsurの研究アプローチのみを想起させる点、が挙げられていました。分野の整理をすることができ、勉強になりました。

今日のエンターテイメント:

●今日は論文をコピーしたりと、外出したのですが、コースメイトに会ったりすることができ、リラックスできました。

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2007年4月12日 (木)

2007年4月11日水曜日

今日の読み物:

McAlister, S. (2006). 'The explosive devices of memory': Trauma and the construction of identity in narrative. Language and Literature, 15 (1), 91-106.

感想:この論文は、Helen WeizweigさんのBasic Clack with Pearlsという作品内に登場する一人称の語り手でもあるShirleyのアイデンティティーの表象について融合理論に基づいて説明がなされていました。彼女は小さい頃の経験が原因でトラウマを持ち、主体が分裂しています。その様子がテクスト内でも繰り返し描かれることになります。著者は登場人物が美術館を訪れ、ある絵画を見る中で、その絵画の世界に引き込まれていくシーンを例として取り上げていました。このシーンでは、彼女の現実世界と絵画の世界が融合され、彼女は絵画に描かれている少女が見えたり、食べ物を食べたりします。そして、その少女は、小さい頃のShirleyと融合され、トラウマとしてShirleyの意識化に押し込まれているエピソードと似た話をShirleyにします。しかし、Shirleyは、恋人を探すという意識的な目的を持っており、常にそういった経験が起きると、その目的を優先して、トラウマを意識化に押し込めたままにしようとします。しかし、彼女は徐々に子供の頃のことを語ったりするようになります。ということで、融合自体がテクストの展開にも影響を与えていることも指摘されていました。トラウマの理論としては、Caruthという研究者の考えを応用していました。また、主体の分裂を扱った認知文体論はこれまでにもあったが、この作品は分裂した自己の間の共通点が完全に欠如しているという点でこれまでの研究とは違うとしています。また、異なる自己が表に出ているときには、時制などいくつかの文体論的な違いを伴っていることも指摘されていました。著者が考える、融合理論のいい点は、やはり現象の記述能力にあるようです。そして、作品の解釈に役立てることができることも強調されていました。現に本論文では、作品の解釈に融合理論の分析が組み込まれており、とても面白かったです。僕は元来、トラウマといったテーマの論文は得意ではないのですが、今回初めて読んでみて、これからは少し興味を持ってみようという気になりました。

Gibbs, R. W., Jr. (2000). Making good psychology out of blending theory. Cognitive Linguistics, 11 (3-4), 347-358.

感想:これは、融合理論の問題点(課題点)を指摘している論文として、融合理論の論文ではよく引用される論文です。ただし、著者は融合理論の有用性については認めた上での論文であるということを銘記しておきたいと思います。著者は、融合理論のいい点として、広範な現象の説明能力、意味構築に対する明示的な関心、動的な視点からのアプローチ、意味や認知における創発という点の強調、を挙げています。また、課題点としては、反証可能性についても少し考えてみる必要がある点(ただし、著者は融合理論は半鐘可能なものではないという立場であり、反証可能になる必要は必ずしも考えていないです)、他のアプローチとの関係についても考えてみる必要があること、産出された意味から意味構築のプロセスをどれだけ正確に推定することができるのか考えてみる必要があること、異なるレベルの表象を同じ方法で記述してもいいのかどうか、表象の密度をどう表現するか、処理労力をどう反映するか、表象における全体的/平均的/個人的側面をどのように表すか、慣習として存在しているような側面に対してどう対処するべきか、現存の心理学的理論や心理学で実証された結果がどのように融合理論の中で機能することができるかを示すこと、を挙げていました。最後の点に関して、著者は必ずしも融合理論の研究者は実証的な研究はする必要がないと考えています(p. 355)。

Sweetser, E. (2006). Whose rhyme is whose reason?: Sound and sense in Cyrano de Bergerac. Language and Literature, 15 (1), 29-54.

