2009年7月13日 (月)

李(2009)

この論文の詳細は次の通り。

絳.(2009).「文体分析の概観と実践-ヘミングウェイ、ダフィ、コープの作品を中心に-」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 31-64).朝倉書店.

感想:この論文では、Hemingwayの"Hills Like White Elephants"を例として、様々な批評方法が紹介されていました。具体的には伝記批評、新批評、元型批評、新歴史主義批評、フェミニズム批評、が紹介されていました。そして、どの批評方法も絶対的なものではないということが指摘されます。次に文体論によってこの短編小説が分析され、その特徴が示されます(p. 40)。著者は、「文体論は社会学的イデオロギーを持たないが、方法論的イデオロギーを持っている」(p. 49)と指摘しています(しかし、この主張は議論の余地があるのではないかと私は思いました)。具体的には視点と焦点化を例とした分析を通して、文体論の紹介がなされていました(この分析自体とても面白かったです)。しかし、文体論とて絶対的な分析方法ではありません。著者は、「研究者の主管に影響される方法論であると自覚し、その局限性を十分に認識(ときには言及)した上で研究を進める前提があれば、文体論研究がテクスト分析において有益な示唆を与えてくれるはずである」(p. 50)と指摘しています。

次にDuffyの'Words, Wide Night'とCopeの'An Attempt at Unrhymed Verse'を例にcontextualized stylisticsの実践がなされ、教育への示唆も与えてありました。分析自体とても面白く、まさに文体論によってむしろ解釈が豊かになるということを実感することができました。著者は最後に「文体論という学問の今後の発展については予測できないが、その可能性は一言で言えばやはり「結合」、つまり他の分野との結合にあると思う。文体論の原点の一つが言語学であるので、言語学が学問として発展すれば、文体論もその知識や手法を吸収するであろう。」(p. 62)と述べてありました。

著者は、何か一つの主張をする際に、必ず事例となるような分析を示しており、非常に説得力がある章となっていたと思います。著者の分析もとても面白く読みました。とても勉強になりました。

2009年7月10日 (金)

プラトン(??/1967)

本書の詳細は次の通り。

プラトン(??/1967).『パイドロス』(藤沢令夫(訳)).岩波書店.

感想:本書は、まさに訳者が述べているように、「哲学のすすめ」といった感じの本でした。恋(エロース)についての部分と弁論術についての部分に分かれていますが、その内容が行き着くところは同じで、真実の追求の重要性が説かれていたと思います。

恋の部分については、リュシアスの「自分のことを恋している人よりも恋していない人の方を大切にするべきである」という主張をベースにして展開します。登場人物のソクラテスは、リュシアスとは逆の主張「自分のことを恋している人の方を大切にするべきだ」という考えを展開します。そして、なぜそのように主張するのかということを根源的に魂(プシュケー)のレベルから考えていきます。本書では、p. 52からp. 85までの範囲でこのことが詳しく議論されていました。恋とは狂気であり、これは神から授けられたものであるとソクラテスは述べます。そして、魂は不死であり、自らを動かすという性質(本質)を持っていると彼は主張します。そして、魂は善悪2頭の馬とその手綱をもっている御者というイメージで捉えられていて、生えた翼をもってしてイデアへと帰ろうとします。しかし、何かのきっかけで真実性を見そこない、地上に落ちる魂もあり、その魂がこの世で生を送る中で美しい人に出会い、そのことをきっかけとして美のイデアを思い出し、イデアへと帰るための翼が再び生えてくること、それを「恋」と呼ぶのであると主張してありました。美は視覚に訴えるので、他の真実性に比べるとイデアを想起しやすいと考えられていたようです。

次に弁論術についてです。多くの弁論家は、真実そのものを把握するということはあまりせずに、手本の暗記、弁論のための弁論、といったことを行なっていたようで、そういった風潮を是正しようとされていました。当時の弁論家は、真実そのものよりも、真実らしく見せようとすることを重視していたそうです。ソクラテスはディアレクティケーという概念を提示し、そこには分割と綜合という方法を組み込んでいます。この方法を駆使して真実を追究することが必要だということです。しかし、その形式的な面だけを重視すればよいというのではなく、その内容的な面と不離の状態で真実の追究に臨むことが必要だと述べていました。