感想:再読です。本論文の主眼は、形式と意味の融合にあります。特に形式のイコン性に特に注目をしているということができるでしょう。まず、著者は、特に韻文の韻律と脚韻に注目して、次のような3つの考えを提示します。'(1)the metrical line's contents as a meaning unit' (p. 34)、'(2) the formal group of lines (poem, rhymed couplet, stanza...) as a meaning unit' (p. 35)、'(3) The meanings of rhyming, alliterating, etc. subunits are connected' (p. 36)。そして、これらのことを踏まえた上で、Cyrano de Bergeracの登場人物であるCyranoの発話に注目しながら分析が進められていきます。まず、重要な点として、台詞中で韻文構造の構築により貢献している方が、決闘においてもより優位にことを進めているという、form-content間の融合が指摘されます。また、作品中ではCyranoと彼の恋のライバル(戦死しました)が融合され、芸術と人生が融合されていく過程や、Cyranoが作品の作者であるRostandとも融合されていく過程が指摘されていました。また、僕にとって一番重要な点になるのですが、intertextualityに関する指摘がありました。ただし、この論文内で言うintertextualityとは、完全な意味でのものではありません。ただ、作品で既出してる表現が別の場面で再利用されるという過程に注目し、そこにintertextualityでも見られるであろうエッセンス的なものを見出しているといった感じです。その本質というのは、最初の使用場面での内容が、現在の場面の内容と融合するというものでした。この著者も融合理論の意義をその記述能力に求めていました。

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2007年4月11日 (水)

2007年4月10日火曜日

今日の読み物:

Coulson, S., & Oakley, T. (2000). Blending basics. Cognitive Linguistics, 11 (3-4), 175-196.

感想:再読です。融合理論の基本的な事柄について簡単に説明がしてありました。特に目新しいことはありませんでした。融合理論の問題点として、反証可能性、何でも理論の危険性、後付け的説明方法、が挙げられていましたが、そういった問題点に対して、著者らは、次のように答えています。反証可能性については、それが唯一の目指すべき方向性ではないことを、何でも理論の危険性については、確かにその通りであること、後付け的説明方法については、こういった方法は将来の研究に役立つこと。何でも理論の危険性については、果たして全ての領域が同じような情報の流れ方をしていることを仮定してもいいのかどうかという重要な問題があり、著者らもこの点は真摯に批判を受け止めていました。

Turner, M. (2006). Compression and representation. Language and Literature, 15 (1), 17-27.

感想:論文の主眼は、様々なレベルの表象がどのように圧縮されるかを例示することにあったと思います。いくつか事例が挙げられながら進むのですが、特に重視されていたのは文学作品内(Frederic Mistral (1958)のMireille内の'O, Magali')のセレナーデの例とクマのプーさんの話でした。セレナーデの例では、セレナーデ内の恋人同士の言葉のやり取りが二人の人生と融合している例が挙げられていました。クマのプーさんの例では、作品内での様々な表象様式がどのように更にお互いに圧縮されているかが列挙されていました。これは、作品の内的構造に関わることかもしれませんね。勉強になりました。

Dancygier, B. (in press). Narrative anchors and the processes of story construction: The case of Margaret Atwood's The Blind Assassin.

感想:この論文では、融合理論の考え方が、テクストレベルで拡張されていました。例えば、mental spaceはnarrative spaceに拡張され、narrative spaceを導入し、かつnarrative space間を関連付けるものとしてnarrative anchorという概念が導入されていました。この論文で分析されているThe Blind Assassinという作品は、本のストーリー全体(Story-S)の中に、大きく2つの小さな話が挿入されており、1つの中程度の話の中に組み込まれており、それらがnarrative anchorによってnarrative spaceとしてそれぞれ導入されることになります。そして、それぞれのnarrative spaceが、narrative anchorなどの助けにより、関係付けられ、結果として創発的構造としてのストーリー全体が現れるとされます。この論文は、物語は時系列にそった出来事の連鎖ではなく、階層的に関係付けられたnarrative spaceのネットワークであるということを主張していました。この論文は、例えばテクスト言語学が文レベル(ミクロレベル)の文法理論をテクストレベルに拡張したのと同様に、ミクロレベルの融合理論をテクストレベルに拡張したものと認識しました。しかし、このような拡張によって何か新たな点が生まれたのかどうか、ということについては少し疑問が残るところではあります。でも、考え方としてはとても面白かったです。

今日のエンターテイメント:

●以前隣の部屋に住んでいた方に夕食にお呼ばれになりました。食後にはコーヒーを飲みながら色々とお話をさせてもらって、とても楽しかったです。どうもありがとうございました。

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2007年4月9日月曜日

イースター休暇も今日から後半です。休みも残り2週間となりました。昨日、レポートが終わったので、少しここで休憩をとることにしました。今までも何回か勉強をしていない日があったのですが、それは他のことをしなければならなかったからで、本当の意味では休憩ではありませんでしたので、久々に気分的にのんびりした感じがしました。

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2007年4月 9日 (月)

2007年4月8日日曜日

今日、遂にCorpus Linguisticsのアサインメントが完成しました。残りは、Research Issues in Applied Linguisticsの最後の部分を書くだけです。最後の部分を書くためにはもう少し文献を読む必要があるので、完成にはもう少し時間がかかりそうです。

今日の読み物:

Semino, E. (2006). Blending and characters' mental functioning in Virginia Woolf's 'Lappin and Lapinova'. Language and Literature, 15 (1), 55-72.

感想:再読です。multiple-scope blendingという観点から、作品内の主人公たちの空想世界の発達が記述されていました。また、Palmerのintramental functioningとintermental functioningという観点からも議論されていました。当初は登場人物の空想世界はintermental functioningとしてどんどんと融合によって発達していきます。しかし、主人公の夫は徐々にその空想世界から離れていき、彼女だけのintramental functioningとして存在しはじめます。彼女は徐々にその融合世界と現実世界の区別ができなくなり、融合スペースからのbackward projectionが作品内に垣間見られるようになります。本作品の特徴がうまく扱われていて、とても面白かったです。また、本論文の問題点として、本論文が用いた方法以外でもconceptual integration networkが記述可能であることが重要な点として挙げられていました。また、融合理論の利点として、文学の現象を人間の一般認知に関わる用語で語ることができることを挙げていました。

Freeman, M. H. (2006). Blending: A response. Language and Literature, 15 (1), 107-117.

感想:『Language and Literature』誌15 (1)号は、「融合理論と文学の言語」特集で、そのシメを行っている論文です。論文の前半部分は特集内の各論文に対してコメントがなされています。大事なのは後半でした。融合理論は今のところ、feeling、intentionalityというものをうまく扱えていないといいます。Langerさんが以前言語形式が感情を表すということを述べたのですが、このことが扱えていないという点を指摘しています。そして、更には文学形式のイコン性も扱っていく必要があることも述べられていました。しかし、最近融合理論を改良したモデルも続々と出ており、BrandtさんのモデルとHiragaさんのモデルが将来有望株として紹介されていました。読むべき文献が増えましたね。

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2007年4月 8日 (日)

2007年4月7日土曜日

今日の読み物:

Semino, E. (in press). Text worlds. In G. Brone & J. Vandaele (Eds.), Cognitive poetics. Berlin: Mouton de Gruyter.

感想:再読です。Carol Ann DuffyのMrs Midasという詩におけるテクスト世界の構築を題材として、様々な理論のよさを色々と紹介していくというものです。Duffyさんの作品はギリシャ神話のMidasという話との間に間テクスト性をもっています。この論文内では、Ryanの可能世界論、Werthのtext world theory、Emmotのcontextual frames theory、Fauconnier and Turnerのblending theoryが扱われていました。特に重点が置かれていたのはRyanとFauconnier and Turnerでした。blending theoryのセクションでは、blendingをschema refreshmentと関連付けたりと面白い指摘もありました。しかし、これらの方法論では、作品が描写しているものは扱えるが、描写方法の取り扱いにはどうしても弱く、具体的な文体論分析と平行して用いられていく必要があることが指摘されていました。また、最近徐々に強調され始めているという、テクストにおける登場人物の心(mind)の説明にも少し弱いということが指摘されていました。フェアな指摘だと思います。

Hall, G. (2003). The year's work in stylistics: 2002. Language and Literature, 12 (4), 353-370.

感想:著者によると、2002年は認知文体論(詩学、修辞学)の年であったそうです。ただし、著者は認知文体論という分野に対してはかなり懐疑的です。というのは、特に目新しいことというのを何も提出していないからだとします。事実、認知言語学的な道具を使ったところで、出てくるものは文体論の中では常識的なものであるとして批判しています。実は、このことは僕も最近融合理論を使った文体論を読む中で少し気になっていたことでしたので、とても自分にとってホットな主張でした。同じ認知的なものでも、文学の経験的研究に関してはかなり評価をしているようです。というのは、やはり新しい知見やテーマ(読者の役割や読者のパースペクティヴなど)というものをどんどんと文学の世界に持ち込み続けているからのようです。そのほか、メタファー、ナラティブ、談話分析、textuality/poetry/poeticsというセクションがあったのですが、特に自分とは関係がありませんでしたので読みませんでした。

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2007年4月 7日 (土)

2007年4月6日金曜日

今日でとりあえず、やっともとのペースに戻すことができたような気がします。リーディングの方は2日分ビハインドですが、比較的余裕をもって計画を立てているので大丈夫なような気がしています。

今日の読み物:

Semino, E. (2002). A cognitive stylistic approach to mind style in narrative fiction. In E. Semino & J. Culpepper (Eds.), Cognitive stylistics: Language and cognition in text analysis (pp. 95-122). Amsterdam: John Benjamins.