まさに、哲学の語源、知への愛、ということを髣髴とさせる本でした。以前、『メノン』を読んだことがあるので、この本での魂の議論は比較的すんなりと理解することができました。ここでは魂の議論のほんの一部しか紹介していませんが、かなり系統だって述べられていますし、注釈も充実していますので、詳しくは本書をご覧下さい。また、ディアレクティケーについても、ソクラテスがうまくまとめをしてくれていますので(pp. 141-142)、詳しくは該当箇所をご参照下さい。また機会があれば、プラトンの他の著作も読んでみたいと思います。なお、訳者の解説は本書の内容を整理するのにとても役立つと思いました。

寺澤(2009)

本章の詳細は次の通り。

寺澤盾(2009).「中世の英詩を読む-定型性と創造性-」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 7-30).朝倉書店.

感想:この章では、特に『ベーオウルフ』など古英語で書かれた作品を中心に、議論が展開されていました。古い時代のテクストには定型句が多く用いられるそうですが、その理由としてMagounによる口承定型句理論(パリー・ロード理論)がまず言及され、その限界点も指摘してありました。この理論は、テクストを口承詩と見なし、「口頭による即興的な作詞を容易にするために定型句が用いられた」(p. 10)という仮説ですが、著者は書記詩にも定型句が多く用いられていることから、この仮説には限界があるとしています。「口承文化時代の遺産が非口承文化においても受け継がれたものである」(p. 11)というのが現在の主流の考えのようです。

しかし、定型句が多いからといって決して古英語詩が独創性を欠くわけではありません。著者はこのことを指摘していきます。まず、定型表現は定型組織(「1つの鋳型から潜在的に生み出される可能性のある多様な定型表現群」(p. 12))であり、「詩人は韻律的な要請や修辞的効果のためにそれに変化を加えることで、新たな表現を生み出」(p. 13)していたことが指摘されていました(例えばメタファーの産出や頭韻の要請)。また、戦の場面に大鴉、鷲、狼が現われるという常套的描写(定型主題)や、それらが登場する前に喚声が描写されることなどについても指摘されており、それが作品の中で極めて柔軟かつ独創的に用いられていることが指摘されていました(交差配列やアイロニーなど)。

最後に中世英詩のテクストが現代に何を示唆するのかということが議論されていました。最近は印刷技術のおかげで、オリジナルというものが大きな力を持っており、著作権といった概念が生じています。しかし、写字生がオリジナルの写本を作っていた時代は、「「著者による唯一無二のテクスト」という意識、またそれを一語一句は言うまでもなく句読点の細部に至るまで尊重しようとする意識があったであろうか。また、そもそも作者自身に自らのテクストを確定させようとする意図はあったであろうか」(p. 28)というとても興味深い問題提起がなされていました。最近では写字生による加筆などを逸脱とは考えずに、パフォーマンスと考える研究の立場も増えてきているそうです。そんな中、最近のインターネット社会では誰が作者か分らないテクスト(Wikepediaなど)が多数存在し、こういいた文化におけるテクストの諸問題を考える上で、中世の時代のテクストが何か示唆することができるかもしれないと著者は締めくくっています。

フィロロジーの論文は普段はあまり読むことはないのですが、とても面白く読みました。事例も豊富で、すごく勉強になりました。また、最後の部分の指摘ですが、『電車男』の作者が結局「中野独人」とされていることなどを思い出したりして、色々と考えさせられました。

斎藤(2009)

本章の詳細は次の通り。

斎藤兆史(2009).「総論」.In斎藤兆史(編),『言語と文学』(pp. 1-6).朝倉書店.

感想:いつもお世話になっている先生が編纂された本の第1章です。ここでは、言語と文学は本来表裏一体であったのが、ソシュールの登場をきっかけに分裂し、文体論や物語論などによってお互いを再発見し(ヤコブソンやリチャーズにもその歩み寄りの努力はなされました点も指摘してありました)、更に認知言語学によって遂に両者の壁が取り壊されたという経緯が示してありました。これから各論でどのような議論がなされるか、とても楽しみです。

2009年7月 9日 (木)

Schmidt (1982)

この論文の詳細は次の通り。

Schmidt, S. J. (1982). Perspectives on the development of post-concrete poetry. Poetics, 3 (3), 101-136.

感想:文学の経験的研究の祖の1人Schmidtによる、具象詩関連の論文です。

具象詩(concrete poetry)は、その作者達によって1960年代の終わり以来、その芸術形態の死を宣言されてきました。しかし、具象詩は学問的にも認識はされていますし、実際に作品も作られ続けています。ただし、その革新性はもはやなくなってしまっている恐れがあると著者は指摘します(著者は具象詩の革新性が基盤としていたとされる特性を列挙しています(pp. 101-102)が、もはやこれらは機能していないということです)。具象詩は芸術の媒体として言語を使うということにおいて常にジレンマに苦しんできたと著者は述べます。著者は"pre-programmed paradox"と呼んでいますが、それは次のような言語の特性に由来するそうです。"(1) its elements, whether graphic or acoustic, are connected with conventional, stereotyled meanings, and (2) language is normally used instrumentally, to fulfill primarily practical functions" (p. 102, emphasis in original)。理論的には言語を芸術に使う方法としては次の二つがあると著者は述べます。"(1) the complex artistic "language" (consisting of phonemes, graphemes, syntax and meaning) is reduced to phonemes and graphemes as materials to be used graphivally or musically (formal manipulation of a partially reduced language); and (2) language is used as a complex entity, with an invented semantics whose sole field of reference is the language itself." (p. 102)しかしながら、 具象詩は実際には1点目の方法ででしか言語を芸術に使うことができていません。実際に2つ目の方法は厳密には不可能であると著者は述べています。しいて実現することができるとすれば次のような場合だと著者は考えています。"The practice of concrete semantics is realizable, in full or in part, only if it is treated in such a manner that a general semiotic mechanism is revealed and used to advantage.  When language is used without linear text construction ..., or without narrative structures ..., this is a signal to the receiver that he should not relate this language to its conventional communicative functions or common referential frames, but rather that he should be aware of other functions, other potential referential frames, including, ultimately, the very act of using language." (p. 102, emphasis in original) それに、具象詩がその他のブルジョア文学に取って変わろうとするならば、作者と読者はかなりの努力を要することになります。"the authors must not dwell on formalistic banalities, and the receiver must be able to discern and evaluate the semiotic use of language in poetry.  Here we are confronted with the twofold problem of reception.  (1) Receivers are programmed by their social culture to have other literary expectations than those that concrete poetry fulfills.  In order to be discerned as an alternative kind of poetry, the reciever must learn to see and read precisely what is there- not, as is common in literary communication, to interpret, that is, to pretend that it is something else.  (2) If receivers are to become familiar with concrete poetry through critiques, theories, etc., then it will be necessary to rely heavily upon the very discursive language which is so whole-heartedly mistrusted by concrete poets and which they dismiss as mindless and irresponsible." (p. 106, emphasis in original)ここで指摘されている矛盾点はとても面白いと思いました。