感想:実は再読です。僕がエヂンバラにいた頃に一度読みました。当時は融合理論をあまり知りませんでしたし、融合理論を使った文体論というのも読んだことがありませんで、とても読んでいて熱い思いになったのを覚えています。しかし、融合理論を用いた初期の論文ということもあり、最近のこの分野の発達からみれば少し雑な感じがしますが、とても読みやすくて面白いです。この論文はFowlerが考案したmind styleという概念の整理を行った後、作品を例に取り上げながら、schema theory、cognitive metaphor theory、blending theoryがどのようにmind styleの研究に資することができるのかが示されています。特に後者2つに重点が置かれており、cognitive metaphor theoryは登場人物の独特のmind styleの構造を説明するのに役立てることができ、blending theoryはその構造の具体的な状況における具現を扱うのに役立てることができるということが主張されていました。また、こういった認知言語学の概念を用いることについて、"Their main attraction for my puyrposes is that these theories have considerable explanatory power, and can be used to provide clear, systematic and cognitively plausible accounts of the linguistic construction of mind style in narrative fiction" (p. 119)という立場表明がなされていました。

Dancygier, B. (2006). What can blending do for you? Language and Literature, 15 (1), 5-15.

感想:再読です。今となっては特に目新しいことはありませんでした。議論されていることは、融合理論の基本的な事柄です。ただし、事例が少し分かりにくいのが難点ではあります。また、大事な点として、融合理論はまだ実際の神経活動についてコメントをできるほどには発達していないという点が指摘されていました。しかし、そのモデル化や理論的面白さは相当にあるという点も強調されていました。

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2007年4月5日木曜日

今日は、Corpus Linguisticsのアサインメントを1,000語ほど書きました。明日は、更にもとの勉強ペースに戻すつもりです。

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2007年4月4日水曜日

今日も、昨日と同じく、大事なメールの件で頭が手一杯。でも、何とか結論が出たので、明日からまた徐々に勉強モードへ移行します。

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2007年4月3日火曜日

今日は日本からとても大事なメールが来て、そのことで手一杯。お勉強はゼロでした。

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2007年4月 3日 (火)

2007年4月2日月曜日

今日から、Corpus Linguisticsのアサインメントの作成に取り掛かりました。Research Issues in Applied Linguisticsはしばらくお休みです。また、お隣さんがお引越しをされるということで、その人の荷物を僕のフラットから新しいフラットへ移すのを手伝ったりしました。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 14 (Multiple blends)

感想:久々に理論編の章でした。この章では、今までの典型的なconceptual integration network(2つのinput space、1つのgeneric space、1つのblending spaceからなる)を超えて、更に複雑なネットワークシステムが議論されていました。インプットスペースが2個以上あったり、blending spaceが更にインプットスペースになったりといったネットワーク体系が議論されていました。また、Generic spaceに関するかなり突っ込んだ議論もあり、体系全体を統括するGlobal Genericというものが導入されていました。generic spaceはgeneric space同士でネットワークが構築されるようです。また、基本的にどんなときも実はmultiple blendsが機能しているということも指摘されていました。とても読み応えがありました。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 15 (Multiple-scope creativity)

感想:果たしてこの章は必要だったんでしょうか?融合スペースにインプットスペースから選択的な投射がなされ、それが思いもかけない融合を生み出すということが強調されていただけのように思います。もちろん、面白い実例に基づきながら説明されていたので、読んでいてとても楽しかったのではありますが。「せっかくmultiple-blendsも導入したし、ここでmultiple-blendを踏まえたうえで、これまでのおさらいをするか」といった感じでしょうか。おそらくは、次章で深い議論をするために、ここでもう一度情報を整頓しておこうということがねらいなんでしょうね。

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2007年4月 2日 (月)

2007年4月1日日曜日

今日はエイプリル・フールでしたが、特にだまされることもなく、平和に一日が過ぎていきました。

今日の読み物:

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 12 (Identity and character)

感想:この章では、characterとframeは密接に関連していること、それらはGeneric spaceの構築物とも考えることができること、しかし融合スペースにおいてインプットとしても導入されることができること、異なる二つのcharacter(frame)を関心のあるframe(character)の中に入れて融合スペースを走らせることによってそのframe(character)の明確化が可能になること、償いや復習といった文化的なものも融合に支えられて存在していること、などが述べられていました。characterに関する議論は、文学理論でも最近発達してきている分野なのでとても面白く読みました。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 13 (Category metamorphosis)