さて、芸術界には次のような面白い動きがあったそうです。"In the late sixties and the early seventies, two tendencies converged which could be described as the conceptualization of visual poetry and the lingualization of the fine arts." (p. 113, emphasis in original)。著者はこれらの現象について、"It seems to me that developments of slightly different traditions, in expanding, discovered each other." (p. 113)と述べています。ちなみに、著者はここでvisual poetryと具象詩を区別していて、visual poetryは1963年頃に、具象詩は1953年頃に始まったというのが定説のようです。とにかく、こういった動きの中でcnceptual literature(またはconceptual art)という新たなジャンルが現われることになりました。しかし、その定義は人により様々で、実際に様々な人が様々な定義を持ち出していることを著者は示していました。結局著者は、"the term "concept," like "concrete," is much disputed, and poorly defined.  Thus, I make use of the term "concept" merely as an indication of a certain direction which could be marked by declarations of intentions and by the work of authors such as Kosuth, LeWitt, Weiner, or Naumann." とゆるい定義を示していました。そしてそういった文学作品をconcept literatureと呼ぶことにすると述べています。著者自身もconcep(conceptional) literature (poetry)を創作しているようで、論文内で幾つかを披露しています。そこで述べていることですが、"My own attempt at realizing something that I call "conceptual poetry" is the result of a critical examination of classical concrete poetry and concept art.  It is "conceotional" by contrast with classical concrete poetry, which in my opinion has failed to distinguish among the theoretical, aesthetic, linguistic and pragmatic questions it raises, and which has opften degenerated into mere decorativeness, evading problems of conception." (p. 119)では、彼の言うconceptional poetryとはどういったものなのかという点について、彼はマニフェストという文言で、その特性を列挙しています。内容はここでは省略しますが、興味のある方は論文の方を直接ご参照下さい。著者はそれらのマニフェストを総括して次のように述べています。"These attempts can be described as "visualizing intellectual efforts" (B. Naumann). My intention has been to involve the receiver in a conversation, in a reflection.  The receiver is not to be patronized by being confronted with finished stories, perfect linguistic formations, closed ideologies.  Rather, I have attempted to preserve the openness of all intellectual processes, especially artistic ones, by generating semantically and aesthetically open structures which dissolve and negate all determinations, negating again the nevation, etc." (p. 122)

そして、これからどのような方向に進むのが望ましいのかという点についても著者は考えを提示していました。著者の言葉を一言でまとめると"In short, my goal has been to work within a continuum" (p. 125, emphasis in original)分野とかジャンルにとらわれずに、すべてを連続体として捉えることが必要であるというのが著者の考えでした。

具象詩という現象ないし芸術形式は僕自身とても関心を持っているので、面白く読みました。著者が示したマニフェストもとても面白かったです。

2009年7月 1日 (水)

佐久間(編)(2008)

本書の詳細は次の通り。

佐久間淳一(編)(2008).『言語学基本問題集』.研究社.

感想:この本は、言語学に関する問題が分野ごとに4択問題として集録されています。扱われていた分野は、言語の特性・言語学の対象・言語の類型、音声学・音韻論、形態論、統語論、意味論、語用論、言語と社会、言語の変化、文字の体系、でした。多くの問題は日本語に関する問題で、英語を専門とする私としては分らない問題がたくさんありました。理由あって、近い内に日本語文法を少し勉強する必要があるので、しっかりと勉強したいと思いました。理論的な用語についての問題もあり、そういった問題については正解することができました。しかし、日本語学と英語学で同じ用語の訳し方などが少し異なっている面もあり、英語学を専門とする人は少し戸惑う場面も少なくないと思いました。ですが、問題の解説がしっかりと書かれているので、色々と日本語について勉強することができると思います。日本語文法に精通している人にはオススメです。日本語文法にあまり精通していない人は、基本的な日本語学ないし日本語文法を学んでから挑戦すると面白いと思います。

2009年6月30日 (火)

大塚(2001)

本書の詳細は次の通り。

大塚英志(2001).『定本物語消費論』.角川書店.

感想:元々は1980年代に出版された本ですので少し古いですが、著者自身も認めているように、私は本の内容は現代でも多分に通ずる内容だと思いました。著者は、ビックリマン、マンガ、コミック、やおい本、おまじない、ポエム(少女まんがてき感覚による詩)、宗教、といったものを例に取り上げて議論を展開していました。私自身が特に興味を持った2つの点についてまとめたいと思います。それらは、現代の物語消費のメカニズムについてと都市伝説についての考察です。

まずは物語消費のメカニズムについて。著者はビックリマンシールなどを例にしながら、商品がその背後に設定されたシステムまたは世界(大きな物語)の中で消費されていく様子を指摘していました。ビックリマンシールなどには、シールの背面に小さな物語(システムの断面)が与えてあり、消費者はそれを収集する中でシステムへと近づいていきます(ただし、システム自体を消費することはできない)。最後には、消費者が物語を作り出すという局面を迎える可能性があり、商品の送り手と消費者が同じ立場に置かれる状況に至ると述べていました(つまり、自ら物語ることでシステムへ近づこうとする)。そして、オリジナルと複製が区別がつかなくなり、むしろ複製の方がリアルであると考えられる傾向に陥るという可能性があるということです。結果として、複製はしばしばオリジナルを復活させることに役立ったりすることもあります。かつて(戦前)は物語は共同体(日本という1つの共同体)とセットになっていたそうですが、現代では人は具体的な共同体に帰属していないため、消費者は多量の物語を必要とし(その物語が帰属していることになっている世界へとアクセスするために)、いくら消費してもその飢餓感は満たされない状況となっているそうです。結果、物語ソフトが氾濫した世の中となっています。

次は都市伝説についての考察です。以前は柳田國男などによる民族学で世間話という用語が使われていました。この概念について、著者は「<世間話>の生成メカニズムは、村落共同体が<異物>の親友という事態に直面した時、これを解毒する防衛のメカニズムと一致する」(p. 260)ものであると述べています。しかし、都市伝説と世間話は少し異なっています。後者は農耕という生産活動と関係を持った文脈で生み出されたものであるのに対し、前者は消費社会という文脈で生み出された概念です。また、後者は秩序化の装置であったのに対し、前者は秩序のカオス化の装置として現代社会で機能しているためです(サザエさんの最終回の噂など)。そして、都市伝説は「死」や「精霊」へのアクセスなど、異界との接点を示唆するメッセージとして含んでいるということも大きな特徴となっています(やはり、カオス化の方向性が見て取れます)。そして、都市伝説はメディアをも巻き込んで肥大化していきました。しかし、都市伝説は結局は管理されたものであるということも忘れてはいけないということが指摘されていました。都市伝説も、その根底には物語消費というプロセスの一環として機能しているに過ぎないというのが著者の考えでしょうか。

以上、特に関心を持った部分をもとにまとめてみました。やはり、本書が言わんとしているのは、小さな物語の背後に大きな物語があり、人は大きな物語へとアクセスするために小さな物語を消費し、最終的には自らも生産者の立場へと立つことで、更に大きな物語へのアクセスを試みます。しかし、こういったシステム自体が誰かによって管理されたものであることを忘れてはいけないというのがメッセージなのかなと思いました。とても面白かったです。

この議論をもとにアカデミズムを考えてみると・・・、というのはやめておきましょう。

2009年6月10日 (水)

Nierlich (2005)

この論文の詳細は次の通り。

Nierlich, E. (2005). An "empirical science" of literature. Journal of General Philosophy of Science, 36, 351-376.

感想:文学の経験的研究のあり方を科学哲学の観点から整理した論文です。文学の経験的研究の初期の研究に多く見られたタイプの論文とも言えます。まず、著者は次のような言葉から論文を始めています。"Let it be clear from the start that I don't want an empirical psychology or an empirical sociology of literature to be my special subjects.  I don't question their justification in principle, but I think that an "empirical science" of literatuyre still has to solve practical problems of its own." (p. 351)

著者は、自然科学とはどのような学問であるのかということを整理することからはじめ、研究結果がpractical relevanceを持っていること、記述よりも説明が重要な要素となること、などを確認していました。