感想:この章では、既成の概念や語がどのように新たな意味を獲得していくのかということがconceptual integration networkを使って説明されていました。特に数学の複素数の発達によってどうやって「数」という概念が変化してきたのかという例示は、なかなか読み応えがありました。新たな概念というのは、単に古い概念に新たな事柄が加えられたりするのではなく、概念の全体的な変形を伴うことであるということが強調されていたように思います(ただし、インプットスペースとの連結があるので、古い概念に立ち戻ることは可能ではありますが)。また、多義性の議論も面白かったです。この本では何度か述べられていることですが、言語の規則は有限ではあるが、その意味を決定せずに色々と意味することができることから、人間の無限の意味活動が支えられているということが、実例と共に示されていたように思いました。とても面白かったです。

Allen, G. (2000). Intertextuality. London: Routledge. (Introduction)

感想:間テクスト性は、その意味が多様であり、下手をすると研究者個人個人が込めたい意味を意味するだけの概念になるかもしれないというおそれから、この概念の歴史的発展を追っていくというのが本書が書かれた動機です。序章では、各章の紹介がなされていました。それに加え、間テクスト性という概念を語る上で最も重要な点が示されていました。それは、この概念の片鱗はSaussureとBakhtinによってほのめかされ、Kristevaが1960年代に初めて語彙かしたということです。それ以降、様々な分野で、それぞれ独自の用法で使われてきた単語のようです。

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2007年4月 1日 (日)

2007年3月31日土曜日

今日は、Research Issues in Applied Linguisticsというアサインメントがひと段落しました。初校が完成したわけではないのですが、今の段階で書くことができることは大体書き終えたという感じです。残りの休み期間に関連文献を読んで、徐々に完成させていかなければなりません。

今日の読み物:

高見健一(1997).『機能的統語論』.くろしお出版.第9章(数量詞の作用域)

感想:本書の最終章でした。数量詞の作用域を機能的ヒエラルキーをいくつか設けることで、説明していました。また、ヒエラルキー間で数量詞の作用域により影響を与えるものとそうでないものについても指摘されており、結果としてなされた分析はかなり切れ味のあるものであったように思います。少し混乱しそうになりながらも、とても面白く読みました。数量詞を持つ文のあいまい性が華麗に説明されていたのもとても勉強になりました。

Fauconnier, G., & Turner, M. (2002). The way we think: Conceptual blending and the mind's hidden complexities. New York: Basic Books. Chapter 11 (The construction of the unreal)

感想:要旨をまとめると、仮想事実スペースは日常のみならず科学などにも相当に溢れており、かつ科学や数学の進展に大きな役割を果たしてきたことが指摘されていました。また、I missed the train.といったような何気ない文にも、現状を示すスペースと電車に乗ることができた仮想事実スペースがインプットスペースとなり、融合スペースにおいてそれらの矛盾が示され、結果その文を発することができるというように、仮想事実スペースが大きく関わっていることが示されています。また、この章では"counterfactuality as a forced incompatibility between spaces in a network" (p. 239)と定義されていました。色々な例が与えられており、とても面白かったです。

Newman, M. L., Pennebaker, J. W., Berry, D. S., & Richards, J. M. (2003). Lying words: Predicting deception from linguistic styles. Personality and Social Psychology Bulletin, 29 (5), 665-675. 

感想:この論文は、統計処理など実験方法もとても厳密になされており、説得力がありました。結論的には、嘘をつく人は、事実を伝える人よりも、一人称代名詞の使用が少ない、否定的感情語が多い、排他的表現(but, except, withoutなど)が少ない、動作動詞が多い、という結果が示されていました。これらは先行研究の概観より予測されたことであり、仮説検証はなされたということになるでしょうか。とても面白かったです。また、いくつか理論から予測していなかったことなどもデータで示されていました。著者らは、それらをタスク独自の特性に帰して、議論を進めていました。ただ、これはこじつけではなく、納得のできるものだというのが僕の感想です。また、個人的に面白いと思ったのは、FBIでも同様に容疑者の言語使用をもとに尋問をするという参考文献に触れられたあった点です。興味のある方のために、参考文献を載せておきます。

Adams, S. H. (1996). Statement analysis: What do suspects' words really reveal? FBI Law Enforcement Bulletin, 12-20.

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