次に"science of literature"(文学の経験的研究)に伴う困難点について整理しています。まず、問題を記述する際に既に言語学的ないし記号論的にコード化されてたオブジェクトが入り込んでしまう点が指摘されていました。しかしながら、自然科学であったとしてもあらかじめpre-paradigmatic descriptive categorizationがなくても研究を行なうことが可能です(まして、science of literatureを行なえないなどということもありません)。

次に著者は"science of literature"が扱わなければならない独特な問題点について明示します。"when they talk about their reading experiences to other readers - and they do it on their own in practice to achieve agreemnt -, these acts are observable and describable and they are hampered by practical problems not of differences in interpretation, but of justifying deverging valuation to other readers." (pp. 358-359) これはscoeice of literatureにとってプラクティカルな問題となり得ます。"it is practical problem to be solved by an empirical science of literature to explain why an individual participant in a reading public cooperates by way of a specific literary valuation to the aim of installing a joint valuation criterion." (p. 359)

また、自然科学などにおいては、構成概念なども単純な実証データに基づいたものでもありません。"All in all you can see that a full-fledged explanatory empirical science as a whole isn't so empirical.  Metaphorically speaking it stands as a theoretical construct on empirical piles in non-scientific human practice, which is still an undifferentiated conglomerate of cooperative actions and joing observations, but also has its innovative effects back on non-scientific practice.  Constructing a hypothetical object of scientific explanation as a kind of quasi-actions by analogy with a kind of practical actions, and empiricization of it by means of subordinate descriptive theories, developed with the help of methods of comparison adopted from practice, this could als be a procedure for developing a practically relevant explanatory theory of an empirical science of literature." (p. 360, emphasisi in original)

以上のことから、文学の経験的研究は、「なぜある読者は作品の評価を他者と共有(あるいは反対)したりするのか」といった問題を扱いますが、それは十分に(実証)科学として機能しうるものであるということが述べられたことになります。また、研究の第一歩として、"The first step towards empirical specification of this construct is achieved when we are able to empirically describe the result of a quasi-action, in our case, of the emergence of a cooperative communicative act of literary valuation." (p. 361)が出来るのだから、文学の経験的研究は可能であるということも述べています("And the practical relevance, which may be achieved with the help of nomological explanations, here doesn't consist in predictions for better practical production os means, direct or indirect, for survival, but in the provision of rational understanding for better practical teaching or criticism" (p. 351)とも述べられていました)。要するに、他者に受け容れられやすいような評価を生みだす方法を予測したりすることではなく、どのように評価が他者と共有されたりされなかったりするのかを記述することにこそ文学の経験的研究の出発点があるということです。

議論が抽象的ですので、最後の箇所で文学の経験的研究をどのように行なえばよいのかが具体的に示してありました。著者はHenry James によるThe Golden Bowlの読者がどのように評価を行なっているか、それをどのように他者と共有しているかを記述し、その過程で文学の経験的研究の行ない方を述べています。p. 364、p. 368などにその要点がまとめてありますので、興味のある方はそちらをご覧下さい。

また、著者は文学の経験的研究と文学の社会学的研究の接点について述べます。"And here a point of possible cooperation looms up between an empirical sociology of literature and an "empirical science of literature" in the described sense: the explanation why and how a new literary valuation criterion is integrated into the context of values of a society." (p. 369)また、著者は実験心理学との接点についても述べています。しかし、共通点のようなものは見出せるとしながらも、著者はこの点についてはあまり明確に書いておらず、著者自身も分らないとの旨を述べて論文を締めくくっていました。つまり、心理学的なアプローチをとった文学の経験的研究については少し懐疑的なようです。

現在は文学の経験的研究も多様化しています(著者が自分の研究テーマにしたくないと言ったような社会学的な研究や心理学的な研究もあります)。しかし、著者はここで今一度原点に返り、文学の経験的研究の在り方を考え直しているように思えました。私自身は文学の経験的研究の中の心理学的な研究を読むことが多いのですが、文学の経験的研究は分野全体としては科学としてあるべきだ(このことを中心に据えて研究を行なうべきだ)という著者の主張を強く感じ取りました。ただし、この論文は少し議論の余地があり、文学の経験的研究の研究者全員が賛同することはできないだろうなと思いました。

2009年6月 9日 (火)

Hall, Cheng, & Carlson (2006)

この論文の詳細は次の通り。

Hall, J. K., Cheng, A., & Carlson, M. T. (2006). Reconceptualizing multicompetence as a theory of language knowledge. Applied Linguistics, 27 (2), 220-240.

感想:SLAのモデルの中で僕が最も不勉強なモデルの中の1つです。時間を見つけて読んでみました。このモデルはV. J. Cookによって提案されたモデルで、生成文法などのモデルの問題点として "the fact that most individuals know more than one language" (p. 221)を見落としているという批判を出発点としています。Cook (1991)は、このmulticompetenceを"the compound state of mind with two grammars" (p. 112)と定義しています。実際にこのモデルは様々な分野の研究成果をその証拠として利用してきました。それらは、バイリンガル研究、中間言語研究、L2システムのL1システムへの影響を調査した研究、です。multicompetenceモデルの貢献として、著者らは次のように述べています。"It has done so largely by bringing to the foreground a view of L2 users as 'successful multicompetent speakers, not failed native speakers' (Cook 199: 204), with differences in the L2 users' language knowledge perceived to stem not from any deficiency in the L2 user as a nonnative speaker, but rather from differences between the multilingual and monolingual minnd." (p. 222)

しかしながら、著者らはこのモデルは言語知識とはどのようなものであるのかということについての理解を変えることができていないということを指摘しています。その大きな理由として、multicompetenceモデルが3つの前提に固執しているためだと指摘しています。それらは、"the treatment of L1 and L2 language knowledge as distinct systems" (p. 222)、"the presumption of a qualitative distinction between multicompetence and monocompetence" (p. 222)、"the assumption of homogenity of language knowledge actoss speakers and contexts" (p. 222)です。

そこで著者らは新たに使用基盤モデルの枠組みでmulticompetenceモデルを捉え直すことを提案します。使用基盤モデルについて、著者らは次のように述べています。"They also demonstrate that individual understandings of language do not stand apart from, but rather arise from language use.  In other words, rather than a prerequisite to performance, language knowledge is an emergent property of it, developing from its locally-situated uses in culturally-framed and sicursively-patternedcommunicative activities.  Language strutcutes, as conventionally conceptualized, are simply post-hoc observations of the continually shifting patterns and schemas we employ to negotiate specific contexts of action." (p. 228)

使用基盤モデルに基づくことによって、multicompetenceモデルは次のような利点があると述べます。"First, it makes a fundamental move from the view of language knowledge as static, internally coherent and uniform systems, and  instead, takes the dynamism in language knowledge of multilinguals to be the inherent nature of all language knowledge and not simply a product of certain destabilizing forces, for example, multilingualism.  More specifically, it reveals multiple language users' knowledge to be essentially flexible, comprised of dynamic constellations of resources the shapes of which are emergent from interaction between internal architectures and cognitive processes on the on hand and social experiences on the other as a species-specific means 'to serve the many complex goals of human society and culture' (Bates 2003: 243)" (p. 229)、"A second way a usage-based view of language knowledge helps to transform the theoretical underpinnings of multicompetence research is by making clear that all language knowledge is socially contingent and dynamic no matter how many language codes one has access to.  The differences across users based not on number of languages, but on amount and diversity of experiences and use." (p. 229, emphasis in original)

また、著者らは使用基盤モデルに基づくことで生じる、multicompetenceモデルの今後の課題を指摘していました。それらは、専門用語や概念を作り上げること(著者らは一例として、"communicative expertise"という概念を応用して"multi-contextual communicative expert"といった概念などを提案しています)、研究目的の再考、研究方法の再考、などが挙げられていました。"we seek to understand the means by which language users' and learners' involvement in the various constellations of their practices is constituted and the particular forms of language knowledge that emerge from such activity." (p. 234)がとても重要な課題となるようです。

僕自身はmulticompetenceモデルはほとんど知識がないのですが、とても理解しやすく書いてあり、勉強になりました。それにしても、使用基盤モデルとかemergenceとかは、どの分野でも注目されている概念となってきましたね。

2009年6月 1日 (月)

Groeben (1980)

この論文の詳細は次の通り。

Groeben, N. (1980). Empirical methods for the study and interpretation of literature. Discourse Processes, 3 (4), 345-367.

感想:日本英文学会@東京大学駒場キャンパスに行く途中に読んだ論文です。文学の経験的研究の黎明期の論文ですので、今読んでも特に新しいことはないかもしれません(ただし、統計分析などにあまりなじみのない人にとっては新しい情報があるかもしれません)。冒頭の部分で述べられていることは、反証可能性の大切さ、間主観性の重要性(ただし、ここで述べられているのは実証的なデータに基づいているという程度の意味です)、主体と客体の区別、読者と調査者の区別、といった点が説明されていました。また、著者自身が考える、文学の経験的研究の概要についてもまとめてあります(p. 347)。

また、文学の経験的研究の扱う事柄として、"This undertaking demands further, more comprehensive explanations regarding the conditions of literary communication, e.g. structures of the artistic personality, author intentions, reader variables, questions of effects, and many more." (p. 348)と述べ、Schmidt (1981)の考えに賛成しているようです。

また、著者はpolyvalenceということをキーワードとして研究してきています。以前は、polyvalenceが強く機能しているテクストが文学の中で社会的にも歴史的にも最新であり、大部分であるということを一般的な方法で示そうとしてきたそうですが、現在は体系的な研究方法に基づいて示そうとしてきています。著者は述べます。"Literary works are to be viewed as a constant integration of two opposing tendencies: indeterminacy vs. determinacy, certainty vs. uncertainty, fulfillment vs. violation of aesthetic norms, entropy vs. redundance, or however they be called. ... Polyvalence is a cenessary condition of aesthetic experience, as has been experimentally confirmed.  ... It is a particularly crucial condition because it represents the most complex case (e.g., the maximally polyvalence text), so that simpler cases can be covered by reduction - whereas the reverse (working on complex cases with simple conceptions) is not feasible.  Thus, the central role of polyvalence is justified on systematic methodological grounds." (p. 348)

次は研究方法についてです。これは、調査系の研究になじみのある人にとっては現在ではかなり当たり前の話になってしまっていますので省略したいと思います。大雑把に言えば、文学作品の解釈を実証的に調査するためには、どういう手順で研究を行なっていけばよいのか、どういう問題点について考える必要があるのか、どういう調査方法を採用すればよいのか、といったことが整理してあります(p. 350)。論文内では表にしてまとめてありますので、興味のある方はご参照下さい。

最後は文学の経験的研究の研究例が示されています。ここでは調査方法の例示に重きがおかれていますので、調査の内容自体はあまり深く言及されていません。クラスター分析と相関分析が例示してありました。そして、これらの統計分析法を使いながら、あるテクストに対してどういった読み方(形式主義的、人間学的、精神分析的、マルクス主義的)が一番妥当と言えるのかが議論されています。いくつかの研究が簡単に整理されているだけですので、この論文だけでは少し調査の内容が把握しづらいのが残念なところではあります。現在の文学の経験的研究では、このような分りにくい書き方はすることはないですが、研究分野の初期の論文ですので仕方がないことかと思います。

文学の経験的研究の創始者の1人ですので、興味のある方は一読してみるのもいいかもしれません。ただし、この論文を読む際は、Groebenがどのようなことを考え、文学の経験的研究という文学理論の1分野をどういった研究体制にしていこうと構想しているのか、という点に重きを置いて読んだ方がいいと思います。具体的な作品解釈の研究としてどうやって研究デザインを立てればいいのかということについては現在の他の論文を読んだ方がいいと思います。

«大石(2006)